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アメリカ現代思想理解のために(33)

 「差異の政治」潮流は、フーコやデリダなど「ポストモダン」の影響を受けた。

 1960年代公民権運動やフェミニズムは、近代市民社会の枠内の「市民」としての「平等」と「自由」を求めたが、70年代以降台頭した「差異の政治」は、「市民社会」自体が、白人男性中心文化の歴史的遺産であり、「マイノリティ」や「社会的弱者」のそれとの統合は、市民としての幸福につながらないと考えた。「差異の政治」派は、「市民社会」的白人男性文化によって「上」から与えられた自己の「アイデンティティ」を問い直し、再構成しようとした。「権利」は、市民社会が市民を統治しやすくするための権力装置にすぎないとかれらは考えた。かれらは、近代的理性にとっての「他者」の排除による「理性的な主体」の構成を問題にするフーコーや、同一性(アイデンティティ)を押し付けてくる西欧中心主義(男根ロゴス中心主義)に取り込まれることのない「他者」や「差異」に焦点をあてるデリダの考えを取り入れているように見えるという。

 これらの議論は難解で、政治的実践に繋がりにくい。しかし、76年に、「ポストコロニアル・スタディーズ」の旗手と言われるスピヴァクが、『グラマトロジーについて』を英訳した頃から、政治的に受容されるようになったという。彼は、デリダのテクスト分析の手法で、イギリスの植民地のインドで、男性中心の文化の二重に抑圧されてきた女性、特にカースト制度の外で、自分たちを語る言葉を持たなかった「サバルタン(被従属民)」の女性たちの物語をめぐる研究に結び付けた。パレスチナ人のサイードは、「西欧文明の他者」としての「東洋」が一面的で均一的に表象されていることを問題にした『オリエンタリズム』を78年に出した。

 こうして、アメリカでも「ポストモダン」の影響が浸透していき、それに結び付いた「差異の政治」は、「アイデンティティ」を問題にするという点で共通する「多文化主義的コミュニタリアニズム」派のテイラーの議論と親近性を持ったという。

 テイラーとウィリアム・コノリーとの間で論争が起きた。コノリーは、「革命による政権転覆のようなことを目指すのではなく、近代の自由主義の枠内で「自己」「正義」「共通善」についての理論を構築すえきと考える」(171頁)姿勢では、テイラーと同じだが、「共通善」によって、差異が抑圧され、不可視化されることを問題にした。そこで、差異のための抵抗の場を確保するするために、自由主義自体をラディカル化することを強調したという。両者は、84年から85年にかけて、フーコーの主体=権力論の理解をめぐって議論した。

 フーコーは、・・・露骨な暴力を振るうことなく、監視装置や医療制度、教育などの様々な「生のテクノロジー」を用いて、正常=規範化(normalize)された「主体」を構成し、その「主体」を“内側”からコントロールし、躾ているという権力論を展開している(172頁)。

 それに対して、テイラーは、それは一面的であり、市民社会の「自由」のメリットを各主体が、享受している面があるし、近代の「解放」的側面もあることを認めるべきだと言ったという。また、主体としてのアイデンティティは、臣民化(従属化)というばかりではなく、共同体の中での生活を通して獲得されていく真の「自己」のアイデンティティに至る一つのステップであることを主張した。しかし、それでは、他者性が排除されるとコノリーは批判した。コノリーは、「正常な個人」を前提としているので、「差異」を隠蔽してしまう、つまり、合理的人間という前提があり、それが、理性と同一視されているというのである。だから、それは、最終的には、大きな共同体による「予定調和」への信仰に陥り、信者以外を排除することになる。そういう共同体的なアイデンティティを固定して、画一的に正義を実行すれば、新たな抑圧や排除を生む。だから、「差異」の政治化、アイデンティティを固定させない、戦闘的なリベラリズムが必要だという。

 それに対して、テイラーは、「自己のアイデンティティ」を確定するには、他者からの「承認」、それも一人の人格としての「承認」が必要だという議論を展開したという。そして、以下のような興味深いことを述べているという。

 テイラーに言わせれば、各人の尊厳の平等な承認を、画一的なアイデンティティの押し付けを意味するものとして否定的に理解すべき必然性はない。それは本来的には、各人が普遍的に有しているはずの「自らのアイデンティティを形成し、定義する潜在能力」を尊重することを意味しており、文化間関係においては、他の文化に属する人々にも自分たちと同じ文化形成能力があることを認め、彼らの文化を自分たちのそれと同等に尊重することに通じている(175頁)。

 彼は、アイデンティティを形成することを、普遍的な潜在的能力と呼んでいるが、共同体毎に異なる神をシンボルとして掲げていた太古の日本の共同体のことを考えてみれば、それは歴史的な力というふうに言った方がよいだろう。「八百万の神」とは、無数の共同体ということであり、それらは、共存し戦争もする中で、相互承認し合っていたと考えられる。「他者」が別の共同体に入る時、まずは、その共同体の掲げる神や仏に詣るのは、承認の儀式であると考えられる。「他者」の敵対性の解除、相互承認があって、自己のアイデンティティが形成されるという彼の考えは面白い。

 つづいて、「公/私」二分論の問題である。公事と私事の区分は、明らかに、歴史的に変化している。それは、網野善彦氏の中世史研究からも明らかだが、問題を近代に限定すると、近代においては、「アーレントがモデルにしていた古代のポリスの「公/私」の場合とは違って、市場を中心とする経済活動のかなりの部分が「公的領域」に属する」(178頁)。一般に、古典的自由主義者、例えば、ハイエクのような人が言うのとは違って、市場の拡大に伴って、私的領域に公的領域が入り込むようになったのであって、それは、単に政治的な要因によるものではない。だから、これは、社会主義の問題ではないのだが、かれらはそうした現実から目を背けるのである。もちろん、ハイエクは、自由主義の祖国と見なしているイギリスにおいて、当時、公的領域が私的領域にどんどん介入していく事実を見て、それを全体主義への傾向であると憂慮した。そうなったのは、経済的理由と同時に戦争に備える必要があったからである。現代日本においては、例えば、根拠が曖昧なままに、事実上の禁煙法体制が敷かれている。ちなみに、たばこを悪とするのは、健康うんぬんと関係なく、すでに17世紀のアメリカのある州において法律化されたことがあるように、別の理由がある。禁酒法もそうである。フーコーなら、これは、「生」を管理するテクノロジーをもった権力の発動だと言うところである。また、今、子育てからなにから、公的領域が介入していない領域はほとんどないと言っていい状況にある。

 それに対して、「近代市民社会における「私的領域」というのは、主として「家」を中心とした親密な関係の人たちだけから成る、“公共性が低い”と見なされる領域である」(178頁)が、そんな領域は今ほとんど存在しない。市場に巻き込まれていない私的領域は少なくなった。もちろん、それでも、そういう領域は残されてはいるが。しかし、家庭内暴力の問題などを通じて、あるいはフェミニズムが、私的領域=家をめぐる権力関係=家父長制を問題の俎上にのぼせ、批判したことなどから、「公/私」二分論は、問い直されざるを得なくなった。

 「リベラル」が前提にしている「公/私」二分論を攻撃したのは、ラディカル・フェミニズムである。『性の政治学』で、ケイト・ミレットは、家は家父長的な権力関係の場であることを暴露し、ラディカル・フェミニストたちは、「私的なものは政治的である the pribate is political」というスローガンを掲げた。こうして、「私的領域」への国家の不介入を前提とするリベラル・フェミニズムとラディカル・フェミニストたちは分岐する。

 リベラル・フェミニズムが、「公/私」の境界線自体には触れないで、公的領域における職業生活などにおける差別撤廃と、機会均等という意味でのジェンダー間の平等を目指すのに対して、ラディカル・フェミニズムは、男性中心の経済を支えてきた近代的な核家族制度と正常=規範化された性の在り方を解体し、社会構造全体を変容させることを通して、新たなジェンダー・アイデンティティを産出することを目指す(180頁)。

 ここからが難問である。近年、「セクシャル・ハラスメント」や「ドメスティック・ヴァイオレンス(DV)が問題として浮上してきた。「これまで「法」の俎上に載せられなかった私的領域での親密な人間関係における権力・暴力の問題が、法的正義の基準によって判定されるべき問題として浮上してきた」(182頁)のである。その場合に、英米法では、合法/違法の司法判断は、「通常人=合理的人間reasonable man」の基準によってなされてきたが、この「合理的人間」こそ、白人男性中心主義として、ラディカル・フェミニストが批判するところのものであった。男性が多数を占める裁判官の想定する「合理的人間」の基準と、女性の常識的感覚が異なる場合がある。そして、ラディカル・フェミニストの急先鋒として、マッキノンが登場する。

 彼女は、『セクシャル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウーマン』で、セクハラは、「個々の女性に対する差別であるだけではなく、男性と女性の間の根本的な不平等を再確認・強化する公でもある」(183頁)と主張したという。

 「ポルノグラフィ」についても、猥褻性の問題としてではなく、女性に対する男性の暴力的な支配を、表象的に再確認する行為として位置付け、ラディカル・フェミニズムの活動家・ジャーナリストであるアンドレア・ドゥウォーキン(1946-2005)らとともに、人種、宗教、性による差別禁止を定めた「公民権法」に基づいて「ポルノ」を実質的に非合法化していく運動を展開している。

 このことは日本でも問題になったことがあるが、未だに、ポルノと性暴力の間の因果関係は十分に立証できていないように思われる。アメリカでは、ポルノグラフィの全面禁止と検閲を正当化しようとしたマッキノンと言論の自由という観点からこれを批判したロナルド・ドゥウォーキンの間で、議論が持ち上がったという。マッキノンの主張は、文化を基本的にプロパガンダと煽動、洗脳の手段と見ていることから来ていて、いわば、決定論的である。これは、ナチスの宣伝映画によって、ファシズムが広まり、戦争という結果を引き起こしたと言っているようなものである。もっと言えば、これは、表象あるいは意識が、人の行為を一義的に決定するという考えである。この場合、現実には、「ポルノグラフィ」の多くは、女性差別的であるのかも知れないが、表現としては、かつての男尊女卑的な、女性に、性的表現や言動や行為を、はしたないとか、女性らしくないとか、様々に規制してきた家父長的抑圧からの解放、あるいはその闘争を表現したものもあると思う。そこで、それに対して、ドゥウォーキンが、「言論の自由」が女性解放の闘いの武器となったことを指摘して、それを過度に制限するようなやり方を批判するのもうなずけるところはある。

 この類の問題は、フェミニズムばかりではなく、例えば、日本でも「ちび黒サンボ」問題とかいろんな形で問われたことである。こういうことの議論で、前提として、思想や観念や言葉などが一義的に人々の行為を規定するという観念論があることを指摘しておかねばならない。この種のことで、問題になっているのは、社会関係であって、それは意識が規定するというものではない。これと似た議論として、例えば、ローザ・ルクセンブルグやクララ・ツェトキンなどのドイツ社会民主党のフェミニストたちが、売春婦を組織したことをめぐって、起きた議論がある。売春は禁止されるべきか、それとも、労働者として権利を主張すべきかということである。いずれにしても、問題を性暴力に絞り、その原因を「ポルノグラフィ」に一元化し、それを国家暴力=司法権によって強制的に禁止することで解決することが、女性の解放をどれだけ前進させることになるのかは今のところ不確かだと思われる。

 歴史的に見れば、例えば、近代以前の日本では、性を私的領域における私事としてプライベートな領域の秘め事とするようなことは、一般にはあまりなかった。例えば、江戸時代、銭湯は混浴だったし、今は浮世絵などは、ヨーロッパの印象派に影響を与えたことなどから、たいそうな芸術作品としての扱いを受けているが、その中には春画もあった。廃仏毀釈で、仏像ばかりではなく、雑多な民間信仰の対象物まで破壊・撤去される前は、性器をかたどったシンボルが、平気でそのへんにあって、それを祀っていたのであり、近代になってから、それらが禁止され、タブー化されていったのである。性をめぐる「公/私」の区分は、歴史的に変化したもので、女性的なものとしての性的振る舞いや表現もまた、近代的価値観によって、規制されてきたのである。それは、いきなり近代から始まったアメリカでは理解するのが難しいことなのかもしれない。初期移民で優勢だったピューリタンたちは、極めて厳格な宗教共同体を築き、性に関する統制も厳格だった。そういう傾向は、ついには、禁酒法時代をももたらすことになるわけだが、そういう歴史的条件の下で、この問題を考えるのと、そのようなものが外から持ち込まれて変化したという歴史経過を辿った日本ではちょっと違うのである。初期のアメリカ移民の中での女性について書かれたアメリカ史を読んでみると、まず、女性で多かったのは、いわゆる家政婦で、それから、妻であり、彼女たちは、戦士の妻、銃後を守る愛国女性という位置を割り当てられた主婦だったという。

  なお、最近、性犯罪の問題が、マスコミなどで大きく取り上げられた際に、平行して少年犯罪の急増とか犯罪の急増とかいうことがさかんに強調されたが、これはデータ的に根拠がないことが明らかになっている。データ自体は、その時も、誰でも見られるようになっていたのだから、この時の騒ぎは、明らかに、政治的な狙いを持った煽動である。データ的根拠がないにも関わらず、少年犯罪に厳罰を科すことは、増え続ける少年犯罪を抑止する効果があると唱えられたが、それに世間は煽られたわけである。

 オーキンは、「リベラル」の土俵に乗ってジェンダー正義を唱えたという。彼女は、家庭内の不平等を、「賃金労働/非賃金労働」の配分という視点から論じているという。女性は、働いても男性より賃金が安いので、結婚して、家事労働を選択するが、それによって、稼ぎ手たる夫に従属するものとなり、それが家庭内暴力の原因にもなるという。離婚しても十分な収入が見込めないので、男性の横暴に耐えることになるというのである。それを正すには、ロールズと『正義論』とウォルツァーの「複合的平等」を組み合わせるのがよいという。しかし、彼女は、公的領域での緊張から解放されるために、親密圏としての「私的領域」は重要だという。しかし、女性にとって、「私的領域」たる家庭が、強い緊張をもたらす場であり、従属の場であるとすれば、それは、男性だけのための「私的領域」ということにすぎないだろう。

  それに関係するものとして、ドイツのフランクフルト学派がいる。「理性的な主体」のアイデンティティ形成の画一性や、人々に現実を見えなくさせているイデオロギー(虚偽意識)の生成をめぐる問題を探求したが、その後、ハーバーマスが出た。彼は、「アーレントの公共性論を取り入れて、市民的公共圏における民主的な意思形成のための条件を探求するコミュニケーション的行為論・正義論を展開」(188頁)した。それに対して、マッカーシー、ベンハビブ、フレイザーらは、彼の期待する市民的公共圏が、市民社会の主流であるブルジョア階級の白人男性中心主義的コミュニケーションから排除される人々を無視する傾向があると批判した。フレイザーは、公/私の境界線を流動化させることで、公共圏から排除されている人々を双方の領域で承認されるための道を開くのだという。

 仲正氏は、「「リベラリズム」が、アイデンティティ、価値観などに関わる問題に介入しないということはもはや全くの自明の理ではなくなった」(190頁)としている。つまり、「リベラリズム」が追求する平等や正義は、領域間で連関し、一方から一方へと波及していくことによってほり崩されてしまうので、介入せざるを得なくなったというのである。思うに、これは、「リベラリズム」が支配的思想になったためである。

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