アメリカ現代思想理解のために(34)
今度は、「プラグマティスト」のローティが登場する。
それまでの現代哲学の「認識論的枠組み」から「言語論的枠組み」へのパラダイム転換を、「言語論的展開linguistic turn」と呼んだのは彼だという。彼は、「心=主体」を「自然=客体」を正しく写す「鏡」のようにイメージすることを批判し、このメカニズムを探求して、全ての知を基礎づけようとする哲学の態度を「基礎付け主義fundationalism」と呼び、批判した。さらに、彼は、哲学者相互の会話としての「哲学」という営みには、最終的真理への到達を目的とする「認識論epistemology」タイプと「会話者同士の合意を目指しながらも、意見の不一致もさらなる対話のための生産的な刺激と見なす「解釈学hermeneutics」タイプがあるという。そして、「解釈学」タイプをよしとする(199~200頁)。このタイプの哲学者として、デューイ、ジェイムズ、パースらのプラグマティスト、ハイデガー、後期ウィトゲンシュタイン、ガダマー、フーコー、デリダ、クワインらをあげているという。
『哲学に対する民主主義の優位』(1988年)で、彼は、自由主義的な社会理論には、「人権」を非歴史的で絶対的なものと見なすものと、特定の共同体の中の合意の産物と見なす、二つのタイプがあるとしたという。前者のタイプとして、ドゥウーキン、後者のタイプとして、デューイやロールズをあげ、彼は、後者を支持した。彼は、アメリカ建国の父の一人ジェファソンが、宗教的価値観と政治を切り離したことを評価する。つまり、政教分離を評価したのである。そこで、「寛容」がテーマとして焦点となったという。ロールズは、『正義論』では、「無知のヴェール」の下で、リベラルと同じように考えるという「人間本性論」的な想定をしているが、その発想自体が間違いだというのである。ロールズは、哲学についても、「寛容」の原理を適用し、いろいろ違いがあっても、結果的に望ましい社会秩序について大体同じようなイメージを持っていれば、その重なり合った部分に限定して、合意すればよしとしたのである。結果オーライという意味で、プラグマティズムと似ている。
「人間本性、自我の本性、道徳的動機付け、人生の意味などに関わる「哲学的人間学」によって、民主的社会のための社会理論を「基礎付ける」必要がない」(203頁)ので、デューイは、これを支持するという。「ジェファソンやデューイは、「アメリカ」を民主主義的自由主義のための共同の「実験」と考え」(同)たと彼は考えた。しかし、ここで、哲学者としては、二つのタイプを含む哲学の議論を前提として、こういう区別をすることを戦術的態度として選択することは可能であるが、しかし、価値観の問題を、私的領域の私事へと追放することは、それを哲学の対象から放り投げ、例えば、宗教にそれを委ねるということになりはしないだろうか。それは、プラグマティズムの提唱者であるジェイムズによって、哲学と宗教の間の分業というかたちで言われていたように思われる。
ローティは、『偶然性・アイロニー・連帯』で、「リベラルな共同体」は可能かと問うている。イギリスの保守的な政治哲学者オークショットによる「統一体universitas」と「社交体societas」の区別を取り入れた。「統一体」は、共通の目標によって統一された仲間意識を持った集団であり、「社交体」は、互いを保護するために協力しているが、同調することは避けようとする人々の一団である(205頁)。「リベラルな共同体」の市民は、共同体の道徳性が偶然の産物であることを知っており、偶然性の感覚を身につけている。
「リベラル・アイロニスト」は、近代市民社会で支配的になっている「自由」観さえも偶然の産物であるにすぎず、普遍性は存在しないと見なしている点で、ポストモダン的である(206頁)。これは、唯名論か?
「アイロニスト」の代表として、フーコーがあげられる。フーコーは、近代市民社会が、理性の名の下に特定の文化パターンを強制し、抑圧することを告発し、それに「主体=臣民」として飼い慣らされすぎているので、リベラルな社会の自己変革は不可能だと考える。「新たな抑圧を生む可能性のある、いかなる制度的改革に対しても警戒し続けるという意味でのフーコーは、「アイロニスト」であるわけだが、それは彼が人間の根底に決して抑圧されるべきではない「何か」を想定するからだと、ローティは言う(206頁)。これに対して、ハーバーマスは、間主体的に発揮されるコミュニケーション的理性に訴えかけるという戦略を取る。それも、普遍的な理性を想定している点で、取り入れられないという。彼はどうも唯名論者みたいだ。
ローティは、『わが国を達成する―邦訳タイトル『アメリカ 未完のプロジェクト』(1998年)で、「プラグマティズム」をアメリカ固有の左派思想と見なし、世界最初の階級制度のない協同的連邦国家(cooperative comonwelth)を実現した時には、愛国主義的な左派の言説が優勢だったという。ニューディールもそうだという。彼は、「改良主義的左翼」の伝統として、ハーバート・クローリーや、世界産業労働者組合(IWW)のデブスやデューイなどをあげる。ところが、60年代後半以降、「新左翼」が台頭したが、かれらは、文化闘争にばかり力を入れて、現実的な改革に関心をあまり持たなかったと彼は言う。それを、ローティは、「文化左翼Cultural Left)と呼んだ。彼は、「文化左翼」が、差別の構造や深層心理を暴き出し、告発することばかりに集中して、現実の経済的改革に関心を持たないので、実際にはただの傍観者に留まっていると批判した。つまり、現代版ヘーゲル左派ということか?
ローティは、「アメリカ」を、民主主義の夢を完成する壮大なプロジェクトと見なす、詩人ホイットマンやデューイの思想を引き継ぐ、「改良主義的左翼」、そして左翼としての愛国心の必要性を説いたという。これは、「左翼と右翼の言説が交差するようになった“ポスト・モダン状況”をよく表しているように思われる」(210頁)と、仲正氏は言う。
ロールズの議論は、『政治的リベラリズム』(1993年)になると、「異なる教説の間の関係を政治的に調整する役割に徹する“リベラリズム”を強調するようになったという。
政治的リベラリズムは、その政治的目的にとって、各々が分別がある(reasonable)けれど相互に両立し得ない包括的教説が複数存在することが、立憲的な民主体制の自由な諸制度の枠内で人間的理性が行使されたことの正常な帰結と見なす。政治的リベラリズムはまた、分別ある包括的教説は民主的体制の本質的部分を拒絶しないと想定する。無論、一つの社会には、分別がなく非合理的で、狂ってさえいる包括的教説もまた含まれているかもしれない。その場合、問題は、そうした教説が社会の統一性と正義を掘り崩さないように抑制することである。(political Liberalism,Columbia University Press,1996,p.ⅹⅴⅲ)
ロールズは、カントの公共的理性という概念を借りて、互恵的な関係のために他者と共存する意志がある者同士、そして、自由で平等な市民の「代表者」たちが、社会的協力のための公正な条件」をめぐって行う討議の進め方や条件付けの公正化を行うことを提案する。
全ての理性=理由付けが、公共的理性=理由付けであるわけではない。教会、大学、そして市民社会の他の多くの連合体による非公共的理性=理由付けもあるからである。貴族制あるいは独裁制の政権では、社会の善が考慮される時、それは―そもそも存在しているとしても―公衆(the public)によってなされるわけではなく、誰であれ支配者によってなされることになる。公共的理性=理由付けは、民主的人民の特徴である。それは民主的市民たちの、同等の市民権(scitizenship)のステータスを共有する人たちの理性=理由付けである。彼らの理性=理由付けの主題は、公衆の善、つまり正義の政治的構想が、社会の諸制度の基本的構造、そしてそれらの制度の目的や目標に対して要求するものである。(Ibid,p.213)(213~4頁)
ロールズの「公共的理性」とハーバーマスの「コミュニケーション的理性」は、ともに、カントに基づいている。これらは、立憲的な諸制度に立脚した民主的意思形成のルールを問題にする議論で、全ての市民に開かれた公開フォーラムでの憲法の本質的要因に関わる討論を行う場合のルールを問題にするということである。これは一見すると、ソフトに見えるのだが、例えば、ハーバーマスは、クリントンによるコソボ人の人権を理由にしたユーゴへの人権のための戦争へのNATO軍へのドイツの参加を支持した。あの時、コソボに対してユーゴ軍が軍事介入して、大量の避難民が発生したことは確かだが、即座に軍事介入しなければ、大量虐殺とかが起きたような状況だったか、今振り返ってみると、そこまでは言えない状況だったと思う。言い分はあると思うが、結果的に見ると、ドイツ軍の戦後初の域外派遣を求めたハーバーマスの主張は、愛国主義的な性格を持ったと言わざるを得ない。もっとも、彼は、その後、自己批判しているのだが。ローティが生きていたら、先のイスラエルによるガザ空爆からのパレスチナ人虐殺攻撃に対してどう言っただろうか? 多元的リベラル派のウォルツァーは、イスラエルの攻撃を支持した。それも、積極的に支持した。その現実の姿を見る時、「リベラル」な合理的人間・理性的人間、そういう思想を代表する哲学者の野蛮さや残虐性を感じざるを得ない。後で出てくるが、9・11事件後のアフガニスタンへの軍事介入に、「リベラル」な左派系知識人、60人もが連盟で支持を表明したり、フェミニストの「フェミニズム・マジョリティ」が、やはり、これを支持したというあたりの問題である。
サンデルらコミュニタリアンたちは、政治の道徳化に向かっていったという。
ウォリンらは、ジェファソンの民主主義推進論と対立した強力な政府を作ろうとしたフェデラリストとの対立を振り返り、アメリカ憲法の歴史で、人民管理をめざす中央集権的な官僚権力と、地方自治、脱中央集権的、参加型民主主義、平等主義的な感情などの対立と緊張関係がずっと続いてきたと指摘しているという。また、古代ギリシア・ローマの都市国家、マキャベリ、イギリスのハリントンらの共和主義と民主主義論を結び付けて議論する「共和主義的な民主主義論」の流れがあるという。仲正氏は、アーレントの公共性論をこのタイプに分類している。
民主主義論としては、「討議(熟慮)的民主主義論」が台頭したという。それに属するのは、ハーバーマス、ベンハビブ、ジョシュア・コーエン、そしてロールズもこの系譜に連なるという。仲正氏の解釈では、「討議的民主主義」は、公共的討論によって結論の正当性を得ようとするものだという。それに対して、「差異の政治」を重視するラディカル・デモクラシーの一派は、民主主義的な合意の下で隠蔽される差異の浮上を目指しているという。例えば、ムフは、予め合意不可能な他者を排除した上での討論のフォーラムではなく、新たな他者たちを参入させる継続的な闘争が必要で、それを「闘技的多元主義」と呼んだという。また、同書にはないが、スピヴァクも、ハーバーマスやロールズを、サバルタンの排除を問題にしていないとして、批判している。
最低限の「自由と民主」が確保され、かつ“共通の敵”がいなくなった状態で、「自由」と「民主」をそれぞれ充実させようとすると、対立が目立つようになってくる(222頁)。
この過程は、同時に、公的領域が私的領域に浸透する過程である。一般に、公による私への統制とか介入というのは、軍国主義の問題と思われているために、この過程についてあまり気付かれていないが、家庭内暴力の問題では、まさに、この問題が問われているのである。ドメスティック・バイオレンスから家族を守るためには、公的あるいは準公的な監視や介入が必要だという議論が起きたのである。似たようなこととして、トクヴィルの『アメリカの民主主義』に描かれているような、ピューリタンのコミュニティで、学校に通わせない親から、コミュニティの長が、親権を取り上げることを合法化していたということもある。親権は、公にとって、不可侵の私的領域の問題ではなかったわけである。さらに、グローバリズムが、私的領域の市場化を推し進めたために、さらに私的領域は、公的領域に侵されることになる。一般に誤解されているように、私企業は、私的領域の存在ではないし、ましてや市場はそうではないということだ。
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