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エチオピア関係資料(2)

 エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とシバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(紀元前5世紀~10世紀頃)が、現在のエリトリアにある沿岸の港町アドゥリスを通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀で、このころコプト教を受け入れ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝をしていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。周囲を征服し、首都をエチオピア北部のアクスムに置いた。インドとローマ(後に東ローマ帝国はアクスムに多大な影響を与えた)と主に交易した。象牙・鼈甲・金・エメラルドを輸出し、絹・香辛料・手工業製品を輸入した。また、アフリカで初めて硬貨を作り、使用したとされる。アクスム王国は、10世紀ごろにアガウ族の女首長グディトに滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたザグウェ朝(ca.1137,ca.1150- 1270)に滅ぼされたという説がある。ザグウェ朝は13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。

 イクノ・アムラクは、シェバに都を置き、ソロモン朝(エチオピア帝国)を建てた。ソロモン朝は、イクノ・アムラクの孫であるアムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝と対峙した。しかし、16世紀以降その力は衰え、1679年~1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。これを制したのは、タナ湖北辺の諸侯(ラス)のカッサで、王国を再統一し、テオドロス二世となった。彼は、西洋式の常備軍創設、奴隷制の廃止、税制改革などの近代化政策を進めようとした。しかし、1867年、イギリスのインド兵主体のイギリス軍との「マグダラの戦い」で敗北して、自害した。この時、イギリスと手を組んだティグレの諸侯が、皇帝ヨハネス4世を名乗る。1889年マフディー軍との戦闘で、ヨハネス4世は戦死。ショアの諸侯メネリクが、皇帝メネリク2世となって、国力増強、近代化を図り、南方へ領土を拡大した。彼は、首都アディス・アベバを建設、郵便、銀行制度の導入、鉄道、道路の敷設などを急いだ。それから、軍隊の近代化を進め、ライフル銃、連射機関銃、大砲などの近代的装備を保有した。そして、彼は、イタリアの保護領化の要求を拒否し、1896年第一次エチオピア戦争を、「アドワの戦い」で破り、壊滅させた。その結果、エチオピアの独立が認められた。その娘が女帝として即位し、諸侯で摂政として政権を握ったタファリが、1930年に、ハイレ・セラシエ1世(註1)として即位する。エチオピア帝国は、第二次エチオピア戦争に敗れ、1936年から1941年は、イタリアの植民地(イタリア領東アフリカ)となった。戦後、独立を回復した。1952年にエリトリアと連邦を組み、1962年にはこれを併合した。

 1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および干ばつによる10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。しかし、エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世は、ジャマイカのラスタファリズムなどで世界各地の黒人に大きな希望を与えた(レゲエのボブ・マーレー等)。軍部はアマン・アンドム中将を議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC 議長就任。恐怖独裁政治や粛正により数十万人が殺害されたとされる。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。ティグレ人中心のエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF) のメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領、次いで1995年8月には新憲法が制定されネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは事実上の最高指導者である首相に就任、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。

 1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構(OAU)の停戦提案を受け入れた。7月、国連の安保理はPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定。2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。1973年干魃による飢饉発生(約1万人死亡)。1974年の軍事クーデターによる王政廃止と社会主義国家建設宣言、その後、メンギスツ臨時軍事行政評議会議長による軍政が続き、この間、ソマリアとの戦争や1983-4年の飢餓(約百万人死亡)の拡大等により、多くの難民が発生した。1987年9月には、国民議会を最高機関とする人民民主共和国に移行し、メンギスツ議長は初代大統領となり、1990年3月、社会主義体制の放棄と混合経済の導入を発表したが、国民の支持を回復することは出来なかった。1991年5月、反政府勢力のエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)の軍事攻勢により、メンギスツ政権は崩壊した。

 1991年7月、EPRDFを中核とした暫定政府が樹立され、暫定憲章に従い民族融和と民主化に注力した。一方、北部のエリトリア地方においてはエリトリア人民解放戦線(EPLF)が独自に「臨時政府」を樹立し、EPRDFは「同政府」を承認した。1993年4月に、エリトリア地方の独立に関する住民投票が実施され、99%以上の独立賛成票により、エリトリアは同年5月にエチオピアから独立した。エチオピア連邦民主共和国政府は、第1回国政選挙(連邦下院選挙及び地方議会選挙)より多数政党制を導入し、民主化を促進している。2000年5月、第2回国政選挙、2005年5月、第3回国政選挙が実施され、与党EPRDFが勝利している。次回の国政選挙は2010年に予定されている。連立与党は、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を構成するオロモ人民民主機構(OPDO)、アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主戦線、ティグレ人民解放戦線(TPLF)の4党。その他の主要政党はエチオピア民主連盟、全エチオピア統一党、統一エチオピア民主党メディン党、虹のエチオピア民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合(UDF)など。反政府勢力として、オロモ解放戦線(OLF)など4組織で構成された統一オロモ解放戦線(UOLF)やオガデン民族解放戦線(ONLF)がある。

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コメント

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!

投稿: 履歴書の送り状 | 2013年5月29日 (水) 13時29分

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