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『沖縄ノート』裁判・再論

 現在、インターネットにあまり触れられない環境にいるために、ブログの更新が滞っておりますが、その間に、『沖縄ノート』裁判にかかわる議論が、激しくなっているようである。

 山崎行太郎氏と池田信夫氏の間で、間接的に、先の同裁判での大江健三郎氏の証言をめぐって、対立があり、双方が持論を展開している。

 議論は、山崎氏が、文学的表現として大江氏の文章を解しているのに対して、池田氏が、井沢元彦氏の大江批判を敷衍して、一般的な文法論から、大江氏の「罪の巨塊」という表現を、「死体」とするのは無理があると批判するというものである。しかし、これは、他殺体という意味のラテン語を翻訳した上で、それを文学的に表現したと述べている部分をすぐ前に引用しているにもかかわらず、すぐ後で、池田氏流の解釈を加えて、これを「死体」と言い換えてしまうのである。

 山崎氏が怒っているのは、こういう無神経さであり、文学への侮蔑である。文学テキストが、文法どおりに書かれていることなど、まずありえない。作家は、自分なりの表現を追及し、言葉を工夫し、場合によっては、文法を壊してまでも、言葉の美を追求するものであり、それが、新しい言葉や表現を創造することにもつながるのである。

 山崎氏は、そうした作家としての資質において、曽野綾子氏は、大江健三郎の足元にも及ばないと言っているのである。そうした基本的な文学価値の判断で、大江氏に軍配が上がっている以上、作家としての曽野氏は、大江氏を尊敬すべきであり、それが、物書きとしての当然の価値観だと言いたいのである。そのことは、思想的あるいは政治的な立場とは関係ない価値なのである。

 井沢元彦氏には、もちろん、そうした価値観も判断力も欠けている。池田氏はもっと欠けている。それならそれなりに、作家としての大江氏に対して、当然敬意を払うべきだし、謙虚であるべきだ。そうした基本姿勢を示しつつ、批判なら批判するということが必要だ。それぐらいのことができないで、日本国家だの道徳だの文化だのについて、偉そうに言うなということが山崎氏の言いたいことだろう。

 当ブログは、山崎氏の主張に共感しつつ、曽野氏や池田氏の大江批判を批判したのだが、前の記事では、「魂」という字と「塊」という字を混合してしまった。その点を、コメントでご指摘いただいた記して感謝したい。訂正しておきます。

 池田氏は、「この「つぐなう」という他動詞の目的語は何だろうか。これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう」などという類のことを書いて、大江氏をたいそう批判した気になっているが、他動詞の目的語などをいちいち正確に表現している日本語使いがいったいどれだけいるというのだろう? だいいち、池田氏は、いろいろな省略やシンボル表現を使ったことがないとでも言うのだろうか? 氏は、つねに文法的に正しい文章を書いているとでも言うのだろうか?

 ことは裁判であり、しかも、沖縄戦という歴史的にも現在的にも極めて奥深い感情に触れる問題に関わっている。裁判である以上、どちらかが法的に罪に問われる可能性が高い。赤松元大尉側が敗訴となれば、今度は逆に、名誉毀損で訴えられる可能性もある。赤松元大尉側が賠償金を取られるかもしれないわけだ。そして、この裁判の行方を、沖縄戦集団自決問題の教科書検定に反発して立ち上がっている沖縄県民が注視しているとみるべきである。

 一知半解で専門外のにわか仕立ての素人文法論をかざして、 「このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない」などと断定して、「謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう」などと文学的価値の判定者を気取る池田氏は、天才か? それとも神様でもあろうか? 曽野氏は、まだ、あの世での神の審判を受ける覚悟であるし、カトリックだから神の完全性に対する被造物で原罪を負っている人間の不完全性を感じているだけまだ謙虚さがあるが、池田氏は、傲慢といわざるを得ない。人としての勝負で、山崎氏に負けている。

 大江健三郎という「嘘の巨塊」

15日の記事のコメント欄で少しふれたが、大江健三郎氏が11月20日の朝日新聞の「定義集」というエッセイで、彼の『沖縄ノート』の記述について弁解している。それについて、今週の『SAPIO』で井沢元彦氏が「拝啓 大江健三郎様」と題して、私とほぼ同じ論旨で大江氏を批判しているので、紹介しておこう。大江氏はこう弁解する: <私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。

 つまり「罪の巨塊」とは「死体」のことだというのだ。まず問題は、この解釈がどんな辞書にも出ていない、大江氏の主観的な「思い」にすぎないということだ。「罪の巨塊」という言葉を読んで「死体」のことだと思う人は、彼以外にだれもいないだろう。『沖縄ノート』が出版されてから30年以上たって、しかも訴訟が起こされて2年もたってから初めて、こういう「新解釈」が出てくるのも不自然だ。『沖縄ノート』の原文には

人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。(強調は引用者)

と書かれているが、この「つぐなう」という他動詞の目的語は何だろうか。これが国語の試験に出たら、「巨きい罪」をつぐなうのが正解とされるだろう。「罪の巨塊」を「かれ」のことだと解釈するのは「文法的にムリです」と大江氏はいうが、赤松大尉が自分の犯した「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで・・・」という表現は文法的にも意味的にも成り立つ。というか、だれもがそう読むだろう。では大江氏のいうとおり「罪の巨塊」=「死体」と置き換えると、この文はどうなるだろうか:

人間としてそれをつぐなうには、あまりも巨きい死体のまえで・・・

 これが「文法的にムリ」であることは明らかだろう。「死体をつぐなう」という日本語はないからだ。さらにcorpus delictiは、彼もいうように警察用語で「他殺体」のことだから、この文は正確には「あまりも巨きい他殺体のまえで・・・」ということになる。その殺人犯はだれだろうか。井沢氏は「自殺した人に罪がある」と解釈しているが、これは無理がある。   Websterによれば、corpus delictiは"body of the victim of a murder"と他殺の場合に限られるから、犯人は「なんとか正気で生き延びたい」とねがう「かれ」以外にない。つまり大江氏自身の解釈に従えば、彼は(自殺を命じることによって)赤松大尉が住民を殺したと示唆しているのだ。事実、大江氏はこの記述に続いて、「かれ」を屠殺者などと罵倒している。

 このように、どう解釈しても「かれ」は赤松大尉以外ではありえない。それが特定の個人をさしたものではなく「日本軍のタテの構造」の意味だという大江氏の言い訳(これも今度初めて出てきた)こそ、文法的にムリである。屠殺者というのは、明らかに個人をさす表現だ。単なる伝聞にもとづいて個人を殺人者呼ばわりし、しかもそれが事実ではないことが判明すると、謝罪もしないでこんな支離滅裂な嘘をつく作家に良心はあるのだろうか。こういうことを続けていると、彼は(大したことのない)文学的功績よりも、この恥ずべき文学的犯罪によって後世に記憶されることになろう。

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