« 本物のマナーとは? | トップページ | 藤沢周平作品によせて »

ふるさと学は規律をつくれない

 ふるさと学は規律を作れないという主張に対して、論理的ではないというコメントが寄せられた。

 もし、それが、学問が規律を作れるという思い込みから来ているとすれば、その方が馬鹿である。規律は生活の必要から生まれるのであり、集団生活の現実的必要が、規律を生み出し、そしてその規律を守るように集団メンバーに対して強制されるのである。もちろん、それには、制裁がある。しかし、大抵は、社会的生活の必要から生まれるので、その集団のメンバーは規律を守ることを自分の利益になるものとして同意の上で従っている。もっともそれは可変的であって、変わることがある。

 例えば、特定の時間に作業場で仕事につくのは、それが共同作業に必要だからである。

 ふるさと学は、ふるさとについて学ぶことで、社会生活上のどんな規律意識を与えられるというのだろうか? ふるさとの歴史を学び、愛郷心を育てるが、生活の必要は、人々を都市に向かわせる。都市には都市の生活スタイルがあって、そこで都市的な規律・規範を身に付けなければならない。ふるさとでは、隣近所づきあいすることがマナーにかなっているが、都市ではできるだけ他者に触れないようにするのがマナーである。農作業は、耕運機の音など大きな音を出しながら行われるが、都市のオフィスではできるだけ静かにして仕事が行われる。現代の都市的生活において、ふるさと学なる学問が愛郷心→愛国心→国防意識→軍事的規律という図式は成立しにくい。

 そのことは、イラク戦争に対して、アメリカでも都市部では批判的であり、愛国的なのは南部の農村であることでも明らかである。そしてそこには南部の貧困があり、軍隊が仕事のない若者の有力な就職先になっているという生活上の必要があるという事情がある。日本でも、昭和恐慌に見舞われ、あるいは、凶作に見舞われた農村で、軍隊は立身出世できる憧れの就職先であったということがある。戦後において国鉄はそうした職場の一つであった。2・26事件を引き起こしだ青年将校の多くが東北の貧しい農村の出身で、農村の病弊に対して、財閥や政治家が無策であったことに義憤を感じたわけである。愛郷心は時にこうした過激な形態をとる場合もある。

 ふるさと学というのがどんな学問かがあまりはっきりしておらず、単に地域の歴史や風土について学ぶということなら、これまでも行われてきたことだ。しかし、日本全国どこの地方都市の駅前も似たり寄ったりの風景になってしまったように、ふるさととしてのアイデンティティを感じにくくなっている。教科書で単なるひからびた知識としてだけ、ふるさとについて学ぶだけだとしたら、情操などは育つまい。ましてや、そこから規律が生まれることなどありえない。情操も規律も社会関係の中で育つものだ。その人と人のつながりが失われてきている以上、学校教育でふるさと学なるものを知識として詰め込んだところでどうなるものではないことは明らかではないだろうか。

|

« 本物のマナーとは? | トップページ | 藤沢周平作品によせて »

雑文」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。