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「「徳育不要論」では日本が傾く」(京都大学名誉教授・市村真一)はでたらめだ

 12月12日の『産経』【正論】に、「「徳育不要論」では日本が傾く」(京都大学名誉教授・市村真一)という文章があった。
 
 京大名誉教授ともあろう学者が、こんな根拠の薄い夢物語を本気で主張している。
 
 氏は、家庭崩壊に、40数年前に気づいたという。それは、母親たちが、放任主義で子育てをしていることを聞いたことがきっかけだという。学校は、しつけができていない子供が多いことに、困っていると不平を述べていたという。
 
 言うまでもなく、子育てにおける放任主義が広まったのは、アメリカ流の自由主義的子育て・教育論が、採用されてきたせいである。それに対して、戦前の教育政策は、ドイツなどのヨーロッパ系統から学んだ部分が大きく、規範主義的傾向が強かった。それは、「教育勅語」を見れば、誰にもわかる。
 
 戦後教育の基本である自由主義的教育を示す放任主義によって育てられた子供が今や母親であり、その子供が生徒になっている。その帰結が、犯罪・反道徳行為の蔓延であると言いたいようだ。「要するに、放任主義では、良い子は育たない」と氏は結論する。
 
 そして、「家庭にとってまず大切なのは、そこに親、とくに母親の愛情があふれ注がれていることである」という。この場合、父親と母親と子供からなる近代的核家族が基本モデルを想定していることに、早くも、氏の議論の空想性・イデオロギー性が示されていることに注意が必要である。このような自らの「信仰」「信念」「価値判断」を不問に付したまま進められる議論には、うっかり乗るわけにはいかないのである。
 
 この場合、親の親たる祖父母、かつてなら近所に住んでいる親戚や親族の類の存在が、捨象されている。友人や隣近所の存在も捨象されている。学者やマスコミや行政などが、様々な形で、子育て論を注入していることも捨象されている。
 
 そしてできあがった孤立した父母子からなる家庭での母親と子供の一対一の親子関係だけが、取り出されているわけだ。兄弟姉妹の存在も、ペット・動物の存在とそれらとの関わり合いも、子供の情操形成に影響を与える。その影響関係のすべてを掌握しコントロールすることなど不可能であり、したがって、子供の情操教育の責任を基本的に母親に押しつけるような氏の議論には、リアリティがあまりない。
 
 そして氏は、「子供の発育には、この数年が決定的に重要なのである。最近の脳科学は、人間の脳細胞の9割が、この期間に育成され、『愛は脳を活性化する』(松本元著)ことを明らかにした。この時期の子供に、親が言葉と行儀作法などを教えるのがしつけである。1歳から3歳児の驚くべき能力に注目したのが井深大ソニー元会長で、氏は『幼稚園では遅すぎる-人生は三歳までにつくられる』(サンマーク文庫)などの著書によって、世を啓発された」と言う。
 
 脳細胞の9割がこの期間に育成されることは、しつけ、そして情操も、社会的産物であり、社会関係的に形成されるということからして、それらを決定づけることを意味しない。脳細胞が、しつけとどういう関係があるのかが明らかではないし、脳科学は、生物学的な現象を説明するが、しつけや道徳などの社会現象を適切に説明しうるものではない。精神分析学は、この時期に対して、思春期を経るなかでの社会性の獲得の後発性ということを明らかにしており、それはおおむね、われわれの経験を適切に説明している。
 
 大体、精神分析学では、授乳期までの子供は、自他の区別もなく、快不快の感覚にしたがって認識を形成していて、離乳期後に徐々に自他の区別をつけていくとされている。そして、社会性が形成されると、それらの時期の記憶は、深層にしまいこまれてしまう。しつけや道徳や情操などは、主に、後者の時期に形成されるのであって、現に、いわゆる部族社会においても、そうした意味での大人の仲間入り(成人式)のような儀式は、10代前半に行われることが多い。それに対して、教育期間が長くなった近代社会の場合は、成人の時期が伸ばされている。それだけ、身につけるべき社会性の中味が複雑化し、増加しているということである。
 
 それに対して、経済人の間で、教育期間の短縮化を求める要求が昔からあるわけで、ソニーの伊深大元ソニー会長などが『幼稚園では遅すぎる-人生は三歳までにつくられる』などと言うのは、その類である。最近では、高校を飛ばして大学生に飛び級した天才児などの話題を聞くことがあるが、大学生の中に混じった天才少年の様子は明らかに子供であり、社会性を欠いている。
 
 しかし、氏は、「この時期こそ、子供が情緒や感受性を習得する大切な時である。子供に絵本を与え、おもちゃで遊ばせ、おとぎ話を話して聞かせ、子守歌を歌って寝かせ、やさしい音楽を聴かせ、庭や公園で花の色や香りを楽しみ、そして少しずつ挨拶(あいさつ)や感謝の言葉を教える。子供の情緒は次第に豊かに、親子の愛情も深まる。かくして子供の心の中に芽生える親、特に母親への敬愛の情こそ人間の情緒の根幹である」という幻想を開陳する。
 
 これは私の幼少時の経験とはかけ離れたお話であり、こんな幼少期を過ごした人がいるのかどうかわからないが、少なくとも私の周りには見あたらない。私の幼少期には、兄弟がおり、母親は内職の仕事をしており、祖母にも面倒を見てもらったはずである。おもちゃは、兄弟姉妹や近所の友だちと一緒に遊ぶもので、自分だけのものではなかった。子守歌など歌ってもらったことはなく、庭や公園には、犬のうんこなどがあり、くみ取り式のトイレは、臭っており、庭に棄ててある生ゴミも悪臭を放ち、ゴミ焚きの煙の臭いが時に鼻につく、・・・。もちろん、絵本やおもちゃは、空想を育み、未知の世界への興味をかき立てた。しつけは、昔は、言うことを聞かないと鬼に連れて行かれるとか、近所の怖いおじさんに言いつけるとか、叩かれたり、表に出されたり、押入に閉じこめられたりと、脅かしや恐怖を植え付けたり、暴力的なものであることが多かった。もっとも、我が家は、どちらかというと放任主義的であり、周りの人にそうした話を聞くことが多かったのである。しかし、いずれにしても、私にしても周りの人たちにしても、とくに不道徳ではない。
 
 氏の言う愛情あふれた母親への敬愛の情など、寝言としか思えない。フロイトは、幼児期の母親との幻想的な性的関係の存在を指摘し、それが子供の情緒形成に大きな役割を果たしていることを指摘したのであるが、氏のお話では、3歳ぐらいの幼児に、敬愛などという高度な情愛関係が成立するということになるわけで、あまりにも現実離れしている。しつけを重視するにしても、こんな空想話では、役に立たないだろう。
 
 西洋においては、しつけなどの規範形成の際に、重視されているのは、子どもたちを大人の規範に従わせる際の抑圧的・命令的・禁止的な存在を象徴する父の役割である。それに対して、氏は、母親の役割を基本にしている。このあたり、西洋と東洋の文化的違いが現れているようでもあり、父権制と母権制の違いを反映しているようでもある。

 その上で、氏は、改正教育基本法で、徳育をうたったことを評価し、学校での道徳教育の充実のための方策として、戦前の修身教育同様、教科書で、おとぎ話などの道徳話を読ませることを提案する。
 
 例えば、「狼少年の話で正直を、蟻とキリギリスの話で勤勉を教えるなど」と氏は言う。そして、道徳教科書には、「幸い既に、日本にも外国にも子供が道徳をやさしく学ぶにふさわしい寓話(ぐうわ)や童話や教訓話は多い。イソップ物語、グリム童話集、アンデルセン物語、幼學綱要などなど。最近鳥居泰彦前中教審会長より頂いた福沢諭吉の『童蒙おしえ草・ひびのおしえ』も名著で「石をなげる少年とかえる」の話に始まる。それらをうまく取捨選択すればよい」という。
 
 これらのほとんどは、道徳的内容に書き換えられているものばかりで、原作とはずいぶん違うものが多い。つまり、氏があげているのは、道徳教科書的に既に原作を改作された寓話や童話や教訓話なのである。原作が出版されている場合も多く、大きな図書館なら大抵読むことができるし、インターネットの時代であり、子どもたちは早い時期から、ネットで様々な情報を入手できる。家庭と学校を往復して、その世界の中に閉じこもって、閉鎖的な情報に接している時代ではないのである。それに、原作の改ざん行為にも、倫理的・道徳的問題がある。
 
 現代的な道徳や規範の内容や形成の仕方というのは、そうした社会的環境の多様で複雑な情報世界との関係で規定されている。厳として共同体があり、その共同生活の中で作られた寓話や童話や教訓話が、そのまま現在に通用するというものではないのである。それらは共同体自体の存在のために作られたものなのである。
 
 共同体が解体している今、一体、なんのために、そんな寓話や童話や教訓話を、リアリティを持って受け入れねばならないのか、それがわからなければ、それらはたんなる物語にすぎず、道徳を形成できないだろう。一体、その理想や目的はなんなのか? それらが明らかにならなければ、それは、単なる説教に終わるだろう。形骸化した道徳話の説教は、反発を生むだけだろう。道徳を身につけることは、どのような幸福をもたらすのか? 氏の文章からは、そんなことは何一つわからない。
 
 氏は、道徳についても、人間についても、考えが貧弱だ。そして何よりの欠点は、社会について考える力がないということだ。氏は、社会認識が貧弱なまま、道徳論という社会問題について主張するという無茶をやっている。個人と家庭(近代的核家族)、国家(教育)という空想的枠組みから、道徳論を立てているから、どうしても、氏の主張自身が、おとぎ話になるのであり、それは政策化されれば、社会内実と矛盾・衝突せざるを得ないことになり、最終的には徳目の国家的強制に帰着せざるを得なくなる。社会から見て、有害かつ危険な考えである。

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