« エチオピア関係資料(2) | トップページ | フォイエルバッハ・テーゼをめぐって »

エチオピア関係資料(3)

エチオピア史の中で、目に付くことの一つは、古くからの紅海を通じた中東・アラブ世界との交流関係の存在である。

アクスム朝は、エジプト、ギリシア、アラブ、インド、と交易し、象牙、金、皮革、奴隷、の取引をした。象牙と引きかえに、銅、鉄、銀細工の宝石、ガラス製品、上質の武器、が交換された。6世紀後半には、ビザンチン帝国と友好関係にあり、ササン朝ペルシアのホスロー1世率いる遠征軍に破れて、エジプトのアレクサンドリア総主教を頂点に頂くコプト教の一派(東方教会の流れを汲む)であるエチオピア正教会(1959年独立教会となる)が多く信仰されているキリスト教徒の多い国である。この伝説は、13世紀のソロモン王朝時代の、「国王頌詠」(ケブラ・ナガストKebra-Nagast)に記されている。エザナ王が、コプト教に改宗したのは、310年代とされる。5世紀には、キリスト教化が進んだ。ユダヤ教徒もけっこういたようだが、1974年の王政廃止後、多くはイスラエルに移住したようである。

伝説どおりなら、紀元前10世紀頃から、3千年の王国の歴史を持つことになる。スピルバーグの映画「レイダース 失われたアーク」で有名な、アーク(聖柩)伝説(モーセがシナイ山で神から直接授かった戒律(モーセの十戒)が刻まれた石を収めたとされる聖なる柩(契約の箱)。エルサレムの神殿に収められていたとされるが、その行方は不明となっているとされている)を持ち、それがアクスムの教会に納めてあるという。そのレプリカを各地の教会に置いて、信仰している。それから、キリスト教の宗教会議(公会議)において、ローマ・カトリックなどから異端とされるキリストの人性と神性は融合しているとする「単性論説」(451年の公会議で異端として排斥された)を取るとされる。また、エチオピア高原が原産地とされるコーヒーは、イエメンのモカという港町に集積され、船積みされたことから、モカが品種名になっているという。エチオピア東南部のオグデン地方は、砂漠地帯で、隣のソマリアと同じソマリ人が遊牧生活をしているが、イスラム教徒が多い。さらに、南部には、人口比では最多のオロモ人、その他、多くの少数民族が居住し、その一部は差別されていたという。

 エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていない時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれたが、帝政時代、支配階級である王族や貴族や軍幹部、高級聖職者は、大地主であり、小作人を使っていたという。1974年に、帝政を打倒し、社会主義宣言をしたメンギスツ臨時軍事行政評議会は、土地の国有化などを掲げてはいたが、実際には、土地改革はあまり実行されなかったようである。それもあってか、農業の近代化は遅れ、生産性が低く、農業が雇用約85%、国民総所得(GNI)の約45%を占めている農業国だが、貧困に陥っている。しかし、「アフリカの青い空」というブログの記事には、05年の選挙の争点に、ゼナウィ政権が進める国有地の民営化反対の野党との対立があったと言う。

  アメリカとの関係を深めるゼナウィ政権が、新自由主義的な民営化、構造改革路線を推進しているのに対する反発や不満というのが、反政府運動にはあるようだが、重要産業は国営化されているようだが、土地についてはどうなっているのか、今のところ、それがわかる資料を見つけていないので、わからない。また、エリトリアの独立を認めたが、国境紛争が発生すると、国内のエリトリア系住民を1998年から99年にかけて、5万2千名、国外追放したと言われる。エチオピア政府は、1992年以降、全国民に民族名を記載した身分証明書を発行した。エリトリア人は、市民権を否定され、財産を没収され、「侵略者」と呼ばれたという。

  2006年12月、イスラム法廷連合(ICU)勢力と対立するソマリア暫定政府を支援し、ソマリアに進駐、米軍と共に、首都モガディシオを空爆した上、市内で、市民を虐殺したと、ヒューマン・ライツ・ウォッチが批判している。2005年の議会選挙では、与党が勝ったが、選挙の不正を告発する野党支持者などの抗議活動を弾圧し、多くの死者、逮捕者を出した(註2)。また、ギンボット7(ginbot7)などの活動家を、暴力的政府転覆の陰謀などの罪状で、逮捕・起訴している。また、エチオピアでは、米軍が、対テロ戦争の過程で、テロ容疑者として治安機関が拘束した人々を、米国に輸送するための中継地を提供し、同国内の施設にかれらを留め置き、そこで、拷問などによる米国治安機関による尋問などを認めているとして、アムネスティ・インターナショナルが、エチオピア政府を非難している(「ケニア/エチオピア/ソマリア アフリカの角:「テロとの戦い」での人びとの違法な移送」(「アムネスティ・インターナショナル」 2007 年 6 月))。先のギンボット7の裁判での検察の求刑内容を見ると、死刑、財産没収があり、また、欠席裁判もやっている。ギンボット7は、現政権を、ethnic regim(民族政治体制)と呼んでいる。

 他方で、『新アフリカ史』(講談社現代新書)では、「浮遊するアイデンティティ」という小見出しの下で、「アフリカにおいても、新たな実験が始まっている。エチオピアでは、単一のネイションを前提としない国家が成立した。1991年に政権の座についた新政府は、徹底した多元主義政策を推進し、93年にはエリトリアの分離独立を円満に承認した(第10章3節参照)。94年に制定された憲法では、各民族に分離独立の権利を(名目的ではなく)保障した。国家は緩やかな統合体となったのである。これは近代市民社会の国家観と決別した、新たな国家形態の実験である。/こうした緩やかで単一でないアイデンティティは、実のところ、アフリカ社会が長年つくりあげてきた社会編成の原理でもある。それは柔軟で多元的なアイデンティティに基づく社会と言ってもよい。たとえばある民族に属する人間が、移住や生活上の便宜によって、別の民族に帰属することは珍しいことではなかった」(同書303頁)と、ゼナウィ政権を評価している。これが、先進国知識人の現実離れした見方であることは、事実が示している。

(註1)「この若き皇帝は、1974年、皇帝の座を追われ死亡するまで、近代的開明君主と封建的大領主という矛盾した二つの側面をあわせもちながら、長期間、独裁的な執政を続けてきたが、そのあいだエチオピアの社会構造は基本的には変わらなかった。それは、皇帝を頂点として、皇帝に任命された州知事、州知事に任命された藩主あるいは郡長官というピラミッド型の構造であった。藩主にはグルドと呼ばれる、各世帯から税金や労働力を調達する権利があり、恣意的に人々から余剰を奪い取った。さらに領主から臣下に与えられた広大な土地では、50~70パーセントという法外な小作料が課せられた。こうした封建的な貢納関係が、のちにエチオピア帝政を自壊させた最大の原因であった」(『新アフリカ史』講談社現代新書301頁)。

(註2)「エチオピアの総選挙その後 エチオピアでは選挙が5月に行われましたが、開票結果の一部で不正があったと野党が指摘し、一部開票結果の発表の先 送りと、一部の選挙区での再投票が行われました。そうこうしている内に、大学生などの若者の不満が爆発し、投石などによるデモがアジスアベバ市内で発生 し、治安当局がこれらの鎮圧を試みた際に死者が出て、少々物騒な感じになっています。政府は野党が企てた暴動だといい、野党は、政府が暴動を起こさせて野党の評判を落とそうとしているなどち主張しあっています。一般の市民は、前政権や戦争の経験もまだ記憶に新しいからか、混乱がこれ以上大きくなって欲しくないなあと、息を潜めて状況を見守っていると言う感じがします。政府と野党の話し合いもあったそうですので、このまま落ち着いていけばよいですが、選挙結果の発表は7月8日まで延期されていますので、その間に何か起こるかもしれません。私の住んでいるアダマは工科大学で少々の騒ぎがあったらしいですが、全体としては静かです。電話が通じにくくなったり、朝晩に停電があったりして、一部の人はこれを政府が意図的に野党の計画的な行動を妨害をしているのだと言っていますが、果たして本当かどうか?」。

先週の火曜日(111日)から、アジスアベバではちょっとした暴動がおき、治安当局の弾圧で死者が40名強出てい ます。5月に行われた総選挙の結果が不正に扱われたとして、野党側の議員が国会に出席しないでいます。与野党間で話し合いが何度か持たれたのですが、選挙結果を合意するには至っていません。こうしたことから、野党側はジェネラルストライキを市民に働きかけたとのことです。投石が行われたために治安当局が発 砲して死傷者が出ました。昨日あたりはだいぶ落ち着いたようですが、地方都市で学生と治安当局の間の衝突があったとのことです。周りの人に話を聞くと、多くは現政権には批判的で5月の総選挙の結果は不正なものだと信じています。何とかしたいとは持っていますが、武力ではなく平和な方法で政治が変わって欲しいと思っている人が多いと思います。他方で、いろいろと問題はあるが現政権は良くやっているし、それに協力せずに問題を起こすのはばかげたことだと考えている人もいます。反政府行動が投石やバスなどへの放火を伴うのはよくないですし、治安当局も、暴動の鎮圧に必要以上の武力を使うケースがあるようで、それも問題です。多くの野党側活動家が逮捕されていますが、野党第一党のリーダー(元人権委員会議長だったそうです)が死亡したとい う噂もあるようです。これが本当だと、反政府感情はさらに高まるのではないでしょうか。私たちのいる地方都市は何事も無く平穏です」。

「エチオピアで5月に行われた選挙は、与野党間で選挙結果に対する意見が食い違い、6月と11月の2度にわたる死傷者を出す市民と治安部隊の対立へと発展しました。多くの野党リーダーやジャーナリストが拘束されたままです。ここに来て、支援国からエチオピア政府の対応が 非民主的とする非難が高まっています。特に、国の一般財政に直接資金を支援している援助国・機関からは援助の再検討(つまり、援助を止める)を行うとの圧力が高まっています。支援国による直接財政支援は国の予算の1割を占めており、これがストップすると、国の開発事業に少なからぬ影響が出ます。エチオピア政府側は特に貧困層へのサービスが影響をこうむるとして、援助のストップはやりすぎと非難しています。直接財政支援をストップしても、そのお金は地方政府や国際機関を通じた支援など、他のルートを通じた支援に切り替えると援助側は話しています。しかし、政府が行う公共サービスが影響を受けるのは確実で、政府への圧力のしわ寄せが貧困層に及ぶことは避けられないでしょう。政治の世界は難しいですね」(ブログ「アフリカの青い空」エチオピアの総選挙その後http://blog.livedoor.jp/chekereni/archives/50275773.html)。

参考:ウィキペディア、外務省ホームページ、『エチオピアの歴史“シェバの女王の国”から“赤い帝国”崩壊まで』岡倉登史 明石書店)、『富の独裁者驕る経済の覇者:飢える民族の反乱』エイミー・ショア 光文社)、『アフリカ現代史Ⅱ』(山川出版)、『アフリカを知る事典』(平凡社)、諸サイト、等々。

|

« エチオピア関係資料(2) | トップページ | フォイエルバッハ・テーゼをめぐって »

アフリカ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/57588/32510290

この記事へのトラックバック一覧です: エチオピア関係資料(3):

« エチオピア関係資料(2) | トップページ | フォイエルバッハ・テーゼをめぐって »