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2009年2月

アメリカ現代思想理解のために(9)

 次に自由の意味が変質した1940年代において最も「自由」の本質論として、社会心理学者のエーリヒ・フロムの『自由からの逃走』(1941)とフリードリヒ・ハイエクの『隷従の道』(1944)をあげる。

 フロムは、ドイツのフランクフルト学派で、ナチスの迫害を逃れて、亡命したユダヤ人である。ハイエクは、経済学者で、自由主義的思想家である。

 フロムは、近代の資本主義経済が、人間を伝統や共同体の絆から解放し、自由な個人を生み出したが、他方では、個人は孤独感を持ち、神経症的になり、「自由ゆえの孤独感、無力感に耐えきれなくなった個人は、自由から逃げ出し、命令を与えてくれる外的権威に進んで従おうとする権威主義的性格を示すようになる」(40頁)と主張した。それが、ファシズムを生み出すと彼は言うのである。フロムは、そうならないための方策を以下のように述べた。

 人間が社会を支配し、経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときにのみ、また人間が積極的に社会過程に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望―孤独と無力感―にかりたてているものを克服することができる。人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である。(・・・)デモクラシーは、人間精神のなしうる、一つの最強の信念を、ひとびとにしみこませることができるときにのみ、ニヒリズムの力に打ち勝つことができるであろうる(日高六郎訳『自由からの逃走(新版)』、東京創元新社、1965年、302頁)(41頁)。

 ハイエクは、『隷従への道』で、「社会主義者は、欠乏からの解放や社会的正義としての平等などを理想として掲げ、それを「新しい自由」と呼んで、計画経済を正当化しようとする。しかし計画化を進めていこうとすれば、どう(41頁)しても議会での討論を中心にして多数の人々の合意を得るという手順を経ることなく、中央で誰かが一元的に決定することが必要になってくる。計画化はデモクラシーと最終的に矛盾するのである」(41~2頁)と述べる。さらに、氏によれば、ハイエクは以下のように全体主義体制を批判したという。

 計画経済は経済活動の自由を制約するに留まらず、我々から基本的な選択の自由を奪うことになる。全体主義体制に生きる人々は、中央から与えられる計画に合わせて欲望を満たす生活を送ることを強いられるようになる、社会計画化によって単一の目的体系が出来上がると、各個人は社会または国家のような、より高次の目的に役立つ単なる手段でしかなくなる。そうした全体主義社会では、各人が、全体の目的を自分の目的であると考え、支配者が与える計画に対して不信を抱かないよう、思想の「画一化」に向けての宣伝・教育が行われる。(42頁)

 こういうことを言われると、すぐに納得してしまいそうになるのだが、ここで、個人という概念がわかっていないし、計画とか経済とか国家とか社会とか、なんだかわからないということに注意する必要がある。なんとなく、あれのことかと表象するものが頭の中に浮かぶが、それとここで言われていることが一致しているかどうかわからない。ここには、予め、高次の目的とかいう価値判断が入っていて、それは、問われなければならないことである。役立つというのもそうだ。誰にとって何の役に立つのか。つまり、ここには、効用が普遍的なものとしてすでに入り込んでいる。自分とは何か、それも問われていない。その上で、ハイエクは、以下のように言っている。

 はなはだしい窮乏に対して適当な保障を与えることや、避けえられる労力誤用の原因、したがってまたその結果としての失敗を減らすことが、政策の主要目的の一つであることについては問題はない。しかしこのような努力が成功し個人的自由を破壊しないためには、保障は市場の外で提供され、競争は妨げられずに作用するようにされなければならない。(・・・)自由を犠牲にして手にする保障を激賞する、知的指導者たちの現在の流行ほど致命的なものはない。われわれは自由というものが一定の価格を払って初めて得られるものであるということ、そして個人としてのわれわれが自由を保持するためには、きびしい物質的犠牲を払う用意をしなければならないということに、目を開くことを虚心に再認識する必要がある。(一谷藤一郎・一谷英理子訳『隷従の道(改版)』、東京創元社、1992年、169―170頁)

 これをよく考えてみると、ハイエクは、あらかじめ「個人的自由」「個人としてのわれわれ」という形で、個人主義を無前提に価値あるものとして設定して表明していることがわかる。そのためには、競争が妨げられないようにしなければならないし、自由には価格の支払いが必要だし、自由を保持するためにはきびしい物質的犠牲を払わねばならないというのである。こうした自由観は、カントの人間に先天的に備わる道徳律・良心の存在、そして、それが理性的格率であるが故に厳格に守られねばならぬとしたことを下敷きにしているものだ。これは、英米で主流である経験主義的・帰納主義的な道徳観とは異質である。もちろん、プラグマティズムとも異質である。ただ、カントの哲学は、折衷主義的であったために、その解釈には幅があることに注意する必要がある。われわれは、現実の市場が人を自由にするどころか、隷属を生むという現実を簡単に確かめられるので、こういういい方には引っかからなですむだろう。

 ハイエクがここで言っているのは、「欠乏からの自由」のことだけであり、それなら必要なものを金を払って買うべきだということだ。国から助けてもらったら、国の言いなりになって、その命令に従うだけの人間、隷属した人間が生まれるというのである。ハイエクは、ここで、権利という概念をまったく無視しているか、あるいは軽視している。もっと根本的に言えば、国家と個人を対立させることで考えるのを止めている。国家と個人の必然的な結びつき、その統一性、関係、関連、・・・この問題の多様な面を考え尽くしていないし、そうしようともしていない。彼は、お手軽に、国家と個人を対立させ、それも一面的、外的に対立させているだけである。これらの統一を理解するというところまで考えを進めていない。だから、国家と個人の対立の止揚、その歴史的転化というところに行かずに、せいぜいが、国家が個人に対して持つ現象的な悪影響の緩和という程度のことしか言わないのである。自由と必然が結び付いているように、国家と個人は結び付いている。国家の自由と個人の自由とは、それに団体・社会の自由もあるわけだが、それらの間の権利関係を言い表したのであって、それは、歴史的具体的な力関係などによって様々に規定されているのである。

 例えば、そのことは、アメリカ建国の過程での、憲法論争の中の、いわゆる憲法擁護派で中央集権派・共和主義派のフェデラリストの『ザ・フェデラリスト』(ハミルトン、マディソン、ジェイ)と分権派的なジェファーソンらの対立を見ただけでもわかる。

 ハミルトンらは、大統領制を君主制の原理に基づいて構想し、連合性を党派性と見なして、最終的には中央集権制の中心に君主=大統領という個人を据えようとした。しかし、この試みは、各邦の権利を主張する連合派による抵抗を受けた。それと、合衆国憲法は、奴隷制を否定する原理を掲げていたが、連合派は、奴隷制に依拠する南部などを中心に反対意見も強く、実際には、奴隷制は生き延びることになる。アメリカ憲法は、こうして、対立する意見の妥協として成立したもので、そのために、それは修正を前提としていたのである。その最初の修正が、権利章典と言われる10項目の修正項目であった。国家と個人という場合、国家君主=大統領と個人が、邦に優越し、連合性に優越するというのが、アメリカの個人主義の基本的な形式になるのである。この点について、在日米大使館HPに、『ザ・フェデラリスト』第10篇が載っているので、資料として下に貼っておく。

 ともかく、ハイエクの自由論は、自由論としても貧弱であって、せいぜいが「欠乏からの自由」を限定的に認めるだけであり、それよりも、商業の自由、市場の自由を優先し、しかもその自由のみを犠牲を払ってでも守るべきだという極めてイデオロギー的、あるいは宗教的と言っていいような、絶対的な価値として自己主張しているものにすぎないのである。



1787年

ジェームズ・マディソン

  憲法の起草は、フィラデルフィア会議への参加者と同じくらい著名な人々によって行われたが、起草されても憲法の採用を確実なものにはしなかっ た。各邦には憲法の批准に対する反対派と賛成派の両方のグループや利害関係者がいた。そして、アメリカ革命までの年月にやってきたように、アメリカ人は新聞を通じて、提案された新しい政府の枠組みの長所と短所について、意見を述べ合い論議した。

  憲法擁護派は「フェデラリスト(連邦主義派)」という名前をもらったが、むしろ「ナショナリスト(国家主義派)」と呼んだ方が正確だっただろう。彼らの主な論点は、強力な国民政府を作る必要があるということを中核としていたからだ。「アンチフェデラリスト(反連邦主義派」として知られる憲法反対派たちは、各邦の連合による政府を主張していたため、実は、真の意味でフェデラリストであったのは彼らのほうだった。フェデラリストが勝利したため、歴史は反対派たちを寛大に扱わなかった。最近まで、アンチフェデラリストたちは、ある有名な随筆の言葉を借りれば、「誠意に乏しい人々」として扱われてい た。

  もっと最近になって、歴史学者たちはアンチフェデラリストの主張を見直し、彼らが権利の章典の欠如や専制政治を防ぐための権力制限の問題などの、重要な問題を提起していたことがわかった。実際のところ、フェデラリストが国民に憲法批准を促す運動を始めたのは、新たな枠組みに利点があると見たと同時に、アンチフェデラリストが憲法に反対する論調を張ったためだった。

  この論争で最も有名なのは、「パブリアス」というペンネームでジェームズ・マディソン、アレクサンダー・ハミルトン、ジョン・ジェイが書き、 ニューヨークの新聞紙上で発表された、85篇の論文である。これらの論文は、これまでに書かれた憲法解釈の中で最も権威あるものとみなされており、今日で も、憲法の意味するものを理解しようと努めている学者や弁護士に引用されている。

  この論文のうち最も有名なものが、ジェームズ・マディソンが書いた「ザ・フェデラリスト第10篇」である。この中でマディソンは、共和政体についての古典的な分析を行っている。憲法反対派は、合衆国はあまりにも大きく、余りにも多くのグループ、つまり「党派」があるため、単一の政府が民主的に統 治することは不可能である、と主張していた。マディソンは、国内には確かに多くのグループがあることを認め、しばしば首を絞め合っているように見えること を嘆いた。古典的な憲法理論は、少数派の権利を犠牲にして多数派支配による統治を行うべきだと説いていた。

  マディソンは、憲法に体現された共和制という処方箋では、さまざまな党派に対して自分たちの意見を表明し、政府に影響を及ぼすための十分な余地 を与えている、と論じた。多数派が少数派を押さえつけるのではなく、さまざまな利害関係者が互いの相違点について交渉し、多数派が統治するが、少数派に十分な配慮と敬意が与えられるような解決策に到達する。多くの党派が存在するというその事実によって、1つの党派による専制的な支配を予防することができる。そして、そうした取引が行われる媒体が、政治、つまり統治術である―というのである。

参考文献:

ゴードン・S・ウッド「アメリカ共和制の成立、1776年-1787年(The Creation of the American Republic, 1776-1787)」(1969年)

ジョージ・ウィルス「アメリカとは―ザ・フェデラリスト(Explaining America: The Federalist)」(1981年)

S・ルーファス・デービス「連邦主義の原則―意味を追求するタイムトラベル(The Federal Principle: A Journey through Time in Quest of Meaning)」(1978年)

チャールズ・R・ケスラー編「共和制を救え―ザ・フェデラリスト・ペーパーズとアメリカの建国(Saving the Republic: The Federalist Papers and the American Founding)」(1987年)

ハーバート・J・ストーリング「アンチフェデラリストが目指したもの(What the Anti-Federalists Were For)」(1981年)

ダグラス・アデアの古典「ザ・フェデラリスト第10篇再考(The Tenth Federalist Revisited)」、ウィリアム・アンド・メアリー・クオータリー8巻(1951年):48

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ザ・フェデラリスト第10篇

  よく構成された連邦には数多くの利点が約束されているが、なかでもより正確に詳しく説明する価値があるのは、連邦が持つ党派の暴力を打破し、抑制する性向である。大衆政府の支持者たちも、それが党派の暴力という危険な悪に傾きやすいことを考えると、その性格や運命について大きな懸念を持たざるを 得ない。従って、彼らは、自分が信奉する諸原則を破ることなく、害悪に対する適切な是正をもたらす案があれば、必ずやそれを正当に評価するだろう。公的な 会議に持ち込まれる不安定、不正、混乱は、実際、いたるところで大衆政府が崩壊してしまう原因となった死に至る病である。なぜなら、依然としてこれらの問題は、自由に反対する者たちがもっともらしい熱弁を繰り広げるときに好んで使う、格好の話題になっているからである。アメリカ諸邦の憲法は古代や近代の人民による政府のモデルに価値ある改良を行ったものであるが、その功績はどれほど称賛しても称賛しすぎることはない。しかし、各邦憲法が、こちら側の危険も希望し、期待した通りに、効果的に除去したと主張することは、不当なえこひいきと言えるだろう。現に公私にわたる信念や社会的・個人的自由の支持者である、最も思慮深く有徳な市民の間から、至るところで不満の声が聞こえる。曰く、政府が余りにも不安定だ。党派間の争いの中で公共の利益が無視されている。 正義の原則や少数派の権利に沿ってではなく、利害を持つ圧倒的多数の優越的な力によって、余りにも頻繁に政策が決定されている―。これらの不満が根拠がな いものであってほしい、とどれほど切に願おうとも、明白な既知の事実を見れば、ある程度真実であることは否定できない。・・・これらの事実は、すべてではなくとも、主として、党派的精神が我々の民衆を汚すために用いた不安定と不正の結果である。

  私は、党派を、全体の多数派であれ少数派であれ、ほかの市民の権利あるいは社会の恒久的・全体的利益に反するような感情あるいは利害という、何らかの共通の衝動によって団結し行動を起こす、相当数の市民のことだと理解している。

  党派の弊害を是正する方法には2つある。1つはその原因を取り除くことであり、もう1つはその影響を抑制することである。

  党派の原因を取り除く方法も2つある。1つは党派の存在に不可欠な自由を破壊するであり、もう1つは、すべての市民に同じ意見、同じ感情、同じ利益を与えることである。

  第1の治療方法に関しては、当の病気よりもさらにたちが悪いとしか言いようがない。党派にとっての自由とは、炎にとっての空気のようなものであり、それがなければ死滅する栄養物のようなものである。しかし、政治生活にとって不可欠な自由を、党派を助長するからといって廃止するのは、動物の生命に 不可欠な空気を、それが火に破壊的な力を与えるからといって、消滅させたいと思うことに劣らぬほど、愚かなことだろう。

  第2の方法は、第1の方法が賢明でないのと同じくらい、実現性に乏しいものである。人間の理性が誤りを免れないものであり続け、そしてその理性 を自由に行使できる限り、さまざまな意見が形成されるだろう。人間の理性と自己愛の間に関連性が存在する限り、その人の意見と感情は相互に影響し合うだろう。そして、前者(意見)には後者(感情)がついて回るだろう。人間の才能の多様性は、財産権が生じる所以であると同様に、利害の均一化に対する克服しがたい障害でもある。こうした多様な才能を守ることが、政府の第一の目的である。財産を獲得する多様な才能を守ることから、直ちに、程度と種類が異なる財産 の所有が生じる。そして、それが個々の所有者の感情や見解に影響を及ぼすことから、さまざまな利害関係者と党派への社会の分裂がもたらされる。・・・

  ここから導き出される推論は、党派の原因を取り除くことはできず、救済はその影響を抑制する方法の中にのみ求めるべきであるということである、というものである。

  党派が過半数未満で構成されている場合には、救済は共和制の原則によってもたらされる。つまり、多数派は通常の投票によって、党派の邪悪な考え方を打ち負かすことができる。党派が行政滞らせ、社会を震撼させるかもしれない。しかし、憲法形態のもとでは、その暴力を行うことも、隠すこともできないだろう。これに対し、党派が多数派である場合には、大衆政府の形態によって、その支配的感情や利益のために、公共の利益と、ほかの市民の権利を犠牲にすることができる。このような党派の危険性に対抗して公共の利益と個人の権利を守りながら、大衆政府の精神と形態を保持することは、我々の探求が志向すべき大 きな目標である。付言すれば、それは強く望まれるものである。それによってのみ大衆政府は、非常に長い間苦しんできた不名誉から救出され、人類にそれを尊 重し採用するように推奨されることができる。

  どのような手段で、この目標を達成できるのだろうか。明らかに、その方法は2つに1つしかない。つまり、多数派の中に同じ感情や利益が時を同じ くして存在することを防ぐか、ないしは、このような感情や利益が共存している場合には、多数派がその数と地方の状況に乗じて、圧政の計画を立案し実行に移すことができないようにするのか、のいずれでしかない。衝動と機会が一致するように任せれば、適切な抑制手段として、道徳的動機も宗教的動機も頼りにならないことを、我々は良く知っている。これらは個人の不正や暴力を抑制するには不適切であることが分かっており、またそうした人数が多くなるにつれて、つま り、その効果が必要になるにつれて、効果を失うのである。

  このような観点から、純粋な民主主義国家、つまり寄り集まって自ら政府を運営する少数の市民で構成される社会には、党派の悪弊を是正する余地がない、と結論することができるかもしれない。ほぼすべての場合において、全体の過半数が、共通の感情や利益を持つことになるだろう。その政府そのものの形態から、相互の意志の疎通と協力が生まれる。そして、弱小の党派や気に入らない個人を犠牲にしようとする誘惑を、抑制するものは何もない。かくして、こう した民主主義諸国は常に社会的な騒乱や闘争を繰り広げ、個人の安全や財産権とは両立しないものと見られてきた。そして概してその命は短く、暴力的な死をとげてきたのである。この種の政府の後ろ盾となってきた理論派の政治家たちは、人間の政治的な権利を完全に平等にすれば、それと同時に、その財産、意見や感情についても完全に均一になり、同化するという、間違った前提を立ててきた。

  共和国は、すなわち私の言うところの代表の仕組みを持つ政府は、別の展望を開くものであり、我々が求めている治療を約束するものである。共和国が純粋な民主主義国家とは異なる点について検証しよう。そうすれば、連邦制に由来するべき治療の性質とその効力を理解することができるだろう。

  民主国家と共和国の間の大きな相違点は、第一には、後者では選挙によって仲間から選出された少数の市民の手に政府が委ねられているという点であり、第二には、後者の方がより多くの市民と、より広大な領土を包含できるという点である。

  第一の相違点の結果として、一方では、国にとっての真の利益を最もよく認識できる知恵を備え、愛国心と正義を持つ選ばれた市民の集団を経ることによって、公的な見解が、一時的な、もしくは部分的な検討しか国益に加えないといった可能性が最も小さい。このような制度のもとでは、人民の代表が表明する公的な声の方が、そのために集まった人民が個々に意見を言うよりも、公共の利益により一致することになるだろう。他方、逆の結果になることもある。党派 的な性向を持つ人々や、地方的な偏見や悪意ある企みを持つ人々が、陰謀、汚職、その他の手段によって、まず人民の投票を獲得し、次にその利益を裏切るかも しれない。ここから生じるのは、公共の福利の適切な守護者を選出するには、小さな共和国と大きな共和国のいずれが有利かという疑問である。そして結論は、 次の2つの理由から明白に後者である。

  第一に、共和国がいかに小さいものであろうと、少数者が起こす陰謀を防ぐためには、一定の数まで代表者を増やさなければならず、また共和国がい かに大きくても、多人数が起こす混乱を避けるためには、代表者を一定の数に抑えなければならない点を指摘しておかなければならない。つまり、この2つの事例における代表者の数は、選挙民の数に比例しておらず、相対的にみれば、小さい共和国の方が多いことになる。従って、代表にふさわしい人物の割合が、大きい共和国の場合でも小さい共和国に劣らないとするならば、大きい共和国の方がふさわしい候補者の選択肢が多いため、結果として適切な選択が行われる可能性 も高くなる。

  第二に、各代表者は、小さい共和国よりも大きな共和国の方が、より多くの市民によって選ばれることになるため、代表者としてふさわしくない候補者が、余りにも選挙につきものの悪質な手段によって当選するのが難しくなる。そして、人民がより自由に投票するため、最も魅力的な長所を持つ人物や、最も 知名度の高い、定評のある人物に票が集中する可能性が高くなる。

  この場合にも、ほかのほとんどの場合と同様に、中庸があり、どちらに行き過ぎても不都合が生じることを認めなければならない。選挙民の数を増やしすぎると、代表者が地元の事情や大して重要でない利益にほとんど通じていないということになってしまう。選挙民の数を減らしすぎると、代表者が選挙民と密着しすぎるため、大きな国家目標を理解して追求するのに余りにも適さなくなる。この点、連邦憲法は、うまく折衷した形になっている。大きな総体的利益は全国議会に、地方の個別の利益は州議会に、それぞれ付託している。

  民主国家と共和国の間のもう1つの相違点は、共和制政府は、民主主義政府よりも、より多くの市民とより広い領土を管轄することができるという点である。後者よりも前者の方が、党派的な結合の危険性が低くなるのは、主にこのような事情によるものである。社会が小さくなればなるほど、それを構成する個別の党派や利益の数もおそらく少なくなる。個別の党派や利益が少なくなれば、多数派が同じ党派に属することが多くなる。そして、多数派を構成する個人の数が少なくなるほど、そして彼らを含む領土が狭くなればなるほど、他を迫害する計画を協力して実行に移すのが容易になる。領域を広げれば、党派や利益をさ らに多様化することができる。全体の多数派が、その他の市民の権利を侵害する動機を共有する可能性が低くなる。あるいは、こうした共通の動機が存在して も、それを共有する全員が自分たちの力を認識し、互いに団結して行動を起こすのが難しくなる。それに加えて、不正な、ないしは不名誉な目的を意図している 場合でも、同意が必要な人の数が増えるにつれて、敵か味方かわからなくなり、意志の疎通が阻まれるという利点もある。・・・

  特定の州の中で、党派の指導者の影響が火をつけることもあるかもしれないが、ほかの州にまで大火を広げることはできないだろう。ある宗派が国家 連合の一部で政治的党派に堕落することがあっても、連合の全域にわたってさまざまな宗派が散在しているため、全国議会が宗派の脅威にさらされることはないはずである。紙幣、債務の破棄、財産の均等分割その他の、不正でよこしまな計画に対する怒りが、特定の州を超えて、連邦全体へ広がる可能性は低いだろう。 それと同じように、このような悪弊が特定の郡や地域を越えて州全体に広がることはないだろう。

  従って、十分な広さと適切な構造を持った連邦の中にこそ、共和制政府に最もありがちな病弊に対する、共和制的な治療法がある。そして我々は、共 和主義者であることに対して感じる喜びと誇りの程度に応じて、連邦主義者の精神を育み、その特質を支援することに熱意を示すべきである。

パブリアス

出典:クリントン・ロシター編、ザ・フェデラリスト・ペーパーズ(1961年)、77-84ページ。


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アメリカ現代思想理解のために(8)

 次に、仲正氏は、「自由主義の逆説」というタイトルで、面白いことを書いている。

 氏は、第一次世界大戦前から、イギリスやフランスでは、社会主義政党は政権参加していることを指摘する。それに対して、アメリカでは、社会主義を明確に掲げる政党は、あまり大きな勢力にならなかった。アメリカ労働総同盟(AFL)と産業別労働組合会議(CIO)は、1930年代後半から、労資協調路線を取ったこともあって、労働運動へのマルクス主義の影響も限定的であった。ローズヴェルトの「ニュー・ディール」政策を進めた民主党は、西欧型の社会民主主義に近かったというのである。

 ただ、確かに、氏が言うとおり、それほど大きな勢力にはなれなかったけれども、コミンテルンに参加したことがあるアナキスト系の世界産業労働者連盟(IWW)があり、さらに、コミンテルンの統一戦線戦術を取ったアメリカ共産党が、「ニュー・ディール」連合内に一定程度浸透していた。

 ローズヴェルトの次のトルーマン大統領は、1947年3月、「武装した少数派、あるいは外圧によって試みられる征服に抵抗している、自由な人民を支援する」という形で、共産主義の封じ込め策(トルーマン・ドクトリン)を発表したのを機に、アメリカは「反共」思想の総本山になった」(35頁)。それを氏は次のように言い換えている。

 共産主義あるいはマルクス主義を思想的に許容することができない“自由主義国家”という矛盾した国家になったわけである。(35頁)

 アメリカは、49年にNATO(北大西洋条約機構)を結成して、ソ連・東欧の東側と軍事的に対決するようになった。48年から、非米活動委員会を中心に、マッカーシー共和党上院議員の告発を機に、「マッカーシズム」と呼ばれる共産主義者摘発運動、いわゆる「赤狩り」の嵐が起きた。「「自由の敵」を敵視しすぎた“自由主義”が思想的に一枚岩になろうとするあまり、ある面では極めて全体主義的な様相を呈する、という逆説的な事態が生じたわけである」(36頁)。このような逆説は、単なる偶然というわけではなく、必然的である。

 純粋に論理的に考えれば、「自由主義」の本質が、「それが本人の自由意志に基づく選択である限り、いかなる思想や世界観を持つことも許容し、干渉しないこと」にあるとすれば、かつての枢軸国のような復古的な全体主義体制や、ソ連の計画経済・社会主義体制のようなものを目指すことも、それが本人の自由意志に基づく選択であり、かつ他人の自由を侵害していない限り、自由主義的にはオーケーということになるはずである。
 「自由主義」の立場から、「枢軸国やソ連は、国家イデオロギーを個人に押しつけて、自由を抑圧している」と批判するこいとはできる。しかし、それを承知で枢軸国やソ連がいいと考える諸個人に対しては、その人たちがその思想に基づいて具体的に他人に害を加えない限り、「自由主義者」は、「全体主義者」の思想の自由を認めざるを得ないことになる。さらに言えば、もし仮に、ある国の住民の圧倒的多数が自発的に全体主義体制を選んだとすれば、それを自由主義者は否定することができない、ということになりそうだ。(36~7頁)

 こうした事態を、自由主義の逆説と仲正氏は名付けたわけである。このことは、ブッシュが、イラク戦争に際して掲げた大義「中東民主化」のスローガンを実際に実行して、民主的な普通選挙を行ったエジプトで、反米のイスラム原理主義のムスリム同胞団系の議員が大量当選するという事態になったことにも示された。アメリカは、王政のアラブ諸国と友好関係を結んでおり、イラクでは、事実上の占領体制、もっと言えば、事実上の軍政を敷いている。

 国内のマッカーシズムが一応鎮まった後も、マルクス主義という思想的なライバルと引き続き対峙し続けたアメリカ社会は、「自由主義とは、具体的にはどういう理想を擁護する思想か?」を自問せざるを得なくなった。こうした自由主義の逆説をめぐる緊張状態が、70年代以降のリベラリズム論議の原点になったと見ることができる。(37頁)

 つまり、自由主義が全体主義体制を作り出すという逆説に対して、どう対応するかをめぐる問題が、70年代以降、アメリカで問われたということである。もちろん、そこには、60年代の公民権運動、ベトナム反戦運動、学生運動、対抗文化運動(カウンター・カルチャー)などの社会運動、政治運動の波の影響ということもあったわけである。

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アメリカ現代思想理解のために(7)

 仲正氏は、「第二次世界大戦直後のアメリカの政治状況を敢えて一言で要約すれば、「自由」の目標の急激な変容ということになるだろう」(32頁)と述べている。

 1930年代末から第二次大戦中にかけてのアメリカは、ドイツ、イタリア、日本などの枢軸国を、全体主義的(もしくはファシズム的)な体制を取る「自由の敵」と見なし、自らと同盟国を「自由の擁護者」として位置付けていた。全体主義体制とは、単一のイデオロギーあるいは世界観によって国あるいは社会全体が一元的に統合されていて、近代的な自由・民主主義の特徴である思想・信条の自由や民主的な手続きに基づく意志決定プロセスとは相容れない政治体制である。(32頁)

 ここで問題になるのは、全体主義体制という概念である。ここでは、「単一のイデオロギーあるいは世界観によって国あるいは社会全体が一元的に統合されてい」る体制である。この概念は、あたかも当然のように、流通しているのだけれども、むしろ、こういうものの方が、全体主義体制と言うにふさわしいような気がする。なるほど、確かに、この言葉を使うことによって、直接的な弾圧を受けるというようなことは起こらない。しかし、全体主義と名付けられた方が、「自由の擁護者」によって、時には武力攻撃を受けるというようなことがある。それによって隠されたのは、例えば、日米戦争が帝国主義同士の戦争であったというようなことであろう。だから、占領軍は、自由を日本に広めるための使者として振る舞ったのである。

 アメリカは、その戦争に対して、建国の理念に回帰しつつ、自由の擁護者としてのイデオロギーを、そこからくみ取るのである。イギリスの専制支配からの自由、そして解放、というイデオロギーを、戦争の正当化のために、必要としたのである。アメリカもまた、ドイツ、イタリア、日本などと同様、復古と自国民中心主義という点では共通なのである。自由に復古するというのがアメリカの特徴なのである。

 そうしたことは、第二次大戦の前の、フランクリン・ローズヴェルト(1882―1945)の41年1月の議会での年頭教書演説のアメリカの追求すべき国家目標として掲げた「4つの人間の自由」(表現の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由)というところに現れている。ここに、政治的自由が入っていないということが問題である。それは、アメリカの自由主義が、全体主義体制の自由を許容しないからである。ローズェルトは、この時、全体主義の政治的自由は認めず、それを敵として軍事的に壊滅させることを、国家意志として表明したのである。

 日独伊の全体主義は、西欧近代的な自由主義・個人主義を超克して、それぞれの民族共同体を復活させることを目指していた。つまり、各人が同じ「民族」(=全体)の一員としての一体感、精神的な絆を感じることのできた近代化“以前”の状態――そうした民族的な一体感がかつて実際にあったかどうかは客観的に証明しようがないわけだが――を理想とし、それを再現しようとする復古的な性格を帯びた全体主義であると言うことができる。(33頁)

 しかし、アメリカにおいては、復古=自由であるから、それが、ナショナリズムという近代的形態を取るのは、日独伊と基本的には変わりがないわけである。日本の場合、明治維新への復古、そして、明治維新が、王政復古としてあったために、古代的なイデオロギーが、ナショナリズムの表現として現れたと言うこともできる。アメリカの場合は、復古した建国神話は、すでに、近代的思想に基づいていたことが違うわけである。

 それに対して、ソ連の国家イデオロギーであるマルクス=レーニン主義は、近代市民社会・資本主義が革命によって打倒された“後”で、私有財産制を廃して生産財を公有化する社会主義体制を経由して、各人が必要に応じて働き必要に応じて受け取る「共産主義社会」が全世界的に到来するという普遍主義・進歩主義的な歴史観を持っていた。西欧近代的な個人主義・自由主義を超克して、理想の共同体を目指す点では、日独伊の全体主義と共通しているが、その理想の共同体としての「共産主義社会」は、過去にあった民族共同体ではなく、これから来るべき普遍主義的なものとして設定されている――来るべき「共産主義社会」はある意味、歴史の始めにあった「原始共産主義社会」が、高度に発展した生産様式を基盤として再現されたものとも言えるが、ここでの本題ではないので、立ち入らないことにする。(33―4頁)

 ここについては、仲正氏自身が、立ち入らないとしていて、必ずしも、こういう見方を正しいものとしておられないので、立ち入らない。ここでは、「ソ連の国家イデオロギーであるマルクス=レーニン主義は、「共産主義社会」が全世界的に到来するという普遍主義・進歩主義的な歴史観」というのは、あくまでも、イデオロギーの特徴であるという点だけをおさえておけばよい。

 アメリカの「自由」対ソ連の「平等」という対立図式は、この間、ソ連社会の実態が明らかになり、あるいはアメリカの「自由」の見せかけが暴露されるようになり、両極から崩れ去ったと言っていい。

 

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アメリカ現代思想理解のために(6)

 第3の経路が、「リベラリズムをめぐる議論」であり、これが「本講義でこれから中心的に取り上げることになる、ジョン・ロールズ(1921―2002)の『正義論』(1971)を機に大々的に展開されるようになった、「リベラリズム(自由主義)の再定義をめぐる政治哲学・法哲学的な議論である」(23頁)。

 「自由とは何か?」をめぐる政治哲学的な議論は、ジョン・ロック(1632―1704)の『統治二論』(1690)以来、様々に論じられてきたが、1960年代頃には、もう「自由」の本質論はあまり流行らなくなっていたという。

 しかし、ロールズが社会全体としての―「平等」に近い意味での―「公正」という要素と、「自由」とを両立させる形での「正義論」を構想し、現代のリベラリズムが取り組むべき課題を明確にしたことによって、その是非をめぐる議論が様々なレベルで展開されるようになった(同)。

 その中から、リバタリアニズム(自由至上主義)と、コミュニタリアニズム(共同体主義)の対立の基本構図が生まれたという。

 本講義では、ロールズの正義論を契機に引き起こされた、「自由」の現代的な課題をめぐる一連の議論を「リベラリズム」と呼び、従来的な意味での「自由主義」一般とは一応区別して表記することにする(24頁)。

 つまり、リベラリズムを、従来の「自由主義」と区別し、リベラリズムの現代性に焦点を当てるということである。

 リベラリズムは、多様に展開されていているが、それは、現代アメリカが抱えている根本的な課題を抱えていることを反映しているようである。氏は、この講義の狙いを、以下のように提起する。

 本講義では、こうしたアメリカにおける「リベラリズム」論議の変遷を、現実の政治・社会情勢の変化を背景としながら辿っていきたい。マルクス主義のような“反自由主義”的な思想がなかなか定着せず、諸個人の「自由」(「自己決定」→「自己責任」)が空気のような自明の事実になっていたはずのアメリカにおいて、「自由」の意味を厳密に定義し直して、それに基づいて理想的な社会制度を構想しようとする「リベラリズム」の議論が盛んになった理由を総合的に考えることで、戦後日本のあり方を様々な面で規定してきた「アメリカ」が現在抱える思想的課題を明らかにしたい。(27頁)

 ここで、仲正氏が、マルクス主義を当然のように“反自由主義”に分類しているのは、失礼ながら、物事を考え抜く力が、氏にどれほどあるのかという疑問を感じさせるものだが、現代の「リベラリズム」の様相が、時代や社会の有り様を写しているという氏の指摘は、そのとおりだと思う。その場合に、氏が言うアメリカ的な「自由」とは、「諸個人の「自由」(「自己決定」→「自己責任」)」ということであって、それが「空気のような自明の事実になっていたはずのアメリカにおいて、「自由」の意味を厳密に定義し直して、それに基づいて理想的な社会制度を構想しようとする「リベラリズム」の議論が盛んになった理由」を考え抜いていけば、そこに、現代日本の状況を解明する何らかの手がかりが見えるかもしれない。

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アメリカ現代思想理解のために(5)

 仲正氏は、哲学・思想のグローバリゼーションの経路として、まず「第一の経路」アメリカ版ポストモダン思想をあげる。

 フランスを中心に流行したポストモダン思想は、狭義の哲学だけでなく、文化人類学、精神分析、記号学、文芸批評、社会学、歴史学などの人文科学の諸領域を横断して、近代合理主義的な「知」を組み替えることを目指す包括的な思想運動であったが、その内の特に文芸批評部門が七〇年代からアメリカで積極的に受容され、パースの記号学などとも結び付きながら、独自の発展を遂げるようになった。中心になったのは、ベルギー出身でフランスやドイツの哲学の動向に詳しいポール・ド・マン(1919―83)や、ジャック・デリダ(1930―2004)の「脱構築」の文芸批評への応用を試みたヒリス・ミラーやジョナサン・カラー(1944―)などである。

 このようなポストモダン思想は、70年代後半頃から、男性中心主義の原理に支配される近代的核家族制の解体を標榜するラディカル・フェミニズムや、非西欧世界に対する西欧の文化的支配や抑圧を告発するポストコロニアル・スタディーズなどと結び付き、「差異の政治」と呼ばれる、マルクス主義ともプラグマティズムなどのリベラル左派とも異なる新しいタイプの左派思想を形成するようになった。近代のヒューマニズムが「人間」の普遍性を前提として、万人に平等な人権を保障することを目指したののに対し、むしろジェンダーや文化に根ざした「差異」を強調することで、各人を西欧近代の同化圧力から解放することを目指すという意味合いで、「差異の政治」と呼ばれたわけである。(20頁)

 ここで、「差異の政治」が、西欧近代のヒューマニズムへの同化を、一つの圧力、強制と捉えているということが重要である。人間の普遍性がスタティックな同型的人間類型として作られ、それに付与される。それが、人間性の基本的な基準とされ、それによって、人々が分類・整理され、選別・排除・差別される。そのような人間図式が、人々に強制される。ステレオタイプな人間像が、イデオロギーとして普遍的と称して押しつけられる。そこには、生き生きとした弁証法的な、発展し、生命力のある、変化する運動がなく、例えば、功利主義的な人間像・人間観・人間類型といったものが、学問の内でも構成され、そしてそれが一つの人間の普遍性として強制されていく。そうしたものとしての人間に与えられる人権は、一つのドグマ的なイデオロギーにすぎない。もちろん、だからといって、歴史的で相対的でもあるような人権概念を否定するものではない。

 こうして、「植民地化された国の女性たちの二重、三重に言葉を奪われた状態(=サバルタン[被従属民]状態)を物語論的にテーマ化した、インド出身のガヤトリ・スピヴァク(1942―)、文化的表象によってジェンダー的アイデンティティが固定化されていく仕組みと、それが表象への政治的な介入、身体パフォーマンスなどを通じて組み替えられていく可能性を論じたジュディス・バトラー(1956―)、西洋人による「オリエント」という表象の恣意性を明らかにしたエドワード・サイード(1935―2003)など」(同)が代表的な「差異の政治」の思想家である。

 氏があげる第二の経路は、分析哲学の潮流である。

 二〇世紀前半にオーストリアのウィーンを中心に発展した、哲学の経験科学化を目指した論理実証主義(ウィーン学団)や、ドイツのゴットロープ・フレーゲ(1848―1925)とイギリスのバートランド・ラッセル(1872―1970)によって開拓された記号論理学、オーストリア出身でイギリスのケンブリッジを中心に活動したルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889―1951)の言語分析などを総合的に継承する「分析哲学analytic philosophy」と称される潮流のアメリカでの定着と飛躍的な発展である。(同)

 仲正氏によれば、「現象学に至るまでの西欧近代哲学が、「私の内面」において成立する「認識」に焦点を当てていたのに対し、この潮流は、“我々”が使用している言語や概念の批判的な分析に焦点を当て、正しい分析を通して各種の哲学的問題に明確な回答を与えることを試みたところから、「分析(的)」と呼ばれている」(同)という。

 ここで、現象学に至るまでの西欧近代哲学が、“我”という一人称単数の「内面」において成立する「認識」、つまり、「我思うゆえに我あり」のデカルト的認識論に焦点を当てていたのにたいして、分析哲学が、一人称複数の“我々”が使用している言語や概念を批判的に分析するということ、つまり、社会的領域の分析に踏み込む哲学だという点に注意しなければならない。「私の内面」において成立する「認識」は、他がなくとも、単独で成立する認識であるかのように思わせるが、そもそも、それは認識できないのである。それについては、ウィトゲンシュタインが、『論理哲学論考』で、独我論を批判して、それは言うことができないという形で片づけている。すでに、ニーチェは、デカルトの「我思うゆえに我あり」を批判して、「思うが、我を生み出すのだ」と述べている。

 ドイツ観念論、実存主義、構造主義と対比した分析哲学の大まかな特徴を、氏は、4点あげる。

  1. 解決すべき問題を明確でコンパクトな形で定式化する
  2. 文学的・多義的な概念や文、言説は排除する
  3. 論証の過程で用いる概念、記号、命題、文を厳格に定義し、曖昧な解釈が入り込まないようにする
  4. 数学や自然科学のような、厳密な意味で論理的に首尾一貫性がある体系を構築することを目指す

 アメリカでの分析哲学は、ナチスから逃れて移住したルドルフ・カルナップ(1891―1970)、不完全性定理で有名クルト・ゲーデル(1906―83)、アルフレッド・タルスキー(1901―83)などの移住などで潮流が形成されていったという。

 60年代に入る頃から、W・V・O・クワイン(1908―2000)に代表されるプラグマティズムを分析哲学に取り入れた「ネオ・プラグマティズム」という新潮流が生まれたという。ドナルド・ディヴィドソン(1917―2003)、ヒラリー・パトナム(1926―)などがいるという。

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アメリカ現代思想理解のために(4)

 次に仲正氏は、「日本におけるプラグマティズム受容」として、1888年に、デューイの心理学についての論文が日本で出ているという。西田幾多郎の『善の研究』(1911年)で、ジェイムズの「純粋経験」概念に注目していることを指摘する。夏目漱石、大杉栄も影響を受けているという。大杉栄は、「労働運動とプラグマティズム」(1905年)で、「「行為(のもたらす帰結)を基準に物事を見ようとするプラグマティズムの精神を、これからの労働運動の戦略に応用することを模索している」(15頁)という。戦後、本格的にプラグマティズムを日本に導入したのは、鶴見俊輔であるという。

 鶴見は、自由で自立した市民から成る「市民社会」を日本に定着させることを目指して、丸山真男(1914―96)らとともに雑誌『思想の科学』(1946―96)を創刊した、左派的な知識人であるが、敗戦後の日本で急速に影響力を拡大していたマルクス主義とは一線を画した。(15~6頁)

 60年安保闘争に参加した清水幾多郎も、プラグマティズムを紹介しているという。

 日本や西ヨーロッパ諸国では、プラグマティズムへの評価は変わっていないが、1980年代から90年代初頭にかけて、アメリカ発の哲学が、西欧諸国で急速に勢いを増したという。それは、フランスの構造主義やポスト構造主義をあっという間に凌駕したという。それは日本にも及んできたという。

 氏は次に、その原因を説明する。それには三つの経路があったという。第一の経路は、「アメリカ版ポストモダン思想」、第二の経路は、「分析哲学の潮流」、第三の経路が、「リベラリズムをめぐる議論」、である。

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アメリカ現代思想理解のために(3)

 続いて、仲正氏は、プラグマティズムとマルクス主義を比較対照する。

 その前に、プラグマティズムの特徴を、「現実の社会生活から身を引いて、永遠不動の普遍的な真理に対応する厳密な論理によって貫かれる概念体系を構築することを使命としてきた伝統的な哲学」(13頁)の対極に位置づける。ここでは、哲学の規定というよりも、哲学についてのイメージを、プラグマティズムに対置している。これは入門書だからなのか、それとも本当に氏がこういう哲学認識を持っているのかどうかはわからない。けれども、プラトンの対話編を読んでみれば、こういうイメージとは違ったものがそこにあることは誰にでもわかる。

 今度は、氏は、反哲学的な哲学としての姿勢や理論(認識)と実践(行為)の関係を重視するという意味では、マルクス主義と似ているところもあるという。そして、氏は、マルクス主義にも、物質的現実あるいは実践認識にフィードバックすることを強調する「反映論」と呼ばれる認識論がある」という。ある種聞き飽きたようなドグマ的なマルクス主義認識論であるが、いわゆるスターリン主義的マルクス主義の中で言われてきたことである。

 ただし、「反映論」を取る通常のマルクス主義が「物質」の絶対的実在性を主張し、主体の意識の中で成立する「認識」は、物質的現実を反映=反省(reflect)するものであると見なすのに対(13頁)し、プラグマティズムは「精神」と「物質」のいずれにも絶対的リアリティを付与せず、「物質」や「精神」のような基本的なものを含めて、全ての概念を仮説的、暫定的なものと見なす(13~14頁)。

 これは、伝統的な哲学とも、「物質」の運動の絶対的客観性に対応する不動の“真理”を追求しようとするマルクス主義者とも相性が悪い」という。このマルクス主義についての記述は、意味がわかりにくい。絶対的客観性に対応する不動の真理とはなんだろう? 少なくとも、弁証法家たるマルクス主義者の場合には、不動の真理などということを言わない。ヘーゲルを読んだ人なら、あるいはそのノートであるレーニンの『哲学ノート』を読めば、そこには、真理とは過程であるとかいうことが書かれている。仲正氏が指摘するプラグマティズムと相性が悪いマルクス主義者は具体的にはどういう人なのだろうか? それが、わからない。これでは、なんともこの部分を具体的に検証しようもないし、理解しようもないではないか。

 そして、今度は、氏は、デューイを各個人の政治プロセスへの主体的参加を促進することを目指す「進歩派」―西ヨーロッパ式に言うと「リベラル左派」―の知識人である」と規定した上で、「しかし、彼の代表する「プラグマティズム」は、ラディカルな「革命」を志向するマルクス主義者たちからは、相対主義もしくは日和見主義と見なされ、非難されることが多い」という。「絶対的な“真理”に対応した“理想”を措定せず、「行為の結果」をみながらやり方を変えていくというデューイの漸進的改良主義は、(アメリカ的な)資本主義社会との妥協に見えてしまうわけである。デューイはもともと共産主義社会の再建とか私有財産制の廃止に相当するような、ユートピア的な究極の目標設定をしないので、マルクス主義者と意見が合わないのは当然である」(同)。

 ここでも、功利主義的な発想が、マルクス主義に対置させられている。だから、ここでも言わねばならないのだが、誰にとっての「行為の結果」の価値判断をするのかがわからない。マルクス主義は絶対的な真理に対応した理想を措定するというのだが、それと、「実践の結果」をみながらやり方を変えていく漸進的改良主義がどうして根本的に違うのだろうか? つまり、どういうマルクス主義者が、改良を否定したというのだろう? 改良は、結果の是正という改良の方法ということばかりではなく、誰のためのという点、何のための、ということがあって、それで、その目的に合わせて改良していくのが一般的である。改良そのものが自己目的ということは不条理であり、なんらかの理想に向かって、それに近づくために、改良を続けるわけである。

 しかし、デューイは、「ユートピア的な究極の目標設定をしない」という。しかし例えば、私有財産制の廃止は「ユートピア的な究極の目標設定」だろうか? 法律は、共有制の様々な形態を規定しているのではないか? 例えば、協同組合法、株式会社、マンションなどの集合住宅の共有部分に関する規定、道路などの公共設備についての規定等々。これらは現存している。そこから、私有財産制の廃止の目標を設定することは、そんなにユートピア的か? そうではない。むしろ、そうした現実を無視するか、現存のものを絶対的な不動のものと見なして、それを変更するには漸進的改良しかないと断定することこそ、絶対主義的であろう。

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アメリカ現代思想理解のために(2)

  仲正氏は、19世紀後半に登場した「アメリカの哲学としてのプラブマティズム」を基本に、ヨーロッパのアメリカ哲学感が生まれたのだと言う。

 「プラブマティズムpragmatism」あるいはその形容詞形である「プラグマティカルpragmatical」はもともと、パースが、我々が対象を認識する過程に現れてくる様々な「概念」を分類し、はっきりと定義するため、科学実験の方法を応用することを試みる文脈で用いた言葉である。「概念」それ自体の真理性ではなく、我々がその概念を用いて行為した場合、我々とその対象との関係にどのような“実践的”な影響が生じるかを重視するという意味合いが込められていた。〈pragma〉というのは、「行為」あるいは「行為の結果」を意味するギリシア語である。(12頁)

 ここで、はっきりと明らかなのは、バースが、一方で、対象を認識する方法として、科学実験の方法を応用しようとしたということであり、これは、すでにアメリカ史で見たように、南北戦争で、工業資本家・都市の利害を代表する北部が勝利した後の、資本主義経済の大発展の中で、次々と行われた技術革新・発明、それを応用・利用した重化学工業の発達、等々の産業発展の時代状況と関連がある。

 次に、「「概念」それ自体の真理性」を重視しないで、「我々がその概念を用いて行為した場合、我々とその対象との関係にどのような“実践的”な影響が生じるかを重視するという意味合いが込められていた」というように、功利主義・効用主義の哲学化であったということである。これは、かつて鄧小平が、「白猫でも黒猫でも、ネズミを捕る猫は良い猫だ」と言ったあの有名な言葉と同じである。猫が白いか黒いかは、その概念の真理性を示すが、それよりも、猫がネズミを捕るかどうかという「実践的」な影響、効果、つまりは、効用が重要だというのである。この場合の「実践的」が、誰にとっての効用かが問題になる。誰にとって、あるいは何にとって、「実践的」であるか、あるいは効用があるか、が問題である。しかし、仲正氏は、バースはそういう意味で、プラグマティズムを言ったわけではないと言う。

 当初は、この言葉からすぐに連想される[プラグマティカル≒プラクティカル(実用的、実務的、実践的)]というニュアンスは必ずしも含まれていなかった――細かい話になるが、パース自身は〈practical〉を、カント哲学で言うところの「実践理性」に根ざした絶対的格率に従う「行為」に対応させ、自らの使う〈pragmatical〉を、暫定的な仮説や条件に依拠する、絶対性を志向しない「行為」に対応させている(同)。

 ところが、「当初は限定的な意味しかなかった「プラグマティズム」がジェイムズによって、哲学する基本的姿勢や、真理観・世界観に関わる言葉として拡大した意味で使われ、アメリカの内外で流通していく内に、ヨーロッパの伝統的なスタイルの哲学とは一線を画し、予め設定された既成概念抜きに、人間の現実の「経験」に即して思考しようとする“アメリカ的な哲学”の流儀も指示するようになった」(同)。つまり、プラグマティズムは、イギリス経験主義の流れを基本的に継承するものになったというわけである。パースとデューイの違いについては、興味のあるところだが、細かい話になってしまうので、ここでは両者に違いがあるということを確認しておくだけにとどめる。

 仲正氏は、哲学の教科書の類でもそうであるからということで、一般的な「プラグマティズム」の基準をデューイに置いている。氏は、プラグマティズムの特徴を3点にまとめている。

  1. 概念を目の前の現象を解明するための暫定的な道具にすぎないと見なす
  2. 判断や理論の真偽の基準を現象を説明するうえでの有用性や機能性に求める
  3. 理論と実践は常に相互作用しながら不可分一体の関係にあると見なし、理論/実践の間の対立を認めない
 

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アメリカ現代思想理解のために(1)

 アメリカの現代思想を知るため、適当な入門書として、仲正昌樹金沢大法学類教授の『集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険』(2008年9月25日、NHKブックス)を見ていくことにする。

 まず、仲正氏は、「序●アメリカ発、思想のグローバリゼーション」において、「アメリカの思想」の一般的イメージについて書いている。

 氏が大学に入った1981年頃、氏が言うように、アメリカの哲学や思想は、学問領域ではマイナーであって、「高校の「倫理社会」(現在では「倫理」の教科書にも出てくる、チャールズ・サンダース・パース(1939―1952)、ウィリアム・ジェイムズ(1842―1910)、ジョン・デューイ(1859―1952)のプラグマティズム三羽烏が「アメリカの哲学者」としてもうしわけ程度に紹介されるくらいだった」(10頁)のは確かである。

 それにたいして、「戦後日本でアメリカのライフスタイルやポップ・カルチャーの影響が圧倒的に強くなり、政治学、経済学、社会学、教育学、人類学、心理学などの文系の学問諸分野でもアメリカ流が圧倒的に強くなっていった」(同)。

 現象としてみれば、仲正氏の言うとおりなのだけれども、ただ、内容としてみた場合には、必ずしもそうではないと思う。でも、流行思想として、アメリカ優位に変化してきたというのも事実である。それには、アメリカの社会的歴史的事情があると仲正氏は言う。そのへんのところについて、氏は、フランスの歴史学者・政治家アレクシス・ド・トクヴィル(1805―59)の『アメリカの民主政治』(1840年)から、引用している。「文明世界のうちで、アメリカ連邦におけるほどに、哲学が人々の心を少ししか占めていない国は外にはないのである。/アメリカ人は、彼等に特有な哲学派というものをもっていない。そして彼等はヨーロッパで分裂し対立しているすべての哲学的諸派については殆ど無関心であり、それら諸派の名称をも殆ど知ってはいない」(井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治(下)』講談社学術文庫、1987年、21頁)」。

 こうしたトクヴィルの見方は、「ソクラテス=プラトン以来の二千数百年の伝統を誇るヨーロッパ哲学が人間にとって最も“本質的なもの”を探求してきたと信じる哲学愛好者たちにとっては、アメリカ人の“非哲学性”は、物事を深く掘り下げて考えようとしない浅薄さに見えてしまうわけである」(同)と氏は述べている。

 しかし、ヨーロッパ哲学とて、その社会性、歴史性、現実性から切り離されてしまっては、形而上学、衒学に陥るのであり、他方では、そこからの回帰ということが繰り返し試みられているのである。例えば、アダム・スミスは経済学者ということになっているが、彼はもともと『道徳感情論』を著したように、政治学・人間学・哲学・心理学・倫理学等々の総合的学問分野の一部としての経済学を研究したのである。これらの諸分野が明確に分離し、それぞれが独立していくのは、その後のことである。そうして、それぞれ専門分野として確立されていくのである。哲学はもともとそうしたものであって、特に、古代では、プラトンやアリストテレス、そして近代では、カントとヘーゲルが、総合学としての哲学に取り組んだ哲学者だったのである。そうしたヨーロッパ哲学の志向は、フッサールにもあった。フッサールは、学の学としての哲学の復興を目指していた。それは最晩年の『ヨーロッパ諸学問の危機と現象学』という講義録に示されている。

 ちなみに、加藤尚武さん(前ヘーゲル学会理事長)によれば、ヘーゲルは、ドイツで当時誰も相手にしなかったイギリスのアダム・スミスなどの経済学を熱心に読んだりして、社会性に目覚めた人だという。それは、例えば、『哲学ノート』で、レーニンが、ヘーゲルの大論理学について書いたノートで、ヘーゲルのあらゆるものが連関していると述べたようなことでもあろう。

 

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アメリカの現代政治思想を理解するための歴史的前置きとして

 ここまで、南北戦争前までのアメリカ史を簡単に見てきた。それは、アメリカにおける政治思想とくにリベラル思想を理解するのを助けるためである。

 オバマ大統領は、就任演説で、リベラルの源流を、アメリカ建国の理念、ことに、アメリカ合衆国憲法の修正条項10箇条「権利章典」に置いている。しかし、それは、今日の情況、政治を過去に投影して、過去を現代的に解釈し直した上で、そう述べていることに注意する必要がある。その過去認識は、現在を反映し、修正されたものである。オバマが、合衆国憲法の他の部分を取り上げなかったのは、そこには、彼の現在の政治思想と齟齬をきたすような部分、あるいは、それと関係のない、あるいは関係の薄い部分があるからである。そういう部分がどこかを知るために、彼が示した過去の歴史について知る必要があるのである。そして、それは、現代アメリカの政治思想の中で、オバマがどういう立場を採用しているかも示している。それを明らかにすることが彼の政治を理解するために必要なことの一つである。

 この課題のためには、もちろん、現在までの歴史を簡単にでも知る必要がある。そのために、まず、源流部分を確認した。その意味では、本当は、南北戦争は重要な事件である。それについては、南北戦争が勃発した1861年以降、カール・マルクスが、アメリカのニューヨークで発行されていた『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』やイギリスのロンドンで発行されていた『ディー・ブッセ』に数多くの記事を書いていて、それには、興味深い点があるので、それは、それとして検討していくこととしたい。

 ただ、南北戦争が、アメリカの政治思想やリベラリズムにとって大きな意味を持つのは、言うまでもなく、奴隷制度の廃止ということであることはおさえておく必要がある。そして、北部の工業ブルジョアジーが、南部の大農園主階級を打倒し勝利したことにより、前者の利害による保護貿易主義が政治的に勝利し、産業発展が急速に進むようになったということである。これ以後、大西洋横断鉄道が建設され、それによる西部開拓時代が本格化する。鉄道は、物流・人の往来を活発化し流通を促進するだけではなく、車両やレールや鉄橋など用の鉄の生産のための重工業の発展を促す。物や人や文化の交通の活発化は、孤立した各地の人々を結びつけ、生活様式や文化などを融合させる。こうして生まれた人々の結びつき、関係の変化などを反映した新しい政治や社会制度や諸思想が生まれる。技術や産業の発展を賛美する思想が起こる。それに対して反発する思想が起こる。政治は、そうした思想とも結びつき、また人々の利害を反映し、総括し、代表するものとなる。そういう大変化が起きたのは、南北戦争によってもたらされたものである。

 その後の、重化学工業化、帝国主義化、独占資本主義化、二度の世界戦争は、アメリカの政治思想やリベラリズムにも大きな影響を与えた。

 アメリカ独立戦争の頃のアメリカの政治思想に大きな影響を与えたのは、イギリスのロックなどの啓蒙思想であった。そして、共和主義、連合主義、などである。共和主義は、中央集権主義的であり、連合主義は分権主義的であった。そして、産業的には、前者は工業的であり、後者は農業的であった。当面、これくらいを確認しておけば十分であろう。

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アメリカ独立から南北戦争前まで

 アメリカ独立革命戦争の結果、

 イギリスは約8,000万ポンドを費やし、最終的な国の負債は2億5千万ポンドとなった。このための利息返済だけでも年間950万ポンドとなった。フランスは13億リーブル(約5,600万ポンド)を消費した。フランスの国の負債は1億8,700万ポンドとなり、1780年時点の歳入の半分以上が負債の返済に消えていった。この負債による危機のために政府は大衆の承認もなく税率を上げることができなくなり、フランス革命の大きな要因となっていった[21]。アメリカ合衆国は連邦で3,700万ドル、各邦の合計で1億1,400万ドルを使った。これはフランスやオランダからの借金、国民からの借金、および紙幣の多額の発行で補われた。アメリカは1790年代までかかって最終的に負債を解決した[22]。ウィキペディアより。

 1778年、フィラデルフィア憲法制定会議が開催され、9つの邦の批准をもって成立する憲法案が作成された。この案は、同年12月7日のデラウェアを最初に、1788年6月21日のニューハンプシャーで9つ目の批准を達成し、成立した。その後、1790年5月29日にロードアイアンドで批准され、旧13植民地すべてで批准される。この過程で、強力な中央集権制を主張する連邦派(フェデラリスト Federalist)と反連邦派(Anti-federalist、後民主共和党)との対立があった。憲法草案は、後に第4代大統領になるジェームズ・マディスンの手で書かれた。

 アメリカ独立革命戦争の過程が示したものをいくつか確認しておくと、少なくとも、①この過程で、アメリカの住民の間に、都市と農村、商工業と農業の対立が現れたこと、②それから、ネイティブ・アメリカンに対する野蛮なる差別的視点が現れたこと、つまり、民族的抑圧被抑圧関係がはっきりと現れたこと、第三に、独立戦争は、当時のヨーロッパ列強の植民地争奪戦の世界的な闘争・戦争の一部として戦われたこと、が言える。

 政治思想的には、大陸やイギリスで新たに台頭してきた中間階級の利害を代表する自然法思想、社会契約思想、啓蒙思想などの影響があった。その意味では、1789年のフランス革命の先駆けをなすものであり、大陸諸国でのブルジョア革命の前衛的な存在となったと言えよう。

 合衆国憲法には、1789年のトーマス・ジェファーソンや反連邦派によって、12項目の修正条項が提出され、そのうち10項目の修正条項が加えられた。1791年までに規定の批准数を超えたため、成立した。この10ヵ条が「権利章典」と呼ばれている。

 アメリカ合衆国憲法については、改めて取り上げることとするが、ここでは、この憲法の特質として、もともとアメリカの法は、イギリス的な慣習法を基礎としているということが前提であること、憲法は各州毎に定められていること、連邦憲法は、原文に対して、修正条項が書き加えられていくという形で修正され、それも規定数の州の批准が成立の条件であること、現在も批准されていない項目があって、条文はあっても実施されていないものがあること、を確認しておくに止める。オバマが、権利の章典に言及したのは、リパブリカンの伝統の継承者に自分を位置づけたということもあろうし、公民権や差別の禁止については、修正条項にあるということもあるのだろう。

 しかし、イギリスで本格化する産業革命の波が、アメリカに波及し、急速な工業化が進む中で、主に南部で発展した綿花などの黒人奴隷労働に依拠するプランテーション農業と北部の間の対立が深まっていく。南部のプランテーションが栽培する綿花は、イギリスで起こった工場制繊維業の原料としてイギリスへの輸出用として栽培され、それが大きくなっていくからである。北部の工業家たちにとって、イギリスの工業は競争相手であり、南部がイギリス市場に依存を深めていくことは、望ましいことではなかった。アメリカの産業発展の中で、この南北対立は深刻なものになっていく。そして、ついに南北戦争という内戦(civil war)になる。

 カール・マルクスは、イギリスのロンドンで、この南北戦争を注意深く観察し、それについての論評を、アメリカの『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』という新聞に書き送り続けていた。マルクスは、アメリカの人々に、イギリスが中立を装いながら、実際には、南部を支持・支援していることを曝露した上に、北部を支持するイギリス労働者の政治行動に参加して、その情報を知らせている。

 1803年、第3代大統領トーマス・ジェファーソンは、ナポレオン・ボナパルト治下のフランスから、ミシシッピ川以西のルイジアナを買収した。その数週間後、イギリスとフランスの間に戦争が起こる。1805年、トラファルガーの開戦でフランスが敗北、イギリスはアメリカに対して、海上封鎖を行った。1812年、米英戦争が勃発した。この戦争で大陸との交通が途絶えたため、保護関税によって国内産業を保護するようになり、さらには、中南米諸国で独立の動きが活発化する。1823年、モンロー大統領は、モンロー宣言を発表し、アメリカは孤立主義を取ることになる。

 1830年代、ジャクソン大統領の時代に、アメリカの産業革命が本格化した。この時代に、ジャクソン派が民主党を結成し、反ジャクソン派がホイッグ党、後の共和党を結成した。

 以後、西部・南部への進出、北部での産業革命、重化学工業の発展、西部開拓、メキシコからのフロリダ買収、テキサスニューメキシコやカリフォルニアの獲得、メキシコとの戦争、ゴールドラッシュ、そして、工業で競争関係に立つ北部は、国内産業の保護、保護貿易を求め、綿花輸出に頼っていた南部は、自由貿易と関税撤廃を求めるようになる。

 北部での工業発展のため、労働者不足が生じたため、黒人奴隷を解放して、労働者として雇うようになった。1854年、北部の利害を代表する共和党が誕生する。1860年、共和党の大統領エブラハム・リンカーンが誕生する。そして、それに対抗する南部連合が結成される。そして、1861年南北戦争が勃発する。

 

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アメリカ独立革命小史

 

 まず、アメリカ独立革命に至る過程を見ておこう。

 北米大陸の人間の歴史は、言うまでもなく、もともとは、今ネイティブ・アメリカンと呼ばれるようになったインディオから始まる。この人たちは、氷河時代に、ユーラシア大陸と北米大陸がつながっていた時代に、ユーラシア大陸から移動してきたモンゴロイドとされている。これにも最近は別説があるようである。

 北米では、8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化の存在が近年の発掘で確認されている。

 1000年頃、北欧のノルマン人が北米大陸に到達していたようだが、定住はしなかった。

 1492年のコロンブスによる西インド諸島への到達以後、北米大陸は、イギリス、フランス、スペインによって、植民地化されていく。今のアメリカ合衆国では、南部のフロリダなどがスペイン、ミシシッピ川以東のルイジアナがフランス、東海岸の13植民地がイギリスである。今のカナダは、フランスとイギリスである。これら諸国は、北米大陸の分割をめぐって戦争をくり返していた。

 大陸で宗教戦争が起こると、カトリックに迫害されたピューリタン(清教徒)による1620年の移民(メイフラワー号)をはじめ、旧大陸からの新教徒の移民が増えた。

 当初、イギリスは、北米植民地に対しては無関心で、税金も課さず、放置していた。そこで、植民地住民は、自発的に議会を作り、民兵を組織して、自治を行っていた。1619年にはヴァージニア議会が誕生した。

 北部では工業と自営農業が発展し、南部では、砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどの農作物を奴隷貿易で連れてきた黒人奴隷を使って栽培するプランテーション農業が発展した。

 フレンチ・インディアン戦争(1754―1763)で勝利したイギリスは財政危機に陥った。そこで、イギリス政府は、この戦争で得たミシシッピ川以東のルイジアナを王の直轄地として植民地住民を締め出した。そして、その維持のためにイギリス軍常駐の費用を北米植民地に課そうとする。それをめぐって、北米植民地とイギリスの間の対立が激化していくのである。

 そのため、1764年に砂糖法、1765年には印紙法と、イギリス本国政府は、アメリカ植民地に対する新たな課税を行って、その脱出をはかろうとしたが、アメリカでの反対運動によって、撤廃される。1767年、イギリス本国議会がタウンゼンド諸法によって新たな植民地課税に乗り出すと、またも反対運動が盛り上がり、1770年、タウンゼンド関税も撤廃となった。だが、このとき茶に対する税が残される。1773年の茶法によって東インド会社の茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月、入港した船の茶を暴徒が港に投棄するというボストン茶会事件に発展した。

 それに対して、イギリス議会は、懲罰的な立法を次々と行った。それに対する対策のために、第1回大陸会議が、北アメリカ13植民地中、12植民地の議会代表が、1774年9月5日から10月26日の間、フィラデルフィアのカーペーンターズ・ホールに集って、開催された。
ペイトン・ランドルフが進行役、ヘンリー・ミドルトンが10月22日から議長を務めた。会議では、10月20日に、イギリス議会の懲罰立法が撤回されなければ、英国製品のボイコットと輸出停止をする盟約が盛り込まれ、1775年5月10日から第2回大陸会議を開催することが決定され、12植民地に加えて、ケベック、プリンス・エドワード島、ノヴァ・スコシア、ジョージア、東フロリダ、西フロリダに招待状が発せられた。

 イギリスでは、1690年にロックの『市民政府論』が刊行されていた。フランスは、「百科全書」派などの啓蒙思想家が輩出した後で、近代ブルジョア革命への思想的準備がなされ、ヨーロッパの多くの王国で、封建制からの脱却を計ろうとする啓蒙専制君主が生まれていた。アメリカが独立した1786年に、イギリスでは、アダム・スミスの『国富論』が出ている。アメリカの独立からまもない1789年には、フランス革命が起きる。アメリカ独立戦争は、フランスの支持・支援を受けて闘われた。その後、イギリスで産業革命が始まる。

 イギリスとフランスの対立は、ヨーロッパ、インド、アメリカと、植民地での戦争として戦われた。イギリスは、アメリカでは独立を許して、敗北したが、インドでは、フランスとの戦争に勝利して、インドでの覇権を確立した。独立戦争に際して、独立派の側を支持支援したのは、フランス以外に、オランダ、スペイン、ロシアなどである。この時代は、世界同時戦争の時代であった。アメリカ独立は、そういう世界的な列強間の、直接的戦争や植民地での戦争と結びつく中で勝ち取られたものであった。

 したがって、米仏の戦争は、北アメリカでは、独立派に対して、土地を追い出され抑圧されたネイティブ・アメリカンたちにとっては、イギリス側で戦うことが、かれらの解放戦争になったのである。多くのインディオ部族は、イギリス側についた。それにたいして、「独立宣言」は、「国王はアメリカで内乱が起こるように扇動し、辺境の地に住む人々や残酷な野蛮人のインディアンを育成しようとしてきた。彼らのよく知られた戦いの掟は、年齢や性別や状態に関わらず無差別に殺すというものである」として、国王の専制の例としてインディオの自分たちへの反乱を捉えている。自分たちを、先住民の土地を奪い、抑圧・収奪した加害者だとはまったく思っていないのである。自分たちを、専制の被害者としてのみ捉えているのだ。その後、北米でインディオたちが、この連中にどんな酷い目にあったかは、歴史的に明らかにされている。

 第2回大陸会議では、独立後初代大統領となるジョージ・ワシントンを最高司令官とする正規軍の創設とその下での民兵に対する訓練が決定された。民兵は数は多かったが、訓練や装備その他で、イギリス軍に劣っていた。それにも関わらず、イギリス軍に勝利できたのは、一つには、フランスの支援があったこと、それから、イギリスとの間に大西洋が横たわっていて、イギリス軍の兵站に弱点があったこと、そして、平行して、ヨーロッパでイギリスの関わる戦争があったこと、などの要因があった。

 アメリカの独立は、主に北部の主導によって行われた。北部の工業・商業、自営農民の力である。南部の発展はまだである。イギリス出身のパンフレット作家でジャーナリストのトマス・ペインの『コモン・センス』が、1776年1月10日、フィラデルフィアで発行され、1年で約15万部が売れる大ベストセラーになったり、印刷業者で出版者でもありジャーナリストでもあったベンジャミン・フランクリンらが、まずは独立革命のイデオローグとして登場し、活躍する。かれらは同時に、発明家でもあった。それから、第2代大統領になるジョン・アダムスは、弁護士であった。初代大統領ジョージ・ワシントンは農場主であったが、北部の商工業の利害を代表するフェデラリストの支持を受けた。それに対して、第三代大統領になるトーマス・ジェファーソンは大農場主で、農民的利害を代表し、連邦主義的なレパブリカンの創設者となる。

 1790年代に、トーマス・ジェファーソンらは、民主共和党、別名レパブリカン党、ジェファーソン・リパブリカンを結成した。

 それと対立したのが、連邦党(フェデラリスト)は、である。1789年に初代財務長官になったアレクザンダー・ハミルトンを中心として結成されたアメリカ合衆国成立初期の政党である。ウィキペディアによると、フェデラリストに支持された初代大統領・ジョージ・ワシントンは、「我々には政党はいらない。なぜなら、我々は全て共和主義者(フェデラリスト)だからだ」と述べたという。

 ウィキペディアによると、

 フェデラリストは主として商人・製造業者・政府債権所有者、相当の財産をもった人々、東部沿岸の都市や人口の多い地区を支持基盤としていた。フェデラリストは、一連の経済政策・外交政策を実施したが、それらは次のように要約できる。

   1.  各州の独立革命時代の債務肩代わりと公債制度の確立
   2.  合衆国銀行の設立
   3.  州紙幣の発行停止と連邦政府による健全通貨
   4.  アメリカ海運業の優遇と保護関税
   5.  フランス革命に伴う戦争では、フランスに対抗しイギリスと融和すること

 このうち、1の政策は少数の投機業者に債券の利子を払うために、大多数の債権を持っていない農民に重税をかける結果となる。これは全般の不満を引き起こし、民主共和党の1800年の勝利(ジェファーソンの大統領就任)を引き起こした。2と3の政策は連邦政府の財政面の強化をねらったもの。4と5は主にハミルトンが追求した政策といえよう。

 フェデラリストは当時から自営農民と大地主の犠牲において、都市商工業者の利益をはかったと見なされていた。一方、彼らは連邦共和国が自立する前に民衆の自然発生的な反抗によって転覆されることを警戒した独立革命の右派である、とする見解も否定しがたい。フェデラリストはジョン・アダムズ、ジェームズ・マディスンなどの政治家・識者を擁し、その後の政争に大きな役割を果たし、後のホイッグ党とともにアメリカ共和党の源流となった。

 つまり、独立革命の時点で、すでに、商工業と農業、都市と農村の対立が現れていたのである。それは、初代・第2代大統領がフェデラリスト、第3代・第4代大統領がリパブリカンという形で、後の民主・共和の二大政党制の先駈けとなったと言えるものである。それは、もちろん、後に南北戦争という形でも現れる。ただ、当時は、製造業といっても、まだイギリスでの産業革命が本格化する前で、職人的な業者であり、農民も家族経営で自給自足的な自営農が主である。その後本格化する北部の工業化の過程で誕生するアメリカの労働運動は、熟練工のクラフト・ユニオンの形を取り、フェデラリスト的な政治傾向を持つようになるのは、こういうことが大きいのである。他方で、リパブリカンは、南部では、奴隷労働に依拠するプランテーション経営の大地主層の利害を代表するようになる。南北戦争では、北部の産業の利害を代表して奴隷解放宣言をしたリンカーンは、共和党であり、奴隷制を維持しようとした南部のプランテーション経営層は、南部民主党に結集して戦ったのである。

 脱線した。脱線ついでに、オバマ大統領が就任演説で、ジェファーソンを自らの政治的起源と見なしているのは、民主党の起源であるリパブリカンの創始者だからだろう。だが、民主党は、南北戦争では、黒人奴隷の解放に反対したことを指摘しておく。彼は、就任演説で、アメリカの建国を神話的に語ったのであって、簡単に独立革命の歴史を見ただけでも、事はそう単純ではないことがわかる。NB! NB!

 

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オバマ大統領就任演説と「独立宣言」

 2009年1月20日、アメリカの第44代大統領に、黒人のオバマが就任した。

 オバマは、就任演説で、宗教的多様性、民族・人種・文化の多様性を、アメリカ建国の理念における自由主義的伝統の力に基礎づけられているというようなことを述べた。

 ヨーロッパ大陸での宗教的迫害を逃れてきたキリスト教の新宗派の移民共同体から始まったアメリカの移民の歴史は、大英帝国の植民地建設の歴史でもあった。しかし、移民たちは、旧帝国で、カトリックとプロテスタントの折衷として創作されたイギリス国教会が支配する大英帝国による植民地統治と収奪に対して、抵抗を始める。そして、フランスの支持と支援を受けながら、大英帝国に対する独立革命戦争に立ち上がる。

 ウィキペディアによると、アメリカでは、この戦争を、The American Revolution(アメリカ独立革命)若しくはthe Revolutionary War(革命戦争)と呼び、イギリスでは、American War of Independence(アメリカ独立戦争)と呼んでいるという。アメリカ側から見れば、これは、革命もしくは革命戦争であり、イギリス側から見ると、植民地の宗主国からの独立戦争なわけである。アメリカ側は、革命、イギリス側は、戦争、である。

 オバマが就任演説で立ち戻ることを呼びかけた「アメリカ独立宣言」は、まず、独立の正当性を明らかにしなければならないと前置きして、自明のこととして、「すべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている、その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている。その権利を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる」と、自然権、社会契約思想を基本にすえている。

 続いて、「いかなる政府といえどもその目的に反するときには、その政府を変更したり、廃したりして、新しい政府を打ちたてる国民としての権利をもつ」として、革命権を認めている。

 革命権を軽々しく行使すべきではないと注意した上で、「アメリカ独立宣言」は、「権力の乱用や強奪が長くつづき、絶対専制支配の下に置こうとする意図が明らかで、その同じ目的をずっと追求しようとしているときには、そんな政府をなげすて、自分たちの将来の安全を新たに防護してくれる政府を求めるのが義務である」と革命権を再強調する。そして、独立革命を起こさざるを得なくなった宗主国イギリスが行った「権力の乱用や強奪」そして「絶対専制支配の下に置こうとする意図」を列挙する。そして、アメリカ合衆国の名で、独立を高らかに宣言している。

 オバマは就任演説で、始めの方で、「米国が前進し続けてきたのは、指導者たちの技量や洞察力のためだけではなく、「われら人民」が先人の理想と建国の文書に忠実であり続けたからでもあります」(在日米大使館HP)と述べている。建国の文書に、アメリカ合衆国憲法をも含めているのかどうか具体的にははっきりしないが、「先人の理想」の継承として、それを含めているのかもしれない。

 オバマは、「建国の父たちは、私たちが想像もできないような危険に直面しながら、法の支配と人権を保障する憲章を起草しました。そしてこの憲章は、その後いくつもの世代が血を流しながら拡充してきました」と言うが、就任演説の中に、「建国の父」が「独立宣言」に記した革命権という言葉がない。アメリカ建国の理念は、法の支配と人権の保障、信教の自由、などで、革命権が消えてしまっている。

 オバマが、合衆国憲法そのものというよりも、後に第3代大統領になるトーマス・ジェファソンが推進して合衆国憲法の修正条項として入れられた「権利章典」をとくに重視していることには、彼の政治的立場や思想を表しているように見える。

 しかし、憲法にもはっきりと記されている民兵の規定は、もともと、植民地時代に、正規軍を持たず、民兵しかなく、そして、独立革命戦争を、その民兵に依拠して戦った歴史に起源を持っており、西部邁流に言えば、アメリカが革命国家であることの歴史的証である。

 オバマが就任演説の中で、独立革命戦争、南北戦争、公民権運動などの革命的戦いに言及していること、そして、また、現在、そして、これから、そうした革命の伝統の継続、再戦闘を呼びかけていることは、アメリカという国や社会をしっかりと理解する必要を感じさせる。

 アメリカの歴史や社会や政治や思想や文化などについて、しっかりと見ていこうと思う。

プロジェクト杉田玄白HP「独立宣言の翻訳」
http://hw001.gate01.com/katokt/independence.htm

独立宣言

katokt訳 (katoukui@yahoo.co.jp)

(c) 2002 katokt プロジェクト杉田玄白正式参加作品 (http://www.genpaku.org/)
本翻訳は、この版権表示を残す限りにおいて、訳者および著者にたいして許可をとったり使用料を支払ったりすることいっさいなしに、商業利用を含むあらゆる形で自由に利用・複製が認められる。(「この版権表示を残す」んだから、「禁無断複製」とかいうのはダメだね、もちろん)

 人類の歴史のなかで、ある国民と他の国民を結びつけてきた政治的なつながりを解消し、世界の国々のなかで自然の法則と神の法則が与えてくれる、独立した対等な立場をとることが必要になる場合がある。その際に人類のいろいろな意見にきちんとした敬意をはらうには、分離へと駆りたてられる原因を述べなければならないだろう。

 われわれは、以下の事実を自明のことと考えている。つまりすべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている、その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている。その権利を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。そしていかなる政府といえどもその目的に反するときには、その政府を変更したり、廃したりして、新しい政府を打ちたてる国民としての権利をもつ。新しい政府は、国民の安全と幸福が最大となるような原則の基盤の上に打ちたてられ、また国民の安全と幸福が最大となるような形の権力の組織化を図らなければならない。実際には分別を働かせれば、長いあいだ確立されてきた政府は、軽々しい一時的な理由で取って代わられるべきではないということはわかるだろう。従って今までの経験では、人類は不満がある政府を廃止して誤りを正すよりは、その弊害が耐えられる限りは耐える傾向にあるのだ。しかし権力の乱用や強奪が長くつづき、絶対専制支配の下に置こうとする意図が明らかで、その同じ目的をずっと追求しようとしているときには、そんな政府をなげすて、自分たちの将来の安全を新たに防護してくれる政府を求めるのが義務である。これこそが、この植民地が耐えしのんできたことである。そしてこのような必要性に迫られて、現在の政府を変えなければならなくなったのだ。現在の英国国王による歴史は、傷つけ、奪ってきたことの繰り返しであり、その直接の目的は、これらの州への絶対専制を打ちたてることである。これを証明するために、偏見のない世界へ事実を知らせたい。

 国王は、もっとも健全かつ公共の福祉に必要な法律に異議をとなえてきた。

 国王は、自分が承認するまでその執行をさしとめなければ、緊急かつ差し迫った重要性をもつ法律を植民地の総督が通過するのを禁じた。さしとめておいて、法律に注意をはらわず完全に無視してきたのである。

 国王は、国民が立法府における代議権を放棄しなければ、その国民の広大な地域を調整する法律を通すことも拒否してきた。その権利は国民にとっては大事なものであり、専制君主のみにとって問題となるものである。

 国王は、国民が根負けし、自分の政策を守るようにする目的だけのために、いつもとは違った不便で公文書の保管場所からも離れたところで立法府を召集した。

 国王は、国民の権利を侵害するのに断固として反対したという理由で、下院を何回も解散してきた。

 国王は、解散の後で、立法府を廃止することはできないので、その行使を一般の人々に戻すことによって、選挙を行うことを長い間拒否してきた。合衆国はそのあいだ、外国の侵攻や国内の動乱の危険にさらされてきた。

 国王は、合衆国の人口の増加をなんとか押さえようとしてきた。そのために外国人の帰化の法律に反対し、合衆国への移民を奨励する法律が通過することを拒否し、新たに土地を取得する条件を厳しくした。

 国王は、司法権を確立する法律へ異議をとなえることで、司法の執行を妨害してきた。

 国王は、在職期間や給与の額や支払方法で、司法を自分の意のままになるようにしてきた。

 国王は、多くの官職を設け、多くの役人をわれわれ国民をこまらせるために派遣してきており、その財産を食いつぶしている。

 国王は、平時でさえ、立法府の同意なしにわれわれのところに軍隊を駐留させている。

 国王は、軍隊に文民統制から独立し、優越した力を与えるようにしてきた。

 国王は共謀して、憲法が及ばない、法律によっても認められないような司法権にわれわれを従わせるようにしてきた。そしてうわべだけの立法行為による、次のような法律に承諾を与えたのだ。

 大規模な軍隊がわれわれのところに駐留する法律

 州の住民に対して犯した殺人の罪から、模擬裁判で軍隊を保護する法律

 世界中とのすべての地域との貿易を遮断する法律

 われわれの同意なしに課税をする法律

 われわれから多くの事件において、陪審による裁判をうける利益を奪う法律

 みせかけの罪で裁判にかけるために、海を越えてわれわれを移動させる法律

 アメリカに隣接した地域でイギリスの法律が自由に執行されるのを廃し、そこに独裁的な政府を樹立し、その政府がこのアメリカの植民地にも同じような独裁制を導入しようとする例に、また格好の手段となるように、国境を拡大しようとする法律

 われわれの憲章を奪い、もっとも大事な法律を廃止し、根本から政府の形をかえる法律

 われわれアメリカの立法府の活動を一時停止させ、みずからが今後すべてのケースにおいて立法権をもつとした法律

 国王はアメリカが保護対象外だと宣言し、宣戦布告することでアメリカの統治を放棄した。

 国王はアメリカの海を略奪し、沿岸地域を荒し、町を焼き払い、多くのわれわれアメリカ国民を殺した。

 国王は、現在大規模な外人傭兵部隊を派遣し、死と破壊と暴政を全うしている。それらは、野蛮な時代の残虐さや裏切りにも匹敵するほどの状況の中で始まっていて、十分に文明化した国の指導者としてはふさわしくないことである。

 国王は、公海上で捕虜にしたアメリカ市民たちに武器をとって、アメリカと戦い友人や同朋の死刑執行人になるのか、自分で自分の命を絶つのかを強制してきた。

 国王はアメリカで内乱が起こるように扇動し、辺境の地に住む人々や残酷な野蛮人のインディアンを育成しようとしてきた。彼らのよく知られた戦いの掟は、年齢や性別や状態に関わらず無差別に殺すというものである。

 このような圧制のあらゆる段階で、われわれはできる限り丁寧な言葉で、それらが取消されることを嘆願してきた。われわれがくりかえし嘆願してきたことは、ただくりかえし傷つけられることでしか報いられなかった。専制者であるかのような全ての行為により、その性格が特徴づけられる国王は、自由な人々の統治者としてはふさわしくない。

 われわれは同胞のイギリス国民が注意をはらってくれることを望んでいるだけではなく、イギリスの立法府がわれわれに不当な司法権をかざそうとするのを折にふれ警告してきた。われわれは、イギリス国民にわれわれが移民して、ここに移住した状況を思い起こさせてきた。われわれは彼らの正義心、そして度量の大きさに訴えかけてきて、われわれの間のつながりや交流を断ち切ってしまうようなこれらの略奪行為をやめるように、血縁の結びつきをつかって思い起こさせてきた。しかしイギリス国民もまた、正義と血縁関係にもとづく声に耳を傾けてはこなかった。だから、われわれは分離を宣言し、イギリス国民に対しても、世界の他の国々と同様に、戦時には敵に、平和時には味方になる必要性に従わざる得ない。

 だから、われわれはアメリカ合衆国を代表して、大陸会議を召集し、われわれの意図が間違ってないことを世界のすぐれた司法にアピールし、アメリカ植民地の善良な国民の名前と権威において、厳粛に次のことを出版し宣言する。アメリカ植民地は自由で独立した国家で、また権利として自由で独立した国家であるべきである。アメリカ植民地は、イギリス国王に対するあらゆる忠誠の義務を免れる。アメリカ植民地と英国との全ての政治的なつながりは完全に解消し、また解消されるべきである。そして自由で独立した国として、戦争をはじめ、平和を締結し、同盟をむすび、通商を開く全ての権利と、独立した国家が当然行う権利をもつ全ての物事を実施する権利をもつ。この宣言を支持するために、神の摂理による加護を強く信じて、われわれはお互いの生命と財産、そして名誉にかけて相互に誓いをたてる。

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