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『部落解放運動への提言』について3

『部落解放運動への提言』は、冒頭で、以下のように書いている。

「このような状況の中で、前近代からの「部落賤視観」と、同和対策事業の過程で醸成された「ねたみ意識」を共存させている人たちには、「やっぱりそうか」と、ますます差別意識を増幅させることになった」。

問題はここでいう「前近代からの「部落賤視観」と、同和対策事業の過程で醸成された「ねたみ意識」を共存させている人」である。

前者は、穢れ観念によるものと言えようが、後者は、民主主義観に問題があると言えよう。

後者の場合、「ねたみ意識」をもつ人とはどういう人たちかを分析する必要がある。まず、こういう人は金持ちではなさそうである。こういう人たちが、改良住宅程度の居住レベルにねたみを感じそうもないからである。ありそうなのは,このレベルに近いか、それ以下の生活水準にある層に属する人々である。こういう層の人々なら、部落民を特別扱いするのは不公平だと感じても不思議はないという気がする。民主主義について素朴な考えしかもっていないで、単純に民主主義=平等ととられえているというふうに思うのである。

もう一つ考えられるのは、重税感に襲われているような人々である。税の使い道に敏感になり不平を感じているような人々である。自分たちが汗水働いて稼いだ金を税金に持っていかれ、それが同和事業に使われすぎていると感じているような人々もいそうである。

それに意図的に人々の「ねたみ意識」をかきたている政治勢力もありそうである。月間『宝島』は、在日特権なるものの告発を試みる特集を組んだことがあり、右派のチャンネル桜でも同様の内容が流されたことがある。そんな差別主義的な集団が扇動している可能性がある。

多数派の少数派に対する譲歩は民主主義の一つであり、それはある意味、少数派に特権を与えることである。もちろん、それは近代民主主義の中では、本当の特権者たる官僚・ブルジョアジーや大金持ちの特権とは違うものである。多数者以下の少数者を多数者の水準に引き上げるための特権である。

同和対策によって、もはや特権なしに、部落の水準は多数者レベルに達しただろうか?

『提言』は「教育や就職の面ではまだまだ不十分であるが、ともかく環境面では全国の多くの部落が一般市民社会の水準に概ね仲間入りをした」と述べている。その認識の前提は、「部落解放運動の目的は、まず市民社会の水準に部落民の生活を向上させることにある」という認識である。これがまず朝田理論と大きく食い違っている。なるほど朝田理論は、部落の劣悪な環境の改善を行政闘争によって勝ち取ることを目指した。しかし前に書いたように部落差別を主要な生産関係からの排除と述べ、資本主義と部落差別と結びつけていた。この面では就職差別との闘いということがあり、この点の評価が必要である。

『提言』は全体に部落解放運動を、人権運動・地域運動として描いており、層や身分といった階層性にはあまり触れていない。そしてやたらと人間主義を強調している。

『提言』が「運動理念も衰退し、組織実態においても空洞化がみられる」というのは、前に引用した山内政夫氏の言によれば、もともと改善事業の受け皿をつくるために外から人が入って作られた支部があって、それは事業がなくなれば組織実態が空洞化するのは当たり前である。

再度引用すると山内氏は、「こんな事業がなくても良かったんじゃないかということ。そのような議論をしてみる必要があるね。昔の私らの感覚の中では、部落というのは貧しくても活気あって元気やったし、神秘的な面もあったし、いろいろな人がおったし、好き嫌いでいうとああいうのがすっきゃね。何かハコモノが変わってどこ探しても人がいないと。一面、美しくなって市民に近づいた。市民らしくなるのは結構やけど。それって全然解放運動という実感をしない。同和事業の根幹的な見直しということはそういうことなんでね。ただ、だからやめるとかそういう話ではなくてね。もうはなっからね、はなっからあってよかったんかどうか分からん。そういう話です」と述べている。

つまり、同和事業の中で、非資本主義的な地域共同体としての魅力がなくなっていったということである。それは高度経済成長期の「列島改造」の中で、駅前の風景をはじめ日本国中どこに行っても似たり寄ったりの風景になっていったのと同じだということである。そのような故郷に愛着を持ちにくいのは当然である。どのような地域を作るのか、それを住民自身が決めていくということが必要で、それが運動だということである。大昔の誇るべき歴史や文化を学ぶだけではなく、今誇りと愛着を持って住めるような地域を作るということである。

「提言委員会は、こうした危機的状況を直視しながら、部落解放同盟が真に時代の要請に応える新しい運動の展望を切りひらき、人間解放の崇高な理念にもとづく活力ある組織として再生するためには何をなすべきか」と言うのだが、まず部落解放とは部落民が市民になることではないということをはっきりさすべきだろう。人間解放の意味は、差別者の差別からの解放と被差別者の差別からの解放の両方であり、部落差別からの被差別部落民の解放だけでは、部落民の差別者としての解放―民族差別、下層差別、女性差別、障害者差別、階級階層差別、等々から解放されないからである。それがこの間解放同盟が力を入れてきた反差別共同闘争の意味だと思うが、それはすでにこれらの差別から解放されたわけではない市民になることではなく、市民もまた差別から解放されなければならないのである。ある一面において、あるいは別の差別から解放されていない市民になるというのは問題である。あらゆる差別から解放された市民になるのはもちろん人間解放だが、今、そんな理想の市民は存在しない。その基本には、階級差別がある。それはなくなっていない。それから解放された市民はいないから、市民になることは人間解放にはならない。

(1)はじめに―危機的状況を直視する

大阪・奈良・京都で発生した今回の一連の不祥事は、人権の確立と社会正義の実現を掲げる運動団体としては、あってはならない事件であった。これらの事件は、市民社会の倫理から大きく逸脱した事犯であった。
まじめに部落解放運動に取り組んできた多くの部落大衆は、胸を締めつけられる思いでテレビや新聞報道を見たであろう。全国水平社以来の部落解放運動の先駆性を胸を張って語ってきたにもかかわらず、水面下でこのような事態が起きていたのである。
それとともに部落解放運動と連帯してきた多くの人たちにも深い衝撃を与えた。
これら一連の不祥事の経過を見ても、決して「偶発的で個人的な問題」ではない。
1965年の「同和対策審議会答申」を受けて、1969年に制定された「同和対策事業特別措置法」以来、運動の内部においてしだいに体質化され構造化された諸要因にもとづくものとも言えるであろう。
したがって今回の事件は、指導部の謝罪や関係者の除名でもって、信頼が回復できるような問題ではない。確固たる解放の運動主体が形成されないままに、部落解放同盟が社会的に孤立し、権力の介入や行政の部落問題解決への責任放棄を招く危機的事態に立ち至っている。
このような状況の中で、前近代からの「部落賤視観」と、同和対策事業の過程で醸成された「ねたみ意識」を共存させている人たちには、「やっぱりそうか」と、ますます差別意識を増幅させることになった。
部落解放運動は、戦後最大の危機に直面している。運動理念も衰退し、組織実態においても空洞化がみられる。被差別民の集団としては、世界最初の人権宣言と言ってもよい「水平社宣言」のもとに出発した全国水平社であるが、その85年におよぶ輝かしい闘いの歴史も、このままでは地に堕ちることになりかねない。
このような状態がさらに続けば、さまざまの差別から人間を解放する先駆けとして、部落解放運動に心を寄せてきた人々の心も離れていくことになる。部落解放運動が全国水平社以来の苦闘のなかで積み上げてきた多大な成果や社会改革への取り組みも、このままでは生気を失い、それらの成果を受け継ぎ切りひらくべき次の時代を担うことは困難となる。今回の不祥事は、部落解放同盟の存在意義そのものが根本から問われる緊急事態である。
提言委員会は、こうした危機的状況を直視しながら、部落解放同盟が真に時代の要請に応える新しい運動の展望を切りひらき、人間解放の崇高な理念にもとづく活力ある組織として再生するためには何をなすべきか、その方向性と課題について提言する。
部落解放同盟に対しては、この提言を受けて、あくまで主体的に、徹底した内部討議と総学習を行い、誠実な運動再生への実践を期待する。

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