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2009年3月

アメリカ現代思想理解のために(21)

 黒人差別解放運動とともに60年代には、女性解放運動である「第二波フェミニズム」が盛んになる。第一波フェミニズムは、20世紀初頭の参政権獲得を中心とした運動で、共産主義者もこれに加わっている。有名なのは、ドイツのクララ・ツェトキン、ローザ・ルクセンブルグ、ロシアのコロンタイなどである。日本でも、「青鞜」グループがあり、山川菊江、市川房枝、アナーキスト系の伊藤野枝、金子ふみ子などが、この第一波フェミニズムに属する。しかし、その前に、19世紀ヨーロッパでは、男女同権論などが生まれている。その中では、作家のジョルジュ・サンドが有名である。

 日本では、男女平等思想自体は、鎌倉仏教などの中で生まれてはいる。もちろん、それはたんなる観念上の話だけであるが。明治維新後の男女同権思想では、福沢諭吉の形式平等論、津田塾大学を創設した津田梅子などがいる。これらはブルジョア的男女同権論に属する。それに対して、日本の第一波フェミニズムは、大正デモクラシー期に、社会主義やアナーキズムなどの影響も入っており、多様な潮流を含んでいた。アナーキスト大杉栄の場合、自由恋愛にのみ男女平等を見るというフォイエルバッハと同程度のものにすぎなかったが、それでも当時としては画期的であった。それは、大杉の人間観が、一面的で浅かったせいであると思う。現在のフェミニズムの議論では、自由恋愛主義の反省的捉え返しが行われている。言うまでもなく、このことは、恋愛という人間関係における感情生活を否定するということではない。それは、同時に家父長的な諸制度の解体、それには、当然、現在の家父長的家族制度の解体も含まれるわけだが、その他根本的な社会諸関係の全面的変革が必要であり、そのような前進的運動過程を伴う中でこそ、生き生きした生命力のあるものとなるということである。

 63年に、ペティ・フリーダンの『女らしさという神話』―邦題「新しい女性の創造」が出版された。同年、男女賃金平等法、翌年民権法が成立、66年には、フリーダンを会長とする「全米女性機構(NOW)」が結成され、ウーマン・リブが開始される。その要求は、憲法における男女平等権修正条項(ERA:Eqaul Rights Amendment)の制定、職場での男女平等、人工妊娠中絶合法化、保育所に対する連邦補助など、であるという。

 

第二波フェミニズムの運動は、発展していくにつれて、家父長的な家族制やセクシュアリティ(性の在り方)までも含めて男性中心主義的な西欧文化全般のラディカルな解体を標榜するグループが、「性」を中心に構成されるプライヴェートな領域に「政治」を持ち込むことに消極的なフリーダンらの主流派(リベラル・フェミニズム)と袂を分かつようになる。(70頁)

 ハンナ・アーレントが、公私の区別に固執することで、リベラル・フェミニズムの側に立っていたことは、リトル・ロック事件に対する見解から明らかである。それに対して、性の政治化とも言うべき思想が、心理学者のライヒらによって唱えられた。こうした公私の領域の区別にこだわったのが、フーコーであり、彼は、その政治性、あるいは技術の問題を追求していき、この区別そのものがどのようにして形成されるかを問題にし、そこにおける権力の作用を暴いていったのである。

 西欧語において、男性形、女性形のあるという言語のレベルの問題がある。もっとも英語には、人称以外にはそういう区別があまりないが。日本語では、もともとは、書き言葉の上では、男女の区別はあまりなかったが、それは、そもそも、日本の場合、書き言葉は、公的な行為の記録としてあったからである。しかし、『万葉集』においては、女性歌人の歌も多く載せられており、西欧ほどには、家父長制はこの領域では明瞭に区別されていない。むしろ、もちろん、儒教の影響が強かった上層階級では、家父長制が強いことは明らかだが、それが一般に広がるのは、むしろ、明治維新以降の近代化の中で、男言葉、女言葉が明瞭化されて以降ではないだろうか。軍国主義下では、軍人=男が、社会的価値の中心となったので、田舎で、年配の女性は、自分のことを「俺」と呼んでいたりするのは、そのせいではないかと思われる。男が戦場に駆り出された後の穴埋めとして、女性が軍需工場その他に駆り出され、労働に従事したことは、アメリカで黒人の兵隊や軍需工場への戦時動員が権利意識を強化したように、女性の権利意識を強めたのであろう。戦後、GHQの民主化政策の実施の中で、市川房枝らの女性参政権獲得運動は、普通選挙実施として実現し、新憲法下の第一回普通選挙では大量の女性議員が誕生した。

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アメリカ現代思想理解のために(20)

 南北戦争(1861~65年)後、黒人奴隷制は廃止されたが、その後も黒人差別が、南部諸州を中心に続いた。黒人は、交通機関、レストラン、学校などの公共の場で、白人と分離された。識字率の低い黒人を排除する投票方式を取るところもある。これは今日でも残っていて、下層黒人層の投票を、社会的労働運動やボランティアが助けたことが、黒人初の大統領となったオバマ当選の原動力の一つである。

 第二次世界大戦への黒人の軍隊参加、そして軍需工場での労働を通じて、戦後、黒人から、平等を求める声が強まったと仲正氏は言う。

 1951年、カンザス州の黒人男性が、近くの白人専用学校への入学を認めないのは不当として教育委員会を訴えた裁判で、連邦裁判所は、54年、「「公共の場においては『分離していても平等』の原理は成り立たない。教育施設を分離させる別学自体が本質的に不平等だからである」との判断を示し」(65頁)た。

 それに対して、南部諸州では、ヴァージニア選出の民主党のハリー・バード上院議員が、こうした学校を閉鎖すべきとする「マッシヴ・レジスタンス」運動を組織化したり、56年には、南部出身の上下両院議員96人が、人種統合に反対する「南部宣言(サザン・マニュフェスト)に署名した。

 57年、アーカンソー州リトルロックでは、白人専用のセントラル高校への黒人生徒の入学をめぐって、反対派が、この入学を妨害する運動を起こした。それに対して、アイゼンハワー大統領は、軍隊を派遣して、黒人生徒たちの通学をエスコートするという非常措置を取った。

 それに対してアーレントは、「リトルロックについて」(1959)で、人種差別に基本的に反対しつつ、「最高裁や人権活動家たちの推進する差別撤廃のやり方に対して苦言を呈している」(66頁)という。

 子供自身の教育を受ける権利と学校を選ぶ権利、親の権利、州や連邦の権限など、様々な問題が絡み合う教育の問題において、「平等」という論理を大上段に振りかざして、統合のみを唯一の解決策であるかのように主張するのはおかしいし、前線に立たされた子供たちに重荷を負わせることになるというのである。(66~7頁)

 こうした彼女の主張に対して、当然、「リベラル派liberals」が猛反発した。彼女が、この問題に様々な側面があり、それらをできるだけ把握した上で、解決策を探るべきだというのは一般的には正しいし、そうすべきである。人種差別、特にこの場合は、人種の公的な場での分離が焦点となっているのだから、両者の接近・相互理解の発展が、問題解決に必要な条件である。したがって、公的場での人種統合が、一歩前進であることは確かである。日本では、70年代以降、障害者解放運動の中で、養護学校義務化反対運動、障害児の普通学級への統合要求運動が取り組まれてきたが、差別解放運動にとって、こうした統合は、直接的接触のない、相手の見えない中で生じる偏見や差別をなくしていく条件を形成するものである。ただ、だからといって、ただちに差別がなくなるというわけではない。そこには、教育や文化や社会関係の変化という運動過程が必要である。

 アーレントの言う子供の教育を受ける権利、学校を選ぶ権利、というのは、一方では、自治体の教育の義務という形で、つまりは一つの強制として規定されている。これには、アーレントが事実上無視している経済的事情が大きく左右する。経済的不平等が、教育格差につながっていることは、新自由主義的な教育改革が推し進められた今日の日本の教育の実情に見事に示されている。例えば、今では、親の年収と学歴の間に強い相関関係が見られる。経済的格差と学歴格差、文化的階層化、など、ブルデューの言うハビトゥスのレベルをも含む階層化が進んでいるのである。この権利と義務の関係、連邦と州政府の権限の問題、それは、アメリカ社会の形成過程、そして建国の過程、その後の歴史的事情によって決まってきた。17世紀後半のニュー・イングランドのタウン(自治体)では、学校を作り維持するのは住民の義務であり、子供に教育を受けさせるのは親の義務であり、親がその義務を果たさない場合は、自治体の長が親権を取り上げた。タウンの権限は親権に勝っていたわけである。それが、1959年のアーレントになると、子供の教育を受ける権利、親権などが、平等と対立するものと捉えられているのである。

 1955年、アラバマ州モントゴメリーで、バスの中で白人に席を譲らなかった黒人女性が逮捕された事件に抗議して、マーティン・ルーサー・キング牧師を先頭にバス・ボイコット運動が起きた。キング牧師を中心に、黒人の権利拡張のためのキリスト教会組織「南部キリスト教指導者会議(SCLC)」が結成された。61年5月、黒人と白人が乗り込んだ長距離バスで、分離が行われている南部諸州を旅行する「フリー・ライド」が試みられた。それは、反対派による暴力的妨害を受けた。民主党ケネディ大統領は、これを止めるよう南部諸州知事に要請したが、これらの州知事の多くが同じ民主党員で、そこは支持基盤だったので、ケネディもおよび腰となった。

 63年6月、ケネディ大統領は、公民権法案を議会に提出。8月には、公民権を求めるグループが結集し、25万人(内、白人6万人)のワシントン大行進が行われた。キング牧師は、このクライマックスに、リンカーン記念堂で、「私には夢がある」という一節で有名な演説を行った。確か、日清フードのカップ麺のコマーシャルだったか、この演説の録音したもので、「I have a dream」の部分を流していた。11月、ケネディが暗殺された。64年7月、ジョンソン政権の下で、公民権法案が成立した。これによって、公共施設での人種差別、人種や宗教、性別による雇用差別が違法になった。その後、黒人運動にも、リベラル派や革命による解放を目指す「ブラック・パンサー」などや、黒人独立共和国を目指す「新アフリカ共和国」などの諸潮流が生まれた。

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アメリカ現代思想理解のために(19)

 ハイエクやアーレントはそれぞれ違った文脈で、社会主義的な[解放→平等]の論理に抗して「自由」を擁護したわけであるが、そうした自由擁護論の大前提と して、社会あるいは政治的共同体(ポリス)を構成する市民たちが、自由に活動する機会を「平等」に与えられていることが想定されていた。その社会のメンバーとして認められていない人、同等のメンバーシップを与えられていない人にとっては、市場を中心とした自由な競争や、自由な政治的討論に参加することは 困難である」(64頁)。

 ここで、「市場を中心とした自由な競争」と言われているが、先にも指摘したように、アメリカでは、戦前には独占体制が出来上がっており、成長を通じて、 あるいは、技術革新を通じて、市場を拡大し、その中で、新規の参加者が登場してきたのであり、さらに市場がいっぱいになる寡占状態に達すると、海外へと進 出していったのである。つまり、世界経済の成長が、そのような自由な競争の余地の拡大の条件であったわけである。もちろん、それに、技術革新によるイノ ベーションによる新規市場の新設ということもあった。しかし、このようなアメリカの「“市民に対して平等な機会を与える自由な社会”として自己理 解」(64頁)できた条件は失われてきている。それが、今年の世界経済の戦後初のマイナス成長予想が示している推理の結果の一つである。

 しかし、南北戦争の結果、奴隷制が廃止され、黒人にアメリカ市民権が与えられるようになったが、差別はなくならなかった。女性を抑圧する家父長制と闘う フェミニズム運動、そして、20世紀になってようやく市民権を与えられるようになったインディオ・先住民族の解放運動、そして、アメリカの帝国主義性を示 すベトナム戦争に対する反戦闘争の高揚、これらは、「アメリカの自由」の具体的内容、実態を問うものとなった。

 「これらの運動は、「自由」と「平等」の原理的な両立を志向するロールズらの現代的なリベラリズムが登場」(65頁)する背景となったと仲正氏は言う。

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アメリカ現代思想理解のために(18)

 次は、ハイエクによる設計主義批判である。

 イギリス的な「自由」の擁護者たちは、「伝統」や「習慣」を重視すると仲正氏は言う。

 ハイエクに言わせれば、「伝統」や「習慣」として安定して継承されてきた「知」は、それが多くの人にとって有用であることが「経験」によって証明されてきたからである。手探りの努力の中での「経験」によって、社会的秩序は成長していく。そうした意味で「伝統」や「習慣」は、無知なる人間たちの経験知の社会的ストックなのである。特定の人間が理性的なものと思っているにすぎない「設計」が、「伝統」や「習慣」に基づく「進歩」を凌駕することはできない。(61頁)

 ここでも、ハイエクは、功利主義、効用主義を主張している。「伝統」「習慣」「経験」の「知」は、多くの人にとって有用であるというのだ。知の価値が、その有用性、その効用によって計られているのである。それに対して、「設計」知は、一部の人間が理性的と思い込んでいるだけとされている。ところが、実際の歴史的経験には、ハイエクの考えを裏切ることが多いのである。例えば、彼は次のように言っているという。

 各人の自由な行動の帰結である経験知のストックを社会全体が利用することによって、「進歩」がなされれば、その成果を貧しい人たちも享受することができる。(同)

 ところが、今の世界の多くの部分での現実を見てみれば、ストック=資本が膨大に蓄積されているにもかかわらず、その成果を多くの貧しい人たちが享受するなどという「効果」はあまり見られない。

 高い累進税によって大幅な所得の再配分、格差の是正を行ない、できるだけ平等にしようとすれば、富裕層が自らの富を、経験知を高めるために活用することが妨げられ、「進歩」が停滞し、結果的に社会全体にとってマイナスになる。人為的に格差の是正をするよりは、市場の自動調整メカニズム、経験知に基づく技術が社会の全階層に行きわたるのを待っている方が得策である。これは、国際的な貧富の差についても言えることである。アメリカが「進歩」の最先端を進むことによって、その技術的成果が世界中に伝播し、低開発国も享受することができるようになる、というのである。(61~2頁)

 ここでも、「・・・待っている方が得策である」と、功利主義的、効用主義的な特殊判断が入り込んでいる。しかし、ここで描かれているようなこととは裏腹に、次のような事態が起きている。

 アメリカでのサブプライム・ローン破綻をきっかけにして、金融恐慌、そして、今年に入ってからの産業恐慌に入りつつある世界経済の危機的状況に対して、アメリカのオバマ政権をはじめ、世界の多くの国で、大幅な所得の再配分策、格差の是正策が行われている。日本では、周知のとおり、麻生政権は、定額給付金をばらまき、中国では、4兆元の財政支出の一部を、農村での家電製品などの購入費用の補助にあてるという。韓国の李明博政権は、「低所得50万世帯に月2万~35万ウォン」を支給することを決定した(3月13日「中央日報」)。このような具合である。

 また、14日に開幕したG20財務省・中央銀行総裁会議では、日本政府は、途上国向けの環境インフラ支援4900億円(約50億ドル)の支出を表明する予定だ。「環境投資支援イニシアチブ」において、国際協力銀行(JBIC)を通じて、2年で、上の額を融資するというもので、アジア開発銀行や世界銀行グループの国際金融公社などとの協調融資も検討するという(3月14日「日経」)。G20参加のため、イギリスを訪れているゼーリック世界銀行総裁は、英紙「デイリー・ミラー」のインタビュー記事で、09年は経済にとって「非常に危険な年」になるという認識を示した(3月14日AFP)。12日付ロイターは、「今年の世界経済は1─2%のマイナス成長の可能性があると世銀総裁が述べたことを伝えている。これは、1930年代以来のことであり、「国際通貨基金(IMF)のストロスカーン専務理事は11日、世界経済は今年「グレート・リセッション」に陥るとの見方を示した」ことも合わせて伝えている。

 3月8日のブルームバーグによると、同日公表した世界銀行報告書で、世銀は、今年の世界経済は戦後初のマイナス成長の公算-世界銀行報告書では、すでに、戦後初の世界経済のマイナス成長を指摘していたが、「発展途上国が経済の収縮の影響をまともに受けるだろうと分析した。また輸入やサービスの債務支払いで、発展途上国は2700 億-7000億ドル(約26兆6000億円-約68兆9000億円)の不足に直面すると指摘し」、「世界貿易の縮小の影響を最も受けるのは東アジアだと指摘。今年の世界の工業生産は前年比で最大15%減少すると予想した」。ゼーリック総裁は、この中で、社会不安を鎮めるため、各国が金融対策を強める必要があるとも述べている。

 かくして、世界各国は、世界恐慌に対して、なりふり構わぬ対策を取りつつある。それで、この事態による社会不安・混乱に対処しようとしているのである。

 それに対して、ハイエク主義の信奉者のミルトン・フリードマンは、『資本主義と自由』(1962年)で、「貧困問題を含めて、社会的なコンフリクトの解決は、「計画」によらず、可能な限り市場の自動調整機能に委ねるべきであるという論を展開している」(62頁)。

 フリードマンは、ニューディール以降のアメリカの失業対策としての公共事業への財政支出や政府の市場介入に反対し、所得の再配分による貧困対策ではなく、最低限の所得保障(負の所得税)のような形に限定すべきだと述べたという。今度の定額給付金などは、最低限の所得保障に近い考えから来ているように思われるが、他方で、この間、日本では、生活保護費の削減圧力が強まっていた。同時に、企業福祉の切り捨ても進み、それは、雇用保障と共に、大企業正社員・基幹労働者の特権的なものへと縮められてきた。アメリカでも、日本と似て、基幹労働者との間に、ニューディール期に形成された労使協定による企業福祉があり、これが戦後、基本的な福祉となってきたのだが、この間は、そうした企業福祉の対象者が減少してきた。そして、企業負担の削減が行われてきたのである。

 フリードマンが前提としてきたアメリカの戦後体制は崩壊しつつあるわけだが、それに代わるものとして、一時は、フリードマンらの新自由主義者が目指す自由主義市場経済のグローバル化という方向に向かったが、世界恐慌に直面している今日、元々の地であるもの、戦後体制、戦時経済体制、国家独占資本主義体制への回帰的な方向へと、各国政府を向かわしめているのである。もちろん、それは、30年代体制そのものの復活ということではなく、新たなるものの創設である。G7が、G20に拡大されたというのも、そうした新たな形の一つである。

 こうして、フリードマンらが描いた自由の夢が、単なる虚偽イデオロギーすぎないことを、現実が日々暴露している。

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アメリカ現代思想理解のために(17)

 ハイエクは、フランス系の「自由」とイギリス系の「自由」を区別した。

 仲正氏によれば、「フランス系の合理主義的な「自由」は、人間の普遍的な「理性」に基づく理想状態のようなものを予め設定し、それを目標として、社会全体をそこに誘導しようとする設計主義的な傾向がある。人間の普遍的な「理性」を想定しているので、実際にはごくごく少数のエリートによる設計であったとしても、最終的に全ての人民の合意を得られるはずだという社会契約論的な発想をする。したがって、社会主義、計画経済、全体主義的な民主主義に傾斜していく可能性を常に秘めている」(60~1頁)。

 ここでは詳しく述べないが、社会主義という概念をめぐっては、いろいろと議論があり、ここで氏が述べているようなものを社会主義と呼べるかどうかは疑問である。私は、計画経済をもって社会主義経済とする見方は採っていない。現に、1930年代にアメリカで成立した戦時経済体制は、ソ連の計画経済と基本構造がよく似ており、マルクスの『経済学批判・序言』の有名な公式を採って言うならば、土台は資本主義経済であり、それは国家独占資本主義であった。ソ連の場合、資本の運動に対する制限は強かった。しかし、国家独占資本主義という独占資本主義の小段階は、社会主義への入口であって、29年恐慌、37年恐慌の二度の恐慌をへて、1930年代アメリカもこの小段階に入ったのである。ローズヴェルトのニューディール政策は、一つの社会契約の組み直しであり、国家独占資本主義体制の創設だったのである。そして、それが、戦後のパックス・アメリカーナの基本となってきたのである。これは、過渡期の経済体制の特徴であり、別のものへの転化の途上である。この過程で、前進も後退も矛盾もあり、そうした動的な過程を経つつ、次の体制へと転化するものなのである。

 計画経済論者は、社会主義者に限らず、自由主義者にもいた。ジェームズ・ミルがそうだったし、その他均衡論的な経済学者が、計画経済論者や社会主義者になるというケースがあった。有名なのはパレートである。しかし、経済思想そのものの中に、古典派以来、今日まで、ブルジョア経済学には、均衡主義的発想は基本的に受け継がれていて、その意味では、計画経済論、社会主義的な傾向を含んでいるのである。弁証法家は、このブルジョア経済そのものにあるこの矛盾を極限にまで推し進め、展開させて、これを止揚して、社会主義へと転化させるわけである。

 それに対して、イギリス系の反合理主義的な「自由」は。人間の理性の限界、「無知」から出発するという。どのような状態が人間にとって好ましいか知っている人間、あるいは、未来の社会がどのようになるか確実に予見できる人間はいない。誰の持っている知識が正しく、有用なのか確実に知りようがない。したがって、各人が自らの自由を利用する機会をできるだけ多く持ち、様々な試行錯誤をし、体験を積めるようにしておくことが望ましい。様々な経験知が蓄えられ、多くの人によって活用可能な状態になっていることが「進歩」の条件である。(60~1頁)

 このようなイギリス系の反合理主義的な「自由」が花開いたイギリス植民地であったアメリカで、それがどのようなものになったかを、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』から見てみる。

 例えば、ニューイングランドのマサチューセッツでは、1663年に、「ある既婚の女性がかつて若い男と恋愛関係にあったが、寡婦となってからこの男と結婚した。数年が過ぎ、公衆がとうとう、この夫婦は結婚する前から通じていたのではないかと疑うに至り、二人は刑事訴追された。彼らは刑務所に収監され、すんでのところで死刑判決を受けるところであった」(岩波文庫第1巻(上))(322~3頁)。

 コネチカットでは、1650年の法典で、冒頭、「主にあらざる神を崇める者は死罪に処す」と記し、涜神、魔術、姦通、陵辱、子の親に対する冒涜、を死刑と定めたが、それは、『旧約聖書』の「申命記」「出エジプト記」「レビ記」から持ってこられたものだった。さらに、未婚の男女の交際を禁止し、違反者には罰金、鞭打、強制結婚が科せられた。旅籠屋には、怠惰と酩酊に刑罰が科せられ、嘘つきには、罰金と鞭打が科せられた。礼拝への出席は強制であり、違反には罰金刑が科せられた。1649年には、ボストンで、長髪の流行を贅沢として防止する目的の結社まで結成された。禁煙法を定めたところもある。

 他方、コネチカットでは、「執行権の代表は総督に至るまですべて選挙で選ばれた」(同65頁)。16歳以上の市民は武装を義務づけられ、民兵隊が組織された。民兵は士官を任命した。ニューイングランドでは、当初から貧民に対する生活保障があり、道路の保全には厳密な措置がなされ、それを管理する役人が任命される。タウンには、公共の記録係である書記官がいて、住民総会の審議の結果、住民の死亡、婚姻、出生が記録されている。また、相続人のいない財産を管理する吏員、相続財産の限度を監視する吏員がいる。その他、治安に当たる吏員など様々な役があったが、それには、一定期間、有給で、交替で、住民が就いた。

 トクヴィルが、特に重要視しているのは、教育である。法律は、「人類の敵、悪魔はそのもっとも強力な武器を人間の無知に見出すこと、またわれらの父祖のもち来たりし知識を其の中に眠らせざることの重要性に鑑み、そしてまた、子弟の教育こそ主の助けを借りて国家のなす第一の関心事であることに鑑みて・・・」と記した後に、住民に学校をつくり維持する義務を課し、違反への罰金を定めている。自治体の長は、親が子を通学させるよう指導する義務が課せられ、それを拒否した親には罰金を科することができる。それでも従わないときには、社会が家族に代わって子供を引き取り、自然が与えた父権をこのように乱用した父親からそれを取り上げる(68頁)。トクヴィルは、「アメリカでは宗教こそ開明への導き手であり、神の法の遵守が人を自由に赴かせる」(同)と述べている。

 このように、アメリカの「自由」と言っても、ハミルトン・ジェイ・マディソンら『ザ・フェデラリスト』を書いた連邦派フェデラリストのような「自由」もあれば、宗教が理性を開発し、開明させるという理性主義、あるいは理神教とでも言えるような、宗教というか宗派コミュニティーの「自由」、これは、同時に、魔女狩り的な抑圧を伴っており、禁酒法時代にも繋がっていくようなかたちのものまである。奴隷制は、その最たるものであり、一大焦点であった。

 

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アメリカ現代思想理解のために(16)

 アーレントは、ソクラテスを取り上げる。彼女は、「思考が言論スピーチという形式で現れる、考える存在」(54頁)、両者が一致しているのは、ギリシア文化の際だった特徴だという。それに、ソクラテスは、「思考の第一条件としての、自分自身と自分自身の対話」(同)を新たに付け加えたという。

 それが政治と関係するのは、彼が以下のように主張したからだという。

 ソクラテスの後にも先にも、孤独(solitude)は哲学者だけの特権的で職業的な「体質ハビタス」だとみなされ、さらにポリスの住人からは当然のごとく反―政治的と疑われていたのだが、じつはそれとは逆に、孤独はポリスがうまく機能するのに必要な条件であり、法と刑罰の恐怖によって強制される行動規則よりも確かな保証なのである。(53~4頁)

 このこと、つまり、自己自身と自己自身との対話、それは、自己が自己を裁くことであり、それがうまく機能すれば、ポリス全体がうまく機能するようになる。これは、アーレントとは逆にフーコーが、自己管理・自己統治の技術と呼ぶところの、ミクロな権力の作用である。フーコーは、それを、主体の形成とも呼んでいる。しかし、アーレントはあくまでも、このような孤独を許容しないで、個人的良心から独立した法をポリスが要求することで、哲学者とポリスは衝突すると主張する。

 私たちは、何は措いても孤独の可能性―非人間的な独房形式を除いて―をすべて抹消したいと考える全体主義的な大衆的諸体制を経験しているので、もはや自分自身と向き合うための最低限度の孤独すらも保証されないとするなら、世俗的良心のみならず、いかなる宗教的良心すらも廃絶されるだろうと、容易に請け合うことができる。(54頁)

 しかし、われわれは、このような個人的良心が、歴史的に大きく変化してきたことを知っている。その内容は、一部の一般的なものを除けば、共同体ごとに異なり、職業によっても異なり、家族によっても異なり、細かくいえば、個人によっても異なる。しかし、それは、彼女が言うように、共通感覚としての共通性をも持つようになるわけだが、それが、私の中のもう一人の私との対話というような、そしてそれを哲学の根本とするような考えによってそうなるわけではなく、その社会の歴史的特性に応じて、そうなるのである。全体主義の特徴を、彼女は、「自分自身と向き合うための最低限度の孤独すらも保証されない」ものとしている。それが良心一般の廃絶というわけである。

 その他いろいろとあるのだが、長くなってしまうので、アーレントについてはいったん置くことととし、適時取り上げることにしたい。

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アメリカ現代思想理解のために(15)

 同書から離れるけれども、次に進む前に、アーレントの基本的な政治思想について見ておきたい。

 『政治と約束』(ジェローム・コーン編 高橋勇夫訳 筑摩書房)で、彼女は、アリストテレスが西欧論理学の基礎として基礎を築くために用いた矛盾律が、ソクラテスの発見に起源を持つという。それは、このようなものだ。

 私が一者(one)である限りにおいては、私は自分自身と矛盾することはないが、考えているときに私は「一者にして二者」であり、自分自身と矛盾することがありうる。つまり、私は一者として、他者と共生するだけではなく、自分自身とも共生するのだ。分裂の、もはや一者ではいられなくなることの、核心にあるのが矛盾の恐怖であり、そして、これこそ矛盾律が思考の根本原理たりえた理由なのである。(49~50頁)

 そしてそれが、人間の複数性の根源なのだという。矛盾律は、なるほど、思考の根本的な弁証法的な原理であることは間違いない。しかし、ここでは、矛盾律は、思考の動的な過程性、過程としての思考の性格を言い表しているが、それにたいして、矛盾の恐怖なる一感情を固定的に割り当てていることに彼女の矛盾観の一面性が現れているのである。他方で、矛盾は、生き生きとしたものであり、躍動でもあり、喜びや楽しみを与える。人間の単独性、私性の中で、私は、一者であるどころか多数者でもあること、それは、一から二、三といった具合に足し算的に段階的に増えていくというようなものではなく、逆に、そもそも多数性が先にあって、その否定、その限定として、つまり、このような抽象の最後に、一者というところに到達するのである。あるいは、一性と多性は、矛盾の両極である。それを反省することにおいては、多の限定として、多の抽象化として一性が見出されるのである。これは、社会的歴史的過程であって、その結果として、一者から出発することが当然というような固定観念が根付いてしまっているのである。アーレントは、ここで、所与のものからそのまま出発しているのである。デカルトは、あらゆるものを疑うという方法的懐疑の方法をもって、絶対的根拠としての我という規定に達したのであるが、それには、「思う」という思考作業の結果、抽象化の結果として、それの根拠に到達したと信じたのであった。つまりは、彼女は、こうしたデカルト的自我を継承しているわけである。そこから、彼女は複数性ということを言うのである。すなわち、

 さらにこれこそ、人間の複数性が完全には廃絶され得ない理由であり、哲学者が複数性の世界から逃れようとしてもそれはつねに幻想に終わる理由なのである。だから、仮に私が完全に独りで生きようとも、生きてある限り、私は複数性という条件下で生きることになるのだ。私は自分自身に耐え(put up with)ねばならないし、純粋に考えているとき「私自身と共にいる私」はもっとも明瞭にその姿を現す。なぜなら純粋な思考は、一者の中の二者による対話だからである。複数性という人間的条件を逃れようとして絶対的孤独に引きこもる哲学者は、他の誰よりも徹底的に、すべての人間に内在するこの複数性にやがては支配されてしまう。なぜなら、対話的思考から私を呼びだして私を再び一者―一つの声で語り、そういう者としてすべての他者から区別されうる、唯一にして独身の人間―にするのは、他者との交友に外ならないのだから。(50頁)

 「私自身と共にいる私」は、純粋に考えているときに現れるというが、これは、実際の体験としてもそうだし、ニーチェのデカルト批判からも明らかだが、純粋に考えているときには、私がいるかどうかということなどわからない。私について意識する時に、つまり、私について反省する時に、はじめて、考えているのは私だと思いつく。純粋に考えている時に、誰が考えているのか、私があるのかどうか、などということを意識しない。それは、西田幾多郎も、純粋経験というかたちで述べたものであり、反省以前の意識には、私という意識は存在しないのである。西田は、それを主客未分化の純粋経験と言ったわけである。それは、ヘーゲルも、「エンチュクロペディー」などにおいて、存在と無の抽象的対立を最初の区別として、そこから始めていることでもそうである。

 彼女は、自他の区別をあらかじめ前提として置いており、自己内の複数性、それを自己内で対話する二者とされているのだが、そこから他者との交友をさらに区別して複数性として規定する。これで、実は、三者になっているわけだ。私は、他者に対しては一者であり、私という一者はじつは二者である。他者は、他者の内部で二者であるから、実は、この段階では、四者が存在することになる。これらは、矛盾関係にあるから、四者間の矛盾が生じていて、これだけでも、たいへん複雑な関係が存在していることになる。したがって、これを一者の下に統合しようとする哲学者の意図は当然挫折する可能性が高いわけである。

 しかし、ソクラテスは、「他者との共生は自分自身との対話から始まる」(50頁)ことを意図したという。

 ソクラテスの教えは次のことを意味していた。すなわち、自分自身と共生するすべを心得ている者だけが、他者と共生するのにふさわしい。自己とは、私がそれから逃れることも、それを見捨てることもできない、私としっかり結合した唯一無二の人格のことである。それゆえ独りでいて自分自身と意見が合わないよりは、全世界と意見が合わない方がましであるということなのだ。この言明の中には、論理学に負けず劣らず、倫理学の起源も含まれている。なぜなら、もっとも一般的な意味での良心もまた、私が自分自身に賛成したり反対したりできるという事実に基づいているから、つまり私は他者に対してだけでなく、私自身に対しても現れる(appear)ものだからである。(50~1頁)

 この人格とは、「我思う故に我あり」の我であり、つまり精神的存在としての私である。それを彼女は人格と呼んでいるのであり、それに対して、もう一つの私自身というものがあるというのである。そしてそれは、自分自身の中で、意見とそれについて考えている我というものがある。すでにある基準というものがあり、それに基づいて私は行為し、判断しているのであるが、それに、もう一つの私が対立することがある。これは、私の中には、天使と悪魔が住んでいて、それらが対立しているというような感じなのであるが、それが良心だと言うのである。しかし、それも、カント的な意味での良心となっており、良心を自分自身に賛成したり反対したり出来るという心的能力として捉えているのであって、その矛盾にさいなまれ続けるものとして、複数性を捉えているのである。永遠にこの矛盾からは逃れられないのである。それで彼女は、良心を事実上、運命として描くことになっているのである。

 

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アメリカ現代思想理解のために(14)

 フランス革命とアメリカ革命の違いが次に取り上げられる。

 氏によれば、フランス革命は、ロベスピエールなどが、貧困に苦しむ人々に「共感」し、かれらを「貧困」から「解放」することを政治目標とした。貧困からの解放に共感し、偽善にみちた圧制者たちを倒すのが、人間らしさだと考えた。しかし、そういう[共感→解放]の政治にのめりこみすぎて、つまり、行き過ぎて、弱者の「解放」という名目の下に、人々の剥き出しの暴力衝動をも「解放」してしまい、「弱者に共感しない人間らしからぬ輩」を大量虐殺するすることになった。それが「恐怖政治」だという。

 フランス革命についてはいろいろな見方があり、ここでは詳しくは取り上げないけれども、ここで、「共感」という感覚・感情が、政治化し、それが、大量虐殺という具体的な結果を取ったという図式になっていることに注意が必要である。感覚・感情こそが、政治の原因だというのである。しかも、その感覚は、「貧困」からの解放という思想に基づくとされている。感覚・感情を基礎にするというのは、一見すると唯物論的なのだが、その前に、特定のイデオロギーがあり、それが、そうした感覚・感情を規定するというふうになっていて、つまり、これは、マルクスが、青年ヘーゲル派の特徴としてあげた観念論の特徴と一致している考えである。

 そうした[共感→解放]の“政治”を、カール・マルクス(1818―83)を経由して継承したロシア革命も、同じようなメカニズムで無制約の暴力を解放することになってしまった。アーレントは、そうした「解放の政治」の暴走をそのまま第三世界での解放運動に結び付けてはいないが、ラテンアメリカやアジア・アフリカの国々で貧困問題が深刻化していることには言及しており、これらの国における「解放」がフランス革命やロシア革命のような事態に繋がる可能性があることを示唆しているようにも取れる。(57~8頁)

 つまり、これは、例えば、ポルポト体制とかのことを言っているのだろうか? しかし、ポルポト政権の場合、貧困からの解放というよりは、むしろ、近代化の拒否という思想が強かったように思えるのだが。そして、フランス革命の場合、貧困からの解放とは、一つには、フレンチ・インディアン戦争やアメリカ独立革命支援などの相次ぐ戦費支出によって出来た借金の負担を下に転嫁したことに大きな要因の一つがあり、それに対して、マリー・アントワネットに代表されるような上層の奢侈、贅沢三昧の生活ぶりが、下層の不満を強めたということがあった。しかし、相次ぐイギリスとの戦争の敗北、そして、台頭してきた新興中産階級の利害、それが、フランス革命の原動力であり、それを正当化する理論として近代啓蒙思想があり、ロベスピエールらは、それを追求したということである。その際に、理神教を創設しようとしたような理性主義というものが問題になるわけだが、それについては、ここでは触れられていない。しかし、結局、ロベスピエールも打倒されるわけである。だが、このことは、フランス革命が、ブルジョア独裁の時期を必要としたブルジョア革命であったことを証明しているのであり、それとマルクスだの、弱者への共感などとは、頭の中だけでしか結び付けられないものであるということは指摘しておかねばならない。

 それに対して、アメリカ独立革命支援の場合は、

 アメリカ革命の場合、イギリスから独立したばかりの諸州が自分たちの「憲法constitution」を定め、それに基づいた「国家体制constitute」をゼロから構成(constitute)しなければならなかったということもあって、建国の父たちは、ポリス的な意味での「政治」の空間、「公的空間」を作り出すことの必要性を認識していた。個人がそれぞれの私的生活における幸福を追求するだけでなく、市民たちが公的空間で公的幸福を追求できるようにすること、言い換えれば、「公的自由」を維持し続けることが、アメリカ革命の課題になった。アーレントは、「建国の父」の一人であり、第三代大統領になったトーマス・ジェファソン(1743―1826)が、「解放」以上に「公的自由」の問題を意識していたと指摘する。(58頁)

 こうして古代ポリスに対するアーレントの思い入れの強さは、『政治の約束』においても一貫しており、そこで、人間論としての根源的複数性ということを強調している。

 トーマス・ジェファソンについては、民主党創立者となったわけだが、この民主党が、南北戦争時には、奴隷制維持を求める南部分離派を支持したということも忘れてはならないだろう。アメリカ独立革命については、それを、古代ポリスと直接比較することにはあまりにも無理がある。アーレントは、アメリカ独立革命が変質する可能性についても考え、次のように述べた。

 「公的自由」を維持し続けるには、「憲法」に基づいていったん「構成された権力」が硬直化して、巨大な暴力装置を備え、人民を抑圧して、自由な活動の余地を奪うようなことになってはいけない。フランス革命やロシア革命では、実際、そうした事態が生じてしまった。人民が常に自らの「国家体制」と「権力」を新たに「構成」し直し、「公的幸福」を追求し続けられるようにしておく必要がある。/アメリカでは、州ごとに異なった法・政治体制が採用され、州の代表たちからなる議会での討論によって連邦の政治が大きく変更される可能性がある。また州を構成する地区(districct)、郡(county)、軍区(township)などの単位では、古代のポリスのように、タウン・ミーティングに集った住民たちの公的な討論によって自治が行なわれた。それによって、アメリカの「国家体制」は、開かれたものであり続けることが可能になったという。(同)

 つまり、ここでも同じだが、これを古代のポリスと直接比較しようとするところにそもそもの無理があり、それは、彼女のカント主義的な図式主義の基本的な認識観に問題があるのである。このような、タウン・ミーティング的なものは、日本でもどこでも見られるものであり、アメリカのそれが特別に「国家体制」を開かれたものにしたというのは、こじつけであり、おかしな見方である。

 『革命について』でアーレントが示した、個人ごとの幸福追求の自由よりも「公的自由」を重視するような議論は、現代では狭義の「自由主義」、つまり個人主義的な自由主義とは区別して、「共和主義 republicanism」と呼ばれることがある。(59頁)

 しかし、他方で、共和主義republicanism は、中央集権主義であり、国家主義的な政治思想であり、それに対して、ジェファソンら民主主義者が対立したのであり、前者は、必ずしも、ポリス的な意味での政治空間=共和制を維持するために各市民がコミットすることの重要性を主張する思想とも言えない。それが、市民たちが政治に関心を失って公的生活から撤退することや、他人がやってくれる政治にフリーライド(ただ乗り)することをよしとしない思想だというのは、一方では、レパブリカンが、君主制を研究して、強力な権限を持つ大統領制を作ろうとしたことや、それに、後者は、むしろ、直接民主主義と呼ぶ方が正確だろうということで、それを無理やり、「解放」=物的というような規定を当てはめることはないだろうと思う。

 ここの最後に、「アーレントは、必ずしも現代アメリカの政治を手放しで称賛しているわけではないが、共和主義的な「自由」の伝統のおかげで、“解放の政治”に巻き込まれるのを免れてきた点は高く評価している(59頁)」とある。ここでの「巻き込まれる」という表現には問題があるし、おそらくは、そこには、アーレントの哲学を観照的態度として解釈するという観念論が潜んでいる。それは、労働を受苦性としてのみ捉える労働観の貧困さとかも反映しているのだろう。それについては、後でやや詳しく見てみたい。

 


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アメリカ現代思想理解のために(13)

 1950年代、ソ連で、スターリン死後、その後を継いだフルシチョフは、スターリン批判(1956年2月第20回ソ連共産党大会)を行い、ここから、ポスト・スターリン期とも言うべき時期に入った。フルシチョフは、西側諸国との「平和共存」路線を打ち出しつつ、他方では、56年10月に、ワルシャワ条約からの脱退を求めるハンガリー革命を武力弾圧し、ソ連・東欧ブロック体制の維持を図った。

 第二次世界大戦後、1955年インドネシアのバンドンで、「アジア・アフリカ会議」が開かれ、旧植民地諸国を中心に、「第三世界」勢力が独自の動きを強める。60年には、アフリカで、17ヵ国が一挙に独立し、民族解放運動は、世界に広まった。61年には、ワルシャワ条約、コメコンから除名され、ソ連と対立していた自主管理社会主義の道を歩むユーゴスラヴィア、エジプト、インドネシアを中心に「非同盟諸国会議」が結成される。この頃、ソ連と中国の対立も深刻化していく。60年12月、南ベトナムに、北ベトナムの支援を受けた南ベトナム解放民族戦線が結成された。

 61年、アメリカでは、民主党のケネディ大統領が誕生、ソ連が核ミサイルをキューバに配備しようとするというキューバ危機が発生する。

 ついでに言えば、日本の共産主義勢力では、圧倒的な勢力を有していた日本共産党内の分派闘争が活発化し、特に、コミンフォルムの野坂参三の人民戦線路線を批判する所感が発表されたのを機に、これを支持する所感派と批判する国際派に、事実上、二分解する。ジグザグを経て、六全協で、統合するが、さらに細かく分かれた党内分派闘争は続いた。その中で、国際派の全学連指導部を中心にして、分派機関紙「プロレタリア通信」が発行され、ついに、58年に、「一枚岩党」のスターリニズム党組織神話を打ち破って、共産主義者同盟が誕生する。警職法闘争、砂川闘争などを取り組みつつ、60年安保闘争を一大決戦として取り組み、その後、大きく三分解し、消滅する。「プロレタリア通信」において、山口一理氏、島氏らは、フルシチョフ、日本共産党六全協路線を、日和見主義として批判した。この頃は、アメリカの反共化が強まり、日本では、その支援を受けた保守派による反動が強められていて、特に、岸政権は、日米安保体制の再編を通じて、アメリカの半強制策への積極的関与を可能にすることを狙っていた。国内政策としては、労働運動弾圧や警職法、勤評導入策動などである。これと真っ向から対決しつつ、同時に、スターリニスト共産党批判を行い、独自の共産主義運動の建設を目指したのが、共産主義者同盟であった。そしてその中心を担ったのが、全学連である。1955年、左右社会党の合同で社会党が誕生し、保守合同で、自民党が誕生し、いわゆる55年体制が出来ていた。エネルギー政策の大転換として、国内炭坑の合理化攻撃が強まり、三井三池炭坑の合理化は、ことに、総資本対総労働の対決と言われたように、労働運動の一大焦点となった。

 第三世界をめぐって、フルシチョフの技術開発、経済援助の提供、「社会主義型開発モデル」の導入を図る政策と、ケネディの経済開発支援計画との競争が激化した。そこで、アメリカは、「自らの掲げる「自由」に抵抗する「解放」の論理と対峙することになった」(53頁)。その場合に、この「解放」は、英語では、〈liberation〉だが、これは、「自由」を意味する〈liberty〉と関係している。「解放=自由化」である。したがって、仲正氏は、「「解放」というのはアメリカの自由に対抗する“もう一つの自由”と見ることもできる」(53頁)としている。第三世界の「解放」という視点から、「“アメリカが擁護する自由”は、西欧による形を変えた支配の正当化あるいは偽装である」(54頁)ということになる、と氏は言うのである。

 1960年代半ばには、フランク、サミール・アミンら、従属学派が登場して、ロストウらの「近代化論」を批判する。アメリカでは、学生らを中心に、SDS(民主社会を求める学生同盟)などの新左翼が登場する。そして、ベトナム反戦、公民権運動などが強まっていく。

 この頃、アーレントは、『革命について』(1963年)で、「自由 freedomと解放 riberation」を区別する議論を行っている」(55頁)という。

 人々を拘束・抑圧状態から解き放ち、移動することを可能にする「解放」は、「自由」の前提条件であるが、それだけで自動的に「自由」をもたらすわけではない。英語には「自由」を表す言葉として(ゲルマン語系の)〈freedom〉と(ラテン語系の)〈liberty〉の二つがあるが、アーレントに言わせれば、〈libertaration〉の方には、拘束・抑圧状態からの「解放」というネガティブな意味しかない―これはアーレント独自の理解であり、英語の通常の用法としては、〈liberty〉と〈freedom〉の意味合いの違いはそれほど明確ではない。(55~6頁)

 ここで、アーレントが、移動ということを「自由」と関係させていることに注意が必要である。彼女は、拘束・抑圧状態からの解放とは、移動の自由を意味するとしているのである。

 〈freedom〉という意味での「自由」は、古代ポリスの公共領域における「政治」のようなものである。それは、彼女によれば、

 我々の“人間らしさ”を支えている「政治的自由」こそが、「自由」の最も本質的な部分なのである。当然、単に権力によって政治活動に干渉されないというような消極的なことではなく、政治を構成する討論に参加し、「政治」を再構成する営みに従事しているということである。(56頁)

 ところが、物質的な欠乏状態から解放されたとしても、人々が積極的に政治に参加するとは限らない。近代における革命のほとんどは、「リバティー」と「フリーダム」の双方を追求するが、両者を区別してない。彼女は、両者をきちんと区別すべきだという。その理由は、

 革命の担い手たちが、分かりやすい目標である「解放」の方ばかり追求して、「フリーダム=自由」のことは忘れてしまう。場合によっては、「フリーダム=自由」を破戒してしまうこともあるからである。(57頁)

 そうした例として、アーレントは、フランス革命を挙げ、逆の成功例として、アメリカ革命を挙げる。

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アメリカ現代思想理解のために(12)

 アーレントは、「複数性」は、以下のような意義を持っているという。

 異なった価値観やライフスタイルを有する諸集団が一つの社会あるいは国家の中で現実に共存していることよりも、各人ごとにパースペクティヴ(物の見方)が異なることをお互いに認知し、それを前提として多様なコミュニケーションが展開する「余地=空間space」があることの方に重点がある。アーレントにとって、「複数性」が十分に生かされるような自由空間が成立していることこそが、人々が「人間らしく振る舞えるための根本的な条件なのである。(47~8頁)

 つまり、主観性において、「複数性」があることが、人間の条件だということである。こういう「複数性」の問題を、彼女は、『人間の条件』(1958年)では、アリストテレスの「政治poplitics」における「公的領域 the public realm/私的領域 the praibate realm」の二分法を踏まえて、次のように述べたという。

 公的領域というのは、「市民」たちが公開(public)の場で
「ポリス police」―〈politics〉の語源は、〈polis〉である―のあるべき姿について、暴力や強制を伴わずに、「複数」のパースペクティヴから「自由」に討論し合い、共通の物語を作り上げていく領域、いわば「ポリス」の表の領域である。
 それに対して各人の「家 Oikos」を中心とする私的領域とは、成人の男性で市民でもある家長が家族のメンバーや奴隷などを物理的な暴力によって支配し、自らの生物的な欲求を充たす領域、公衆(the public)の目に晒されることのない裏の領域である。(48頁)

 この点について、仲正氏は、アリストテレスの古代ギリシャにおいては、市民権とは家長の地位にともなうものであり、その数は少なく、しかも経済活動は奴隷によってまかなわれていたから、それから自由に討論できたのだということを指摘している。それに対して、近代市民社会では、全ての人間が原則的に市民権を持っていて、表の公的領域での「政治」に参加するようになり、しかも、古代ポリスでは、「家」の中で営まれていた「経済 economy)が、政治の公的なテーマとなったため、物質的利害関係から「自由」に討論し合うことが困難になったと彼女が言ったという。

 ハーバーマスは、『公共性の構造転換』(1961年)で、「私的利益を追求すべく、国家権力による干渉からの自由を要求するようになったブルジョワジー(市民)のコミュニケーション・ネットワークとして発達した「市民的公共圏」の政治的機能をポジティヴに評価する議論をしている」(49頁)。

 それに対して、アーレントは、市民が、私的生活(家計)のことばかり心配し、「政治」が経済的な利害ばかりを公的に論じるようになると、各人が自分の利害を離れて、国家や市民社会を論じるなど、公共の利益のために討論するのが困難になると考えたという。こういう習慣を失った市民たちは、目の前の刺激に刹那的・画一的な反応をするようになり、それが画一化された集団的行動へ誘う共産主義のような世界観が浸透する可能性が生まれてきたというのである。

 こうしたアーレントの議論には、彼女の政治哲学、あるいは人間学、といったものがあり、それは、師のハイデガーの影響も強く表れている。そのことは、例えば、彼女の講義をまとめた『政治の約束』(筑摩書房)によく示されている。そこでは、彼女は、ハイエク同様、「自由」を、消極的自由の意味で使っている。しかし、その前に、「自由」と「解放」をめぐるアーレントの議論についての仲正氏の言及に触れなければならない。

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アメリカ現代思想理解のために(11)

  アーレントの自由論の特徴を、仲正氏は、複数性にみている。

 アーレントは全体主義が抑圧する「自由」の本質を、「複数性plurality」あるいは「人々の間の運動の空間soace of momemento betweenn men」と特徴付けている。つまり、均質的な思考や行動パターンの人たちだけでなく、様々なタイプの人たちが存在し、相互作用することによって世界に絶えず変化があり、多様性が生まれるような状態が自由である。その逆に、全ての人間が集団として文字通り“一体”となり、動物の群のように、あるいはまるで「一人の人間One Man」のように均質的な振る舞い方をするのが、全体主義社会である。したがって、アーレントにとって「自由な社会」を守ることは、各人が様々な仕方で自己形成しながら、交渉し合うことを可能にする「複数性」を守ることである」(46~7頁)

 これらは、弁証法を知る者なら、一方と他方が相互に連関し合っている、あるいは相互浸透して統一されている過程的状態であることがわかる。一と多についての、ヘーゲルの「エンチュクロペディ」の記述を見れば、そのことがわかる。多様性と一性は、このように切り離されて、相互の統一を見失うと、わけがわからなくなる。それは、一と多は、関係だからである。これは、磁石が、S極だけで成り立たず、N極と両極があってはじめて磁性があるのと同じである。N極がなくなることは、同時にS極がなくなることで、それによって、それは磁石でなくなる。つまり、磁性を失う。関係というのは、こういうものである。例えば、アメリカは、アメリカ市民の多様性としての「自由」の対極に、君主=大統領という一者One Manがある。そういう関係がある。

 大統領は、建国からしばらくは、今ほどの権限を集中していなかった。独立戦争の際には、戦争遂行の最高機関は、連合議会であり、それが、ワシントンを軍事司令官に任命したが、彼も、連合議会の一員として振る舞った。アメリカ大統領は、その後、長く、党派のナンバーワンではない者が正式候補となるという習慣が続いたという。今のように、アメリカ大統領が、一身に強大な権限を集中するようになるのは、先の戦時体制構築の過程においてである。

 仲正氏は、アーレントの複数主義を、多元主義pluralismと呼び、その中に位置付けている。そして、アイザイア・バーリンの「価値多元主義value pluralism」を彼女と近しい政治思想の持ち主として紹介している。

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アメリカ現代思想理解のために(10)

  次に、ハンナ・アーレントの「自由」擁護論が取り上げられる。

 仲正氏は、本書で、全体に、ロールズの議論を軸にしながらも、アレントを重要視しているように思える。

 アーレントは、ユダヤ系ドイツ人で、ハイデガーに学び、ナチの台頭で、アメリカに亡命した。彼女は、『全体主義の起源』を1951年に出版し、ナチズムとソ連のスターリン主義という全体主義体制の発生の歴史を明らかにしようとした。

 彼女がこの本を刊行した時期には、反党分子の大量粛清と少数民族の強制移住で悪名高く、左の全体主義体制の代名詞ともなったソ連の指導者ヨシフ・スターリン(1879―1953)がまだ存命であり、東欧諸国や中国にスターリン的な全体主義が広がっていくことが、(西側自由主義社会にとっての)新たな脅威として受け止められていた―この「緒言でアーレントは、スターリン死後のソ連の脱スターリン主義化(「雪解け」)の動きによって、ソ連は全体主義ではなくなりつつあるとの認識も示している。(45~6頁)

 つまり、スターリンの死どころか、今やソ連が消滅してしまって、20年近く起っている現在、アーレントを読む意味はどこにあるのかということがなければならないわけである。

 それを、仲正氏は、こう説明している。

 この著作でアーレントは、19世紀末から20世紀の初頭にかけての産業構造の急激な変容、階級基盤の解体、大衆社会化、国民的な一体感の喪失・・・といった一連の変化によって、安定したアイデンティティの拠り所を見失い、孤立感を抱く大衆が増大してきたことに全体主義の起源があると見ている。この着眼点はフロムの議論とよく似ているように思えるが、アーレントの分析では、全体主義体制の本質は単なる「権威」ではない。(46頁)

 つまり、全体主義は、19世紀末から20世紀初頭にかけての産業構造の急激な変容というところに原因の一つがあるというのである。言うまでもなく、この頃の、産業構造の変化と言えば、自由主義的資本主義から独占資本主義への変化ということであり、そこからの国家独占資本主義への傾向の増大ということである。それが、階級基盤の解体、これは、しかし、同時に、新たな階級基盤の形成ということとセットになっている。つまり、産業資本家、金融資本家などの資本家階級、それから、工業プロレタリアート、管理労働者、技術労働者など。それに対して、ドイツのユンカーなどの地主層、旧貴族、職人層、特権商人層などは、没落し、あるいは新興階級に転じていくなどする。つまり、ここで言う階級基盤の喪失とは、階級階層再編、急速なその流動化をじっさいには指している。

 それから、大衆社会化、国民的一体感の喪失、などは、社会的分業による個人化ということ、労働の私的労働化、などを社会的に反映したものである。日本の大正デモクラシー期に、私的利害の追求を重要視する、いわば私人といったものが都市に大量に登場するといったようなことは、社会的分業の発展と関連している。しかし、それは同時に、日本の帝国主義化、ロシアとの戦争の勝利、朝鮮半島支配、中国への進出、第一次大戦での、軍需景気、等々と不可分のものとして、あった。

 彼女は、背対主義運動の担い手であるナチスや共産党が特定の世界観を担った政党(「世界観政党」)であることを強調する。

 アトム(原子)化し不安定な状態にある大衆は、この世界に起こる全てのこと、「全体」を首尾一貫をもって分かりやすく説明してくれる一つの統一的なイデオロギーあるいは世界観に引き付けられやすくなる。大衆は、現実から逃避して、世界観党が呈示する虚構の世界の中に、自分の本来の居場所を見出そうとするようになる。そして全体主義は自らが作り出す虚構的な全体的世界の中で、それに適合するように人間の本性=自然(nature)を作り替えようとする。つまり、道徳的人格を完全に消滅し、全体の意志と自らの意志が全面的に一致した人間を作り出そうとするのである。(同)

 このような特徴は、大昔のナチだの、消滅したスターリニズムソ連共産党ばかりではなく、アメリカや世界を一時席巻した新自由主義に当てはまる。新自由主義は、「自らが作り出す虚構的な全体的世界の中で、それに適合するように人間の本性=自然(nature)を作り替えようとする。つまり、道徳的人格を完全に消滅し、全体の意志と自らの意志が全面的に一致した人間を作り出そうとするのである」ということを行った。それは、独占資本主義の持つ国家独占資本主義への傾向性の一表現形態、一政治形態である。アフガニスタン、イラク、世界に展開する軍事力、軍産複合体、・・アグレッシブな帝国主義性を今も有しているアメリカの基本的体制を見れば、今もアメリカが独占資本主義の国家独占資本主義への志向を常にはらんでおり、そして、9・11後の、ナショナリズムへの急傾斜、そして、イラクでの非道徳的行為、イスラエルのガザでの道徳的人格を完全に消滅した蛮行への支持というかたちでのモラル崩壊、等々の基礎に、それがあるということは、明らかである。

 つまり、ここでアーレントが言う全体主義体制は、国家独占資本主義体制の一種だということである。だが、それを批判するにあたって、こうした政治的特徴あるいは思想的な面だけから言おうとすることで、彼女が、アメリカの国家独占資本主義体制という全体主義体制を擁護するようなかたちになってしまったということは指摘しておく必要がある。

 とはいえ、もちろん、アーレントの現象学というか実存主義は取らないけれども、彼女の問題提起や分析から学ぶことができるし、学ぶ必要があることは当然である。それは、唯物論と弁証法の基本である。それを切り捨てるのではなく、それを包摂し、発展、展開させることで、限界を超えるのである。そこにある内在的な矛盾を運動させ、その限界のところまで帰結を押し進めるのである。それが、唯物論的弁証法の一つの基本的な批判のやり方である。

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