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唯物弁証法の資料

 以下は、ある資本論研究会に提出した資料です。

 普通、我々は、日常的に弁証法を使っているのだけども、そうとは自覚していないし、それを改めて研究しもしない。でも、事物が生成・発展・消滅の運動をしていることは、誰でも感じている。例えば、仏教弁証法などは、『平家物語』の有名な冒頭の部分、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・」などで、感覚的に、あるいは情感的に理解している。しかし、それと唯物論が結びつけば、唯物弁証法ということになるのだが、これ自体、研究し、考えなければいけないことである。そして、この弁証法論理学を身につければ、感覚と意識との間にリアルな結びつきを作れるのである。そうすると、感覚が解放されるということにもなる。

 ご参考までに。

 なお、流広志は、私のペンネームです。

唯物弁証法についての資料      by流広志


『フォイエルバハ・テーゼ』(古在由重訳 『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫2358頁)

今までのすべての唯物論(フォイエルバッハのもふくめて)のおもな欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとにのみとらえられて、感性的な人間的活動、実践としてとらえられず、主体的にとらえられないことである。したがって活動的な側面は、唯物論とは反対に抽象的に観念論―これはもちろん現実的な、感性的な活動をそのものとしてはしらない―によって展開された。フォイエルバハは感性的な―思想客体から現実的に区別された客体を欲する。しかしかれは人間的活動そのものを対象的活動としてはとらえられない。だからかれはキリスト教の本質のなかで理論的な態度だけを真に人間的なものとみなし、これにたいして実践はただそのきたならしいユダヤ的な現象形態においてのみとらえられ、固定される。したがってかれは『革命的な』、『実践的・批判的な』活動の意義をつかまない。

人間的思考に対象的な真理が到来するかどうかという問題は―なにも理論の問題ではなく、実践的な問題である。実践において人間はかれの思考の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない。思考の現実性あるいは非現実性についての論争は、―この思考が実践から遊離しているならば―まったくスコラ的な問題である。

環境の変更と教育とについての唯物論的学説は、環境が人間によって変更されなければならず、教育者みずからが教育されなければならないということを、わすれている。したがってこの学説は社会を二つの部分―そのうちの一つは社会のうえに超越する―にわけなければならない。

環境の変更と人間的活動あるいは自己変更との合致は、ただ革命的実践としてのみとらえられ、そして合理的に理解されることができる。

フォイエルバハは宗教的自己疎外の事実、宗教的な世界と世俗的な世界とへの世界の二重化の事実から出発する。かれの仕事は、宗教的な世界をその世俗的な基礎に解消させることにある。しかし世俗的な基礎がそれ自身からうきあがって、一つの独立王国が雲のなかに定着するということは、この世俗的な基礎の自己分裂および自己矛盾からのみ説明さるべきである。だからこの世俗的な基礎そのものがそれ自身その矛盾において理解されなければならないとともに、実践的に革命されなければならない。だからたとえば地上の家族が聖家族の秘密として発見されたうえは、いまや地上の家族そのものが理論的および実践的に絶滅されなければならない。

フォイエルバハは、抽象的な思考には満足せず、直観を欲する。しかしかれは感性を実践的な人間的・感性的な活動としてはとらえない。

フォイエルバハは宗教的本質を人間的本質に解消させる。しかし人間的本質はなにも個々の個人に内在する抽象体ではない。その現実においてはそれは社会的諸関係の総和(ensemble)である。

 フォイエルバハは、この現実的本質の批判にたちいらないから、どうしても

(1) 歴史的な経過を無視し、宗教的心情をそれだけとして固定し、そして抽象的な―孤立した―人間的個体を前提せざるをえない。

(2) したがって本質はただ『類』(Gattung として、おおくの個人を自然的にむすびつける内的な、ものいわぬ一般性としてとらえられうるにすぎない。

 したがってフォイエルバハは、『宗教的心情』(religiöses Gemüt)そのものが一つの社会的な産物であるということ、そしてかれが分析する抽象的な個人が一定の社会形態にぞくしているということをみない。

 すべての社会的生活は本質的に実践的である。理論を神秘主義へさそいこむすべての秘蹟は、その合理的な解決を人間的実践およびこの実践の把握のうちにみいだす。

 直観的唯物論、すなわち感性を実践的活動としてはつかまない唯物論が到達する最高のものは、個々の個人たちと市民社会との直観である。

 ふるい唯物論の立場は市民社会であり、あたらしいそれの立場は人間的社会あるいは社会的人類である。

 哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。たいせつなのはそれを変更することである。


流広志『フォイエルバッハ・テーゼをめぐって』

「第一テーゼは、唯物論の対象に、古い唯物論の対象である自然に加えて、感性的人間活動実践、主体を加え、そして、古い唯物論が、「革命的な」、「実践的・批判的な」活動の意義を概念的に把握しないのに対して、対象をその連関すなわち矛盾として掴む弁証法をもって、新たな唯物論を打ち立てる基本的な基準を示したのである」(『情況』09年6月号所収)


『資本論』第2版後記から。

「マルクスにとっては、ただ一つのことだけが重要である。彼がその研究に携わっている諸現象の法則を発見することがそれである。そして、彼にとって重要なのは、諸現象が一つの完成形態をもっているかぎりで、また与えられた一期間のなかで考察される一つの関連のなかに諸現象があるかぎりで、また与えられた一期間のなかで考察される一つの関連のなかに諸現象があるかぎりで、諸現象を支配する法則、このような法則だけではない。彼にとっては、さらになによりもまず、諸現象の変化や発展の法則、すなわち、ある形態から他の形態への移行、関連の一つの秩序から他の秩序への移行が重要なのである。ひとたびこの法則を発見したとき、彼は、この法則が社会生活のなかで現われる諸結果を詳細に研究する。……したがって、マルクスが苦心するのは、ただ一つのこと、すなわち、精確な科学的研究によって社会的諸関係の特定の諸秩序の必然性を論証し、彼のために出発点および支点として役だつ諸事実をできるだけ欠陥なく確定するということだけである。このためには、彼が現在の秩序の必然性を論証すると同時に、この秩序が不可避的に、すなわち人間がそれを信ずるか信じないか、意識するかしないかには少しもかかわることなく、移行せざるをえない他の一秩序の必然性を論証すれば、それでまったく十分なのである。マルクスは、社会の運動を一つの自然史的過程とみなしており、この過程を導く諸法則は、人間の意志や意識や意図から独立しているだけではなく、むしろ逆に人間の意欲や意識や意図を規定するものだと考えている。……もし意識的要素が文化の歴史で果たす役割がこのように従属的なものだとすれば、文化そのものを対象とする批判は、ほかのなににもまして、意識のどれか一つの形態やどれか一つの結果をその基礎とすることはできないということは自明である。すなわち、この批判のためには、観念ではなく、ただ外部の現象だけが出発点として役だつことができるのである。批判は、ある事実を、観念とではなく、他の事実と比較対照することに限られるであろう。この批判にとっては、ただ、両方の事実ができるだけ精確に研究されて、現実に一方が他方にたいして違った発展契機をなしているということだけが重要なのであるが、なかでもとりわけ重要なのは、それに劣らず精確に諸秩序の系列が探求されるということ、すなわち、発展の諸段階がそのなかで現われる連続と結合とが探求されるということである。しかし、ある人は言うであろう。経済生活の一般的な諸法則は同一のものであって、人がそれを現在に適用するか過去に適用するかにはなんのかかわりあいもないのだ、と。これこそ、まさにマルクスの否定するところである。彼によれば、そのような抽象的な法則は存在しないのである。……彼の見解によれば、それとは反対に、歴史上の一つの発展期間を過ぎてしまって、与えられた一段階から他の一段階に移れば、別の諸法則によって導かれるようになる。簡単に言えば、経済生活は、生物学の他の諸領域での発展史に似た現象を、われわれに示しているのである。……古い経済学者たちは、経済的諸法則の性質を誤解していたので、これを物理学や化学の諸法則になぞらえたのである。……諸現象のもっと深い分析は、いろいろな動植物有機体と同じように社会的諸有機体も互いに根本的に違ったものであることを証明した。……じっさい、これらの諸有機体の全体構造の相違、その個々の器官の差異、これらの器官が機能する諸条件の相違などによって、同一の現象がまったく違った法則に従うことになるのである。マルクスは、たとえば、すべての時代、すべての所を通じて人口法則が同じだということを否定する。反対に、彼は、それぞれの発展段階にはそれぞれの固有の人口法則があるということを確言する。……生産力の発展が違うにしたがって、諸関係もそれを規制する諸法則も変わってくる。マルクスは、自分自身にたいして、この視点から資本主義経済秩序を探求し説明するという目標を立てることによって、ただ、経済生活の精確な研究がどれでもっていなければならない目標を、厳密に科学的に定式化しているだけなのである。……このような研究の科学的価値は、ある一つの与えられた社会的有機体の発生、存在、発展、死滅を規制し、また他のより高い有機体とそれとの交替を規制する特殊な諸法則を解明することにある。そして、このような価値を、マルクスの著書は実際にもっているのである。」

この筆者は、彼が私〔マルクス〕の現実的方法と呼ぶものを、このように的確に、そして私個人によるこの方法の適用に関するかぎりでは、このように好意的に、述べているのであるが、これによって彼が述べたのは、弁証法的方法以外のなんであろうか?」(大月文庫版3740頁)。

「私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対なものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にとっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならないのである」(同40~1頁)。

「ヘーゲルの弁証法の神秘的な面を私は三〇年ほどまえに、それがまだ流行していたときに、批判した。ところが、私が『資本論』の第一巻の仕上げをしていた…ときに、いまドイツの知識階級のあいだで大きな口をきいている不愉快で不遜で無能な亜流が、ヘーゲルを、…「死んだ犬」として、取り扱っていい気になっていた…。それだからこそ、私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚を呈しさえした…。弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態をはじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを、けっして妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない…。/その神秘化された形態では、弁証法はドイツのはやりものになった。というのは、それが現状を光明で満たすように見えたからである。その合理的な姿では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとって腹だたしいものであり、恐ろしいものである。なぜならば、それは、現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、いっさいの生成した形態を運動の流れのなかでとらえ、したがってまたその過ぎ去る面からとらえ、なにものにも動かされることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」(同41頁)。


エンゲルス『自然の弁証法』

弁証法(連関の科学としての弁証法の一般的な性質を形而上学と対立させて展開すること。―したがって自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、

量から質への転化、またその逆の転化の法則、

対立物の相互浸透の法則、

否定の否定の法則。

これら三法則はすべて、ヘーゲルによって彼の観念論的な流儀にしたがってたんなる思考法則として展開されている。すなわち第一の法則は『論理学』の第一部、存在論のなかにあり、第二の法則は彼の『論理学』のとりわけ最も重要な第二部、本質論の全体を占めており、最後に第三の法則は全体系の構築のための根本法則としての役割を演じている」(国民文庫(1)65頁)。


毛沢東『矛盾論』1937年)

「事物の矛盾の法則、すなわち対立物の統一の法則は、唯物弁証法のもっとも根本的な法則である。レーニンはいっている。「本来の意味からいえば、弁証法とは、対象の本質そのもののうちにある矛盾の研究である」。レーニンは、つねに、この法則を弁証法の本質と呼び、また弁証法の核心とも呼んでいる。したがって、われわれは、この法則を研究するにさいして、どうしても広い範囲にわたらなければならないし、たくさんの哲学問題をとりあつかわなければならない。これらの問題をすべてはっきりさせたら、われわれは根本において、唯物弁証法を理解したことになる。これらの問題とは、二つの世界観、矛盾の普遍性、矛盾の特殊性、主要な矛盾と矛盾の主要な側面、矛盾の二つの側面の同一性と闘争性、矛盾における敵対の地位である」(岩波文庫33頁)。


田辺元『哲学入門』

「…マルクスの物質というのは、もはや機械的な自然的な物質ではない。歴史的な物質、言葉を換えれば、人間の行為を通じて作為されつつあるところの現実の客観的な契機なのである。だからその物質は必然的な運動をなすとともに、同時に人間の自由を媒介契機にしておる物質でなければならない。……エピキュロスの原子が必然の運動をするとともに、いつでも自己を否定して、自己からそれる可能性、すなわち逸脱の可能という偶然性を含んだところの、自己矛盾的自己否定的な物質であるということにならざるをえない。……マルクスの物質もまた、自己自身の中に自己矛盾性、人間の自由な行為を入れておるような物質でなければならない。……物質にして物質でないという弁証法的性格は消滅してしまう……。もしそこに、具体的にマルクスの精神が、単に卒業論文に現われただけでなしに、いま述べたように『資本論』そのものの中にも現われているところの、観念的思考に先だつ人間の行為の突発性、行為の優先性を強調するようなそういうところにあるとするならば、その唯物論という傾向は、同時にいわゆる物質的というものではなくして、単に現実的客観的というものでなければならぬ。それは常に歴史的、したがって人間の自由行為を含んだものでなければならない。言い換えるならば、唯物弁証法ではなくして行為の弁証法でなければならぬ」(筑摩書房1924頁)


アルチュセール『マルクスのために』

「マルクス主義の見地における矛盾の種差的な差異は、矛盾の「不均等性」あるいは「重層的決定」であり、この「不均等性」は矛盾のうちに、その実在条件を反映している。すなわち、つねに-すでに-所与の複合的である全体―それが矛盾の実在である―の種差的な不均等性の(支配関係をもつ)構造を反映している。矛盾は、そのように理解された場合、あらゆる発展の原動力である。置換と凝結は、矛盾の重層的決定に基礎づけられていて、それらは自らの支配の性質により、複合的過程の、つまり、「事物の生成の」実在を構成する諸局面(非敵対的な、敵対的な、そして、爆発的な)を説明する。

弁証法というものが、レーニンがそう言っているように、事物の本質そのものにおける矛盾の概念、つまり、事物の発展とその非発展、事物の出現、事物の変容、事物の消滅の、原理であるならば、われわれは、マルクス主義の立場における矛盾の、こうした種差性の定義を通じて、マルクス弁証法それ自体に到達することになるはずである」(平凡社ライブラリー370頁)。


ヘーゲル『小論理学』

「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の認識の学的認識の魂である。普通の意識においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にもLeben und leben lassen(自他ともに生かせという意)と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをも認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのはなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(岩波文庫上246頁)

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 必要に応じて新しい原理的仕組みに基づく発明がされるのです。
 弁証法的な発展というのは、この世界の成り立ちと仕組みの仕組みには何の根拠がありません。
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投稿: 一般法則論者 | 2009年11月24日 (火) 18時21分

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