« アメリカ現代思想理解のために(30) | トップページ | アメリカ現代思想理解のために(32) »

アメリカ現代思想理解のために(31)

 ロールズに代表される「リベラル」に対する第二の批判者として、「コミュニタリアン(共同体主義者)」が台頭してきた。

「コミュニタリアン」は、・・・様々なレベルの文化的な「共同体」の中で培われる諸個人の価値観を重視する立場であり、共同体ごとに培われる価値観を度外視して、正義の原理を普遍的に探求することができるかのような議論をする「リベラル」を批判する(133頁)。

 「コミュニタリアン」陣営のトップを切ったのは、マッキンタイアで、アリストテレスやトマス・アクィナスまだ遡って西欧の倫理思想を研究した人である。

 ドゥウォーキンたち近代自由主義者は、「人間にとっての善き生」は人生の諸目的といった―アリストテレス的な―問いは公共的な視点からは解決不可能であるのとの立場を取る。かれらは、法や道徳の規則を、善や人生の目的といったより根本的な概念から導き出したり、そうした概念によって正当化しようとはしない。そのため、「規則」こそが彼らにとっての道徳生活の第一概念になっており、その「規則」に従って生きることを道徳的な特性と見なしている。マッキンタイアに言わせれば、こうした評価は転倒しており、目的抜きで規則だけ追求していても、道徳生活に統一性をもたらすことはできない。彼は近代啓蒙主義が生み出した道徳をめぐる混乱から脱出するために、アリストテレス的な目的論を再考するよう提案する(135頁)。

 近代自由主義者が、「規則」あるいはルールそれ自体を自己目的化したことは、やはり、倫理を、快不快の感覚や善悪の価値から切り離して、それ自体として義務化(定言命令)化したカントの理論に従っていることを示している。それには、近代啓蒙主義が描いた合理的人間像が前提としてあるということである。

 アリストテレスは、その倫理学において、例えば、「ニコマコス倫理学」の冒頭で、人間にとっての最高の目的は、幸福=善(エウダイモニア)と述べている。しかし、この善は、アリストテレスにとっては、「共同体」としてのポリスにおける「共通善」として追求される。それを追求する徳が、「正義の徳」であり、それは、あくまでも「共同体」にとっての徳である。マッキンタイアは、ロールズもノージックも共同体・社会的な絆(関係)以前に、個人を置いている点では共通であり、それに対して、「礼節と知的・道徳的生活を内から支える地域的共同体を建設すべき」(136頁)だと主張したという。

 1982年『自由主義と正義の限界』を出版したサンデルは、近代的自我観を批判して、「共通善」の問題を復活させようとしたコミュニタリアンの代表的思想家である。サンデルは、正義の善に対する優位を前提としていて、それは道徳法則として客観的に正しいこととして妥当するものと見なしており、人々が生の目的として追求する「善」と切り離されている。これは、道徳法則それ自体において価値があり、それは、意志は、純粋理性の一面であるからと述べたカント同様である。それに対して、サンデルは、「家族、部族、都市、階級、人民、国民(ネーション)などの、各種の「共同体」の中で培われる暗黙の慣習や相互了解が、各人の自己理解の基盤を提供している」(138頁)と主張したという。この問題は、かつて、「自己意識」というヘーゲルの『精神現象学』において、問われた問題で、それは、「自我=自我」というフィヒテ的な自同律から、対象化、外化、疎外、その回復、の運動というかたちで言われたことと関連する。

 ここで、近代主義的自由主義の一つの特徴として、自己完結的なアイデンティティーを有する「付加なき自己」を想定していること、そして、「規則」を、善や幸福や利害などの目的と切り離して、それ自体として自己目的化していることを、「コミュニタリアン」が指摘したことは重要である。それに対して、功利主義は、まがりなりにも、ルールを、利害や目的、幸福や善と切り離さないということ点では、まだリアルである。しかし、それも、特定の人々・集団に偏った共通善の追求を普遍的なルールとして他の人々・集団に押し付けるようになるわけだが。

 続いて、ウォルツァーが登場する。彼は、独占を悪として、それに対する、多元的な領分での「平等」化の闘争を主張する。彼は、「単一の原理に基づく究極の平等を目指すのではなく、それぞれの社会の政治的・文化的特性を前提にして、各領域の間でバランスを取った複合的な平等を構想すべきだ」(142頁)と主張した。しかし、彼は、文化的多様性それ自体を原理にして、他の文化的多様性を否定し、抹殺することを肯定した。多文化主義的なコミュニタリアンのテイラーは、カナダでのケベック州の独立に反対して、ケベックのアイデンティティの独自性とカナダの国家としてのアイデンティティを両立させようとしたという。これは、マルクス的なコミュニズムからする、共同体、アイデンティティを奪われ、消されているという、特異な共同性を持つ存在としての、プロレタリア(無産者)の、独自のアイデンティティ、その集合、共同体としてのコミュニズムというのとはずいぶん違う。すでに、あるものをあるもののアイデンティティを折衷する、両立させるというような感じである。双方の関係は、両立可能か、その間に矛盾はないのか、否定性、敵対性はないのか。そして、それらは社会的歴史的諸条件によって動くものではないのか。これは、具体的に見ていかなければならない問題だ。

  1976年、民主党カーター大統領は、人権外交を展開する。実際には、それは人権強制外交だが。ベトナム戦争でアメリカ敗北。人権外交の結果、ニカラグアで、ソモサ独裁を倒すサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が勝利、79年にソモサ大統領は亡命する。FSLNは、今年、久しぶりに選挙で政権獲得した。同年1月、イラン革命、親米パーレビ王政崩壊。12月、アフガニスタンにソ連軍が介入。アフガン内戦。映画「ランボー」でもおなじみのアメリカが支援するアフガン・ゲリラとソ連に支援された政権との闘いが激化していく。80年、第二次石油ショック、不況下の物価下落、いわゆるスタグフレーションに襲わ、経済危機に陥っていたアメリカで、共和党レーガン政権が誕生する。彼は、ソ連を「悪の帝国 Evil Empire」と呼んだ。同じことを、これから約20年後、ブッシュJrは、繰り返したが、この時は、「悪の帝国」は、三つの中小国の集合体であった。レーガンは、83年10月に、グレナダに軍事侵攻して、左派政権を倒し、親米政権を据えた。ニカラグアでは、反共ゲリラ「コントラ」の支援を始めた。そして、スターウォーズ構想をぶち上げて、軍事=宇宙=航空産業にてこ入れし、そこで、国防予算というかたちでの需要を創出、技術開発投資を大規模に行った。財政赤字は膨大になっていたが、「小さい政府」を標榜し、強いドルの復活を夢見て、高金利政策を取る。航空管制官のストに直接介入し、全員の首切りを強行。失業者は増え、あちこちで暴動が発生した。経済政策としては、①規制緩和の推進、②(国防予算を除く)政府の財政支出の大幅削減、③大幅減税による民間投資の活性化、④金融政策によるインフレ率の低下、を組み合わせたレーガノミックス政策を取った(150頁)。しかし、これは、いわゆる双子の赤字を膨張させただけだったので、軌道修正される。

 この頃、保守派には、「オールド・ライト」、「ニュー・ライト」、転向派の「新保守主義者」の大きく三つの潮流があったという。さらに、「キリスト教原理主義」「宗教右派」が台頭してくる。これは、別名「福音主義」とも呼ばれるもので、中絶、同性愛などに反対し、公立学校などの公的な場で祈祷を行うなど政教分離の原則の緩和や家族を中心とした価値観を復活させようとした(151頁)。

 ここから話がややこしくなってくる。
 こうした保守主義の台頭に対して、「リベラル」は、「価値中立性」を原則としていたために、有効な反撃が出来なかった。価値観は「内面」の問題であり、それに干渉すべきではないとみなされ、政治の場での公共的な議論にできるだけしないようにするのが基本的な原則だったからである。それで、ロールズは、数量的・形式的に比較しやすい問題に絞って、「公正としての正義」についての合意を成立させるための装置を作ろうとしたという(153頁)。しかし、70年代の「リベラル」の運動によって、伝統的価値が失われ、リベラルな価値観が浸透した結果、アメリカのアイデンティティの危機が起き、アメリカ人とは何者か?」という問題が俎上にのぼせられたという(155頁)。

|

« アメリカ現代思想理解のために(30) | トップページ | アメリカ現代思想理解のために(32) »

思想」カテゴリの記事

アメリカ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: アメリカ現代思想理解のために(31):

« アメリカ現代思想理解のために(30) | トップページ | アメリカ現代思想理解のために(32) »