グルジア紛争の背景
現在紛争状態にあるグルジア問題について、ウィキペディアから基礎データを引用しておく。
このカフカス地域の民族問題は、1917年第二次ロシア革命で政権を握ったボリシェビキを悩まし、いわゆるレーニン晩年の闘争の対象となったものである。
グルジア出身のスターリンは、グルジア独立派を弾圧、レーニンは独立派の側に立って、スターリンを批判した。しかし、この地域の民族問題は複雑で入り組んでいて、解決は困難であった。スターリン時代になると、上からの押さえ込みにより、表面的には平穏であったが、実際には、強制移住などの強権的支配によってそれが保たれていただけである。
今回の事態については、大国ロシアによる小国グルジアへの軍事攻撃と抑圧というように単純にとらえることはできないだろう。確かに、ロシアの後ろ盾がある南オセチアの独立派は、小国グルジアに対して優位に立っていると言えようが、グルジアのサーカシビリ大統領には世界一の核大国アメリカとEUの後ろ盾があるわけで、単純な軍事力の比較から言えば、欧米の方が強力であろう。
コソボ問題のときのように、欧米は、人道のための戦争、人権のための戦争という名目で、戦争を行うことがある。それが、小国ユーゴスラビアだからやったというのでは筋が通らない。大国ロシアが相手でも、ひどい人権違反には戦争をもって制裁を加えるということができなければ、人権主義も看板倒れになる。
大富氏の「チェチェン・ニュース」最新号に、主権国家グルジアに対するロシアの帝国主義的野望によるグルジア攻撃に反対する署名が紹介されていた。
なるほど、ロシアは帝国主義である。しかし、米欧も帝国主義である。どちらの帝国主義が正しいかということになるが、そうなると紛争は全面戦争に転化しかねない。そこで、これらの帝国主義間対立から超越した外見を装った「中立」の国連停戦監視団の派遣が検討されているという。つまり、これが帝国主義間の代理戦争として拡大しないように押えようというのである。
しかし、イラク戦争ではっきりしたように、多国籍軍は、結局は、アメリカのイラク支配に帰着した。コソボ問題では、コソボ独立が実現しそうである。そうなるとコソボのセルビア人は少数派となる。アルメニア人は、アルメニアとコソボの二つの民族国家を持つことになる。もちろん、同じゲルマン民族が、ドイツとオーストリアの二国に分かれているというケースがある。
チベット独立運動に対して、右派の自由主義研究会のHPに掲載されている文章を見ると、民族自決権について何の言及もなく、ただ、平和的な解決を望むというだけの日和見主義的な主張が書いているだけである。
下のウィキペディアの記事によると、国際社会は、南オセチア自治州のロシア連邦南オセチア共和国への編入という要求やアブハジアの独立を認めていないという。
『毎日新聞』は、攻撃された双方の被害者の声を伝えているが、もちろん両者とも相手の理不尽さや残虐さを強調している。グルジア人:「露軍戦車が村破壊し尽くした」。オセット人:「グルジア大統領はヒトラーだ」。
また、イスラエルが、グルジアへの武器売却を停止すべきという議論が起きているという。これまでの武器売却額は、約2億ドル(約220億円)にもなるという。
12日、グルジアの首都トビリシで、バルト三国、ポーランド、ウクライナの首脳が参加した約10万人の反露集会が開かれた。市内に滞在中のサルコジ仏大統領は参加しなかった。アメリカ政府は、ライス国務長官を派遣することを決定した。グルジアによる南オセチア自治州への軍事侵攻が行われた日、北京オリンピック開会式に出席していたロシアのメドヴェージェフ大統領は、急きょ、南オセチア自治州に入り、被災者を見舞った。
南オセチア
南オセチア(みなみオセチア)はグルジアの中央に位置するオセット人の多住地域。
現グルジアの行政区画でのシダカルトリ地区とその周辺だが、南オセチア『自治州』は1920年から1991年までのザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国及びグルジア・ソビエト社会主義共和国の時代に置かれた自治州で領域はシダカルトリ地区北半とその周辺だった。グルジア独立で「南オセチア自治州」が消滅したことにオセット人が反発して自治権を要求した南オセチア紛争で「南オセチア自治州」が再設立され、同じ領域をもって南オセチア共和国 (Республик? Хуссар Ирыстон、首都はツヒンワリ) として独立を主張し、グルジアからの分離、ロシア連邦への加入を目指している。ただし、独立は国際的には認知されていない。南オセチアと南オセチア自治州・南オセチア共和国の領域の相違は、カフカースの民族分布図と「南オセチア自治州」詳細図及びグルジアの行政区画(シダカルトリ地区)を参照。
かねてから一部地域はグルジアの支配が及ばない状態が続いていたが、2008年8月8日、グルジア軍が「州」政府支配地区に侵攻、ロシア軍が反撃し、その帰属をめぐって対立状態にあったグルジアとロシアが戦争状態に入る。
グルジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グルジア
??????????
グルジアの国旗 グルジアの国章
(国旗) 国章
国の標語 : ???? ?????????
(グルジア語:力を一つに)
国歌 : 自由
グルジアの位置
公用語 グルジア語
首都 トビリシ
最大の都市 トビリシ
元首
大統領 ミヘイル・サアカシュヴィリ
首相 ラド・グルゲニゼ
面積
総計 69,700km^(2)(118位)
水面積率 極僅か
人口
総計(2004年) 4,693,892人(113位)
人口密度 67人/km^(2)
GDP(自国通貨表示)
合計(Xxxx年) xxx,xxxラリ
GDP(MER)
合計(Xxxx年) xxx,xxxドル(???位)
GDP(PPP)
合計(2003年) 121億8,000万ドル(120位)
1人当り 2,500ドル
独立
ソビエト連邦より 1991年4月9日
通貨 ラリ(GEL)
時間帯 UTC +4(DST: なし)
ccTLD G国際電話番号 995
グルジアは、西アジア北端、南カフカース地方に位置する共和国。旧ソビエト連邦の構成国のひとつで、1991年に独立した。首都はトビリシ。ヨーロッパに含められることもある。
カフカース山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来より数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。
ソビエト連邦の最高指導者、スターリンの出身地である。
ウクライナの主導で発足したGUAMにも加盟している。
国名
公式の英語表記は、Georgia、日本語の表記は、グルジア。
1995年以来、正式名称・通称は同じである。独立直前の1990年から1995年までは「グルジア共和国」を正式な国名としていた。
グルジア語では、??????????(ラテン文字転写 : Sakartvelo)という。サカルトヴェロは、「カルトヴェリ人(グルジア人)の国」という意味で、カルトヴェリは古代ギリシャ人の記録にもあらわれる古代からの民族名カルトゥリから来ている。
日本語名の「グルジア」はロシア語名Грузияにもとづき、英語名のGeorgiaと同じく、キリスト教国であるグルジアの守護聖人、聖ゲオルギウスの名に由来すると言われる。
なおグルジアを意味する英語のGeorgiaやフランス語のGe'orgieなどは、グルジアのほかにアメリカ合衆国のジョージア州も意味するので注意が必要である。
歴史
この地は、紀元前6世紀にはオリエントを統一したアケメネス朝ペルシャの一部となった。その後、紀元前1世紀にローマの支配に入った。グルジアの歴史は、主に西グルジアと東グルジアに分けられる。グルジア史は、大まかに分けると、ローマ時代以前は、主に西グルジアにあるコルキス王国(Egrisi王国)が栄えていた。ローマ支配紀頃から東グルジアにカルトリ王国(イベリア王国とも言われた)が勃興し、しばらくカルトリがグルジア史の主役となる。
4 - 6世紀にキリスト教に改宗。6世紀頃に、この頃ラジカ王国として知られていた古代コルキス王国(この間ずっとEgrisi王国が正式名らしい)はビザンツ治下に、カルトリ王国はペルシャ支配下となる。その後、グルジアはアラブ支配下に入る。ラジカ王国は、9世紀にアブハジア人を主体としてアブハジア王国として独立した。イベリア王国は、同じく9世紀に、アショト・バグラトゥニによりアラブより解放された。1089年頃グルジアが統一され王国となるが、後ビザンツ帝国の属国になる。
長い間ビザンツ帝国の一部であり、文化的にもその影響が大きい。その後、オスマン帝国、ペルシア、ロシアなどの支配を経て、ロシア革命後の1918年5月26日にロシアから独立を宣言するが、赤軍に首都を制圧され崩壊。ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国の構成国となり、ソビエト連邦に加盟した。1936年には、ソ連邦構成共和国(グルジア・ソビエト社会主義共和国)に昇格する。冷戦下に耐えられるソ連を目指すため、民族問題が取り上げられることはなかった。またスターリンの故郷という側面もプラスに働いており、大きな問題に発展することも可能な限り抑えられた。
しかし、ソ連後期から黙殺されてきた民族的な問題が表面化した。1991年にはソ連邦の解体により、グルジア共和国として独立したものの、多くの閣僚はソ連旧共産党員の天下りであることも手伝って、政局不安は改善されないままであった。1992年から2003年まで、エドゥアルド・シェワルナゼが最高権力者であった。
2003年11月2日の議会選挙の開票には出口調査などによって不正の疑惑が指摘され、アメリカが非難を表明していたが、11月22日になって、選挙に基く新しい議会が召集された。これに対し、反対派の議員はボイコットした。議会前には25000人の反対派市民が集結していたが、開会の辞を読み上げられる最中、これらの市民は議場に乱入した。シェワルナゼ大統領は議会から逃亡し、11月23日には大統領を辞任した。代って、野党「ブルジャナゼ・民主主義者」の党首であるニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任した。ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚(ナルチェマシュヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシュヴィリ財務相、メナガリシュヴィリ外相など)を一掃した。
旧野党勢力は、2004年1月4日に行われた大統領選挙では、野党「国民運動」のミヘイル・サアカシュヴィリ党首を統一候補として擁立した。しかし、「労働党」のナテラシュヴィリ党首が議会選挙のやり直しに反対し、「伝統主義者連盟」が離脱を表明するなどの動きもあった。ロシアを後盾にアジャリア自治共和国を事実上中央政府から独立して支配してきたアスラン・アバシゼ最高会議議長が非常事態宣言を発令し、暫定政権に反対するなどの動きを見せた。結局、大統領選挙の結果はミヘイル・サアカシュヴィリの圧勝に終わり、これに反対する野党勢力も一転して選挙結果を受け入れた為、一連の混乱も収拾した。
3月28日に議会再選挙が行われた。結果は、国民運動が得票率75%で大多数の議席を獲得し最大与党に躍進した。一方、その他に議席獲得に必要な7%の得票率を超えられたのは新右派と産業党が連合して結成された右派野党だけであった。今回の選挙は独立後のグルジアで最も自由な選挙のうちの1つだったと考えられる。
しかし、アバシゼ議長はこれらの選挙結果を依然として認めず、アジャリア自治共和国との交通路を封鎖するなどの措置を取り、中央政府との関係は一触即発の状態となった。3月18日にはアバシゼ議長とサアカシュヴィリ大統領との会見が行われ、一時は事態が収拾するかと思われたが、アジャリア側が4月末より橋を爆破するなどの措置に出てきたため、中央政府は国境や港湾を封鎖するなど圧力を加えた。更にアジャリアの首都バトゥミでは大統領支持派による議長退陣要求デモが1万数千人規模にまで膨れ上がり、ますます緊迫した状況となった。5月5日にはロシアのセルゲイ・イワノフ国防相がアバシゼ議長と会見し、辞任を勧告した。これにより議長は同日中に辞任しロシアに出国した。また、中央政府はアジャリアに大統領直轄統治を導入し、アバシゼ議長の元で続いてきた事実上の独立状態は終わった。
2007年11月に与党サアカシュヴィリ政権に対する野党デモの鎮圧を期にグルジア全土で非常事態宣言が発令されるなど政情不安は続き、これに対するサアカシュヴィリ政権の強硬政策は、民主化の後退を位置付けるものとなった。2008年8月8日、親露派分離派地域である南オセチア自治州にグルジア軍が侵攻するが、2日後に撤退する。12日、トビリシにおいて、サアカシュヴィリ大統領がCISからの脱退を正式に宣言。今後は北大西洋条約機構(NATO)加盟と欧州連合(EU)加盟を視野に活動する意向が示されているが、現在両同盟からの勧誘の動きはない。
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