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坂本氏への「反論」

  坂本さん。当ブログをご覧いただいて、ありがとうございます。

 さっそく「反論」を試みましょう。

> まず、アフリカの原住民の共同体と日本人の共同体を安易に
> 同列に論じるのは、風土、個々の民族的特長及び人種による
> 価値観の形成過程などを考慮しますと問題があるのではないでしょうか。
>
> 小林の言う共同体は近代日本に於ける家父長制度の根幹でしょう。
> 国家共同体のミクロ単位が家族であり、家族愛が基調になるのは
> 至極当然で、そうでない家族はまともに機能しないのではないでしょうか?

 まず、アフリカではなく、熱帯アメリカです。

 貴方のように、国家共同体の単位として、家族制度が作られたものだということを小林もはっきり言えばいいのだが、彼はそうは言わないで、家族愛があれば集団自決命令など絶対に拒否したはずだと言います。「国家共同体のミクロ単位が家族」というイデオロギーが強まったのは、戦時体制が作られていく過程でのことで、超歴史的なものではありません。家族はもともと生産単位であり、したがって、日本の律令制の古代家族には、奴婢などの非血縁者を含んでいました。

 小林の共同体論は、貴方の指摘では、近代日本の家父長制家族共同体のことであり、家族愛というのはそういう家族内の愛情関係ということになります。それは、国家共同体のミクロ単位で、その一部であるから、それに対して自立して、それに逆らうことはもともとできなかったということになります。家父長の家父長たる国家共同体の父=天皇の子供たちは、父の命を懸けて戦えという命令に逆らえませんでした。これは、子供たちの家族愛でしょうか?

  愛の本当の実現には、家父長制や家産の重みなどは阻害物なのです。家族愛が家族制度を機能させるというのは、愛情を利用して家族制度を守るという逆転した発想です。一般的に見ても、男女の愛情は長く続かないことが多く、子供のためとか責任感とか義務感や経済的理由などから離婚しない夫婦がけっこういます。国家共同体が、ミクロ単位として家族制度・家族共同体を必要としているのは、国家秩序の末端単位にしようとしているからにほかなりません。愛情が失せても、なお、家族制度を維持しようとするなら、無理が生じます。愛情という情は、制度や共同体の恒常的な固い絆にはふさわしくありません。親の子供への愛情は、自分の未来を育てるという意味もあって、それは長続きしやすいものでしょう。個的感情を制度を機能させるために利用する考えには賛成できません。

> さて、沖縄の自決問題と言う個別具体に踏み込んでおられますが、
> 鉄の暴風と呼ばれた過酷な空爆を体験した後、沖縄県民がどのような
> 覚悟と決意をした(させられた)かを考慮しなければ片手落ちになるでしょう。
> 日本政府及び日本軍のみが沖縄県民を追い込んだと言う仮定は過ちであり、
> 「空気」の醸成犯は誰かと言うと勿論アメリカも入らなければおかしいのです。

 原因はいくつもあげられるでしょうし、できるだけそうすべきでしょうが、貴方の言い方だと、アメリカの空爆も仮定の一つということになりますね? あるいは、「空気」の方は、仮定ではないということですか? それに、この記事では「沖縄の自決問題と言う個別具体に踏み込んで」はいないのですが。他の記事では触れていますが。当時の皇国教育・軍民共生共死思想の流布等々から、軍とともに死すべしという玉砕思想を持っていたのは当然と思います。特攻隊の梅沢隊は、座間味島に何をしにきたのでしょう? 生きては戻れぬ特攻に来たのではないでしょうか? それが戦後60年以上を生き抜いて、最後の最後に、自分たちができなかった自決を成し遂げた島民をうそつき呼ばわりする裁判を起こすというのは、そんなにわが身がかわいいのなら、そりゃ特攻も玉砕戦もできないのも当然でしょう。ずいぶん美談化されているけれども硫黄島の戦いや当ブログからリンクをはっているいわゆる「蟻の兵隊」と呼ばれた戦後まで中国で戦いつづけながら日本政府に見捨てられていた日本軍部隊などとのギャップを感じてしまいます。梅沢元守備隊長の行為は、山崎氏同様私の倫理観に反するのです。

 この「空気」というなんとも曖昧なもののせいにするのは、山本七平ですが、そんなものでなにが具体的にわかるというのでしょうか? 山本七平の他の本などをのぞいてみると、ありふれた近代化論者の1人にすぎないけれども、それなりにわかることを書いていますが、この「空気」論はあまりにも曖昧模糊としています。定義をしっかりしないなら、使ってもあまり意味がないと思います。空気論にはくみしません。

> 戦前の軍国主義の中から軍令を拒否できたか?についてはブログ主さんも
> 認めている事のようですから、小林を戦後民主主義者などと批判するのは
> ナンセンスではないでしょう。

 それなら小林は、沖縄の人々の家族愛は健全であって、自決の軍命を拒否できたはずだなどというありえない仮定をすべきではないし、できないはずです。彼は、国家共同体に対して家族が自立して、それに歯向かえるはずだと言い、それをできなくしたのは、マスコミなどが作り出した「空気」だといいます。治安維持法と特高警察という思想取締り警察機関があった戦前に、非合法の抵抗以外に国家に逆らうことなどほぼ不可能だったことは明らかで、それを健全な家族ならありえたと想像できるのは、今の戦後民主主義的価値観を過去に当てはめて見ている証拠です。ありえたとリアルに想像できるのは、非合法の抵抗です。

> 話は飛びますが、軍令が仮にあったとするならたったの一枚ぐらいは
> 残っていても違和感はありませんが一枚もありませんよね。不思議に思いません?

 当時の軍令がどのようなものであったかを少し調べてみましたが、具体的にわかるようなものはまだ見つかっていません。おそらく、今の行政命令もそうですが、口頭命令も軍令に入っていたものと思われます。戦争映画などで、隊員を呼び出して、口頭で隊長が命令するシーンがあります。あんな感じです。ただ、費用が発生するような場合、事務的な記録を残している可能性はあるでしょう。軍が一般的に住民に対して軍令を出した場合、それはどう記録されるのか? 敗戦に伴って、大量の記録廃棄が行われたのは確かです。慶良間諸島の場合、米軍の調査記録があり、米軍が守備隊本部から軍の記録を押収して調べている可能性もあります。この記録を調べている人もいるようです。なにせ具体的な資料が不足してます。

 圧倒的に軍人優位の戦前の軍国主義下で、軍が、人々の価値観の方向付けをしたことはたしかでしょう。ただし、住民への啓蒙や教育などは在郷軍人会が行ったように聞いてますが。

 軍令というのは、文書化されているのが一般的で口頭命令は例外だということですか?

> 小林の想像力が都合の悪い事はシャットアウトしていると言うなら
> ブログ主さんはその逆を行なっているに過ぎないとも言えますよね?

  想像なら想像と言うべきで、小林とネガポジの関係にはなってはいません。当方は、できるだけ想像は想像とことわっています。

> 小林は細木和子のように消えていくとはこれもまたブログ主さんの
> 根拠なき想像力の豊かさを示す書き込みに過ぎないのではないでしょうか?

 それは事実が結論を出してくれるでしょう。なんでも時の話題に首を突っ込むというのは、彼のような忙しい人には、難しいことです。知識不足や考え不足によるはずれが多くなり、現にいろいろなまちがいが山崎氏のブログでも指摘されています。 

  『わしズム』が本屋で売れ残っていたので、読者が少ないのだと思ったのです。ただ、山崎行太郎氏のブログにあるように、肝心の『沖縄ノート』を読まないで、大江批判をやっていた小林よしのりの無責任さにはあきれるほかはありませんが、こんないいかげんなことをやっているといくら小林のファンでもしまいにはあきれて離れていくと思います。世の中そんなに甘くはないと思います。これは根拠なき想像でしょうか? これも現実が答えを出してくれるでしょう。

> 余談ですが読者を失っているのは休刊になる朝日新聞の論座ですよ。

 『論座』がどうなろうと知ったことではありませんが、もし、おっしゃる意味が、サンケイVS朝日に代表される右派対左派の対決のことでしたら、日本共産党員3000人増、うち青年900人や共産党員作家小林多喜二の『蟹工船』の新潮社文庫版だけで30万部のベストセラーという数字もあります。このところ保守よりだった宝島が、左翼特集を出しました。大江裁判の大江氏全面勝訴判決が出てから、弁護団から自民党の稲本朋美弁護士が消えました。小林よしのりも、沖縄戦の事実を知りたいだけだという態度に後退しました。かつては、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』は出れば、売上上位に並んでいましたが、彼の本などは今はそうなっていないのではないですか?

 『朝日』は民主党寄りであり、民主党には右派の旧民社党から旧社会党系までいる幅のある党なので、『朝日』が左派代表というのは、古い見方だと思いますよ。

> どうも後半になってくると単に小林よしのりが憎いと言うだけの駄文と化すので
> ここまでにしますが、日米同盟を現状は肯定すると言う小林を攘夷論者と
> 呼ぶのは印象操作にしか見えない、と言っておきます。

 小林は、どこかの雑誌で自分で今こそ攘夷が必要だと書いていたのです。本人が言っているので、別に印象操作ではありません。

> なお、ブログ主さんが果たして「多種多様な価値観」を認め
> 「反論」を掲載するかどうかを興味深く待つことにしますよ。

「反論」してみました。これで「多種多様な価値観」を認めたことになるのかどうか。

 なお余談ですが、貴方が「多種多様な価値観」、つまりは頭の中、内心の自由は認めても、「多種多様な現実」を認めない財界と同じではないことを期待します。なにせ、自民党政府は、自由と民主主義に反する価値観は認めないと言っているし、アメリカのブッシュは、自由と民主主義に反する価値観を持つと見なす他国に戦争を仕掛けたり、反政府派に金や武器や教育や訓練を施し、政府転覆作戦まで教えて、暴力的に一元的価値観を強制していますから、それにも批判の目を向けないと「多種多様な価値観」は本物ではないということをお忘れなく。日本でもアメリカでも「多種多様な価値観」には限度が設けられているのです。

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