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公益の欺瞞性と抵抗の自由の楽しさ

  12月8日の天木直人氏のブログ記事「国家はいらないという本」は、「公益」という曖昧な概念を利用して、「国家権力を掌握している政府、官僚、与党政治家は不要であるという事」「彼らは国民の労働の上に巣食った不労所得者であるという認識」があって、それに天木氏は共感するという。
 
  他方、雨宮処凛さんは、「雨宮処凛がゆく」31号、「「反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉」と「反貧困たすけあいネットワーク」、の巻」で、「反貧困たすけあいネットワーク」が創設されることを報告している。「NPO自立生活サポートセンター・もやいの湯浅誠氏や、首都圏青年ユニオンの河添誠氏が呼びかけ人となっているこのネットワークは、働いても食べて行けない上、企業福祉からも公的福祉からも漏れてしまう若者たちが助け合うネットワーク。非正規雇用ゆえ雇用保険に入れず、組合費も払えないので労働組合にも入れず、保険料が払えないので保険証もない、という人々が急増する中、月300円の会費で休業補償や無利子の貸し付けが行われる」というものだ。
 
  一方に、人々の労働の上がりをかすめ取る不労所得者の「政府、官僚、与党政治家」がいて、他方に、「働いても食べて行けない上、企業福祉からも公的福祉からも漏れてしまう若者たち」が多数生み出されている。まさに雨宮さんが言うとおりの「格差社会」である。
 
 天木氏は、「官」を批判するものの企業福祉を犠牲にして利潤を追求している資本家階級や土地という地球上の一部を私有することで、地代という形で労働の上に巣くっている不労所得者の大地主などの「民」の批判をしない点が不思議である。

 氏は、「「国家はいらない」と言うと、無政府主義者(アナキスト)のごとく聞こえるかもしれない。しかしそれは違う。蔵研也の言いたい事は、我々一人一人が責任をもって自らの生活を営む、その邪魔をしないでくれ、しかも我々の働いた税金を無駄に使って我々の自由な営みの足を引っ張るな、ということであるのだ。これを究極のリバタリアンと言うらしい。その意味で私はリバタリアンである」と事も無げに言う。そして、「勿論、弱者救済のための政策の必要性は認める。それこそが国のなすべき唯一の責任である。それ以外の事で国がなすべき事はほとんどない、蔵氏の主張はここにある」と言うのである。
 
 弱者を生みだし、再生産しているのは、自由な営利の営みの故であり、それを政府や官僚や与党政治家が後押しし、一緒になって、人々の労働の上に不労所得者の層をなしているのである。
 
 「「公益」という名に借りた国家の無駄遣いと、その国家の無駄遣いに巣食ったおびただしい行政機関、公益法人、独立行政法人の職員たちの無駄を糾弾している」というのは正しいし、同感だが、募金の例は、適切ではない。募金活動の中に、詐欺が混じっていることは確かだが、すべてが詐欺ではない。募金活動を行っている中には、「足なが育英会」のように長い活動実績を持っている信用のおける団体もいくつもある。募金活動イコール詐欺というのは、明らかに言い過ぎであり、誤りである。
 
 人々には、「公益性」があるのだというのも、性悪説的な言い方で、これも不適切である。私の観察や体験では、多くの人々には他者とのコミュニケーションを志向する性格が強くあって、募金はそのひとつの現れであり表現である。そうした志向性や欲求を営利・利己の原則をたてに妨害しているのが、今日の自由な営利企業であり、「民」の現実である。
 
 もし、天木氏のように自由を容認するのであれば、こうした人々の欲求と自由な営利を追求する資本家とその味方との闘いの自由も容認するのが当然である。そこまで考えを進めなければ、不徹底である。
 
 その点で、雨宮さんは、「若者がここまで不安定化、貧困化したのは明らかに「政策の失敗」であり、こんなことは国が率先してやるべきだが、国が動くのを待っていたら飢え死にしてしまう」という情況に対して、「あー、わくわくする。このテーマ設定と、死刑や農業やG8までを組み込んだ先に「生きのびる」とブチ上げたセンスって素晴らしいと思うのだ。ここに今、もっとも考えなければならない全部が詰まってる。そしてそれは一見無関係に見えても、私たちの「生きづらさ」に密接にかかわっているのだ。とにかく「周りは全員ライバルで他人を蹴落としまくってお前だけが生き残れ」という圧力が強まっている中で、みんなで「生きのびる」方法を模索する、ということは、それだけで抵抗だし、闘争だ」と自由な闘争の喜びを表現している。
 
 天木氏は、最後に、「この事を更につきつめていけば、お国の為、日本国民の為、という言葉で押しつけられるあらゆる要求が、決して「公益」ではなく、その実は支配者や既得権益者の私益であり、既得権益者による一般国民の搾取であるかもしれないというのだ。/世界有数の公共料金の高さも、地価の高さも、農産物の保護も、税制のゆがみも、すべては「公益」の名の下に行われる政府の不必要な介入の結果もたらされたものであり、結果として一般市民の生活を困窮させている。だから「国家はいらない」と言うのだ。/我々はあまりにも今の日本の仕組みを知らされていない。現実に何が行われているか、それを詳しく、正確に、知れば知るほどこの主張の正しさに気づく、そういう本である」と言う。
 
 もちろん、ここに言われていることは正しい。われわれは、今の日本の仕組みを知る必要がある。しかし、それだけではなく、闘争の自由、抵抗の自由の楽しさや喜びをも知る必要がある。天木氏は、それを体験で知っている人だから、その点についてももっと語っていくことだろう。 

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