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映画『連赤』をめぐって

 『表現者』最新号に、映画『連合赤軍』についての西部邁・富岡幸一郎・笠井潔の座談会が載っていた。

 一言で言えば、ぬるいものだった。時代状況がすっかり変わってしまったことを感じさせるものだ。

 まず、映画を観た若者は、大昔の話を他人事として、単なる映画芸術として観ているはずだ。誰も自分ももしかしたら、あの場にいたかもしれないとは思わないだろう。

 西部もそうは思っていない。それでいながら、多くの者が貧困に苦しんでいるような状況なら、ブランキのように行動するなどと言ってのける。笠井は、大昔に書いた『テロルの現象学』の基本テーゼの観念の自己暴走論なるものを繰り返してみせる。富岡は、何もわからないので、適当なことを言っている。

 連赤については、永田洋子の『十六の墓標』という本に書かれていることが日共革命左派側の問題点を明らかにしているように思われる。ここに描かれているとおりだとすると革左という党は、スターリニスト党である。例えば、革左の婦人解放問題に対する態度で、彼女が批判しているものである。

 コミンテルンの6回大会頃の婦人解放に関するテーゼの類を読むと驚べきことに、婦人の組織化については具体的に書かれているもののその解放論については、同権とあるだけである。スターリニストの婦人への利用主義はあからさまである。かの本を読むと、革左も同じで、そのことに対する疑問が彼女の中に何度も浮かびつつも、それを党改革に結び付けられなかったことがわかる。なんと革左では、組織幹部による強制見合いや男女の共同生活の義務が定められていたという。70年代のウーマン・リブを経ている今日では信じられないようなことである。

 そして、最高指導者川島豪によるレイプの被害者となった永田は、それを公然と会議にかけようとするが、同志の坂口に止められる。なぜ、彼はそれを止めたのか? これは、革命的暴力ではなく、反動的暴力であり、反革命的暴力であるのに。かくして、この組織では、暴力の性格も基準も恣意的なものになっていったのである。それを示すべき幹部が率先してそうしたのである。それは、永田が暴露しているように、この組織の女性解放の内容・性格・基準も恣意的なものになっていたことは、明らかである。

 西部は、連合赤軍に女性が多かったことから、女性一般の性格を指摘しているが、それは女性が強く抑圧・差別されているからで、その解放を社会主義の実現に求めたのである。それに対して、革左がやったことは、反動以外のなにものでもない。彼女は、レーニンが自由恋愛はブルジョア的として否定的だったことを恋愛の否定と解釈したことを反省している。この意味は、ブルジョア的単婚制度は、階級利害による婚姻で、自由恋愛と称して、愛情のない結婚生活の退屈を浮気で紛らわせているという意味であろう。それはエンゲルスが述べたことだが。それに対して、愛情のみを絆とする男女関係は、財産をもたないプロレタリアートにしかないとエンゲルスは述べているのである。ただし、男による暴力を除いて。これが今、ドメスティック・バイオレンスとして問題になっているのだが。

 この問題は、70年代から80年代に大きな問題となっていった。今や左翼がこの問題になんの対策もとらないではやっていけないことは明らかである。

 笠井の観念の自己展開なる観念論は、こうした具体的な総括を無視して、自らが観念遊戯にふけって、問題をもてあそんだだけである。80年代には、それもインパクトがあったのだが、さすがに、20年もたつと、ぬるくしか感じられない。なにせ、特攻隊万歳という小林よしのりの漫画が若い世代に受ける時代である。この三人は、とうてい連赤を今語れるような者たちではない。

 別冊宝島の左翼特集で、荒岱介氏は、連赤事件には、山岳ベースでの同志殺害と「あさま山荘事件」の両方があると述べている。

 『十六の墓標』からは、革左が、連赤事件を引き起こす体質を持っていたことはうかがえる。だとしても、赤軍側がそれを止揚できなかったという問題がある。やはり、基本的に党の問題があったと思う。赤軍派の党観と実際はどうだったのか? 革左のそれらは? そして、党と女性解放、共産主義と女性解放の問題は?・・・

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