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国体論

 国体概念の作者は案外はっきりしているらしい。

 子安宣邦氏によるとそれは、後水戸学派の会沢正志であるという。会沢の『新論』がそれだと言うのである。そしてそれに影響を与えたのは、古学派の荻生徂徠だというのである。

 荻生徂徠は、儒教の説く理想の古の道を単なる精神修養のようなものではなく、実際にあった尭・瞬が実際に行った統治・政治であり、制度であったと唱えた。それが道なのであり、それは人の道であって、それに戻ることが、道を整えることだと考えたようである。徳川光圀が始めた『大日本史』編集の中で、記紀などの古資料を収集・整理・読解するなかで、会沢は、荻生徂徠の考えをそれに応用して、そこにある祭政一致の政治体制を国体と名付けたということらしい。荻生徂徠は、国体に当たるものを徳川幕藩体制の出発点の体制と考えて、それに戻ることが道を正すことだと考えた。

 本居宣長の国学は、もののあわれという情感に流れていて、文化主義的で文学的なもので、政治的ではない。平田篤胤の思想もそういうところもあるが、しかし、平田派は、都市文化を嫌って、農村文化の方に向いていた。そして、平田派は、その茫洋とした性格からか、経世済民などにも乗り出すものもあったように、間口の広いものであった。平田自身、儒教や仏教批判をするものの、儒教や仏教の書を読んでいたし、とくに道教の影響をかなり受けたようである。また、禁書となっていたキリスト教の文献も読んだようで、その影響もあるという。平田が、死後の世界について、具体的に論じたことに、会沢は影響を受けたようである。

 荻生徂徠が、聖人の道を歴史的実在の政治・制度と考えたように、会沢もまた記紀に描かれている祭政一致の政治制度は、歴史的事実であり、それを蘇らすことが、国体を建てる道であった。

 会沢は、西洋諸国の一神教たるキリスト教との対抗関係で考えたのである。すでに、西洋諸国が、マレー半島やインドネシア・インドシナからアジアを制しつつあることがわかっており、それにたいする具体的な対策が求められていたのであり、その答えを、記紀などの古代文献の中に発見したわけである。その後の明治維新の初期の過程から見れば、この会沢の国体論が、かなりの影響を与えたことは確かである。明治政府の実権はもちろん薩長藩閥が握っていくのだが、初期には、祭政一致の国体政治に一時行きかけたのである。言うまでもなく、徳川幕府を実力を背景に倒した薩長としては、天皇は、錦の御旗として、担いでいただけなので、祭政一致の古代制度の復古を行って、天皇親政などに戻すつもりはなかった。それは形だけのもので、実権はしっかり自分たちが握りしめていたわけである。やがて、祭政一致派は政権から遠ざけられた。しかし、国体イデオロギーは、その後、要所要所で利用され、使われた。

 神道は、国教的な位置付けを与られ、国家組織型のヒエラルキーに編成替えされた。伊勢神宮を頂点とした神社の序列が付けられた。その中で、もともとは勤皇の志士を祭っていた京都の招魂社が、後の靖国神社の前身となる東京招魂社として移された。そこに、新たに戊辰戦争や西南戦争の官軍戦死者を祀ることとなり、その後は、主に戦死者を祀る神社として国家からの特別の位置を与えられるようになるのである。また、神社統廃合によって、水戸で光圀から始まった一村一社的な神社整理が行われ、今のような神社の姿が出来上がるのである。しかし、それは、もともと、多様な民間信仰の拠点として形成されてきた神道の姿とはまったく違うものであった。それで奇妙なことが起きた。例えば、稲荷と天神と八幡とが合祀されて、稲八天神社というものが生まれたのである。祭神が、お上によって押し付けられた。人々の信仰生活は、激変を蒙ったのであるが、それは新たな国家神道への崇拝を生み出すというよりは、無信仰へ、あるいは、新興宗教への帰依へと向かわせたように思われる。それはそれで国家を崇拝させようとしていた政府にとっては危険なものだったので、一方では学校教育を通じて神道を浸透させると共に仏教宗派や教派神道やキリスト教への管理を強化すると共に「真の神道」を主張した大本教に対して二度にわたる大弾圧を加えた。

 民俗学者の柳田國男は、廃仏毀釈に反対する生態学者南方熊楠に組して、政府の方針に反対した。柳田國男は、平田国学的な経世済民的な志向を持っていて、創価学会の前身の創価教育学会を立ち上げる際に、創設者の牧口常三郎に協力している。

 しかし、国体観は、会沢の言うような具体的な政治体制というものから、宗教的・文化的・歴史・伝統を象徴する太古からの血統をつなぐ天皇という存在という風にイデオロギー的なものになっていったようである。しかし、戦前においては、それは、祭政一致的なあるいは天皇親政的なものとはっきり分離していたかと言えば、そうでもない。例えば、ご恩―奉公という封建的な主従関係は、きわめて具体的なもので、土地という富を与え保証してくれた主とその恩に報いるために、従者として奉公するというのはわかりやすいが、近代民主主義国家になると国権の最高機関の国会議員の地位は、有権者が与えたものであって、国民主権ということになっているので、制度上は、国民が主で国会議員が従という関係になっている。政府や官僚は、もちろん、国会の下の権力だから、国民からすれば、従者である。封建的関係から言えば、主に対して従者が、報恩し、奉仕することになるのだから、報国とは、議員や官僚が、国民に感謝するということでなければならない。

 だとすれば、改悪教育基本法は愛国心を育てることを書いているわけだが、それは、官僚や政府や議員が、国民を愛するということになるわけだが、もちろん、そんなことは、法律を変えた側は思ってはいない。国家に対して、国民が従者として、国という主人を愛すようにすることを狙っているのだ。

 会沢としては、国体を確立することで、古代の理想国家が蘇り、それがキリスト教という一神教を持つ西洋諸国の侵略から身を守る防衛体制の構築にもつながるはずだと考えたわけだ。それで、会沢は、屯田兵制導入を提言している。屯田兵制は、ロシアが北辺を脅かすのを防ぐのが目的で、実際、明治に、蝦夷地への旧武士の植民という形で実現する。後期水戸学には、荻生徂徠の影響と共に陽明学の影響もあったというのだが、その点は、まだよく解明されていないという。

 国体は、GHQのケーディスと金森大臣との会談で合意された「金森6原則」で、政体は変わったが、国体は変わらないという形で、今日まで継続しているものとされている。「金森6原則」の第6は、「政治機構とは別個の道徳的、精神的国家組織に於ては天皇が国民のセンターオブデヴォーションであることは憲法改正の前後を通じて変わりはない。(国体が変わらないと云ふのは此のことを云ふのである)。」デヴォーション=devotion、信仰・信心・帰依である。会沢の国体論の祭政一致の天皇親政体制とは違って、ここでの国体は、イギリスにおける国教会制度のようなものを指しているのだろう。しかし、GHQの神道指令によって、国家神道は解消されてしまったから、この道徳的精神的国家組織の足腰は弱ってしまった。しかし、神社本庁が国家神道の復興に向けて動いているし、靖国神社もそれと連動して、復権をはかっている。もともと、問題になっている合祀名簿は、政府が提供した戦死者名簿を元にしたもので、その点からも、靖国神社が、国教的な扱いを受けていると言えよう。

 ところで、平田篤胤は、本居宣長が、死後の世界をほぼ無視したのに対して、死後の世界についてはっきりと語っており、それは黄泉の国だと述べている。そこは、大国主が支配しているという。記紀にある黄泉の国の話は、どうやら古墳の構造を表しているらしいのだが、入り口からよもつひらさかという坂を下ると棺があってそこに死体があり、霊は、古墳の山の上に上るということになるらしい。昔の日本人は、死後の霊は、山の上に上ると考えたと柳田國男は、「先祖の話」かなにかで書いている。昔の人は、魂だの神だのというのは動的なもので、「飛び神」信仰があったように、空を飛んだり、移動したりするものだと考えていたようである。

 会沢は、国体論を立てるに当たって、記紀に書かれている祭祀のみを信仰の対象としており、当時、爆発的に流行っていた富士講を批判している。富士講は、江戸の富裕な商人が、西国で起きた飢饉対策として、幕府が西国へ米を優先的にまわしたことから、江戸が米不足となった際に、江戸市民に財を散じて、経世済民を行ったことをきっかけとして、その後、富士信仰と結びつけて、経世済民の組織として拡大していったものと思われる。これは修験道とは違って、修験寺に属さず、浅間神社を中心組織として形成されていて、各地に講を組織する形で広がったものである。講の中心活動は、富士登山である。既存の修験寺に属さないので、幕府も管理しようがなく、講を禁止したのだが、それでも講は拡大しつづけていった。恐らく、相互扶助的な活動もあったのではないだろうか。富士講は、明治時代にも東京を中心に巨大な勢力をほこったが、関東大震災で、実質的に解体したという。特に教義らしいものもなかったという。もちろん、明治政府は、道徳的精神的国家組織の中心たる天皇への信仰体系という意味での国体を脅かしかねない別の精神的道徳的宗教活動を統制・管理した。富士講系は教派神道と位置付けて、むしろ、国体信仰を民衆に注入するのに利用すると共に監視して、場合によっては、大本教のように、弾圧したのである。

 教育基本法改悪を通じて、またぞろ、国体の復権が目論まれていることは、『産経』社説が、神話を教育して、道徳心を育てることが愛国心を育むことになると主張していることに現われている。子安宣邦氏は、ナショナリズムの解明に取り組んでいるが、そこで、後期水戸学派の会沢の国体論に立ち戻っているのは、すでに国体と言えば、国民体育大会しか思いつかない人が圧倒的多数となっているだろう時代に、その無知を利用して、教育基本法改悪をはじめとする改憲派の狙いをはっきり理解するのに役立つことである。

 もちろん、丸山真男の研究がすでにあるわけだが、彼の場合は、やはり、どちらかと言えば、欧米流のアカデミックな概念をあてはめて、テキストを裁断するようなところがあり、どうもしっくりこないところ、なじめないところが多いのである。儒教にしても、たんなる「漢意からごころ」(本居宣長)というだけではなく、その受容の仕方に現われている独自性ということにも焦点を当てるべきではないだろうか。幕府は林家流の朱子学を官学としたが、伊藤仁斎の古学や荻生徂徠の古文辞学や熊沢藩山の陽明学や独自性の強い安藤昌益とか、とにかく、多様なのである。もう一つ、丸山氏にかけていると思うのは、民衆がどのような精神生活・思想生活を行っていたかということの解明である。江戸中期には、寺子屋の普及などを通じて、ほとんど読み書きの出来ないものはいなかなったと言われるほどの民衆が、単に、上からのお仕着せのイデオロギーを受け入れていただけとは考えにくい。記録こそそれほど残さなかったにしても、その姿は、様々な記録や文書や絵などに残されており、そこから推測して多少はそれも解明できるのではないだろうか。かわら版は、文字を読めた町人たちの高い知識欲によって成り立っていたのだろうし、江戸中期には、本屋というのも生業としてばかりではなく、到富を可能とするような多くの読者を持つようになっていたのだろう。

 徳川幕府は、資料集を作る作業を進めようとしたことがあったが、文献がなかなか思うように手に入らずに苦労した時、京都の本屋に協力を依頼したことがあったという。この作業は挫折するのであるが、水戸藩は光圀以来の京都との関係が深いこともあって、公家や本屋などの協力を得られやすかったという。本屋の実力もたいしたものだったのである。

 一揆の書状などの中には、全文漢字で書かれたものもある。「新しい歴史教科書をつ くる会」などは、こうした農民一揆などの民衆運動をあまり具体的に教えないのがよいと考えているようで、そういう視点から、歴史教科書で農民一揆を具体的で詳細に教えすぎていると批判している。しかし、農民一揆は後の自由民権運動につながっていくものもあり、いわば日本の自由と民主主義の魁をなしている面もある。それが近代化の推進力の一つであるといえるわけで、そうした歴史的な評価をきちんとするべきだろう。なにせ、この会は、民衆の主体性をきわめて低くしか評価しない傾きがあって、それは、文部科学省の教科書検定基準と一致している。ただ時の権力と一体になった民衆動向だけは高く評価する。そして、会のホームページには、現会長の藤岡信勝の「自国の軍隊を悪く言う国は滅びる」というわけのわからない叫びの文章が載せられている。彼は、国家=暴力装置=軍というレーニン主義的国家観だけは、日本共産党からしっかりと継承しているようだ。これは、金森国体論とはずいぶん違う国体観だが、そんなことはまったく気にならないらしい。「文化防衛論」の三島由紀夫ともまったく違うわけで、だから、藤岡たちは、三島のように、自衛隊に激を飛ばしたりせずにもっぱら過去認識の修正に励んでいるのだろう。そして、靖国信仰なしの靖国擁護や国体観念なしの日本軍論を平気で唱えることができるのだろう。天皇への信仰のない右翼というのは、日本の伝統から切れている。小林よしのりのように。

 会沢の国体論には、記紀祭祀こそ信仰の真の対象であって、それ以外の祭祀や宗教は、邪淫であり、淫教であるとの観念があった。小林は、無邪気に「攘夷」を叫ぶが、会沢的な国体イデオロギーはない。あるのは、近代賛美であり、「からごころ」である。彼らは、もし、日本が世界に先駆けて、欧米の後を追っけた近代化からの脱出を成し遂げられたら、時代をリードする存在になれるのだということには思いも至らないのである。

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