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2007年12月

「「徳育不要論」では日本が傾く」(京都大学名誉教授・市村真一)はでたらめだ

 12月12日の『産経』【正論】に、「「徳育不要論」では日本が傾く」(京都大学名誉教授・市村真一)という文章があった。
 
 京大名誉教授ともあろう学者が、こんな根拠の薄い夢物語を本気で主張している。
 
 氏は、家庭崩壊に、40数年前に気づいたという。それは、母親たちが、放任主義で子育てをしていることを聞いたことがきっかけだという。学校は、しつけができていない子供が多いことに、困っていると不平を述べていたという。
 
 言うまでもなく、子育てにおける放任主義が広まったのは、アメリカ流の自由主義的子育て・教育論が、採用されてきたせいである。それに対して、戦前の教育政策は、ドイツなどのヨーロッパ系統から学んだ部分が大きく、規範主義的傾向が強かった。それは、「教育勅語」を見れば、誰にもわかる。
 
 戦後教育の基本である自由主義的教育を示す放任主義によって育てられた子供が今や母親であり、その子供が生徒になっている。その帰結が、犯罪・反道徳行為の蔓延であると言いたいようだ。「要するに、放任主義では、良い子は育たない」と氏は結論する。
 
 そして、「家庭にとってまず大切なのは、そこに親、とくに母親の愛情があふれ注がれていることである」という。この場合、父親と母親と子供からなる近代的核家族が基本モデルを想定していることに、早くも、氏の議論の空想性・イデオロギー性が示されていることに注意が必要である。このような自らの「信仰」「信念」「価値判断」を不問に付したまま進められる議論には、うっかり乗るわけにはいかないのである。
 
 この場合、親の親たる祖父母、かつてなら近所に住んでいる親戚や親族の類の存在が、捨象されている。友人や隣近所の存在も捨象されている。学者やマスコミや行政などが、様々な形で、子育て論を注入していることも捨象されている。
 
 そしてできあがった孤立した父母子からなる家庭での母親と子供の一対一の親子関係だけが、取り出されているわけだ。兄弟姉妹の存在も、ペット・動物の存在とそれらとの関わり合いも、子供の情操形成に影響を与える。その影響関係のすべてを掌握しコントロールすることなど不可能であり、したがって、子供の情操教育の責任を基本的に母親に押しつけるような氏の議論には、リアリティがあまりない。
 
 そして氏は、「子供の発育には、この数年が決定的に重要なのである。最近の脳科学は、人間の脳細胞の9割が、この期間に育成され、『愛は脳を活性化する』(松本元著)ことを明らかにした。この時期の子供に、親が言葉と行儀作法などを教えるのがしつけである。1歳から3歳児の驚くべき能力に注目したのが井深大ソニー元会長で、氏は『幼稚園では遅すぎる-人生は三歳までにつくられる』(サンマーク文庫)などの著書によって、世を啓発された」と言う。
 
 脳細胞の9割がこの期間に育成されることは、しつけ、そして情操も、社会的産物であり、社会関係的に形成されるということからして、それらを決定づけることを意味しない。脳細胞が、しつけとどういう関係があるのかが明らかではないし、脳科学は、生物学的な現象を説明するが、しつけや道徳などの社会現象を適切に説明しうるものではない。精神分析学は、この時期に対して、思春期を経るなかでの社会性の獲得の後発性ということを明らかにしており、それはおおむね、われわれの経験を適切に説明している。
 
 大体、精神分析学では、授乳期までの子供は、自他の区別もなく、快不快の感覚にしたがって認識を形成していて、離乳期後に徐々に自他の区別をつけていくとされている。そして、社会性が形成されると、それらの時期の記憶は、深層にしまいこまれてしまう。しつけや道徳や情操などは、主に、後者の時期に形成されるのであって、現に、いわゆる部族社会においても、そうした意味での大人の仲間入り(成人式)のような儀式は、10代前半に行われることが多い。それに対して、教育期間が長くなった近代社会の場合は、成人の時期が伸ばされている。それだけ、身につけるべき社会性の中味が複雑化し、増加しているということである。
 
 それに対して、経済人の間で、教育期間の短縮化を求める要求が昔からあるわけで、ソニーの伊深大元ソニー会長などが『幼稚園では遅すぎる-人生は三歳までにつくられる』などと言うのは、その類である。最近では、高校を飛ばして大学生に飛び級した天才児などの話題を聞くことがあるが、大学生の中に混じった天才少年の様子は明らかに子供であり、社会性を欠いている。
 
 しかし、氏は、「この時期こそ、子供が情緒や感受性を習得する大切な時である。子供に絵本を与え、おもちゃで遊ばせ、おとぎ話を話して聞かせ、子守歌を歌って寝かせ、やさしい音楽を聴かせ、庭や公園で花の色や香りを楽しみ、そして少しずつ挨拶(あいさつ)や感謝の言葉を教える。子供の情緒は次第に豊かに、親子の愛情も深まる。かくして子供の心の中に芽生える親、特に母親への敬愛の情こそ人間の情緒の根幹である」という幻想を開陳する。
 
 これは私の幼少時の経験とはかけ離れたお話であり、こんな幼少期を過ごした人がいるのかどうかわからないが、少なくとも私の周りには見あたらない。私の幼少期には、兄弟がおり、母親は内職の仕事をしており、祖母にも面倒を見てもらったはずである。おもちゃは、兄弟姉妹や近所の友だちと一緒に遊ぶもので、自分だけのものではなかった。子守歌など歌ってもらったことはなく、庭や公園には、犬のうんこなどがあり、くみ取り式のトイレは、臭っており、庭に棄ててある生ゴミも悪臭を放ち、ゴミ焚きの煙の臭いが時に鼻につく、・・・。もちろん、絵本やおもちゃは、空想を育み、未知の世界への興味をかき立てた。しつけは、昔は、言うことを聞かないと鬼に連れて行かれるとか、近所の怖いおじさんに言いつけるとか、叩かれたり、表に出されたり、押入に閉じこめられたりと、脅かしや恐怖を植え付けたり、暴力的なものであることが多かった。もっとも、我が家は、どちらかというと放任主義的であり、周りの人にそうした話を聞くことが多かったのである。しかし、いずれにしても、私にしても周りの人たちにしても、とくに不道徳ではない。
 
 氏の言う愛情あふれた母親への敬愛の情など、寝言としか思えない。フロイトは、幼児期の母親との幻想的な性的関係の存在を指摘し、それが子供の情緒形成に大きな役割を果たしていることを指摘したのであるが、氏のお話では、3歳ぐらいの幼児に、敬愛などという高度な情愛関係が成立するということになるわけで、あまりにも現実離れしている。しつけを重視するにしても、こんな空想話では、役に立たないだろう。
 
 西洋においては、しつけなどの規範形成の際に、重視されているのは、子どもたちを大人の規範に従わせる際の抑圧的・命令的・禁止的な存在を象徴する父の役割である。それに対して、氏は、母親の役割を基本にしている。このあたり、西洋と東洋の文化的違いが現れているようでもあり、父権制と母権制の違いを反映しているようでもある。

 その上で、氏は、改正教育基本法で、徳育をうたったことを評価し、学校での道徳教育の充実のための方策として、戦前の修身教育同様、教科書で、おとぎ話などの道徳話を読ませることを提案する。
 
 例えば、「狼少年の話で正直を、蟻とキリギリスの話で勤勉を教えるなど」と氏は言う。そして、道徳教科書には、「幸い既に、日本にも外国にも子供が道徳をやさしく学ぶにふさわしい寓話(ぐうわ)や童話や教訓話は多い。イソップ物語、グリム童話集、アンデルセン物語、幼學綱要などなど。最近鳥居泰彦前中教審会長より頂いた福沢諭吉の『童蒙おしえ草・ひびのおしえ』も名著で「石をなげる少年とかえる」の話に始まる。それらをうまく取捨選択すればよい」という。
 
 これらのほとんどは、道徳的内容に書き換えられているものばかりで、原作とはずいぶん違うものが多い。つまり、氏があげているのは、道徳教科書的に既に原作を改作された寓話や童話や教訓話なのである。原作が出版されている場合も多く、大きな図書館なら大抵読むことができるし、インターネットの時代であり、子どもたちは早い時期から、ネットで様々な情報を入手できる。家庭と学校を往復して、その世界の中に閉じこもって、閉鎖的な情報に接している時代ではないのである。それに、原作の改ざん行為にも、倫理的・道徳的問題がある。
 
 現代的な道徳や規範の内容や形成の仕方というのは、そうした社会的環境の多様で複雑な情報世界との関係で規定されている。厳として共同体があり、その共同生活の中で作られた寓話や童話や教訓話が、そのまま現在に通用するというものではないのである。それらは共同体自体の存在のために作られたものなのである。
 
 共同体が解体している今、一体、なんのために、そんな寓話や童話や教訓話を、リアリティを持って受け入れねばならないのか、それがわからなければ、それらはたんなる物語にすぎず、道徳を形成できないだろう。一体、その理想や目的はなんなのか? それらが明らかにならなければ、それは、単なる説教に終わるだろう。形骸化した道徳話の説教は、反発を生むだけだろう。道徳を身につけることは、どのような幸福をもたらすのか? 氏の文章からは、そんなことは何一つわからない。
 
 氏は、道徳についても、人間についても、考えが貧弱だ。そして何よりの欠点は、社会について考える力がないということだ。氏は、社会認識が貧弱なまま、道徳論という社会問題について主張するという無茶をやっている。個人と家庭(近代的核家族)、国家(教育)という空想的枠組みから、道徳論を立てているから、どうしても、氏の主張自身が、おとぎ話になるのであり、それは政策化されれば、社会内実と矛盾・衝突せざるを得ないことになり、最終的には徳目の国家的強制に帰着せざるを得なくなる。社会から見て、有害かつ危険な考えである。

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モラルはまず『読売』から始めよではないか

 『読売』社説は、教育再生会議の提言、とくに、道徳教育の充実を訴えている。

 『読売』社説は、何度も、同じことを繰り返しているが、道徳論がまったく欠けており、自明のこととしてそれについて考えようとしていない。

 まず、社説は、「凶悪犯罪の低年齢化、モラルの低下を見れば、誰も道徳教育の拡充に異論はないはずである」という印象論から、こともなげに、道徳教育の拡充は当然だと言う。さすがに、一時のように、少年犯罪の増加という虚構は主張しずらくなったのだろうが、凶悪犯罪の低年齢化というこれも根拠のはっきりしないようなこと、それから、対象のはっきりしないモラルの低下一般を指摘している。この間、モラルの低下が著しいのは、大人の方であり、義務教育の対象である児童・生徒の方ではない。大人のモラル低下について、連日、報道している『読売』が、それを知らないはずはない。まずは大人の側のモラルを正さないと、モラルを教えられた子どもたちから、厳しい目を向けられるし、大人不信ひいては社会不信までを生み出すことだろう。
 
 例えば、嘘をついてはいけないと教えられ、それを身につけた子どもたちは、この間、嘘や誤魔化し、偽装に、詐欺犯罪に手を染める大人たちの姿をどう評価するだろうか? そうした世代が、『読売』の新入社員として入ってきた時、『読売』の上層部の人たちは、どうするのか? この社説は、そんな恐れも不安も感じていないらしい書きぶりであるが、60年代末の青年たちの大人への反抗には、大人たちの欺瞞に対する怒りが含まれていたことは明らかではないだろうか?
 
 まず、教育再生会議からは、ヤンキー先生のように、任期をまっとうすることなく、参議院議員に転身したモラルの怪しい人物がいたこともあり、自らのモラルの程度を反省してみる必要がありそうだ。それに、教育再生会議を立ち上げた安部首相は、国会冒頭、所信演説を終えた直後に辞任するというモラル的にどうかと思われるやり方で、首相辞任したわけだが、後ろ盾を失った教育再生会議の重みは、明らかに低下している。
 
 それに対して、福田首相が、どういう教育方針があるのかがよくわからないし、教育政策への熱意も感じられないわけで、それを反映しているのかどうかわからないが、この社説も、以前ほどの熱が感じられない。
 
 教育に対する競争の導入については、競争がもたらすモラル破壊に対して、この社説は危惧の念をあまり持ってないようだ。せいぜい、「過度の競争に陥る恐れがないか、冷静に見極める必要がある」と指摘している程度だ。「勝てば官軍」とばかりに、結果=成果がすべてで、法律やモラルをかいくぐって、競争に勝てばよいという風潮が広まったのには、競争主義を礼賛した政府与党や学者やマスコミのキャンペーンも一役買ったのではないだろうか?
 
 いずれにせよ、教育と競争主義の間には、予定調和は成立しないのであり、政治がそれらの関係を調整するしかないのである。その時、政治に必要なことは、社会性の水準と内容を適切に判断するということである。
 
 教育再生会議 提言を教育の充実に生かせ(12月26日付・読売社説)

 やはり道徳教育の充実は欠かせない。首相直属の教育再生会議が第3次報告をまとめた。

 近く改定される新学習指導要領や、改正教育基本法で策定が義務づけられた教育振興基本計画に、こうした内容を生かしたい。

 再生会議は道徳教育について、第2次報告に続き、「徳育」を教科にするよう改めて求めた。点数による評価はせず、専門の免許も設けない。小中学校とも学級担任が担当するという。

 文部科学相の諮問機関、中央教育審議会がまとめた答申案では、道徳教育充実を求めたが、中間報告にあった「引き続き検討する必要がある」との表現は削除され、教科化は見送る方針だ。

 正式な教科は通常、専門の免許を持つ教員が検定教科書を使い数値で評価するが、道徳での検定教科書や数値評価の導入には慎重な意見が多かったからだ。

 再生会議の報告は、中教審の答申案とズレがみられるが、「徳育の教科化」はあくまで道徳教育充実への強いメッセージと受け止めるべきだろう。

 凶悪犯罪の低年齢化、モラルの低下を見れば、誰も道徳教育の拡充に異論はないはずである。政府内で意見調整を図る必要がある。

 どんな教材を使うのか。再生会議では、ふるさと、日本・世界の偉人伝、古典・物語を通じて他人や自然を尊び、芸術や文化、スポーツから得られる感動を重視したものとしている。

 若い世代に受け入れられやすいスポーツや映画などを題材にしたものも、工夫次第で十分、教材になるだろう。

 競争原理の導入をうたった「教育バウチャー(クーポン券)」制は見送られたが、「学校の成果主義」とも言うべき考え方は、報告に残された。学校選択制と児童・生徒数に応じた予算配分を併用し、学校の質を高める仕組みだ。モデル事業として実施するという。

 過度の競争に陥る恐れがないか、冷静に見極める必要がある。

 再生会議では、国際学力調査の結果、理数系の応用力の低下が判明したことから、小学校高学年に理科専科教員の配置などを進めることも提案した。

 来年度予算案では、教員定数の1000人純増や非常勤講師7000人の採用が認められている。行政改革推進法で、教職員の定数は児童・生徒の減少に応じ、削減することが定められている中での異例の措置である。

 国の将来を考えれば、教育への投資は怠れないという判断だろう。その一部を理科教員に充てることを検討してもよいのではないか。

(2007年12月26日1時47分  読売新聞)

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「格差社会」解消が、希望である

 Ohmynewsに辛島氏の「赤木智宏さんの論文読みました」という記事があった。

 内容は、事業を起こすために、脱サラしたが、事業が軌道に乗らず、派遣で単純労働している辛島氏が、フリーターとして長年働く中で、「希望は戦争」と主張するに至った赤木智宏さんの論文を読んでの感想である。
 
 自身が派遣労働を体験することで、赤木氏の論文の趣旨に大枠賛同したという辛島氏は、しかし、二児の父親である自分は、戦争には賛成できないという。その点が、赤木氏と違うというのである。
 
 そして、氏は、「派遣の現場にいると、閉塞感を覚え、混沌した社会状況の只中にいることを実感する。工場で、倉庫内で働くだけでは、平和な家庭が築けないからだ。結婚して、子供を育てるための充分な収入を得ることができないからだ」と言いつつ、「それでも私は、より良い制度の実現を期待しながら、戦争のない現状の世界で働くことを望みたい。派遣で働く道しかないとしてもだ」と述べる。
 
 氏は、より良い制度は、期待するだけの夢であり、戦争のない現状の世界のまま働くことを望むという。このような現状肯定の意識を支えているのは、「希望をもつことができないとしても、「負けたわけじゃない」と考える。勝ったわけでもないが、一市民として働いて、何とか生活していけると考える。幸いなことに家族があり、友人がいる。不満は尽きないが、まだ負けてない。この文言でひと息つける」というものである。

 辛島氏は、勝ってはいないが、「負けたわけじゃない」という考えること、働けば、何とか生活していけると考えることで、希望をつないでいる。しかし、重い病気にかかるとか大けがをすれば、希望は、簡単に絶望に転落する。そういう可能性を考えないでいる限りで、氏の希望はかろうじて存在しうるものにすぎない。
 
 氏は、「何に負けていないかは、自分に問わない。得体のしれない何かと、確かに闘っている。この先、勝つことはないかもしれないが、とにかく、まだ負けていない、と呟く」ことで何とか希望をつなごうとしている。若い頃に、キリスト教的終末思想を信じたことのある氏は、そこに回帰することを拒否するのに精一杯のようである。
 
 問題は、言うまでもなく、氏が闘っている「得体のしれない何か」である。それは、現実社会の仕組みであり、諸関係のことだろう。つまりは、「格差社会」化を動かない現実として再生産しているところの構造と力である。それが、個人の思念や希望や生活や考えを強く規制していて、それに対して個人で闘うことの無理を感じさせるのである。
 
 恐らく、多くの人が、格差社会を望んでいないが、それにもかかわらず、その方向に個人を向かわせている力があるということだ。「格差社会」の階層間対立、正社員対非正規雇用者の対立と戦争という赤木氏の考えは、「格差社会」の一現象を取り出したものにすぎない。ただ、それに、貧者や下層の絶望感を解消し、希望として見えてくるという終末思想への感染と似た意識の在り方が示されているのは確かであり、辛島氏は、その点に、強く惹かれつつ、拒否しようとしている。しかし、派遣の現実を耐えることを可能にしている氏の事業成功という希望が潰えた時、どうなるかはわからない。氏自身が、そうした不安を抱いているのではないだろうか。そんな印象を受ける。
 
 正規雇用者たちが、非正規雇用者の問題に無関心であることは確かであり、その点で、「連合」労働運動の取り組みが不十分であった。それが、赤木氏を、正規雇用者対非正規雇用者の間の戦争という階層流動化に希望を抱かせる方向に追いやる一因になったように思われる。辛島氏は、正社員であった頃、非正規雇用者の存在に無関心であったことを反省しているが、大方の正社員の非正規雇用者への見方は、そんなところだろう。大都市部では、景気拡大にともなって、一部で、人手不足が起きているが、雇用の中味は、非正規雇用が多く、格差社会は、固定化したままである。それが、景気が上向きだったにも関わらず、閉塞感が広まっている原因だろう。物価上昇は、それに追い打ちをかけ、さらに政府自民党に対する不満も、それにともなって、強まりつつある。
 
 そんな庶民の苦しい生活状態に対して、企業が消費者を騙して利益を上げているというニュースが連日流れ、それは当然、人々の神経を逆なでし、不満を増大させている。現状のままでただ「負けてはいない」と考えるだけで、満足して働いていこうというような考えは、力を失っていくだろう。政治の変化、社会の変化、現状の変更を求める人々の考えが、広まって行かざるをえない。「得体のしれない何か」の正体を明らかにして、その人々の欲求や理想を明らかにして、それを実現していくことが、必要である。

赤木智宏さんの論文読みました

「まだ負けたわけじゃない」と呟いている辛島武雄(2007-12-28 21:00)    
 私は、希望をもつことができない。派遣社員として働いて生活したこの2年間の実感だ。

 知人の仕事を手伝う目的で、約20年間勤めた会社を辞めたが、うまく軌道に乗せることができないため、収入を得る目的で一時的に派遣に登録し、働いた。それまで派遣の存在は知っていたが、その実態はまったく知らなかった。何故これほど、経済的に不安定な状況の中で働かされ、追いつめられていかなければならないのか。

 サラリーマンの時、通勤途中の車窓から見た倉庫群の1画で、営業に行った隣のビルで、日々、身体と精神を消耗させながら黙々と働く人達がいることに気付くことはなかった。認識はしていたが、私には関係がなかった。それぞれの職業だと思っていた。私が専門職を選んだように、彼らは倉庫作業を自ら選んでいるのだろう、ぐらいの理解でしかなかった。

赤木論文に揺さぶられる

 赤木智宏さんの存在を、12月16日付のオーマイニュースの記事で初めて知った私は、その『論座』(2007年1月号、朝日新聞社)に掲載された論文「『丸山眞男』ひっぱたきたい。31歳フリーター。希望は戦争」を読んで、大筋で賛同した。派遣の現状を体験した私は、赤木さんの展開する論旨に揺さぶられた。

 私は、派遣の立場で単純労働の仕事を、この先一生続けていかなければならないとしたら、とても希望をもつことができない。現段階では、経済的に不安定な状況に置かれているものの、一方で、実現の可能性はどうであれ、事業としての成功を目指す本業を持っているという希望(野望)があるからこそ、身体的にツライ派遣の仕事を一時的に続けることができる。

 その本業が挫折したら、50歳を超えた私は年齢的、能力的にも再就職は難しいだろう。赤木さんの論調では、過去に正社員として凡庸な生活を得るという恩恵を受けた私は、リストラ対象者と同様、同情に値しない存在でもある。正社員を経験していない、不幸な赤木さんたちに比べれば、一時的にせよ、安定した収入を得、結婚して家庭を持ち、人並みと思われる生活を体験することができたからだ。

 そのため、赤木さんが挙げる、人間としての尊厳を獲得できる環境が与えられた多数派に属する1人だろう。

 戦争を希望する親はいない

 赤木さんは、正規雇用層と不正規雇用層とが簡便に入れ替わることのできる状況が創出される戦争を希望し、社会の流動性を高めたいと主張する。だが、2人の子供を持つ親としては、戦争は容認できない。我が子が死ぬかもしれない戦争を希望する親はいないだろう。

 でも過去の私はどうだったのかと振り返ると、赤木さんと変わらない自分がいたことに気づく。20代後半まで、今でいうフリーターをしていた私は、当時ブームになった、『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」に記された部分を、世界の終末戦争とする解釈が、実現するのを真剣に期待した。

 若さゆえの夢に浮かれ、それに破れた私は、現実の世界に対して、将来に対して、絶望していた。その手の本を読みあさり、『聖書』を買い、世の終わりを検証しようとした。世界の終わりを望み、新たな救世主が現れ、懸命に働くことで、平等で平和な世界が構築されると妄想した。現実を受け入れることを拒み、自身が救われるために、世界が1度、滅ぶことを願った。

 赤木さんほどの整然とした論理は持ち合わせていなかったが、社会の中で居場所のないフリーターとしての悲哀を体感した結果、そうした社会への報復の念によって、世界の破滅を希望した点で、大きく差異はないと考える。

 でも今、私は戦争を望まない。今後、本業の事業化に失敗し、派遣の仕事を続けなければならない状況になったとしてもだ。格差社会が是正されず、貧困層に分類されたとしても、現実の世界の中で、働くことでしか私の生活は成り立たない。ただ単に、戦争を想定することができないと言い換えた方が正確なのかもしれない。

 赤木さんの掲げる戦争は、正社員と非正規社員との間で行われる階層間の戦いの延長線上にあるとされる。その過程で、正社員の平和な家庭が破壊され、貧困層が新たなチャンスを掴むことができるという発想だ。

 彼らは現状で幸せな生活を送る人達が、不幸になることを望んでいる。替わってその地位を獲得することでしか、自身が幸せになれる手段がないと言い切る。それほど切羽詰った状態にあるということを、どれほどの正社員が気付いているだろうか。

 コネクションを使えば、有利に就職活動を行えるのは今も昔も変わらない。コネのないフリーター当時の私は、零細を含め数十社の会社を回り、就職活動した。その結果、20人規模の会社ではあるが、正社員になれた。

 前記したように、何とか人並みの暮らしができた。当時は、派遣法が整備されていなかったため、正社員雇用がごく普通であった。しかし、大手企業の場合、中途採用は皆無だったと記憶している。新卒時に就職しない場合、全うな暮らしからのドロップアウトをも意味した。

 それでも当時は、私のような中途半端な存在の人間が社会の1員として、潜り込める余地があったということだろう。それを、「ゆとり」と表現するか、整備過程にある「不備な部分」とするかについては、現状の硬直化しつつある格差社会を基点として振り返ると、答えは明らかだ。

 安定した社会は、不安定な階層を溶出している

 安定支配層は、自身の地位をより強固にする目的のためだけに腐心する。それが世界の牽引力になる。利益配分はそれに参加した人間に対して、その貢献度によって決められ、支払われる。

 20年間は、私も貢献したと思われる対価を当然のように受け取った。正社員であった過去と比較すると、派遣社員の待遇の差に戸惑う。率直な話、かつての場所にもう1度戻りたいと、切実に願うこともある。

 1000円に満たない時給は、人としての誇りを見失ってしまいかねない金額だ。単純作業であったとしも、その労働に見合った対価ではあり得ないことを訴えたい。

 世界が目指す安定した社会は、一方で不安定な階層を溶出している。誰もが幸せになる道を、我々は選んでいない。多数派ではあるが、平和な家庭の数には制限がある。それを支えるための敷石となり、土台となるための貧しい人達の存在が不可欠となる。

 個人がその能力によって仕事をしていると前提すると、誰もがそのポジションで幸せになるべきだと思う。不安定な社会の中では、精神的余裕が失われ、平和な家庭の維持が難しくなる。正社員もまた、リストラの脅威の中、不安定な精神状態にあるともいえよう。

 派遣の現場にいると、閉塞感を覚え、混沌した社会状況の只中にいることを実感する。工場で、倉庫内で働くだけでは、平和な家庭が築けないからだ。結婚して、子供を育てるための充分な収入を得ることができないからだ。

 派遣で働く道しかないとしても

 それでも私は、より良い制度の実現を期待しながら、戦争のない現状の世界で働くことを望みたい。派遣で働く道しかないとしてもだ。

 希望をもつことができないとしても、「負けたわけじゃない」と考える。勝ったわけでもないが、一市民として働いて、何とか生活していけると考える。幸いなことに家族があり、友人がいる。不満は尽きないが、まだ負けてない。この文言でひと息つける。

 何に負けていないかは、自分に問わない。得体のしれない何かと、確かに闘っている。この先、勝つことはないかもしれないが、とにかく、まだ負けていない、と呟く。

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政治の復権を

 連日、官僚・政治家・資本家の腐敗・堕落ぶりを示すニュース聞かない日はない。この国の上層は、完全に腐りきっており、道を失っている。

 ひどいことに、それを連日取り上げているメディアの世界まだ腐敗が進んでいるということである。

 道徳は、ごく大雑把に言えば、人類にほぼ共通するものとそうでないものとがあるが、前者は、数が限られており、至極単純である。それにもかかわらず、その単純なこと守れない者が上層に大量に存在してるのである。これは、ひとつの時代の終わりを示しているものと考えざるを得ない。すなわち、中産階級が国民経済を建設していく過程で果たした進歩的な役割には、新道徳の建設ということが含まれていたのであるが、それが、もはや進歩的ではなくなったのである。ちょうど、封建時代末期に、封建支配層が腐敗していったように、近代社会の上層は、末期症状にあることを、自らの腐敗という形で、表しているのである。

 ところが、他方では、街頭、職場、学校、家庭その他の多くの社会の場、あるいは社会集団は、一定の規律・道徳にしたがっているように見える。もちろん、家庭内暴力や通り魔殺人事件など、それらの社会の場において、社会性を破壊する犯罪があるのは事実だ。しかし、そのことは、全体の秩序・構造を繁華せしめるようなインパクトは与えていない。

 しかし、社会構造が、比較的安定しているということは、社会の激変がないということを意味しない。したがって、実際問題としては、社会性を実現する政治が必要であり、その実践が必要になるのである。それは、社会性の新たな水準を実現できなければ、社会変化は、退化の過程をたどりかねないからである。

 とはいえ、今日の代議制政治の実態があまりにもひどいので、人々が、政治に背を向けたくなるのもわからないでもない。

 しかし、人間は政治的社会的動物であるとアリストテレスが言ったが、そのように、社会生活にとって、政治は必要不可欠であり、それを学び・実践することは、社会的必要事である。そのことは、今日、強調しなければならない。

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モラルは大人からである

 年金問題といい、防衛庁汚職事件といい、船場吉兆の表示改ざんといい、どんどんこの国・社会は、壊れていっているように感じる今日この頃である。

 しかしながら、そうした世間の中からも、新しい時代の登場を予感させる新たなものが日々生まれていものもある。

 それを感じるのは、例えば、一方では、エゴに犯されて醜い姿をさらけ出している政治家や大金持ちや官僚たちがいるかと思えば、他方で、きわめて対人関係で丁寧な態度を示す若者が多いことである。大体、歩道などを三列四列になって、道を塞いで、平気で大声でしゃべって歩いているのは、中年以上の人であって、若者の集団は少ない。肩があたったわけでもないのに、こちらの歩みを妨害したと思うのか、「すみません」と言うのは、ほぼ若者ばかりである。

 もちろん、他方には、我が物顔で、道の真ん中を闊歩する者もいるが、それは極めてまれである。それにもかかわらず、「今の若者は」などと、大人が若者に説教を垂れたがるのは、エゴ丸出しといわざるを得ない。

 モラルは、大人の間で崩壊しつつあるのであり、それに対して、若者へ教育で押し付けようとするのは、大間違いである。「魁より始めよ」のことわざどおり、まず、いい年して、エゴ丸出しで、醜い姿を平気で公衆の前にさらしている大人たちの方が教育されねばならない。

 

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今年の政局と次の政治の焦点

 今年も押し詰まってきた。後残りわずかな1年だが、この短い間に、憲法改定のための「国民投票法」の成立、改憲を目論んだ安倍政権の崩壊、参議院選挙での与野党逆転、衆参ねじれ国会、「テロ特措法」をめぐるアメリカも絡んだ攻防の激化、与野党大連立の動きと破綻、等々と政治をめぐる動きは急で、せわしなかった。

 その中で、反戦運動をはじめとする諸大衆運動は、拡大している。就職氷河期世代や若者の非正規雇用化は進み、それに対するフリーター労組などの若者を中心とする反貧困・「生きさせろ!」という生存権をめぐる闘いも高揚した。

 21世紀の貧困問題は、世界資本主義のグローバル化の進展の中で進行した。

 世界資本主義の中心国たるアメリカでは、金余りの中で、低所得者向けの住宅ローンであるサブプライムの不良化が生じて、金融危機が生じ、FRB(連邦準備制度理事会)が数度にわたって金利引き下げを行うなど、世界のマネーの動きに変化をもたらす金融政策が実施された。サプライム問題は、まだまだ続きそうで、簡単には、その打撃から脱出できない。

 相対的な高金利政策によって、世界中のマネーを集めていたアメリカの投資構造が、危機を迎えたのである。だぶついてるマネーが、次の投資先を求めて、大きく動こうとしている。中国・ロシア・ブラジルなどの新興市場は、そのはけ口になるのだろう。しかし、これらの新興市場がどこまで安定成長を続けられるのかは、わからない。

 日本政治の動きを見れば、600兆円とも言われる国の資産をめぐって、「埋蔵金」探しが始まっている。参議院での与野党逆転で、衆議院での圧倒的多数をバックに政策をごり押ししてきた自公政権が、総選挙をにらんで、政権交代の危機感から、これまで構造改革路線で切り捨ててきた人々に対して、媚を売りはじめている。そこで、生活保護費の基準引き下げも延期されるなど、緊縮財政策も緩んできた。そして、新たな財源として、国有資産の切り売りに出ようというのである。

 それらは、最初からあったもので、ケインズ派経済学者からずっと指摘されてきたことであるのに、これまで、ずっと無視してきたものなのである。それは地中に隠されていたものでもなんでもなく、手をつけないようにしてきていただけである。政府が、国有資産にはできるだけ手をつけないように、ケインズ派経済学者などからの指摘を無視してきただけなのである。財産があるなら最初から出せよということだ。

 そして、それは、官僚の天下り先の確保のための資産として使われてきたのであり、官僚による国有財産の私物化のためのものになってきたのである。だからこそ、政府=官僚たちは、それを聖域化して、手をつけられないように守ってきたのである。

 郵便事業もまたそうした埋蔵金の一つであった。郵便局は、郵便事業を除く事業は黒字であり、優良資産をたくさん抱えていたが、それも、どんどん失われている。その利益を売るのは、国鉄・分割民営化と同じである。それは、大企業や財界である。埋蔵金と言っても、もともと「国民」の資産であって、それを成立の仕組みや過程や目的が異なる民間会社と同じ扱いにできないものだ。民間ができるのは、経営が成り立つ範囲内での話であって、離島や地方まで、一律のユニバーサル・サービスなどそもそもやりようがない。資金は、自己金融か間接金融で賄われているのであり、いずれにしても、利子生み資本からの借り入れである。貸出金利は事業によって判断され、資本を生む事業だけに、貸し出される。証券市場でも同じことである。

 離島での郵便事業など、営利事業として成立する可能性は低い。したがって、それに対して融資する金融資本はないだろう。では、憲法25条の健康で文化的権利を受ける権利は、住所によって、格差が出るだろう。それは、憲法の基本原則である平等主義に反することだ。改憲しないまま、格差を正当化することは、法治主義に抵触する。そこで、『読売新聞』などは、平等を二種類にわけ、悪平等=結果平等に対して、機会平等だけを真の平等とする解釈改憲によって、それを正当化しようとする。

 しかし、それは、条件の平等ということからもはずれるとんでもない不当解釈であって、それにごまかされるほど、人々は甘くはないことを参議院選挙結果で思い知ったはずである。それにも気づかないとすれば、『読売』はよほどの愚か者である。

 いずれにせよ、近づく衆議院選挙では、ふたたび、格差や貧困や生活問題、そして、反戦・改憲阻止の諸課題が、問われることになろう。そこで、覚醒した人々がどういう判断をするか楽しみである。

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資本家は不要だ

 今日の新聞を見ると、この国の経済界が、一方では、労働者には、賃上げ抑制、高い労働生産性向上、長時間労働、非正規雇用による人件費抑制、消費税などの大衆課税の強化などを主張しつつ、自らは、仲間内での利益の分け合い、共同詐欺行為を働いているという脱税事件の摘発のニュースが報道されていた。
 
 それは大分のコンサルト会社「大光」(大賀規久社長)が、30億円の所得を税務申告しなかったことが税務署によって摘発された事件である。事件の概要は、下の『毎日新聞』の記事で見ていただきたい。
 
 記事によると、大賀社長の実兄が、日本経団連会長でキャノン会長の御手洗氏と同級生で、本人は同窓で、親しい間柄であるという。大賀社長の会社は、キャノンの大分の2工場の警備を請け負うなど、関連会社を含めて、下請けの決定にも強い影響力を持っているという。
 
 大分のキャノン工場建設を受注した鹿島建設から、大賀社長側に、受注額600億円の3%の仲介手数料の他、架空の下請け工事代金や、鹿島が別の下請け業者に水増し発注して作った裏金を受け取っていたという疑いがあるという。大賀社長が受け取った金額は数十億円にのぼり、家族名義の30億円分の株が見つかっているという。鹿島は、追徴課税されている。
 
 言うまでもなく、これだけの裏金が大賀社長に渡ったのは、彼が、御手洗キャノン会長と特別に親密な関係にあって、業者選定に影響力があったからである。このような「民」の中での民ー民取引の場合、公共事業のように、公正な競争とか透明性とかがうるさく言われないわけで、いわば、民間内での自由な取引慣行に任されており、他にも似たような事例は腐るほどあることは間違いない。それに対して、会社の私物化という批判がありうるが、それには、会社が、社会性、共同性、公的性質を持つものという社会的基準が必要である。そうした基準に則って、経営を判断しなければ、こうした行為は、なくなることはないだろう。
 
 一方では、企業のコンプライアンスが言われていて、それは御手洗経団連でも、掲げられてはいるが、実態は、この有様だ。かつて、経営と所有が分離している株式会社における経営者というのは、高級労働者・熟練労働者であるということから、労働者階級の上層と考えられていた時代があった。だが、構造改革路線の中で、経営者の中にも、株式を多く所有する者が増え、所有と経営の分離という形は崩れてきているように見える。
 
 この場合、裏金だから、表に出すわけにいかず、脱税ということになったから、税務当局によって、摘発されるにいたったわけだが、自由な商慣行の中で、こうした腐敗が生じていることが明らかになったのである。
 
 官の腐敗や特権には一斉に飛びつき、叩きまくるマスコミも、民の世界の腐敗に対しては甘い。船場吉兆といい赤福といい、ミートホープといい、民の腐敗やモラルハザードは相当蔓延しているようだ。柄谷行人氏は、かつて、腐敗しつつ持続していくのが資本の本性だというようなことを書いていた。しかし、こうした民の腐敗に対して、人々や社会は耐えられない。事実、人々は、政官財の癒着による腐敗に陥った自民党に対して、何度もノーを突きつけた。与党は、そのたびに、反省したとして、一時的に譲歩し、低姿勢で、政権にしがみついてきた。今も、疑いの目で、与党を見ていることは、先の参議院選の結果で明らかになった。
 
 アメリカでは、イランが4年前から核開発を停止していたという報告書が発表され、イランに対して、核開発を続けるなら、世界戦争もあり得るなどと脅したブッシュ大統領の信用が失墜している。イラク戦争について、フセイン政権が、大量破壊兵器を開発・保有しているだの、アルカイダを支援しているだの、さんざん、でたらめを並べたブッシュ政権が、イランの核開発疑惑問題でも、でたらめを言っていたことが、暴露されてしまったのである。それにつき合わされ、振り回された人々の怒りは、どれほどかと空恐ろしいことである。どうおとしまえをつけてくれるのかということだ。
 
 こんな世界である。すでに、現代社会には、資本家などなくても、やっていける条件がある。いつなくなっても大丈夫である。今の資本家に社会をきちんと運営していく能力など別にないのであり、でたらめもすぐにばれてしまう。そんな程度である。全部実際にやっているのは労働者大衆である。それを粗末に扱う企業に、未来はない。それは短期利益に目がくらんであぶく銭稼ぎをする儲け悪どい企業に過ぎず、消えてしまっても、ひとつも社会的損失にならない。とにかく、資本家は、企業経営にも社会運営にも無用の存在になってしまったという歴史進歩がある。
 
 大分の事件とブッシュのイラン政策のでたらめの暴露は、それをよく表わしている事件である。
 
 脱税疑惑:大分のコンサル会社、所得30億円申告せず(12月9日『毎日新聞』)

 キヤノン工場建設を巡る構図 「キヤノン」の大規模プロジェクトを巡り、大分市のコンサルタント会社「大光」(大賀規久社長)が法人税法違反(脱税)などの疑いで東京国税局査察部の強制調査(査察)を受け、大手ゼネコン「鹿島」からの裏金や仲介手数料約30億円を申告していないことが分かった。鹿島も任意の税務調査で数億円の所得隠しを指摘されたとみられる。プロジェクトは投資額約1000億円に及んでおり、同国税局は大手ゼネコンなどを巻き込んだ巨額の資金の流れについて解明を進めている。

  プロジェクトは、キヤノンが03年以降、大分市東部の丘陵地帯に建設したデジタルカメラ生産子会社「大分キヤノン」と、プリンター関連生産子会社「大分キヤノンマテリアル」の2工場。広瀬勝貞大分県知事が経済産業省事務次官時代から交際のあった同県出身の御手洗冨士夫・キヤノン会長らに働き掛け、工場誘致に成功したとされる。  関係者によると、大賀社長は、用地造成と2工場建設を鹿島が受注できるよう営業。受注額の約3%を「仲介手数料」として受け取る契約を結んだ。工場建設では当初、九州のキヤノン関連工事で実績がある「大林組」が有力視されていたが、これを覆した。

 工場建設に先立つ造成工事は、県土地開発公社から、鹿島が76億円余の随意契約で受注した。  大賀社長の仲介による鹿島の受注額は、500億円を超えるとみられ、大賀社長側は仲介手数料のほか、鹿島から架空の下請け工事代金や、鹿島が別の下請け業者に水増し発注して作った裏金を受領していた疑いがある。鹿島はこうした不正な資金を巡って、追徴課税されたとみられる。大賀社長が受け取った金は計数十億円に及ぶとみられ、家族名義などで約30億円分の株などが見つかっているという。

 大賀社長は、実兄が御手洗会長と高校の同級生で、自らも同窓であることなどから、親しい関係にあるという。大賀社長の警備会社が両工場の警備を請け負っているほか、関連会社も含めてキヤノン関連の仕事を受注している。鹿島が絡む工事では、下請け業者を決めるなど強い影響力があるという。

 大光は、8日までの毎日新聞の取材要請に回答していない。鹿島は「個別の工事や税務についてはお答えできない」としている。

  大光は90年12月設立で、民間信用調査機関によると従業員は6人。キヤノン関連工事の下請けや不動産開発が主な業務で、06年9月期の売上高は6億4300万円

 ▽コンサルタント会社 一般的には設計業務や会社経営など、各専門分野での業務支援を目的にした会社。一方、公共工事の入札情報を聞き出したり、特定の業者が受注できるよう働き掛けを行ったケースもある。鈴木宗男衆院議員の汚職事件(02年)を巡っては、大手の「日本工営」幹部が、北方領土の施設工事で入札情報を鈴木議員の秘書に漏らしたとして、偽計業務妨害罪に問われた。「業際都市開発研究所」の事件(02年)では、同社社長が政界人脈などを生かして、業者の受注を自治体に働き掛けるなど「口利きビジネス」を行い、贈賄罪などで有罪が確定した。

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公益の欺瞞性と抵抗の自由の楽しさ

  12月8日の天木直人氏のブログ記事「国家はいらないという本」は、「公益」という曖昧な概念を利用して、「国家権力を掌握している政府、官僚、与党政治家は不要であるという事」「彼らは国民の労働の上に巣食った不労所得者であるという認識」があって、それに天木氏は共感するという。
 
  他方、雨宮処凛さんは、「雨宮処凛がゆく」31号、「「反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉」と「反貧困たすけあいネットワーク」、の巻」で、「反貧困たすけあいネットワーク」が創設されることを報告している。「NPO自立生活サポートセンター・もやいの湯浅誠氏や、首都圏青年ユニオンの河添誠氏が呼びかけ人となっているこのネットワークは、働いても食べて行けない上、企業福祉からも公的福祉からも漏れてしまう若者たちが助け合うネットワーク。非正規雇用ゆえ雇用保険に入れず、組合費も払えないので労働組合にも入れず、保険料が払えないので保険証もない、という人々が急増する中、月300円の会費で休業補償や無利子の貸し付けが行われる」というものだ。
 
  一方に、人々の労働の上がりをかすめ取る不労所得者の「政府、官僚、与党政治家」がいて、他方に、「働いても食べて行けない上、企業福祉からも公的福祉からも漏れてしまう若者たち」が多数生み出されている。まさに雨宮さんが言うとおりの「格差社会」である。
 
 天木氏は、「官」を批判するものの企業福祉を犠牲にして利潤を追求している資本家階級や土地という地球上の一部を私有することで、地代という形で労働の上に巣くっている不労所得者の大地主などの「民」の批判をしない点が不思議である。

 氏は、「「国家はいらない」と言うと、無政府主義者(アナキスト)のごとく聞こえるかもしれない。しかしそれは違う。蔵研也の言いたい事は、我々一人一人が責任をもって自らの生活を営む、その邪魔をしないでくれ、しかも我々の働いた税金を無駄に使って我々の自由な営みの足を引っ張るな、ということであるのだ。これを究極のリバタリアンと言うらしい。その意味で私はリバタリアンである」と事も無げに言う。そして、「勿論、弱者救済のための政策の必要性は認める。それこそが国のなすべき唯一の責任である。それ以外の事で国がなすべき事はほとんどない、蔵氏の主張はここにある」と言うのである。
 
 弱者を生みだし、再生産しているのは、自由な営利の営みの故であり、それを政府や官僚や与党政治家が後押しし、一緒になって、人々の労働の上に不労所得者の層をなしているのである。
 
 「「公益」という名に借りた国家の無駄遣いと、その国家の無駄遣いに巣食ったおびただしい行政機関、公益法人、独立行政法人の職員たちの無駄を糾弾している」というのは正しいし、同感だが、募金の例は、適切ではない。募金活動の中に、詐欺が混じっていることは確かだが、すべてが詐欺ではない。募金活動を行っている中には、「足なが育英会」のように長い活動実績を持っている信用のおける団体もいくつもある。募金活動イコール詐欺というのは、明らかに言い過ぎであり、誤りである。
 
 人々には、「公益性」があるのだというのも、性悪説的な言い方で、これも不適切である。私の観察や体験では、多くの人々には他者とのコミュニケーションを志向する性格が強くあって、募金はそのひとつの現れであり表現である。そうした志向性や欲求を営利・利己の原則をたてに妨害しているのが、今日の自由な営利企業であり、「民」の現実である。
 
 もし、天木氏のように自由を容認するのであれば、こうした人々の欲求と自由な営利を追求する資本家とその味方との闘いの自由も容認するのが当然である。そこまで考えを進めなければ、不徹底である。
 
 その点で、雨宮さんは、「若者がここまで不安定化、貧困化したのは明らかに「政策の失敗」であり、こんなことは国が率先してやるべきだが、国が動くのを待っていたら飢え死にしてしまう」という情況に対して、「あー、わくわくする。このテーマ設定と、死刑や農業やG8までを組み込んだ先に「生きのびる」とブチ上げたセンスって素晴らしいと思うのだ。ここに今、もっとも考えなければならない全部が詰まってる。そしてそれは一見無関係に見えても、私たちの「生きづらさ」に密接にかかわっているのだ。とにかく「周りは全員ライバルで他人を蹴落としまくってお前だけが生き残れ」という圧力が強まっている中で、みんなで「生きのびる」方法を模索する、ということは、それだけで抵抗だし、闘争だ」と自由な闘争の喜びを表現している。
 
 天木氏は、最後に、「この事を更につきつめていけば、お国の為、日本国民の為、という言葉で押しつけられるあらゆる要求が、決して「公益」ではなく、その実は支配者や既得権益者の私益であり、既得権益者による一般国民の搾取であるかもしれないというのだ。/世界有数の公共料金の高さも、地価の高さも、農産物の保護も、税制のゆがみも、すべては「公益」の名の下に行われる政府の不必要な介入の結果もたらされたものであり、結果として一般市民の生活を困窮させている。だから「国家はいらない」と言うのだ。/我々はあまりにも今の日本の仕組みを知らされていない。現実に何が行われているか、それを詳しく、正確に、知れば知るほどこの主張の正しさに気づく、そういう本である」と言う。
 
 もちろん、ここに言われていることは正しい。われわれは、今の日本の仕組みを知る必要がある。しかし、それだけではなく、闘争の自由、抵抗の自由の楽しさや喜びをも知る必要がある。天木氏は、それを体験で知っている人だから、その点についてももっと語っていくことだろう。 

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