« 「格差社会」解消が、希望である | トップページ | 「「徳育不要論」では日本が傾く」(京都大学名誉教授・市村真一)はでたらめだ »

モラルはまず『読売』から始めよではないか

 『読売』社説は、教育再生会議の提言、とくに、道徳教育の充実を訴えている。

 『読売』社説は、何度も、同じことを繰り返しているが、道徳論がまったく欠けており、自明のこととしてそれについて考えようとしていない。

 まず、社説は、「凶悪犯罪の低年齢化、モラルの低下を見れば、誰も道徳教育の拡充に異論はないはずである」という印象論から、こともなげに、道徳教育の拡充は当然だと言う。さすがに、一時のように、少年犯罪の増加という虚構は主張しずらくなったのだろうが、凶悪犯罪の低年齢化というこれも根拠のはっきりしないようなこと、それから、対象のはっきりしないモラルの低下一般を指摘している。この間、モラルの低下が著しいのは、大人の方であり、義務教育の対象である児童・生徒の方ではない。大人のモラル低下について、連日、報道している『読売』が、それを知らないはずはない。まずは大人の側のモラルを正さないと、モラルを教えられた子どもたちから、厳しい目を向けられるし、大人不信ひいては社会不信までを生み出すことだろう。
 
 例えば、嘘をついてはいけないと教えられ、それを身につけた子どもたちは、この間、嘘や誤魔化し、偽装に、詐欺犯罪に手を染める大人たちの姿をどう評価するだろうか? そうした世代が、『読売』の新入社員として入ってきた時、『読売』の上層部の人たちは、どうするのか? この社説は、そんな恐れも不安も感じていないらしい書きぶりであるが、60年代末の青年たちの大人への反抗には、大人たちの欺瞞に対する怒りが含まれていたことは明らかではないだろうか?
 
 まず、教育再生会議からは、ヤンキー先生のように、任期をまっとうすることなく、参議院議員に転身したモラルの怪しい人物がいたこともあり、自らのモラルの程度を反省してみる必要がありそうだ。それに、教育再生会議を立ち上げた安部首相は、国会冒頭、所信演説を終えた直後に辞任するというモラル的にどうかと思われるやり方で、首相辞任したわけだが、後ろ盾を失った教育再生会議の重みは、明らかに低下している。
 
 それに対して、福田首相が、どういう教育方針があるのかがよくわからないし、教育政策への熱意も感じられないわけで、それを反映しているのかどうかわからないが、この社説も、以前ほどの熱が感じられない。
 
 教育に対する競争の導入については、競争がもたらすモラル破壊に対して、この社説は危惧の念をあまり持ってないようだ。せいぜい、「過度の競争に陥る恐れがないか、冷静に見極める必要がある」と指摘している程度だ。「勝てば官軍」とばかりに、結果=成果がすべてで、法律やモラルをかいくぐって、競争に勝てばよいという風潮が広まったのには、競争主義を礼賛した政府与党や学者やマスコミのキャンペーンも一役買ったのではないだろうか?
 
 いずれにせよ、教育と競争主義の間には、予定調和は成立しないのであり、政治がそれらの関係を調整するしかないのである。その時、政治に必要なことは、社会性の水準と内容を適切に判断するということである。
 
 教育再生会議 提言を教育の充実に生かせ(12月26日付・読売社説)

 やはり道徳教育の充実は欠かせない。首相直属の教育再生会議が第3次報告をまとめた。

 近く改定される新学習指導要領や、改正教育基本法で策定が義務づけられた教育振興基本計画に、こうした内容を生かしたい。

 再生会議は道徳教育について、第2次報告に続き、「徳育」を教科にするよう改めて求めた。点数による評価はせず、専門の免許も設けない。小中学校とも学級担任が担当するという。

 文部科学相の諮問機関、中央教育審議会がまとめた答申案では、道徳教育充実を求めたが、中間報告にあった「引き続き検討する必要がある」との表現は削除され、教科化は見送る方針だ。

 正式な教科は通常、専門の免許を持つ教員が検定教科書を使い数値で評価するが、道徳での検定教科書や数値評価の導入には慎重な意見が多かったからだ。

 再生会議の報告は、中教審の答申案とズレがみられるが、「徳育の教科化」はあくまで道徳教育充実への強いメッセージと受け止めるべきだろう。

 凶悪犯罪の低年齢化、モラルの低下を見れば、誰も道徳教育の拡充に異論はないはずである。政府内で意見調整を図る必要がある。

 どんな教材を使うのか。再生会議では、ふるさと、日本・世界の偉人伝、古典・物語を通じて他人や自然を尊び、芸術や文化、スポーツから得られる感動を重視したものとしている。

 若い世代に受け入れられやすいスポーツや映画などを題材にしたものも、工夫次第で十分、教材になるだろう。

 競争原理の導入をうたった「教育バウチャー(クーポン券)」制は見送られたが、「学校の成果主義」とも言うべき考え方は、報告に残された。学校選択制と児童・生徒数に応じた予算配分を併用し、学校の質を高める仕組みだ。モデル事業として実施するという。

 過度の競争に陥る恐れがないか、冷静に見極める必要がある。

 再生会議では、国際学力調査の結果、理数系の応用力の低下が判明したことから、小学校高学年に理科専科教員の配置などを進めることも提案した。

 来年度予算案では、教員定数の1000人純増や非常勤講師7000人の採用が認められている。行政改革推進法で、教職員の定数は児童・生徒の減少に応じ、削減することが定められている中での異例の措置である。

 国の将来を考えれば、教育への投資は怠れないという判断だろう。その一部を理科教員に充てることを検討してもよいのではないか。

(2007年12月26日1時47分  読売新聞)

|

« 「格差社会」解消が、希望である | トップページ | 「「徳育不要論」では日本が傾く」(京都大学名誉教授・市村真一)はでたらめだ »

雑文」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。