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上野千鶴子氏のフェミニズムについて

 上野千鶴子氏は、『家父長制と資本制』マルクス主義フェミニズムの地平(岩波書店1987年)で、マルクスの限界を指摘する。

 「マルクスにとっては「プロレタリアに固有の従属」はあっても「女性に固有の従属」はなかった。「女性に固有の従属」は「プロレタリアに固有の従属」に内属し、それに還元されたのである。だからこそ、「プロレタリア革命」によって、女性もまた自動的にかつ最終的に、解放されるはずであった」(19頁)。

 マルクスのどこからこういうことを判断したのか、示して欲しいものだ。マルクスが見ていたのは、女性や子供が労働者としてどんどん狩り出され、資本制工場で働いている姿である。マルクスが見ていた労働者の多数は、女性や子供であった。『資本論』の中では、紡績工場で働く女性労働者の姿が描かれている。炭鉱では、女性や子供が働いていた。例えば、「わが谷は緑なりき」という映画でもその様子が描かれている。

 また、マルクス主義者の中からは、ローザ・ルクセンブルクやクララ・ツェトキンやコロンタイやアネッサ・アルマンドなどのフェミニストが生み出され、それぞれ女性解放の闘いを組織した。彼女たちは、女性の男性への従属の基礎に、経済的原因があることを主張した。だから、女性解放は、経済的解放を基本にし、そしてそれが社会的政治的文化的などの女性解放を推し進めるテコとなることを主張した。ロシア革命は、当初は、そうした方向に前進していったが、やがて反動化が起きて、コロンタイらの闘いも空しく、その試みは成功してしまった。ソビエトの家族法で、ソビエト社会の基礎を家庭に置くというおよそ共産主義とは無縁の反動的な規定を定めてしまったのである。しかし、これらの人々の闘いは、今日においても色あせてはいない。今、目の前で、差別的な家計補助労働という位置付けであるにしても、女性の社会進出が進んだのに対して、保守反動派によって、ふたたび、家は国家の基礎であるとの主張が叫ばれ、それを立法化し、制度化し、教育しようという動きがあるからである。

 コロンタイは、家族制度・家制度が女性抑圧の基礎にあると見て、その解体を目指したのである。これらの抑圧的制度を解体したからといって、男女の愛情関係や家族愛はなくならない。それどころか、それらは、逆に、解放され、発展する。家制度が強制する欺瞞的徳目から解放されるからである。そして、新制度は、それを支えるように組織されることが必要なのである。

 上野千鶴子氏には、資本主義観に問題がある。

 「交換ゲームとしての資本制」(296頁)

 これが彼女の資本制の基本認識である。これでは、まったく、新自由主義者の資本制観と変わらない。例えば、竹中平蔵は、資本主義経済の基本は、商品を安く買って高く売ることだと言った。

 「産業革命による技術革新は労働の質を平準化して、マルクスの言う「抽象的労働 abstrat labor)を成立させた。時間単価によって測られるような「労働価値」説は、労働の質を一切捨象した「抽象的労働」の成立を前提としている。「抽象的労働」を共通分母として、労働の間のあらゆる質的差異は消去されて交換可能なものとなる」(170~1頁)。

 「抽象的労働」を共通分母として、労働の間のあらゆる質的差異は消去されて交換可能なものとなると言うわけだが、この場合、交換されるものは何だろう? 彼女は、肝心なことを書き忘れている。この部分からは、それは労働ということになるように思われる。しかし、ここで交換可能になるのは、労働力という能力であって、労働ではない。労働と労働力の区別は、マルクス経済学と古典派経済学を区別する基本に関わることは、マルクス経済学者の間では常識なのだが、彼女は、古典派経済学の労働観をマルクスの労働観にしている。彼女は、抽象的労働なる概念をマルクスの説として持ち出して、平然としているのだが、マルクスが言うのは、抽象的人間労働である。

 抽象的労働と具体的労働は、実際には質的には区別できない。この議論は、『共産主義』14号で、宇野経済学批判として、労働の二面性か二重性かという議論に対して、ニ面性が正しいということで、決着がついている。『資本論』の該当する個所で、マルクスが労働の二面性と書いているからである。質的に、必要労働と剰余労働も区別できないし、抽象的労働と具体的労働も区別できないのである。この区別を、彼女は、交換というところから、導こうとしたのだろうが、それは無理というものだ。

 もしこれが、労働力商品という意味だとすれば、商品化されているのは、あくまでも労働能力であって、労働ではないということもマルクスの説に明らかなことであって、間違いである。資本制社会になっても、賃労働以外の労働はいくらでもある。家事労働もその一つである。ボランティアの労働というのもある。

 商品交換の問題は、『資本論』では、第1巻の労働過程以前のところまでであり、労働過程論は、交換の話ではない。

 マルクスは、「商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力から成っているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。これらの個別労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である」(第1巻第1篇商品と貨幣第1章商品 大月文庫78~9頁)と書いている。

 それを上のように、要約するのは、不当解釈というものである。

 そして、彼女は、「「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている」とあっさりと言うのだが、マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』で、人間とは社会諸関係の総体であると述べていて、その人間がつくる家族が性という「人間の自然」にもとづいているという考えとは明らかに違う考えを持っていた。

 それに対して、彼女は、あっさりとレヴィ・ストロースの構造主義という上部構造による下部構造決定論を受け入れている。もっとも、彼女は、別の本では、レヴィ・ストロースの理論を批判はしているのだが、基本的なところはそのまま引き継いでいるようである。

 結局は、レヴィ・ストロースが、ローマン・ヤコブソンの言語理論やフッサール現象学から受け継いだと思われる主観主義と形式主義の双方をそのまま受け入れているようなのである。構造を規定するメタ構造という形でどこまでも続く、構造の重畳という形で、社会構造を捉えるいう試みは、結局、空回りし、超越的主観なる「主観の主観」的な形で主観主義哲学を基礎付けようとする試みも、デリダの批判的読解の中で、アポリアに追い込まれ、さらに、脱構築を唱えたデリダの試みは、一種の秘儀化へと陥っていき、社会的なものは、秘密の領域に追い込まれたのである。デリダは、掟や倫理の領域についての論考において、結局それは秘密であって、見えないものとする他はなかった。なぜなら、掟に関する言説は、対等な資格で対立する二項対立に追い込まれ、解決不能となるが、その解決不可能性を条件として、それらが成立すると言うからである。マルクス・エンゲルスは、それらの諸問題は実践が解決すると答えている。結局、デリダたちは、一種の思考ゲームに陥っているのである。インテリ・サークル内で勝手に戯れていたらという感じである。

 現にある掟に縛られているほうとしては、こういう頭の体操で、それが抑圧的でなくなるものならけっこうなはなしだが、現実はそうはならないのである。それにしても、デリダのような人たちを見ていると、『ドイツ・イデオロギー』でマルクスが批判した青年ヘーゲル派を批判した次のところがぴったりとあてはまると思わざるをえない。

 「かれらのもっともあたらしい連中が、自分たちは《言説》とだけたたかうのだと主張するとき、かれらの活動にぴったりな表現をみつけたわけであった。ただし、かれらは自分たちがこの言説そのものに対置するものとしてけ言説以外をもたず、かれらがこの世界についての言説とたたかうがぎり、現にある世界とはまったくたたかっていないということは忘れてのうえで、この哲学的批判がなしとげることのできた唯一の成果は、キリスト教に関する若干の、しかも一面的な宗教史的解明であった。およそその他のかれらの諸主張は、このとるに足らない解明を世界史的な発見をしたかのようにいいふらすための、なおいっそうの粉飾にすぎない」(合同出版28~9頁)。

 こういう批判があることを気にしたのかどうかわからないが、『構造主義について』という本の最後の方で、彼女は、言説の物質性ということを指摘している。だが、問題は、物的制度の実践的な変革ということであり、言説が物質的かどうかということではない。彼女の答えは、的外れである。

 『家父長制と資本制』で、彼女は、人間の自然である生物的性差から発する女性差別を主張したラディカル・フェミニズムに対して、当時のフェミニズム的な文化親類学者の報告するデータを証拠として、母系制も家父長制の一部に過ぎないと主張して理解を示し、それをフロイト理論と結び付けて論証しようとした。彼女は、そこに、ブルジョア急進主義的フェミニズムのバイアスがかかっていることにはまったく無頓着であった。そして、マルクス主義フェミニズムを批判的に総括し、両者の接合を図ろうとした。彼女は、家族制度と性愛生活の実際とを区別することなく、家族と性を結び付けてしまった。レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』だったと思うが、その中で、ある部族において、同性愛が見られることは報告されていたのだが、現代ならバイセクシャルと呼ばれる性愛生活の存在を見逃したのである。そこで、「「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている」という誤ったことを主張することになったのだろう。というのは、この本での、恋愛ゲーム論をはじめとして、彼女の性愛論は、男女関係に限られているからである。人間の性愛関係は、男女間だけにあるのではない。そのことは、子どもと親との関係に性的なものを発見したフロイトの精神分析学からも言える事であり、フェティシズムの分析からも言えることである。性もまた社会的なものであり、歴史的であり、文化的なものである。

 ラディカル・フェミニズムの人間観を証明したとする文化人類学の観察報告に対して、近年、同じ対象を観察した結果報告があり、それによると、男=狩猟、女=採集という分業がある共同体で、前者が共同体的に高く評価され、後者が低く評価されているというようなことはないという。これは、ピグミー族のフィールド調査報告の例である。文化人類学的な観察記録が、観察者の持っている価値観やバイアスから完全に自由であるというわけにはいかないのである。

 エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』では、男女の狩猟・採集の分業は、前者を後者より高い価値を置くものとして論じられていない。家事についてもそうであって、それは共同体の公的共同事業として高い位置が与えられていたと述べている。ピグミー族の間では、男が共同調理を手伝うこともよくあるという。また、ピグミーの女性は、狩りもするという。自給自足的な経済では、分業も今のように発展していないから、男も女もかなりオールマイティな能力を身に付けているということである。

 それに対して、神話の記述を言説として物質化してきつく部族や個々人をきつく縛っていて、そこに書いてあるとおりに生活が営まれたと考えるのは、明らかに行き過ぎである。その誤りに気づいた文化人類学では、神話をその一部とするようなイデオロギー問題として、分析する動きが出てきたという。神話そのものが現実生活の規則や規範や掟として部族生活やメンバーを拘束しているというよりも、それの解釈を通して、それらが内面化されているということである。したがって、神話の構造分析を通じて、親族構造を解明しようとしたレヴィ・ストロースの構造人類学の手法には限界があったということになる。なぜなら、現実の規範の基礎は、神話に記録されていないものの中にあることになるからである。神話の分析からは、親族の実際の構造も男女の実際の関係のあり方もきちんとはわからないということだ。

 上野千鶴子氏にしても、その現代資本制社会観が、過去認識に反映しているので、それは彼女の資本制=交換ゲームということになるのだが、この交換ゲームという概念を原始社会にまで当てはめてしまった結果、人間そのものが女性差別によって成り立っているとする性差=女性差別という構図から抜け出せなくなってしまい、交換から排除されている領域としての「「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている」という形で、家父長制を非資本主義的なものとしてその外部に追放してしまうことになったのである。そして、それを超歴史的なものとしてしまったわけである。

 もちろん、そこには、ローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』における資本制は、非資本制の領域で蓄積を実現するので、そういう外部領域を必要とするという主張があることは透けて見えるのであるが、現代では、家族はそうした外部性をずいぶん失ってきている。現代の家族の食卓には、スーパーなどの工場で生産された加工食品が多く並ぶようになっており、洗濯も乾燥機付き全自動洗濯機、ロボット掃除機まで現われるようになって、家事労働時間が短縮されつつある。介護と育児は確かに女性の肩に重く負わされているが、それは政治的社会的な制度のあり方によって大きく規定されている。しかし、こうして、女性を労働力として労働市場への大量投入を促進する動きがあるのだが、その労働市場における編成の仕方に女性差別があって、女性労働者は低賃金不安定雇用を強いられている。そしてそれを税制などの諸制度が支えているのである。

 他方で、家族制度の方は、男女両性の合意のみを基礎とするという婚姻のあり方を阻害するような離婚の自由への制限(多少の前進を見た女性だけに課せられた再婚禁止期間など)やシングル・マザーへの支援の手薄さとか戸籍簿の×表示の問題という法制度上の問題に加えて、女性の低賃金不安定雇用などの様々な社会的な困難の軽減という課題がある。そして、日本国憲法24条「〔家族関係における個人の尊厳と両性の平等〕 第24条婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」という規定は、婚姻を男女のみに認めていて、同性間の婚姻を認めないものだとして、改憲を求める意見が同性愛者の中から起きている。 そもそも日本の戸籍制度は差別的だという問題がある。

 『新約聖書』は、同性愛を厳しく非難している。キリスト教保守派が影響力を強めているアメリカでは、同性間の結婚を公的に認めるかどうかが賛成派とこうした反対派の間で闘われている。日本では、性同一性障害者だけに、特別に戸籍の性の変更が認められたが、同性婚は認められていない。その法的根拠として、憲法24条が使われることはありうることだ。

 さて、ずいぶん遠くまできてしまったけれども、実は、上野氏のマルクスの資本制論解釈とは反対に、マルクスが現実に目の当たりにしていたプロレタリアは、女性と子どもが多かったから、マルクスの言うプロレタリアートの解放とは、女性・子ども労働者の解放と読むことができるということを最後に指摘しておきたい。それに対して、キリスト教的博愛主義や慈愛主義的な労働運動が、女性や子供を家庭に戻すように主張した。それが家父長制というものではないだろうか。マルクスは、女性が大量にプロレタリア化することに、女性解放の物的な条件の前進を見たので、それに反対するようなことは言わなかったのではないだろうか。なぜなら、マルクス・エンゲルスは、『共産党宣言』で、プロレタリアートにおいては家族は解体していると述べているからである。それは近代的制度としての家族制度という意味であって、物的生活条件において、男女を結びつける絆が、愛情しかないという状態にあるという意味だろう。

 現代の日本のあるフェミニストは、このところの、非正規雇用化の拡大の中で、それまでもっぱら女性の職場とされてきたところに、男性労働者が入ってくるようになって、それがジェンダー構造にどういう影響をもたらすかに注目しているという。そして、ワーキング・プアの男性が、非婚化して、今日の家族制度を再生産できないことの影響についても議論されている。この場合に、ワーキング・プア同士の婚姻が増える可能性が高いと思うが、それが出発点であって、そこから生活水準が上昇する見込みがないとなるとどうなるのだろうか? ひとつの答えは、革命化である。この層には、マルクスが描いたプロレタリアートの基本的特長がいくつもある。違う点の一つは親の世代がまだ多少の蓄えを持っているということである。その余力に多少頼れる者もまだ多いだろう。それは、ある世論調査で、結婚後も親の援助を受ける夫婦が多数いるという結果に示されている。

 まだワーキング・プア層は、世代を継いでいない。しかし、この層は、次の世代を残せる見込みは低い。それ以外に、もともと存在する下層はどうだろうか? 親の代に抜け出せなかったとしても、子供が経済的に上昇すれば、それに伴って脱出できるという希望はあった。立身出世や成り上がりの機会は今よりも開かれていたのではないだろうか? ある統計によれば、女性の多くは、中流階層の男性との結婚によって自らの階層を上昇させてきたという。男性労働者の位階制が、女性の経済的地位の位階制と対応しているわけである。結婚であれ家族であれ、経済的なものと切り離したら、実践的解決の道は開けない。ラディカル・フェミニズムが様々なことを明らかにしたことを評価しつつも、そのスタティックな人間観や社会観のために、現状の実践的変革の道を閉ざしているのではないかという気がする。上野氏がそれに片足にしても足を置いてしまっては、マルクス主義フェミニズムという自らの立場も殺すことになりはしないだろうか?  なお、レヴィ・ストロースの構造主義にはだいぶ反省が加えられるようになってきたようである。

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