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アメリカ現代思想理解のために(15)

 同書から離れるけれども、次に進む前に、アーレントの基本的な政治思想について見ておきたい。

 『政治と約束』(ジェローム・コーン編 高橋勇夫訳 筑摩書房)で、彼女は、アリストテレスが西欧論理学の基礎として基礎を築くために用いた矛盾律が、ソクラテスの発見に起源を持つという。それは、このようなものだ。

 私が一者(one)である限りにおいては、私は自分自身と矛盾することはないが、考えているときに私は「一者にして二者」であり、自分自身と矛盾することがありうる。つまり、私は一者として、他者と共生するだけではなく、自分自身とも共生するのだ。分裂の、もはや一者ではいられなくなることの、核心にあるのが矛盾の恐怖であり、そして、これこそ矛盾律が思考の根本原理たりえた理由なのである。(49~50頁)

 そしてそれが、人間の複数性の根源なのだという。矛盾律は、なるほど、思考の根本的な弁証法的な原理であることは間違いない。しかし、ここでは、矛盾律は、思考の動的な過程性、過程としての思考の性格を言い表しているが、それにたいして、矛盾の恐怖なる一感情を固定的に割り当てていることに彼女の矛盾観の一面性が現れているのである。他方で、矛盾は、生き生きとしたものであり、躍動でもあり、喜びや楽しみを与える。人間の単独性、私性の中で、私は、一者であるどころか多数者でもあること、それは、一から二、三といった具合に足し算的に段階的に増えていくというようなものではなく、逆に、そもそも多数性が先にあって、その否定、その限定として、つまり、このような抽象の最後に、一者というところに到達するのである。あるいは、一性と多性は、矛盾の両極である。それを反省することにおいては、多の限定として、多の抽象化として一性が見出されるのである。これは、社会的歴史的過程であって、その結果として、一者から出発することが当然というような固定観念が根付いてしまっているのである。アーレントは、ここで、所与のものからそのまま出発しているのである。デカルトは、あらゆるものを疑うという方法的懐疑の方法をもって、絶対的根拠としての我という規定に達したのであるが、それには、「思う」という思考作業の結果、抽象化の結果として、それの根拠に到達したと信じたのであった。つまりは、彼女は、こうしたデカルト的自我を継承しているわけである。そこから、彼女は複数性ということを言うのである。すなわち、

 さらにこれこそ、人間の複数性が完全には廃絶され得ない理由であり、哲学者が複数性の世界から逃れようとしてもそれはつねに幻想に終わる理由なのである。だから、仮に私が完全に独りで生きようとも、生きてある限り、私は複数性という条件下で生きることになるのだ。私は自分自身に耐え(put up with)ねばならないし、純粋に考えているとき「私自身と共にいる私」はもっとも明瞭にその姿を現す。なぜなら純粋な思考は、一者の中の二者による対話だからである。複数性という人間的条件を逃れようとして絶対的孤独に引きこもる哲学者は、他の誰よりも徹底的に、すべての人間に内在するこの複数性にやがては支配されてしまう。なぜなら、対話的思考から私を呼びだして私を再び一者―一つの声で語り、そういう者としてすべての他者から区別されうる、唯一にして独身の人間―にするのは、他者との交友に外ならないのだから。(50頁)

 「私自身と共にいる私」は、純粋に考えているときに現れるというが、これは、実際の体験としてもそうだし、ニーチェのデカルト批判からも明らかだが、純粋に考えているときには、私がいるかどうかということなどわからない。私について意識する時に、つまり、私について反省する時に、はじめて、考えているのは私だと思いつく。純粋に考えている時に、誰が考えているのか、私があるのかどうか、などということを意識しない。それは、西田幾多郎も、純粋経験というかたちで述べたものであり、反省以前の意識には、私という意識は存在しないのである。西田は、それを主客未分化の純粋経験と言ったわけである。それは、ヘーゲルも、「エンチュクロペディー」などにおいて、存在と無の抽象的対立を最初の区別として、そこから始めていることでもそうである。

 彼女は、自他の区別をあらかじめ前提として置いており、自己内の複数性、それを自己内で対話する二者とされているのだが、そこから他者との交友をさらに区別して複数性として規定する。これで、実は、三者になっているわけだ。私は、他者に対しては一者であり、私という一者はじつは二者である。他者は、他者の内部で二者であるから、実は、この段階では、四者が存在することになる。これらは、矛盾関係にあるから、四者間の矛盾が生じていて、これだけでも、たいへん複雑な関係が存在していることになる。したがって、これを一者の下に統合しようとする哲学者の意図は当然挫折する可能性が高いわけである。

 しかし、ソクラテスは、「他者との共生は自分自身との対話から始まる」(50頁)ことを意図したという。

 ソクラテスの教えは次のことを意味していた。すなわち、自分自身と共生するすべを心得ている者だけが、他者と共生するのにふさわしい。自己とは、私がそれから逃れることも、それを見捨てることもできない、私としっかり結合した唯一無二の人格のことである。それゆえ独りでいて自分自身と意見が合わないよりは、全世界と意見が合わない方がましであるということなのだ。この言明の中には、論理学に負けず劣らず、倫理学の起源も含まれている。なぜなら、もっとも一般的な意味での良心もまた、私が自分自身に賛成したり反対したりできるという事実に基づいているから、つまり私は他者に対してだけでなく、私自身に対しても現れる(appear)ものだからである。(50~1頁)

 この人格とは、「我思う故に我あり」の我であり、つまり精神的存在としての私である。それを彼女は人格と呼んでいるのであり、それに対して、もう一つの私自身というものがあるというのである。そしてそれは、自分自身の中で、意見とそれについて考えている我というものがある。すでにある基準というものがあり、それに基づいて私は行為し、判断しているのであるが、それに、もう一つの私が対立することがある。これは、私の中には、天使と悪魔が住んでいて、それらが対立しているというような感じなのであるが、それが良心だと言うのである。しかし、それも、カント的な意味での良心となっており、良心を自分自身に賛成したり反対したり出来るという心的能力として捉えているのであって、その矛盾にさいなまれ続けるものとして、複数性を捉えているのである。永遠にこの矛盾からは逃れられないのである。それで彼女は、良心を事実上、運命として描くことになっているのである。

 

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