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2007年11月

『沖縄ノート』裁判・再論

 現在、インターネットにあまり触れられない環境にいるために、ブログの更新が滞っておりますが、その間に、『沖縄ノート』裁判にかかわる議論が、激しくなっているようである。

 山崎行太郎氏と池田信夫氏の間で、間接的に、先の同裁判での大江健三郎氏の証言をめぐって、対立があり、双方が持論を展開している。

 議論は、山崎氏が、文学的表現として大江氏の文章を解しているのに対して、池田氏が、井沢元彦氏の大江批判を敷衍して、一般的な文法論から、大江氏の「罪の巨塊」という表現を、「死体」とするのは無理があると批判するというものである。しかし、これは、他殺体という意味のラテン語を翻訳した上で、それを文学的に表現したと述べている部分をすぐ前に引用しているにもかかわらず、すぐ後で、池田氏流の解釈を加えて、これを「死体」と言い換えてしまうのである。

 山崎氏が怒っているのは、こういう無神経さであり、文学への侮蔑である。文学テキストが、文法どおりに書かれていることなど、まずありえない。作家は、自分なりの表現を追及し、言葉を工夫し、場合によっては、文法を壊してまでも、言葉の美を追求するものであり、それが、新しい言葉や表現を創造することにもつながるのである。

 山崎氏は、そうした作家としての資質において、曽野綾子氏は、大江健三郎の足元にも及ばないと言っているのである。そうした基本的な文学価値の判断で、大江氏に軍配が上がっている以上、作家としての曽野氏は、大江氏を尊敬すべきであり、それが、物書きとしての当然の価値観だと言いたいのである。そのことは、思想的あるいは政治的な立場とは関係ない価値なのである。

 井沢元彦氏には、もちろん、そうした価値観も判断力も欠けている。池田氏はもっと欠けている。それならそれなりに、作家としての大江氏に対して、当然敬意を払うべきだし、謙虚であるべきだ。そうした基本姿勢を示しつつ、批判なら批判するということが必要だ。それぐらいのことができないで、日本国家だの道徳だの文化だのについて、偉そうに言うなということが山崎氏の言いたいことだろう。

 当ブログは、山崎氏の主張に共感しつつ、曽野氏や池田氏の大江批判を批判したのだが、前の記事では、「魂」という字と「塊」という字を混合してしまった。その点を、コメントでご指摘いただいた記して感謝したい。訂正しておきます。

 池田氏は、「この「つぐなう」という他動詞の目的語は何だろうか。これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう」などという類のことを書いて、大江氏をたいそう批判した気になっているが、他動詞の目的語などをいちいち正確に表現している日本語使いがいったいどれだけいるというのだろう? だいいち、池田氏は、いろいろな省略やシンボル表現を使ったことがないとでも言うのだろうか? 氏は、つねに文法的に正しい文章を書いているとでも言うのだろうか?

 ことは裁判であり、しかも、沖縄戦という歴史的にも現在的にも極めて奥深い感情に触れる問題に関わっている。裁判である以上、どちらかが法的に罪に問われる可能性が高い。赤松元大尉側が敗訴となれば、今度は逆に、名誉毀損で訴えられる可能性もある。赤松元大尉側が賠償金を取られるかもしれないわけだ。そして、この裁判の行方を、沖縄戦集団自決問題の教科書検定に反発して立ち上がっている沖縄県民が注視しているとみるべきである。

 一知半解で専門外のにわか仕立ての素人文法論をかざして、 「このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない」などと断定して、「謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう」などと文学的価値の判定者を気取る池田氏は、天才か? それとも神様でもあろうか? 曽野氏は、まだ、あの世での神の審判を受ける覚悟であるし、カトリックだから神の完全性に対する被造物で原罪を負っている人間の不完全性を感じているだけまだ謙虚さがあるが、池田氏は、傲慢といわざるを得ない。人としての勝負で、山崎氏に負けている。

 大江健三郎という「嘘の巨塊」

15日の記事のコメント欄で少しふれたが、大江健三郎氏が11月20日の朝日新聞の「定義集」というエッセイで、彼の『沖縄ノート』の記述について弁解している。それについて、今週の『SAPIO』で井沢元彦氏が「拝啓 大江健三郎様」と題して、私とほぼ同じ論旨で大江氏を批判しているので、紹介しておこう。大江氏はこう弁解する: <私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。

 つまり「罪の巨塊」とは「死体」のことだというのだ。まず問題は、この解釈がどんな辞書にも出ていない、大江氏の主観的な「思い」にすぎないということだ。「罪の巨塊」という言葉を読んで「死体」のことだと思う人は、彼以外にだれもいないだろう。『沖縄ノート』が出版されてから30年以上たって、しかも訴訟が起こされて2年もたってから初めて、こういう「新解釈」が出てくるのも不自然だ。『沖縄ノート』の原文には

人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。(強調は引用者)

と書かれているが、この「つぐなう」という他動詞の目的語は何だろうか。これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう。「罪の巨塊」を「かれ」のことだと解釈するのは「文法的にムリです」と大江氏はいうが、赤松大尉が自分の犯した「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで・・・」という表現は文法的にも意味的にも成り立つ。というか、だれもがそう読むだろう。では大江氏のいうとおり「罪の巨塊」=「死体」と置き換えると、この文はどうなるだろうか:

人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい死体のまえで・・・

 これが「文法的にムリ」であることは明らかだろう。「死体をつぐなう」という日本語はないからだ。さらにcorpus delictiは、彼もいうように警察用語で「他殺体」のことだから、この文は正確には「あまりも巨きい他殺体のまえで・・・」ということになる。その殺人犯はだれだろうか。井沢氏は「自殺した人に罪がある」と解釈しているが、これは無理がある。   Websterによれば、corpus delictiは"body of the victim of a murder"と他殺の場合に限られるから、犯人は「なんとか正気で生き延びたい」とねがう「かれ」以外にない。つまり大江氏自身の解釈に従えば、彼は(自殺を命じることによって)赤松大尉が住民を殺したと示唆しているのだ。事実、大江氏はこの記述に続いて、「かれ」を屠殺者などと罵倒している。

 このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。

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誤読から始まった『沖縄ノート』裁判

 保守思想家の山崎行太郎氏のブログに驚くべき事が書いてある。
 
 今、教科書検定での沖縄戦集団自決での日本軍の強制性の削除をめぐる沖縄の反発が強まっているが、この文科省検定の根拠のひとつとされた大江健三郎氏の『沖縄ノート』の記述をめぐる名誉毀損裁判について、山崎氏は、それが、曾野綾子氏の『ある神話の風景』での誤読・誤認に始まったというのである。
 
 この裁判で、大江健三郎氏が、はじめて、証言に立ち、反論を行ったのだが、それに対して、保守陣営の側から激しい批判と罵倒が浴びせられた。ところが、それらは、『沖縄ノート』も『ある神話の風景』もまともに読んでおらず、たんなる悪口の類のものでしかないというのである。
 
 山崎氏ならずとも、何かを批判しようと思うなら、少なくとも、まずは、批判の対象をよく読み、誤読のないように、注意して、正確に読むという手続きが必要なことは、言わずもがなのことなのである。まして、書くことをなりわいとしている作家であれば、なおさらのことである。その作家の一人である曾野綾子氏が、その基本的なところで間違いを犯しておきながら、他の作家の書いたものを批判しているとなれば、当の作家自身から、名誉毀損で訴えられたら、敗訴の可能性が高いだろう。
 
 曾野氏は、あっさりと、というか、あっけらかんと、そんな誤読にのっとった議論を開陳しているようだ。それにもまして、曾野氏の誤読を検証するどころか、それに無批判にのっかって、その誤読を繰り返している保守論壇の姿に、山崎氏はあきれはてている。この誤読は、大江健三郎氏が法廷で指摘しているところである。それが、曾野氏の作家としての評価を下げることになるのは明白である。
 
 池田信夫氏は、曾野氏の誤読にのっかっている一人である。
 
 池田信夫氏は、「「SPIO」という雑誌に、曽野綾子が登場し、これまた無知無学を絵に描いたような池田信夫とかいう御仁を相手に、「誤字」「誤読」に基づく間違いだらけの「集団自決問題の真実」とやらを、あたかもこの問題の権威者であるかのごとく、まさか、作家としては恥ずべき、自分の初歩的な「誤読」からすべては始まったなどとは夢にも思うことなく、それ故に、恥も外聞もなく、堂々たる態度で、傲岸不遜、自信満々に、ご披露している」曾野氏に迎合している。

 そこで曾野氏は、大江氏が同書において、「罪の巨魁」と書いているとして、そんな罪の塊のような人物はどういう人かと興味を持ったことが、『ある神話の風景』執筆の動機だったと言っている。ところが、その部分は、実は、「罪の巨塊」と書かれているのであり、誰の目にも明らかな誤読だというのである。巨魁は人物であるが、巨塊は、ものである。両者は別ものである。どうしてそういう誤読が起きたのか、不思議だが、フロイトの精神分析学の立場なら、こういう間違いには、深層意識のなんらかのメカニズムが働いていると見るところだ。
 
 それにしても池田氏は、自ブログで、「沖縄で集団自決が起こる前にも、サイパン島の「バンザイクリフ」で1万人もの民間人が投身自殺したが、これを「軍の強制」だという人はいない。沖縄でも、同じことが起こったと考えるのが自然だろう」と粗雑な推測を書いている。そして、こうした集団自決の原因を、「軍が強制しなくても、人々にみずからの命を絶たせるほど強力な空気とは、何だったのだろうか」と空気に求めている。氏の思考は停止状態である。氏の論理は、言語ゲームだのの流行思想からの借り物ばかりであり、そうした思想の責任をそれらをつくりあげた人たちに帰している。池田氏の思想や考えはあるのか? 考えているような格好があるだけで、自ら考えていない。したがって、氏の思想には責任感も倫理感も欠けている。つまり、氏自身が、空気に動かされているだけなのだ。「風に吹かれて」というわけだ。
 
 つまりは、曾野氏や池田氏やその他の保守論壇こそ、今日の社会の倫理崩壊の空気をつくり、また空気に動かされているということだ。

 曽野綾子の「誤読」から始まった。大江健三郎の『沖縄ノート』裁判をめぐる悲喜劇。(山崎行太郎の毒蛇山荘日記)

 大江健三郎の『沖縄ノート』をめぐる名誉毀損裁判で、被告の大江健三郎自身が大阪地裁に出廷し、かなり詳細な証言をしたことから、特に保守陣営側から、証言内容はそっちのけの、大江健三郎に対する激しい批判と罵倒が新聞やネットに氾濫したわけだが、驚くべきことに、と言うか、当然と言えば当然のことにと言おうか、大江健三郎批判や罵倒を繰り返す人たちが、揃いもそろって、問題の本、つまり大江健三郎の『沖縄ノート』は言うまでもなく、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)さえも、二冊とも本屋に行けばいつでも手に入るにも関わらず、ろくに読まずに、マスコミ情報やネット情報を元に、大江健三郎批判や罵倒を繰り返していることがわかり、いささかシラケルと同時に、あらためて最近の保守論壇や保守思想、ネット右翼のあまりの無知無学、思想的レベルの低さに愕然とし、同時に爆笑したわけだが、そういう必読文献とも言うべき問題の本も読まず、関連資料を点検することもない、無知無学だけが自慢の人たちによる幼稚・稚拙な大江健三郎批判や罵倒の起源が、『沖縄ノート』裁判の仕掛け人の一人である曽野綾子の『沖縄ノート』への「誤読」に由来することは、余り知られていないようなので、ここに、実証主義的手続きの下に(笑)、論証しておくことにしよう。さて、「SPIO」という雑誌をご存知だろうか。小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』が連載されている雑誌と言えばお分かりだろうか。まあ、雑誌の名前などはどうでもいいのだが、その、「SPIO」という雑誌に、曽野綾子が登場し、これまた無知無学を絵に描いたような池田信夫とかいう御仁を相手に、「誤字」「誤読」に基づく間違いだらけの「集団自決問題の真実」とやらを、あたかもこの問題の権威者であるかのごとく、まさか、作家としては恥ずべき、自分の初歩的な「誤読」からすべては始まったなどとは夢にも思うことなく、それ故に、恥も外聞もなく、堂々たる態度で、傲岸不遜、自信満々に、ご披露している。たとえば、池田信夫を相手に曽野綾子曰く、

 決定的だったのは、大江健三郎氏がこの年刊行された著書『沖縄ノート』で、赤松隊長は「あまりに巨きい罪の巨魁」だと表現なさったんです。私は小さい時、不幸な家庭に育ったものですから、人を憎んだりする気持ちは結構知っていましたが、人を「罪の巨魁」と思ったことはない。だから「罪の巨魁」と思ったことはない。だから罪の巨魁という人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけないと思ったのです。

 曽野綾子が、大江健三郎の『沖縄ノート』の何に拘っているかがわかる。つまり『沖縄ノート』の中の「罪の巨塊(巨魁)」という記述部分である。しかし、ここに、曽野綾子の作家としては致命的とも言うべき、とんでもない誤読、誤解がある。前の記事でも書いたように、曽野綾子は、大江健三郎が「罪の巨塊」と書いた記述を「罪の巨魁」と誤読し誤解している。幼稚園レベルの誤字と誤読、誤解…。ここから全ては始まっている。つまり曽野綾子は、「罪の巨魁」(人間)と解釈しているが、大江健三郎の『沖縄ノート』の記述は、「罪の巨塊」(物)である。つまり、大江健三郎は、「罪の巨塊」という言葉で、「罪の巨魁という人」と言いたいわけではなく、文字通り「罪の巨大な塊」と言いたいわけで、「罪の巨塊」という言葉を、曽野綾子のように「罪の巨魁という人」と解釈することは出来ないどころか、曽野綾子の発言は、まったくの誤解、誤読に基づく妄言ということになる。だから、「罪の巨魁という人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけないと思ったのです。」というのも、まったくの誤読に誤読を重ねた上での、謝った解釈に基づくデタラメ発言ということになる。では、大江健三郎の『沖縄ノート』の記述は、そもそも、どうなっているだろうか。

   慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくりかえしてきたということだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。・・・・

   これが、問題の『沖縄ノート』の記述部分だが、この「巨きい罪の巨塊のまえで…」という部分を誤読、誤解した挙句、曽野綾子は、哀れにも過剰反応して、見当違いの大江健三郎批判を展開したということだろう。そして多くの無知無学が自慢の保守派が、「待ってました」とばかりに、曽野綾子の間違いだらけの発言を鵜呑みにして、大江健三郎批判へと追従したということだろう。従って、先日の裁判で、大江健三郎は、「罪の巨塊」(物)という表現を、曽野綾子の誤読に基づいて、「罪の巨塊」(物)イクオール「極悪人」と勘違いしている原告の一人に対して、「極悪人なんて書いたことはない。それは曽野綾子の誤読に基づく解釈だ。」と反論したのである。ちなみに、大江健三郎自身は、「罪の巨塊」という表現で、「死体の山」とでも言いたかったらしい。要するに、曽野綾子は、「巨塊」(物)を「巨魁」(人間)と誤読しているのである。作家を名乗る人間としては、余りにも初歩的というか、幼稚というか、実に恥ずべき原始的な誤読である。しかも、いまだに、同じような誤読に基づくデマ情報を各所で、自信たっぷりに撒き散らしているところを見ると、曽野綾子自身が、大江健三郎の『沖縄ノート』をろくに読んでいないのではないか、というだけではなく、少なくとも『沖縄ノート』を再読したり、問題の箇所を点検したりしていないということがわかるだろう。大江健三郎を被告席に引き摺りだしたいのならば、少なくとも大江健三郎の問題の本や問題の記述部分を厳密に点検した上で、正確に引用するべきだろうが、作家を自称しているにも関わらず、曽野綾子は、そんな初歩的な点検すらせずに、間違いだらけの引用と解釈を繰り返しているというわけだ。作家失格である。これでは裁判にもならないだろうと思うのだが、裁判所が告訴を受理したということは、実は裁判官も大江健三郎の『沖縄ノート』をちゃんとは読んでいないのではないか、と思われる。むろん、この対談相手の池田信夫にしてからが、大江健三郎の『沖縄ノート』も、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)も、まったく読まずに、この対談に出向いてきたことは、明らかである。必読文献や関係資料も読まずに対談に出席する野蛮な「ど根性」(笑)には感服するが、とてもじゃないが、彼の無知蒙昧な喜劇役者的な議論を読む気にはなれない。池田信夫は、従軍慰安婦問題について発言しているが、そんなことは、ネツト右翼でさえ知っているような幼稚な発言ばかりで、所詮は、自分でかんがえたことというより、ほとんどぜんぶ、受け売りだろう。ところで、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)には何が書いてあるのだろうか。大江健三郎の『沖縄ノート』をどういうふうに批判しているのだろうか、と思って読んでみたら、なんとここでも「誤字」か「誤読」か知らないが、同じように出鱈目な大江健三郎批判が書かれている。僕は、初版本をチェックしていないので、結論は留保するが、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)そのものが、少なくとも大江健三郎批判の部分は、「誤字」と「誤読」から成り立っている。たとえば、大江健三郎の『沖縄ノート』の問題の部分から引用して、それを批判している箇所があるが、引用自体が「誤字」だから、話にならない。大江健三郎こそ、曽野綾子を名誉毀損、人権侵害で逆告訴すべきだろう(笑)。さて、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)の中の、誤字(誤植?)だらけの文章から…。

 大江健三郎氏は『沖縄ノート』の中で次のように書いている。

「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくりかえしてきたということだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで……(後略)」

  このような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨塊」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかつたからである。第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。

 まず、曽野綾子は、ここで、『沖縄ノート』から問題の箇所を引用しているが、肝心な「罪の巨塊」という部分を、「罪の巨魂」と、漢字を間違った上で引用をしているが、これが曽野綾子の引用間違いなのか、編集者の校正ミスなのか、わからないが、引用文の中の「誤字」をそのままにして本にしたことは、著者・曽野綾子にも責任がないとはいえないだろう。著者校正というものがあるからだ。しかも、曽野綾子の大江健三郎批判、『沖縄ノート』批判の論拠になっている問題の文字である。校正ミスですむはずがないだろう。そもそも肝心要の問題の漢字を、堂々と「誤読」し、「誤解」し、「誤用」するなんて、しかも、長年の間、誤読し、誤解し、誤用したままでいるなんて、いったい、どういうことだろうか。まさかとは思うが、耄碌でもしているのか。それはそれとして、さらに問題なのは、「私は神ではない」発言である。曽野綾子がカトリック信者だということはわかっているから、彼女がどういう「神」を信じているか、あるいはどういう「神」のイメージを持っているかには別に興味は無いが、≪第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。≫という部分には、ちょっと待てよ、と言いたくなる。曽野綾子の論理によれば、「罪」や「罪のある人」は、「神」が、あるいは「神」のみが認定し、決定するものなのだろうか。別に、曽野綾子がそう考えているとしても、それを批判する気はないが、日本人であるわれわれが、皆、そう考えなければならないという理由にはならないだろう。曽野綾子の論理を受け入れるならば、これは冗談だが、日本人は、皆、カトリック信者になるべきだ、ということになるかもしれない(笑)。曽野綾子さん、漢字もろくに読めないくせに、日本人をナメるのもいい加減にしろよ、と思わず叫びたくなる、今日、この頃であった。というわけで、次に、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)に、解説を書いている石川水穂の文章を読んでみると、ここにもまた、曽野綾子の誤読と誤字に輪をかけたような誤字と誤読がきれいに並んでいる。ということは、石川水穂も、問題の大江健三郎の『沖縄ノート』の記述を読んでいないし、曽野綾子の間違いだらけの暴言を鵜呑みにして、そのまま何の疑いも感じることなく、大真面目に引用しているということだろう。石川水穂は、曽野綾子の「現地取材」を、ジャーナリストの鏡として絶賛しているが、テキスト解読や資料分析の方は、曽野綾子と同様に、「手抜き」していいいと思っているのだろう。(続)

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うつ病対策しない会社は未来が暗い

 天木直人氏が建設会社の30代の社員が過労と業績不振での自信喪失から、うつ病にかかったことについて書いている。
 
 このAさんは、会社を休職中で、カウンセリングを受けている。彼の仕事上の悩みは、超大口の取引先である大手企業B社の過酷な要求に対して「理不尽な要求も黙って聞くしかなかった」ために、部下がやる気をなくしてしまい、Aさんの指示を聞かなくなったという。カウンセリングを受けるうちにAさんは、「リーダーとしての自分の役目は、取引先の言いなりになることではなく、交渉して部下が働きやすい環境をつくることだった」「自分という人間が悪かったのではない。取引先と交渉しない自分の仕事の進め方が悪かった」と気がついたという。
 
 天木氏は、アメリカの言いなりになって唯々諾々とアメリカの要求をのむことを外交の仕事としている外務官僚の話になっていく。

 私は、過労などによる企業で多発するうつ病のことが気になる。一方では、生きることに精一杯のフリーターなどの不安定雇用労働者が再生産されていると同時に正社員が、過労・サービス残業・長時間労働などによるストレスによるうつ病などの精神的病にかかるケースが増えている。ちょうど、オーマイニュースで、携帯のメールにすぐに返信がないとイライラするなど余裕を失った人々が増えているという記事を読んだところだ。先日見たテレビ番組では、企業にすぐにクレームをつける消費者が増えている様子を取材したものが放送された。これは、学校に理不尽な要求やクレームをつけるいわゆるモンスター・ペアレンツなど、消費者主権などという竹中などの進めた新自由主義的な価値観が浸透していることをも意味するものでもある。
 
 それは、正社員の長時間労働や労働強化などによるストレスの強まりと軌を一にしているところがあるような気がする。ゆとりなき労働社会とモンスター化し余裕を失っている消費者の姿がどこか重なって見えるのである。やはり先日見たテレビ番組では、いわゆるサービス残業で摘発される企業数がここ数年増加し続けているというデータを示していた。労働基準監督局が、今月をとくに強化月間として摘発を強化している。番組のコメンテーターは、サービス残業は罰則を伴う犯罪であることを指摘していた。
 
 この国の法体系は、経済的必要によって、穴があけられてきており、競争優先によって、法をかいくぐった方が勝ちというような不法が蔓延してきているようだ。倫理は、極めて弱体化しており、それもすべては市場に聞くということで、なおざりにされている。結果的に「最後に笑う者がよく笑う」ということわざのように、あるいは「勝てば官軍」といわんばかりである。そこで、倫理は崩壊しつつあるが、それは、言うまでもなく、社会的な過程でそうなっているのである。先の例では、大口得意先の大手会社B社は、自らの独占的な地位を利用して、取引先に理不尽で不当な要求を突きつけているわけであり、まさに、相手をおもんばかりつつ、双方が立つような社会性を形成するという倫理を投げ捨てているのである。「お互い様」とか「共存共栄」とかいう社会倫理性を否定しているのである。こうした会社では、おそらく、社員の扱いも非倫理的なのだろう。うつ病に懸かる社員もいそうな気がする。こうした会社では、長期的には、人材が枯渇していくだろう。少子高齢化社会で、これは致命的となるだろう。まさに、教師たたきが盛んだった時代に、公立学校は人材不足に陥っていった。そして今、政府は、民間に流れていく人材を取り戻すために、教育予算の増額とか教員定数の大幅増を大慌てで進めようとしているのである。
 
 すでに新卒者の就職戦線はバブル期を超えて加熱しており、それは、やがて、他の世代にも波及せざるを得ない。看護師の取り合いも加熱しており、中には、いろいろな名目をつけて、現金を前渡ししてまで、看護学校の卒業生の確保に努めている病院もあるという。こんな時代に、仕事を覚えた社員をうつ病で失うことのダメージは相対的に大きくなっているということを肝に銘じなければ、企業も先がないと思わねばならないだろう。そんな時代になってきたわけである。

 臨床心理士の次の言葉は、なかなか役に立ちそうなアドバイスである。

  「・・・相手の言いなりになる事を続けていると、自分を卑下するような発想になりがちだ。相手に気を使い・・・相手に合わせてばかりいると、潜在的な能力や可能性が発揮できず、何をしてもやりがいや充実感が得られなくなってしまう。
  これは仕事だけではなく、夫婦関係や人間関係でもあてはまる。他者との関係にストレスを感じる時は、相手の言いなりになるばかりで、交渉を避けていないか。もう一度振り返ってみよう・・・」

 鬱病や過労死になる前に目覚めて欲しい(天木直人ブログ11月14日)

 11月14日の日経新聞「こころのサプリメント」という心理カウンセルの欄に、臨床心理士が興味ある臨床患者の話を書いている。
 建設関連の企業につとめる30歳代のAさんは、過重労働による疲労と仕事の業績が上がらないことへの自信喪失からうつ病を発症し、会社を休職中である。病院での治療に加え、カウンセリングに訪れている。その時の状況を書いているのだ。
 「部下をまとめられない」と落ちこむAさんは、大手企業B社からの過酷な要求に押しつぶされる毎日であった。とはいえ、B社は超大口の取引先。「理不尽な要求も黙って聞くしかなかった」と話すAさん。部下たちはそんな彼を見て次第にやる気をなくし、Aさんの指示を無視するようになってしまったという。
 カウンセラーの求めに応じ、Aさんは取引先や部下に対する鬱積した感情をポツリポツリと話し始める。やがて「リーダーとしての自分の役目は、取引先の言いなりになることではなく、交渉して部下が働きやすい環境をつくることだった」、「自分と言う人間が悪かったのではない。取引先と交渉しない自分の仕事の進め方が悪かった」と気付いたAさん。すべて話し終える頃には、それまでの落ち込んだ表情は消え、晴れやかな顔になっていたという。
 このエピソードを引用した後、その臨床心理士は次のように締めくくっている。

 「・・・相手の言いなりになる事を続けていると、自分を卑下するような発想になりがちだ。相手に気を使い・・・相手に合わせてばかりいると、潜在的な能力や可能性が発揮できず、何をしてもやりがいや充実感が得られなくなってしまう。
  これは仕事だけではなく、夫婦関係や人間関係でもあてはまる。他者との関係にストレスを感じる時は、相手の言いなりになるばかりで、交渉を避けていないか。もう一度振り返ってみよう・・・」

  私がこの記事を引用したのは他でもない。米国の不当な要求を呑まされ続けている外務官僚たちとこの患者がダブって見えたからだ。
  もっとも官僚はこの患者のように簡単には鬱病にはならない。自分を偽って平然としていられる図太さがあり、出世のためにはあらゆる事を耐え忍ぶ強烈な出世欲を持っているからだ。
  しかしその彼らも、矛盾に悩んでいる。知らないところで徐々に自己崩壊している。その姿を私はまじかに見てきた。仕事の質がどんどんと低下していき、国民の幸せのために正しい外交をしているという充実感はなく、国民に嘘をついてまで日米外交の重要性を唱えるという後ろ向きの仕事に奔走することになってしまっている。アリバイづくり、言い訳づくりの外交に追い込まれてしまっている。
  相手の要求をはねつける事は容易なことではない。その相手が強大であればあるほど断る事は難しい。しかし人生において一番大切な事は自立した自分を取り戻す事だ。勇気を持って正論を口に出すことだ。それは一時的には大変な勇気がいる事かもしれない。しかし勇気を振り絞って口に出してみれば、その後には無限の自由と心の開放が広がっているのだ。
 外務官僚たちよ。自らを解き放て。自己に忠実な外交を目指せ。さもなければ日本外交は本当に行き詰まる事になる。自らを鬱病に追い込む事になる。

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時代は変化しつつある

 このところ、大連立とか小沢辞任表明とか、いろいろと、政治の世界が、騒がしいが、これも、時代の変化のひとつのあらわれなのだろう。

 教育をめぐっては、義務教育における「ゆとり教育」からの転換方針が中教審などにおいて打ち出されている。世界は、アフガニスタン・イラク・パレスチナでの戦争・紛争が続いており、アメリカ経済は、サプライムローン破綻による金融・経済の不安定化が進んでいる。中国では、年率10%近い高成長が続いているが、それは、公害・環境問題や格差拡大やバブル懸念という不安定材料を抱えている。

 日本では、景気回復基調が続いていて、新卒就職戦線は、バブル期以上の売り手市場となっている。しかし、他方では、就職氷河期世代などのフリーターなどの不安定雇用層が大量に存在していて、放置されたままである。ようやく、フリーターや派遣の労組が続々と誕生し、自らの要求を突きつけ、待遇改善を訴える大衆的運動が本格化している。連合の新方針は、非正規雇用者の待遇改善に力を入れるというものだ。

 他方で、小麦・ガソリンなど輸入品を中心に価格上昇が続いていて、消費生活に打撃を与えつつある。

  いずれにしても、世界も、そして日本も、大きな変革期に入っていると言えるだろう。

 厳しくもあり、おもしろい時代であると思う。

 それにしても、個人的な経験では、左翼に対する拒否感は、このところ急速に消えつつあるように見える。

 それはたぶん、右への幻滅ということもあるのだろう。

  とにかく、人々は、新しい道を探し求めているように見える。

  なお、都合により、当分の間、更新が滞ることになると思います。ご容赦下さい。

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案外子供たちはしっかりと育っているようだ

 10月31日に発表された博報堂総合研究所「子供の生活10年変化」という意識調査結果を見ると1997年の調査結果から10年の間の小学4年生~中学2年生(おおよそ10歳~14歳)の意識と行動がかなり変化していることがうかがえる。
 
 博報堂生活総合研究所は、同年代の“アフターバブル・キッズ”(1992年~97年生まれ)と10年前の子供たち(1982年~87年生まれ)の生活行動や意識の比較を行っている。10年前の子供たちは、ほぼバブル期に幼少期を過ごし、思春期は、バブル崩壊後の長期不況下にあり、今、19歳~24歳ぐらいの青年期になる。最近の景気回復で、バブル期以上の売り手市場と言われるほど引く手あまたの就職バブル情況にある。
 
 他方、アフターバブル・キッズの方は、幼少期は、バブル崩壊後の長期不況下で、「ゆとり教育」を受けた世代である。
 
 博報堂は、2007年の世論調査結果を以下のようにまとめている。

[要旨]

   1997 年調査では、他者との人間関係や社会システムの変化に対してスイスイと機敏に適応する子供の姿を“アメンボキッズ”と名づけました。一方、2007 年調査からは、ゆとりが減り忙しくなった子供たちが、勉強やスポーツや人間関係のバランスをとりながら、やりくりをしている姿が見えてきました。今の子供たちは、学校で緩やかな「関係」を確保、家でしっかり「休息」を確保、興味関心の場で「自我」を確保と、“暮らしの3 点確保”を意識し、バランスをとって生活しています。社会の閉塞期でもある「失われた10 年」に生まれ育った子供たちゆえの特徴です。

 バブル崩壊後の「失われた10年」に生まれ育った子供たちが、それなりに学校や家や自我を無理なく確保し、バランスよく生活している姿が見えるというのである。
 
 まず、学校生活では、友達の数が、10年前より平均で8人増え、67人もおり、さらに、子どもたちは「友達の話」に興味を増やし、8・9ポイント増の48・1%に達している。ただし、友達との関係は緩やかなものだという。家庭生活では、家族関係は良好と答える割合が増加、親とのコミュニケーションが向上しているようである。興味関心では、「本をよく読む」が15・3ポイントも増えて、22・3%から37・6%と大幅に増えているのが目を引く。さらに、テレビや映画や本などを見て、感動する子供の割合が増えているというのも興味深い。
 
 他方で、「時間的ゆとりがない」「睡眠時間が欲しい」という子供の割合が増えていて、「ゆとり教育」が実際には、塾や習い事が増やすことで、総合的には、子どもたちの「ゆとり」をなくしたことがうかかがえる。親が、「ゆとり教育」にそういう形で対応したということだろう。
 
 気になるのは、バブル期生まれの子供たちはなぜ友達が少なく、本も読まず、映画やテレビを観たり、本を読んでも、あまり感動しないで、親とのコミュニケーションが少なかったのか、等々のことである。それに対して、アフターバブル・キッズの親は、バブル期に青春を過ごした世代であるが、その子供たちが、案外、しっかりと育っているのは、親が変わったからなのか、それとも時代が変わったからなのか。「失われた10年」が、親の世代の意識や生活態度や子育て観を変えてしまったのだろうか?
 
 バブル期のドラマや小説などは、人間関係がドライに描かれていたような気がする。小説では、田中康夫の「なんとなくクリスタル」とか村上春樹とかがある。しかし、その後、田中康夫は、政治の世界へ、そして村上春樹は、オウム真理教事件の被害者への思い入れとそれぞれ熱い情熱に突き動かされて、生きているように見える。変化のメルクマールは、就職氷河期世代の雨宮処凛さんが言う1995年の阪神大震災とオウム真理教事件か? 政治的にも、自社さ連立政権が崩壊し、自自、自自公、自公と相手が変わる連立政権が続いていき、長銀、北海道拓殖銀行、山一証券と歴史のある大金融機関が倒産していき、という時代に突入する。
 
 阪神大震災は、政府の危機管理能力への信頼を崩壊させ、以後、危機管理が叫ばれるようになり、国家の危機管理体制の強化が叫ばれるようになる。そこから、官邸機能の強化や情報収集・伝達体制の整備や国家安全保障の強化とか、一連の今日まで続く、国家治安機能の強化の動きが、強まる。それに対して、村山政権が、国民の生命・財産を守ることができない統治能力の不足が批判され、社民党に対する失望が広まっていく。
 
 オウム真理教事件においても同じことが言われたが、この事件は、バブル期の物質文明の行き詰まり、精神文明への突入という形で言われたバブルへの批判意識が、神秘主義的宗教に若者などが惹かれた原因であることを明らかにした。バブル期の宗教に対する甘い見方は反省を迫られた。その後、「法の華」事件をはじめとする新興宗教団体の犯罪が次々と発覚した。それに対しては、社会的思考の進化・発展ということで、社会的に対応する必要がある。それは、この社会が、物神崇拝という宗教的意識形態を無意識あるいは催眠的意識状態の中に持っていることと関係があるからである。
 
 それに対して、既存の合理主義的思考は無力なのである。オウム倫理教の幹部たちは、合理主義精神で教育されたエリートだったからである。バブルに行き着いた近代合理主義の結末に、失望し、嫌悪感を持った人たちだったのである。それに非合理主義で対応しても解決できない。それには意味ある生活であるとか意味ある社会であるとか、意味の新生とかいうことが必要である。それには、一つには、読書を含めた言語的コミュニケーションの発展と改革が必要である。この社会の中で、壊されているのは、この機能であり関係である。アフターバブル・キッズが、こうしたものを育てているように見えるので、少しほっとした。未来に少し希望が見えた世論調査結果であると思う。
 
 それに比べて、中教審の道徳の教科化だの教育再生会議のバウチャー制度導入だのの話は、ひとつも未来への希望を感じさせない話で、げんなりする。
 

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世界戦争の危機を考える

   第一次世界大戦が始まった時、ヨーロッパの人々は、口々に、戦争はすぐに終わるだろうと楽観的な見通しを語っていたという。しかし、人々のそうした期待は裏切られ、戦争は、4年以上も続くのである。

   満州事変が起きたとき、軍部や政府の短期に終わるだろうという見通しが流されていた。しかし、事態は、全面的な日中戦争に発展・拡大した。日米戦争が起きた時、山本五十六は、「短期間なら暴れて見せます」と、早期講和を前提とした発言を行っている。政府・軍部は、彼我の圧倒的な物的力の差は、わかっていたし、長期戦になれば、日本が圧倒的に不利であることも承知していた。

 大きな戦争は、小さな戦争に慣れ、それが日常化することから発生する。日中戦争は泥沼ではあっても、日本側の犠牲は一度に大きく出ることはなく、小さな犠牲が長期に渡って出続けるというものだった。しかも、日本軍の支配地域は拡大していき、犠牲といっても勝利の過程の小さなエピソードでしかないと思われていた。
 
 だから、戦争といっても、日中戦争は、国内平和を脅かすものではなく、それが後の世界戦争に結びついていくとは誰も夢にも思わなかったのだろう。だが、現実には、日本は、日独伊防共協定に加わり、世界戦争に参戦することになるのである。
 
 下の記事は、まさしく世界戦争の発火点になりかねない中東における戦争の危機を指摘している。
 
 第一の戦争は、トルコ対イラクである。トルコと戦っているのは、クルド人のクルド労働者党の武装組織である。しかし、トルコは、イラク側の山岳地帯のクルド労働者党の拠点を越境して叩きたいのだが、そうなると、クルド自治政府が、トルコ軍と戦闘を構えることになるというものだ。
 
 クルド人は、トルコ・イラン・イラク・シリアにまたがって暮らす大きな民族で、ノアの箱船の子孫とも言われる古くからの先住民族である。要するに、ノアの箱船がたどり着いたアララト山(現トルコ)の麓に広がって住んでいるのである。クルド労働者党は、トルコからの分離独立を掲げる民族主義勢力であり、トルコとは長い闘争を続けてきている武装勢力である。クルド自治政府は、半ば独立国家のような強い自治権を行使しており、しかもアメリカをはじめとして、国際投資が流入してきて、キルクーク油田も持っているため、最近では目覚ましい経済発展をとげ、力をつけてきている。
 
 二つ目は、ブッシュ政権が、イランの「革命防衛隊」をテロ支援組織に指定するなど、新たなイランに対する制裁を行い、第三次世界戦争も辞さないと強硬な態度を明らかにしたことで、アメリカ対イラン戦争が起き、そこから、世界戦争になる可能性を示唆したというものである。もっとも、これは、彼流の脅しにすぎないかもしれない。しかし、レバノン南部に拠点を置くシーア派系武装組織ヒズボラの軍事力が、昨年のイラン・レバノン戦争前の水準まで回復しているという報道があり、アメリカとイランの間の緊張の強化は、パレスチナ情勢にも影響を与える可能性があるので、注意が必要である。
 
 三番目は、イスラエル・パレスチナの間の戦争である。もちろん、今も、イスラエル軍とパレスチナ武装勢力の間で、散発的な戦闘が発生している。パレスチナは、ヨルダン川西岸地区のファタハ政府とガザ地区のハマス政府の二つの政府に分裂している。アメリカ・ヨーロッパ・イスラエルは、ファタハ政権のみをパレスチナの正式政府と認め、ハマスを排除しようとしている。ガザ地区は、イスラエルによって事実上封鎖され、先日には、イスラエルは、電力供給の削減を一方的に実行した。
 
 田中氏が描く中東大戦争のシナリオは、こうだ。
 
         ▼レバノン、シリア、イランを巻き込む大戦争の可能性

 アナポリス会議で和平が前進しなかった後、イスラエル軍がガザに大侵攻をかけたり、ハマスが西岸でもアッバースのファタハを倒して権力を握ったり、イスラエルに対する「インティファーダ」が再発したりすれば、イスラエルとパレスチナの間は戦争状態になる。パレスチナが戦争になると、レバノン南部に陣取る反イスラエル勢力ヒズボラがイスラエルを攻撃することを誘発する。

 イスラエルとヒズボラとの戦争は昨年夏にも起きたが「これは勝てない」と思ったイスラエル側が国連に頼んで停戦を仲裁してもらい、決着がつかずに停戦している。ヒズボラはその後、軍事力を回復しており、パレスチナが戦争になれば、南北からイスラエルを挟み撃ちにできるので、イスラエルへの攻撃を再開する可能性が高い。ヒズボラもハマスも、イランからの軍事支援を受け、力を強化してきた。(関連記事)

 昨夏のイスラエルとヒズボラの戦争では、イスラエル軍はシリアとの戦争を誘発する軍事行動を繰り返しており、戦争があと2週間も続いたら、シリアとも戦争になっていたと考えられる。シリアはイランと相互防衛協定を結んでいたので、イスラエルとシリアが戦争になったら、イランも参戦し、中東大戦争になっていた。今後、パレスチナで戦争が始まり、それを見てヒズボラが参戦したら、昨夏のレバノン戦争の続きが始まり、イスラエルはシリアをも攻撃し、イランをも巻き込んでいく可能性がある。

 このような中東大戦争となれば、この地域にアメリカ軍などの各国の部隊が、なんらかの形で、この戦争に巻き込まれる可能性がある。大戦争となれば、もともとシオニズム・ユダヤ教を事実上の国教としている見かけだけ政教分離しているがその実は政教一致のシオニスト国家イスラエルは、メシア待望論を人々に植え付けてきたため、周りの異教徒の征伐に躊躇しないだろうし、場合によっては、核兵器を使用するかもしれない。イスラエルには、アメリカが提供する最新ハイテク兵器が揃っており、軍事的優位を誇示して、一気に、シリアやイランを攻撃するかもしれない。それに対して、世界のシオニストたちが支援するだろう。そして、アメリカも。
 
 大戦争の勃発は、もともと、世襲君主制で、民衆の意志を反映していない国が多いアラブ・イスラム諸国で、民衆の反米反イスラエル感情を高め、それが、王族支配の転覆にまで発展する可能性もある。第2第3のイラン革命が起きるかもしれない。中東石油地帯が不安定さを増せば、石油に頼っている工業国の経済も混乱するだろう。
 
 先進国においても政治体制が不安定化し、国家間の利害対立が深まるだろう。世界は流動化し、ちょっとしたきっかけで、中東大戦争に巻き込まれやすくなるに違いない。まして、世界一の大国の大統領であるブッシュが、世界戦争も辞さないと軽々に口にしたことは、戦争が国際紛争の解決手段であることを公認したも同然であるから、世界の国々の中には、戦争は善だと世界のリーダーが認めたのだから、自分たちが戦争をしても、世界公認なのだと言いつくろう者も出てくるかもしれない。
 
 対パレスチナ、対トルコ、にアメリカなどが手を取られている間に、アフガニスタンのタリバンなどは、勢力拡大にはげむことだろう。タリバンの勢力拡大は、タリバンの支持基盤のパシュトゥン人を国内に抱え、イスラム原理主義勢力を多く抱えるパキスタンにも大きな影響を与えるだろう。ムシャラフ政権は、国内基盤が弱く、アメリカに支えられているだけなので、かつての政敵ブット元首相派人民党と手を組むことを余儀なくされた。脆弱な統治体制の下で、中東大戦争の刺激から、国内の反体制派が一気に攻勢に出る可能性がある。
 
 こうして中東大戦争は、拡大していって、さらに、ヨーロッパに飛び火し、さらには、アメリカにも飛び火していくかもしれない。
 
 もちろん、これは、あくまでも、可能性を追っていった空想にすぎない。ただ、トルコ対クルドの戦争、イスラエル対パレスチナ戦争、アメリカ対イラン戦争、の三つの戦争は、一番目は、すでに始まりつつあり、トルコ国境内での小戦闘が起きており、二番目の戦争は、ずっと続いている恒常的な戦争となっているものであり、三番目は、戦争につながることがよくある制裁が強化されたので、前戦争状態にあると言ってよい。アメリカ・ヨーロッパが、トルコを止め、アメリカがイスラエルを止め、国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ氏が、世界戦争発言をなんら問題解決につながらないと批判するなどして、ブッシュを止めている。とはいえ、それが成功するとは限らない。間近に迫ったアメリカでの中東和平会議は、成功する見込みは薄いという。
 
 第一次世界大戦は、ヨーロッパが主な戦場で、日本は、最後にドイツに宣戦布告したが、わずかなドイツの影響したにある中国において、ちょっと戦争に加わった程度で戦勝国になり、軍需景気にわき、大正デモクラシーを謳歌する平和な時代であった。議会では、政党政治が続き、民本主義や大正教養主義が広まり、アメリカからは降霊術なども輸入されて流行ったりした。それもつかの間の春であり、その後、昭和恐慌を経て、中国大陸への拡張路線をひた走る中で、戦争は日常化し、戦争に慣れていくにしたがって、戦争から抜け出せなくなり、ついには、問題解決を戦争に求めるようになり、第二次世界大戦に突入していくのである。
 
 アメリカやヨーロッパ諸国は、すでに、そうした道に入っており、そこから抜け出そうとするオランダのような国もあらわれている。韓国も、アフガニスタンから、年内に撤退する。ドイツ軍も、南部での活動を断った。だが、日本政府は、新対テロ特措法を国会に提出して、さらに、危険な道に踏みとどまろうとしている。
 
 アメリカのある政府高官は、自衛隊の給油活動の有無にかかわらず、日米同盟は変わらないと言明している。『読売』は、わずか40ヶ国が参加していることをもって、「対テロ戦争」からの戦線離脱は、国際社会からの信用を失うと脅かしている。その中味は、積極的な米英とおつきあい程度のその他の国々というものでしかない。そして、それが国益にかなっていることを言うために、インド洋での給油活動は、日本の石油輸送のシーレーン(海の道)防衛に貢献しているという法律の目的にない目的まで持ち出している。しかし、そう言うことによって、「対テロ戦争」の動機が、石油にあることがはっきりした。衆参ねじれ国会の情況のおかげで、これまで、公然とは語らなかった「対テロ戦争」の目的を言わないと、人々が法案を支持しないかもしれないというあせりが生まれているのである。
 
 けっこうなことだ。どんどん、本音を語ればいい。海上自衛隊員は、日本に石油を運ぶ石油タンカーの安全のために活動しているのだ、それが、命をかけた自衛隊の崇高な使命なのだと、訴えるがいい。
 
 昨日、「対テロ戦争」「中東民主化」などの崇高な使命をブッシュ政権によって吹き込まれたアメリカの外交官約500人は、世界最大の在外大使館であるイラク大使館への赴任を拒否するデモがワシントンで行った。イラク大使館での外交官の任務が、命をかけるほどの価値がないということを外交官たちはわかっている。命の保証のないイラク大使館での任務は嫌だと言っているのだ。
 
 中東でのハルマゲドン(世界最終戦争)とキリストの復活、キリスト教の最終的な勝利というビジョンに夢中のアメリカのキリスト教原理主義者たちとエルサレムへのメシアの到来によるイスラエルの最終的勝利というビジョンで手を握りあっている終末論的神秘主義者たちの悪夢が、大中東戦争から、世界戦争へという形で、実現されるようなことは、あまりにも悲惨な事態である。このような邪悪な夢はうち砕かねばならない。しかし、「対テロ戦争」には、石油が隠されていたように、この悪夢の下には、物的な利害が隠されている。だから、そうした利害を発生させる物的な要因をなくすことで、悪夢は解消される。石油をあまり必要としない物的生活を広範に実現できれば、シーレーン防衛に自衛隊を出す必要もなくなるというように。

   田中宇の国際ニュース解説http://tanakanews.com/index.html

  大戦争になる中東(4)【2007年10月30日】

  中東では今、3つの地域で、新たな戦争が起こりそうな瀬戸際の状態にある。一つ目は、アメリカによるイラン攻撃の可能性。二つ目は、トルコ軍が北イラクのクルド人地域に侵攻し始めていること。三つ目がイスラエル・パレスチナで、11月初旬にアメリカのメリーランド州アナポリスで行われる中東和平会議が失敗して、パレスチナで蜂起が起こり、イスラエル軍とパレスチナ人武装組織の間で戦争になり、イスラエル・レバノン間と、イスラエル・シリア間の戦争をも誘発する可能性である。

 これらの3つの戦争懸念のうち、イランとトルコのものは、最近よく報道され、目立っている。米政府は10月26日、イラン軍の中核をなす「革命防衛隊」を「テロ支援組織」に指定するなど、米単独でのイラン制裁強化を発表した。アメリカは以前からイランを経済制裁しており、米イラン間の経済関係は、ほとんど断絶している。今さら追加の制裁を米単独で行っても効果は薄く「制裁しても効果がないので軍事攻撃するしかない」という論調が米政府内で強まりそうだ。共和党の有力な上院議員チャック・ヘーゲルも、それを懸念している。(関連記事)

 トルコ軍の北イラク侵攻は、名目的には、北イラクを拠点にトルコで破壊活動を展開しているクルド人武装組織PKK(クルド労働党)の本拠地を越境攻撃するのが目的だ。だが実質的には、イラクにおけるアメリカ支配が弱まる中で、北イラクのクルド自治政府が分離独立する傾向を強めているため、トルコ軍がそれを実力で阻止し、大油田地帯のキルクーク周辺がクルド人の手に落ちるのを防ぐのが、越境攻撃の真の目的である。(関連記事)

 トルコが戦いそうな真の敵は、3000人程度の兵力しかないPKKではなく、40万人の兵力を持ち、米軍から武器と訓練を伝授されたクルド自治政府の軍隊「ペシュメガ」である。

▼最も危険な戦争懸念はパレスチナ

 3つの戦争懸念のうち、イランとトルコのものが目立っているものの、私が最も危険な展開になりそうだと予測しているのは、3つめのイスラエル・パレスチナのものである。

 米イラン戦争については、ブッシュ政権は、攻撃を行う政治的決定権の取得も、武器の配備も、すでに完了しており、いつでも攻撃を決行できる。実際に攻撃が行われれば、影響が非常に大きい。しかし、アメリカがイランを軍事攻撃しそうだという話は、米の政界やマスコミで2年ほど前から断続的に流れ続けており、ブッシュ政権は、攻撃をするぞと言っているだけで、実際にはやらないのではないかという感じもする。米軍のゲイツ国防長官や将軍たちは、イラン攻撃に強く反対しているという報道も出ている。(関連記事その1、その2)

 トルコの北イラク侵攻も、これまで安定していた北イラクを戦場にしてしまうという点では大惨事だが、広域的な落としどころは見えている。トルコはNATOに加盟するアメリカの同盟国である。北イラクのクルド自治政府は、イラク占領で最もアメリカに協力してくれている勢力であるが、ブッシュ政権はクルドの分離独立には反対している。2者間の戦争は、アメリカにとって仲間どうしの戦争だが、米政府は「戦争するな」と言うばかりで、有効な仲介策も打てず、無策の状態にある。

 そして、アメリカ以外の関係諸国はすべて、トルコの味方である。トルコと同様にクルド人の独立運動に悩まされてきたイランとシリアはトルコの侵攻を支持しており、イラクの中央政府もシーア派主導でイランの影響力が強いので、トルコとクルドが本格戦争に入れば、関係諸勢力はイラクの統一を維持するため、トルコに味方する方向で仲裁に入ることになる。最終的に、クルド人は黙らされ、独立の夢は潰される可能性が大きい。(関連記事)

▼失敗しそうな中東和平会議

 私が3つの中で最も危険だと思うイスラエル・パレスチナの戦争は、11月初旬にアメリカのアナポリスで開かれる中東和平会議が失敗しそうだというのが出発点となる。

 中東では、イラクとアフガニスタンの占領失敗がしだいに明確になり、中東全域で反米意識が高まり、アメリカの政治的影響力が低下している。いずれアメリカがイラクから撤退したら、中東におけるアメリカの影響力は急落し、反米反イスラエルのイスラム主義勢力が中東全域でさらに強まり、アラブ諸国の政権は親米的な国是をしだいに保てなくなり、アメリカは中東への介入をやめざるを得なくなる。

 そうなるとアメリカだけを頼りに強硬策を続けてきたイスラエルは国家存亡の危機になるので、イスラエルでは、アメリカの中東覇権が残っている今のうちに、早くパレスチナ人と和平を結ぼうとする動きが「現実派」のツィピィ・リブニ外相を中心に進んでいる。リブニは、アメリカのライス国務長官と相談し、11月のアナポリスの和平会議を開いてもらい、マフムード・アッバース大統領を中心とするファタハのパレスチナ自治政府に、ヨルダン川西岸地域でパレスチナ国家を建設させる構想を進めている。(関連記事)

 しかし、イスラエルの中枢では、現実派と右派の暗闘が以前からあり、軍や入植者に支持が強い右派は、和平に反対している。アッバースにパレスチナ国家を作らせるには、西岸でパレスチナ人の土地を奪って作られたイスラエル右派の入植地を撤去しなければならない。しかし、入植地の撤去に必要な、入植者の強制立ち退きを挙行できるのはイスラエル軍であり、軍内には右派がたくさんおり、立ち退きの強行は無理だと言ってやろうとしない。入植地は撤去されるどころか、拡大を続けている。(関連記事)

▼右派の反対で消えるエルサレム分割案

 リブニらは、とりあえずアッバースの力をパレスチナ政界で強めてやろうと、エルサレムの東西分割を容認し、東エルサレムを新生パレスチナ国家の首都にしてやることを考えた。アッバースは、すでにパレスチナの半分であるガザを、今年6月に強硬派のハマスに奪われ、パレスチナ政界での人気が落ち、アメリカの傀儡と揶揄されている。ハマスとの交渉はアメリカに禁じられており、イスラエルにとっては、交渉相手はアッバースしかいない。(関連記事)

 エルサレム分割は、60年前の国連決議(パレスチナ分割案)以来「国際社会」がイスラエルに命じていることだが、イスラエルは拒否し続けてきた。イスラエルが東エルサレムをアッバースにあげたとなれば、アッバースは「エルサレムを奪還した英雄」として、再びパレスチナ政界やアラブ全域での尊敬を勝ち取れ、入植地が残ったままでも、パレスチナ国家の建設に弾みがつく。

 ところが、リブニらがエルサレム分割案をイスラエル政府内で提案したところ、連立政権を構成している諸派のうち、シャスとイスラエル・ベイテイヌという右派政党が強硬に反対し「エルサレムを分割するなら、連立政権を離脱する」と宣言した。2政党が離脱すると、連立政権は崩壊し、総選挙をやらざるを得なくなる。右派の野党リクードは、2政党に対し、早く政権を離脱してリクードと右派連立を組み直し、選挙に勝って右派政権を作ろうと呼びかけた。(関連記事)

 連立政権を崩壊させるわけにはいかないので、エルサレム分割も不可能になり、リブニらは、アナポリスの和平会議に何の材料も持っていけなくなった。和平会議は、単なる写真撮影会に終わって失敗する可能性が増しており、ライス国務長官も、会議の成功は難しいことを認めた。(関連記事)

▼和平会議の失敗はハマスの台頭に

 和平会議の失敗は、重大な影響をもたらすと予測されている。会議の失敗は、パレスチナを中心とした中東全域で「イスラエルと和平をやっても無駄だ」「イスラエルとは戦うしかない」という世論の拡大を招く。アッバースの親米政権を見限って、反米好戦派のハマスを支持する動きが広がる。パレスチナ自治政府の高官は、和平会議の失敗は「インティファーダ」(反イスラエル民衆蜂起)を再燃させ、イスラエルに対するテロも急増すると警告している。イスラエルの新聞でも「会議の失敗はハマスを台頭させ、最悪の事態を招く」と警告する主張が出ている。(関連記事その1、その2)

 すでに、今年6月にハマスがガザを席巻した時点で、アッバースの政権がいずれ西岸でもハマスに破れ、パレスチナ全域がハマスの支配下になるのは時間の問題だと指摘されていた。ハマスがパレスチナ全域を支配するようになると、イスラエルは和平交渉の相手がいなくなる上、ハマスとの戦争の可能性が強まる。(関連記事)

 最近、アメリカのイスラエル系シンクタンクが主催し、国務省の中東担当者も出席して開かれたシンポジウムでは、出席者が相次いで「11月に急いで和平会議を開く必要はないはずだ。延期した方が良い」という意見を発表した。しかし、ライス長官の国務省は、和平会議を予定どおり開くことに尽力し続けている。チェイニー副大統領は、和平会議について語ることを避けている。会議が失敗し、イスラエルが戦争に巻き込まれるのを待っているかのようである。(関連記事)

 アメリカのマスコミなどでは「現実派のライスが、強硬派のチェイニーを抑え、中東和平を進めている」と「解説」され、日本のマスコミもそれを鵜呑みにしているが、それらは大間違いであり、おそらくチェイニーらがリークして書かせてきた騙しのプロパガンダ(スピン)である。ライスはチェイニーの指示を受け、現実派的な動きを演じているだけである。ブッシュ政権は、イスラエルを戦争に追い込もうとしている。

 もともとパレスチナ和平は、2002年から05年にかけて、イスラエルをパレスチナから「隔離」する戦略を展開したシャロン前首相が05年に脳卒中で倒れた時に「終わり」になり、今年6月にハマスがガザを占領した段階で「棺桶にクギが撃ち込まれた」と指摘されている。中東和平を進めるライスは「死体と踊っているだけだ」という、ライスがフィギュアスケートを得意とすることに引っかけたグロテスクな指摘も、しばらく前に出ていた。(関連記事)

▼戦争を誘発するイスラエル軍のガザ制裁策

 イスラエルの右派も、チェイニーらアメリカの右派と同期して、自国を戦争に追い込もうと動いている。イスラエル軍は10月26日、ガザからイスラエルに向けてロケット攻撃が行われるたびに、ガザへの電力供給を停止する制裁措置を開始することを決めた。ガザで使われる電力の6割は、イスラエルが供給している。イスラエル軍は、ガザからのロケット攻撃をやめさせるとともに、ガザのパレスチナ人が経済的にイスラエルに頼るのをやめさせる隔離戦略も兼ねた制裁措置だと説明している。(関連記事)

 だがイスラエルでは「電力供給の停止は、ロケット攻撃の抑止に役立たないどころか、ガザの一般市民の反イスラエル感情を扇動し、逆にハマスへの支持を強化してしまう」という反対意見が多く出ている。イスラエル軍はこれまでも、自爆テロを行ったパレスチナ人の親戚の家をブルドーザーで破壊する制裁措置や、西岸からの物資の出入りを検問所で止める制裁措置を発動してきたが、いずれもテロ抑制に役立たず、パレスチナ人をいたずらに困らせ、反イスラエル感情を扇動し、イスラエルの国際イメージを悪化させるだけに終わっている。イスラエル軍は、逆効果だと知りながら、パレスチナ人に対する制裁戦略を繰り返している。(関連記事その1、その2)

 現実派寄りのイスラエルの新聞「ハアレツ」では「イスラエル軍は、ガザ大侵攻を実現すべく、電力供給停止の制裁を発動し、イスラエルに対するロケット砲攻撃を誘発し、大侵攻できる口実を作ろうとしているのではないか」と指摘されている。(関連記事)

 イスラエル軍は以前から、ガザに大侵攻をかけることを計画していたが、今年5月にリブニがオルメルトに逆らう政治騒動を起こしてガザ大侵攻を止めて以来、延期されている。右派が強いイスラエル軍内では、アナポリス和平会議の失敗をきっかけに、ガザ大侵攻を実施したいと考えが出てきても不思議はない。(関連記事)

 現実派政党である労働党が担当するイスラエルの国防大臣は今年6月に交代し、労組出身で戦争指揮経験がなく右派の将軍たちに騙されて好戦的な作戦を採ってしまった前任のアミール・ペレツが辞め、代わりに将軍出身で首相経験もあるエフド・バラクが就任している。バラクの登場で、軍内の右派は抑止されると予測されていたが、現実には、事態が悪化する中で、バラクも右派に対抗できる現実策を打ち出せず、右派に流されている。(関連記事)

▼レバノン、シリア、イランを巻き込む大戦争の可能性

 アナポリス会議で和平が前進しなかった後、イスラエル軍がガザに大侵攻をかけたり、ハマスが西岸でもアッバースのファタハを倒して権力を握ったり、イスラエルに対する「インティファーダ」が再発したりすれば、イスラエルとパレスチナの間は戦争状態になる。パレスチナが戦争になると、レバノン南部に陣取る反イスラエル勢力ヒズボラがイスラエルを攻撃することを誘発する。

 イスラエルとヒズボラとの戦争は昨年夏にも起きたが「これは勝てない」と思ったイスラエル側が国連に頼んで停戦を仲裁してもらい、決着がつかずに停戦している。ヒズボラはその後、軍事力を回復しており、パレスチナが戦争になれば、南北からイスラエルを挟み撃ちにできるので、イスラエルへの攻撃を再開する可能性が高い。ヒズボラもハマスも、イランからの軍事支援を受け、力を強化してきた。(関連記事)

 昨夏のイスラエルとヒズボラの戦争では、イスラエル軍はシリアとの戦争を誘発する軍事行動を繰り返しており、戦争があと2週間も続いたら、シリアとも戦争になっていたと考えられる。シリアはイランと相互防衛協定を結んでいたので、イスラエルとシリアが戦争になったら、イランも参戦し、中東大戦争になっていた。今後、パレスチナで戦争が始まり、それを見てヒズボラが参戦したら、昨夏のレバノン戦争の続きが始まり、イスラエルはシリアをも攻撃し、イランをも巻き込んでいく可能性がある。(関連記事)

 これはまさに、チェイニー副大統領の望む展開である。チェイニーは以前から「イスラエルがイランを攻撃してくれれば、イランが報復攻撃するだろうから、米軍がイランを攻撃する口実ができる」という考えを、なかば公然とリークし続けてきた。最近ではドイツのシュピーゲル誌がその件を報じている。(関連記事)

▼直近の動き

 ここまでの記事を書き終えた10月29日、中東の3つの戦争懸念についての、いくつかのニュースが入ってきた。その一つは、米軍がインド洋のディエゴ・ガルシア島の基地で、ステルス戦闘機がイランの地下核施設を空爆できる新型爆弾バンカーバスターを積んで出撃できるような発進設備の増強を行っていると、イギリスの新聞ヘラルド紙が報じたことだ。(関連記事)

 こうした報道からは、米軍によるイラン侵攻が近いという感じがするが、イギリスの新聞は以前から、米軍やイスラエル軍によるイラン攻撃準備について「開戦が近い」と人々に思わせるような記事を流し、その後実際には何も起こらないという状況が繰り返されている。すでに何度か騙されている私は、この記事だけで大騒ぎする気にはなれない。

 クルドについては、米イスラエルの諜報機関の動きに詳しいセイモア・ハーシュが「PKKは間接的に、米とイスラエルに支援されている」と指摘した。米・イスラエル軍の諜報機関は、占領下の北イラクからイランに潜入して破壊活動を行うクルド人テロ組織PJAK(クルド自由党)を支援してきたが、PJAKとPKKは、指導者と基地を共有する事実上の同一組織であり、米イスラエルは間接的にPKKを支援していることになると、ハーシュは指摘している。(関連記事)

 これとは別に、PKKの掃討を進めるトルコ軍が、これまでにアメリカ製の武器(軽火器)1290丁をPKKから押収しているという情報も出てきた。これらの武器は、アメリカ兵がイラクのブラックマーケットに不正に売却し、それをPKKが買ったという流れで、トルコ政府の抗議を受け、米の国防総省とFBIが捜査を開始したという。だが、国防総省は、イラクに持ち込んだ37万丁の軽火器のうち3%しか製造番号をデータベース管理しておらず、PKKに流れた武器を米軍の誰が売ったのか、わからない状態だ。(関連記事)

 米とイスラエルの軍事諜報機関は、フセイン政権時代から、イラクの政権転覆のために北イラクのクルド人を支援していたことが知られている。彼らは米イスラエル政界の右派の代理勢力であり、米とイスラエルの敵を強化する作戦を繰り返している。彼らがPKKを動かしてトルコを挑発しているのだとしたら、それはトルコを親米から反米に転じさせ、イランやシリアの仲間にしてしまおうとする作戦である。

 イスラエルでは、連立政権内でエルサレム分割に反対していたイスラエル・ベイテイヌの党首アビグドール・リーバーマン(Avigdor Lieberman)が、分割案に賛成する意志を示した。右派のリーバーマンは「イスラエルからアラブ系(パレスチナ系)住民を追い出し、パレスチナ側に強制移住させ、ユダヤ人の民主国家というイスラエルの国是を守る」という運動を展開しており、エルサレム分割は、分界線の線引きのしかたによっては東エルサレムのアラブ系住民をごっそりパレスチナ側に追い出せるので都合が良いと言い出している。(関連記事)

 これは、リブニ外相やオルメルト首相が進めている、エルサレム分割によるアッバース強化、パレスチナ国家建設の実現に近づける変化で、11月初旬のアナポリス和平会議に成功の兆しが見え出したとも言える。

 しかし、エルサレム分割案で最も大事なのは、エルサレム旧市街の中心に位置する宗教的な「神殿の丘」の共有である。神殿の丘は、丘の上がイスラム教の聖地「アルアクサ・モスク」の敷地で、丘の斜面にはユダヤ人の聖地「嘆きの壁」があり、これらが一体になって神殿の丘になっている。今は丘全体をイスラエル側が管理し、モスクの敷地内だけをパレスチナ側が管理している。イスラエルの世論は、神殿の丘をパレスチナ人と共有することに以前から強く反対しており、この問題が解決できない限り、エルサレム分割は不可能である。

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「国旗・国歌 問題教員の報告は必要だ」というが、問題なのは産経の方だ

  『産経新聞』の以下の主張は、浅薄である。

 『産経』社説が、神奈川県個人情報保護審査会が、神奈川県教委が国家斉唱時に起立しなかった教員名を校長に報告させていたことを、「思想・信条に関する個人情報の収集に当たる」として、報告を中止するよう答申したことを、「教育現場の実情を無視した答申である」と批判していることである。
 
 その理由として『産経』があげているのは、「学習指導要領に、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国家を斉唱するよう指導するものとする」という規定である。この文章は、国歌斉唱の具体的な形態については何も書いていない。起立して歌えとも、座ったまま歌えとも書いていない。教職員が式で歌えとも歌うなとも書いていない。
 
 そこで、学習指導要領にない斉唱の具体的な形態について、『産経』は、国際常識なるものを持ち出す。
 
 9・11事件後のナショナリズムに包まれたアメリカ社会では、なるほど、スポーツの試合などの際に、国歌(といっても国歌に当たるものはアメリカでは少なくとも2曲あるという)を大合唱する姿が繰り返し映し出されたために、それが「国際常識」的に見られたのも無理もないことである。しかし、今では、そんな光景は、あまり見られなくなった。
 
 『産経』がいう「国際常識」は、変化するものであって、保守思想家が言うように、進化(変化)するのである。

 次に『産経』は、「県教委が国旗・国歌の適切な指導を行うためには、これらの法令を順守しなかった教員名を当然、把握しておかねばならない。教員の人事異動や学校評価のためにも、不適格な教員名の報告が必要になろう」と述べる。法と令は別であり、法はこの場合には、国歌・国旗法「国旗は、日章旗(日の丸)とする。国歌は、君が代とする」を指し、令すなわち行政命令は、学習要領の規定を意味する。法と令の関係では、言うまでもなく、法治主義の原則から、法が令の上である。その法は、ただ、国旗と国歌を指しているだけである。法の体系では、法の上に憲法があり、これが最上位の法である。憲法に違反する法令は存在してはならないと規定されている。
 
 思想・信条の自由は、最高法規たる憲法の規定であって、個別法や省令などの行政命令や行政指導は、これに反しない範囲で効力を持つということになっている。文科省が、憲法体制から独立の国家内の国家として独立して行動することはできないとされているわけである。
 
 神奈川県個人情報保護審査会が、憲法の規定に照らして、問題であり不適格とされたのは、不起立教員ではなく、県教委と校長の方である。しかるに、『産経』は、最上位法である憲法規定との関係が問題にされたのに、個別法と文科省の行政的指導・省令を根拠に、不起立教員を問題・不適格と決めつけている。

 『産経』は、憲法の思想・信条の自由の規定を、公教育では教員の内心の自由に限定されるものと解釈し、神奈川県教委の行為を、その自由を制限するものではないと擁護する。そして、「この考え方は、教育現場では通用しない。個々の教員がどんな思想・信条を持っていたとしても、学校では、児童生徒に国旗・国歌の適切な指導を行う義務を負っている。それが公教育というものだ」としている。学習指導要領が、国家斉唱時の起立を規定しないのに、教員の不起立を思想・信条の表明と見なしているのは、県教委である。たまたま体調が悪くなって、不起立になってしまったという教員もいるかもしれない。学校の朝礼などで、立ちくらみがして、座り込む生徒がいることは、おそらく誰しも目撃していることだろう。二日酔いということもありうる。様々な事情があり得る現場で、不起立イコール問題教員・不適格教員と見なすのは、それを内心の自由の態度・行為での表現として思想・信条を基準として適用しているからである。
 
 そして、入学式・卒業式における不起立などの行為のみをことさらに、通常の授業や校内生活における行為と区別して、厳しい監視・処罰の対象とするという学習指導要領にも書いていないことを、実際上の運営で行っていることに、この問題を思想闘争・政治闘争・イデオロギー闘争と化そうという文科省の意図的な狙いが表われている。
 
 「審査会の答申について、梶田叡一・兵庫教育大学長も「教員に思想信条の自由はあるが、公教育では国旗国歌の尊重が求められている。行政が法令順守を確認するのは当然で、個人情報保護とは別問題だ」と言っている。これが学校現場での正しい考え方だ」という。こんな人が教育大学の学長になれるというのも、世も末と言う気がするが、行政が確認すべきは法令順守だというなら、憲法順守について最優先で確認すべきであり、確認する者が確認されねばならないのである。これは、個人情報保護とは別問題だというのは、法を個別法として孤立させてとらえる見方で、法を法の体系から引き離すということは、法の実際世界ではあり得ない空想である。それは、公教育には、プライバシー保護は関係ないと言うのと同断である。そんなことは実際問題としてあり得ない。公教育だからといって、世間と隔絶して、特権的な独立島宇宙を形成しているわけではないし、そういう見方は、特に、近年は通用しなくなっている。
 
 次に、『産経』は、日の丸・君が代の具体的な歴史から、それらに誇りを持ち、他国の国旗・国家に敬意を持つことが、諸外国との友好を広めるために必要だという。別に旗や歌に誇りを持つことが、諸外国との友好促進の最高の手段というわけではない。国旗や国歌はあまりにも抽象的すぎる。それに、あまりに誇りを持ちすぎると、他国を蔑視するようなナルチシズムに陥る危険性もある。ナルチシズムも、過ぎれば、病態にまで進むかもしれない。
 
 このシンボルに結びついている歴史的意味も問題である。明治以来の戦争に次ぐ戦争の時代、これらのシンボルが前面に掲げられ、その下に、いろいろな負の意味が形成され、クリップされている。そうした意味形成体がこのシンボルにひっついている。

 今、アフガニスタンの民衆の中で、アメリカ国旗や国歌に対して、負の意味が形成され、シンボルの歴史的意味が変化し、それが広く共有されつつあると思われる。イラクでも政府ではなく、民衆の間では、似たようなことが起きていると思われる。パレスチナではもちろんである。星条旗は、否定的な意味形成体をぶら下げているだろうし、「星条旗よ永遠なれ」は、誤爆によって殺害された肉親や友人や仲間の死への復讐と憎悪の対象になりつつあるかもしれない。こうした過程や現実を見ながら、単純に、国旗・国歌万歳とは言いにくい。日本人が、アメリカ国旗・国家に敬意を表する姿をアフガニスタンの反米感情の強い民衆が見たら、友好どころか、敵と見なされるかもしれない。

 『産経』は、「教育委員会や校長らは今回の答申に左右されず、問題教員の実態を正確に把握したうえで、毅然(きぜん)とした国旗・国歌の指導を続けるべきである」と役に立たない当為(べき)で締めくくる。切り離されないものを切り離してしまえば、「毅然と」という類の主観的な決意性(その実は空文句)だけが、問題解決の鍵とされてしまう。県教委は、この答申について、それと自らの指導のあり方とを関連させて、真摯に検討すべきである。そして、私の考えでは、この答申に従うべきである。
 
 『産経』のような歴史に正面から向き合えない空想癖の強いナルチスティックな態度こそ、社会を危険に陥れるものだ。公教育において、問題をつくりあげて、問題を引き起こす文科省や教育委員会のナルチシズムをこそ問題にすべきである。かれらのわがままとそれを助長する『産経』こそ、教育されるべきである。
 
 「環境の変更と教育とについての唯物論学説は、環境が人間によって変更されなければならず、教育者みずからが教育されなければならないということを、わすれている」(マルクス「フォイエルバッハ・テーゼ(3))

  【主張】国旗・国歌 問題教員の報告は必要だ(『産経新聞』2007.11)

 神奈川県教育委員会が国歌斉唱時に起立しなかった教員名を校長に報告させていたことについて、同県個人情報保護審査会は「思想・信条に関する個人情報の収集に当たる」として、報告を中止させるよう答申した。教育現場の実情を無視した答申である。

 学習指導要領は「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定めている。また、平成11年に成立した国旗国歌法は「国旗は、日章旗(日の丸)とする。国歌は、君が代とする」と規定している。国歌斉唱時に起立して歌うのは国際常識である。

 県教委が国旗・国歌の適切な指導を行うためには、これらの法令を順守しなかった教員名を当然、把握しておかねばならない。教員の人事異動や学校評価のためにも、不適格な教員名の報告が必要になろう。

 だが、審査会は「起立しない理由の多くは過去に日の丸・君が代が果たしてきた役割に対する否定的評価に基づく」「不起立は一定の思想信条に基づく行為と推定できる」として、保護されるべき個人情報に当たるとした。

 この考え方は、教育現場では通用しない。個々の教員がどんな思想・信条を持っていたとしても、学校では、児童生徒に国旗・国歌の適切な指導を行う義務を負っている。それが公教育というものだ。

 審査会の答申について、梶田叡一・兵庫教育大学長も「教員に思想信条の自由はあるが、公教育では国旗国歌の尊重が求められている。行政が法令順守を確認するのは当然で、個人情報保護とは別問題だ」と言っている。これが学校現場での正しい考え方だ。

 国旗と国歌には、それぞれの国の歴史が込められている。日の丸は江戸時代から外国船と間違われないための船印として使われ、君が代は和漢朗詠集などの歌から作詞された由来を持っている。日本の子供たちが将来、国際社会で活躍するには、自国の国旗・国歌に誇りを持ち、外国の国旗・国歌にも敬意を払う心を養うことが大事だ。

 教育委員会や校長らは今回の答申に左右されず、問題教員の実態を正確に把握したうえで、毅然(きぜん)とした国旗・国歌の指導を続けるべきである。

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