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2009年8月

総選挙結果によせて

  総選挙の結果が出た。

 今度は、マスコミ各紙の予測はほぼ当たった。自民党・公明党は大惨敗した。自民党は、303議席から、119議席に半減以下に減らした。民主党は、106議席が、308議席への大躍進である。社民・共産は現有議席維持。公明党は、31議席を21議席に減らした。東京で太田代表が落選した。

 民主党、鳩山代表は、300を超える議席という大勝を、革命的と評価した。そのわけは、明治以来の官僚主導を政治主導に変わるからというのである。勝ったのに、鳩山を始め、党幹部は一様に厳しい表情をなかなか崩さなかった。それは、政権運営の責任の重さをリアルに感じたからだろう。党首インタビューでは、脱官僚、政官財の癒着の排除、市場主義を重視しつつも、その悪影響を除去、科学技術重視による経済成長、規制改革をバランスよく作り直す、直接的な所得保障、経済成長は必要だが、一人一人が幸福になることが重要、外交については、「対話と協調」、国家戦略局の設置などを主張した。

 選挙結果全体は、有権者の圧倒的な政権交代要求の強さを示した。前の小泉郵政選挙の時と同様である。そして、それに小選挙区制の効果が加わった大勝であった。連立を組むと見られる社民党は、一桁の7議席に終わった。それも、民主党候補が出なかった選挙区で民主党の支援を受けて可能になったところでの当選である。よく前回の議席を守ったなという感じだ。社民党が議席を取ったところは、比例で、東北、東京、九州、そして選挙区が、大阪、熊本、宮崎、沖縄である。

 これまでの自民党王国はことごとく崩壊した。小泉改革が自民党の基盤を壊したせいである。例えば、福島県では、小選挙区2つだけだった民主党が、5つすべてで勝利した。投票率は、64.24%で、前回を上回った。これについて、NHKの解説員は、反自民票であり、古い自民党の拒否であるとして、小泉ブームと同じ態度が続いていると解説した。

 経済政策その他は、自民党とそんなに変わらない。官の「合理化」によって、財源をひねり出して、それを民へ回すということである。自民党は、官と癒着していて、それができないから政権交代が必要だという理屈である。しかし、今問題になっているワーキングプアを生むもとになった1995年の財界の「新時代の日本的経営」で示した雇用形態の多様化による格差社会化、そして、企業内福利厚生体制、地縁・血縁、学閥、その他の相互扶助体制、公的福祉体制が解体、脆弱化してきているのに対して、どのように雇用・福祉体制を建設していくかという構造的な問題についての明確なビジョンはない。ただ、友愛という理念がスローガンとして掲げてあるだけだ。景気は、なりふり構わず、うち続けてきた景気対策の効果が現れたこともあって、やや持ち直しの気配を見せているが、それも息切れしかねないものでしかない。景気対策の効果を見せて実績を誇示して選挙戦を戦えば、なんとかなると麻生は思ったのかもしれない。でも、そうはならなかった。麻生政権の景気対策も、アメリカのオバマ政権誕生とその経済政策を見つつ行ってきたものだ。

 オバマの景気対策は、けっこう思い切ったもので、大きな財源を赤字国債でまかなうものであった。言うまでもなく、アメリカ経済の状態は、世界経済に大きな影響を与える。オバマが年初来進めてきた経済政策の効果が、多少効いてきて、踊り場らしいところに近づいているようである。しかし、経済全体の規模が縮小しているわけだから、絶対的な需要の縮小がある。日本の場合もそうなってることは、前の記事に載せたグラフを見れば明らかである。日本経済がバブル崩壊以後、成長率が低迷している間に相対的に高成長した国々があって、世界経済の中で日本経済が占める地位は低下し続けている。そして、高成長を続ける中国が、まもなく、アメリカに次いで世界2位になる。中国経済の成長率は低まっているとはいえ、高成長を続けているからである。日本の昨年のGDPマイナスが6%超ということは、これを取り戻すには、来年の予測成長率が1とか2%とかという低成長率では全然足りないわけだ。経済規模が縮小したところで、均衡する、つまり底に近づいたわけでである。しかし、田原総一郎が言うように、底割れして二番底に向かうというさらなる縮小の可能性もあるわけだ。

 そのきっかけは、もしかすると外から来るかもしれない。石油の値上がりなどの重要物資の急激な高騰という場合もありうる。90年代以降、日本経済の全体の動きは、マイナスと低成長を繰り返していて、高度成長時代とは異なる動きを示している。それに対して、遺憾ながら、日本のマルクス経済学では、きっちりと分析するということがなされていない。それには原因があるのだけれども、それでも、こんな状態が約20年も続いているのだから、いい加減に自己点検をしてみるべきだと思うのだが。例えば、宇野学派には国家独占資本主義になると恐慌は起きなくなるという人がいたりする。それは、1960年代という世界経済の右肩上がりの成長時代で、日本も高度成長時代だから、リアリティがあるように見えたというにすぎないと今の時点では言える。こうした具合だから、公認マルクス主義が信用を落としていったのも無理からぬことであった。

 このような現状を説明も出来ないものが、理論とされていたのは、それが学問という形式をとって、アカデミズムの世界の一角に地位を占めていたからだろう。むしろ、マルクスそのものに戻った方が、よっぽどリアルな現状認識を得られると思う。『資本論』に書いてあるとおり、貧しい労働者、ワーキングプアが今目の前にいるじゃないかと、概念と現実が一致し、明瞭な観念が得られるからである。目の前に明瞭に存在しているものを、理論がそんなものはないと頭で否定するというようなことを、マルクス学者がやっているわけだ。市民? 中流社会? そんなものが、現実の社会の大勢だと言うのか? そんなもの、どこにあるというのだ? それは今や縮小しつつある狭い一部の層にすぎない!

 鳩山代表は、官の無駄遣いを削って暮らしと福祉に再配分するという。すると、国家独占資本主義的政策がよみがえるわけである。枝野議員は、中長期的経済対策が必要だという。つまり、中長期経済計画が必要だというのだ。共産党は、軍事費削って暮らしと福祉というスローガンだから、削るところは別でも、防衛庁は官で、自衛隊は公務員だから、官を削って民に回すという再分配するというのは民主党と同じである。「在特会」の妄想によると、民主党政権の誕生は、左翼政権の誕生ということになるが、毎年、多くの民主党議員が靖国参拝しているということがある。民主党内には、自民党より右の元民社党系の右派議員がいる。中野寛成という元民社党の大物元議員が当選した。鳩山は中間派で、松下政経塾出身の右派議員が前原を担いで一派をなしている。イデオロギー闘争、権力闘争が続くことは明らかだ。宗教団体の幸福の科学が母胎の幸福実現党はほとんどの選挙区で立候補したが、問題外であった。とにかく、政権党には、すぐに、財界からの圧力と取り込みが強くあるのは間違いないところで、経済政策、景気対策を求める圧力が強まるだろう。官僚は当分、様子をうかがうのだろうか。しかし、ほんとの意味で社会や政治が変わるには、下の大量的な大衆的実践が必要である。まずは、自民党の解体過程が始まるだろう。それから、民主党の分裂過程進む可能性が高い。政治の混乱は、民間でのファシズム的な動きを活発化させるかもしれない。そういう可能性も考えておいた方がよさそうだ。                                           

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総選挙によせて

 今、総選挙の真っ最中である。

 新聞各紙は、軒並み民主党300議席を獲得する圧勝とする見通しを示している。新聞の選挙結果予測はよくはずれるのだが、今回ばかりは、程度はともかく、民主党勝利、自民党敗北は、確実だと思われる。

 これで、権力を握って、税の再配分権をもって政治を行ってきた自民党は、長期的に政権復帰が不可能となり、崩壊する可能性が高まったと言える。これで、社会党解体が先行したが、ついにいわゆる55年体制は、完全に終焉を迎えるわけである。最後の総理が、麻生というのも、惨めな幕引きである。彼は、最後を飾るには貧相なキャラクターであり、自民党の無内容さを象徴するような人物である。彼の下で、最後のばらまき政治が行われたわけだが、財界は、まだ、ばらまきが足りないと不平を漏らしている。

 Gurahu_2 今、日経平均株価が、年初来の高値を付けるかと言われるようになったが、それが、こうしたばらまきによる効果で、すぐに息切れするものでしかないことを、財界はわかっているのである。

 アメリカのオバマ政権の方は、数兆ドル規模で、財政赤字を増やし、これまでのその上限を大幅に引き上げることを決定した。赤字国債による需要喚起の先として、オバマは、自動車に対する環境基準を厳しくしようとしている。自動車メーカーは、技術開発投資、設備投資を余儀なくされるわけである。日本のトヨタは、世界に展開している生産設備の縮小・合理化計画を発表しており、採算の取れない国から撤退し、採算の取れるところだけで生産する体制にする予定だという。つまり、過剰生産になっているわけである。株価がちょっと回復したといっても、生産、需要の実態は、縮小傾向のままなのである。

 今週の「マガジン9条」の雨宮果凛のエッセイには、郷里の北海道で、知人から聞いたという、月給12万円で働く正社員の話が載っている。同僚の外国人労働者はさらに給料が低いという。これで、どうやって、景気が本格回復出来るというのか。故森島通夫ロンドン大学教授は、供給自らその需要を作るというセイの法則は成り立たなくなっており、反セイの世界になっているということを指摘していた。だから、ケインズは、有効需要の不足から、非自発的失業が発生すると主張したというのである。この場合の失業には、就労していても潜在的に失業している状態、つまり、事実上、遊休している労働力も含まれている。だから、有効需要に対して、労働力が過剰である状態の場合は、非自発的失業が発生していることになる。ところが、実際の労働者は、個別的な存在なので、失業者数と非自発的失業の数字は、一致しないのである。就労しているが、仕事がないとか、逆に、それまで二人でやっていた仕事を一人でやるようになるとか、そういうことがある。後の場合を、企業は、生産性が上がったと言う場合が多いのだが、ことはそう単純ではない。この場合、労働力の再生産が阻害されるとかの様々な問題が発生することになる。例えば、ATM現金自動預払機の場合、そこでの労働は、窓口業務として行員が行っていた分を、客がやるようになるというかたちで、負担増になるということがある。その分、手数料を引き下げられるというようなことがあるが、この間、いったん廃止されたり引き下げられた手数料が復活したり上げられたりしている※。 

 この間の不景気は、対処療法的なばらまきによって、支えられている面が大きく、基礎体力を回復させるに至っていないわけである。といっても、世界的に需要が後退している状況では、輸出主導型経済体質となっている日本経済の基本的な経済システムを復活させようがないのは明らかである。輸出主導型産業は、当面、縮小・後退せざるを得ないだろう。そこで、非自発的失業は増大していくだろう。その中で、それを内部に抱え込める体力が衰えてくるわけだから、失業者の数も増えざるを得ないだろう。その場合に、北欧社会民主主義国家のように、言ってみれば、安心して失業できるような雇用・福祉体制というものが築かれていない日本では、ほぼストレートに、それは貧困問題につながることになろう。

  北欧の場合、正規社員の賃金水準は、同一労働同一賃金のため、非正規労働者と変わらないようになっているので、低くなっている。もちろん、労働時間の差などによって正規社員の方が総収入では、非正規を上回っているだろうが、時間賃金は同じということになっている。政・労・資のネオ・コーポラティズム体制によって、解雇の際の、労働者の転職支援、技術訓練を、労組が請け負っている場合がある。これは、産別労組という国家的労組体制があるから出来ることである。日本の場合、産業報国会体制を継承したかたちの企業別労組の連合体としてのナショナルセンターのため、企業間を頻繁に労働者が移動するという体制にするには、いろいろと制度変更をしなければならない。はっきり言えば、ネオ・コーポラティズム体制を作り、法的にも、労組法を改正するなどして、産別化するということである。下からの産別化がうまくいかないのは、企業別組合を基本にしての企業内福利厚生体制が同時に作られてきたからだ。個別企業がそれを維持できなくなってきた時に、それに変わるものを作らなかったために、まるで、19世紀型資本主義に逆戻りしたかのように、貧困問題が深刻化してきたのである。それに対して、企業単位の福祉体制を維持しようとしているから、そうなるわけである。

 それによって、この体制そのものが根本的な変革に至るという道に行ってもいいわけだが、現在の経済体制を前提して、多少の改善の道が描けないわけではない。しかし、総選挙での各党の政策や結果予測を見る限りでは、こうした選択肢を掲げているところはないし、社会民主主義的な政策をやりそうな社民党や共産党は、民主党政権誕生を求め、政権交代を求める有権者の多数の声にかき消されそうな感じである。そうすると、オバマ的な道、財政赤字、官僚機構の合理化、技術開発、などの方策を使う景気対策中心の政治にシフトしそうである。それは、麻生政権がこの間やってきたことを継承するということを意味する。麻生自民党は、この間、愛国心を強調してきているが、それは、オバマが戦争を続けているように、「心」の動員によって、危機を乗り切ろうという誤魔化ししかなくなっていることを意味する。ところが、総選挙を前に、麻生自民党は、靖国問題を避けて通り、それに対して、右翼はあせりを強め、国会前での自殺未遂や反靖国デモの襲撃などの挙に打って出てきている。民主党政権の誕生は別に、左翼の勝利を意味するものではないが、社民党と連立を組む可能性があるので、それもまったくの杞憂というわけでもない。危惧を感じるのは、田母神発言に対して、自衛隊内や官僚や一般の人の中に、それを支持する空気がけっこうあるように見えることである。

 自衛隊や警察に対する批判や疑問の声が世間で小さくなった最近の大きなきっかけは、95年のオウム真理教事件と阪神大震災だったと思う。この時、自衛隊に対する信頼や警察を頼りにするという態度が広まったように思う。全国各地の災害現場で活躍する自衛隊の姿が報道されたり、9・11事件後でも、駅構内に制服警官が立っている姿が、ふつうになっている。この間、犯罪は単純な勧善懲悪物として描かれるようになり、ただ懲罰ばかりが問題視され、重刑化が進んだ。更正という観点は後退し、冤罪に対する批判の声も小さくなりがちだ。しかし、栃木で冤罪が明らかになったばかりである。マスメディアの批判力、洞察力の劣化は著しい。しかし、犯罪を単純な功利のバランス・ゲームとして捉えるのではなく、社会関係の中で、社会問題、人間問題として捉えようとしたドストエフスキーの復活があるということは、そうした風潮に対する社会的反省が始まったというふうにも思える。そこに希望を感じる。権力が犯罪を必要とし、それを作っているという面があるからである。それまで、犯罪ではなく、更正の対象であったような行為が新たに犯罪として加えられるということがある。謝れば済んだこと、反省すればすんだこと、始末書程度ですんだことが、刑罰の対象に次々と加えられている。病気がまるで犯罪ででもあるかのように刑罰的な対象にされつつある。それは健康幻想への暴走である。誰でも多少は病気なのであり、それがふつうなのだということを忘れて、過度に健康を追い求め、変な高い薬を買わされて痛い目にあうというようなこともある。

 だから、社会が考えることが必要なのであり、そうさせないようにしているものを、権力であれ、宗教であれ、マスメディアであれ、乗り越えて、考え抜いていくことである。実際、そうなってきているという兆候がいろいろ現れてきているし、今度の選挙でも、それが示されることが望ましい。そのためには、選択肢を狭める小選挙区制は不適当なことは明らかだと思う。

 ※企業部門では、原油価格等の下落で交易条件が改善し始めたが、リーマン・ショック以降、内外需要の減退で売上額は減少し、企業収益の大幅減少や赤字化が鮮明となってきた。1-3月期の法人企業統計によれば、企業収益の大幅減少で、労働分配率は大幅な上昇を示した。企業は今後、なり振り構わず労働コストの削減に走るであろう。実際に、GDP ベースでの労働分配率をみれば、4-6月期は52.9%と1-3月期の54%から5期ぶりに低下している。(関西経済社会研究所資料より)

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スピノザと唯物論

 スピノザは、『知性改善論』の冒頭で言う。

 一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験で教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した、我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。

 しかし、我々は、この社会・経済生活において、価値によって動かされており、基本的に、そうした価値基準に沿って行動していかなければならない。しかし、それは、実に、不条理なものである。スピノザは、「すべての幸福あるいは不幸はただ我々の愛着する対象の性質にのみ依存するという事実から生ずるように思われた」と述べているが、それは、この世で、それを求めるように駆り立てている価値物には、例えば、貨幣という、今では単なる紙の印刷物であって、ただ観念上、社会的に通用する価値物にすぎないものがあるからである。このようなものを愛着するように強いられているというのは、いかにも不条理であるが、それでも、そうせざるを得ないのである。スピノザは、したがって、愛着の対象が滅ぶべきものであるから、不幸や争いや嫉妬や悲しみや心の動揺は生じないだろうと言う。だから、永遠無限のものに対する愛なら、純な喜びをもって精神をはぐくみ、あらゆる悲しみから離れられるので、望ましいと述べるのだが、「しかし私が、ただ真剣に思量し得る限りという言葉を用いたのは理由のないことではなかった。なぜなら、以上のことを精神でははなはだ明瞭に知覚しながらも、私はしかしだからといって所有欲・官能欲から全く抜け切るというわけにはゆかなかったからである」と、その限界についても指摘している。

 そこで、彼は、「若干の生活規則」を立てる。

 しかし我々はその目的に至ることに努め、知性を正しい道に返すように努力する間も、必然的に生活しなければならないのであるから、その故に我々は、まず何よりも先に、次のような若干の生活規則を、良きものとして前提しなくてはならない。すなわち、

  1. 民衆の知能に適合して語り、且つ我々の目標達成に妨げとならないことなら、すべてこれを避けないこと。なぜなら、出来るだけ彼らの知能に順応すれば、我々は彼らから少なからぬ利益が得られるし、その上、こうしておけば、我々が真理を説く際、彼らは喜んで耳を貸すであろうからである。
  2. 快楽は、健康を保つのに必要な程度において享受すること。
  3. 最後に、生命と健康を支え且つ国の諸風習-我々の目的に反しない限りの-に従うのに必要なだけ、金銭その他のものを求めること。

 これは古代の唯物論者エピクロスが立てた生活規則と似ている。一見すると、これは穏健な規則のようだが、現代のように、功利主義が支配している状況の中では、守るのがかなり困難な規則である。例えば、食の快苦ということでも、美味美食番組が流されたり、大食い競争の類が流行ったり、同時にダイエット・ブームが引き起こされているというアンバランスな状態があって、極端に、ぶらされる。大食い競争では、食べることは、快を越えて、苦に転じても、それよりも大きな快としての賞金を得るために懸命になるという具合に。適度というのは、現在の経済社会の中では、維持するのが難しいのである。

 他方で、近代唯物論者のフォイエルバッハは、こうした知性に対して、感性を対立させ、後者に真実性を与えていて、有限なものへの愛・情熱・衝動・意志・欲望・幸福欲を対置しているが、それはスピノザのように対象の認識からではなく、自然としての人間の主体的本性から出てくるのである。それは、資本蓄積の欲望に駆られて、欲望の解放を要していた当時のブルジョアジーの幸福欲を思想的に代表するものだった。そして、彼は、社会を、たんなる我と汝の共同体としてとらえる。そして、彼にとって、苦悩は感性的存在に付き物の必然として現れ、後は、対立する感性の間のバランスによって、快苦は相殺されるとされている。つまり、快苦のバランスゲーム、力関係が現れる。例えば、熱さの苦には、水のような冷たさの快が、対置される。また、共同体における我と汝の間の争いの苦は、愛という快によって消されると言う。対象の性質ではなく、主体の態度が感性を規定するという具合になってしまうわけである。スピノザの場合、快苦は対象の性質から来るのであって、対象性を持っている。つまり、それは外部に原因を持つ。そこで、対象的活動ということが出てくるのであり、それを指導するのは、明瞭な観念であり、完全性という目的への意志であり、そのような明瞭な観念が与える喜びなのである。

 フォイエルバッハは、結局のところ、我と汝の共同体を、感性的宗教的紐帯としての愛の共同体と思考的共同体としての国家に二分化している。それは、「われわれ」の構成において、基本を自我と他我という我-汝の二者関係に基礎を置くからである。彼は、明瞭なる観念としての他者を含む社会関係を捉えられないので、排他的な愛の共同体の限界を超えられないのである。人々は、社会関係の中で、個別的なものばかりではなく、抽象的なものをも愛する。つまり、価値という抽象に愛着を持つ。守銭奴、その他フェティシズムの存在は、それを証している。それが頭の中にしかない観念であろうとも。それは、同時に、価値の具体化としての富としての金銀や商品などの生身の表象として思い浮かべられるだけにすぎないとしても、愛着の対象となるのである。それは社会的な価値であって、個人的な価値ではない。

 それに対して、スピノザのように、この世のあらゆる価値を空しいものと感じてしまい、それに対して、別の生活規則を立てて、別の価値を追い求めることは、大変なことだ。

 なお、これは、宗教的と思われるだろうし、フォイエルバッハはそう言うのだが、そうではない。現代の、現代化された諸宗教は、すでに、「利」を中心価値にしていて、実質的には、宗教団体は、この世で富を追求するなどの現世利益を得るための人脈や資本獲得の手段として利用し合う利益共同体になっている。つまり、その実質的教義は、効用主義なのである。日本の新興宗教の大部分は、創価学会を始め、ほぼ、そうである。信仰には、必ず、現世利益、例えば、病気が治るなどの功徳という効用があるという具合に説いているのだ。

 スピノザは、ユダヤ教の一派やカルヴァン派の一派などから、無視論という非難を受けて、迫害されたために、屋根裏部屋に隠れ住むはめになった。フォイエルバッハも、1848年革命のフランクフルト国民議会に参加するが、反動が勝利した後、大学教職の道を絶たれ、田舎に隠棲することになる。しかし、ビスマルク反動の「社会主義者取締法」体制の中で、ドイツ社会民主労働党と労働組合は発展し続けており、彼もまた晩年にはドイツ社会民主労働党に参加するが、唯物論的な言辞をまき散らしたにも関わらず、基本的には、観想的生活を続けて、生涯を閉じた。これは、エピクロスが、当時の諸宗教と闘いつつ、一つの団体を形成し、共同生活を築き、残されているものは少ないが、膨大な文書を書いたと言われているのとは対照的である。スピノザが、隠棲を余儀なくされたとはいえ、レンズ磨き職人として働きつつ、大部の『エチカ』や政治論文も書いているし、当時、オランダの新興ブルジョア階級を代表していた政治家ヤン・デ・ウィットと親しく交わったこととも対照的である。

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8・15「行動する保守」=右翼突撃隊による反靖国デモ襲撃に抗議する!

 「在日の特権を許さない市民の会」(在特会)のホームページに、以下のような記事が載っている。

 かれらは、他方では、総選挙での民主党政権の誕生が確実視されている中で、それを左翼政権の誕生と見ていることを明らかにしている。同時に、以下のように、「多くの国民」を代表して、8月15日の街頭行動を行ったと自己規定している。かれらは、政権は、左翼だが、靖国問題では、「国民」多数派代表であるという分裂した認識を持っているわけである。

 かれらは、そもそも「在日特権」なるものを妄想し、「慰安婦」問題は、捏造であると主張しているが、それもまたかれらの妄想であって、かれらは、それから醒めることを拒否しているのである。かかる妄想からの解放こそ、実にすっきりした体験であり、その上で、社会的責任、歴史的責任を果たしうるし、それこそが社会的幸福をもたらすのであるが、そうした体験を拒否し、夢の世界の幻と戯れ続けること、幻覚におぼれることを喜びとしているのである。

 まるで、三島由紀夫の『英霊の声』という幻の声を聞くという幻聴体験を本気にしているあの主人公たちのように。亡霊の声として聞こえるのは、今の「われわれ」の「国民」として構成された利害や意志や意欲の幻影であり表象である。それは、まさに、アメリカがずっと続けている戦争に参加すべしという、現在の国家官僚の国家意志の幻想的形態であり、その幻想的人格化されているのが英霊である。かかる幽霊信仰が、功利主義的な利害計算知性の持ち主たちであるはずの国家官僚に根付いているのである。それを、「在特会」などが、民間で代理しているのである。

 かれらが言うところの「犯罪左翼」が街頭で粉砕されたと「在特会」が強調するのを、戦勝の報を聞くごとくに喜んでいるのは、国家官僚である。

 しかし、他方では、かれらの見方では、まもなく、民主党政権ができそうだということは、全体の政治状況が、左傾化していることになる。それもまた、国家官僚の危機感を呼び起こしているだろうし、その不安も、「在特会」は反映しているわけである。

 今、出口のない不況が続いている中で、そして、非正規労働者が増大し、貧困化が進む中で、そして、中国が経済的・政治的に大国化してくる中で、日本の地位が相対的に低下している中で、国家官僚の自信喪失、そして、官僚に対する大衆の不満が高まりつつあり、財界もまた次の世界を明確に示せないということが、人々のアイデンティティを不安定なものにし、動揺させている。「私とは何者なのか?」という問いが、人々の頭に回帰し、そして、それに対する答えが容易に得られないという不安状態が広まっているようである。そして、マルクスが呼び戻され、ドストエフスキーが復活している。

 ポスト・モダンニズムは、80年代バブルのアイデンティティの戯れが、ゲームとして安易で手軽に楽しめた余裕のある時代の思想潮流であったが、今や、そのような戯れは危険性が大きくなっている。

 在特会は、以下のような幻想を、まるで事実であるかのように、物語として描く。かれらが、「今の日本に対する危機感の裏返しともいえるのかも知れません」と言うのは、かれらが現状に強い危機感を抱いているということであり、それによって、「反日デモ」は、「その警察官たちの後ろに隠れて逃げるように靖国神社下の九段下交差点を足早に通り過ぎて行」ったように描かれることになる。このようなシナリオ通りの動画が作られ、つまりは編集され、このような物語は、映像化されることになる。そして、かかる物語が、かれらにとっての事実として、かれらに理解されるのである。

 「われわれ」は、こうした物語に対して、物語を対置する必要があると思う。物語ること自体を完全否定することは、「われわれ」の「本性」を否定するという不可能事を対置することになると思う。そうではなく、エピクロスやスピノザのような唯物論者たちのように、そして弁証法が言うように、「両極端は相通ず」ということを踏まえて、認識の変革を図りつつ、物語ることが必要だと思う。

 「靖国神社」は、戦争によって人々を苦しめるために、国家官僚が必要とする施設であって、人々が親しかった肉親や友人の死者の思い出やその表象を幻想的に、物語的に交流して、幸福を得られる施設ではないということ。死者の記憶は、英霊性という一面に閉じこめられるものではなく、多様な側面を持つ社会性を持った人格表象であり、それとの幻想的交流は、国家官僚や支配階級によって妨げられ、一面化されると、不幸なものになってしまうのである。

 他方で、「在特会」は、こうして街頭を制圧することで、権力奪取を図ろうとしている。左翼が街頭を制圧していた1960年代の後は、街頭は、公共権力が握っており、つまりは警察=法務官僚、公安委員会が握っている。その場に登場して、「在特会」が行っているのは、警察でも簡単には手を出せない左翼に突撃し、この運動を街頭において破壊し、つまりは、公共空間の一つを制圧しようということである。警察は、中立を装いながら、実際には、かれらに味方している。

 かつて、ナチスの突撃隊による左翼への襲撃を許す中で、大衆全体が、ナチスにとらえられていったということがある。街頭の大衆の前で、ナチスは、次々と左翼デモを襲撃し、潰していった。そして、左翼や労組の事務所・拠点を襲撃していった。警察は、見て見ぬふりをし、事実上支援した。その結果、ナチス政権の成立、そしてクーデター、他党派の強制解散、非合法化、そして、ユダヤ人虐殺、他民族侵略、虐殺、世界戦争、という道へ踏み込んだ。そして、多くの人々が死に、不幸に陥った。1960年代の日本は逆であった。60年代末には、街頭は、左翼が制圧していた。

 「在特会」の描く物語が導くものは、こういう世界であるように思える。かれらが妄想する「在日特権」なるもの、そして、「慰安婦」=民間「売春婦」論に対して、スピノザ的な社会的知性は、それは物語であるという明瞭な観念を与える。

 告知 : 8月15日/行動する保守運動 vs 反日極左主催デモ隊 【動画紹介】

 8月15日、犯罪左翼によって「靖国神社解体」「天皇制粉砕」の反日デモ行進が行われました。左翼側参加者100名程度に対し、行動する保守の呼びかけに応じ犯罪左翼による反日デモに抗議の声を上げた方が500名近くに上りました。ここまで左翼を圧倒する大勢の人が抗議の声を上げたのは初めてのことです。

 これほど多くの国民の怒りを買っていることに犯罪左翼側は怯えきっていたようで、日ごろは官憲許すまじと威勢よく警察官を罵倒する彼らは、その警察官たちの後ろに隠れて逃げるように靖国神社下の九段下交差点を足早に通り過ぎて行きました。公式動画はまだ調整中ですが、当日参加された有志各位が次々動画をアップしています。当日ご参加いただけなかった皆さまには、ぜひこれらの動画をご覧いただき8月15日に何が起きたのかを確認していただければと思う次第です。

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「ヘイトスピーチは許さない、『行動する保守!?』とどう向き合うか」集会に参加して

 当ブログで呼びかけを転載した8月14日の「ヘイトスピーチは許さない、『行動する保守!?』とどう向き合うか」集会に参加した。

 事前に、「在日の特権を許さない会」が会場に押し寄せるという情報を聞いていたので、やや緊張して会場に向かった。

 会場は、「在特会」などの差別排外主義の動きを危惧し、それと闘う人々が多く参加し、盛況であった。

 具体的な内容については、実行委のブログなどを参照していただくことにして、私的な感想などについてちょっと書いておきたい。

 まず、「在特会」のスピーカー的存在らしい西村という人物について。外形はやや小太りで、ワイシャツに蝶ネクタイというかっこうで、マイクを持って、インターネット実況中継をやっている姿を見て、古館一郎に似ていると思った。

 三鷹での「慰安婦」関係イベント会場に押し寄せた妨害行動の際に、彼が語っていたのは、「従軍慰安婦」は、民間の「売春婦」であるというもので、「新しい歴史教科書をつくる会」などが、これまで繰り返してきた言説をなぞっているだけである。この言説の狙いは、簡単で、要するに、国家や軍隊は、不当に犯罪者扱いされてきたが、そうではないという認識を植え付けることである。

 このこと、つまり、国家は悪ではないという彼やかれらの発言を心地よく聞いているのが、国家官僚であることは明白である。かれらをつないでいる精神的な絆こそ、国家主義であり、「愛国心」だからである。官庁同士、官僚同士は、立身出世競争に駆り立てられていて、それだけであれば、国家官僚機構はばらばらになる傾向が強まる。それを、一つにしているものこそ、「愛国心」なのだ。しかし、それは共通利害を持っている。つまり、国益として構成される共通利益が。

 それに対して、かれらが敵と見なして、「北朝鮮に帰れ!」と悪罵を浴びせているいわゆる「反日左翼」は、国家解体派ばかりではない。国家に対して、民間を対置する西村的言説と、国家に対して、社会であれ市民社会であれ、中間領域を対置する一部左翼の言説は、実は、そんなに遠くないということに注意が必要ではないかと思った。

 それは、差別をなくすために、差別禁止法、人権法などを制定して、国家がそれを強制することは、表現の自由との関係で、どうなのかという問題が、例えば、アメリカで、フェミニズムをめぐって、マッキャノンのポルノの強制的禁止運動に対するジュディス・バトラーの反対議論があり、こういう種類の議論と共通する問題を感じたからである。

 しかし、「在特会」のような、「外国人は死ね、殺せ」「「在日」に人権はない」などの発話は、それ自体、公然と街頭で発していいものかどうかという問題が、社会問題として存在する。このようなヘイトスピーチが、公然と公共の場でなされていることに、この社会はどのような態度を取ればいいのかが問われているということである。ここで、責任を国家に求めるというやり方もあると思うし、そうすべきだろうが、他方では、国家は市民社会の総括であるから、この社会の在り様を問題にせずして、国家対市民社会とか、社会領域を、国家と無関係で、それと対立するように見ることは、リアリティがないし、それは、あまりにも安易であるように思う。

 それではどうするか? これに抗議する者は、新しい権力として、自覚的に彼らに対して臨むということである。つまりは、自己関係としての自己権力として対するということだ。なぜなら、これは、権力闘争であって、未来の権力をめぐる闘いだからである。かれらは、あくまでも、既存の国家を前提として、国家官僚の利害を民間で代弁し、民間の官僚代理人という権力として振る舞っているからである。現存権力としてのパフォーマンスとして、こうした行動を行っているのである。かれらは、各地の行動で、犯罪外国人を捕まえるように警察に求め、かれらに指揮命令をする国家官僚としてのパフォーマンスをしているのである。それに対して、抗議する側は、当事者を代理するし、そのときに、権力としての「われわれ」を構成しつつ、かれらに対して、権力を行使するパフォーマンスをもって対抗する他はないのである。

 こうして、かれらの自由とわれわれの自由が衝突しているのであり、この衝突によって、「われわれ」の「領域」を拡大し、当事者にとっての自由の「領域」を拡大していかなくてはならないのである。諸報告を聞いた限りでは、かれらの自由は、「われわれ」の自由より大きく強い。法律が文言上で言明している中立だの公正だのというのは、現場の実際の具体的な運用の場面では、不公平で、「われわれ」に不利な方に傾いている。かれらが、入管法違反の不法滞在者を犯罪外国人と規定するとき、その法的根拠として、在日外国人を法務省が一元管理するようにする入管法体系の排外主義的改悪というものがある。それを後ろ盾にしているのだ。

 「在日」の人々と共に活動し、苦楽をともにした経験があり、その経験からも、こうした友人でありたいと思う人々に対して、これほどの差別排外主義の言葉を公然と街頭で叫ぶ輩には、たんてきに深く大きな怒りを感じる。

 それに対して、かれらと話し合いをなどという言葉は、理性主義的で、頭で立っているというのか、そんなふうに聞こえてしまう。もちろん、それを否定しているわけではない。それもやってみればいいと思うが、気になるのは、この排外主義が、旧来の右翼と違って、ファシズム、ネオ・ナチ的な特徴を持っているのはないかという点であり、市民運動、大衆運動というスタイルをとっているということであり、このような特徴に対して、どのように対応すればいいのかということである。

 ナチスの例でいえば、街頭での共産党系行動を潰して、ナチスが台頭したということがあり、「右」の街頭運動を作ることに成功したということがある。その際に、「国家社会主義」という大きな絵を提示して、当時のドイツの経済的苦境からの脱出口を示したということがある。今のところ、かれらは、ヘイトスピーチ、ネガティブ・キャンペーンに終始しているが、現在の不況が続くようだと、そうした大きな絵を描いて大衆を掴もうとするかもしれない。そういう時に、「われわれ」が大きな絵を描いて提示しないと、かつての社会党のような反対派として、敗北していくのではないかという危惧を感じる。人々は、小さな物語の中にいると、そのアイデンティティは、不安定で不明確であり、ラクラウ・ムフの言い方では、「浮遊するアイデンティティ」の状態に置かれる。ラクラウ・ムフによれば、それは縫合されたり、ばらばらになったりする。それに耐えきれる者は、一部の知的エリートや「前衛」だけではないだろうか。大きな物語の中で、自己の位置を明確にし、アイデンティティを安定させ、そして安心したいという大衆心性に対して、そのような厳しく、そして特権的と言っても言いような、高度な修行を要する主体を求めても、短期的には実現は難しい。その間に、情況の悪化が進んでしまうことは、あまりよいものとは思えない。

 ガンジー主義にもそういうことを感じるところがある。先日、生協関係者の方と話しする機会があったが、その人は、ガンジーは、あの不服従行動の前に厳しい修行を積んでいたということを言っていた。そうでなければ、あのような厳しい不屈の闘いはできなかっただろうというのである。それに対して、唐突のようだが、スピノザの『知性改善論』における知性改善法、認識論の改善の提起は、未完とはいえ、誰でもすぐに実行でき、そして、それによって、かかるヘイトスピーチ、差別排外主義の誤りを見抜き、それを退けられる新たな知性を獲得できるようになっているので、それを広めるのがいいと思う。功利主義、あるいは計算合理主義的知性に、それができないのは、利益や効用についての計算の表象が、それを邪魔するからである。向こうにつく方が得か損かなどという計算で、行動してしまう。そういう価値判断になっていくからだ。そうして、計算合理的知性の持ち主は、頭で合理的に計算しながら、効用の表象に引きずられて、ずるずると、頭の中の計算と違った方に引き込まれていくのである。いわゆる「頭のいい人」がおかしくなっていくのは、そういうことが多いように思える。「どうしてあの頭のいい人がそんなことをするのか」とかいうことがあるのはそういうことだろう。最近では、ホリエモンがそうだろうし、かつてなら、利害計算上、敗北が確実とわかっていた山本五十六などのエリート幹部が揃った戦前日本の国家の最高意志決定機関が、ずるずると世界戦争の泥沼に入っていき、そして抜け出せなくなったのも、そういうことだろう。

 基本は、実は、個人的価値判断ではなく、社会的価値判断であり、社会的知性であり、「われわれ」の構成である。それをスピノザは次のように述べている。

 「最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum Natura habit)である。(14)だから私の志す目的は、このような本性を獲得すること、並びに、私と共々多くの人々にこれを獲得させるように努める努めることである。言い換えれば、他の多くの人々に私の理解するところを理解させ、彼らの知性と欲望を全く私の知性と欲望に一致させるように努力することがまた私の幸福になるのである」(『知性改善論』岩波文庫18頁)。

 

 これは、共産主義的知性であり欲望でなくてなんであろう! それに対して、ヒトラーやスターリンは、「われわれ」の本性を一つとして、知性と欲望を一致させることを幸福としたことはなかった。ヒトラーという「我」は、ただ「われわれ」としての国民や民族が自分とは異なる知性と欲望を持つことを幸福としていた。ただ、礼賛や奉仕を求め、特別な指導者としての「我」を崇拝する臣下であることを幸福とした。つまり、支配者と被支配者という異なる二種類の「われわれ」があるということを幸福としたのである。

 今、「在特会」が、在日外国人を、潜在的犯罪者として、差別排外主義扇動で、世の中を満たそうとしているのは、それに似た幸福欲によるものであるように見える。それに対して、「われわれ」が対置すべきなのは、こうした幸福ではないだろうか。

 今後も、「在特会」は、全国で行動を継続するのは間違いないが、それに対して、これだけ多くの人々や団体が、全国から駆けつけ、一堂に介したことは、大きな一歩であることは間違いないと思った。

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在特会とファシズム

 8月1日に、文京区民センターで開かれる「ヘイトスピーチを許さない」集会の案内を転載した。

 在特会のひとつの特徴は、これまで、ネットなどで、匿名で流されていたヘイトスピーチの動きと違って、差別排外主義的ヘイトスピーチが、街頭で、顔をさらすかたちで、公然と、行われているということである。

 そして、大衆運動として組織され、しかも全国組織化を目指していることである。そして、かれらは、これまでの右翼のように、君が代万歳とか日の丸万歳とかという愛国主義的表現を流すよりも、明確に、他民族、その他を、攻撃するというかたちの宣伝を行っているということである。しかも、在日外国人や左翼を、犯罪者、敵として憎悪を掻き立てている。

 これは、人種的偏見、民族差別を煽り立て、街頭を制圧しようとしたナチスやファシズムと似た特徴を持っているように見える。

 これは、出口の見えない経済不況や貧困化、格差社会化の中で、希望ある未来ビジョンがないという時代の閉塞感が、一部の若者などを捉え始めている証だろう。

 広島の8月6日の原爆の日に、あの元防衛庁幹部の田母神の講演会が開かれ、千数百人が参加し、立ち見が出るほどだったという。

 こういう時代的雰囲気が、在特会のような動きを助長していると思われる。

 できるだけ早い時期に、こうした動きを押しとどめなければ、危うい社会になりかねない。大きく、広い、対抗勢力の結集が必要だと思う。

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転載:ヘイトスピーチは許せない! 

排外主義を封じ込めるために。

ヘイトスピーチは許せない !「行動する保守 !?」にどう向き合うか

集会やりマス!

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ヘイトスピーチは許せない! 
『行動する保守!?』にどう向き合うか


 日時:8月14日(金) (2時半開場)午後3時~9時
 場所:文京区民センター2A
 連絡先:llivingtogether09(@)gmail.com
 ブログ:http://livingtogether.blog91.fc2.com/

 『行動する保守』を自称し、街頭でヘイトスピーチをまき散らす動きが現れています。「在特会」に代表される彼らは、外国籍の住人に「特権」にまもられた「犯罪者」であるというレッテルを貼り、排外主義や差別の感情をあおり立てています。

 しかも、この扇動に「共感」を示す人の数も増えつつあります。彼らは外国人家族や、奪われた尊厳や権利の回復を求める人たちに個人攻撃をしかけています。このただの弱いものいじめを呼びかけ、実行することで満足や解放感を得る人々が登場しているのです。

 私たちは、これらの動きをいずれ消えていく動きとして放置してよいのでしょうか。彼らの行動や言動が、私たちの社会に根ぶかく続いている排外主義、他者を押し殺す社会のありようの戯画であるなら、それに何らかの手を打っていくべきではないでしょうか。この社会に生きるものとして、この動きに正面から向き合うことが今こそ求められていると思います。

 私たちは4月11日に埼玉県蕨市で行われた「在特会」による外国人排除デモへの抗議行動をきっかけに集まり、この問題について話し合ってきました。またこの間、各地で「在特会」のヘイトスピーチに対抗する行動が取り組まれています。これら対抗行動の様々な経験と出会い交流し、排外主義を封じ込めるため、今後何をするべきなのか、皆さんと広く話し合う機会を持ちたいと私たちは考えます。この集会への多くの方の参加を期待します。

 2009年7月21日 
  「ヘイトスピーチは許せない!『行動する保守!?』にどう向き合うか」集会実行委員会

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