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今村氏『交易する人間』を読む

 故今村仁司氏は、『交易する人間ホモ・コムニセンス』(講談社メチエ178 贈与と交換の人間学)という本を書いている。

 その中で、氏は、人間のつきあい=相互行為=交易と述べている。

 まず、氏は、社会が利益を中心に組織された人間の集団と組織を意味するようになったものだという。それが、societyである。それとsocialを区別しなければならないという。

 フランス語のsocialは、狭い範囲での「つきあい」というほどの意味であり、対面的で、しかも重層的な感情的負荷をもつ「つあきい」であるという。

 socialは、「アソシアシオン」に近いという。

 「アソシアシオン」は内容から言えば「相互扶助」であり、他人を仲間として処遇し、とくに困った人々を援助することを意味する。そしてそうした行為をする制度的な「組織」をも意味するようになる」(21頁)。

 19世紀のアソシアシオン運動は、A相互扶助社会をめざす運動と思想、B制度としての組合の二つの意味があったという。

 「societyは《social》によってはじめて存在可能になる。それなしには社会が社会になりえない何か、それが《social》である。ここで言う「社会」とはいわゆる市民社会であり、実際には、経済、政治、法律、イデオロギーの複数の「自立的な領域」から成り立っている。そうした具体的な社会関係の領域が育ってくる土台または基礎を《social》という。《social》は、他のすべての社会関係が関係として可能になる社会形成力または「社会の絆」である」(24頁)。

 それはまた、潜在的な「敵」である異邦人を「友」に変換する機能であり、力であるという。ケルト人は、異邦人をも彼らの宴会者として招待し、食事が終わった後ではじめて、異邦人が誰であるか、何が欲しいかを質問したという。これはつまり、「異邦人を、異邦人のままで、身分や国籍あるいは民族的所属を超えた「人間として」歓待するということである。

 重要なのは、氏が、《social》を機能=力としていることである。それと、それに、想像的なものと感情を入れていることである。

 そして、氏は、「社会的存在としての人間は相互行為のアンサンブルであり、つまりは相互行為の相互行為である」(45頁)と述べる。

 「一つの事実(相互行為)は重層的に決定(規定)されていると呼ぶともできる」(45頁)として、アルチュセールの重層的決定論を肯定する。そして、ブローデルを引用する。

 「結局のところ、複数の社会が共存し、良くまたは悪しく互いに依存し合う。一つのシステムではなく、いくつものシステム、一つのヒエラルヒーではなく、いくつものヒエラルヒー、一つの秩序ではなく、いくつもの秩序、一つの生産様式ではなく、いくつもの生産様式、一つの文化ではなく、いくつもの文化、いくつもの問題意識、いくつもの言語、いくつもの生き方がある。すべてを複数形にしなければならない」(ブローデル『交換のはたらき』225頁)。

 ブローデルは、包括的社会を全体集合とする。さらに、上位集合による下位集合の包摂によって、ドミナント領域―階層制が生まれると言う。

 それにたいして、レヴィ・ストロースは、社会は交換の束に還元されると主張したと今村氏は言う。今村氏は、レヴィ・ストロースは、人間と人間の関係しか見ていないと批判する。

 「人間は記号とシンボルだけで生きるのではなくて、神々や自然との相互行為を想像的に生きて抜いてきたし、いまもなおそうしている」(54頁)。

 レヴィ・ストロースが、「交換」をもって社会の基本とするのに対して、今村氏は、「交易」を、社会の基本に据える。そして、交換を、市場経済・資本主義経済・近代社会の基本として、退けるのである。氏同様、アソシアシオンを強調している柄谷行人氏は、レヴィ・ストロースの「交換」を基礎タームとしている。今村氏は、柄谷氏が以前使っていた「交通」という概念も不適当だとしている。なお、氏は、レヴィ・ストロースが、男による女性の交換が家族制度を作っているという主張を否定している。このテーゼこそ一部のラディカル・フェミニストや上野千鶴子氏らのマルクス主義フェミニストに受け入れられて、人間はそもそも女性差別によって成り立っているという主張の根拠にされてきたものである。今村氏は、それは、女性の交換ではなく、贈与であると言う。

 もっとも、上野氏は、新しい本では、アイデンティを問い返して、その変化を強調している。彼女は、同性愛の問題に挑戦し、クィア理論をも取り入れている。差別解放運動にとって、アイデンティティの確立は、基本的なものであったが、逆にアイデンティティの強調が抑圧的になると主張するのである。そこには、アイデンティティは構築されるものだというラクラウ・ムフの考えも反映しているのかもしれない。

 「交易の「交」はまじわりであるから、関係的交通(交通的関係)を意味するし、「易」は人間・物体・事柄・観念(心性)などの空間的・時間的移動を意味する」(54頁)。

 氏の「交易」には、労働が含まれている。それによって、ほぼあらゆることが「交易」に含まれることになる。

 今村氏は、「交易」を駆動する力として、身体的生産と維持、集団とそれに属する個人の再生産、自然的動物的生命的な欲望を満足させることだと述べている。

 「身体的欲望は欠如からくる欲望である。欠如は空白であり、真空である。この真空状態を乗り越えようとする努力から外部(自分以外の人間の所有物、そして自然一般)に働きかける意思と意図が生まれる。この意思としての欲望は、略奪形式を別とすれば、労働である」(59頁)。

 労働は、氏によれば、自然との交易、素材と想像的観念の場所移動があるから、「交易」である。

 社会哲学の構築をめざす今村氏としては、存在論的に、根本的意思という次元で考えようというのはわかるのだが、このへんは、ニーチェ的に無理に自己保存の本能から権力への意思が生まれるというようなことを言わなくてもよかったろう。いつとは知れない遠い昔から、人間は、自然の人間化を進めてきたのであるから、身体的欲望もまた第二次自然化されているのである。

 両者の間に絶対的な断絶と飛躍を見るのは、西田幾多郎からきているかもしれないが、それが、氏の思想が、自然的存在としての人間を強調しながらも、人間中心主義的に見える原因ではないだろうか。無・空白・真空・欠如の強調は、ニーチェ的なニヒリズムというよりも、西田哲学からきているのかもしれない。近年のニーチェ研究では、妹たちによるニーチェ原稿の改竄が相当行われたことがあきらかになっているという。とくに、『権力の意思』として出版された原稿は、ひどいようで、妹がナチスの支持者だったために、こういう題名にしたのだろうというのである。この第二草稿の中には、労働者の待遇改善を支持するような文書があり、案外、ニーチェは労働者に同情的だったようである。ニーチェは意外に左翼的なことも書いているのである。

 今村氏は、コミュニケーションということも言っている。この言葉では、人間関係しか表せないということで、「交易」という言葉を選んだのだろう。

 このへんは、マルクスとニーチェとハイデッカーとデュルケムとジンメルとモースとが総合されて、凝縮されている感じである。

 後半は、アルカイックな共同体の話であり、贈与という「交易」の形を基本に論じたもので、それが、市場交換と資本主義近代を超えるという主張である。それについては、別の機会に見てみたい。

 

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