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今村氏『交易する」人間』を読む5

 今村氏は、つぎに、所有の問題に移る。氏は、マオリ人のハウの「物は元の所有者の元に返る」という考えに注目する。

 1、人間と物との所有関係。物は人間に帰属し、所有者(個人であれ集団であれ)の「人格」を内在させており、けっして分離できない。たとえそれが他者に移転しても、そのものはあくまで元の所有者に帰属している。受け取ったものは、それを一時的に使用してもいいが、けっして自分のために保持してはならない。

 2、人間と聖なるものとの所有関係。人間(集団と個人)はすべて聖なるものに帰属する(所有される)。神話的に言えば、集団の「起源」は神々や先祖の霊(すなわち聖なるもの)にあると表現される。だから人間の相互行為(贈与行為)の一つ一つに聖なるものとの関係が浸透しているし、それにみちびかれている。(171~2頁)

 この「人格的所有」論は、次のような、氏の存在論から来ている。

 「―人間は何か(聖なるもの)に所有されながら、何か(世界事物)を所有しつつ、現実存在する。有ることは有つことである。現実的に、具体的にこの世界のなかで存在することは、自己の身体の活動の結果(成果)をも所有しつつ存在することである。身体と自我が不可分であるように、それとまったく同じ程度において身体活動の結果と自我も不可分である。「この身体」、「この物」は「私の」ものであり、そしてそれらは「私である」」(172~3頁)。

 そして、氏は、近代社会においてはじめて、人格と物との完全な分離が生じたと言う。それは、私的所有制と権利である。しかし、「労働する主体の身体は、「他人の権能の下に」入っても、労働主体の身体であり続けるのであって、他人はその身体を一時的に使用し利用するにすぎない。この観点から見るかぎり、アルカイックな社会の「人格と所有の結合」、そして物が元の所有者に回帰するという思想は、それほど奇異なことではない。いまでも同じことを人は実行しているからである」(173~4頁)と氏は言う。

 近代経済は、人格と物との完全分離を目指した。それは、ポランニーが引用するベンサムの言葉に典型的に現われている。

 「農業の発展にとっての最適の条件とは、限嗣相続、譲渡不可能な財産、共同地、担保物件請け戻し権、そして十分の一税も存在しないことである(ポランニー『大転換』二四五~二四六ページ。強調は引用者)」(176頁)。

 しかし、「人格的所有としての物を他者に与えることは、その物に「内在する」私の人格または生命(存在自体)を他者に与えることを、定義によって意味するであろう。けっして譲りえないものを譲るという「不可能な」ことを贈与行為はしなくてはならない」。

 マナとは、それぞれの存在の呪術的な力を象徴するばかりでなく、権威オートリラ、豊かさリシエスを意味する。

 この豊かさは、「物の数量的な量であるよりも、自分の人格と一体となった譲渡不可能な所有物に対して他人が付着させる社会的価値なのである」(190頁)。

 「物をもつというただそれだけで、受け取る人(accipiens)を、提供者(tradens)に対して、準―有罪性(dimnatus,nyasobaeratus)、精神的劣位、道徳的不等性(magister,minister)といった不安定な状態に置く(Mauss,Sociolgie et Anthropologie,p.236)(214頁)。

 「物であれ人(女性)であれ、贈与されるものはそれが帰属する集団から分離できない。それらはたしかに他集団に移動するけれども、一時的使用が許されるだけであり、したがって原理上はいつでも元の所有集団に「取り戻される」可能性がある。返す義務とはこうした社会関係を組織化した表現である。すべては人格的所有の理念を生きることから出てくる。したがって、人格的所有の理念は倫理的理念(「義務」)であると同時に、法の理念(「責務」)でもある」(215頁)。

 さらに、「一時的占有の理念のなかには、贈与体制が私的所有を生まれさせない根拠が見出せる。人格的所有は贈与物となるときには、つねに停滞しないで円環的に運動していなくてはならない。つまり、「ギフトはつねに動いていなくてはならない」(Lowis Heydes,The Gift,p43.」」(215頁)。

 どうしてそうなるのか?

 「与えられたものが受け取り手において停滞し固定すると、ギフトはそこで「儲けをうむ」キャピタルに変質するとハイドは言う。他人から得られた贈り物を使用してなんらかの成果を得たとき、それを自分のものにすると一種の利潤が発生する。利潤的なものは受け取り手の私有財産になる。したがって人格的所有の一時的占有の理念、あるいは同じことだが元の所有者への取り戻しの理念は、こうした贈与の資本への転化を阻止する理念的(道徳規範的)装置であるとも言える」(215~6頁)。

 「これらの文明では、人は利害関心をもってはいるが、現代とはまったく違う仕方でそうする。人は富を獲得するが、それは蕩尽するためであり、《親切を施す》ためであり、《献身的な人々》をもつためである。他方で、人は交易するが、それはとくに贅沢品、衣類であり、あるいは直接に消費される事物とか宴会のごちそうである。人はおまけをつけて返すが、それは最初の贈与者または交換者をへこませるためであって、与える者が《消費を延期したこと》による損失を償うためだけのことではない。利害関心はあるが、それはわれわれのいう利害に類似するというにすぎない(Sociologie et Anthropologie,pp.270-271)」(218頁)。

このへんはおもしろい。「利害関心はあるが、それはわれわれのいう利害に類似するというにすぎない」とは、当たり前のことだがなかなか区別できないものである。

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