ソヴィエト家族法について E・H・カー『ソヴェト・ロシア史1924―1926経済』から(2)
1923年にトロツキーが指導した党活動家のシンポジウムで、彼は、「「同志コロンタイのテーゼ」は「父親と母親のその子供に対する責任」を無視し、子供を見捨てる―モスクワで増大しつつある弊害―ことにつながる」「われわれが『自由恋愛』の概念を誤って強調したために、国内戦期に党員は子供が将来どうなるかを考えずに子供をつくってしまった。労働者は党の教えによってその妻との離婚を奨励された。女性党員は党活動のために妻や母としてのその任務をおそろかにした。他方、夫の強い要求から党を離れた女性の党員のいた例も引き合いに出された」(30頁)。エンゲルスから一部が取り出されて強調されたが、それは口先だけのことで、実際生活の上では、伝統的な家族の在り方へと戻っていったという。
1924年までに、堕胎(中絶)の合法化も批判にさらされた。そして、ロシア保健人民委員セマシコは、「諸君の性的エネルギーを公的活動のなかにまぎらしたまえ。・・・もし諸君が性的問題を解決したいと望むならば、種馬や雌馬にならずに、公的に活動し、同志となりたまえ」(31頁)と言ったという。
ブハーリンは、1925年12月の第14回党大会で、青年たちのあいだに「純潔くそくらえ」とか「恥なぞくそくらえ」という名前の退廃的で半不良グループが拡がっていると批判し、コロンタイを猛烈に批判した。
革命と国内戦の時期に、孤児が大勢生まれ、流浪の犯罪者と化していたという。孤児院は不足していた。しかも、1918年の家族法第183条は、養子縁組を禁止していた。しかし、1924年10月には、「子供たちを住民に貸し出す」政策が出される。孤児たちは、家族によって養われることになったのである。1925年11月のロシア共和国中央執行委員会である発言者は、国家が結婚の制度に関心を持たざるを得ないのは、「社会にとって明らかな重要性を持つ多くの結果が結婚の安定性にかかっているから」と言い、孤児の問題を「家族の解体」のせいにしたという(33頁)。
こうして、ロシア革命からわずか数年で、日本の保守派が聞いたら、喜びそうなことを、ソヴィエト政府の高官連中が公言し、そして政策化するということになったのである。
また、農民は、因襲的な結婚の排他的な権利と義務を支持し、自動的な離婚の自由を制限することを支持さえしたという。そして、数年後、離婚権に制限が設けられる。
こうして、家族や性をめぐるソ連の諸政策は、結局、資本主義国とたいして変わらないものになったのである。エンゲルスは、全女性の公的産業への参加や経済的不平等の排除、その他による、女性の経済的社会的地位の改善の後には、自由恋愛は、その言葉どおりの内容が実現されるということを書いている。彼は、当時、イギリスで、女性が工場や炭鉱などで働いて家計の主な柱となっていたプロレタリア家族では、夫の暴力を除けば、ブルジョア的ではない自由恋愛が実現していると見ていた。ただし、エンゲルスは、こうした改善の後の世代がどういう性愛関係を築くかは、その世代の問題だとしている。
レーニン存命中は、家族法の領域では、明らかに、進んだ政策が取られた。しかし、ブハーリン、トロツキー、その他の後継者たちは、後退していった。アメリカのキリスト教右派などの保守勢力は、共和党支持を通じて、家族の価値を高め、堕胎の禁止や性道徳の再建・厳格化などを推進しようとしてきたのであるが、1920年代後半以降のソ連でも、似たようなことになったわけである。性や家族問題ばかりではなく、喫煙や飲酒なども含めて、国家が、それらをモラルの問題として取り上げたことも、共通するわけである。
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