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『青鞜』を読んで

  岩波文庫の『青鞜女性解放論集』を読んでみた。

 有名な平塚らいちょうの「原始、女性は太陽だった」という文章がある。

 そして、イプセンの戯曲「人形の家」の主人公ノラについて論じた文章がそれに続いている。

 女性解放を訴えた「青鞜」に対して、独身主義という批判が多くあったことが、それに対する平塚らいちょうの反論が載っている。後期『青鞜』を主導した伊藤野枝の貞操論争・売春論争・堕胎論争は、今日にもつながる論点を含んでいる。伊藤野枝は、アナーキストの大杉栄と一緒になったが、関東大震災の時に、甘粕大尉らによって、大杉とともに殺害された。

 他方で、儒教的な家観念からする女性への教えとして、「父、夫、子供」に従えとするものがある。朱子学ではことに個人の修養と家の秩序、そして国家の安定というように、家を基礎にした秩序を強調する思想があって、その中で、女性が男性への従属的立場におくことを説いたのである。西欧思想では、個人が先にあって、その点では男女の差別がないから、女性が男性に従属すべしという思想は、別のところから来ている。なるほど、新約聖書では、女性は男性に従うべしということがことにパウロの説教でははっきりと説かれているのであるが、それは、当時の現実を反映していただけである。初期キリスト教から、いわゆる四福音書と伝道書とヨハネの黙示録だけが聖書として認定されたが、それ以外の福音書もあるし、有力なキリスト教一派も存在しており、それらは大分考え方が違う。キリストが修行したと言われるユダヤ教エネッセ派の場合、初期仏教教団に似た世俗から分離した修行生活をするもので、婚姻・家族といった世俗の問題は切り捨てられていたと思われ、それに対して、福音書の中で、キリストがなにか指針となるようなことを語ったとされているが、それは怪しいものだ。

 結局、プロテスタントの登場によって、信仰と世俗の問題は切り離されるので、世俗の問題は、世俗の掟に従うようになるのである。イスラム教が世俗の倫理や生活規範などの生活面を規制する原理を持っているのに対して、キリスト教はそうした結びつきを絶ったわけである。その点は、「悪人正機」を唱えた日本の浄土真宗にも似たようなものである。

 ただ、フェミニストの中からは、日本の中世の新仏教教団が、一方では、仏典にある「女人成仏」論を採用しながらも、同じく、女性は罪障が多い故に成仏できないとした部分をも同時に採用するという不徹底があると批判している。しかし、それまでの既存仏教各派が、後者のみを採用して、女性を罪深きものとして排除したのとは違って、女人成仏を認め、仏教的平等観を取ったというのは進歩であったろう。しかしながら、実際の教団のあり方としては、女性を差別しており、教団内での女性の地位は低かった。

 維新後の日本の殖産興業策によって、新たに勃興した繊維・紡績などの資本制工場での主要な働き手は、女工であり、それについては有名な「ああ野麦峠」や「女工哀史」などのレポートが多数残されている。続く、日露戦争を契機とする重化学工業の発展によって、この分野で男性労働者が増えたことから、労働者の多数が男性になっていくわけである。けれども、大正期には、職業婦人と呼ばれる層が生まれるようになり、それが、女性の自立を可能にしたということがある。そのことによって、それまで、結婚という形でしか、女性が経済生活を立てられなかったことの反省と自覚がもたらされた。しかし、まだ多くの女性は、農村での嫁としての生き方しか選択肢がないという状態にあったのであり、職業婦人的なあり方は、遠いものとしか感じられなかっただろう。皮肉にも、戦争の長期化によって、女性が勤労動員に狩り出され、それまで男性が独占していた職業に女性がつくことになり、職業婦人化が広く進むのである。

 「青鞜」に書かれていることは、今から見ると、とくに、たいしたことを言っているようには見えないのだが、それはすでに女性の社会進出が当たり前になっている現代の視点で見ているからである。

 アナーキストで、朝鮮人朴烈と一緒になり、大逆事件で検挙された金子文子の裁判記録を読むと、彼女の結婚=同志関係・共に闘う男女関係という考えが示されている。したがって、互いに相手の生き方に対する尊敬の念をもつということである。朴以前に付きあった男たちは、彼女を欲望のはけ口としか見なかった。愛情のみが男女の性愛の基礎であるということを、エンゲルスは男女関係の理想としているが、この愛情の中身が問題である。

 このことは、はっきりと肉欲と愛情を区別できるということを前提としている。その上で、愛情関係の一部としての性愛という形での男女関係のあり方、そしてそこでの男女の平等ということが必要である。韓国ドラマを見ると、よく「私の心はあげられない」とか「心はあなたの方を向いている」という表現が出てくる。藤沢周平の作品でも、心と肉欲ははっきりとわかれていて、心に決定的な重要性が与えられている。この場合の心を、個人的な心情と見なすことはできない。実際には、欲望もまた純個人的なものではないのであり、社会化されているのである。欲望対心の闘いは、悪魔と天使の闘いとして表象されることもあるが、社会闘争の面を持つのである。

 それに対して、厚生労働省は、少子化対策として、他国と日本の夫婦の性交渉の回数の平均を比較して、日本の夫婦が性交渉に淡白であることが少子化の原因であり、その対策を考えなければならないなどという馬鹿なことを公表した。官僚というのはろくでもないことしか考えない。これは経済的社会的政治的文化的な諸要因から結果したものである。この結果は、夫婦間の愛情関係とはあまり関係ない。ただ人口政策という観点からのみ、問題を見たら、こういう馬鹿げた結論になったというお話である。戦時中、産めよ増やせよの人口増加策を上から煽った一結果として、金持ちが二号・三号と愛人を作って、野放図に子供を作り、シングルマザーを増やしたのである。もちろん、子供のない女性は、肩身が狭くなった。

 「原始、女性は太陽であった」というらいちょうの言葉は、保守派が一方では記紀神話と天皇崇拝を強調しながら、他方で、記紀の出発点を神武天皇に置いているのに対して、鋭い批判になっている。神武の実在は疑わしいし、アマテラスの存在も架空であるとは思うが、そこには太古の母系制の姿がとどめられているようでもある。
 

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