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2008年4月

ウォーラーステインの世界システム論によせて

  ウォーラーステインは、『近代システム』という本で、世界システム論というのを展開している。まことに壮大な作業で感心するのだが、その最後の方で、日本の鎖国問題について書いている。

 彼は、断言しているわけではないが、徳川幕府が鎖国するにいたった主な原因は、ポルトガルによる強引なカトリックの宣教活動のせいだと書いている。それに、徳川幕府を開く頃には、日本は自給できるだけの生産力段階に達していたとも述べている。もし、強引な宣教がなかったら、日本は、東南アジアまで交易圏としていただろうというのである。その宣教の中心はイエズス会であった。徳川幕府が正式に鎖国するのは、島原の乱の後の三代将軍家光の時代であるから、徳川幕府が当初から鎖国策を取ろうとしていたわけではないのは確かである。そして、キリスト教の抑圧・禁止は、鎖国とは直接関係はなかったのである。もし、ポルトガルが、宣教師の布教活動を抑制させて貿易関係を中心に幕府との関係を作ろうとしたら、鎖国しなかった可能性が高かったと言えるかもしれない。

 第二の点については、戦乱を収めた豊臣秀吉の刀狩と農兵分離、そして検地とそれを継承完成させた徳川幕府によって、本百姓を中心とした平等な農業経営の実現、それから「生かさず殺さず」の農民道徳の上からの押し付け、村請け制・五人組の連帯責任制による確実な年貢・貢租徴収システムの確立などによって、徳川幕府の財政基盤は当初は豊かであった。生産高は向上した。それが自給自足を可能とする水準に達していたというならそうだが、「百姓は生かさず殺さず」というようなレベルの生活水準の自給というのもどうかと思う。やはり、彼の世界システム論は壮大すぎて個別のことに正確さを欠くのは止むを得ないのかもしれない。

 もしポルトガルの宣教師たちの強引なキリスト教布教がなければ、鎖国はなく、海外交易を活発に行っただろうというのはどうだろうか? 室町から戦国期に、大名たちが先を争って海外貿易に乗り出していたのは確かである。中国地方の大内氏は、明との朱印船貿易で大きな利益を受けており、戦国期にはタイには日本人移民村さえあった。伊達正宗は、遠くバチカンにまで使節を送っている。キリスト教禁圧は、豊臣秀吉の時に始まったが、徳川家康は、海外貿易の利益に関心を持っていたという。戦国期には、キリスタン大名が何人もいた。それに対して、天下統一を成し遂げた秀吉は、自らを神格化して豊国大明神を祭った。徳川家康についてはその死後、明神とするか権現とするかで幕府中枢の意見が対立し、結局、権現で落ち着き、三代家光の時に、日光東照宮が建立される。家康自身がどう思っていたのかはわからない。本人は、浄土宗の檀家で、念仏をよく唱えていたようだ。徳川家の檀家寺は東京の芝増上寺である。

 ウォーラーステインによれば、世界史では、世界システムが太古から存在していて、それには二種類あり、一つは帝国システム、もう一つは世界経済システムというものだという。世界経済システムが崩壊すると帝国システムになる。世界経済システムは、経済が自律的で不安定であり、帝国システムは、政治的に統合されていて中央集権的だという。これらが相次いで交代してきたというのである。どうしてこういうことを考えたかと言えば、サミール・アミンやフランクらの従属理論が、周辺国の分析の経済分析に偏っていて、中心国の分析を無視したのに不満があったからだと言う。従属学派は、世界の中心国と周辺国の間に不等価交換があることを主張したのだが、それをウォーラーステインは、ローマ帝国と従属国や周縁地域との間に見出したわけである。それが、貢納関係である。

 しかし、最近保守派は、中華帝国による冊封関係を支配従属関係として単純化して描いているが、明と琉球王国の関係を見る限り、明の方が出超であり、海の民間交易を禁じていた明よりも琉球の方が海上交易を活発に行えた分だけ、経済的には得るところが大きかった。薩摩が目をつけたのもそうした琉球の貿易利権であり、それと琉球産の砂糖であった。1609年薩摩は琉球を侵略し実質的な支配下に置くが、琉球王国をそのままにして間接支配したのである。だいたい中華諸帝国の冊封体制は、中国側の持ち出しであったようである。それは経済的利益のためと言うよりは、政治的安定のためという政治的な動機によるものだったのではないだろうか?

 もう一つ彼に影響を与えているのは、ブローデルである。交換システム史観とでもいったらいいだろうか? マリノフスキーのトリブリリアント諸島のフィールド・ワークの研究結果であるクラ交易の影響があるのかもしれない。あるいは、マルセル・モースの贈与論か? まだよくわからない。
 

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チベット問題

 北京オリンピックを前に起きたチベット人の暴動に対して、中国政府は治安部隊を派遣して武力制圧した。

 しかし、チベット人の運動は、四川省など中国各地に広がり、さらに亡命チベット人へと広がっている。

 北京オリンピックの聖火リレーは、チベット弾圧に抗議するフランス・イギリスの行動によって妨害を受けている。

 だが、欧米のこうした人権主義に潜む欺瞞に注意する必要がある。フランス大統領サルコジは、首相時代に、人権を求める移民たちを「社会のクズ」と呼んだ男である。そして、移民たちの暴動を徹底的に弾圧した。もう一つは、欧米の人権主義に潜む「オリエンタリズム」やナショナリズムにも注意しなければならない。アメリカが、シーア派やクルド人の人権の擁護者という口実で始めたイラク戦争が、アメリカの国益のための侵略戦争であることは、世界の多くの人の目に明らかになっている。イギリスは、アイルランド人の人権など眼中になく、何世紀にもわたって北アイルランドを占領しつづけている。フランスは、アルザス・ロレーヌなどを手放さない。自国内の少数民族の解放を抜きに、チベット解放を掲げる人権主義は、本当の人権主義ではない。アメリカもひどい。そもそも、アメリカが、他民族解放を真に掲げる資格を持つ為には、ネイティブ・アメリカンの追放と虐殺によって奪った土地の上に建てられたという建国の正当性の総括が必要である。日本の場合は、それは琉球・アイヌ問題ということになる。日本政府は、未だに、アイヌを先住民と公式に認めていない。差別的な旧土人保護法を廃止して、アイヌ新法を制定したのはついこの前のことである。

 チベット人の民族解放要求は当然であるし、中国政府のチベット政策が、それに反するものであることは疑いない。そればかりか、中国共産党は、共産主義に泥を塗る反共産主義者である。そのことを物語るのは、新たなパンチェン・ラマの選出を中国政府の手で強行したことである。チベット仏教は、ラマと呼ばれる活仏を代々生まれ変わるという教義を持っているが、そのラマの中での最高位であるダライ・ラマとパンチェン・ラマは、特別重要な意味を持つのは明らかである。チベットが独立していた時代には、パンチェン・ラマは、祭政一致の国家元首であり、政治指導者であった。ラマは、優秀な学僧であり、この二人だけではななく、多数いた。ラマに選ばれると、僧院で特別な待遇を受け、英才教育を施される。その上、ラマには、ある地方の土地の権利が与えられたという。おそらく、かれらは在外地主で、土地は小作人が耕し、生産物を貢納していたのだろう。先のパンチェン・ラマは、強権的な支配をしたようで、チベット人の間では人気がなかったという。そのパンチェン・ラマが、10年ほど前に亡くなった。その生まれ変わりを探さねばならないという時に、中国政府は、ある少年を候補者としたのである。亡命政府のダライ・ラマ14世は、それを拒否して、別の少年を指名したのである。さらに、中国政府は、孫文らの辛亥革命が打倒した清朝がチベットに送った金製品の贈与を強行したのである。そして、チベットに対して、共産主義のひとかけらもない態度を表したのである。

 それは、チベットに対して、宗教を持てるのは、愛国心の強いものだけだという基準を立てたことである。つまりは、国家を信仰する愛国的な政府のみが、宗教問題の決定権をもつということである。この方針に沿って、チベット仏教の宗教教義に基づく、転生の結果である生仏パンチェン・ラマを政府によって選んだわけである。無神論者で唯物論者であるはずの共産主義を党名に掲げる党が支配する政府で、生まれ変わりが公認されたわけである。中国共産党は、共産党とはたんなる看板に過ぎず、中身はもはや愛国党でしかないことを示したことになる。しかも、漢民族主義の。

 中国政府は、ダライ・ラマから、宗教上の権限を奪おうとしたのだが、さすがにダライ・ラマ14世も黙ってはいなかった。秘密に、新パンチェン・ラマを中国政府とダライ・ラマ14世の間での合意によって擁立しようと動いていた仲介人は、陰謀のかどで中国政府に捕らえられた。中国政府は、ダライ・ラマから宗教的決定権を奪い、その権威を落とし込めようとしたのであった。そして、自らが選んだ少年をパンチェン・ラマとしてチベット人に押し付けたのであった。もちろん、この少年は、北京で監禁状態に置かれた。そして、世界最年少の政治犯として、国際社会が解放を求めているのである。哀れな少年は、中国政府によって、その人生のコースを押し付けられたのである。もちろん、中国政府は、この少年を傀儡とすべく教育しているに違いない。

 このような国家による宗教の乗っ取りとも言うべき事態は、改めて、近代国家が、諸宗教を市民社会の私事へと追放しつつ、国家宗教を公的宗教として必要としていることを再認識させるものである。韓国・台湾・日本でもナショナリズムの動きが活発化しているけれども、それは、社会の分裂の拡大が、国家信仰を強化する統合という解決策への誘因となっているためである。そのことは、この間の日本の保守派の中に、グローバル化の中でこそ、日本人としてのアイデンティティが必要だとする主張として現われている。グローバル・アイデンティティとして、当初言われていたのは、無国籍的なビジネスライクな世界人であり、世界市民ということだった。バイリンガルで海外文化の開かれた理解者で個人として自立しているといったイメージである。ところが、それが、グローバル化すればするほど、民族的アイデンティティを強く意識して、相手の文化を尊重するような態度が必要だというふうに変わっていった。真の国際人とは真の日本人であるということになった。

 サッカーに対するイメージの変化がわかりやすい。少し前までは、サッカーは、国際交流の有力な手段であり、人種や国境を超える国際人としてのサッカー選手というイメージが語られていた。それがいつしかサッカーは平和的な国際戦争であり、選手は、日の丸を背負って世界を相手に戦う戦士というイメージに変わっていった。もちろん、それには、9・11事件後のアメリカの愛国主義の高揚の影響がある。それも一段落してきているが、オリンピックは、愛国主義が激突する場となっていて、しばしば政治化するのであり、すでに、モスクワ・オリンピックのボイコットを想起させる論調もちらほら見られる。違うのは、アメリカと中国は、政治的にはともかく経済的にはきっても切れないほど深くつながっているということである。したがって、ボイコットはありえない。経済的必要が両国を強く結びつけているのである。

 中国にとって、チベットは、4000メートルの高地で耕作にも居住にもあまり適さない土地であるが、南にインド北にロシアという大国がある戦略的に重要な土地であり、核ミサイル基地を集中させている軍事的な要衝なのである。さらに、近年、鉱物資源が発見されていて、資源確保という点からも重要性を上げているところなのである。そこに、青蔵鉄道を開通させたばかりなのだが、それは、軍事的経済的に重要なインフラであり、チベットで一級市民として利権を握る漢族の移住民の諸活動を活発化させるものとなっているのである。明確なデータはないけれども、多くのチベット人はその恩恵を受けられないでいるに違いない。

 1949年の中華人民共和国の建国後の1950年に中国政府は、チベットに軍隊を派遣して、最初の侵略を行った。それに対して、チベット人は1959年3月10日に反乱を起こした(ラサ暴動)。これを武力弾圧した中国軍は、チベット人数万人を虐殺したと言われている。この時、数万人の難民が生まれた。先のチベット人のデモは14日にラサで起きた。3月10日のチベット人の闘争の記念日に近い。

 宮崎哲也という電波芸者田原総一郎の「朝まで生テレビ」出演で名を知られるようになり、田原の後を追って電波芸者の列に新たに加わっている評論家は、仏教徒を自称している。彼は、ダライ・ラマ14世を睨下と尊称で呼んでいる。チベット仏教の一派に帰依し、生まれ変わりや活仏を信じているということだろう。日本の伝統仏教では、とっくにそんなものを信じなくなっている。新興宗教にはそうした信仰が残っているところもある。しかしほとんどの新興宗教は、諸宗派の教義の混ぜ物であり、しっかりと現世利益を教義に含めている。

 もちろん、チベット仏教にも現世利益はあって、それは地主制度の利益と小作農との対立として、宗教的紛争の紛争の下で闘われているのである。もちろん、中国政府による上からの強制的な土地革命は行われた。しかし大抵の国でそうであったように、土地革命が、上から強行される場合は、同時に、共有地や無主地とされた土地の国家への取上が行われるのだ。分配された小土地の上で、家族が縛り付けられて、家族労働で耕したところで、どれほどの収穫が見込めるというのだろう。しかも、草地への少ない土地で、もともと移動しながら放牧をしてきた牧畜は、事実上、不可能にされたのである。農民は強制的に土地を追われ、都市部に移住させられたが、そこにはかれらを養えるだけの仕事は用意されていなかった。そして、チベット人の多くが、自治区を離れ、他所に移っていったのである。今回のチベット人の要求が何かについて、まだ報道も伝えていない。ダライ・ラマを求める声は今のところ伝えられていない。これらのチベット人が、ダライ・ラマの統治を求めているのかどうかわからない。かれらは、共和制のチベットを求めているのだろうか? もしそうなら、ダライ・ラマ14世は、独立が共和制をもたらせば、自分の居場所が寺院にしかないということになる。

 しかし、ダライ・ラマ14世は、あるインタビューで、チベット仏教は、他の宗教がそうであるように、世界宗教であり、チベットの民族宗教ではないと言っている。そして、彼の要求は、チベットの独立ではなく真の自治であるというのである。

 チベット人の暮らしは、山間の村などでわずかばかりの畑を耕すと共に高地を転々とする放牧や交易などで生計を営むもので、信仰の中心はチベット仏教というインドの密教と自然崇拝などの現地宗教とが融合したもののようである。チベット仏教は、ラマ教とも呼ばれ、中央高原地帯からモンゴルにまで広がっている。シルクロードに沿って、あるいはオアシスなどに広まっていたようである。チベット高原にもシルクロードがあり、道に沿って、いくつかの王国が栄えたこともあった。山岳民族というとなんとなく、山間にじっと閉じこもってひっそりと生活しているようなイメージがあるが、実際には、チベット族は、かなり広い範囲にわたって遊牧や交易を行っていたのである。なお、チベットの男性のほとんどは、僧侶だそうだ。女性差別の構造があるようだ。

 密教はもともとヒンズー教と融合しており、ヒンズー教の神々を仏教の守護神などとして配している。土着の信仰や神々を含んでいくというのはどの宗教にも見られることで、カトリックもそうだった。一神教でも多神教化していくのである。例えば、キリスト教のお祭りであるイースターは、太陽神信仰を取り入れたものである。

 愛国教かラマ教かの宗教戦争という外観の下で、世俗的な利害の対立と闘争が展開されているのかを見失ってはいけないのであって、そこにこそ、チベット人の解放の具体的諸条件が存在しているのである。欧米の悪しき人権主義が見えにくくしているのは、それらのことである。そしてそこに潜むナショナリズムを自己批判的に摘出しつつ、チベット解放を訴えるのでなければ、偽善に陥ることに、意識的でなければならないのである。だから、日本のチベット連帯の文化人が主張するように、中国政府にダライ・ラマ14世との対話を要求するのではなく、それと同時にチベット人の民族自決権を承認することを中国政府に要求することである。もちろん、当面の事態収拾のために、そうした一時的妥協に意味がないとは言わない。これ以上、チベット人の犠牲者が増えないようにすることが緊急の課題であることは当然である。

 すでに明らかにしたように、ダライ・ラマ14世は、生まれによってその地位に就いたのであり、チベット人の民主的な意思決定によって選ばれた代表ではない。亡命政府が、任意の寄付によって運営されていることを民主的と評価するのは間違っている。それによって、多額の寄付をする者が特権的な影響力を持つかもしれないからである。ダライ・ラマ14世が、チベット人の多数の政治代表として正当性があるかどうかがその判断基準でなければならない。その点が明らかでない以上、ダライ・ラマ14世と中国政府の話し合いに問題解決のイニシアティブを与えてもいいのかという疑問がある。

 中国政府はただちにチベット人への弾圧を止め、チベット人自身がなんらの強制がない状態で民主的に選出する代表者と事態の解決のための話し合いをするべきである。中国政府は、チベット人の民族自決権を認め、独立を含めたチベット人の権利を尊重しなければならない。問題をチベット人自身が自ら解決するための援助をし譲歩しなければならない。チベットにおける漢族の特権は廃止されるべきである。そうすれば、チベット人は、自らの手で自らを律することになろう。チベット人は、ダライ・ラマ14世の宗教政治ではなく、民主的な共和制を採用するに違いない。そうすれば、アメリカのブッシュ政権が、イラクで反動的なシーア派を使って利権を確保しているようなやり方で、チベットを利用するというようなやり方はチベット人自身が阻止することだろう。それを支援すれば、中国は、大国の介入によって苦しめられている世界の多くの国から尊敬をされることになろう。

 もちろん、中国政府は、とっくの昔に、マルクス・エンゲルス・レーニンの民族自決権の理論、「他民族を抑圧する民族は自由ではない」という基本的な態度を捨ててしまっているのだから、実行しそうもない。しかし、どのように強権的に一時的に押さえつけてもチベット人のレジスタンスが続くことは明らかで、それはたとえダライ・ラマがいなくなっても変わらないだろう。中国政府が大民族による少数民族の抑圧に原因があると認めず、ダライ・ラマとの宗教か愛国心かという対立へとすりかえて誤魔化しているうちは、この民族対立が解けないことは明らかである。

 日本政府もまた国内に民族問題は存在しないという公式態度を取りつつ、アイヌ新法を制定するという誤魔化しをやっているうちは、中国の態度を他人事のように言う資格はないということは明らかである。同じように、沖縄に対して、第一次琉球処分以来のヤマトへの同化政策の誤りを認め、この同化強制策の蓄積の結果の無残な沖縄戦であり、軍による住民の集団自決の強制であったことを総括しなければならないのである。それをした上でないと中国政府のチベット人の運動への弾圧をすっきりと批判することができないのである。だから、政府は、他人事だし、保守派は、これを反中国感情を盛り上げるためのかっこうの材料の一つとして利用するだけなのである。どちらもチベット人の解放を本気で考えてなどいないのだ。ただ、日本の利益になるかどうかを基本にして、あれこれ言っているにすぎないのである。チベット解放のために、日本が中国に持つ権益を犠牲にする覚悟なしに、どうして本当の連帯と言えようか?

 アメリカ議会は、例によって、当り障りのないダライ・ラマ14世と中国政府の対話を呼びかける決議を可決した。アメリカ議会の口先だけの北朝鮮制裁決議が、問題をひとつも前進させることのない空文であり、格好だけのものであったことは、それ以降の実際が示している。中国共産党は、すでに、共産主義は看板に掲げているだけで、純学問的な領域に追いやっている。民族間の実質的な平等、それが民族問題における共産主義的な解決策である。それには、少数民族を大民族・支配民族と権利において対等にするための特別扱いが必要である。それが、形式民主主義と実質民主主義との違いである。漢民族はチベット人に対して支配民族として振る舞い、中国共産党がその代表者としてそれを支えている。それは、共産主義的国際主義に反する。普仏戦争の際、マルクス・エンゲルスの指導する国際労働者協会は、フランスがドイツを侵略した時にはフランスの労働者にフランスの戦争に反対し、ドイツがフランスに侵略した時には、ドイツの労働者にドイツの戦争に反対するように行動するように訴えた。そして国際労働者協会のフランスとドイツの労働者たちはそのとおりに行動した。これが、労働者の国際主義の手本である。中国の労働者は、自国政府のチベット侵略に反対してチベットへの連帯行動に立つべきなのである。ナショナリストは、自国への他国からの侵略には反対するが、自国が他国を侵略するのには反対しない。中国共産党は、ナショナリストに転落した。世界の心ある労働者は、中国政府のこの侵略行為に怒っているだろう。共産党の看板をこれ以上汚すのを止め、中国愛国党とでも名前を代えて実態と名前が合うようにしてもらいたいものだ。

 しかし保守系論壇はひどい有様だ。チベット人のことなどどうでもよくて、とにかく、中国批判の材料ができたと喜んで批判を書き連ねたものやら、台湾併合の先触れだとして、チベットの運命よりも台湾の運命に強い関心を示すもの(櫻井よし子)など、とにかく、利用主義まるだしで、なんとも醜悪である。

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小林よしのりの大江裁判論批判

 『サピオ』最新号で、小林よしのりは、大江裁判地裁判決を批判している。

 しかし、小林のこの問題への基本態度は、日本軍無謬論にも沖縄無謬論にも組しないで、沖縄戦の真実を知ることにあると言う。

 それにしては、「皇民化」教育や日本軍のタテの構造は関係ないとか裁判での被告側の主張をことごとく否定した上で、『沖縄ノート』から前後の脈絡と関係なく、いろいろと引用してみせ、原告側の名誉毀損の訴えは正当だと主張している。

 大江氏は、『沖縄ノート』で、慶良間諸島の旧守備隊長という人物を当時の日本人の壮年男性の類型を見出し、そのような類型を示す象徴として描いているのであり、その点は、小林自身が、サヨクなる類型を使って、その象徴として大江氏を批判しているのと同じことである。表現というのはすべてそういうものであって、それを問題にするなら、小林よしのりは筆を折るほかはあるまい。大江氏は、こういう手法によって、自分ももしかしたら、その立場にあったら、同じことをしかねないということを含ませているのであり、だから自戒でもあり、自己切開でも自己批判でもあるわけだ。法と道徳は違うなどという概念区別に頼って物事を裁断しようとしている小林よしのりとはまったく違うわけである。

 小林は戦後民主主義にどっぷりつかってきて、その反省がないから、外面に簡単に騙されるのである。

 最後に小林は、住民の集団自決は、日本人に同化しようとした沖縄の人々と日本人の当時の死生観が重なり合ったために起きたと述べている。同化に無理があったことを事実上認めたものだ。小林は、観念が現実を動かすと思っているらしい。つまり、彼は観念論者である。しかし、はっきりと述べてはいないが、事実上、琉球人を他民族と認めたことのはけっこうなことだ。それなら、もう一歩進んで、沖縄には民族自決権があることを認めることだ。そうすれば、沖縄には沖縄人自身の手で歴史教科書をつくる権利があることも理解できるだろう。ヤマトのナショナリズムを押し付けようとすればするほど、沖縄の人々の心がヤマトから離れていくことも当然だとわかるだろう。

 今年、沖縄の極少数派が集まって、1609年の薩摩侵略500年を糾弾する集会が開かれる予定である。折口信夫や柳田國男の沖縄の民族研究なども見たうえで、沖縄とヤマトの関係について反省的に見直してはどうだろうか? 柳田國男は、南方熊楠に山のことばかり見ていると批判されて、沖縄研究に向かい、現地の研究者伊波普献と交流しつつ、『海の道』を書いたという。日琉同祖論は、日鮮同祖論と同じく余計だが、異民族間の交流の仕方については、批判も含めて学べるものがあるだろう。柳田國男が、文学的でもあるその民俗研究作品にいろいろと込めた思いというものも見えてくるだろう。吉本隆明氏は、柳田の文学にはいろいろと苦労させられたと『情況への発言』で書いているが。

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国体論

 国体概念の作者は案外はっきりしているらしい。

 子安宣邦氏によるとそれは、後水戸学派の会沢正志であるという。会沢の『新論』がそれだと言うのである。そしてそれに影響を与えたのは、古学派の荻生徂徠だというのである。

 荻生徂徠は、儒教の説く理想の古の道を単なる精神修養のようなものではなく、実際にあった尭・瞬が実際に行った統治・政治であり、制度であったと唱えた。それが道なのであり、それは人の道であって、それに戻ることが、道を整えることだと考えたようである。徳川光圀が始めた『大日本史』編集の中で、記紀などの古資料を収集・整理・読解するなかで、会沢は、荻生徂徠の考えをそれに応用して、そこにある祭政一致の政治体制を国体と名付けたということらしい。荻生徂徠は、国体に当たるものを徳川幕藩体制の出発点の体制と考えて、それに戻ることが道を正すことだと考えた。

 本居宣長の国学は、もののあわれという情感に流れていて、文化主義的で文学的なもので、政治的ではない。平田篤胤の思想もそういうところもあるが、しかし、平田派は、都市文化を嫌って、農村文化の方に向いていた。そして、平田派は、その茫洋とした性格からか、経世済民などにも乗り出すものもあったように、間口の広いものであった。平田自身、儒教や仏教批判をするものの、儒教や仏教の書を読んでいたし、とくに道教の影響をかなり受けたようである。また、禁書となっていたキリスト教の文献も読んだようで、その影響もあるという。平田が、死後の世界について、具体的に論じたことに、会沢は影響を受けたようである。

 荻生徂徠が、聖人の道を歴史的実在の政治・制度と考えたように、会沢もまた記紀に描かれている祭政一致の政治制度は、歴史的事実であり、それを蘇らすことが、国体を建てる道であった。

 会沢は、西洋諸国の一神教たるキリスト教との対抗関係で考えたのである。すでに、西洋諸国が、マレー半島やインドネシア・インドシナからアジアを制しつつあることがわかっており、それにたいする具体的な対策が求められていたのであり、その答えを、記紀などの古代文献の中に発見したわけである。その後の明治維新の初期の過程から見れば、この会沢の国体論が、かなりの影響を与えたことは確かである。明治政府の実権はもちろん薩長藩閥が握っていくのだが、初期には、祭政一致の国体政治に一時行きかけたのである。言うまでもなく、徳川幕府を実力を背景に倒した薩長としては、天皇は、錦の御旗として、担いでいただけなので、祭政一致の古代制度の復古を行って、天皇親政などに戻すつもりはなかった。それは形だけのもので、実権はしっかり自分たちが握りしめていたわけである。やがて、祭政一致派は政権から遠ざけられた。しかし、国体イデオロギーは、その後、要所要所で利用され、使われた。

 神道は、国教的な位置付けを与られ、国家組織型のヒエラルキーに編成替えされた。伊勢神宮を頂点とした神社の序列が付けられた。その中で、もともとは勤皇の志士を祭っていた京都の招魂社が、後の靖国神社の前身となる東京招魂社として移された。そこに、新たに戊辰戦争や西南戦争の官軍戦死者を祀ることとなり、その後は、主に戦死者を祀る神社として国家からの特別の位置を与えられるようになるのである。また、神社統廃合によって、水戸で光圀から始まった一村一社的な神社整理が行われ、今のような神社の姿が出来上がるのである。しかし、それは、もともと、多様な民間信仰の拠点として形成されてきた神道の姿とはまったく違うものであった。それで奇妙なことが起きた。例えば、稲荷と天神と八幡とが合祀されて、稲八天神社というものが生まれたのである。祭神が、お上によって押し付けられた。人々の信仰生活は、激変を蒙ったのであるが、それは新たな国家神道への崇拝を生み出すというよりは、無信仰へ、あるいは、新興宗教への帰依へと向かわせたように思われる。それはそれで国家を崇拝させようとしていた政府にとっては危険なものだったので、一方では学校教育を通じて神道を浸透させると共に仏教宗派や教派神道やキリスト教への管理を強化すると共に「真の神道」を主張した大本教に対して二度にわたる大弾圧を加えた。

 民俗学者の柳田國男は、廃仏毀釈に反対する生態学者南方熊楠に組して、政府の方針に反対した。柳田國男は、平田国学的な経世済民的な志向を持っていて、創価学会の前身の創価教育学会を立ち上げる際に、創設者の牧口常三郎に協力している。

 しかし、国体観は、会沢の言うような具体的な政治体制というものから、宗教的・文化的・歴史・伝統を象徴する太古からの血統をつなぐ天皇という存在という風にイデオロギー的なものになっていったようである。しかし、戦前においては、それは、祭政一致的なあるいは天皇親政的なものとはっきり分離していたかと言えば、そうでもない。例えば、ご恩―奉公という封建的な主従関係は、きわめて具体的なもので、土地という富を与え保証してくれた主とその恩に報いるために、従者として奉公するというのはわかりやすいが、近代民主主義国家になると国権の最高機関の国会議員の地位は、有権者が与えたものであって、国民主権ということになっているので、制度上は、国民が主で国会議員が従という関係になっている。政府や官僚は、もちろん、国会の下の権力だから、国民からすれば、従者である。封建的関係から言えば、主に対して従者が、報恩し、奉仕することになるのだから、報国とは、議員や官僚が、国民に感謝するということでなければならない。

 だとすれば、改悪教育基本法は愛国心を育てることを書いているわけだが、それは、官僚や政府や議員が、国民を愛するということになるわけだが、もちろん、そんなことは、法律を変えた側は思ってはいない。国家に対して、国民が従者として、国という主人を愛すようにすることを狙っているのだ。

 会沢としては、国体を確立することで、古代の理想国家が蘇り、それがキリスト教という一神教を持つ西洋諸国の侵略から身を守る防衛体制の構築にもつながるはずだと考えたわけだ。それで、会沢は、屯田兵制導入を提言している。屯田兵制は、ロシアが北辺を脅かすのを防ぐのが目的で、実際、明治に、蝦夷地への旧武士の植民という形で実現する。後期水戸学には、荻生徂徠の影響と共に陽明学の影響もあったというのだが、その点は、まだよく解明されていないという。

 国体は、GHQのケーディスと金森大臣との会談で合意された「金森6原則」で、政体は変わったが、国体は変わらないという形で、今日まで継続しているものとされている。「金森6原則」の第6は、「政治機構とは別個の道徳的、精神的国家組織に於ては天皇が国民のセンターオブデヴォーションであることは憲法改正の前後を通じて変わりはない。(国体が変わらないと云ふのは此のことを云ふのである)。」デヴォーション=devotion、信仰・信心・帰依である。会沢の国体論の祭政一致の天皇親政体制とは違って、ここでの国体は、イギリスにおける国教会制度のようなものを指しているのだろう。しかし、GHQの神道指令によって、国家神道は解消されてしまったから、この道徳的精神的国家組織の足腰は弱ってしまった。しかし、神社本庁が国家神道の復興に向けて動いているし、靖国神社もそれと連動して、復権をはかっている。もともと、問題になっている合祀名簿は、政府が提供した戦死者名簿を元にしたもので、その点からも、靖国神社が、国教的な扱いを受けていると言えよう。

 ところで、平田篤胤は、本居宣長が、死後の世界をほぼ無視したのに対して、死後の世界についてはっきりと語っており、それは黄泉の国だと述べている。そこは、大国主が支配しているという。記紀にある黄泉の国の話は、どうやら古墳の構造を表しているらしいのだが、入り口からよもつひらさかという坂を下ると棺があってそこに死体があり、霊は、古墳の山の上に上るということになるらしい。昔の日本人は、死後の霊は、山の上に上ると考えたと柳田國男は、「先祖の話」かなにかで書いている。昔の人は、魂だの神だのというのは動的なもので、「飛び神」信仰があったように、空を飛んだり、移動したりするものだと考えていたようである。

 会沢は、国体論を立てるに当たって、記紀に書かれている祭祀のみを信仰の対象としており、当時、爆発的に流行っていた富士講を批判している。富士講は、江戸の富裕な商人が、西国で起きた飢饉対策として、幕府が西国へ米を優先的にまわしたことから、江戸が米不足となった際に、江戸市民に財を散じて、経世済民を行ったことをきっかけとして、その後、富士信仰と結びつけて、経世済民の組織として拡大していったものと思われる。これは修験道とは違って、修験寺に属さず、浅間神社を中心組織として形成されていて、各地に講を組織する形で広がったものである。講の中心活動は、富士登山である。既存の修験寺に属さないので、幕府も管理しようがなく、講を禁止したのだが、それでも講は拡大しつづけていった。恐らく、相互扶助的な活動もあったのではないだろうか。富士講は、明治時代にも東京を中心に巨大な勢力をほこったが、関東大震災で、実質的に解体したという。特に教義らしいものもなかったという。もちろん、明治政府は、道徳的精神的国家組織の中心たる天皇への信仰体系という意味での国体を脅かしかねない別の精神的道徳的宗教活動を統制・管理した。富士講系は教派神道と位置付けて、むしろ、国体信仰を民衆に注入するのに利用すると共に監視して、場合によっては、大本教のように、弾圧したのである。

 教育基本法改悪を通じて、またぞろ、国体の復権が目論まれていることは、『産経』社説が、神話を教育して、道徳心を育てることが愛国心を育むことになると主張していることに現われている。子安宣邦氏は、ナショナリズムの解明に取り組んでいるが、そこで、後期水戸学派の会沢の国体論に立ち戻っているのは、すでに国体と言えば、国民体育大会しか思いつかない人が圧倒的多数となっているだろう時代に、その無知を利用して、教育基本法改悪をはじめとする改憲派の狙いをはっきり理解するのに役立つことである。

 もちろん、丸山真男の研究がすでにあるわけだが、彼の場合は、やはり、どちらかと言えば、欧米流のアカデミックな概念をあてはめて、テキストを裁断するようなところがあり、どうもしっくりこないところ、なじめないところが多いのである。儒教にしても、たんなる「漢意からごころ」(本居宣長)というだけではなく、その受容の仕方に現われている独自性ということにも焦点を当てるべきではないだろうか。幕府は林家流の朱子学を官学としたが、伊藤仁斎の古学や荻生徂徠の古文辞学や熊沢藩山の陽明学や独自性の強い安藤昌益とか、とにかく、多様なのである。もう一つ、丸山氏にかけていると思うのは、民衆がどのような精神生活・思想生活を行っていたかということの解明である。江戸中期には、寺子屋の普及などを通じて、ほとんど読み書きの出来ないものはいなかなったと言われるほどの民衆が、単に、上からのお仕着せのイデオロギーを受け入れていただけとは考えにくい。記録こそそれほど残さなかったにしても、その姿は、様々な記録や文書や絵などに残されており、そこから推測して多少はそれも解明できるのではないだろうか。かわら版は、文字を読めた町人たちの高い知識欲によって成り立っていたのだろうし、江戸中期には、本屋というのも生業としてばかりではなく、到富を可能とするような多くの読者を持つようになっていたのだろう。

 徳川幕府は、資料集を作る作業を進めようとしたことがあったが、文献がなかなか思うように手に入らずに苦労した時、京都の本屋に協力を依頼したことがあったという。この作業は挫折するのであるが、水戸藩は光圀以来の京都との関係が深いこともあって、公家や本屋などの協力を得られやすかったという。本屋の実力もたいしたものだったのである。

 一揆の書状などの中には、全文漢字で書かれたものもある。「新しい歴史教科書をつ くる会」などは、こうした農民一揆などの民衆運動をあまり具体的に教えないのがよいと考えているようで、そういう視点から、歴史教科書で農民一揆を具体的で詳細に教えすぎていると批判している。しかし、農民一揆は後の自由民権運動につながっていくものもあり、いわば日本の自由と民主主義の魁をなしている面もある。それが近代化の推進力の一つであるといえるわけで、そうした歴史的な評価をきちんとするべきだろう。なにせ、この会は、民衆の主体性をきわめて低くしか評価しない傾きがあって、それは、文部科学省の教科書検定基準と一致している。ただ時の権力と一体になった民衆動向だけは高く評価する。そして、会のホームページには、現会長の藤岡信勝の「自国の軍隊を悪く言う国は滅びる」というわけのわからない叫びの文章が載せられている。彼は、国家=暴力装置=軍というレーニン主義的国家観だけは、日本共産党からしっかりと継承しているようだ。これは、金森国体論とはずいぶん違う国体観だが、そんなことはまったく気にならないらしい。「文化防衛論」の三島由紀夫ともまったく違うわけで、だから、藤岡たちは、三島のように、自衛隊に激を飛ばしたりせずにもっぱら過去認識の修正に励んでいるのだろう。そして、靖国信仰なしの靖国擁護や国体観念なしの日本軍論を平気で唱えることができるのだろう。天皇への信仰のない右翼というのは、日本の伝統から切れている。小林よしのりのように。

 会沢の国体論には、記紀祭祀こそ信仰の真の対象であって、それ以外の祭祀や宗教は、邪淫であり、淫教であるとの観念があった。小林は、無邪気に「攘夷」を叫ぶが、会沢的な国体イデオロギーはない。あるのは、近代賛美であり、「からごころ」である。彼らは、もし、日本が世界に先駆けて、欧米の後を追っけた近代化からの脱出を成し遂げられたら、時代をリードする存在になれるのだということには思いも至らないのである。

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産経の低道徳

 大江健三郎氏の『沖縄ノート』裁判で、大江氏の勝訴の判決が出たのもつかのま、国会がガソリンの暫定税率の維持か廃止かでもめて空転している間に、教育をめぐって、教育基本法改悪の影響が現われ始めている。

 文部科学省は、新しい小中学校の学習指導要領で、日本の伝統と文化を愛し、公共心を養うとした教育基本法の改定部分を、さっそく学習指導の目的に掲げた。そして、小学校で、君が代をうたえるように指導することを明記した。

 3月30日付『産経新聞』は社説で、これを歓迎した。この社説は、神話を教え、道徳心を育てることは、愛国心を養うことになるという。あまりにも短いものなので、どうしてそうなるかはわからない。近年の官僚・政治家・大企業家・大金持ち・『産経』を含む大手マスコミなどの上層に不道徳ぶりが目立つ。そういう連中は、義務教育などとっくの昔に卒業している。この腐敗した連中こそ、根性をたたき直す教育をもっとも必要としている。

 あの俗物細木数子を起用した番組を流していた一つが、フジ・サンケイ・グループのフジテレビである。フジテレビでは、『あるある大辞典』でのデータ捏造事件があった。『読売新聞』の末端販売員の強引な勧誘に迷惑した者は多いはずだ。官僚については、毎日のように、不祥事が報道されている。いわゆるセレブが登場する番組を観れば、いかにかれらが世間の常識とかけ離れた感覚を持っているかは、誰でもわかる。こういう連中に神話を読ませれば、道徳心が身につくだろうか? はなはだ疑問である。

 第一、道徳心にもいろいろある。どんな道徳を教えれば、愛国心が育つというのだろうか? アメリカの入植者たちには、共通する神話がない。しかし、かれらは、9・11後、一時、きわめて愛国的になった。教育で道徳心を教育したおかげだろうか? ちがう。全体が愛国的になった後に、政府が、教育に愛国心を持ち込んだのである。だから、教師との間に対立が生まれ、訴訟にまで発展したこともあったのである。以前のまま、教育していたら、それが、非愛国的と非難されるようになったのである。

 ずっと前に、『産経新聞』社説で、物語が道徳心を育てるというようなことを書いていた。もちろん、これはたんなる願望である。そんな因果関係の証明をしていないからである。

 もし、平田篤胤のような国学派の方法を言うのであれば、平田派から幕末の尊王攘夷の志士が出たように、当時の幕藩体制の道徳を破るものが輩出されたことはどうなるのか?

 平田篤胤は、君が代の歌詞として知られる古歌について述べている。しかし、平田の国学は、あまりにも茫洋としていて、それから、直接、後の尊攘派が生まれたというわけではない。後の国学派は、ロシアをはじめとして、日本に貿易・開港を求めて外国船が度々訪れるようになったり、蘭学を通じて西洋の事情や思想を知るようになって、対西洋ということを強く意識して、平田の説を解釈しなおし、修正し、作り直したりしていったのである。例えば、佐藤信淵や鈴木重之である。

 『産経』の不道徳を直すには、どんな神話や物語を教育すればいいのだろうか? 自らの道徳性を問わないまま、他者の道徳性を問題にしているという不道徳をどうするか? 文部科学省のモラルはどれぐらいなんだろう?

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エンゲルス黙示録論

 エンゲルスに『黙示録』という面白い論文がある。

 1883年にロンドンの『プログレス』という雑誌に載ったものだが、エンゲルスは、ドイツのヘーゲル左派のシュトラウスらが行っていた聖書についての歴史学的言語学的研究について述べている。

 「自分たちではできるだけ秘密にしておくことにこれつとめている、自由思想的見解をもつ少数の神学者たち以外には、知られていない学問があるが、それは、聖書を歴史学的にならびに言語学的に批判し、新約、旧約聖書を構成している種々の文書の年代、起源、および歴史的価値を究明する学問である」(マルクス・エンゲルス全集第21巻より)

 『聖書』学といえば、もっぱら、その教えの解釈をめぐるものという印象が強いが、例の映画『ダヴィンチ・コード』がヒットしたことで、恐らく、福音書には、現在あるテキスト以外に、『ユダ福音書』とか『マリア福音書』などがあったことは少しは知られるようになったもしれない。それは、死海文書の発見などをきっかけとしている。

 今でこそ、キリスト教は、紀元後に出きたいくつもの宗派があって、それぞれが独自の聖典を持ち、独自の教義を持っていたことは、知られているが、その大元の一つは、ヘーゲル左派にあったわけである。もっと前に、スピノザが、『聖書』の実証主義的な解釈に挑戦している。彼は、『旧約聖書』が、バビロン捕囚から帰還したエルサレムの改革派ラビのエズラらの手によって編集されたことを証明している。このとき、ユダヤ教の改革が行われ、旧約聖書が編纂されたのであり、事実上、この時代が、ユダヤ教の起源である。

 エンゲルスは、エルネスト・ルナンの「諸君が、最初期のキリスト教団はどんなものであったかについて、明確な概念を得ようと思ったら、現代の教区信徒会と比較したもうな。それはむしろ国際労働者協会の地方支部みたいなものであった。」という言葉を引いて、「そのとおり。〔当時の〕キリスト教は、現代の社会主義とまったく同様に、大衆をとらえたが、それは、多種多様の宗派と、なおそれ以上に、相争う個人的見解―わりあい明快なものもあれば、わりあい混乱したものもあったが、後者が大多数であった―のかたちにおいてではあったけれども、すべてが支配体制に、「現存権力」に敵対していたのである」と言っている。

 そして、一般にわかりにくいと思われている黙示録こそ、もっとも、明瞭だというのである。

 「この書は紀元六八年に、または六九年一月に書かれたものであるということ、したがって新約聖書のうちで、執筆年代が真に確定されている唯一の書であるばかりでなく、またいちばん古い書でもあるということである。さて紀元六八年のキリスト教の様子はどんなものであったかは、この書でこれを鏡に照らすようにはっきりと見ることができる」。

 黙示録こそ、最も古い文書であり、その後にできた他の文書には、アレキサンドリアのユダヤ人のフィロンの思想とストア派の思想が入っているというのである。黙示録には、それらと共通する思想は見られないという。

 「ここにあるものは、われわれのために保存された、最も生地のままの形態におけるキリスト教である。そこにはたった一つの支配的な教条があるだけである。すなわち、信者たちはキリストの犠牲によって救われた、ということ。しかし、どのようにして、またなぜか、ということはまったく不明である。そこでは、古いユダヤ人的、異教徒的な考え、すなわち、神または神々は犠牲によってなだめられなければならない、という考えが、特殊キリスト教的な考え、キリストの死は一度だけで十分な偉大な犠牲である、という考え(じっさい、これがキリスト教を普遍的宗教にしたのである)に転化しているだけである。
 原罪については痕跡もない。三位一体についてもゼロ。イエスは「子羊」ではあるが、神の下位にあるものである。じじつ、一つの章句(第一五章第三節)のなかでは、彼はモーセに等しい地位におかれている。そこにあるものは、一つの聖書ではなくて、「神の七つの霊」(第三章第一節および第四章第五節)である。殺された聖徒たち(殉教者たち)は神に報復を呼びかける。
 「主よ、いつまでもあなたは、裁くことをなさらず、また地に住む者にたいして、わたしたちの血の報復をなさらないのですか?」(第六章第一〇節)―
 のちにキリスト教の理論上の道徳律からは注意深く削除されたものの、キリスト教徒が異教徒を圧倒するやいなや、実際上はやみくもに発揮された一つの感情である」。

 黙示録というと何か恐ろしい予言が書かれている神秘的な書というイメージを持っているが、それはキリスト教の古い形を明瞭に伝えているものだというのだ。

 黙示録は、ユダヤ人の手で書かれ、多くの部分は、旧約聖書の預言書からの借り物であり、しかも旧約聖書には、「ダニエル書(紀元前約一六〇年ごろ。数世紀もまえに起こってしまったことを予言している)に始まり、紀元初頭に先だつことあまり遠くない時期にギリシア語で書かれた聖書外典式の作り話『エノク書』で終わっている」という予言の形を借りた過去の歴史記述があって、それからも借りているという。

 しかも、このヨハネを名乗る黙示録作家は、「時が近づいている、これらすべはすぐに起こるであろう」と述べているが、それは当時の歴史的な情況を反映していたという。

 「「ヨハネ」は、七つの頭と一〇の角(角のことはわれわれにはなんらかかわりがない)をもった一匹の獣が、海からあがってくるのを見る。
 「その頭の一つが、死ぬほどの傷をうけたが、その致命的な傷もなおってしまった。」
 この獣は、四二ヵ月間(聖なる七ヵ年の二分の一)、神と子羊に反対して、地上を支配する権力をもつことになっていた。そしてすべての人々は、この期間中は、この獣の刻印すなわちその名まえの数字をば、彼らの右手または額におびるように強制された。
 「ここに、知恵がある、思慮のある者は、獣の数字を数えるがよい。その数字とは人間をさすものだからである。そしてその数字は六六六である。」

 この部分ほど、これから起こるであろう危機の予言として、喧伝された部分はないだろう。これについてはくさるほどの解説本が出たが、これをエンゲルスはいとも簡単に解き明かす。

 ここで頭に傷を受けた獣とは、ローマ皇帝ネロのことであるとエンゲルスは言う。

 「紀元二世紀のイレナエウスは、次のことをまだ知っていた。すなわち、傷をうけたがなおってしまった頭とは、皇帝ネロのことであった、と。ネロはキリスト教徒の最初の大迫害者であった。彼が死んださいに、とくにアカイアおよびアジアじゅうに、次のようなうわさが広まった。すなわち、彼は死んだのではなくて、ただ傷をうけただけだ、そしていつかまた現われて、世界中に恐怖をばらまくであろう、と(タキトゥス『年代記』、第六巻第二二章)。と同時に、イレナエウスはもう一つ別の、非常に古い読み方を知っていた。それによると、名まえを示す数字は、六六六のかわりに、六一六であった」。

 前者は、タキトゥス『年代記』を読めば確かめられる。

 さらに謎のようなこのこと「あなたの見た獣は、昔はいたが、いまはいない。‥‥七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また七人の王のことである。そのうちの五人はすでに倒れ、ひとりはいまおり、もうひとりはまだ来ていない。それが来れば、しばらくのあいだいることになっている。昔はいたがいまはいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人のなかのひとりである。‥‥あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」も以下のように解明される。

 「こうみてくると、われわれはここに二つの明白な陳述をうる。(一)赤の衣をまとった婦人は、地の王たちを支配する大いなる都、ローマである。(二)この書が書かれた時点では、第六番目のローマ皇帝が支配しており、彼のあとには、短期間、もうひとりが支配にくるであろう。そしてそのつぎに、「かの七人のなかの」ひとりの復帰がやってくるのだが、彼は傷をうけたがなおってしまっており、その名前は不可思議な数字のなか蔵されていて、それがネロであることは、イレナエウスはまだ知っていたのである。
 アウグストゥス帝から数えると、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、そして五番目がネロである。いまいる六番目は、ガルバである。彼の即位は、ガルバの後継者オトに率いられた、とくにガリア地方における諸軍団の反乱の合図となった。こんなわけで、いま問題の書は、六八年六月九日から六九年一月一日まで支配していたガルバの治下で、書かれたものに相違ないのだ」。

 次に、666という人を表す数字の謎である。それについて彼は、「紀元前三〇〇年ごろ、ユダヤ人たちは彼らの文字を数の記号として用い始めていた。思弁好きのラビたちはここに、秘儀的解釈すなわちカバラのための新方法を見た。秘密のことばは、数字、すなわちそれらのことばのなかにふくまれる諸数字の数値の加算によって生じた数字によって表現された。この新しい学問を彼らはゲマトリアーすなわち幾何学と称していた」ということ、そして、この方法を適用すると、ネロという名前と数字が一致することを示す。

 「この書は、彼らの仲間のひとりによって描かれた、ほとんど原始に近いキリスト教についての、信頼するに足る絵姿として、新約聖書中の残りのすべての書をひっくるめてくらべてみても、なおかつより多くの価値をもつものである」。

 これが黙示録についてのエンゲルスの評価である。ダヴィンチ・コードも真っ青の聖書の謎解きが、ドイツの1841年のベルリン大学におけるフエルディナント・ベナリ教授の連続講義ですでに行われていたわけである。

 「キリスト教は、どの大きな革命運動もそうであったように、大衆によってつくりだされたものである。それは、新しい諸宗派、新しい諸宗教、新しい予言者たちが幾百となく起こった或る時代に、われわれにはかいもく知られていない或るやり方で、パレスティナに起こった。じじつ、それは、これらの宗派のうちでわりあい進歩的なものの相互摩擦から自然発生的にできあがった、たんなる平均産物にすぎないものであって、それが、のちにアレクサンドレイアのユダヤ人フィロンの諸命題と、もっとあとではストア学派の強力な浸透とがつけくわわることによって、一つの教義となったものである」というエンゲルスのキリスト教論も興味深い。

 エンゲルスは、当時イギリスで流行した降霊術に興味を持って、霊が乗り移るという少女を使った見世物に出かけて、そのからくりを解き明かしたこともある。まるで、科学主義の権化のような探偵シャーロック・ホームズを創作したコナン・ドイルも、降霊術にはまったり、妖精の実在を証明しようとしたのは、それとそれほど遠くない時期だ。こういう態度が、当時の科学者に多いのは、科学者が科学の限界に気づいて、科学主義に対して反省したためだというようなことがよく言われるが、そうではないという。むしろ、それは科学主義の延長であって、未知の現象や法則の発見を目指して、SFなどに向かったのだという。

 交霊術というのは、その後、アメリカでも流行した。これは、あくまでも、別の世界が存在するなら、それと電信のように、会話が可能だという科学的という主張の下に行われたものだった。科学では次々と未知のものが発見されるのだから、今は仮説でも、明日は事実にならないとも限らないわけである。そういうわけで、19世紀末から20世紀の初め頃には、科学革命といわれるぐらいの大変化が起きていて、科学者自身が動揺していたのである。アメリカの交霊術は、大正デモクラシー下の日本にも入ってきた。透視だのテレパシーだのについての研究や実験が行われ、それを専門に研究する学者も現われた。テレパシーについては、もし人間に未知の能力が備わっていることが証明されれば、科学的な大発見であり、もしかしたらノーベル賞でももらえるかもしれない。それだけ、人々が驚くような大発見が続いていたので、科学者の中には、より大きな発見をしなければという気持ちに追い込まれた者もいたわけだ。

 黙示録を解読したとされるノストラダムスの大予言は有名である。とくに、2000年には、世紀末でもあるから、その予言が起こる日だとして、ブームになった。ところが、ハルマゲドンは起きなかった。オウム真理教の麻原もまたハルマゲドンが来ることを説いた一人だが、ハルマゲドンはなかったのである。黙示録が、ローマ皇帝ネロが蘇って、再び、キリスト教徒を迫害するという噂に対するものとして、ネロの次に皇帝となったガルバの時代のローマの諸軍団の反乱の兆し、不安定さ、後継者争いの陰謀や策略の渦巻く時代の中書かれたものである。ネロがキリスト教が広まっていたアルメニア征服のためにローマに集めた諸軍団がそのまま居残っていて不穏な空気をかもし出していたことをタキトゥスは書き記している。ネロの復活の噂に不安に陥っていた信徒たちに向けて、信仰を固めるために、勝利のヴィジョンを描いて見せることが、黙示録作者の狙いだったのかもしれない。

 なお、その後、ガルバが派遣した将軍が、ユダヤの地を攻撃し、やがてエルサレムも陥落し、ユダヤの神殿は破壊される。キリスト教は、迫害を受けつつも広がりつづけ、ついにローマ公認の宗教とされる。

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細木数子と陽明学

 先に、さんざん予言をはずした上で、テレビ番組をすべて降りた細木数子の師匠は、安岡正篤と言われている。

 この二人は似たもの同士である。

 安岡正篤は、「知行合一」を説く陽明学者ということになっているが、ある陽明学の解説書によると、彼は知行不合一であったという。彼は戦前に金鶏学院という私塾を開いたそうだが、そこで過激な煽動を行っていたという。それに惹かれて集まった弟子たちは、しばらくすると、彼が口先ばかりで実際にはなんの行動も起こさないことがわかって、離れていった。そうして、歴史的な右翼の起こした諸事件の間近にいながら、そのどれにも自らは参加することがなかったという。彼から離れていった人の中には、知行合一を実践して、大事件に関わった者もいるという。

 安岡は、北一輝・西田悦らと結社を結成する。だが、彼らが関わったとされる諸事件には関わっていないとされる。ただ、彼は、時の権力者に取り入るのがうまかったらしく、それによって延命してきたという。戦後、彼も戦犯として東京裁判にかけられるところを、有力な政治家に頼んで、免れたということもあったらしい。

 戦後は、吉田茂や大平らの歴代首相の指南役と自ら名乗ったらしいが、彼を知る者は、それはでたらめだと言っているという。

 さらにその本では、彼が血統に強いこだわりとプライドを持っていたということが出てくる。

 いずれにしても彼が山師であったことは明らかで、そうそうたる日本の陽明学派の実践家たちとは月とすっぽんであることは間違いない。日本の陽明学派からは、大塩平八郎はじめ、橋本佐内や吉田松蔭や横井小楠や西郷隆盛など歴史に名を残す者が出た。安岡はそんな事業には一つも参加することなく、晩年には、細木和子の経営する店に出入りしては酒飲み三昧の日々だったようで、最後の最後には、親族に連れ戻され、細木と結婚の約束をしたしないの争いの中で、死んだ。子孫はいない。自慢の血統も絶えたわけだ。

 このような山師のご威光を借りたのが、細木数子であるが、師同様の知合不合一であり、陽明学が理想とする仁政主義はそっちのけで、上に甘く、下に厳しいという逆の道徳説教を行った。上にあげた陽明学派の人たちは、上を厳しく批判して、死刑や島ながしや投獄や左遷などの措置を受けた人ばかりだ。どこに、彼女のように、高級品を買いあさって身を飾り、使いきれないほどの財産を蓄えて、贅沢に暮らした者がいたか? さすがに彼女も、陽明学派を名乗らなかったのは、それではあまりにもその教えと自分の生き方の間に天地の開きがあることがばれてしまうから、さすがに、できなかったのだろう。

 安岡が陽明学の名を汚したことは間違いなく、だからこそかの本の筆者は、口を極めて、安岡を批判して、かの自称陽明学者を真の陽明学者とは認めていないのである。権力者の近くには、常に、こういう怪しげな人物が取り入ろうとしているわけで、中にはかなり食い込むも者もあるわけだ。ただ、細木は、それほどの者ではなく、小人物であるから、一般人相手の小商売で稼ぐのがせいぜいなのだろう。それを持ち上げて利用したのは、テレビの方である。持ちつ持たれつで、お互いに利用してきたわけだ。そして、利用価値が減ってきたところで、さっさと細木は逃げたというわけだ。たんまりと稼いだあぶく銭を持って。

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『沖縄ノート』一審勝訴によせて

 3月28日は、沖縄の渡嘉敷島で住民の集団自決があった日である。

 この日、大江健三郎氏の『沖縄ノート』で、座間味島と渡嘉敷島の集団自決に軍命があったように記述されたとして、梅澤元守備隊長と赤松元隊長の遺族が名誉毀損や出版差し止めを求めた裁判の一審判決が出た。

 報道によると判決は、これらの島で起きた住民の集団自決について、手榴弾で自決したという多くの証言や自決現場に日本軍が居たことや様々な資料などから、日本軍の関与は明らかだとして、原告の訴えを退けた。原告側は控訴するという。

 NHKの取材に答えた住民は、うれしいと語っていた。娘二人をこの集団自決で失ったという年老いた母親は、自分はこのことを証言するために長生きしてきたと語った。

 300人が集団自決で亡くなったと言われる渡嘉敷島で、多くの村人にとって、類縁者の命日となったこの日、原告敗訴の報は、喜びをもたらしたことだろう。

 それに対して、原告側について、宮里秀幸という怪しげな新証人を担ぎ上げる猿芝居に乗っかった秦邦彦は、NHKのインタビューに対して、理解できないととぼけた。彼は、裁判の焦点は、軍命があったのかそれとも元守備隊長が集団自決を止めたのかなのに、その判断を避けたのが、解せないというのである。これまで、少なくとも実証的という印象を与えてきた秦教授だったが、この問題に対しては、原告側の主張のみの肩を持って、過去の証言と全く違うことを証言した宮里秀幸を引っ張り出してきたりして、実証よりも、自らの個人的信条やイデオロギーによって、歴史を裁断したことが明白になった。この分だと、彼の過去の様々な歴史に関する文書や発言にも、実証性に欠けるものがありそうだ。

 判決が軍の関与は明らかとしたのは、歴史教科書の新しい記述と同じである。軍命があったかなかったかという論点を争うことにしたのは、原告側で、その一点を崩せば、その他のことも一挙に崩せると見たのだろう。しかし、宮里秀幸氏の新証言での梅澤元隊長が、「俺の言うことが聞こえないのか。よく聞けよ。私たちは国土を守り、国民の生命・財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるために来たんじゃない。だから、あなた方が武器弾薬毒薬を下さいと来ても、絶対渡すことは出来ません」と言ったというが、こんな日本軍論は、「軍人勅諭」にはもちろんないのであり、信憑性が薄い。それは、「自衛隊法」にもない。「自衛隊法」第3条は、「自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものどする」と、自衛隊の任務を規定している。どこにも、国民の生命・財産を守るという任務は書いていない。この軍隊論は、梅澤氏の個人的考えを述べたのだろうか?

 小林よしのりや藤岡信勝らによって嘘つき扱いされた軍に集団自決を強制されたと証言した住民は、今度は逆に名誉毀損で小林らを訴えることもあるかもしれない。

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上野千鶴子氏のフェミニズムについて

 上野千鶴子氏は、『家父長制と資本制』マルクス主義フェミニズムの地平(岩波書店1987年)で、マルクスの限界を指摘する。

 「マルクスにとっては「プロレタリアに固有の従属」はあっても「女性に固有の従属」はなかった。「女性に固有の従属」は「プロレタリアに固有の従属」に内属し、それに還元されたのである。だからこそ、「プロレタリア革命」によって、女性もまた自動的にかつ最終的に、解放されるはずであった」(19頁)。

 マルクスのどこからこういうことを判断したのか、示して欲しいものだ。マルクスが見ていたのは、女性や子供が労働者としてどんどん狩り出され、資本制工場で働いている姿である。マルクスが見ていた労働者の多数は、女性や子供であった。『資本論』の中では、紡績工場で働く女性労働者の姿が描かれている。炭鉱では、女性や子供が働いていた。例えば、「わが谷は緑なりき」という映画でもその様子が描かれている。

 また、マルクス主義者の中からは、ローザ・ルクセンブルクやクララ・ツェトキンやコロンタイやアネッサ・アルマンドなどのフェミニストが生み出され、それぞれ女性解放の闘いを組織した。彼女たちは、女性の男性への従属の基礎に、経済的原因があることを主張した。だから、女性解放は、経済的解放を基本にし、そしてそれが社会的政治的文化的などの女性解放を推し進めるテコとなることを主張した。ロシア革命は、当初は、そうした方向に前進していったが、やがて反動化が起きて、コロンタイらの闘いも空しく、その試みは成功してしまった。ソビエトの家族法で、ソビエト社会の基礎を家庭に置くというおよそ共産主義とは無縁の反動的な規定を定めてしまったのである。しかし、これらの人々の闘いは、今日においても色あせてはいない。今、目の前で、差別的な家計補助労働という位置付けであるにしても、女性の社会進出が進んだのに対して、保守反動派によって、ふたたび、家は国家の基礎であるとの主張が叫ばれ、それを立法化し、制度化し、教育しようという動きがあるからである。

 コロンタイは、家族制度・家制度が女性抑圧の基礎にあると見て、その解体を目指したのである。これらの抑圧的制度を解体したからといって、男女の愛情関係や家族愛はなくならない。それどころか、それらは、逆に、解放され、発展する。家制度が強制する欺瞞的徳目から解放されるからである。そして、新制度は、それを支えるように組織されることが必要なのである。

 上野千鶴子氏には、資本主義観に問題がある。

 「交換ゲームとしての資本制」(296頁)

 これが彼女の資本制の基本認識である。これでは、まったく、新自由主義者の資本制観と変わらない。例えば、竹中平蔵は、資本主義経済の基本は、商品を安く買って高く売ることだと言った。

 「産業革命による技術革新は労働の質を平準化して、マルクスの言う「抽象的労働 abstrat labor)を成立させた。時間単価によって測られるような「労働価値」説は、労働の質を一切捨象した「抽象的労働」の成立を前提としている。「抽象的労働」を共通分母として、労働の間のあらゆる質的差異は消去されて交換可能なものとなる」(170~1頁)。

 「抽象的労働」を共通分母として、労働の間のあらゆる質的差異は消去されて交換可能なものとなると言うわけだが、この場合、交換されるものは何だろう? 彼女は、肝心なことを書き忘れている。この部分からは、それは労働ということになるように思われる。しかし、ここで交換可能になるのは、労働力という能力であって、労働ではない。労働と労働力の区別は、マルクス経済学と古典派経済学を区別する基本に関わることは、マルクス経済学者の間では常識なのだが、彼女は、古典派経済学の労働観をマルクスの労働観にしている。彼女は、抽象的労働なる概念をマルクスの説として持ち出して、平然としているのだが、マルクスが言うのは、抽象的人間労働である。

 抽象的労働と具体的労働は、実際には質的には区別できない。この議論は、『共産主義』14号で、宇野経済学批判として、労働の二面性か二重性かという議論に対して、ニ面性が正しいということで、決着がついている。『資本論』の該当する個所で、マルクスが労働の二面性と書いているからである。質的に、必要労働と剰余労働も区別できないし、抽象的労働と具体的労働も区別できないのである。この区別を、彼女は、交換というところから、導こうとしたのだろうが、それは無理というものだ。

 もしこれが、労働力商品という意味だとすれば、商品化されているのは、あくまでも労働能力であって、労働ではないということもマルクスの説に明らかなことであって、間違いである。資本制社会になっても、賃労働以外の労働はいくらでもある。家事労働もその一つである。ボランティアの労働というのもある。

 商品交換の問題は、『資本論』では、第1巻の労働過程以前のところまでであり、労働過程論は、交換の話ではない。

 マルクスは、「商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成っているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。これらの個別労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である」(第1巻第1篇商品と貨幣第1章商品 大月文庫78~9頁)と書いている。

 それを上のように、要約するのは、不当解釈というものである。

 そして、彼女は、「「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている」とあっさりと言うのだが、マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』で、人間とは社会諸関係の総体であると述べていて、その人間がつくる家族が性という「人間の自然」にもとづいているという考えとは明らかに違う考えを持っていた。

 それに対して、彼女は、あっさりとレヴィ・ストロースの構造主義という上部構造による下部構造決定論を受け入れている。もっとも、彼女は、別の本では、レヴィ・ストロースの理論を批判はしているのだが、基本的なところはそのまま引き継いでいるようである。

 結局は、レヴィ・ストロースが、ローマン・ヤコブソンの言語理論やフッサール現象学から受け継いだと思われる主観主義と形式主義の双方をそのまま受け入れているようなのである。構造を規定するメタ構造という形でどこまでも続く、構造の重畳という形で、社会構造を捉えるいう試みは、結局、空回りし、超越的主観なる「主観の主観」的な形で主観主義哲学を基礎付けようとする試みも、デリダの批判的読解の中で、アポリアに追い込まれ、さらに、脱構築を唱えたデリダの試みは、一種の秘儀化へと陥っていき、社会的なものは、秘密の領域に追い込まれたのである。デリダは、掟や倫理の領域についての論考において、結局それは秘密であって、見えないものとする他はなかった。なぜなら、掟に関する言説は、対等な資格で対立する二項対立に追い込まれ、解決不能となるが、その解決不可能性を条件として、それらが成立すると言うからである。マルクス・エンゲルスは、それらの諸問題は実践が解決すると答えている。結局、デリダたちは、一種の思考ゲームに陥っているのである。インテリ・サークル内で勝手に戯れていたらという感じである。

 現にある掟に縛られているほうとしては、こういう頭の体操で、それが抑圧的でなくなるものならけっこうなはなしだが、現実はそうはならないのである。それにしても、デリダのような人たちを見ていると、『ドイツ・イデオロギー』でマルクスが批判した青年ヘーゲル派を批判した次のところがぴったりとあてはまると思わざるをえない。

 「かれらのもっともあたらしい連中が、自分たちは《言説》とだけたたかうのだと主張するとき、かれらの活動にぴったりな表現をみつけたわけであった。ただし、かれらは自分たちがこの言説そのものに対置するものとしてけ言説以外をもたず、かれらがこの世界についての言説とたたかうがぎり、現にある世界とはまったくたたかっていないということは忘れてのうえで、この哲学的批判がなしとげることのできた唯一の成果は、キリスト教に関する若干の、しかも一面的な宗教史的解明であった。およそその他のかれらの諸主張は、このとるに足らない解明を世界史的な発見をしたかのようにいいふらすための、なおいっそうの粉飾にすぎない」(合同出版28~9頁)。

 こういう批判があることを気にしたのかどうかわからないが、『構造主義について』という本の最後の方で、彼女は、言説の物質性ということを指摘している。だが、問題は、物的制度の実践的な変革ということであり、言説が物質的かどうかということではない。彼女の答えは、的外れである。

 『家父長制と資本制』で、彼女は、人間の自然である生物的性差から発する女性差別を主張したラディカル・フェミニズムに対して、当時のフェミニズム的な文化親類学者の報告するデータを証拠として、母系制も家父長制の一部に過ぎないと主張して理解を示し、それをフロイト理論と結び付けて論証しようとした。彼女は、そこに、ブルジョア急進主義的フェミニズムのバイアスがかかっていることにはまったく無頓着であった。そして、マルクス主義フェミニズムを批判的に総括し、両者の接合を図ろうとした。彼女は、家族制度と性愛生活の実際とを区別することなく、家族と性を結び付けてしまった。レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』だったと思うが、その中で、ある部族において、同性愛が見られることは報告されていたのだが、現代ならバイセクシャルと呼ばれる性愛生活の存在を見逃したのである。そこで、「「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている」という誤ったことを主張することになったのだろう。というのは、この本での、恋愛ゲーム論をはじめとして、彼女の性愛論は、男女関係に限られているからである。人間の性愛関係は、男女間だけにあるのではない。そのことは、子どもと親との関係に性的なものを発見したフロイトの精神分析学からも言える事であり、フェティシズムの分析からも言えることである。性もまた社会的なものであり、歴史的であり、文化的なものである。

 ラディカル・フェミニズムの人間観を証明したとする文化人類学の観察報告に対して、近年、同じ対象を観察した結果報告があり、それによると、男=狩猟、女=採集という分業がある共同体で、前者が共同体的に高く評価され、後者が低く評価されているというようなことはないという。これは、ピグミー族のフィールド調査報告の例である。文化人類学的な観察記録が、観察者の持っている価値観やバイアスから完全に自由であるというわけにはいかないのである。

 エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』では、男女の狩猟・採集の分業は、前者を後者より高い価値を置くものとして論じられていない。家事についてもそうであって、それは共同体の公的共同事業として高い位置が与えられていたと述べている。ピグミー族の間では、男が共同調理を手伝うこともよくあるという。また、ピグミーの女性は、狩りもするという。自給自足的な経済では、分業も今のように発展していないから、男も女もかなりオールマイティな能力を身に付けているということである。

 それに対して、神話の記述を言説として物質化してきつく部族や個々人をきつく縛っていて、そこに書いてあるとおりに生活が営まれたと考えるのは、明らかに行き過ぎである。その誤りに気づいた文化人類学では、神話をその一部とするようなイデオロギー問題として、分析する動きが出てきたという。神話そのものが現実生活の規則や規範や掟として部族生活やメンバーを拘束しているというよりも、それの解釈を通して、それらが内面化されているということである。したがって、神話の構造分析を通じて、親族構造を解明しようとしたレヴィ・ストロースの構造人類学の手法には限界があったということになる。なぜなら、現実の規範の基礎は、神話に記録されていないものの中にあることになるからである。神話の分析からは、親族の実際の構造も男女の実際の関係のあり方もきちんとはわからないということだ。

 上野千鶴子氏にしても、その現代資本制社会観が、過去認識に反映しているので、それは彼女の資本制=交換ゲームということになるのだが、この交換ゲームという概念を原始社会にまで当てはめてしまった結果、人間そのものが女性差別によって成り立っているとする性差=女性差別という構図から抜け出せなくなってしまい、交換から排除されている領域としての「「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている」という形で、家父長制を非資本主義的なものとしてその外部に追放してしまうことになったのである。そして、それを超歴史的なものとしてしまったわけである。

 もちろん、そこには、ローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』における資本制は、非資本制の領域で蓄積を実現するので、そういう外部領域を必要とするという主張があることは透けて見えるのであるが、現代では、家族はそうした外部性をずいぶん失ってきている。現代の家族の食卓には、スーパーなどの工場で生産された加工食品が多く並ぶようになっており、洗濯も乾燥機付き全自動洗濯機、ロボット掃除機まで現われるようになって、家事労働時間が短縮されつつある。介護と育児は確かに女性の肩に重く負わされているが、それは政治的社会的な制度のあり方によって大きく規定されている。しかし、こうして、女性を労働力として労働市場への大量投入を促進する動きがあるのだが、その労働市場における編成の仕方に女性差別があって、女性労働者は低賃金不安定雇用を強いられている。そしてそれを税制などの諸制度が支えているのである。

 他方で、家族制度の方は、男女両性の合意のみを基礎とするという婚姻のあり方を阻害するような離婚の自由への制限(多少の前進を見た女性だけに課せられた再婚禁止期間など)やシングル・マザーへの支援の手薄さとか戸籍簿の×表示の問題という法制度上の問題に加えて、女性の低賃金不安定雇用などの様々な社会的な困難の軽減という課題がある。そして、日本国憲法24条「〔家族関係における個人の尊厳と両性の平等〕 第24条婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」という規定は、婚姻を男女のみに認めていて、同性間の婚姻を認めないものだとして、改憲を求める意見が同性愛者の中から起きている。 そもそも日本の戸籍制度は差別的だという問題がある。

 『新約聖書』は、同性愛を厳しく非難している。キリスト教保守派が影響力を強めているアメリカでは、同性間の結婚を公的に認めるかどうかが賛成派とこうした反対派の間で闘われている。日本では、性同一性障害者だけに、特別に戸籍の性の変更が認められたが、同性婚は認められていない。その法的根拠として、憲法24条が使われることはありうることだ。

 さて、ずいぶん遠くまできてしまったけれども、実は、上野氏のマルクスの資本制論解釈とは反対に、マルクスが現実に目の当たりにしていたプロレタリアは、女性と子どもが多かったから、マルクスの言うプロレタリアートの解放とは、女性・子ども労働者の解放と読むことができるということを最後に指摘しておきたい。それに対して、キリスト教的博愛主義や慈愛主義的な労働運動が、女性や子供を家庭に戻すように主張した。それが家父長制というものではないだろうか。マルクスは、女性が大量にプロレタリア化することに、女性解放の物的な条件の前進を見たので、それに反対するようなことは言わなかったのではないだろうか。なぜなら、マルクス・エンゲルスは、『共産党宣言』で、プロレタリアートにおいては家族は解体していると述べているからである。それは近代的制度としての家族制度という意味であって、物的生活条件において、男女を結びつける絆が、愛情しかないという状態にあるという意味だろう。

 現代の日本のあるフェミニストは、このところの、非正規雇用化の拡大の中で、それまでもっぱら女性の職場とされてきたところに、男性労働者が入ってくるようになって、それがジェンダー構造にどういう影響をもたらすかに注目しているという。そして、ワーキング・プアの男性が、非婚化して、今日の家族制度を再生産できないことの影響についても議論されている。この場合に、ワーキング・プア同士の婚姻が増える可能性が高いと思うが、それが出発点であって、そこから生活水準が上昇する見込みがないとなるとどうなるのだろうか? ひとつの答えは、革命化である。この層には、マルクスが描いたプロレタリアートの基本的特長がいくつもある。違う点の一つは親の世代がまだ多少の蓄えを持っているということである。その余力に多少頼れる者もまだ多いだろう。それは、ある世論調査で、結婚後も親の援助を受ける夫婦が多数いるという結果に示されている。

 まだワーキング・プア層は、世代を継いでいない。しかし、この層は、次の世代を残せる見込みは低い。それ以外に、もともと存在する下層はどうだろうか? 親の代に抜け出せなかったとしても、子供が経済的に上昇すれば、それに伴って脱出できるという希望はあった。立身出世や成り上がりの機会は今よりも開かれていたのではないだろうか? ある統計によれば、女性の多くは、中流階層の男性との結婚によって自らの階層を上昇させてきたという。男性労働者の位階制が、女性の経済的地位の位階制と対応しているわけである。結婚であれ家族であれ、経済的なものと切り離したら、実践的解決の道は開けない。ラディカル・フェミニズムが様々なことを明らかにしたことを評価しつつも、そのスタティックな人間観や社会観のために、現状の実践的変革の道を閉ざしているのではないかという気がする。上野氏がそれに片足にしても足を置いてしまっては、マルクス主義フェミニズムという自らの立場も殺すことになりはしないだろうか?  なお、レヴィ・ストロースの構造主義にはだいぶ反省が加えられるようになってきたようである。

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