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今村氏『交易する人間』を読む2

 今村仁司氏の『交易する人間ホモ・コムニセンス』(講談社メチエ178 贈与と交換の人間学)についての前稿の続き。

 今村氏は、人間は人間になるのであって、それは、「人間が社会を形成し、社会に聖なるものと俗なるものの差異化を作りだし、「何のために」の記号的世界を形成することである」(96頁)と言う。

 そして、近代経済を批判する。

 「近代の経済的世界は、人間も事物も含む「価値形式」に転換させ、そうすることでいっさいの存在者のVersachlichung(すべてをWertaacheにすること、価値事象化)を成就し、それによって、出発した万物の「価値形式化」(たとえば、商品形式、貨幣形式、資本形式など)を通して、一切のものを物体的に計算可能にする「地平線」を作り上げた。そのときいっさいの存在者は文字通りにVerdinglichung(物体化)の運命のなかに巻き込まれる(VersachlichungとVerdinglichungとの概念的区別については、今村仁司『ベンヤミンの<問い>』[第四章]を参照)」(106頁)。

 「すべての存在者を、それらの総体としての「世界」を、あるいはけっして原則的には物体的処理を許さないものまで含めて、「事物化する」(価値事象化と物体化の二重性をもったそれ)ことを「信じて疑わない」という近代人のふるまいは、まさに民族学の研究対象になるべきであり、そうしたふるまいこそがまさに新たな呪術なのである」(106~7頁)。
 
 そして、モースの引用。
 
 「交換する生産者は、またもや―いつもそうであったが、今度は鋭い仕方で―こう感じている。すなわち、彼は生産物以上のものを、労働時間以上のものを交換しているのだ。彼は自己の何ものかを、自分の時間、自分の生命を贈与しているのだ」。
 
  これを今村氏は次のように説明する。
 
 「生産過程は法的地平の外部にある。労働者は、物を生産するためには、自分の人格的所有である身体とその「生きている労働」の一部を無償(返礼なしに)贈与するのである。当事者たちはそれを厳密には「認識」していないが、それを「感じて」いる。生きている労働は労働身体と一つであり、それは労働するものの生命である。それは人格的な所有(生きている身体、生きている身体活動)の贈与、つまりは自己自身の贈与である。この自己贈与は生産物と不可分であり、交換を通して一緒に移転していくだろうとモースは言っているのである」(118~9頁)。

 これは、一種の労働価値説と言えよう。

 モースの『贈与論』は、三つの義務の解明を課題にあげている。三つの義務とは、与える義務、返す義務、受け取る義務、である。しかし、これらの義務は、実は、与える義務に帰着する。それは、純粋贈与と呼ばれる。これは「言い表しえない」ものだという。それは、デリダが言うコーラと同じだというのである。
 
  「[プラトンの]コーラはエイドスの領域に属するのではなく、模造《ミメーシス》、エイドスのイマージュ・・・の領域に属するものでもない。[コーラは]ある《・・》[存在する]のではない《・・・・・》、それは既知の、あるいは認識された、二つの存在ジャンル[存在のジャンルとロゴスのジャンル]には属さない。コーラは存在するのではない。そしてこの、存在する=の=では=ない、はただ告知される(自分を告知する)ことができるのみである。すなわち、受け取るとか贈与するとかの擬人法的図式を通してとらえることも理解することもできない」(デリダ)。
 
  どことなく、仏教の空論問答を思わせる。存在しないが告知されるものとは何だろうか。それは、言葉以前の感情である負い目感情であると今村氏は言う。このへんは、「語りえないものについては沈黙するしかない」と言語の限界をもって世界の限界とした『論理哲学論考』段階のヴィトゲンシュタインから、後期ヴィトゲンシュタインへという問題意識があるようにも見えるし、意識は外部の反映であるという『唯物論と経験批判論』のレーニンの唯物論と近いようにも見える。レーニンによれば、人間の意識は、外部という最初は「何か」としか言いえないようなあるものから刺激を受け触発されることから形成されていく。今村氏は、レーニン同様、もっとも原初的な意識において、それが外部にあるということを認識し、感じ取るというようなことを述べている。それは「言い表しえない」ものであるにしても、「ある」。しかし、それは、存在には分類されないというのである。このあたりは、ハイデッカーの存在論批判か? それともその深化なのか?
 
  「負い目感情と純粋贈与の観念は、自己の存在を返すことを義務づける。そして自己の返しは、自己贈与であるから、人は言い表しえないものへの贈与を義務づけるられている(と感じる)。根源的に人間は何ものかへ贈与しなくてはならない(贈与する義務がある)。純粋贈与の力は人間の具体的な生活のなかに直接的には現われないが、社会のなかの相互行為をひそかにつらぬいている」(130~1頁)。

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