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やすかわ氏のコメントに寄せて 沖縄ナショナリズムの高揚

 やすかわさんから下のコメントを頂いた。
 
 宮城さんの見解についての評価は、信用するしないという話になってしまうので、見解の相違ということになる。宮城さんが、周囲の圧力で言わされているというのもそうだ。もちろん、そのように想像することは可能である。

 軍関与という表現は、軍の手榴弾を住民が軍の武器庫から盗んだという可能性を考えてみることもできるということから、使っているものである。強制性については、もっときちんといろいろな資料を見るなどして、全体情況を検討する必要がある。
 
 ただ、秦邦彦のように、軍命令書などの公式文書がなければ、史実を証明できないとする考えが間違いであることは明らかだ。証言も又、歴史事実を明らかにする重要な資料である。
 
 現在でも、行政権力は、行政の執行を「通達」「指導」「勧告」「注意」などの形で行っており、それを官報で公示している。それは、文書をもって行われる場合もあれば、官庁に呼び出して、口頭注意するという形で、行っている場合もある。
 
 官僚組織ではあるが、軍隊は、戦場において、いちいち書類を整えながら、行動・執行するというようなことは困難で、直接的な武力を背景に、口頭で命令を発して、それを執行していく場合が多いのは言うまでもない。もちろん、それを事務官が記録している場合が多いだろうが、そういう記録が戦闘や敗戦の混乱の中で、そのまま残されることは、あまりないだろう。撤退に伴って、軍機密を含むような書類が失われることもあっただろう。
 
 行政命令は、今日でも、強制代執行などの強制力の行使を伴い、そういう実力を背景にして行われているのであり、ましてや武装実力部隊である軍隊は、それを直接行使できる組織である。軍官民一体思想が、皇民化教育の中で、たたき込まれ、米兵の残虐性が喧伝される中で、住民たちが集団自決に追い込まれていったのは無理もないことだし、それを軍が当然視し、兵士が、手榴弾を配ることで、集団自決に誘導したということもあったと証言する人もある。
 
 赤松隊長の場合、本人は、村長はじめ村の幹部が集団自決のための手榴弾を渡すように頼みに行ったのに、それを断って、島の裏側に避難するように説得に努めたと言っているわけだ。問題は、強制性は、軍の責任者、この場合は、赤松守備隊長の口頭での命令があったか否かとか、命令書という書類があるかどうか、では、判断しにくいということだ。強制の辞書的な意味は、「力ずくで、または権力によってさせること。無理じい」(岩波国語辞典)であり、皇民化教育、軍官民一体思想、軍政下という情況、軍が意図的に流したと見られる米兵の残虐非道性の宣伝、等々を含めて、強制性を判断しなければならないことは確かである。
 
 「おじい、おばあはうそをついているというのですか」という沖縄の高校生の言葉は、第一次琉球処分、米軍政、第二次琉球処分、「復帰」後も放置された米軍基地集中の歴史から蓄積されている「本土」に対する沖縄の不信感を表わしている。「おじい、おばあ」と言うことで、それらを含む沖縄と「本土」との長い歴史的な関係まで、象徴的に喚起される。「本土」の右派・保守派が、ナショナリズムで、悠久なるヤマトの歴史を象徴的に喚起しているように、である。だから、「琉球王国」というヤマトと異なる歴史時代を持っている以上は、沖縄が、世代を越えた歴史を誇ろうとするのに対して、「本土」ナショナリズムを対置すれば、沖縄は「本土」からの離反を強めざるを得ないのである。右派・保守派のナショナリズムは、「本土」ナショナリズムにすぎないことが、こうした問題を通じて露呈してしまうのである。そのことは、明治以来、開拓の1世紀ちょっとの歴史しか持たない北海道についても同じである。言うまでもなく、そこは、先住民アイヌの自由な大地であった。
 
 そこに、中曽根の「単一民族国家論」の限界が見えている。どうしても、ヤマトの歴史が途切れてしまう地点がある。その最たるものが、沖縄とアイヌである。
 
 「こどもが言ったから嘘が真実にのですか」とやすかわさんは言うが、この言葉は、誰が言ったかとか嘘か真実かという次元ではなく、神話的次元の言葉なのである。それに対して、日常論理の言葉を対置しても、醜く感じられるだけだということを言いたかったのである。

 「まあ子供を使い、感情に訴えるのは左翼の常套手段ですが」というのは、利用・被利用という関係だけで、この問題を見ていることを示しているが、ことはもはやそういうレベルでないところに行っている。感情を否定しているのか、抑圧すべきだと考えているのか、理性は感情より上だと考えているのか、わからないけれども、こんな利害計算を対置しても、沖縄の人々は反発するだけだ。それは、もちろん日教組の問題ではない。「本土」ナショナリズムには、沖縄の感情に訴えることができないという限界があるということである。それを自覚できないから、沖教組だのの左翼の力への過大評価や幻想に捉えられるのである。実際問題としては、この間の選挙結果で明らかなように、沖縄革新勢力の後退が続いている。教科書検定問題が、沖縄革新勢力を勢いづけ、ある程度の支持回復につながって、野党統一候補の糸数さんの参院選での圧勝を助けた。敵失である。こうした現実を見れないし、見ようとしないことが、右派・保守派の自滅・自壊を引き起こした一因だったのではないだろうか? 保守派の中でも、早くからその点に気づいて、警告を発してきた山崎行太郎氏や知足氏や自称保守主義者の天木直人氏などは、現実をしっかり見る眼を持っているように見える。
 
 沖縄県民大会への11万人の大結集(杉浦ひとみさんのブログ記事によると、バスに乗り切れずに、参加をあきらめた人が大勢いたというから、もっと多数の県民が、行動に立ち上がったのである)は、沖縄の県民意識が、沖縄ナショナリズムの性格を強く持ちつつあることを示したように思う。この間、「つくる会」などのナショナリズムが、歴史は、真実よりも、物語であるとして、中国ナショナリズムや韓国ナショナリズムに、日本のナショナリズムの歴史物語を対置したように、沖縄(琉球)ナショナリズムを「本土」ナショナリズムに対置し始めたように思われる。右派・保守派が、真実という言葉を物語という意味で使っていることを忘れてはならないのである。
 
 「本土」―沖縄関係が、ナショナリズムという「情」の対立に発展してきたことを、この県民大会は示したように思う。ナショナリズム同士の正面対決では対立が解けないのは明らかだ。

>保守派が都合のいい部分だけを利用している軍命令がなかったとする宮城証言の宮城さんは、最近、直接の軍命を聞いたわけではないが、情況から総合判断すると軍命があったと述べている。
宮城さんはこの見解は今年の6月になって初めて持ったと裁判で述べています。
とても信用できるものでないし、現在の沖縄の状況から考えると周りの圧力があったことが十分想定されます。

>もう何度も書いたけれども、軍の貴重な武器である手榴弾を住民が持っていたことだけでも、軍の関与があったことを示している。

・とりあえず「軍」とは兵士と同じでない、関与と強制は同じではないことを指摘しておきます。

>高校生の言葉「おじい、おばあはうそをついているというのですか」「たとえ醜くても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい」に比べて、醜い。この問題は、この言葉に尽きるという感じがする。

こどもが言ったから嘘が真実にのですか。
まあ子供を使い、感情に訴えるのは左翼の常套手段ですが。

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