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2008年1月

ハーヴェイ『新自由主義』を読んで

 世界的地祇学者デヴィット・ハーヴェイの『新自由主義』その歴史的展開と現在(作品社)に目を通してみた。

 この中で、ハーヴェイは、「一九七〇年代にアメリカはグローバル生産における支配力を失い、そして一九九〇年代にはグローバル金融の権力も浸食されはじめた。科学指導上の指導的地位も脅かされ、文化と道徳的指導性におけるそのヘゲモニーも急速に衰えていった」(p273)と述べている、そして、グローバルな支配の唯一明白な武器として残されたのが軍事力であった」(同)というのである。ただ、「その軍事力さえも、できることは上空三万フィートからハイテク破壊兵器を操作することに限られている(同)という。

 イラク戦争は、アメリカの新型兵器の見本市の様相を呈したが、その後のアメリカとその傀儡政権の統治・支配は、ローテクなゲリラ戦によって、脅かされ続けている。

 彼は、アメリカでの破滅的で自滅的な潮流に対する有力な大綱有働が台頭していることを指摘しているが、それがバラバラで確固とした組織を欠いていることを嘆いている。そして彼は、その原因を、労働運動、アイデンティティ・ポリティクス運動、ポスト・モダン的な知的潮流全般の自傷行為に求めている。

 そして、リオタールの『ポスト・モダンの条件』から、「真実・権威修飾的な誘惑のあいだにはいかなる差異も存在しない。上品な語りと興味深い物語をする人が力をもつのだ」という言葉を引用し、それに対するテリー・イーグルトンの批判を肯定する。ポスト・モダニズムが、真実とは社会的構築物であり単なる言説の作用にすぎないと唱えるのに対して、彼は、それはそうとは知らずに、ホワイトハウスの路線と一致していると批判する。

 そして彼は、「「埋め込まれた自由主義」の形成とそれに続く新自由主義化の転換の歴史を全体として見渡すなら、エリート階級の権力を抑制したり回復したりする上で階級闘争が決定的な役割を果たしてきたことがわかる。これまでうまく覆い隠されてきたが、圧倒的な階級権力を回復し増大させ、そしてー中国やロシアの場合のようにー新たに構築するための、支配エリートの例の巧みな戦略がまるまる一世代も続いてきた」(p278)と述べる。

 忸怩たる思いに駆られるのは、ケインズ主義的な「労使協調」やポスト・モダン派の階級はなく、差異の戯れだけがあるとかいう類の空想話の流行の影で、上層階級は失地回復を図り、下層の現実が見えにくくされてしまったことだ。それも、ようやく、格差社会論などとして、明らかにされつつあるが。

 国会では、ガソリンの暫定税率延長法案が衆議院で委員会可決され、与野党対決ムードに包まれている。同時に、衆院予算委員会では、労働法制をめぐる論議がなされた。公明党の冬柴議員は、労働法制の基本理念は、労働者保護であることを強調した、ちょうど、日本マクドナルドの店長が、管理職としての実体のない勤務状況に対して、労働者としての未払い残業代を支払うよう命じた地裁判決が出たばかりで、その点も取り上げられた。枡添厚生労働大臣は、労働法制の基本を労働者保護と認めつつ、規制緩和は必要だと述べた。こんな融和主義的態度だから、実効性が伴わないのである。

 『新自由主義』の翻訳者の一人である渡辺治氏は、日本の新自由主義について、解説で、「小泉政権下で新自由主義は一気に進行し、大企業の競争力強化による景気回復が実現した。しかし、その当然の結果であるが、現存社会の安定は崩れ、社会統合の破綻が顕になった。「格差社会」「ワーキングプア」という言葉が普及し、犯罪の増加、家族の崩壊などが社会問題化した。こうした社会統合の破綻に対処すべく、小泉政権下で新保守主義が台頭した。ハーヴェイのいう通り、新保守主義は新自由主義による矛盾の顕在化の所産として台頭したのである」(p318)と述べている。それは、小泉後の安部政権誕生として現れたのであるが、それも、短期間で崩壊してしまった。

 アメリカでも、新保守主義は分裂している。ブッシュ政権も、死に体となっている。アメリカは、今、新自由主義を投げ捨て、サブプライム・ローン破綻をきっかけにした景気後退局面を食い止めるべく、16兆円の財政出動や企業減税などの大型の予算措置を取ろうとしている。経済政策で、新自由主義の基本線を守りながら、微修正を行っているにすぎない福田政権からは、経済対策についての発言がない。「市場に任せよ」ということだろうか? 経済政策でも、日本は世界から遅れを取っているのである。

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経済がわかっていない新自由主義経済学

 今日のテレビ朝日系「サンデー・プロジェクト」は、最初に太田経済財政諮問会議担当大臣へのインタビューだった。

 続いて、ガソリン国会の与野党論戦である。今、国会は、道路特定財源をめぐって与野党対立が激化している。

 太田大臣は、アメリカのサプライム・ローン破綻問題からの景気後退に対する対策を主に聴かれた。それに対する彼女の答えは、規制緩和などの構造改革路線の決まり文句でしかなかった。しかし、コメンテーターの財部氏が、一人当たり生産性が18位に下がった日本に対して、「大きな政府」の北欧諸国がその数字が高いのはなぜかと尋ねた。彼女は、「大きな政府」か「小さな政府」かは問題ではない。政府機能を縮小して、「強い政府」にすることが必要だと答えた。ついこの前まで、「大きな政府」か「小さな政府」かと二者択一を政府・財界・新自由主義経済学者・『読売』『産経』『日経』などのマスコミが大合唱し人々に迫っていたことを思えば驚くべき変身ぶりだ。

 それは、彼女の信奉する経済学では、賃金は、生産性を反映することになっており、それ自体、まったく無内容なものにすぎないように、実は彼女が経済のことがわかっていないエコノミストだからである。ただ、教科書的に覚えた数式や図式を現実に無理矢理当てはめているだけなのである。

 彼女の信奉する近代経済学の賃金論のなかの限界効用学派(主観価値説)の賃金論に対して、マル経の宇野学派の大内秀明・鎌倉孝夫編の『経済原論』(有斐閣新書)の1経済学の方法は、「(資本と)同様に、賃金についても、ほかの生産要素(生産財や土地など)を一定にして、労働が一単位ずつ追加されたとして、その労働の追加一単位によって生産される生産物の増加分としての労働の限界生産力によって賃金を説明する。したがって、ここでは物ではないにしても生産要素である労働そのものを、労働者と抽象的に対置し、その労働の限界生産力から賃金が生まれるとみるわけで社会関係は無視されてしまうことになる」と批判している。また、基本的に近代経済学の主観価値説では、「人間と物との関係だけで価値を説明しようとする。したがって、物をめぐって形成される人間と人間との関係、すなわち市場における生産者と消費者による需要と供給の対立をめぐる社会関係は、ぜんぜん問題にされようがないのである」(同)と批判している。

 太田大臣は、生産性が乗すれば、限界生産力が増加して、それによって労働需要が高まり、賃金が上昇すると考えているのである。氏は、とくに、サービス産業の生産性は、機械化の進展やや効率向上によって、上昇すると語った。つまり、人手を減らして、それを機械によって置き換えれば、生産性が上昇する、つまり、同じ仕事を少数でできるようになるから、その分賃金が上がるというわけである。これはもちろんデタラメである。サービス産業の生産性の高いアメリカで、この分野は、不法移民などの低賃金の下層の労働によって支えられているのである。アメリカのまねをするなら、こうした新規労働力が大量に流れ込んでくるという条件のない日本では、日本人の中で、階層分化を進める他はなく、それが、構造改革と称する政策で、とりわけ、派遣業法の改悪などの労働法制の改悪によって、格差社会を生み出してきたのである。もちろん、これで、まるでマルクスが言ったとおりの階級闘争が激化する社会条件が誰の目にも明らかになってきた。

 太田氏が、賃金と言っているのは、賃金という形態で報酬を受け取っている経営者の収入のことである。田原氏は、それを知ってか知らずか、その点を突っ込まなかった。田原氏は、平均年収約700万の雇用者の約76%にすぎない大企業正社員と約67%を占める中小(ドメスティック)企業の労働者の平均賃金が3百数十万円程度、で、両者の差が拡大しているというデータを示した。

 この間、大企業は、配当を増やし、役員報酬を増やし、社内留保金を増やし、企業役員は自社株を購入し保有を増やしている。

 ちょうど、昼のNHKニュースで、労働組合の「連合」が、今年の春闘で派遣会社に対する賃上げ交渉を行うこと、また、労働組合で派遣を行っているところで賃上げを行うことを求める方針を公表したと伝えた。だが、今、国会で、派遣業法改定論議が行われているが、派遣業を少なくとも元に戻すか、原則廃止にするということが必要であるにも関わらず、そうした方向での改定論議ではない。この制度は、一部の人のためにしかならず、社会全体としては、悪でしかない。つまりは、社会悪である。企業は、営利団体で、福祉団体ではないなどというバカが時々いるが、企業は、社会団体の一部であり、それには、福祉的な性格が当然含まれる。こんな当然のことすらわからない者が、この国の官僚・財界・学者・政治家の中にいるというのは情けない話しである。これも偏差値バカを生産し続けている教育の悪弊だろうか?

 今、年収200万円以下の新貧困層が1000万人に達しているという。この新たな貧困は、それ以外の労働者の賃金を下に引っ張っているのである。ケインズ経済学から言えば、この貧困は、消費不足・有効需要の低下を意味し、それは経済全体の足を引っ張っているのである。

 イギリスの古典派経済学は、リカードゥ以来、労働者の生活水準を向上させることを大きなテーマとして研究していて、厚生経済学という一つの部門を生み出した。

 それに対して、アメリカの現代経済学は、ゲーム理論など数理経済学的な傾向が発展していて、きわめて、抽象的で空理空論的になっている。それが政策に大きな影響を持つようになると、経済を大混乱におとしいれ、そして自らの墓穴を掘っている。

 サプライム・ローン破綻問題に発した金融危機、アメリカ経済の後退、に対して、アメリカ政府は、金利を引き下げると共に約26兆円の財政支出を決定した。市場原理主義・新自由主義政策を放棄したのである。田原氏は、太田大臣に、日本政府は、どうしてアメリカやEUのように、手を打たないのかと質問した。それに対して、彼女から具体的な答えはなかった。思考停止、無知、をさらけ出したのである。彼は、がんばって下さいと決まり文句のエールを送った。だが、この大臣に期待することはできないだろう。われわれは、こんなどうしようもない駄目な大臣が政策を担当するという不幸な状態に置かれているのである。

 新自由主義は、生産性を、労働者個人の能力としてとらえようとしている。しかし、それはまったくの幻想であり、不可能である。労働は、分業と協業という形態下での結合労働として営まれており、それを個人別に正しく評価することはできないのである。結合労働は、集合力・集団力・総合力であって、こちらが本質的規定である。それを個人能力の単純合計として評価しようとしてもできるものではない。そんなことは、現場の人々は体験からわかっていることで、とくに学問的に解明するまでもないことだ。

 彼女のような外観にとらわれている曇った目と頭の持ち主だけが、能力主義に基づいて個人の作業能力なるものを物差しにして、リストラを奨励したりするのである。ところが、現実には、そうしたリストラをあまり行わず、日本型労使関係を維持してきたトヨタなどの企業の方が、発展してきたのである。能力主義はだめだと多くの企業が気がついたのが、つい最近のことで、経団連の御手洗会長などは、日本型労使関係の復活を言い出す有様である。

 こうして能力主義的評価方法は、急速に廃れていったが、その思想に基づく、労働者派遣法がそのまま残ってしまっている。これは、格差社会を生みだし、拡大し、国内消費市場を冷え込ませ、そして、人々を現状変革へと駆りたてる要因の一つになっている。大書店では、マルクス主義関係の本が、増えており、マル経の本は、ソ連崩壊から数十年たっているが、本棚の一角を占め続けている。人々の間に、しずかに、だが確実に、革命的意識が浸透していっている。

 太田大臣は、現状を、80年代のバブル崩壊後の金融危機が片づいて、正常化しつつある段階にあると言った。およそ、現状認識として、あまりにも、空想的すぎて、あっけにとられるような発言だ。

 能力主義は、幻想にすぎない。企業は、社会的存在である以上、労働者の厚生・福祉を含む。経済・政治・社会・倫理・文化は切り離せないものだ。それがわからない企業は、社会によって変えなければならない。その政治的リーダーシップをとらない反社会的な政府は、変えなければならない。労働者企業を発展さえ、資本制企業にとって代わるべきだ。資本制経済の惨憺たる現状(労働者が病弊し、寄食者が肥え太って中世末期の貴族のように腐敗ている・・・)を見れば、それは可能であり、必要なことである。ただし、それは、社会全体の変化と結びついての上でのことである。

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バイオエネルギーをめぐって

 「農といのちを守る会」という団体の会報「農といのち」第11号を読んだ。

その中で、田中正治氏は、バイオエネルギー問題について書いている。

 「石油価格高騰のために、軽油やガソリンの代替燃料として、穀物を原料とするエタノール、バイオディーゼルなどバイオ燃料の国際的需要が拡大している。その結果、トウモロコシや大豆など穀物の国際相場が高騰し、世界はバイオエネルギーで沸騰しているようだ。現代の”ゴールドラッシュ”とさえいわれはじめている」というのである。

 その問題点を、氏は、4点に整理している。

 (1)バイオ燃料農産物(トウモロコシ)の増産がもたらした結果、逆に食料と畜産飼料が不足。その結果、食料価格と畜産飼料価格が高騰。バイオエネルギーと食料・畜産飼料価格が高騰。バイオエネルギーと食料・畜産飼料との対立が顕在化している。特に、アメリカで。

 (2)バイオ燃料農産物(サトウキビ)の増産をもたらした結果、逆に砂糖価格が上昇。アマゾン熱帯林伐採の急速な拡大をもたらしている。バイオエネルギーと食料と地球環境との対立が顕在化している。特に、ブラジルで。

 (3)トウモロコシ系エタノールは、特に、農薬、科学肥料、農業機械燃料の大量消費のために、生産されたバイオエタノール燃料より、むしろ、生産・製造過程で使用された化石燃料が上回る結果、カーボンフリー・温暖化対策になるのか、との指摘がなされている。 (4)ブラジルとアメリカでは、バイオエタノール生産のために、GMサトウキビ、GMトウモロコシ栽培拡大やGM発酵微生物の利用計画や実施が、特に進められている。それは、土壌のGM汚染、周辺へのGMトウモロコシ、GMサトウキビ汚染を拡大する可能性が大きい。GMバイオエネルギーと環境との対立が激化するだろう。

 それに対して、氏がオルターナティブとして提起するのは、菜種や廃油を利用したバイオディーゼル燃料、二つには、草木をメタノール化したバイオメタノール燃料(工業用アルコール)、三つには、森林廃棄物、農業廃棄物、生物系都市廃棄物(生ゴミ、紙くず)などのエタノール化、である。

 氏は最後に、「バイオエネルギーは、工夫すれば、地産地消が可能であり、また、原産地の持続可能性を維持すれば、再生可能であることが特徴だ。世界が化石燃料、原子力エネルギーから脱出し、永続可能な水素エネルギー経済へ移行していくためには、食料生産のみならず、エネルギー生産としての農林業の多面性が注目される」と述べている。

 私には、詳しい技術的なことはわからないが、バイオ燃料を製造するのに、多量の化石燃料を使用するというのは、いかにも、利潤のための生産である資本制経済の本質をよく示している。これは儲かるからそうしているのであって、次世代エネルギーを社会善のために生産しているというわけではないのである。人為的な需要が政府を含めて作り出されているのであり、その契機となったのは、石油価格の高騰に対して、石油メジャーなどが、生産を自由にコントロールできないことにあり、それに対して、ブラジルが、バイオエタノールを国家プロジェクトとして推進し、その市場が拡大してきたことである、開拓されてきた新市場に対して、特別利潤を求める新規参入企業が増え、競争が激化し、その市場が急拡大したのであり、同一農産物に対して、燃料向け市場が新たに大きく開けたのであり、その結果、食料用市場で供給不足が生じてきたのである。さらにはそこに、投機資金も流れ込んで、トウモロコシなどの価格高騰を引き起こしたのである。

 世界的なエネルギー危機、環境危機が深刻化し、拡大している中で、日本の国会では、ガソリン税の道路特定財源分をどうするかを議論している。自民党の町村議員は、環境問題を考えれば、ガソリン価格を低くするというのは、時代に逆行すると述べ、ガソリン特別税の廃止に反対している。それに対して、車検料や自賠責保険料を引き下げるべきだと述べた。前者は、道路族・建設族が、後者はなんとか族が、それぞれ利権を確保してそこに食らいついており、この問題は、どっちの利権集団が損をするかという闘いである。

 どっちの利権集団もつぶしてしまえば、もっとも良い解決になるが、そうはならないというところが、政・官・財が癒着している体制そのものの問題である。利権は、たたかれれば、たたかれた方が一時的に損をするが、残った方は、それを確保し、さらに新たな予算をつけられたところに、新たな利権が発生するというふうになって、終わりがないのである。

 他方で、労せずして、税金から利得を引き出している輩がいるかと思えば、毎日のように仕事が変わる日雇い派遣でその日暮らしを強いられている新たな貧困層が拡大している。都市と地方の格差も拡大・再生産されているままである。それには、1990年代後期からの構造改革と称する労働法制の改悪があり、とりわけ、派遣業法の大改悪があって、それを、人件費をコストしか計算しない企業が、利用し、悪用し続けてきたのであり、それが続いたために、企業行動の前提化し、システム化され、組み込まれ、定着してしまったのである。企業が、賃金という形態で、労働力の再生産を保障するという機能は、どんどん失われ、企業の社会的責任や社会的機能ということも忘れられつつある。

 しかし、それは、いかに、企業や自民党が目をそらそうとしても、労働者の再生産の不可能化、地球環境の破壊による企業自体の存続の危機、社会の衰退、等々の危機が訪れていることは、誰の目にも明らかである。

 働く者なしに、企業も政治も経済もへったくれもない。労働者の病弊と消耗と貧困は、現在の体制を危機に陥れるだろう。もちろん、一時的なあぶく銭を手にして満足してる人々の中には、自分で墓穴を掘っていることに気がつかないものが多いだろう。甘いと言わざるを得ない。

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揺れ動く世界経済に、理想なき日本

 ガソリン税の一般財源化が、通常国会の争点になっている。

 去年から、物価上昇が続いていて、今年もこれから値上げラッシュである。ところが、賃金も年金をあげろという声も聞こえない。

 日本経団連の御手洗会長は、業績が好調で余裕がある企業は賃上げすべきだと言った。

 賃上げ容認と聞こえるが、統計によれば、業績の良い大企業正社員の給与は上がり続けているのに対して、非正規雇用労働者の賃金は上がっておらず、中小企業の労働者の賃金も上がっていない。その結果、大企業正社員とそれ以外の労働者の間の賃金格差は開き続けているという。

 他方で、日本製紙が、再生紙と銘打ちながら、再生紙をあまり使っていない紙を製造・供給していたことが発覚し、老舗の「吉兆」から大企業まで、モラル崩壊していることが暴露され続けている。

 こうしたいわば、「日本崩壊」とも言えるような事態が進行しているにもかかわらず、国会の最大の焦点がガソリン税問題になるというのは、政治家というのはよほど鈍感なのかもしれない。

 アメリカの景気先行き不安もあって、株価は値を下げており、不安定な動きを強めている。世界的にはカネあまりとなっていて、サプライム・ローン破綻後に、危機に陥った金融・投資筋には、アラブ諸国からのオイル・マネーや中国などの新興発展国の政府系ファンドの資金が流れ込んでいるという。しかし、その投資先は、世界で、いくつかの地域・国に限られており、そこに過剰に流れ込んでいる可能性が強まっている。

 ドル安は、外貨準備のユーロへの移行を加速させるだろうし、中国の為替切り上げの注文も強まるだろう。しかし、中国は、アメリカの旺盛な消費力に支えられた対米輸出に依存して経済成長を遂げてきたこともあり、アメリカの消費減退は、経済成長に陰を落とすことになろう。

 この間、輸出産業を中心にかろうじて低成長軌道に乗ってきた日本経済にしても、この事態がマイナスの影響を与えることは間違いないところである。しかし、円高に進めば、輸入価格が低下し、国内物価の上昇を抑えられることになる。ただ、それによって、不況が進めば、法人税減収ということになり、増税を求める声が明らかになるだろう。

 自民党・公明党は、参議院選挙での地方での敗北を受けて、ガソリン税という道路特定財源の地方へのバラまきを維持することで合意し、民主党の一般財源化に反対している。

 問題は、民主党が言うように、官僚や関連企業の特別利益としておおかた吸収されてしまう特別会計の予算を、一般財源化して国会での審議・調査対象とし、使い道を公にすることで、無駄を減らしていくということにあることは確かである。この予算に食らいついている利権集団を排除できれば、予算は、より地元や地方にあつく配分することができるようになるだろう。しかし、おそらく財界は、それなら、予算そのものを必要ないとして削減するかカットしろという要求をしてくるだろう。

 しかし、構造的な問題として、この間、輸出や海外進出して、海外市場で稼いできた日本の大企業が、世界市場の停滞や動揺や北米市場の危機に対して、国内市場の拡大によって対応しようにも、格差が拡大してしまって、労働者などの購買力が低下しきっていることにある。今、若者の間での自動車離れが進んでいるし、誰しもわかるように、上層向けの消費市場と下層向けの消費市場は、はっきりと分かれつつある。

 ことここにいたって、財界や与党政治家に、次の展望もなければ、経営戦略と言えるようなものもなく、ただ市場に任せろと思考放棄している有様である。

 そうしているうちに、一度、左翼から離れた人たちが、もどりつつある。若者たちは、冷静だ。もはや、事態を打開する力・能力のない経営層や政治家を信用していない。こういうのは本当に恐いことだ。地下にマグマがたまっている状態である。どこでどう火がつくかわからない。そのときには、一気に爆発していくだろう。そのとき、のんきな大人たちは、あっという間に乗り越えられることだろう。そうなったら、恥ずかしいから、きちんと準備しておいた方がいいのではないだろうか。

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グローバル化と政権交代

 今日のNHK日曜討論会で、渡辺金融担当大臣と経済学者の対談が行われていた。

 そこで、問題になっていたのは、日本で今、利益を増やし、社員の給与が増えているのは、大企業であり、その正社員であり、その他の多数の中小企業とその社員や非正規雇用労働者の賃金・所得は低下しているということである。その後の、テレビ朝日の「サンデー・プロジェクト」でも同じことが議論になっていた。昨年の参議院選挙以後、外国からの投資が減少しているというもので、その原因として、日本経済に対する外資の見方が、悲観的になっているのではないかということである。そこで、藤井民主党議員は、消費の拡大を訴え、それには、労働法制を構造改革以前に戻し、安心して生きられる社会を取り戻し、安心して貯蓄を減らして消費を増やせる政策を採ることが必要だと述べた。

 グローバル化の果てに、サプライム・ローン破綻で金融不安にさらされたアメリカ経済の窮状をふまえての話しである。

 ドル安が進む中で、世界の富を高金利によって引き寄せ、消費を拡大して、世界中から輸入を続けてきたアメリカの経済の仕組みが崩れてきているのである。対米輸出によってえ支えられてきた中国や日本の輸出産業が、それによって影響を受けることは必至で、アメリカに進出して現地生産をしてきた日系企業も、アメリカでの消費減退の影響を受けることも間違いない。

 念頭の経済団体のトップたちは、希望的観測を入れて、年度後半の世界経済の回復という見通しを語るものもいるが、全体としては、経済成長の減速ということを踏まえた慎重な見通しを述べていた。

 経団連の御手洗会長は、余力のある企業は賃上げをすべきだと述べたが、今余力のある企業は、グローバル化した大企業ばかりであり、その正社員の賃金をあげたところで、それほど経済全体の底上げ効果は見込めない。個人金融資産は、膨大に存在しているが、国内での投資先不足により、だぶつき気味であり、その一部は、サプライム・ローンを組み込んだアメリカや外国の金融商品や証券に投資されていると見られ、そこで焦げ付きが発生している可能性がある。その実態は見えにくく、日本の金融機関の損失がどれぐらいあるかは、わからないという。決済期日を迎えれば、それははっきりとわかる。

 こうした状況に対して、渡辺金融大臣は、先の番組で、構造改革が必要だとして、国際競争力のある新産業を育成することがそれだと述べた。それに対して経済学者は、構造改革とは自由市場主義のことであり、市場の「神の見えざる手」に任せるという自由放任主義であって、戦略が欠けていると批判した。

 経済において、政策・戦略・計画が必要だという批判である。戦略に服し、計画に従うことは、その実行者の規律・倫理を必要とする。戦略への同意・理解・愛着といったものが、その成功のために必要となる。戦略策定過程への参加や議論、それを実現するための方法・手段の開発や修得、そして、その目的の結果に導くための、忍耐や規律や倫理が実現されねばならない。市場は、それを教えてはくれない。単なる恣意や偶然が、自由とされ、倫理や規律は緩み、乱れていき、混乱の中で、膨大な無駄を生み出しつつ、目的に到達できないことが増える。実際、構造改革路線が進められたこの10年ほどの間に、こういうことが起きた。

 利己主義を自由化したため、利己的に振る舞うことが当然とばかりに、損することはやらない。ホリエモンが、法律や制度の網をくぐって成り上がったことをマスコミや世間が称えたのを見て、人々は、決まりごとはかいくぐっても利己を貫くことがよいことだと思うようになった。それでも、人間社会の共同性はあり、そこで育まれた倫理性は、生きている。財界や政界や官界の腐敗と堕落、倫理・規律の零落に比べれば、まだまだ大衆の倫理性や規律性はしっかりしている。上層は腐りきっているが、それに抗する倫理力・分化力を育んでいる。それを基礎にして、新しい社会を作れる力を育てている。共同性、それは、地域や職場やサークルや社交や文化や大衆運動や社会運動や政治運動・・・あらゆる共同の場において、自然発生的に生み出され、育まれている。それによって、社会性の水準が保たれており、その上に寄生している政官財のうわばみたちが、そのさらなる発展を疎外しているのである。

 政権交代は、この状態を根本的に変えるものではないが、この構造の一端を人々の目に暴露することによって、人々の覚醒を促すということはある程度はできるだろう。今年の内に、それぐらいの前進はあって欲しいものだ。

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羽村市教委の給食費未納対策は解決にならない

 東京の羽村市教育委員会が、学校給食費未払い対策として、給食費支払い同意書に親のサインを求めることを決めたそうだ。

 具体的な事情はわからないが、教育委員会の言い分としては、署名をさせることで、給食の提供が契約に基づくということを強く意識させるためだという。

 しかし、この言い分には、契約が本来、自由意志行為であるということが抜けている。契約が自由意志のみに基づく行為であるということからは、契約が各人の選択に任されており、自由意志行為であるということが出てくる。つまりは、契約するもしないも自由だということが含まれているということになるのである。

 それにもかかわらず、学校給食は、事実上、選択性ではなく、一律に課せられる義務的なものとなっている。親の経済状態を踏まえた免除制度はあるものの一律のサービスに対して文句も言えないとなると、今日のようなモンスター化している親の中には、義務だけがあって権利が認められていないような給食のあり方に不満を持つものが増えていることは想像に難くない。

 それに力を与えているのは、新自由主義である。気に入らなければ、学校も選択できるというような肥大化した権利意識のみが拡大すれば、当然、平等主義的な一律の公的制度として基本的に成立している公教育制度と衝突する。その時に、個人主義的な利害得失の計算によって、払った分にはそれに見合った利益が返ってこなければならないとするつまらない一面的な計算をすることに、くだらないプライドを持つことが、必要事とすら思念されるわけである。こうして、学校が、自己利害を貫徹するもの同士が、衝突する場となって、制度自体を破壊しているわけである。

 教育再生会議は、親学なるものを提唱したが、しかし、政治は、新自由主義を推進してきたのであり、その成功モデルとして、詐欺師のホリエモンだの村上ファンドだのを持ち上げてきたのであり、その責任は、政治にもあるわけだ。村上は、物言う株主が必要だと強調してきた人物で、金を出す分口も出させろと叫んだ人物だ。権利意識旺盛と言えるだろう。

 政治・経済などが、あげて消費者主権だの株主の権利だの自己利益を貪欲に追求して何が悪い、金儲けして何が悪いと開き直る姿勢を積極的に助長してきたのであるから、学校だけが、その責任を問われることはない。しかし、羽村市教育委員会は、逆に、こうした新自由主義的な時代風潮に組して、契約概念を捻じ曲げてまで、給食費問題解決に乗り出したのであり、これは解決どころか、これをたてに権利を主張するモンスター・ペアレンツをのさばらせるもとを作っただけである。

 

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新自由主義からの転換の年へ

 アメリカ経済が、当分回復の見通しが立たないということでは、おおむね経済人の共通認識ができているようである。

 年初来、アメリカの株価は大幅に下落し、それにつられて、日本の株式も値を下げた。そして、このところ、続いていた円安から、一転して、ドル安円高に為替相場が動いた。輸入物価上昇が続いて、国内消費者物価が上昇を続けている最中で、円高は、それにブレーキをかける要因である。もちろん、輸出産業は、為替コストが上昇するので、苦しくなる。それに、この米ドル安は、アメリカの輸入減少を伴うと考えられるから、その点でも、アメリカ市場向けに輸出をしている企業は、苦しい。

 しかし、それにかわって台頭してきているBrics諸国やEUなどの市場規模が拡大しているし、それに、中国の場合、購買力が向上しているので、高いハイテク製品などでもどんどん買ってくれるのではないだろうか? それに、EUは、もともと環境問題や健康問題に厳しく、輸入制限がきつい。高度な技術や質を求められるので、技術力を誇る日本の輸出産業にとって、有望な市場であるといえる。

 こういう経済的な世界の多極化と日本政治の日米関係一元化の間の矛盾は、拡大している。しかしながら、経済人の間では、これからは中国だという声が聞こえる。少なくとも、北京オリンピック・上海万博までは、バブル崩壊などの不足の事態がなければ、中国の高成長は続くだろう。アメリカが、経済的に停滞を強めていけば、ますます、世界の企業は、中国市場にかけていくだろう。

 もちろん、インドに対してもである。日本政府は、急成長を遂げているインドとの間に、アジア通貨危機のような経済危機が生じた時に、緊急融資する協定を結んだ。

 このような国際通貨危機の際の金融対策として、政府資金を投入する仕組みは、これまでのIMFを通した間接的な対策ではなく、直接の政府支援として組まれたことが、新しいところである。これは、新自由主義経済学にはありえない対策で、「社会主義的」なやり方である。しかし、それは、アメリカで、サプライム・ローン破綻対策として、事実上の公的資金投入が行われたように、いくら「自由市場」的な仮面を被せたところで、「社会主義」的なやり方をとらざるを得なかったのと同じことである。市場のことは市場に任せておけなかったわけで、新自由主義経済学の基本が崩れたのである。

 しかし、この間の、新自由主義が世界を席巻する中で、多くの人々が、貧困の中に閉じ込められたことを考えると、それは、無償の饒舌ではすまされるものではないことはいうまでもない。今年は、こうした世界の流れの転換点となるだろうし、そうしたいものである。

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『正論』の一感想

 『正論』今月号を立ち読みしてみた。

 小林よしのりの西部批判と沖縄での集団自決事件問題の座談会が載っていた。ざっと、読んでみると、前者は、西部が、東京裁判のパール判事を世界連邦主義者であり、容共的だという点から、保守主義に反する人物として批判しているのに対して、小林が、事実を無視しているの、パール判事は、一貫して親日家であったことを強調しているというものである。どうでもいいような話なのだが、小林は、西部が保守派ならわしは保守派などとは言われたくないと述べている。どうでもいいような話だというのは、小林は、大東亜戦争は、アジア諸民族の西欧列強の植民地支配からの解放戦争だと硬く信じているからである。歴史事実からいえば、アジアの独立を支持した勢力を戦前国家は弾圧したのであり、けっしてアジア諸民族の解放者たり得なかった。日本の力を利用しようとしたインドのボースらも、日本の敗勢が濃いと見ると、中国に接近したのである。

 沖縄の集団自決問題では、要するに、これまでどおり、直接的な軍命令はなかったとする説の繰り返しで、集団自決の原因は、遅れて日本国民に入れられた沖縄の人々が、もともとの日本人以上に日本人になろうとした過剰な同化からきたのとサイパン島玉砕時に日本人が崖から海に飛び込んで多くの犠牲者が出たのと同様の集団パニック状態だったとするものである。軍隊が、権力であり、いちいち正式の書類の決済をへて、行動しているというお役所とは違うことをまったくわかっていない。沖縄での集団自決の際に、あらかじめ軍命を受けていたとする住民の証言は、いっさい取り上げられていない。

 とにかく、へんてこりんな話だ。

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2008年は、変化の年

 今年の新聞各紙の社説は、「変化」を取り上げたものが多い。
 
 『読売』社説は、低所得者向け住宅ローンの「サプライム・ローン」破綻から続く、アメリカ経済の混乱が、世界的に金融不安を生みだしたことやそれと同時に、ユーロ高、ドル安の中長期的傾向を指摘して、基軸通貨の移行の可能性を指摘している。
 
 『毎日』『産経』は、それぞれ、参議院選挙での自民党大敗・民主躍進、衆参ねじれ国会情況におちいった政治の変化を指摘し、『朝日』は、地球環境問題などのグローバルな環境変化の問題を取り上げている。
 
 『読売』の元旦の社説「多極化世界への変動に備えよ 外交力に必要な国内体制の再構築」は、「欧州の単一通貨ユーロが着実に力を伸ばし、第2の基軸通貨としての地歩を築いている。原油高騰で巨額の金融資産を積み上げている中東産油国や外貨準備世界一の中国などは、その一部を徐々にドルからユーロへと移し始めた」ことを指摘した。

 『読売』は、3日の社説「新たな秩序へ 米国の揺らぎで広がる不安、視界不良の世界経済」で、引き続き、世界経済の変化について書いている。そこで、国家ファンドと呼ばれる石油輸出国のオイル・マネーや中国などからの世界金融市場への資金提供が巨額にのぼるようになっていて、世界経済に占める影響力が大きくなってきていることを指摘している。サブプライム・ローン問題で、資本不足に陥りそうになった欧米の金融機関に資金を提供しているのは、これらの国家ファンドだという。
 
 経済的には、世界の多極化と基軸通貨国のユーロへのシフト、製造業での新興工業国の発展ということは、趨勢である。しかし、天木直人氏が指摘するように、政治的軍事的には、アメリカが世界の中心として役割を果たすということは、短期的には変化しないだろう。政治的軍事的に日米同盟を機軸とすべしという『読売』の主張は、こうした現実からきている。アメリカが世界秩序の維持のために果たしている軍事的政治的役割を代替できる国はなく、小沢民主党が掲げる国連中心の集団的安全保障という理念も、それを担保できる実力という点でもアメリカに代替できるものは今のところない。
 
 しかし、経済的には、世界は多極化していき、それに応じて、政治的軍事的外交的に、複数的な選択肢が提示されるような局面が増加することだろう。インド洋での自衛艦の給油活動は、そうした局面の一つであると言えよう。こうした事態は、アメリカの「対テロ戦争」が開始された2001年には、なかったことだ。もちろん、イラク戦争に反対するという選択肢はあった。独仏は、イラク戦争に反対した。一時的に米欧関係は悪化したが、だからといって、米欧関係が決裂することはなかった。他方では、米欧は、戦後初のドイツ軍の域外派兵をコソボ紛争の際に、行っている。
 
 日本政治においても、選択肢が存在することが明らかになった。アメリカの「対テロ戦争」に完全に従うか拒否するかという選択肢があるということが、この間、わかった。いくら『読売』『産経』が、そこには選択の余地がないと強調しようとである。
 
 他の選択肢も、もちろん存在している。年金問題であれ、労働法制であれ、金融政策であれ、教育政策であれ、選択肢が存在している。それを二大政党制というシステムで、代表しきれるかと言えば、それは、不可能である。そのことは、アメリカの二大政党制の下で繰り返し起きている第三極の動き、イギリスで、小選挙区制にも関わらず続く多党化の傾向、そして、大連立下で、勢力を伸ばしているドイツの左翼と右翼という両極の存在、等々、が示している。
 
 一度、政権交代してみればいいし、それを経験することで、人々は、二大政党制が、選択肢をそれほど増やさないことに気づくだろうし、まま逆のことが起きることを実際に学ぶだろう。それはよいことだと思う。
 
 いずれにしても、今年は、おそらくは、人々の多くが望んでいるように、変化が起こる年となることだろう。
 
 
 新たな秩序へ 米国の揺らぎで広がる不安、視界不良の世界経済(1月3日付・読売社説)
 ◆FRBの舵取りが重要◆

 世界経済はどうなるのか。その先行きに不透明感が漂っている。

 2007年の世界経済は、実質5%台の順調な成長を達成したようだ。米国、欧州、日本は減速したが、2ケタ成長の中国やインド、ロシア、ブラジルのBRICs諸国が高成長を維持し、先進国のもたつきをカバーした。

 国際通貨基金(IMF)の予想では、今年の世界経済の成長は4%台に鈍化する。昨年同様、米国、欧州、日本などが1~2%の低空飛行にとどまり、足を引っ張ると見られるからだ。

 最も懸念されるのは、住宅バブルの崩壊で、低所得者向け住宅融資「サブプライムローン」問題の“震源地”となった米国経済の失速だ。

 昨年7~9月期の国内総生産(GDP)の実質成長率は、前期比4・9%増を記録した。だが、住宅市況の悪化は、GDPの7割を占める個人消費を冷え込ませそうだ。堅調にも見える米国経済は、既に急減速し始めた可能性が高い。

 サブプライムローンを組み込んだ証券化商品は世界中に販売された。住宅融資の焦げ付きが増加し、欧米の金融機関は巨額損失を抱えている。損失の全体像が分からない不安から、世界の株式・金融市場の動揺も収まらない。

 米国経済の調整が長引くと、対米輸出に依存する日本、中国を中心としたアジアの景気に悪影響を及ぼす。堅調だった欧州経済にもサブプライム問題が波及して、息切れの兆しがある。過熱する中国経済の急減速や、バブル崩壊があれば、日本経済はさらに打撃を受ける。

 先進国経済が低迷しても、新興国の高成長が十分に補うという「デカップリング(非連動)論」が唱えられている。しかし、過度な楽観は禁物だ。

 サブプライム問題の悪循環や長期化を防ぐため、早期に歯止めをかけねばならない。世界経済が安定軌道に乗れるかどうかは、その成否がカギを握る。

 米連邦準備制度理事会(FRB)は昨年、金融緩和に転換し、短期金利の誘導目標のフェデラル・ファンド(FF)金利を年4・25%まで引き下げた。欧州中央銀行(ECB)などと協調して、短期金融市場に巨額な資金を供給した。

 ◆基軸通貨ドルの行方◆

 市場の安定や景気てこ入れを目指し、FRBは追加利下げを検討している。インフレ懸念から、利下げ慎重論も強い。日銀やECBとの政策協調の強化も必要だ。米国経済の失速を回避するには、FRBの舵(かじ)取りが重要になろう。

 世界経済の潜在的リスクとして、基軸通貨である米ドルに対する信認が揺らぎ始めたことが指摘されよう。

 1999年に誕生した欧州単一通貨ユーロは、欧州の経済力増大とともに、急速に台頭した。新年からキプロス、マルタが加わり、ユーロ圏は15か国に拡大した。“準基軸通貨”のユーロは対ドル、対円で最高値圏で推移している。

 世界の外貨準備高に占めるドルの比率は、2001年の71%から07年に65%に低下する一方、ユーロの比率は、19%から25%に上昇した。ドル離れとドル安は今年、さらに進む可能性がある。

 米国はドルへの信認を背景に、日本、中国、中東などからの資金流入で巨額の経常赤字を穴埋めした。そのおかげで、長期金利が低水準で安定し、高成長を持続させてきた。この流れが変わると、米国にとっての好循環が崩れてしまう。

 中国通貨・人民元の改革も焦点だ。中国では物価上昇が目立ってきた。経済の歪(ひず)みを是正し、過熱を沈静化させる必要がある。安定成長路線への軟着陸にはさらなる人民元の切り上げが望まれる。

 原油価格が1バレル=100ドル近くにまで高騰し、世界でインフレ圧力が高まっている。最大の要因は、投機資金など余剰マネーの市場への流入だ。背景には、中国が資源獲得に血眼になっていることや、ロシアなどの資源ナショナリズムの高まりがある。

 巨大マネーは、世界経済の“怪物”に育ってきた。原油高で潤う中東産油国のオイルマネーや、為替介入で膨らんだ1兆4000億ドルの外貨準備高を持つ中国などの政府系ファンド(SWF)が続々と誕生している。

 サブプライムローン問題で資本不足に陥った欧米金融大手に対し、アラブ首長国連邦(UAE)や中国などのSWFが相次いで巨額資金を出資した。市場の安定に寄与する“救世主”として、今のところは歓迎されている。

 ◆存在感増す国家マネー◆

 だが、これが国家マネーの存在感を一気に高めたといえよう。SWFの規模はさらに拡大する見通しだ。M&A(企業の合併・買収)市場でも動向が注目される。国家マネーが攪乱(かくらん)要素にならないよう、どうコントロールすべきか。難しい課題を突きつけられている。

 通商では、世界貿易機関(WTO)の新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)が難航したままだ。早期合意を目指す必要がある。一方、2国間・地域間の経済連携協定(EPA)が加速している。日本は懸案の農業分野の国際競争力を強化し、市場開放を進めるべきだ。

 人口減社会を迎えた日本が成長を続けるには、グローバルな市場で日本が生きていく、通商国家としての基本戦略が欠かせない。

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ニヒリズム脱却は「善き社会」のイメージから

 昨年の大晦日の『産経』「正論」に、佐伯啓思京大教授の「ニヒリズムへ突き進む日本」という文書が載った。
 
 氏は、現代文明の本質を、一言で述べれば、ニヒリズムだと語っている。それは、既存の価値が次々と崩壊しているからである。そのために、世界を統一したものとして見ることができなくなり、歴史や社会とのつながりを持てず、行為に確かな社会的、歴史的意味を与えられなくなり、行動の確かな目的もわからなくなっているという。
 
 一面、肯ける見方ではある。もっとも、行為の客観的価値の方は、貨幣という価値でもあり価値基準でもあるものが全面的に支配しており、それ以外の価値が崩壊しているのである。すべては、測るもの=貨幣に対して、測られる対象と化している。俗に言えば、儲かるかどうかが基本的な行為の基準になっているのである。それ以外の価値は崩壊し、それへの抵抗はすべて否定的に評価され、究極的には無化される。
 
 それが、ニヒリズムとして現れているのである。

 「これ以上、経済成長を続け、自由・平等の実現をはかったとしてもにもかかわらず、われわれは、経済的豊かさ、自由・平等の実現という価値を相変わらず高く掲げている。一体、何のために経済的豊かさを求め、自由の拡大によって何をするのか、という問いに対する答えは空しく宙をまう」。
 
 「こうして、経済成長、自由・平等の拡大という本質的に「手段」であるものが「自己目的」となってしまい、しかもその「目的」は具体的イメージを伴わないために内容空疎な名目となってしまった。かくて、われわれは何のために働き、何のために勉強をし、何のために自由を求めるのか、その素朴な問いの前に茫然(ぼうぜん)と自失しているように見える」。
 
 「われわれは何のために働き、何のために勉強をし、何のために自由を求めるのか」がわからなくなってしまったと佐伯氏は言う。
 
 「行動には確かな意味を付与できず、不安と苛立(いらだ)ちだけが募ってくるように見える。ニヒリズムというほかなかろう」
 
 そして、マネーゲームと金満主義(マモニズム)が蔓延している。
 
 「ニヒリズムの中では、人々は、自己の行動の与える社会的な意味や連関を十分に想像することができなくなってしまう。そのために、もはや他人のことや、社会のことを考慮に入れているだけの余裕もなくなる。/今ここでの自己の情念や欲望だけがすべてになってしまうのである」。
 
 そして、「ほとんど「目的」なき経済競争の中で、いかにニートやワーキングプアが出ようが、人々はもはや「私」の生活と利害にしか関心をもてなくなっている」という。経済競争には、もちろん、「目的」はある。利潤獲得である。そのために、作られた階層的な制度の下で、「人々はもはや「私」の生活と利害にしか関心をもてなく」されているのである。職場で、「私」の生活と利害について話題にすれば、上司は喜ぶ場合が多いはずである。しかし、他者に関わること、社会問題や政治問題について、深く問題にして話題にすれば、上司はそれを喜ばないだろう。かくして、人々は職場環境を考慮して、話題や関心の持ち方を方向付けるのである。
 
 しかし、よく見てみれば、人々が「私」の生活と利害にしか関心を持たないということはない。それは不自然というものである。私という意識は、反省する時に現れる自覚であるが、そういう私意識のない状態でも、意識は活動していて、様々なものを認識している。他者の生活や利害についても認識しており、社会についても認識はしている。それを私という意識から除外してしまう排除のメカニズムによって、無関係なものと分類されてしまうので、ニヒリズムに見えるのである。
 
 人々は、私という意識が、認識を狭めなければ、というよりも、通常は、私意識などなしに認識活動は行われているので、私以外の世界について人々は絶えず関心を抱いて、認識の網に引っかけてはいるのである。それをそのまま表現すれば、社会認識があり、社会的理想を萌芽として持っていることがわかる。

 氏は、「このニヒリズムに抗することは難しい。しかしもし方策があるとすれば、第1に、現代文明のニヒリズム的性格を理解することであり、第2に、われわれが共通に持てる「善き社会」のイメージを描き出すことでしかあるまい」という。第1の方策については、条件付きだが認められよう。第2の方策については、「善き社会」のイメージを描き出すのはよいが、それがどこからどのようにして描き出せばよいのかが不明である。佐伯氏が、描き出すのか? そうではあるまい。それは、人々が、自意識から排除してしまう意識の中から、取り出して描き出されるべきであろう。

【正論】ニヒリズムへ突き進む日本 京都大学教授・佐伯啓思
2007.12.31

「善き社会」へのイメージが描けず

 ≪行為の意味に確信がない≫

 いささか乱暴ではあるが、もし仮に現代文明の本質を一言で述べよといわれれば、私は「ニヒリズム」という言葉を使いたい。ニヒリズムとは、ニーチェによると、これまで自明なものとして信じられてきた諸価値の崩壊である。価値の崩壊とは、人々が、物事の軽重やその意味や本質を判断する基準が失われてしまうということである。

 その結果どうなるか。われわれは世界を統一したものとして見ることができなくなり、われわれの行為は、社会や歴史とのつながりを持てず、行為に確かな社会的、あるいは歴史的意味を与えられなくなってしまう。行動の確かな目的もわからなくなってしまう。

 そうなるとどうなるか。人々は、自己の行為の確かな意味や目的を確信できなくなるために、ある者は瞬時の刺激や快楽を求める刹那(せつな)的快楽主義に走り、ある者は、所詮(しょせん)何をしても無意味だとしてこの世界をシニカルに見る冷笑主義へと走るであろう。私には、今日の日本も世界も、その意味で急速にニヒリズムの坂を転げ落ちているように見える。

 戦後日本は、経済的豊かさの追求、自由や平等の実現を目指してきた。これは、貧困からの解放、戦中の不自由や抑圧からの解放、極端な社会的格差や差別からの解放という意味では、確かにわれわれの心理を捉えた、といってよかろう。

 それらから解放されることで、われわれは何か「善き生活」が手に入るという期待をもてたわけである。「善き生活」や「善き社会」という期待やイメージがかろうじてあれば、それを実現する手段としての経済成長や自由・平等にも大きな価値が与えられたのであった。

 ≪目的そのものが内容空疎≫

 しかし、それらがある程度、実現したとき、どうなるか。もはやわれわれは、この先に来る「善き社会」のイメージを描き出すことは出来なくなっている。これ以上、経済成長を続け、自由・平等の実現をはかったとしてもにもかかわらず、われわれは、経済的豊かさ、自由・平等の実現という価値を相変わらず高く掲げている。一体、何のために経済的豊かさを求め、自由の拡大によって何をするのか、という問いに対する答えは空しく宙をまう。

 こうして、経済成長、自由・平等の拡大という本質的に「手段」であるものが「自己目的」となってしまい、しかもその「目的」は具体的イメージを伴わないために内容空疎な名目となってしまった。かくて、われわれは何のために働き、何のために勉強をし、何のために自由を求めるのか、その素朴な問いの前に茫然(ぼうぜん)と自失しているように見える。

 行動には確かな意味を付与できず、不安と苛立(いらだ)ちだけが募ってくるように見える。ニヒリズムというほかなかろう。

 行動に確かな意味を見失ってしまった結果が、瞬間的快楽ゲームの様相を呈する過度なマネーゲームとマモニズム(金銭主義)であり、これも、瞬間的憎悪の発露としてのあまりに安易な衝動殺人であり、また、あまりに瞬間的な情緒やイメージによって浮動する世論の政治である。

 ≪殺伐なこの1年の底流に≫

 ニヒリズムの中では、人々は、自己の行動の与える社会的な意味や連関を十分に想像することができなくなってしまう。そのために、もはや他人のことや、社会のことを考慮に入れているだけの余裕もなくなる。

 今ここでの自己の情念や欲望だけがすべてになってしまうのである。

 この1年を振り返れば、あまりに殺伐とした社会であったといわざるをえないが、その基底にあるものは、現在文明を深く覆っているニヒリズムにほかならないのではないだろうか。ほとんど「目的」なき経済競争の中で、いかにニートやワーキングプアが出ようが、人々はもはや「私」の生活と利害にしか関心をもてなくなっている。
 
 
 他人や社会に対する余裕のなさは、ともかくも非がある者を見つけ出しては声高に責任を追及するという相互不信を生み出している。ニヒリズムの中では、人は、自己保身のために、むきだしの「力」を求めようとする。ニーチェのいう「力への意思」である。

 このニヒリズムに抗することは難しい。しかしもし方策があるとすれば、第1に、現代文明のニヒリズム的性格を理解することであり、第2に、われわれが共通に持てる「善き社会」のイメージを描き出すことでしかあるまい。(さえき けいし)

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明けましておめでとうございます

 新年あけましておめでとうございます。
 今年も、よろしくお願いします。
 
 昨年は、偽という字が象徴するように、偽装が相次いだ年でした。景気は、年初には上昇傾向にあり、財界も強気のコメントを述べていたが、アメリカでのサプライム・ローン破綻や原油高をはじめとする原材料費の高騰などの影響で、後半には失速気味となり、株価は下落したまま、年を越した。
 
 他方で、上層の腐敗を示す事件が相次ぎ、防衛利権をめぐる政官財の汚職事件が摘発されるなどの諸事件が起きた。
 
 拙稿「政治の復権を」に対して、以下のコメントを頂いた。ありがとうございます。
 
 そこで、「人類に共通する道徳なら、「守れない人がいる」というのは矛盾しています」と指摘を受けた。拙稿が言いたかったのは、ごくおおざっぱな、「殺すなかれ、盗むなかれ、騙すなかれ、等々」という程度の道徳は人類共通だということです。その程度のことが、今の政治家には守れないということです。年金問題で、安倍前首相は、一年で年金記録の名寄せは必ずできると公言しましたが、それが不可能であることがすでに明らかになっています。一部報道では、福田政権の支持率急落の世論調査結果を聞いた安倍前首相は、また自分の出番がまわってきたなどと恥知らずにも、語ったと言われています。
 
 なるほど、ご指摘のとおり、以前にも嘘つき政治家はいくらでもいたわけで、例えば、沖縄返還交渉の際に、外務省がアメリカ政府とかわした密約についても、当時の閣僚が知らないはずはないのですが、それについて、知らぬ存ぜぬを通し続けました。嘘つき政治家は、昔も今もいます。それでも、安倍前総理のように、こうあからさまに、嘘をついたことに、恥知らずにも居直るのは、ひどすぎます。
 
 道徳現象は、言うまでもなく、行動・意志の基準を指すことはもちろんですが、それは、単なる観念ではありません。それは、社会現象であり、歴史的現象です。したがって、絶対的であると同時に相対的なものであります。絶対的というのは、ある特定の時代の社会状況の下では、それに拘束されるもので、空想上でしか、それを相対化する自由はないということです。反道徳行為には、様々な制裁が加えられます。それが相対的だというのは、例えば、汝殺すなかれという平時の道徳が、戦時においては、汝殺すべしという風に変わるというようなことです。もちろん、それには具体的な特定の条件があります。死刑制度があれば、国家による死刑という殺人は、反道徳的行為ではないと見なされます。ヨーロッパ諸国のように、死刑制度を廃止した国の多いところでは、死刑は反道徳的と見なされています。これも道徳の相対性を示していますが、当該の国の人々にとっては、それに反することができない絶対的なものです。死刑採用国では、死刑判決で死刑にしない自由はなく、死刑廃止国では、死刑にする自由・選択肢はありません。そもそも死刑判決が存在しないから、その選択肢そのものがないのです。もちろん、空想することや表現の自由が許す範囲で主張する自由はあります。

 さて、その上で、指摘されている現在の選挙システムが、経済的利害によって、一部エシュタブリッシュメントの秘密の権益確保システムとして機能しており、一般人がそこから除外されているということは、なるほど、そのとおりでしょう。
 
 それが一般人に公然と暴露された時、人々が、政治に目覚め、その構造の変革のために立ち上がるだろうという見通しも、おそらく、正しいでしょう。その一端を、先の参議院選挙結果がある程度示したと思われます。
 
 この間、小泉構造改革という名目での、利権の配分構造の再分配が行われ、それにともなって、エシュタブリッシュの間での権力闘争が激化しています。守屋元防衛次官の逮捕事件は、その過程を示しているのでしょう。そして、そのことは、防衛利権の新たな配分構造を成立させる過渡的現象でしょう。昔から、三菱重工などの防衛産業とグラマン・ロッキードなどのアメリカの軍需産業との結びつきやそれと防衛族の汚いヤミの関係については、噂されてきたところです。
 
 小泉構造改革が、あたかも利権政治からの脱却を目指しているかのように自己を美化していることに騙されてはならないのです。旧森派は、文教族として、教育利権を握っており、さらに、旧橋本派の牙城を奪い取り、新たな利権を獲得しようとしているのです。郵政民営化が、郵政利権の旧森派への奪還であることは明白です。
 
 郵政事業から政官財の三者が、できるだけ、利益を貪れるようにすることが、狙いで、現に、黒字であるにも関わらず、さらなる利潤を上げるように、郵政事業では、リストラはもちろん、人件費の削減や労働強化が進められています。その利益は、アメリカにも渡るように、制度が設計されました。郵政民営化後、郵政サービスがどれだけ向上したかは、実際に郵便局に行ってみればわかります。相変わらず、利用者は列を作って長時間窓口で順番待ちさせられています。これは、当たり前で、同じ仕事量に対して人手が減らされているからです。
 
 これは、国鉄分割民営化と同じ結果です。ホームに駅員がいないため、事故や危険な情況が生じた際には、一般の乗客がそれに対応して、ベルを押したりしなければならないのです。自動改札も同じことで、駅員の改札能力の調整によって、流れをコントロールするのではなく、乗客の能力や状態によって、改札のコントロールがされているのです。パスモなら、改札の流れを速くすることができるわけですが、それでも、切符を入れたり取ったりするスピードには個人差があり、一様ではなく、さらに、切符の取り忘れなどもあり、その対応も、乗客にさせているわけです。JRは、そうした人員削減によるサービス低下を料金据え置きという形で、返しているというわけですが、それ以上に、株主への増配や役員報酬増額をしているわけで、それに対して、民間会社だから当たり前だという風にそれを利用者が寛大に許していると、安全崩壊という形で、身に降りかかって来かねないことを考えておかねばなりません。もちろん、JR東海の葛西はじめJR各社の上層部は、それぞれ政界に太いパイプを持っています。
 
 しかし、世の中には、勇気のあるエシュタブリッシュもいるもので、時に、天木直人氏のような人物が出てきます。そして、エシュタブリッシュ内部でしか知り得ない情報を暴露して、人々に教えてくれることがあります。氏を動かしたものの一つは、氏の道徳心であり、正義の感覚です。それは、氏自身の個性というばかりではなく、社会性であり、社会内で育まれ発展している道徳法則であり、氏は、それに正直に従って行動していると思われます。こうした人が、時々出てくるのであり、それは時に、時代の先駆けとなる場合があります。例えば、幕末の大塩平八郎の乱のようなものです。それは、おっしゃるとおり、大量の犠牲者を生むかもしれません。しかし、人々は、昔から、そのように行動してきました。それは、誰か個人が理想として求めるからではなく、社会がそれを個人に求め、行動に駆り立てるからです。
 
 去年の紅白歌合戦は、そうした社会性や社会的連帯をテーマとして強く打ち出していて、今、社会が求めているものに適切に応えようとしているように見えました。
 
 最後は、紅白の闘いを超え、全員での「世界に一つだけの花」の合唱でした。白組の司会は、地方を回って、一般人と交流して歩くNHKの番組「鶴瓶の家族に乾杯」の鶴瓶で、あらかじめ白組の勝ちと決まっているかのような構成でした。まるで、弱者の声を代表しようとしていたかのようです。
 
 利権政治とこうした弱者を代表しようとする政治とが、せめぎあっています。それが、政治というものであり、この闘いが、統治システムを変化させていくのです。現在の選挙システムで、選ぶ者が候補を選ぶのではなく、選ばれる側が候補を決めてしまうというのはそのとおりですが、それでも、やはり参議委選挙で惨敗した与党は、地方の声を反映せざるをえなくなり、北海道一区で、小泉チルドレンの一人で東京からの鞍替えを狙った杉本太蔵自民党衆院議員を選挙区候補からはずしました。利権システムを保持するためには、自民党は、なんとしても政権党であり続けなければならず、そのためには、選挙に負けるわけにはいかないのです。政策もへったくれもありません。そうした幅広の政策のブレを国民政党を掲げることで、表現しているのです。
 
 問題は、一般人が選挙システムを使って、統治システムを変えられるかどうかという点にありますが、小泉ブームは、有権者の間に、統治構造を変えられるかもしれないという幻想をある程度広めたものと思われます。安倍政権への不信任は、そうした幻想に反して、安部政権が昔の自民党政治に回帰していったと見られたことに、一因があったのではないでしょうか? 小泉ブームで都市部での若者や弱者たちが動いたことには、変化への期待があったように思われます。
 
 民主党が、そうした声を反映できるかどうかは、これからですが、チャンスは与えられたとは言えるでしょう。もちろん、それは、民主党次第です。おっしゃるとおり、利権構造に本格的に手をつければ、大きな犠牲が出ることでしょう。天木さんが指摘しているアメリカによる介入・干渉も厳しいものになるかもしれません。そこでも犠牲が出るかも知れません。しかし、先の参議院選挙での民意は、その利権構造を見る覚悟があるということも意味していたように思います。
 
 一度、そうした現実の姿を見てみたいと民意は語ったのではないでしょうか? 希望的観測も入れてですが、私にはそう聞こえました。
 
 それだけの覚悟ができている一般人なら、統治システムを変化させることは可能ではないでしょうか? そしてそれを代表する政治が、今求められていると思います。

 では、よいお年を!
 
人類に共通する道徳なら、「守れない人がいる」というのは矛盾しています。
共通していないことが文中で明らかになっています。
恐らく、あなたにとって「相対的でない基準であって欲しい道徳」ということでしょうか。
しかし、政治が今の時代とくに腐敗しているとは思いません。
むしろ、今は彼らエスタブリッシュにとって選択肢が増えたのだと思います。
もしそうだとしたら、もはや昔の時代には戻れないでしょう。
なにより一番の問題は経済であり、その根底にあるのがまさに生産、流通側の選択肢が増えたことによる弊害に見えるからです。
そして、「政治に無関心」といわれる人間が無関心なのは選挙であると思います。
自分の状況に影響力を持つことへの無関心ではないと思います。
彼らは選挙が具体的に自分の状況への影響を持つことを疑っており、それは懸命な疑惑であると思います。
実際、政治はむしろ金とコネ、利害関係で動き、ある種の人間は政治家を「使う」物だと考え、それを実行し、結果を出しています。
そしてむしろ、選挙を信奉する人間の状況は悪化の一途を辿っているように見えますが、驚くことはありません。
人気投票と具体的な行動と現状、結果の把握は違います。
政治家を「使う」人間が興味があるのは具体的な結果と、そこに至る方法です。
人気投票をする人間はギャンブラーほどの結果も期待できません。
なぜなら、「なぜ選挙で影響力を確保できると思うのか」と問うことが無いからです。
もしそうすれば、行動と期待する結果の間にそこに至る経過というつながりが見えてこないことが、もしくはその溝を埋めるものは「他に選択肢が無いから」という理由にかさを増された希望的観測に過ぎないということがすぐにわかる筈です。
恐らく、若者はそのことを見抜いた上で具体的な行動指針を見出せずにいるのだと思います。
選挙は人の利害を代弁しえません。
限定された人間の中から人気投票をすることの何が変化をもたらすのでしょうか。
しかも、大して知りもせず、選択する前から人選がおおむね決まっているのであれば。
違うとすれば誰か反証してもらえませんか?
それから、「政治」への無関心ですが、統治の実態に対する好奇心は、あったとしても、それを見出すことは出来ないでしょう。
実態はそもそも隠されています。
現実を知れば何か行動を起こそうとする人間がいることが判るからです。
そんなことをすれば、そしてその情報を利用しようとすれば消されるでしょうからね。
石井議員のように。
基本的に弱者は政治には関われません。
ちがうならばそれまでですが、むしろそれ位の困難さと構造の存在は変化を求めるのであれば前提としてあると知っておくべきでしょう。
わたしは今の一般人が統治システムを変化させ困難を回避できる可能性は限りなくゼロに近いと思っています。
恐らく大量の犠牲者が出るのではないでしょうか。

あと、最近の猟奇殺人は向精神薬の関与が疑われていますね。

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