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音楽の力ー天木ブログから

「議論のさいには、議論で負けた者の方が、新たに何かを学び知るだけ、得ることが多い」 (古代の唯物論者エピクロスの言葉)

  天木さんの下の記事を読んで、少々気の毒になった。と同時に、めげない人だとそのたくましさにも感心した。

   天木さんは、光市母子殺人事件の事を書いた8日のブログ記事について、批判メールが届いたので、それから学ぼうとして、謙虚にそれらを読んだという。しかし、やはり批判されるのは、いい気がしないし、ブログを止めようかと思ったりしたという。しかし、そんな時、ラ・パロマという曲が頭の中に流れてきて、そうすると、すべてを忘れて、心がなごむのだという。「あのメロデーに私の外交官人生の遠い思い出が蘇ってくる。途中で頓挫してしまったが、悲しく、甘く、そして何かを追い求める懸命な外交官であった自分を思い出す。自分の人生そのものを感じるのだ」というのである。

  私は、どこか九州のある知人を思わせる顔の天木さんのファンの一人であり、だからこそ、氏のブログを見ては、いろいろなことを考えさせてもらっているので、どうしても、当ブログでも、批判したり、評価してみたりしたくなるのである。

  氏は、改憲を掲げ、改憲のための国民投票法案を強引に成立させ、先の参議院選挙で改憲を正面に掲げようとした安部政権の改憲政治に対して、「9条ネット」という社共から共闘を拒否された準備も整わない素人ばかりの集団が、ただ9条が危ないという危機感から、にわかに選挙戦に参戦したところから立候補し、敢然とそれに闘いを挑んだ。彼は、9条改憲阻止を願う人々にとって、勇気ある戦士であり、英雄である。

  勝敗は時の運ということもあるし、当選できなかったという点では、敗北であるには違いないが、9条改憲阻止という目標は、安部総理が改憲を口にしなくなったり、集団的自衛権発動解禁の議論が止まったり、と改憲の動きに一定歯止めがかけられたという点では、ある程度達成できたとも言える。

 その天木氏が、音楽から慰めと勇気と力を得ているということに、親しみを覚える。
 
 私もまた音楽の楽しみ、音楽の力を強く感じる者である。私は、唯物論者で、霊などまったく信じていないが、最近流行った「千の風にのって」という歌を聴いて、感動した。この物語の語り手である9・11テロの犠牲者が、不幸な死を遂げたと思って同情し、家族など墓前で悲しんでいる人々に、悲しまないでと願い、人々の幸福を願って空から見守っているとメッセージを述べていることが、悲しいし、涙を誘うのである。

  ここには、社会的なものとしての言葉の力が感じられる。死者とのコミュニケーションというのは想像でしかあり得ないけれども、社会的なものは想像的なものを含んでいて、だから、想像物としての死者の言葉やイメージは、社会的コミュニケーションとしての対象たりうるのだと思う。心の中のイメージとしての誰かと対話することは、単なるモノローグ(独り言)というわけではなく、やはり社会的コミュニケーションの一部でもあり得るということである。それはなにがしかの感情を呼び起こすことができるからである。

  ある特定の人との関係は、その人との個別的な関係においてしか得られない具体的な感情を含む。しかし、その感情はどうしても変化してしまう。死者とは想像上の存在であり、それとの関係は想像上の関係である。生きている人々の感情生活は多様であり、変化するものである。それを抑圧したら、この世での豊かで幸福な人生など実現不可能だ。光市母子殺人事件の遺族の木村氏は、妻子のことを最近はよく忘れていることがあるとすまなそうに語るけれども、それを責められる人などいないだろう。

 想像上の死者は、歴史も身体も時間も空間も持たないから、描かれた通りの空想的で純粋な性質を保っているだけだ。不幸な死を遂げたと同情されている犠牲者の側が、恨み辛み、憎しみを超越して、善人になって、この世の生者を空から見守っているという物語に、驚き、泣けるものがあるのはそのせいだろう。 

 「コンドルは飛んでいく」(エル・コンドル・パサー)という歌は、昔から好きな歌の一つで、アンデスの高山をさらに上空から見下ろして飛ぶコンドルの視線から、地上を見おろすと想像すると、崇高な感じがするし、とてもさっぱりした気持ちになったのだが、ペルー公邸人質事件が、強行突入による銃撃戦の末、流血の結末を迎えた後、フジモリ元大統領が、その勝利を祝って、この歌を歌ったのを聴いて、その崇高さが汚されたように感じた。
 
 最近では、数百万の市民が、イラク戦争へのイギリス政府の参戦を批判して立ち上がったイギリスの反戦運動に参加した人気バンドU2の「with or without you」「beutiful day」を聞くと、心地よい。これらの人々の平和への思いやその力を思い出すということもあるし、美しい一日というのは、快い一日ということでもあり、そうした平和で幸福な一日を想像できるからということもある。

  エリック・サティの「ジムノペディ」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」は甘美さを・・・

 ラ・バロマという一つの音楽が、人生の隠喩を喚起するという天木氏の言葉を聞いて、1977年にローマで現代の優れた唯物論者の一人であったロラン・バルトが音楽について語ったことを思い出した。
 
 「多分、自分の隠喩的な力によって価値のあるものが一つあります。多分、それが音楽の価値なのです。つまり、よき隠喩であるということが価値なのです」(「音楽・声・言語」―シャルル・パンゼラについて)。
 
 また、哲学者ヴィトゲンシュタインは、「音楽は、わずかな音とリズムしかもたない未開芸術だと、とみなされることがある。だが単純なのはその表面だけのことで、その肉体には、音楽の瞭然たる中味を解釈させる力があり、また、あの無限の複雑さがそっくり秘められている。つまり他の芸術では、複雑さは外観においてその輪郭をもたらすものだが、音楽は、そのような複雑さを黙秘するのである。ある意味で音楽は、もっとも洗練された芸術である」『哲学的断章』)と音楽について書いている。
 
 両者は、ほとんど同じことを語っている。音楽には、色も形もないのだが、隠喩を喚起する力がある。人生のある断片をも隠喩として喚起する力があるのである。

 ラ・パロマの曲が聞こえる(9月11日)

  いきなり唐突な事を書いてみる。このブログを毎日書き続けることは結構しんどいことだ。何がしんどいか。それは毎日その日のテーマを見つけて、誰からも文句の言われないブログを書こうと頑張るからだ。
  光市殺人事件の事を書いた8日のブログについては、一斉に批判のメールが来た。このブログの読者からくるメールであるから、さすがにバカヤローとか死ねとかいう低次元のものはない。それぞれもっともなメールだ。
  謙虚な(?)私は、そのようなメールからも学び取ろうとする。極力返事を書こうとしたりする。しかし批判を受けることはいい気がしない。馬鹿らしいから、そろそろブログを書くことを止めようかと思ったりもする。
  そんな時、なぜかラ・パロマという曲が聞こえてくる。私はこの曲が一番好きだ。クラシックもオペラもジャズもスタンダードも演歌も好きな曲は多々ある。しかしこの曲を聴くと私はすべてを忘れる事が出来る。心がなごむ。あのメロデーに私の外交官人生の遠い思い出が蘇ってくる。途中で頓挫してしまったが、悲しく、甘く、そして何かを追い求める懸命な外交官であった自分を思い出す。自分の人生そのものを感じるのだ。

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