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上野千鶴子氏『ナショナリズムとジェンダー』によせて1

  上野千鶴子氏の『ナショナリズムとジェンダー』(青土社1998年)は、1990年代後期の、慰安婦問題や戦争責任問題やフェミニズムや歴史認識をめぐって、「新しい歴史教科書をつくる会」などの右派・保守派のバックラッシュが吹き出る中での議論をもとに、上野氏の見解を述べたものである。

  この中では、いろいろな論点が出されている。

  まず、戦争責任の問題がある。議論を巻き起こした加藤典洋氏の『敗戦後論』をめぐる問題、女性の国民化、女性の戦争責任、等々が論じられていく。

  はしょって言えば、加藤典洋氏は、日本では、戦後に保守勢力と革新勢力が分裂したために、戦争責任の主体であるべき日本国民が構築されておらず、それをするには、まずは、日本人戦死者の日本国民による弔いが必要だという。しかし、戦争責任の主体がどうして国民としての弔いを通じてしか構築できないのかはよくわからない。敵の死者を弔うとか、敵味方を問わず非業の死を遂げた者を弔うということは昔からやられてきていることである。問題になっているのは、近代国家の戦争責任の問題である。それについて、国民的合意を形成できなかったことを加藤氏は問題にしたのである。加藤氏は、それをするためには、まずは革新側が保守派に妥協して、アジアの2000万人の犠牲者の前に、日本人犠牲者300万人を弔うべきだと言うのである。しかし、過去の侵略戦争についての反省と謝罪は、日本の最高権力機関の国会決議と村山首相の談話で示された。それに猛反発したのが保守派であり、このままでは日本国が滅びるという妄想を掲げて、巻き戻しに出たのである。それに、これは、最近、自民党議員などから盛んに出ている国民的課題については、全政党の協力によって合意をつくるのが望ましいというのとたいして違わない。憲法問題もそういう課題だと言われていたが、安部政権が、それを破って、与党の数を頼りに単独で「国民投票法案」を強行採決したように、それは政治的駆け引きのレトリックにすぎない。

  上野氏は、高群逸枝・山川菊枝・市川房枝などの戦争協力問題を取り上げる。また、彼女らのような知識人ばかりではなく、一般の女性たちも、「主体」的に戦争協力していたことも明らかにする。被差別民の戦争協力問題については、いくつかの研究がある。

  上野氏は、基本的な問題として、歴史は、再審され、現在によって構成されるものだという構築主義を主張する。その上で、権力となった歴史言説の脱構築を主張する。

  これは、歴史修正主義の一部と部分的に共通する。例えば、日本の歴史修正主義者の一部は、勝者による言説支配を批判し、それこそが日本の左翼言説の基であると主張する。戦後民主主義の言説は、占領統治の権力によって押し付けられたものだと言うのである。いわば「虎の威を借りる狐」のように、戦後左翼言説が支配してきたということである。それをかれらは、今日まで続く占領支配体制として批判するのである。ただし、小林よしのりは、左翼言説を全体主義とするドグマが支配していて、だからこそ、逆の方向(右)へ行っている向きがある。左の全体主義に右の全体主義を対置するというような。しかし、それは、彼の場合、全体主義概念の濫用にすぎない。

  上野氏は、構築主義的でありつつ、脱構築主義的という複数主義的立場を標榜する。事実と現実を区別し、立場によって異なる現実があると彼女は言う。彼女は、それによって、歴史修正主義の中の歴史実証主義を脱構築できると考えているようだ。そして、慰安婦問題などで、歴史修正主義に対して、「歴史の真実を」などと事実を争うやり方はだめだというような言い方をしている。

  しかし、例えば、「新しい歴史教科書をつくる会」は、歴史は物語であると露骨に歴史のイデオロギー化を主張している。かれらの歴史実証主義は、自虐史観イデオロギーに対抗し、攻撃するための手段である。複数の現実を認めるのはよいとしても、歴史事実についての認識を土台にしなければ、歴史実証主義イデオロギーを有効に暴露できないだろう。慰安婦の証言の中には、慰安婦問題の事実があるということから、問題が始まったのである。それは、秦邦彦が、吉田証言を「実証的」に崩したとしても、変わりはない。結局彼らは、沖縄の軍による集団自決強制問題で、あやしげな証言者を引っ張り出して、自滅した。これまでの沖縄の人々の多くの人々の証言の蓄積によって、細部の違いを超えた事実の確定ができる。慰安婦問題では、元軍人らが慰安婦体験を語っていたということを上野氏は指摘している。そこには、慰安婦の存在は事実として示されている。それの意味付けにおいては、さまざまだというに過ぎない。むしろ、それを問題化してこなかった日本の「主体」の方に問題がある。

  そもそも、軍隊慰安婦の存在は、昔から知られていたのに、それが大きく取り上げられるようになったのは、韓国において、フェミニズムが広まる中で、女性に貞操の価値を押し付けてきた家父長制批判がある程度浸透してきたからだという。それによって、金学順さんをはじめとする元慰安婦が自らの体験を語るようになったというのである。それは、上野氏は、自ら語ることによって自らを主体として構築する過程であるという。

  それはどんな「主体」なのだろうか?

  「もはや「シスターフッド・イズ・グローバル Sisterhood is global」[Morgan 1984]という楽天的な普遍主義に立つことは誰にも不可能だが、ジェンダーという変数を歴史に持ち込んだのは、そのもとで階級、人種、民族、国籍の差異を隠蔽するためではなく、さらなる差異―しかもあまりに自然化されていたために差異としてさえ認識されていなかった差異、いわば、最終的かつ決定的な差異―をつけ加えるためではなかったか? ポストモダンのフェミニズムのもとでは、ジェンダーのほかに人種や階級という変数が加わった、と言われるが、むしろ人種や階級という変数がジェンダーという変数を隠蔽してきたことを、フェミニズムは告発したはずだった。人種や階級という変数は、新たに発見されたのではなく、ジェンダー変数を契機として、より複合的なカテゴリーとして「再発見」されたのである」(196~7頁)。

  要するに、ジェンダーは、アルチュセールの重層的決定の最終審のレベルに位置するものとされているわけだ。あるいは、ジェンダーは、差異の差異であるというわけである。したがって、彼女は、被抑圧民族の運動にも批判の目を向ける。ガンジーの非暴力独立運動も家父長制的なものを持っていたというのである。かくして、彼女は、今日のフェミニズムの立場から、過去の歴史を再審するのは当然とする。だとすれば、大チベット構想を持って、亡命政府を代表している家父長的なダライ・ラマ14世のチベット解放運動にも批判的ということになろう。男子のみが代々継承してきたダライ・ラマをはじめとする男の僧侶ばかりのチベット仏教のあり方を、彼女は批判的に見ているのだろう。

  それから、彼女は、フェミニズムの目的について述べている。

  「フェミニズムの目的はある排他的なカテゴリーをべつの排他的なカテゴリーに置き換えることではない。「女性」という本質主義的な共同性をうちたてることでもない。「わたし」が「女性」に還元されないように、「わたし」は「国民」に還元されない。そのカテゴリーの相対化をこそ意図している。
  国家という集団的アイデンティティの排他性を超えるために呼び出されるのが、他方で「世界市民」や「個人」あるいは「人間」として、という抽象的・普遍的な原理である。あらゆる国境を超えたコスモポリタン、普遍的な世界市民という概念もまた、危険な誘惑に満ちている。それはあらゆる帰属から自由な「個人」の幻想を抱かせ、あたかも歴史の負荷が存在しないかのように人をふるまわせる。「国民」でもなく、あるいは「個人」でもなく。「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、人種、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特殊化や本質化である。そうした「固有のわたし」―決して普遍性に還元された「個人」ではない―にとって、どうしても受け入れることのできないのは「代表=代弁」の論理である」(197~8頁)。

  ここで、上野氏に抜け落ちているのは、「他者」である。「わたし」と「あなた」はあるが、「彼(たち)・彼女(たち)」 「わたしたち」「あなたたち」などがない。ここで、固有名としての名前の「わたし」ではないというのが一つのポイントである。この「わたし」は上野千鶴子氏ではない。もしそうなら、姓において、家父長制を示し、名前で、「女」というカテゴリーへの帰属を示してしまうので、彼女の語りの位置が、それらに影響される。そこで、「わたし」という位置を占める必要があるわけだ。それで、慰安婦問題は、「わたし」という位置から語られる必要があることになるのだが、しかし、元慰安婦の女性たちは、氏と「女」のカテゴリーを示す本名を名乗って、証言・告発を行ったのである。もちろん、「わたし」というのは、英語なら、性別に関係のない一人称単数の代名詞であるが、日本の日常の使われ方では、主に女性が使うものになっている。つまり、ジェンダー化されている。

  上野氏は、相対と絶対を単純に対立させている。弁証法は、これらの相互関係を明らかにする。例えば、ソシュールの相対的言語観「言語には差異しかない」は絶対的であるというように。一般的な規定としては、こうなる。また、「代表=代弁」は、言語が他者の言語でしかありえない以上、その外に立つことはできないのである。

  上野氏は、慰安婦訴訟のなかの個人補償の論理を高く評価する。

  「「慰安婦」訴訟のなかの個人補償の論理―「戦後補償は二国間条約で賠償ずみ」という日本政府の言い分に抗して、個人が国家を相手どってその責任を問うということは、「わたし」の利害が国家によって代弁されない、「わたし」の身体や権利が国家に属さない、ということを意味している。元「慰安婦」の闘い―「わたし」の尊厳を回復したい―という思いは、日本という国家に対峙するだけでなく、韓国という国家に対しても権利の「代表=代弁」を拒否する性格をもっている」(198頁)。

  戦後補償の問題は、アメリカの対日・対韓政策によって日韓条約締結が急かされたことによることも大きい。冷戦のために、韓国の反共政権をてこ入れするために、日本からの経済支援を必要と考えたのである。サンフランシスコ条約の際も、日本を東アジアにおける反共国家化にするために、戦争責任を強く問わない態度を取ったのである。そのおかげで、日本は、戦争責任問題をスルーして、経済大国への道をひた走ることができたのである。そういうアメリカに寄りかかってきたのが、日本の保守派や右派のほとんどなのである。今でも、本物の反米右派・保守派など極少数派である。たいていは、口先だけの反米である。もちろん、小林よしのりもである。

  上野氏は、最後に、氏の政治的立場を明らかにしている。

「もし、国家が「わたし」を冒そうとしたら? 「わたし」はそれを拒否する権利も資格も持っている。もし、国家が「あなた」を冒そうとしたら? 「わたし」はそれを拒否する権利も持っている。「わたし」の責任とはそのような国家に対する対峙と相対化のなかから生まれる。それは「国民として」責任をとることとは別なことである。
「わたし」の身体と権利は国家に属さない。そう女は―そして男も―言うことができる。「慰安婦」問題が女性の「人権侵害」として言説構成されるのならば、「兵士」として国家のために殺人者となることもまた男性にとって「人権侵害」であると、立論することが可能だ。人権論はそこまでの射程を持つだろうか。「慰安婦」問題が突きつける問いは、たんに戦争犯罪ではない。戦争が犯罪なのだ。
  国民国家を超える思想は論理必然的にこの結論へとわたしたちを導く。「女」という位置は、「女性国民」という背理を示すことで国民国家の亀裂をあらわにするが、そのためには「女=平和主義者」という本質主義的な前提を受け容れる必要はない。「国民国家」も「女」もともに脱自然化・脱本質化すること―それが、国民国家をジェンダー化した上で、それを脱構築するジェンダー史の改造点なのである」(198~9頁)。

  上野氏は、こうして、言説決定論、あるいはカテゴリー決定論とも言うべきものに陥っている。これは、前に指摘したように、ヘーゲル左派と共通する。そして、言説の権力を、言語ゲーム的な相対化の闘争によって脱構築するというのである。「女」カテゴリーも権力的になれば、脱構築するというのである。こうして、脱構築は無限に続く、というわけだ。これは、ポストモダニズムが陥った隘路を端的に示すものである。

  国民国家は、「女」という位置ばかりではなく、「階級」という位置、「少数民族」という位置、などからも亀裂をあらわにすることは明らかである。「女」という位置だけを特権化しないというならよいが、そうではなく、氏は、ジェンダーを「最終的かつ決定的な差異」として、「特権化」する。

  そして、「わたし」。この一人称単数の代名詞は、「「国民」でもなく、あるいは「個人」でもなく。「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、人種、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特殊化や本質化である。そうした「固有のわたし」―決して普遍性に還元された「個人」ではない―」とされる。これは、フッサールの超越論的主観の問題を彼女がまったく無視しているか、そもそも知らないことを示している。「わたし」は機能であるということをフッサールは、述べた。「わたし」は、さまざまな関係によって規定されているだけではなく、それらを客観化してその対極として、主観化することによって主観となるのであって、受動的なものではない。つまり、能作である。「わたし」の機能によって、「わたし」の世界が形成されるのである。しかし、それは超歴史的なものではないというのが、フーコーやその影響を受けている構築主義の立場である。ニーチェによれば、われ思う。ゆえにわれあり。というデカルトのコギトは、文法によって、考えるの主体を「われ」として生み出し、原因と結果を転倒させたものである。考えるが先でわれの原因なのに、文法は、われが思うを生み出したように、つまりは、われを「主体」化するのである(『善悪の彼岸』参照)。

  また、この一人称単数代名詞の「わたし」の複数化は、これに「固有の」という性格を付加することではないだろう。それなら、「固有のわたしたち」という複数化も可能である。いくつもの「わたしたち」がありうるし、ある。上野氏は、「公」と「私」の対立というリベラリズムの古くからの二項対立を言い換えただけである。

  「「わたし」の身体と権利は国家に属さない。そう女は―そして男も―言うことができる。「慰安婦」問題が女性の「人権侵害」として言説構成されるのならば、「兵士」として国家のために殺人者となることもまた男性にとって「人権侵害」であると、立論することが可能だ。人権論はそこまでの射程を持つだろうか。「慰安婦」問題が突きつける問いは、たんに戦争犯罪ではない。戦争が犯罪なのだ」という言い方と論理を見ると、上野氏は傲慢だという印象をもつ。「「慰安婦」問題が女性の「人権侵害」として言説構成されるのならば」という仮定法による語りは、「人権論はそこまでの射程を持つだろうか」という人権論批判的な疑問形をへて、「慰安婦」問題は、戦争が犯罪であることを示しているという断定に帰着する。

  国連憲章は、国連加盟国に、侵略戦争を禁止しているが、国連軍が侵略者を排除するまでの間の自衛戦争を認めている。NATOは、旧ユーゴスラビアに対する人道のための戦争を行った。これらの戦争も犯罪だというなら、上野氏は、これらの戦争を犯罪として裁くことを要求したのか?  人権のための戦争に対して、ポストモダニストの多くが反対しなかったことは、上野氏の思想の正当性の方をこそ、疑問にさらすものだ。もちろん、今の人権論に問題がないというわけではない。理想を語ることに問題があるわけではない。

  自らの高邁な理想という高みに立って、「慰安婦」問題をそれを語るためのダシのように利用しているように見えるから、傲慢という印象を受けるのである。「代弁=代表」を否定しながら、結局は、「他者」の語りに寄生して、それを上野氏という「わたし」が「代弁=代表」しているように見えるのである。言葉に表しにくい感情を元慰安婦は、矛盾し、曖昧で、混乱した記憶の中から、なんとかして、懸命に言葉にし、表現しようとしているように見える。それを、論理的ではないとかいう「実証的」基準で切り捨てる「実証主義イデオロギー」は批判されるべきである。それは、上野氏の「国民国家を超える思想は論理必然的にこの結論へとわたしたちを導く」とする論理主義にも言えるのではないだろうか。

  もちろん、理想は必要だし、それを語ることも問題ではない。むしろ、今は、そういうことが少なすぎるように思われるぐらいである。上野氏は、論理化以前のものにもっとこだわってもいいし、もっと深く長く付き合うべきだろう。それに、学ぶことが必要であると思われる。その点では、福祉労働・ケア労働についての『at』という雑誌における最近の連載は、取り組んでいる領域としては、そういうことを学ぶのに適した領域である。そこで、感情労働ということを書いているのだが。

  上野氏の論理主義は、歴史実証主義を批判しつつ、それに押し込まれ、吉見氏の慰安婦問題研究を歴史実証主義に含めるという誤りを犯し、事実はないが、主観的な「現実」のみがあるという主観主義を対置する。まるで言葉化されない「現実」は存在しないとでもいうように。吉見氏の批判は、1998年のシンポジウムの記録集『シンポジウム ナショナリズムと「慰安婦」問題 日本の戦争責任資料センター編』(青木書店1998・9)に載っている。吉見氏は、「「従軍慰安婦」と歴史像」という文章で、上野氏の「歴史に『事実 f
act』も『真実 truth』もない。ただ特定の視角からの問題化に再構成された『現実 reality』だけがあるという見方は、社会科学にとってはもはや『共有の知』とされてきた。社会科学にとってはもはや『常識』となっている社会構築主義(構成主義)social constractionism とも呼ばれるこの見方は歴史学にもあてはまる」(131頁)との主張を、それは、不可知論、信仰・嗜好になると批判する。そのとおり! 上野氏は不可知論に迷い込んでいるのである。そして、新カント主義者と同じく、小文字の「わたし」に度はずれた意味付与をするのである。そして、社会構築主義は常識=普遍という普遍主義という位置からの傲慢な物言い。そこからする歴史学の裁断。正直言ってうんざりする。

  上野氏は、「国民国家を超える思想は論理必然的にこの結論へとわたしたちを導く。「女」という位置は、「女性国民」という背理を示すことで国民国家の亀裂をあらわにするが、そのためには「女=平和主義者」という本質主義的な前提を受け容れる必要はない。「国民国家」も「女」もともに脱自然化・脱本質化すること―それが、国民国家をジェンダー化した上で、それを脱構築するジェンダー史の改造点なのである」と言うのだが、それに対しては、弁証法論理学の「抽象的真理はない。真理はつねに具体的である」と言いたい。真理は、元慰安婦の方にあるのか? それとも、歴史修正主義者の方にあるのか? 藤岡信勝こそ、歴史構築主義者であり、歴史は物語りであり、国民のプライド(尊厳)を高めるためにあると公言している。上野氏の歴史構築主義とどこが違うというのか? それに対して、「わたし」の権利と尊厳を対置することで、藤岡らのバックラッシュを根本から打ち破れるのだろうか? 構築したものは脱構築すればよいと上野氏は言うかもしれない。

  しかし、歴史修正主義の自滅が進んでいるが、それを促したのは、事実の重みによるものである。例えば、上野氏が同書で指摘しているように、歴史修正主義者は、南京での日本軍による市民虐殺自体は認めている。ただ、その数は誇張されているというのである。事件を針小棒大にしたのは、中国やアメリカやそれと手を組んでいる自虐史観派の左翼だというのである。しかし、ここでも、事実の重みは、歴史修正主義者といえども、覆せないものであることがわかる。それに対して、構築主義者は、あっさりと、歴史は、構成するものだと言う。上野氏は、論理的結論を持ってきて、簡単に、国家を超えたつもりになる。現実を現実に変えるのではなく、頭の中で乗り越えたつもりになるのである。

  上野氏の基本的な問題は、民族や階級や「女」などのカテゴリーを脱構築すれば、それらが抑圧的ではなくなるように考えていることである。それによって、民族間の支配従属関係や階級支配の事実から逃れようとしているということである。旧慰安婦は、日帝の植民地統治の生み出した被害者である。それに女性差別が加わった二重の差別を受けたのである。だから、当然、民族間関係として加害―被害の関係がある。それに対して、彼女たちは被害者ではなく、「生き延びた者」と上野氏が規定したが、それは、帝国主義的フェミニズムと言われても仕方がない。これは、ハンナ・アーレントあたりからきているのかもしれないが、イスラエル建国後の彼女の言説の政治的位置は、微妙である。これは、『収容所群島』の際のナロードニキ主義とソ連邦崩壊後のソルジェニーツィンの大ロシア民族主義の政治的位置の変化と似ているといえるかもしれない。彼が、今や、プーチンをロシア皇帝ツァーリの復活のごとく称え、ロシア人には皇帝が必要だなどと発言するのを聞くと、彼を救ったのは、一人の反動、チェチェン人の敵を作っただけではないかとつい思ってしまう。つまり、今やソルジェニーツィンは、帝国主義ロシアの支配民族のイデオローグであり、抑圧民族の立場に立っているのである。

  いずれにしても、上野氏は、事実に立脚することを否定したことによって、問題の解決の「主体」を降りてしまったと思う。しかし、問題は、決着していない。それなのに、日本も韓国も国家であることに変わりはないという超一般論から、反国家の「主体」としての国際的な「わたし」の政治的構築を旧慰安婦に見出しているのは、利用主義というものではないだろうか。上野氏は、日本のフェミニズムが国境を越えたことがないことを問題にし、課題としているようだが、それには、国家一般を問題にするのではなく、具体的に国家や国家間関係を事実によって解明した上でないとそれを具体的に構築することはできないだろう。

  上野氏は、ジュディス・バトラーの構築主義に影響されている。しかし、その理解はどこまでなのかと首を傾げたくなる。例えば、バトラーの『ジェンダー・トラブル』と上野氏の思想の違いである。『シンポジウム ナショナリズムと「慰安婦」問題 日本の戦争責任資料センター編』にある上野氏の「ジェンダーと歴史学の方法」で氏は「「女」というカテゴリーは、国民主権を、国民的権利・義務の内実を、市民権の根拠を、解体する理論的根拠となる。なぜなら「女」は国民共同体という男たちの連帯 fraterity のノイズだからだ。・・・「慰安婦」から「脱走兵」まで、国家による強制に抵抗する人々の「主権の回復」こそがわたしたちに課せられた課題であろう。そしてフェミニズムは確実にその根拠になりうる」(122頁)と述べているが、バトラーは、むしろ、「女」カテゴリーは、「国民」=「男」に対して、そうではないものという形で、「男」の否定として消極的に規定されていることを問題にしており、それは普遍性=家父長制に対して、周縁化することで家父長制を支えているというようなことを述べているように思う。だから、国民主権という家父長制に対して、周縁にもう一つの主権を打ち立てることは、この構造を強化することになるだけだというのがバトラーの主張だろうと思う。バトラーは、むしろ、これらのカテゴリーの中心に取り付いて、撹乱し、ずらして、その無根拠性を暴露していくという戦略を提起しているように思われる。それが、存在論を「行為者エージェンシー」のパフォーマンスの結果として「主体」が書き込まれるテキストとして把握するというバトラーの主張から導き出されることでないか。「はじめに行為ありき」(マルクス)ということだ。しかる後に、「主体」が作り出される。それから、「主体」が表象され、そして「主体」が法を必要としたと原因と結果が転倒される。過程は消される。法は、産出権力でもあるとバトラーは言う。そして、家父長制は普遍的ではないとも言う。また、彼女は、問題の取り扱い方では、エンゲルスを評価している。

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