« コメントによせて | トップページ | がくさんのコメントへの返事 »

MSさんへの返答

 以下、MSさんからのコメントに対するお返事です。コメントの投稿ありがとうございます。

本文でお応え頂けるとは思っていなかったので、気づくのが遅くなりました。失礼しました。そして、お応え下さいまして、ありがとうございます。

いろいろ書いて下さいましたが・・・

> 「日の丸に白い鍵十字」という表現が、
> ここで言う、「挑発すること等を主目的とした言動」
> と言えるかどうかですが、私の考えでは、
> これは、表現の自由の範囲内ではないかと思いますし、
> 「挑発を主目的」とは言えないのではないかと思います。

このような御述懐に「何故」という反問は無意味ですよね。詰まるところ「感じ方」の問題ですから。
だから、以下、私の「感じ方」を若干置いて、それで終りにさせて頂きます。

私には、あなた様が上のようにおっしゃるお気持ちが、まるで分かりません。共感できません。

A 「これは私達としては "挑発すること等を主目的とした表現" ではありません。そのつもりはありません。」
B 「何だって!? これが挑発じゃないって? 挑発以外の何物でもないだろ! 他の何であり得るというんだ!」
A 「いいえ、違いますよ。挑発ではないんです。少なくともそれを主目的とした表現ではありません。」
B 「主目的ではない? では、"主たる目的" ではなかったとしても、"従たる目的" ではあったのだな?w それは認めるのか。」
A 「まあ、あるいは、そのような改変された旗を掲げた青年自身の主観においては、そうだったかも知れません。若干、そうだったかも知れません。しかしそれは『表現の自由』の範囲でしょう。」

このような対話をしても無意味です。

表現の自由?
表現の自由の、範囲?
その「範囲」を決めるのは誰ですか?
国家ですか。マルクスですか。

 このような対話が無意味かと言えば、無意味とは思いません。貴方はいつのまにか、効用主義者になってしまって、効果の見込めないものは無駄だという価値判断をしてしまっているように思えます。ここでは、少なくとも、違いがわかったという意味があります。意味とiうよりも、貴方は、どうやら効果とか効用とか価値とかいうものを指しているように思えますが。表現の自由を決めるのは、社会です。その範囲も変化します。時代や社会状況などによって、その限度があります。

私にとっては「自由」はいつも最も基礎的な条件のようなものであって、それ以上ではありません。
「自由」の価値は政治的な価値であって、それ以上の価値ではありません。

「自由」以上の価値があります。
それは-------「賢明さ」です。
笑いますか?

私はただ、
これなら(↓)分かるが、
http://www.mkimpo.com/image/voyage/kansai/2009-06-13/IMG_9610s.jpg
これは(↓)イケナイ、「不賢明」だ、
http://www.mkimpo.com/image/voyage/kansai/2009-06-13/IMG_9612s.jpg
と言っているだけです。

> ただ、コメントで、懸念されていることは、
> 靖国を支持するような人たちを、「在特会」支持に
> 追いやるようなことをしては、かえってマイナスだ
> というようなことだと思います。

その通りです。しかし、それ「以上」のこと、あるいはそれ「以前」のことでもあります。
私は国旗を「神聖視」しません。だから、日の丸をハーケンクロイツにされても、ウンチにされても、「冒涜だ!」とは騒ぎません。けれども、そんな私にとっても、それは「基本的に尊ぶべき何か」なのです。
そして、右翼でなくても、この日本の中に私のような感じ方を(そう、これは「感じ方」の話です)する人が多くいるでしょう。

私は最も素朴なところのものを言っています。
「人として」という言い方によって指されるような何かを。

「どうして」、また、「いつから」、人間にとって『道徳』や『賢明さ』よりもとにかく『表現の自由』などというものの方が大事、というふうになってしまったのでしょうか? 私にはまったく分かりません。「表現の自由」は単に器です。大事な器ですが、器です。

ただ、あなた様は「共産主義者、唯物論者、マルクス・レーニン主義者」でいらっしゃるということです。それはもともと「国旗」を大事にする気持ちがない思想なのかも知れません。究極的には「国家」に何も意味を見出さない思想なのかも知れません。あなたにとって「日の丸」は、この国の過去の罪を象徴するもの以外には何でもないのかも知れません。あなたにとって、もともと(現状としてではなく究極において)『日の丸』は「なくてもよい」ものなのかも知れません。あなたは、現状としてではなく究極において「国境は必要ない」とお思いの人なのかも知れません。
----------そうならば、私とあなたが話し合っても無駄なのかも知れません。

 私は、国であれ民族であれ、つまりは国境であれ、ましてや国旗や国歌は、歴史的に作られたものであって、それは変更可能でもあれば、なくすことも可能であり、そうなったからといって、人間生活がなくなるわけでも生命がなくなるわけでもないし、それから、道徳や賢明さなるものも別になくなるわけではないと思ってます。人類が国家毎に分断され、疎遠にさせられていることに問題を感じているのです。もっと人間は接近できるはずだとも考えているのです。

 ハーケンクロイツについては、おっしゃるのとは別の意味で、つまり、ユダヤ問題との関係で、問題があると、その写真を見て、思いました。ドイツでは、ナチスの象徴を公然と掲げること自体が法律で禁止されています。しかし、それはそれでいろいろと問題があるようですが。

 そして、言いたいのですが、一つは、人間にとってという場合の、人間なるものの自明さについて一度は疑っておくべきだということです。あなたのおっしゃる「何か」とか「道徳」とか「賢明さ」は、神の別名ではないのですか? 確か、英語でワイズマンというと、神の隠喩ではなかったですか? なぜ、今日、神の名によって、他者を裁くというようなことが、別の用語体系を使ってなされねばならないのか、私には理解できません。

 たとえば、私には、ハンナ・アーレントのほとんど神の代理人みたいにして語る語り口は説教にしか聞こえません。彼女は、神学の奴隷と化していた哲学を独立させた近代哲学を、ふたたび、神学的世界へ逆戻りさせた人のように思えます。それは退歩であって、それでは近代哲学は乗り越えることはできないと思います。私の考えでは、あくまでも世俗的実践こそが哲学の場なのです。それが私にとっての賢明さであり、倫理なのです。ハンナ・アーレントについては、その他の問題点もいくつかあります。大きな問題点は、誰かが指摘していますが、全体主義という全体主義的な概念を作ってしまったことにあります。抑圧的なものを批判するのに別の抑圧的なものを持ってきてしまったことです。

 私は、神話から解放されたマルクス・レーニン主義ということを、今、誇りを持って言うのは、間違って、失敗して、それを訂正したマルクス、レーニン、4月テーゼを中央委員会で圧倒的多数で否決されたことに癇癪を起こして、登山に行って頭を冷やしたレーニン、日露戦争時に、日本の明石大尉から金をもらったレーニン、ブルジョア自由主義者と公然と一時的に手を握ったレーニン・・・、こんなことを語っても、学ぶものがマルクス・レーニンにはあるからです。宗教にそんなことができますか? バチカンは、「死海文書」をどう扱いましたか? キリストの自己批判を信者は公然と語れますか? 

 マルクス、レーニンは、何度も間違い、それを直しました。そうやって進む以外に、賢明なことや道徳的なことがあるでしょうか。道徳、それを言うなら、明治維新以来、それまでのこの国にあった道徳は、すっかり、西欧道徳、キリスト教道徳に脇に押しやられてしまったのではないですか? 民俗学の文献を少しでも読んでみれば、近代化以前に、この地で行われていた道徳の姿を伺い知ることができます。その中には、今では、不道徳の烙印を押されているものもあります。しかし、そうした道徳の中でも、この地で人々は生きてきたし、生活してきました。今の支配的な道徳以外の道徳はないと考えるなら別ですが、道徳に変化があることを認めるなら、社会的な議論が必要なことは否定できないでしょう。そうした社会過程の一部として、「在特会」問題を考えるなら、これは基本的には歴史的社会的な問題としてとらえ、議論すべきで、人間一般の道徳論議や賢明さの議論にするのは、ピントはずれではないでしょうか。それに対して、正義という感覚は、社会的な感覚であり歴史的な感覚です。今、それは、ヨーロッパ人が、アフリカ住民を人間以外のものとして奴隷とした時代の正義感覚より、はるかに進もうとしています。我々は、今、イラクやアフガニスタンで、米軍などが不正義を行っていることを感ずることが出来ます。

 我々は、日本が過去に、近隣諸民族に対して不正義を行ったことを感じることが出来るし、それをごまかそうとする者に対して、不正義と感じることが出来ます。

 またしても、私見の開陳になってしまいました。これが、「そうならば、私とあなたが話し合っても無駄なのかも知れません」ということになるとは、私は思いませんが、どうでしょうか。、

|

« コメントによせて | トップページ | がくさんのコメントへの返事 »

「雑文」カテゴリの記事

コメント

日の丸君が代を絶対視しないのであれば
マルクス主義も同じでしょうよ
人権問題は左派の専売特許ではもうないですよ
なぜ左派の誰一人として中国の少数民族弾圧に
声を上げないのでしょうか
抗議の声を上げたのが先に保守派だという事実
そこは絶対に譲りませんよ 


投稿: がく | 2009年10月21日 (水) 01時55分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/57588/31833051

この記事へのトラックバック一覧です: MSさんへの返答:

« コメントによせて | トップページ | がくさんのコメントへの返事 »