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2008年2月

ふるさと学は規律をつくれない

 ふるさと学は規律を作れないという主張に対して、論理的ではないというコメントが寄せられた。

 もし、それが、学問が規律を作れるという思い込みから来ているとすれば、その方が馬鹿である。規律は生活の必要から生まれるのであり、集団生活の現実的必要が、規律を生み出し、そしてその規律を守るように集団メンバーに対して強制されるのである。もちろん、それには、制裁がある。しかし、大抵は、社会的生活の必要から生まれるので、その集団のメンバーは規律を守ることを自分の利益になるものとして同意の上で従っている。もっともそれは可変的であって、変わることがある。

 例えば、特定の時間に作業場で仕事につくのは、それが共同作業に必要だからである。

 ふるさと学は、ふるさとについて学ぶことで、社会生活上のどんな規律意識を与えられるというのだろうか? ふるさとの歴史を学び、愛郷心を育てるが、生活の必要は、人々を都市に向かわせる。都市には都市の生活スタイルがあって、そこで都市的な規律・規範を身に付けなければならない。ふるさとでは、隣近所づきあいすることがマナーにかなっているが、都市ではできるだけ他者に触れないようにするのがマナーである。農作業は、耕運機の音など大きな音を出しながら行われるが、都市のオフィスではできるだけ静かにして仕事が行われる。現代の都市的生活において、ふるさと学なる学問が愛郷心→愛国心→国防意識→軍事的規律という図式は成立しにくい。

 そのことは、イラク戦争に対して、アメリカでも都市部では批判的であり、愛国的なのは南部の農村であることでも明らかである。そしてそこには南部の貧困があり、軍隊が仕事のない若者の有力な就職先になっているという生活上の必要があるという事情がある。日本でも、昭和恐慌に見舞われ、あるいは、凶作に見舞われた農村で、軍隊は立身出世できる憧れの就職先であったということがある。戦後において国鉄はそうした職場の一つであった。2・26事件を引き起こしだ青年将校の多くが東北の貧しい農村の出身で、農村の病弊に対して、財閥や政治家が無策であったことに義憤を感じたわけである。愛郷心は時にこうした過激な形態をとる場合もある。

 ふるさと学というのがどんな学問かがあまりはっきりしておらず、単に地域の歴史や風土について学ぶということなら、これまでも行われてきたことだ。しかし、日本全国どこの地方都市の駅前も似たり寄ったりの風景になってしまったように、ふるさととしてのアイデンティティを感じにくくなっている。教科書で単なるひからびた知識としてだけ、ふるさとについて学ぶだけだとしたら、情操などは育つまい。ましてや、そこから規律が生まれることなどありえない。情操も規律も社会関係の中で育つものだ。その人と人のつながりが失われてきている以上、学校教育でふるさと学なるものを知識として詰め込んだところでどうなるものではないことは明らかではないだろうか。

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本物のマナーとは?

 マナーの本などには、第一印象が大事ということが書かれている。

 しかし、第一印象でしか人や物事を判断できない者は、考えが浅く人間観も未熟で不足している可能性が高い。外面に内面が現れるのは、率直な人間関係の中でのことであり、通常の会社間の付き合いや商談などではありえないことである。

 会社間のビジネス関係においては当然お互いの会社利害を背景にしているので、お互いそういう利害を代表する外面を演出し、演技しているのである。そこで、第一印象や外面をそのまま受け取って、相手を判断する者は、だめな者である。

 その仮面の下にどういう会社利害を隠しているかを見抜くことができなければ、不利を受けるかもしれない。相手の仮面を暴く鋭い判断力を持たなければ、このような競争社会においては、企業の存続は難しいと言えるかもしれない。

 新自由主義経済学者フリードマンによれば、競争経済は、企業間の信頼と協力を促進する制度だという。実際には、それは、ホリエモンに明らかなように、信用や期待を利用して、それを裏切ってでも、自己利害の拡大を促す制度である。それは、人間のいやしく醜い面を肥大化させる。ところが、そのような功利性は、新自由主義経済学が、美化するところの美徳である。人間社会の社会性は、その結果にすぎない。利己的個人がはじめにあるのであって、社会がはじめにあるわけではないというわけだ。かれらがこの世に実在する人間としては唯一認めている利己的個人こそ、近代資本制社会が生み出したものであった。江戸時代には、罪は個人に責任を負わすのではなく、連座制であって、処罰は一族郎党に及ぶものであった。犯罪は、社会的行為=共同体的行為であって、個人的行為ではなかったわけである。いずれにしても、競争経済の下では、企業行為は、企業利益を最大にするという動機が最優先となっているということが通常であることを忘れてはならないのである。

 前に取り上げた製紙メーカーや食品偽造問題はその最たるものだ。アメリカでは、エンロンによる不正事件がそれに当たる。これはエンロンだけが悪者というわけではなく、エンロンに偽装融資していたシティバンクなどの大手金融機関もそれに手を貸していたという点で、深刻なモラルハザードが蔓延していたことを露呈した大事件であった。ところが、ブッシュ政権は、エンロンだけを悪者にして、金融機関の共犯関係を強く追求することをしなかった。そうして生き残った金融機関は、今度は、地価の右肩上がりの上昇という可能性の低いおとぎ話を前提にした低所得者向け住宅ローン(サブプライム・ローン)を組み込んだ金融商品を売り出し、あるいは、その買い手となった。

 そして、それは地価バブルがはじけるとともに破綻した。金融機関は損失を蒙った。だが、自由主義経済では、企業がどのような金融商品を開発し、売買することは自由だと言って、ブッシュ政権はこれをかばって、しかも、公的資金の直接注入は否定しているものの減税などの手段で景気の下支えをはかる政策を決定した。それに声を合わせたのが、日本の新自由主義経済学者やその仲間たちである。連中は、金融機関をもっと自由に活動できるようにする方が解決につながるというのである。それが、数年前と違って、今では、空しくしか聞こえなくなっていることが、この間、人々が、学んで進歩したことを意味している。

 それなのに、相変わらず、消費者や取引先をだます事で短期利益ののあぶく銭稼ぎに走っている企業次々と現れている。そうなればなるほど、企業を社会道徳に従わせろという声が強まるだろう。

 こんな情況になっているというのに、第一印象が大事などということが、マナーのトップに掲げられているのでは、まったく現実離れしている。むしろ、「第一印象に騙されるな」がトップにあるべきだ。見かけや外面で人を騙そうとする者が、それを見抜かれることを恐れるような高い判断力・人を見る目が必要だ。その上で築かれる信頼関係なら、強力だ。先にも、健康商品のねずみ講が新規契約停止の処分を受けたが、その会員がなんと50万人もいたという。もちろん、彼らのほとんどは善意の被害者だろう。

 しかし、同じ仕組みのねずみ講がつぎつぎとできではつぶれているのは、ねずみ講を仕掛ける側と被害者の間に共通する価値観があるからだろうと考えねばならない。

 それは、今回の件では、健康になる商品はいい物だ。それを商売にするのは当然で利潤もあることも当然だとする価値観である。資本制経済社会では、商品は、利潤を多く得るために生産されているのが基本であり、中には、健康という効用をほとんど持たないようなものさえも、商品化されることがあるということを忘れてはならない。例えば、『新・家庭の医学』を見てみると、いわゆる滋養強壮剤ドリンクに入っているタウリンについて、医薬品とされておらず、その効果も医学的に確証されていないということが書かれている。けれども、ドリンク剤には、健康によいものという印象を与えるような説明が書いてある。もちろん、それには、それ以外の様々な成分が入っているので、効き目がないというわけではない。ただ、タウリンというだけで滋養強壮に大きな効果があると思い込まないように気をつけなければならないということだ。

 タバコの害悪についても、医学的に確実性の高い臨床データはない。よく、一日タバコ何本を何年続けているとガンの発生率が高いなどということが言われるが、こんな何十年もかけて大勢を追跡調査しないとはっきりしないような調査をやっているところが本当にあるのだろうか? 病院でそんな調査をされた人はいるのだろうか? カルテは数年で廃棄されるのだから、どうやって何十年もかかる調査データを揃えたのか? わからないことだらけである。

 とにかく、曖昧なデータから、様々な神話が作られ、新しい規制や道徳が作られることがある。それに振り回され、時に、実害を受けることもある。神話批判ということも大人のマナーとして身に付けたほうがよい。

 

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防衛庁から民間企業からみんなおかしい

 外務省の情けない実態が暴露されたのに続いて、防衛庁の職員の賄賂事件が発覚した。さらに、最新鋭のイージス艦が、漁船と衝突した。沖縄では、米兵による強姦事件が新たに一件起きていたことが明らかになった。

 一体、この国もアメリカもどうなっているのか?

 民間では、食品偽装が相次いで発覚しているが、エコをうたった紙製品の偽装事件も、ここにきて、広がりと深まりを見せている。

 再生紙と表示しながら、実際には古紙の配合率が1割にも満たないような商品を売っていた日本の大手製紙メーカーは、他の製品でも偽装を行ったということが暴露されている。さらに、アメリカやドイツなど海外からの輸入品でも偽装があるという。

 健康だの環境だのというものをうたい文句にしたエコ商品だの健康商品だのが、これからの消費者のニーズに占める割合が大きくなるとして、いわば環境イメージ・健康イメージをあくまでも企業利益獲得の手段としてのコマーシャルとしてしか見ていない企業が多く、しかも、NPOを商品価値を高めるための手段として利用したわけである。

 この件の調査と告発を進めている環境NPOは、大手製紙メーカーなどにだまされていたわけだが、それにしては、こうした企業に対する態度は甘すぎるように見受けられる。この件は、NPOの信用を大きく傷つけたのだから、このNPOは、告訴を含めた厳しい対応を取るべきだろう。今のところ、そうした態度が見られないのが不思議ではある。

 NPOは、こうした分野をはじめ、行政や企業ではやりにくい社会的活動領域で大きな力を発揮しているのは確かだが、同時に、それらの機関の下請けや商売に利用されていることもあるようで、今回の場合には、製品にNPOのお墨付きを与える役割を担わせられていたものと思われる。おそらくは、NPOの中には、お互い様というような相互利益の交換的な発想を取っているところもあろう。企業は、それで企業イメージや商品イメージが上がるという利益があり、NPOは、その一部で目的とする活動ができというようなことである。しかし、そこには、資本制経済では、企業側の利益追求は、社会活動としての優位性があり、優先されるということからNPOが目をそむけているのではないかという問題がある。

 しかし、もともと、社会的活動には、経済利害に左右されない利害があり、そちらが優先ということがある。希少動物の保護は、企業に利潤をもたらさないが、自然の一部としての人類としての地球環境全体に配慮する責任という点から、やるべきだし、そういう道徳を持たねばならないわけである。動物が住めなくなるような環境で、人類だけが生き残れるわけがない。

 竹中流の経済学というのは、彼の経済入門書を読むと、そうした問題をまったく無視していて、ある特定の経済要素だけをあれこれといじくりまわしているだけである。実際には、もし~という限定のもとに言わなければならないものを、こうだと断定しまくっていて、その理由を適当な統計数字で証明するという実証主義的なものにすぎないのである。

 資本制経済の原理とは何かと聞かれた竹中は、安く買って高く売ることだと答えた。それなら、古代フェニキア人だってやっていたことで、この定義ならフェニキア人は資本家だったということになる。

 竹中の目には、資本制経済的な現象しか映らず、それ以外は、例外に見えているのだろう。ところが社会的利害は、基本的なところでは、支配的な価値観を反映してはいるが、同時にそれを超えるような矛盾的なものをも含むのである。竹中は、一方の側のみに立っているから、対極にあるものを例外としてしかとらえられないのである。

 NPOの側から見れば、企業や竹中こそ、原則に反しているのであって、原則を無視していることになる。企業活動を自由化していくことは、地球環境を破壊し、そうして人類を破滅に導く行為である。企業活動の自由は制限されねばならず、企業が、環境保護のために必要な人類道徳に従わねばならないのである。

 企業が人間社会の一員であるならば、社会道徳に基づく社会的規制に従うのは当然のことなのである。ところが、竹中の発言にも、経済教科書にも、そんなことは一つも出てこないのである。

 NPOは、企業や行政を社会的規制に従わせるべきであって、もちつもたれつなどというのは、かえって自らの道徳的腐敗や力の減退につながるのであるから、そうした点にもっと慎重であるべきだろう。

 最後に、イージス艦の衝突事故で行方不明になった漁船員2名の無事を祈りたい。親子のうち、息子さんの方は、東京のホームレスなどに時々差し入れをしてきた立派な人物であったという。石波防衛大臣に辞任を求める声が出ているが、当然だろう。イージス艦側の証言は、つじつまが合わないものが多く、その点でも漁民たちの反発を買っている。

 長などと名のつく者は、こういう時に「切腹」するためにいるようなものである。とりわけ、自衛隊の長たる者は、率先垂範すべきであり、潔さが必要である。

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外務省の驚くべき実態

 2月18日の天木直人氏のブログ記事「佐藤優の的確な外務省批判」は、外務省の驚くべき実態を暴露している。

 それによると、18日発売の「週刊現代」には、「機密費でお子様ランチを食べさせたり、セクハラを強要したり、長期欠勤にもかかわらず給与が全額支給されていたり、と、問題職員がリストアップされている内部資料」が暴露されているという。

 沖縄での米兵による犯罪事件が続発し、政府=自民党の町村官房長官さえ、これらの事件が米軍再編に影響を与える可能性なきにしもあらずと中学生少女暴行事件後の福田総理の影響はないとする見方を修正した。町村官房長官は、そうならないよう期待すると述べてはいるが、近く来日するライス米国務長官に対して説明を求める考えを示した。

 日米間の信頼関係が揺らぎかねない事態が起きている最中に、その最前線に立たねばならない外務省が、こんなありさまでは、日本外交はどうなってしまうのだろう? この文書自体の真偽はともかく、天木氏は外務省内で、「そのような職員がいたことはこの目で見てきた」という。

 そして氏は、驚くべきことに、

> 私が指摘したいのは週刊現代の取材に応じて答えている元外務省主任分析官佐藤優のコメントである。彼は言う。
>
>  「なぜ外務官僚がここまで乱れるか、ひと言でいえば勤務がヒマだからです・・・」
>
>  この言葉ほど的確な答えはない。私は佐藤優の言論のすべてに目を通しているわけではない。賛同できない意見もある。しかし彼の外務省批判は見事なまでに的確である。
>
>  私が外務省にいた時からそうであった。ほとんどの職員がヒマをもてあましているのだ。もちろん、残業と称して遅くまで大勢が仕事をしている。しかしどうでもいい事に無駄な時間を使っているのだ。

 という。

 そして、その原因を天木氏は、「やるべき外交は山ほどある。しかしそれをやろうとしない。何を、どうすればいいか、どこから手をつけていいか、わからないのだ」と述べている。

 本当かと思ってしまう話だが、日本の外交政策は、ほぼアメリカの外交政策に追随するだけでいいのだから、そんなものかもしれない。佐藤優氏や天木直人氏のように余計なことをしないほうが、外務省組織としては安全ということなのだろう。

 こんな時期にはスキャンダルが暴露されるだろうと天木氏は警告する。しかし、在日米軍のスキャンダルが続いている時に、外交の足を自ら折ってしまうような外務省は、情けない。

 佐藤優の的確な外務省批判(2008年02月18日)

 18日発売の週刊現代に、「秘トンデモ外務官僚リスト」が流出した!というゴシップ記事が出ていた。

 それは、週刊現代誌が外務省内部から入手した極秘職員リストであり、機密費でお子様ランチを食べさせたり、セクハラを強要したり、長期欠勤にもかかわらず給与が全額支給されていたり、と、問題職員がリストアップされている内部資料だという。

 このリストが本物なのかどうか知らない。外務省は出所不明の文書でありコメントを控えると言っているらしい。しかしこのような醜聞は既に繰り返し報道されてきたものばかりだ。そのような職員がいたことはこの目で見てきた。いずれにしても次元の低い醜聞だ。

 私が指摘したいのは週刊現代の取材に応じて答えている元外務省主任分析官佐藤優のコメントである。彼は言う。

 「なぜ外務官僚がここまで乱れるか、ひと言でいえば勤務がヒマだからです・・・」

 この言葉ほど的確な答えはない。私は佐藤優の言論のすべてに目を通しているわけではない。賛同できない意見もある。しかし彼の外務省批判は見事なまでに的確である。

 私が外務省にいた時からそうであった。ほとんどの職員がヒマをもてあましているのだ。もちろん、残業と称して遅くまで大勢が仕事をしている。しかしどうでもいい事に無駄な時間を使っているのだ。

 やるべき外交は山ほどある。しかしそれをやろうとしない。何を、どうすればいいか、どこから手をつけていいか、わからないのだ。

 外務省がニュースになる時は拉致問題、米軍再編問題、領土問題、靖国問題など後ろ向きの処理案件ばかりだ。しかもいずれも行き詰まっている。張り切って進めた国連安保理常任理事国入りは見事に頓挫した。

 最近はこれらの外交に関する記事も少なくなった。さぞかし外務省はヒマであろう。こんな時こそ事件が起きたり、醜聞が出たりするものだ。外務省は気をつけたほうがいい。
http://www.amakiblog.com/archives/2008/02/post_513.html#trackbacks

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景気と春闘

 先日、日本の昨年末までの2期4ヶ月間のGDPの伸び率が、市場の予想を上回る高い数値を示したことが明らかになった。

 この間、アメリカではサブプライム・ローン問題によって、経済的打撃を受けていたことから、対米輸出が減少すると予想されていた。

 それにもかかわらず、対米輸出など対外輸出は好調で、外需寄与度が高かった。それに企業の設備投資も多かった。設備投資の中身が問題だが、それについてはわからない。

 外需の中身は、アメリカはもちろん、中国、インド、ブラジルなどの新興工業国への輸出が増えたという。

 この成長を日本経済の強さの証として、さらなる経済成長への期待を示す楽観論とアメリカ経済など世界経済の成長の鈍化の影響はこれから本格的に出てくるという悲観論の対立が、エコノミストの間にはある。

 この先行き不透明感が出てくることをさっそく経営側は利用して、春闘での賃上げを抑制する考えを示している。しかし、賃金は消費の元の一つであり、消費拡大のためには、賃上げが必要である。もっとも、今のように年金問題などの将来不安が強まっている中では、貯蓄に回る可能性が高い。

 資本制経済では、賃金=労働力再生産のための生活費を引き下げる傾向が働いているが、それにしても、2000万人ものワーキングプアがいるようでは、労働力再生産は、世代を超えることはできない。大企業正社員でも、長時間労働によって、疲れきっていて、次の世代を残す力が低下している。

 これでは資本制経済そのものの存続も危うい。そういう社会そのものの滅亡を推し進めている経営者の上のような発言に対して、社会的危機からの脱出という目標を掲げた上で春闘にのぞまなければ、力強い闘いはできないだろう。また、ずるずると経営者に押し切られてしまうのだろうか? 「連合」は、先細りする大企業正社員の組合として、組合員を減少させていくのか? 正念場だと思うが、そういう迫力も気迫も幹部からは感じられない。

 

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沖縄の許しがたい事件

 沖縄では、またしても、米兵による中学生少女暴行事件が起きた。
 
 それに対して、中井真知事は、これが普天間基地問題に影響を与えることはないと言った。同じように、福田総理は、この事件が米軍再編問題に影響を与えることはないと言った。

 しかし、それらはそうあれかしという政府・県当局の願望をあらわしている。両者とも、許しがたい事件であると在日米軍当局に対して綱紀粛正を求めた。

 それに対して公明党北側代議員は、これは日米地位協定改定の必要性を示す事件だと述べ、認識の違いをあらわした。

 このような蛮行は許しがたい。沖縄は、形式的には他の県と対等な一県とされているが、実態は、いわば国内植民地というべきものになっている。その差別支配の棍棒の一つが、沖縄に集中する在日米軍である。そして今回の事件も、そうした差別―被差別の不平等な関係を背景に傍若無人に振舞う米軍人の態度があらわれたものである。そして、それにたいして、政府も沖縄の保守県政も、アメリカの番頭よろしく阿諛追従しているのである。

 郷に入っては郷に従えという言葉があるが、在日米軍は、日米地位協定によって、特権を得ていて、それに従わなくていいことになっている。それについてのアメリカ側の言い分は、日本の司法・警察・裁判は、人権のレベルが低く、容疑者とされた米軍人が非人道的な扱いを受ける恐れがあるからというものだった。

 かつて、アメリカに家族を持ちながら、沖縄の女性と一緒になって子供まで持って、それを捨てたまま知らんぷりでアメリカに帰っていくという非人道的なことをする米軍人がいて、ハーフの子供を抱えるシングル・マザーの生活困窮などの問題がクローズアップされたことがあった。要するにこのことは、日米地位協定が守っているのは、米軍関係者の人権のみであるということだ。沖縄県民とアメリカ人の人権は同じでなければならないが、不平等なのだ。

 そして、その不平等の解決のために、汗を流さないどころか、とにかく、日本の安全を守るためには、在日米軍が必要だと繰り返すのみだ。

 沖縄では、抗議行動が行われ、自治体で抗議決議があがっている。沖縄県民は、教科書検定問題で沖縄で広まった日本政府への不信の念がある中で、この問題への政府の対応を厳しく見守っていることを忘れたら、福田政権は、沖縄から不信任を突きつけられるだろう。

  このような米軍人の非道を許してはならない。

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春近し

 今年は、久しぶりの寒い冬になった。

 これもエルニーニョとやらのせいなのだろうか? それでも寒さの中にも、日差しの強さや空気の匂いなどの中に、春の気配が感じられるようになった。

 すでに蝋梅をはじめ、梅の花が開き始めている。今でこそ、春と言えば、桜ということことになったが、昔は春の花と言えば、梅の花が代表的なものの一つであった。禅宗では、黄梅には、特別の意味があり、シンボルである。東京なら、小石川後楽園の梅は種類が豊富である。それに湯島の梅も有名だ。水戸の偕楽園、北九州の北野神社も有名である。香りのある梅もあり、香りのない梅もある。梅干にできる梅もあれば、できない梅もある。田舎では、梅干を漬けるために、庭などに梅の木を植えていることが多い。白梅である。

 太陽の光は、高くから照るようになり、地面は熱く暖められて、土の匂い、草の香りを放射している。

 しかし、風は冷たく、時に雪も舞う。とはいえ、それもぼた雪で水分を多く含んだ重い湿った雪だ。

 早足で散歩するとちょうどいい感じである。少し汗をかくぐらいが気持ちよい。子供のころは、雪の日に家でじっとしていることはできなかった。でも、今は、雪が降ると外に出たくなくなる。

 雪を見てうれしくなったのはなぜなのか? スキーが趣味の人は、雪が待ち遠しいというのと似ているのだろうか? 雪で遊ぶことはいろいろあった。スキー、そり、雪合戦、雪だるまづくり、かまくらづくり、雪の玉を固くして競う遊び、雪の中を転がることも楽しい遊びだった。

 そういえば、韓流ドラマ『冬のソナタ』には、雪だるまを二人で作って遊ぶシーンや粉雪をかけあうシーンや雪の玉の中にペンダントを隠して渡すシーンや足跡を踏んで歩くシーンなど雪遊びがいろいろ出てきた。カン・ジュンサンは、雪を見ると楽しそうだった。チョ・ユジンが婚約式に向かう途中で、チュンサンを見た時、彼は雪を見上げて笑っていた。

 しかし、今年の冬は、楽しい冬の話題は目立たず、食品偽造だの農薬混入だの物価高だの金融危機だの犯罪のニュースだのという暗い話題ばかりが目立つ。

 なぜか、人々が嬉々として話すような明るい話題もないようだ。人々は、何か不安や不満を抱えつつ
、黙々と生き、生活しているように見える。

 雪の日、楽しそうに歩く人の姿は少ないように見える。でも、春は間違いなく近づいている。ジャンパーやコートを脱ぐころ、身軽になった人々の身体は、はずむように動いているだろうか? 桜が咲くころ、笑顔で空を見上げる人が多く見られるようになるだろうか? 

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金融危機・政治その他

 相も変わらず、国会は、ガソリンの暫定税率の話に夢中になっている。

 株式市場は、株価低下に打つ手がないという感じで、政府の景気刺激策に期待しているようだ。

 今度は、中国の工場から輸入された冷凍ギョーザから農薬が検出されたことで、食品の安全の問題がクローズアップされてきた。

 シカゴの穀物取引所で、小麦の先物価格が最高値をつけたという。4月には、電気・ガス料金が大幅値上がりする。

 この物価上昇に対しては、いくつかの対策が可能だろうが、その一つは、為替を円高に誘導するというものである。というのは、今の物価上昇は輸入品の価格上昇から引き起こされているからである。輸入品の価格を引き下げるには、為替を引き上げるか、関税を引き下げるか、需要を減らすかである。石油の場合、農産物と違って、国内に競争相手がないので、関税を引き下げても打撃を受けるところはほとんどないだろう。しかしたぶん石油輸入品にかけられている関税はたいしたことがないだろう。需要を減らせば、景気を下に引っ張るだろう。為替を引き上げれば、輸出産業が打撃を受けることになる。どうしたってどこかが犠牲になるわけだが、それでも今のように、政府が無策を続ければ、全体が沈んで行きかねないのだから、早めに手を打った方が費用もかからないはずである。

 もちろん、それには財政的な問題があるし、タイミングの問題もある。ただ、経済政策を担当する太田大臣は、竹中流の新自由主義者であるようで、インフレになるような政策は打たないようである。つまり、日銀の貨幣供給を増やし、賃上げを奨励し、国内消費需要を増やすというような方策は採らないようだ。言うまでもなく竹中は、供給側の規制緩和・自由化で対応せよというご託宣を下している。

 例えば、彼は、ヒューザーの耐震偽装事件で住宅建設の供給側を強く規制したのが現在の住宅建設の落ち込みの原因だと言う。供給が自由になって供給能力が増大すれば、それに対応した需要が自然に生まれるとでも思っているのだろう。強化された供給力に対して、外資を含めて投資が拡大するというわけで、企業は、物を売らないで、資金だけは得られるというわけだ。それを企業は本業で使わないで、金融商品を買うことにも使えるというわけだ。だから、そうした金融化した企業は、高金利を望むようになる。そして竹中は言った。「安く商品を買って高く売ってどこが悪いんですか」と。それを認めないのは資本主義を否定するのと同じだと。

 貸金規制の強化に対して彼は、高金利でも金を借りたい中小企業がいるのに、そこに資金が行かないようにしたら、困るのはそうした中小零細企業だと言った。高金利でよい。その価格で貨幣商品を買う者つまりは消費者がいて、需要がある時に、お客に対して貨幣商品を売る供給側が自由にそれができないのでは、市場が歪んでしまうというわけだ。金利は、貨幣商品の需要と供給で決まる。それを決めるのは自由市場である。そんな感じである。

 ところが、消費者金融の金利問題は、そもそも制度的不備があって、上限金利が二つあったことをついて、高いほうの金利を適用していたということが原因であり、しかも、消費者金融業界から自民党議員が多額の政治献金を受けていたという業界と政治の癒着疑惑があった。日銀はただで金をばらまいているわけではなく、金利をつけて、市中銀行に金を貸し付けているのであり、それが公定歩合なのである。さらに、市中銀行が中小零細企業への貸し渋りを行っているのは、国際決済銀行(BIS)のいわゆるBIS規制によって、自己資本比率の引き上げを求められたこともあった。もちろん、90年代の金融危機がバブル崩壊による不良債権の大量発生があったこともある。リスク管理が厳しくなっているのである。そこで、銀行は、ノンバンクへの貸し出しを通じて、本体のリスクを少なくしながら、消費者金融の高金利から利益をあげてきたのである。

 二重の上限金利が撤廃され、経営危機に陥った消費者金融業者は、新たに不動産の保証・取り立て業務などに進出しており、生き残りを模索している。

 竹中のような人間には理解しがたいような借金地獄に苦しむ零細企業という貨幣商品の需要者は、供給の規制緩和によっては救わないことは明らかである。

 竹中は、アメリカ経済の現状はそれほど悪くないと市場の判断とまったく逆の判断を下している。それなら、ブッシュ政権は何のために何十兆円もの景気対策を打ち出しているのか説明できない。あるいは現実が見えないのか、それともわざとうそをついているのか。後者だとすれば、あまりにも見え透いている。どうしてこんな嘘つきが政治家になって大臣までやれるのか? 政治の低劣化が極まったということだろう。

 今、マスコミなどで資本主義原理主義教信者の竹中平蔵の姿は、オウム事件最中にマスコミに登場してはでたらめをもっともらしく強弁していた上祐の姿をどこか髣髴させる。

 この間、規制緩和・自由化が行われた企業の不祥事が相次いで発覚している。派遣業では、大手のグッドウィルが、禁止業務に労働者を派遣していたことが明らかになって、警察に捜査されている。

 国会では、派遣業法の改定も議論されている。派遣労働の原則禁止を求めた議員もいる。竹中なら、派遣の自由化で、雇用が生まれたからよかったと言うだろう。ところがそれによって労働者は全体としては、状態が悪化したのであり、企業ははるかに多く恩恵を受けたのである。不公正である。結果平等は真の平等ではないと新自由主義者は強調した。それを『日経』『読売』などの大手新聞が広報した。そして現実に結果不平等な格差社会になった。この結果不平等な社会化に恐れをなして、『読売』社説は、弱者への配慮を強調したり、市場の問題性を指摘したり、「国民」としての一体性を訴えたりするように変わってきた。

 新自由主義者は、平等を個性の抹殺とみなしているようだが、これは誰が考えてもおかしな嘘である。平等になっても、個性がなくなりはしないことは自明である。まったく同じ待遇の公務員がいたとしても、癖も好みも趣味も得て不得手も異なるであろう。であればここには個性があるわけだ。

 G7東京会議は、現在の経済情勢を危機の入り口にあるという認識を共同声明に盛り込んだ。ヨーロッパ諸国に対しては、サブプライム・ローン破綻による金融機関の損失の確定を急ぐように求めた。わずか4ヶ月前のG7では、市場経済の健全な発展の見通しを確認したばかりで、楽観論が支配していたのである。資本主義教は多くの人々を幸福に導けないわけだ。

 G8東京会議の共同声明は、世界経済の機会と不確実性が増大しているという共通認識を確認しつつも、個別あるいは共同でこの事態に対応するとして具体的な対策を打ち出せなかった。

 2月10日のテレビ朝日系「サンデープロジェクト」で、高野猛氏は、額賀大臣に対して、サブプライム・ローンは、英米系金融資本主義が腐敗していることを示したもので、金融資本主義のそうした姿について、100年も前にレーニンが『帝国主義論』で描いていることを指摘して、この本を読んだ方がいいと言った。サブプライム・ローンは金融詐欺に近いものだと高野氏は指摘した。そのとおり! それに対して額賀氏は、どのような商品を生産しようとも自由であると言った。サブプライム・ローンを証券化して組み込んだ金融商品を生産する自由があるというのである。しかしあたりまえの話だが、このような自由にも条件・限界がある。それに対しては答えず、この問題でのEU諸国の金融機関の損失額の確定を急ぐこと、金融商品のリスクの投資家への説明、と投資家と金融機関の関係についてしか言わなかった。そもそもサブプライム・ローン自体の問題性についてはなんの判断も示さなかった。頭金なし、最初の数年は超低金利で、以後急速に金利が上昇するという不動産価格の右肩上がりの上昇を前提にした低所得者向け住宅ローンというきわめてリスクの高いものだった。それを他の金融商品とパッケージにしたもので、それに格付け機関が最優良のスリーA(AAA)が付けられていたのである。これはほとんど詐欺と言っていいようなもので、金融最先端の国アメリカで、こういう詐欺的行為が公然と行われていたことに、基本的な問題がある。それを高野氏が指摘したが、それは、すでに100年も前に、レーニンが『帝国主義論』に書いてあることである。このところ、マルクス・エンゲルス・レーニンが書いたとおりのことが目の前で起きている事例が多く、かれらの考えの確かさを証明している。

 日本の国会は、ガソリン問題と道路特定財源問題を中心に対立している。それには、額賀大臣は、サブプライム・ローン問題の日本への影響は小さい、今年は、成長率も昨年度より上昇すると述べて、日本政府として特に大きな対策はとらないよという態度であった。株式市場からの外資の逃避が、日本企業を資本不足の危機に陥れることになるのかどうか、物価高騰は、インフレを引き起こすのかどうか、等々、G8が指摘した不確実性が増大することだろうが、それが一部の企業にとってチャンスであることは確かである。例えば、このところのドル安・ユーロ高で、ニューヨークのユーロ支払いが可能な輸入ワイン店では、ユーロでの支払いが急増しているという。ユーロは以前より多くのドルと交換できるようになっているのだから、この店は、さぞ儲けていることだろう。これまで、儲けが見込めないために生産されないか、生産が低迷していたような産地での小麦などの穀物などの栽培が拡大され、日本向けに大量生産されるようになるかもしれない。日本でも、小麦などの栽培面積が拡大されるかもしれない。その他、様々な要因が錯綜して、相殺しあい、相互に影響しあって、結果的に合成力としてのある傾向を示すだろう。

 レーニンは、『帝国主義論』で、金融独占資本主義の時代としての帝国主義の特徴を描きつつ、それに対して、第二インターのカウツキーの世界資本主義論を批判して、それは地球上の帝国主義諸国による世界の植民地化に対する民族解放運動との連帯という国際主義を否定する排外主義であることを明らかにした。額賀大臣は、石油価格を引き下げるには、供給側でのOPECの増産という供給増大と日本での省エネによる需要減少によって可能だと述べた。価格は、需要と供給の一致するところで決まるというわけである。しかし、石油はOPEC諸国にとって、戦略物資でもあるために、その供給量を増減することには、政治的働きかけを必要とする。その決定権を握っている王族などが同時に政治権力を握っている王制を採っている場合が多いからである。省エネによって石油需要を減少させるには、画期的な省エネ技術開発でもなければ難しい。いずれにしても、短期で劇的に減少させることは不可能であり、しかも、そのテンポは、石油価格高騰のテンポと一致するものではない。それらを政治的イニシアティブなしに、コントロールすることは不可能である。市場は、それらを自動的に一致させることはない。言うまでもなく、需要と供給は無限ではなく、有限であって、石油はやがて枯渇する。供給は途絶える。減りつづける埋蔵量の中で、それらを取り合う競争が激化していくことは明らかである。世界で圧倒的な軍事力を有するアメリカは、帝国主義化して、世界支配の傾向を強め、世界への軍事的政治的介入を繰り返すようになった。強者の剥き出しの力の論理がアメリカを中心に拡大してきているのである。

 それが戦争の時代を意味していることは明らかであり、その危険性を増しているのである。それにしては、日本の国会はのんきすぎはしないだろうか。

 
 
 

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市場神信者竹中平蔵

 国会は、ガソリン国会と化し、道路特定財源問題に集中している。

 ガソリン価格が高騰している中で、ガソリン価格が1円でも下がることになれば、消費者にとってうれしいことであることは言うまでもない。

 ただ、果たして、アメリカでのサブプライム・ローン破綻問題に発した世界経済の危機に対して、日本政府としてどのような対策を取るのかについての議論がないのは、異常さを感じる。

 さるテレビ番組で、竹中元金融担当大臣は、アメリカでの金融機関の焦げ付きは、一部のことであって、金融全体を危機に陥れているわけではないと述べた。

 そして、前にテレビ朝日系「サンデープロジェクト」で、「郵政民営化を決定した年に、株価は、前年比40%上昇した」と強調したことを繰り返した。

 彼は、日本の場合、1990年代のバブル崩壊後の金融危機は、日本の金融界全体をだめにしていたのであり、それを立て直すのには、半ば強制的な公的資金導入も必要な措置であったと言う。

 それに対して、現在のアメリカの金融機関で危険な状態にあるのは一部だという。それには、アラブ諸国や中国などの政府系ファンドの投資によって救われているということもある。

 実は、この問題が、日本の金融機関に直接的に与える影響はそれほど大きくはない。しかし、ニューヨーク株式市場での値下がりを受けて、日本の株式市場も値を下げている。

 竹中氏の認識とは違って、あるいは彼は、わざと言っているのかもしれないが、アメリカの企業が、製造業を含めて、金融化している。金融機関だけを他業種の企業と切り離して見てもだめなのである。

 例えば、自動車販売台数でトップのGM(ジェネラル・モータース)は、自動車保険業で大きな収益を上げるようになっている。つまりは、金融危機は、金融業界だけではなくアメリカ経済全体をの足を引っ張っていくのである。したがって、アメリカ政府は、市場の反応を見て、利下げと財政出動を決めたのである。

 竹中氏は、それもたいしたことがないと言う。むしろ、悲観する見方が、期待を収縮させてしまうことに恐れを抱いているようだ。

 そして、ヒューザーの耐震偽装問題で厳しくなった建築業法や消費者金融の二重金利を解消させる規制などの企業の自由を規制したことに問題があったと言う。今、確かに不動産取引は低調となり、住宅建設も減少している。その原因を、氏は、規制強化のせいだと言うわけである。東海沖地震が懸念されている時に、耐震基準を強化したことが問題だと言うのである。おそるべき無神経さというべきか。とにかく、経済的期待が低下するような悲観に陥ってはならないので、 楽観的であるべきだという信念を持っているようだ。彼は経済教の強固な信者と言っていい。それも、資本制経済の初期でまだ封建制経済が強固に支配していた時代のアダム・スミスの経済思想の信者である。その点は、フリードマンと同じである。

 フリードマンの主張は、あまりにもずさんであきれてしまうのだが、メガチャーチで嬉々として聖書の言葉を聴いているキリスト教原理主義信者と同じだということに気が付けば、それほど不思議ではない。

 竹中氏もフリードマンと同じで、とにかく自由な市場競争が必要で、それを規制する独占は悪だと繰り返す。地震で人がどうなろうと市場の神のすることだというわけだ。

 さすがのイギリス古典派経済学派もここまでではなく、アダム・スミス後最大のこの派の経済学者リカードゥの後継者からは社会主義者になる者が出た。

 とにかく、竹中氏は、各種の競争を阻害する規制を撤廃していけばいいのだとのたまう。労働分野での規制緩和策として行われた労働諸法の改悪の結果、ワーキングプアだの正社員の長時間労働や職場環境の悪化などによりうつ病などの精神疾患が多発するようになるなど、人々の疲弊・消耗などが進み、期待どころか希望も持てないような劣悪な労働環境が拡大してきた。

 通勤電車の中で希望に満ち、生き生きとした表情をした労働者を何人見ることができようか。最近は、複数の労働者から、大地震が近いから引っ越したという話を聞いた。

 終末論的なムードが広がりつつあるのは、社会停滞の印である可能性もある。そういうわけで、市場さえ自由にすれば未来は明るいとして、楽観論を語る竹中氏のあっけらかんとした表情を見ていると、無性に腹が立つ。

 多くの人が、竹中-小泉構造改革のおかげで苦しい生活に追い込まれたのに、そういう点については過小評価し、ほとんど無視し、ただよくなったという一面だけをやたらと強調する。そしてそれは俺がやったと自慢する。うぬぼれが強く、他者の痛みに鈍感である。おぼっちゃん顔の慶応だ。

 彼がマスコミで重宝されるのは、彼が資本制経済の強固な護教者だからだ。護教が大事か人間の生命や生活が大事かという問いに、彼なら、それは市場が決めることだと答えそうだ。市場の神が。こんな人物が日本の経済政策を動かしていたとは、多くの人々にとって不幸である。

 なお、郵政民営化の年に、外資が殺到したのは、世界的に投資先が不足している金余りがあるせいで、それが日本に呼び込まれたわけだが、それは確かに、日本市場が外資に対して大きく開放されたこともある。とはいえ、竹中氏は、なりふりかまわず、日本も政府系ファンドを持つべきだとか、郵政民営化に匹敵するような大改革が必要だとか、とにかく、期待を膨らませなければならないと言う。資本制経済・市場経済を守るためなら、郵政労働者がどうなろうと関係ないというわけだ。しかし、人々は日々生きており、様々な感情を持ちつつ、生活している。竹中氏の楽観主義的信仰は、そうした人々を傷つけている。それは深い怒りとなっていずれ爆発するに違いない。

 

 

 

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物価上昇とフリードマン

 このところ物価上昇が続いている。石油価格の高騰をはじめとして、農産物の価格も上昇している。特に、人々にとっては、日用品や食料の値上がりは痛い。

 1979年、イラン革命を契機に生じた第2次石油ショックで、石油価格が値上がりしたことがあった。それについて、新自由主義経済学者のフリードマンは、「エネルギー危機とガソリン不足は、明日にでも簡単に終わらせることができる。・・・どうするのか。そう、原油や他の石油製品に対する価格統制の撤廃である」(『政府からの自由』中央公論社p163)といった。

 これは、OPECとアメリカ政府の独占的行動を批判したものだが、最近のエネルギー危機に対しても、これが適用できるのだろうか? 

 世界的に企業は、かなり自由に行動できるようになっており、もちろん、石油メジャーに対する米政府の統制などあまりない。OPECの生産調節はあるが、それも、実質的には破られており、新興産油国は、世界市場での需要に対する供給を増やしている。

 しかし、それ以上に、新興工業国の成長による需要増のスピードが速く、それに投機資金の流入もあって、石油価格の上昇が続いている。さらに、日本は、このところの円安のおかげもあって、輸出主導型の体制になっていて、輸入品の価格上昇には、あまり関心がいってなかった。逆に、中国などからの低価格の輸入品に頼ってきたのである。それが、アメリカに輸出して、中国などから買うという形で進んできた国際貿易の流れも、変わらざるを得ないかもしれない。

 フリードマンによれば、物価運動は、貨幣現象であって、貨幣数量の動きとタイムラグを伴って一致する。タイムラグは、個別によって違うものの、先進国では、おおむね2年だという。この間の物価上昇は、2年前に、日銀が貨幣を過剰発行したせいだろうか? 2年前というと小泉政権の構造改革路線の真っ最中である。

 彼は、貨幣需要と貨幣供給という貨幣商品の市場価格の要因を否定して、「金利は作用の値段であって、貨幣の値段ではない。貨幣の値段と言えるものは、財貨とサービスである一単位の貨幣を買うのにどれだけの財貨とサービスが必要かを考えなければならない(物価水準の逆数と言ってもよい」(同P251)とのたまわった。貨幣商品説をとっている以上、彼は、貨幣とて他の商品同様、別の商品と交換されなければならない商品であるとせざるを得ないのである。

 ここで彼がいっているサービスは、労働を含んでいなければならない。働く者は、労働というサービスを提供して、賃金という貨幣商品を買うことになるわけだ。では、投資家が、貨幣を手放した代わりに金利を回収して、投資した貨幣額以上の貨幣を買えるのはなぜだろうか? それはどこから来るのか? フリードマンは答えない。ついに、彼は、経済学から、労働という概念をも消し去ってしまう。残るのは、財貨とサービスである。

 そして、財貨とサービスは、物価水準の逆数だそうだ。物価が上がれば、財貨とサービスは減少する。そして、その逆もまた真という関係にあるという。

 無内容なことこの上ないが、数理経済学の教科書なるものをのぞいてみると、しょっぱなから、消費財の組み合わせに対する消費量の効用水準の無差別曲線なるものが出てきて、それが、「限界効用逓減の法則」という経験則を適用することから、限界代替率逓減の法則が下に凸の無差別曲線を描くことを数式で証明するというものが登場する。

 曲線グラフを描く以上、それが、微分積分学の公式にしたがって行われることは、いうまでもない。しかし、そもそも経験則と言いながら、曲線グラフは、両端で、無限となっていて、非現実的なものである。無限に消費したり、無限に消費財が生産されたりするというありえないことがそこには描かれている。

 貨幣数量説も同じことである。マルクス経済学で言うなら、価値概念がないということになる。価格現象の数字的量的統計からの経験則があって、それで真理を発見したつもりになっているにすぎないというシロモノだ。彼の言う貨幣作用とはなんであり、貨幣作用の需要とはなんだろうか? さっぱりわからないのである。

 このさっぱりわからないことを言う男は、「市場や資本家に異議を唱えている人たちの異見を聞き、検討してみると、ほとんどが自由そのものへの反対だということがわかります。市場なんかに任せておいたなら、人々は私が良いと認めてやるものでなく、何でも好き勝手に手に入れてしまう。だから反対だ。結局そういうことなのでしょう。ガルブレイスからの異議、ラルフ・ネーダーからの異議、マルクス・エンゲルス、レーニンからの異議、いずれも同じです」(p101)と断定する。どうしてそうなるのかの説明はない。彼は、おそらく、マルクス・エンゲルス、レーニンの異議などまともに読んたこともなく、もちろんまじめに研究したこともない。その経済学同様、ずさんで、いいかげん、そして、無内容・無概念である。

 そんな男が、「インフレとは、突きつめれば貨幣的現象にほかならない」(p202)というありがたいご託宣を下さった。金利を引き上げて、貨幣数量を減少させよ。そうすれば、物価は減少するであろう。不況と生活苦、失業、中小企業の倒産を伴ってだが。

 石油は有限な資源であることは言うまでもない。だが、フリードマンは、このとき、石油が不足しているというのはデマであり、独占者たちのつくうそであると断言した。そういう面ももちろんあるだろうが、石油は有限物であって、無差別曲線どおりには、供給を無限に増やせるものではない。いつかは枯渇するのである。フリードマンの楽観主義は、今では、危険思想と言ってよい。 

 

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