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連合赤軍問題によせて

  雑誌『情況』の「連合赤軍特集」を読んだ。

  さまざまな人がいろいろな角度からこの事件について語っている。この事件についての昔からの語り方の大きな特徴として、心理主義とも言うべきものがある。

  そのことを西部邁は対談の中で、小林秀雄の言う「自意識」の問題ということで指摘している。とはいえ、それも映画表現について言っているだけで、連赤事件そのもののことではない。西部の主張は、左翼主義=進歩主義という得意の図式を事件に絡めて宣伝するというだけのものである。西部は、連赤事件がユーモアを欠いたきまじめさによってもたらされたとでも言わんばかりである。そんなことをなんで連赤事件について言わねばならないのかまったくわからない。

  他の人々の文章や発言の多くは、やはり心理主義的なものが多い。後は、歴史の証言的なものが多い。しかし、全体的にはぼやっとしているという印象である。時間の経過ということもあろう。

  ここには出てこないのだが、日共革命左派に日共神奈川左派という日共所感派(徳田球一派)とブント系のML派が深くかかわっているということについてもっと注目すべきだろう。日共は、コミンフォルムの批判の受け入れか拒否かをめぐって所感派と国際派に分裂し、六全協で野合したのだが、60年代に到っても内部では、両派の勢力が残っていて、所感派の神奈川左派や日共山口県委員会の分裂ということが起きているのである。神奈川左派の人々は、革左派に資金提供していたという。ML派からは、革左や労働党などになる部分も生まれ、本体の方は、7・7華青闘告発を契機に解散する。

  連合赤軍自体については、規律や規範についての恣意的な扱いを見ると、坂口の坂東国夫宛手紙にあるように、森・永田の個人独裁的な組織になったのだろう。そういう組織を先に作っていたのは革左であり、最高指導者の川島であった。赤軍派の方は、それほどではなく、しかもほとんどの旧指導部は獄中にあって、森を実効的に指導できるものはいなかった。

  その森の遺書も載っている。正直言って、何を言っているのかよくわからない。それは、総括の基準があまりにも抽象的だからである。ずいぶん、『塩見論叢』の影響を受けているようだが、ことはそういう類の認識問題ではなく、党組織の実践的な基準の問題にある。一体何が、その基準であり、それをどう共有し、どう判断したかということだ。二派の間で短期の路線の一致が不可能とわかっている時に、路線論議がどれだけ、党組織の実践的基準を共通のものとして創出できるかどうかである。そこで形成できるのは、共同行動の基準であり、そのレベルでの信頼関係の構築である。つぎに、分派的な関係の構築である。そして、党的な同志的な信頼関係である。前のふたつのレベルでは、民主主義が必要である。

  塩見氏によれば、7・6明大事件後、自己批判し、赤軍派は分派という自己規定を行っただけだという。分派の段階では、民主主義を必要とする。つまり、少数分派は、議論の上で形成された党内多数派に従う必要がある。そして大会での多数派形成を目指すということになる。ロシアのボリシェビキの10回大会における分派禁止もレーニン存命中は発動されることはなかった。この規定も、中央委員会の3分の2以上の賛成によって成立するという民主主義的手続によるものであった。しかも党の分裂を危惧したレーニンは、中央委員の大幅増員を提案している。労働者反対派からも2名の中央委員を入れてもいる。かなりの念の入れようであり、配慮である。ここでは、レーニンは、民主主義へと一歩後退したのである。レーニンは、具体的情況に合わせて、前進も後退もするのである。

  このような具体的な関係のレベルの区別とそれに応じた組織のありようというものについて、森・永田ともども考えがなかった。その場その場の思いつきや恣意的な観念によって、組織を作ろうとしていたようにしか見えない。また、塩見氏の文章にもそれがない。塩見氏の『過渡期世界論の防衛のために』という文書は、問題を森・永田指導部対殺された12名のプロレタリア的分派という図式の元に、責任を森・永田に一方的に負わせるものであり、総括たりえていない。連合赤軍の女性差別については、男女問題は複雑で微妙な問題だとして、逃げている。

  西浦という人の文章には、連赤が掲げた中国共産党の「三大規律八項目注意」の全文が載せられている。これを口先だけではなく、本当に守っていれば、あんなことにはならなかったという。

  資本家たちとその味方たちが、武力を持って封建制を打倒し、その過程で敵ばかりではなく味方をも殺してきたし、植民地化や帝国主義戦争で何億もの人々を殺してきた事実を知っている。当時アメリカはベトナム戦争でベトナム人を殺しつづけており、そのために沖縄を最前線基地化していた。日本政府はアメリカを支持して、ベトナム人の大量殺人に加担していた。ベトナム戦争を止めること、アメリカと日本の敗北は、ベトナム人を解放することであり、かれらの命を救うことであった。そこには正義があった。闘いは正当であった。大衆の支持もあった。

  連赤の路線を殺された12名の遺志を引き継ぐというような精神主義的なやり方ではどうにもなろうはずもない。建党の失敗の教訓化抜きには、前進はありえない。

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