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三度『バックラッシュ』によせて

  しつこいようだが、深田和子という心理学者の、「本書が若い人びとのなかにもある「ジェンダー・バイアス」におだやかに接近し、その漸進的な改善をはかろうとするねらいにある<中略>とくに日本のように、合理性より情緒的思考を得意とする文化の中では、十分慎重な構えで望むことが、その運動を広く人々に受けいれられるものとするのではないだろうか」という思想にひっかかりを感じるので、ちょっといくつかの点について検討してみたい。

  深田氏は、「ジェンダー・バイアス」をなくすためには、「おだやかに接近し、その漸進的な改善をはかる」必要があるというのだが、その理由を、「合理性より情緒的思考を得意とする文化の中では、十分慎重な構えで望むことが、その運動を広く人々に受けいれられるものとする」からだと述べている。日本文化論が理由に挙げられているのである。彼女は日本文化を「合理性よりも情緒的思考を得意とする文化」と判断しているわけだが、思考に合理的と情緒的という二種類あるとはどういうことだろう。この部分は、「おだやかに接近し、その漸進的な改善をはかる」がまずありきで、それをもっともらしく理由づけしたのが、後の部分だろう。

  なんの説明もないままこういうので、さっぱりわからないのだが、合理性を得意とする文化なら、「ジェンダー・バイアス」をなくすために、急速に接近し、その急進的な改善をはかることができるというということだろうか。深田氏は、「合理性を得意とする文化」を具体的にはどこと考えているのか? おそらくは、欧米諸国のことだろうとは思うが。そしてフェミニズムの運動経験のない心理学者である深田氏は、なぜ男女共同参画を進める東京都女性財団で重要な役割を占めえたのか? しかも、なぜ制度よりも意識や心の教育を重視する心理学者を「ジェンダー・フリー」教育の基本をつくらせたのか? 

  そもそも「ジェンダー・フリー」は、アメリカでは、ジェンダーがないというような意味にとられるのが普通だと山口智美氏は言う。勝手な推測だが、深田氏は、フェミニズムについてはよくわからず、フリーという言葉の「自由」という意味合いを取り入れようと考えたのではないだろうか。合理性や情緒的思考というような言葉の使い方から、どうも、言葉のイメージを重要視しているように思えるのである。

  これはどうやら心理学からきているようである。情緒=情動は、『スーパー大辞林』によると、心理学では、急速に引き起こされる一時的で急激な感情である怒り・恐れ・喜び・悲しみといった意識状態と同時に顔色が変わる、呼吸や脈博が変化する、などの生理的な変化が伴うものを意味する。これらは感情であり、それと結びついた身体の運動である。そういう形容を持った思考ということは、激しやすい思考を得意とする文化だということだろうか? これだけではなんともわからないのだけれども、とにかく、ゆっくり、おだやかに「ジェンダー・バイアス」をなくしていこうという漸進的改良を主張していることはわかる。その点が、行政に評価されたのだろう。行政としては、国際的にも女性差別撤廃が求められているし、リベラルな村山連立政権になっているし、政府も男女共同参画政策を決定しているし、東京都としても、この政策を進めざるを得ないので、おだやかでゆるやかな意識の改善という行政的な形の施策として推進せざるを得なかったわけだ。

  しかし、この程度の漸進主義的な意識改善策でさえ、バックラッシュ派は、このままでは国が滅びるだの、共産主義が浸透するだの、日本の伝統文化や家族が崩壊するだの、男女の違いがなくなるだのと大騒ぎをして、そのあげくに内紛を起こして自滅していった。教育の基礎部分はさすがに堅固だったが、とくに右派石原都政下では突出したバックラッシュ攻勢によって、教職員に対する行政的統制は強められ、卒入学式における君が代斉唱拒否や不起立の教職員に対する解雇等の処罰の強化などが行われている。これは、「ジェンダー・フリー」を象徴的にターゲットとしつつ、教育の国家統制の強化、現場からの日教組の締め出し、行政による現場支配を狙ったものである。

  しかし、それも石原都政が3期目に入って、民主党が野党化するなど、政権基盤が弱体化しつつある中で、力を失っていくことだろう。問題は、山口智美さんの言うとおり、「今は、女性運動は何を達成目標として運動をしていくべきなのか。そういった、根源的な問い」に答えることである。個別的には、住友電工昇進差別事件での女性社員側の勝訴や民法の女性の再婚禁止期間の多少の短縮などの前進はあるものの、「意識のみならず、個人、社会全体の根本からの変革を目的としてきたのがリブのはずなのだが、ここでは意識偏重の評価がなされている。そして、日本のリブ運動はあまり受け入れられずに終わってしまったとし、唯一あげられている成果が、大学に女性学の講座が置かれるようになったことなのである」『バックラッシュ』(双風社247頁)という彼女の行政・学者が権威をもつ官製の「上からの」フェミニズムを乗り越えられる女性運動の構築という課題の達成は容易ではないことはこの間の事態で明らかになった。

  上野千鶴子氏には、「意識のみならず、個人、社会全体の根本からの変革を目的としてしてきたリブ」と共通するものはあるし、それは評価するのだが、山口氏も批判するように、新しい流行のものに安易に飛びついて、態度がぐらついているように見えることがあり、それはマイナスだと思うのである。上野氏は、マルクス主義は、女性解放を階級の解放に従属させてきたというのだが、エンゲルスは、女の男の支配との闘いは、階級闘争だと述べていて、それを例えば、スターリニストなどが、後にすっかりお題目化するか都合よく解釈して放棄してしまったのである。

  「合理性よりも情緒的思考を得意とする文化」を深谷氏は否定的に述べているように思われるが、日本文化が本当にこうだったら、日本人は、ずいぶん唯物論的な文化を持っていることになる。

  「それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔Leiden〕を感受する存在であるであるから、一つの情熱的〔Leidenschhaftlich〕な存在なのである。情熱、激情は、自分の対象に向かってエネルギッシュに努力をかたむける人間の本質力である」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫208頁)。

  「フォイエルバッハは、抽象的な思考には満足せず、直感を欲する。しかしかれは感性を実践的な人間的・感性的な活動としてはとらえない」(『フォイエルバッハ・テーゼ』(5) 『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫236頁)

  もちろん、心理学者の深谷氏は、こんなことを言っているわけではない。おそらくは、若者は激しやすいから、反発されないように慎重に意識・心の改造を進めなければならないということを言いたいのだろう。ほとんど洗脳に近いことを述べているわけだ。そうして生み出される「主体」は、「ジェンダー・フリー」なジェンダーのない抽象的な無としての人間一般ということになる。ロックの心理学の言う「白紙状態」(タブラ・ラサ)ということだろうか? ちょっと極端だけれども、恐ろしいことだ。

  「意識のみならず、個人、社会全体の根本からの変革」を目指すリブの目的のためには、学の変革も必要であることは言うまでもない。「教育者が教育されねばならない」(フォイエルバッハ・テーゼ)のである。それも含めて、あらゆる領域での変革の実践が必要である。とりわけ、労働の変革は基本的なものである。第二波フェミニズムが、家事を経済・労働としてとらえ直したのは大きな成果であった。それに育児・介護を経済・労働としてとらえなおす試みが進められているのも前進である。等々。

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