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ニヒリズム脱却は「善き社会」のイメージから

 昨年の大晦日の『産経』「正論」に、佐伯啓思京大教授の「ニヒリズムへ突き進む日本」という文書が載った。
 
 氏は、現代文明の本質を、一言で述べれば、ニヒリズムだと語っている。それは、既存の価値が次々と崩壊しているからである。そのために、世界を統一したものとして見ることができなくなり、歴史や社会とのつながりを持てず、行為に確かな社会的、歴史的意味を与えられなくなり、行動の確かな目的もわからなくなっているという。
 
 一面、肯ける見方ではある。もっとも、行為の客観的価値の方は、貨幣という価値でもあり価値基準でもあるものが全面的に支配しており、それ以外の価値が崩壊しているのである。すべては、測るもの=貨幣に対して、測られる対象と化している。俗に言えば、儲かるかどうかが基本的な行為の基準になっているのである。それ以外の価値は崩壊し、それへの抵抗はすべて否定的に評価され、究極的には無化される。
 
 それが、ニヒリズムとして現れているのである。

 「これ以上、経済成長を続け、自由・平等の実現をはかったとしてもにもかかわらず、われわれは、経済的豊かさ、自由・平等の実現という価値を相変わらず高く掲げている。一体、何のために経済的豊かさを求め、自由の拡大によって何をするのか、という問いに対する答えは空しく宙をまう」。
 
 「こうして、経済成長、自由・平等の拡大という本質的に「手段」であるものが「自己目的」となってしまい、しかもその「目的」は具体的イメージを伴わないために内容空疎な名目となってしまった。かくて、われわれは何のために働き、何のために勉強をし、何のために自由を求めるのか、その素朴な問いの前に茫然(ぼうぜん)と自失しているように見える」。
 
 「われわれは何のために働き、何のために勉強をし、何のために自由を求めるのか」がわからなくなってしまったと佐伯氏は言う。
 
 「行動には確かな意味を付与できず、不安と苛立(いらだ)ちだけが募ってくるように見える。ニヒリズムというほかなかろう」
 
 そして、マネーゲームと金満主義(マモニズム)が蔓延している。
 
 「ニヒリズムの中では、人々は、自己の行動の与える社会的な意味や連関を十分に想像することができなくなってしまう。そのために、もはや他人のことや、社会のことを考慮に入れているだけの余裕もなくなる。/今ここでの自己の情念や欲望だけがすべてになってしまうのである」。
 
 そして、「ほとんど「目的」なき経済競争の中で、いかにニートやワーキングプアが出ようが、人々はもはや「私」の生活と利害にしか関心をもてなくなっている」という。経済競争には、もちろん、「目的」はある。利潤獲得である。そのために、作られた階層的な制度の下で、「人々はもはや「私」の生活と利害にしか関心をもてなく」されているのである。職場で、「私」の生活と利害について話題にすれば、上司は喜ぶ場合が多いはずである。しかし、他者に関わること、社会問題や政治問題について、深く問題にして話題にすれば、上司はそれを喜ばないだろう。かくして、人々は職場環境を考慮して、話題や関心の持ち方を方向付けるのである。
 
 しかし、よく見てみれば、人々が「私」の生活と利害にしか関心を持たないということはない。それは不自然というものである。私という意識は、反省する時に現れる自覚であるが、そういう私意識のない状態でも、意識は活動していて、様々なものを認識している。他者の生活や利害についても認識しており、社会についても認識はしている。それを私という意識から除外してしまう排除のメカニズムによって、無関係なものと分類されてしまうので、ニヒリズムに見えるのである。
 
 人々は、私という意識が、認識を狭めなければ、というよりも、通常は、私意識などなしに認識活動は行われているので、私以外の世界について人々は絶えず関心を抱いて、認識の網に引っかけてはいるのである。それをそのまま表現すれば、社会認識があり、社会的理想を萌芽として持っていることがわかる。

 氏は、「このニヒリズムに抗することは難しい。しかしもし方策があるとすれば、第1に、現代文明のニヒリズム的性格を理解することであり、第2に、われわれが共通に持てる「善き社会」のイメージを描き出すことでしかあるまい」という。第1の方策については、条件付きだが認められよう。第2の方策については、「善き社会」のイメージを描き出すのはよいが、それがどこからどのようにして描き出せばよいのかが不明である。佐伯氏が、描き出すのか? そうではあるまい。それは、人々が、自意識から排除してしまう意識の中から、取り出して描き出されるべきであろう。

【正論】ニヒリズムへ突き進む日本 京都大学教授・佐伯啓思
2007.12.31

「善き社会」へのイメージが描けず

 ≪行為の意味に確信がない≫

 いささか乱暴ではあるが、もし仮に現代文明の本質を一言で述べよといわれれば、私は「ニヒリズム」という言葉を使いたい。ニヒリズムとは、ニーチェによると、これまで自明なものとして信じられてきた諸価値の崩壊である。価値の崩壊とは、人々が、物事の軽重やその意味や本質を判断する基準が失われてしまうということである。

 その結果どうなるか。われわれは世界を統一したものとして見ることができなくなり、われわれの行為は、社会や歴史とのつながりを持てず、行為に確かな社会的、あるいは歴史的意味を与えられなくなってしまう。行動の確かな目的もわからなくなってしまう。

 そうなるとどうなるか。人々は、自己の行為の確かな意味や目的を確信できなくなるために、ある者は瞬時の刺激や快楽を求める刹那(せつな)的快楽主義に走り、ある者は、所詮(しょせん)何をしても無意味だとしてこの世界をシニカルに見る冷笑主義へと走るであろう。私には、今日の日本も世界も、その意味で急速にニヒリズムの坂を転げ落ちているように見える。

 戦後日本は、経済的豊かさの追求、自由や平等の実現を目指してきた。これは、貧困からの解放、戦中の不自由や抑圧からの解放、極端な社会的格差や差別からの解放という意味では、確かにわれわれの心理を捉えた、といってよかろう。

 それらから解放されることで、われわれは何か「善き生活」が手に入るという期待をもてたわけである。「善き生活」や「善き社会」という期待やイメージがかろうじてあれば、それを実現する手段としての経済成長や自由・平等にも大きな価値が与えられたのであった。

 ≪目的そのものが内容空疎≫

 しかし、それらがある程度、実現したとき、どうなるか。もはやわれわれは、この先に来る「善き社会」のイメージを描き出すことは出来なくなっている。これ以上、経済成長を続け、自由・平等の実現をはかったとしてもにもかかわらず、われわれは、経済的豊かさ、自由・平等の実現という価値を相変わらず高く掲げている。一体、何のために経済的豊かさを求め、自由の拡大によって何をするのか、という問いに対する答えは空しく宙をまう。

 こうして、経済成長、自由・平等の拡大という本質的に「手段」であるものが「自己目的」となってしまい、しかもその「目的」は具体的イメージを伴わないために内容空疎な名目となってしまった。かくて、われわれは何のために働き、何のために勉強をし、何のために自由を求めるのか、その素朴な問いの前に茫然(ぼうぜん)と自失しているように見える。

 行動には確かな意味を付与できず、不安と苛立(いらだ)ちだけが募ってくるように見える。ニヒリズムというほかなかろう。

 行動に確かな意味を見失ってしまった結果が、瞬間的快楽ゲームの様相を呈する過度なマネーゲームとマモニズム(金銭主義)であり、これも、瞬間的憎悪の発露としてのあまりに安易な衝動殺人であり、また、あまりに瞬間的な情緒やイメージによって浮動する世論の政治である。

 ≪殺伐なこの1年の底流に≫

 ニヒリズムの中では、人々は、自己の行動の与える社会的な意味や連関を十分に想像することができなくなってしまう。そのために、もはや他人のことや、社会のことを考慮に入れているだけの余裕もなくなる。

 今ここでの自己の情念や欲望だけがすべてになってしまうのである。

 この1年を振り返れば、あまりに殺伐とした社会であったといわざるをえないが、その基底にあるものは、現在文明を深く覆っているニヒリズムにほかならないのではないだろうか。ほとんど「目的」なき経済競争の中で、いかにニートやワーキングプアが出ようが、人々はもはや「私」の生活と利害にしか関心をもてなくなっている。
 
 
 他人や社会に対する余裕のなさは、ともかくも非がある者を見つけ出しては声高に責任を追及するという相互不信を生み出している。ニヒリズムの中では、人は、自己保身のために、むきだしの「力」を求めようとする。ニーチェのいう「力への意思」である。

 このニヒリズムに抗することは難しい。しかしもし方策があるとすれば、第1に、現代文明のニヒリズム的性格を理解することであり、第2に、われわれが共通に持てる「善き社会」のイメージを描き出すことでしかあるまい。(さえき けいし)

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