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望月氏の共同体主義

  『アソシエ21・ニューズレター』6月号に元ブント・マル戦派の望月彰氏の「コミュニズムとは「一人はみんなのために、みんなはひとりのために」という文章が載っている。

  前回、柄谷行人氏の共同体論に触れたが、望月氏は、同じテーマについて書いている。

  望月氏は、「コミュニズムを共産主義と訳したのは、間違いだった。コミュニズムとは共同体主義と直訳すれば、意味不明とはならなかったのである。共同体にあっては、一人と共同体メンバーとの関係が「一人はみんなのために、みんなはひとりのために」というモラルで律せられている。これこそが共同体の開かれた良い側面である。このひとりと全体とを関係づける相互の意思を共同体原則と名づけよう」と述べている。

  「しかし、共同体には「村八分」という閉ざされた負の側面もある」とマイナス面も指摘する。この点について、プルードンは、社会契約の違反者は、人類共同体からの追放という制裁を受けるが、それは死を意味すると述べている。

  マルクスはプルードンを批判しながらじつはパクッたという。

  パリ・コミューンの敗北後、『ゴータ綱領批判』が書かれたが、それにマルクスの「共産主義観」が具体的に書かれたという。それは以下の部分である。

  「共産主義社会のよりたかい段階において、すなわち分業の下における個々人の奴隷的依存、それと共にまた精神的労働と肉体的労働との対立が消滅した後―その時はじめて狭隘なブルジョア的権利の地平線は全く踏み越えられ、そして社会はその旗にこう書き付けるであろう、各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」

  これは具体的だろうか? 一般的で抽象的に見えるのだが。人、能力、個人・・・すべて抽象物であり、これについて望月氏の言う「人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る、というのは個人として住みやすく、能力が認められやすい社会であるというイメージである」というのは、具体的ではない。これを読んでもなんら具体的なイメージは浮かばない。もっとも、それぞれ好き勝手なことを思い浮かべることはできるが。

  それから、「個人と全体との相互意思、相互関係、そのモラルは論じられていない」と言うが、氏はこの文章の中ではそれについて具体的に論じていない。具体的に示されていないことをどう実践したらいいのかわからない。

  全体にマルクスが『哲学の貧困』で批判したプルードンの物事を良い面と悪い面に二分して論じるという方法をパクッて使っていて、それは氏の知的遊びなのかもしれない。

  例えば、「マルクスは官僚制度それ自体が悪とする傾向が強かったが、官僚制度を悪用するものと善用するものとの戦いがあるだけで、官僚制一般を否定してみても意味がない」という。これだとプルードン主義や無政府主義を否定していることになる。

  つぎに氏は議論になりそうなことを言う。

  「コミューンの原則・共同体原則を評価するためには、剰余労働の搾取を二義的なものと考えないと理解できない。何時間働いたかではなく、何を作ったかが問われるのである。探求されるべきは、価値ではなく使用価値である。誰のためのいかなる労働をしたかである。いくら働いても、共同体や人類の滅亡に繋がる(つまりいのちを奪う)物つくりは、搾取されているかいなかに関係なく、否定されなければならない」

  ここで問題になるのは、氏が言う使用価値は、共同体や全人類的なものであって、個人的な使用価値ではないということだ。近代経済学なら、個人の効用、あるいは主観的価値というものではないということである。「誰のためのいかなる労働をしたか」をどうやって評価したらいいか? 「誰」って誰?

  最後に、氏は、「商品・貨幣・資本や市場・信用(あるいは計画経済も)と言うものは、それ自体が悪なのでなく、これらを善用しようとするものと悪用しようとするものの戦いがあるだけである」と言う。ちょっと破れかぶれではないかという気がするが、なんとはなしに、マル戦派が依拠した宇野経済学派の行き詰まりの果ての一つの姿を見ているような気がする。

  明らかに、これは、修正資本主義路線である。言うまでもなく、生身の人間である労働者にとって「コミューンの原則・共同体原則を評価するためには、剰余労働の搾取を二義的なものと考えないと理解できない」ということはありえない。働きすぎては過労死するかもしれないし、生活するための原資がどの程度得られるかは剰余労働の度合いにかかっているなど、労働者は関心を持たざるを得ない。

  とにかく全体に一般的であって、抑圧的に感じる文章である。それは、「これらを善用しようとするものと悪用しようとするものの戦いがあるだけである」というように、二者択一にしているからである。これは、商品にしてもなんにしても抽象概念として論じているせいもある。プルードンみたいな善悪二元論は抑圧的に感じる。

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