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2009年12月

年末野菜市大盛況!

 不況下での「自由と生存の家の野菜市は、近所や遠くから来られた方も含めて、多くの人で賑わい、大盛況のうちに、終えました。

 夕暮れ、暗くなるまで、野菜市は、開かれ、市場は同時にコミュニケーションの場ともなりました。

 餅つきも行われ、来られた方々に配られました。小さな子供たちも、めったに経験することもない餅つき体験をしたので、それが楽しい思い出として記憶に残ってもらいたいものです。

 次回は、新年1月24日です。

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混迷する政治・経済情勢に思う

 経済的混沌が深まる中で、政治の混迷も深まっている。

 それに伴って、思想状況も混沌としている。多くの人は、今、何がなんだかわからないというのが正直なところだろう。昨日の延長で、先を読もうとしても、明日になると、それと違ったことが起きている。まさに、地殻変動が生じつつある。

 これは、現代経済学でも同じで、今、経済学者は、必死に、新しい分析方法を探している。日銀のHPに掲載されているあるレポートは、これだけ短期的な変動が激しいと、既存の分析方法では、何が起きたかとらえられないと、正直に告白している。

 イギリス経済学に源流を持つ現代ブルジョア経済学は、経験論を基本としていて、帰納法を取っているせいで、経験から一定の傾向を取り出すのは得意だが、それと異なる現象が生じた際に、対応できないのである。

 その場合に、過去の成功例を引っ張ってきて、それを当てはめようとしたりする。クルーグマンの生産性向上成長要因論というのが、今、かれらの間で注目されているらしい。

 先進国の場合は、第三次産業化が進んでいるために、搾取率が小さく表現されるので、それに騙されるということがある。搾取の存在は、森嶋通夫が数学的に証明している。マルクスの『資本論』は、資本主義経済の基本的なところを掴むためには必要だが、今の現実の経済の実際をとらえようとすると、やはり、大づかみにすぎるという問題があることはいなめない。しかし、『資本論』は、基本を押さえるのに必要である。森嶋は、微分積分、ベクトル、行列などを使って、搾取の存在を証明している。

 基本的に、利子生み資本の問題(『資本論』第3巻)を理解すれば、そのことはわかる。利子は利潤の一部であって、株式会社の場合は、それらはほぼイコールなのだが、いずれにしても、搾取なしに、この部分は存在できない。信用は、価値を創造するのではない。借りたものはいずれ返さねばならない。つまり、決済の時が未来に必ず来るのである。信用によって現在の投資を増やすのは、未来の利潤の増大をあてにして、そこから利子を多く取得しようというだけのことである。しかし、搾取が見えにくくなっているのは、一つには、産業資本に対して商業資本の率が高いと、その率が低く表現されるなどのことがあり、また、労働者の一部は、再生産費としては、かなり高い賃金をもらったり、年金その他の社会制度によって保護されるようになったということがある。したがって、資本主義が、労働力再生産費を低く押さえようとするということは、その逆のベクトルが強くなったために、緩和されているのである。

 戦後資本主義では、これまでは、そうだった。しかし、今、そのベクトルの力が弱まっている。特に、社会保障制度の後退が起きたり、非正規化のために、貧困化が拡大している。野宿者支援運動関係の人から話を聞くと、野宿者は、去年の2倍ぐらいに増えているという。それに対して、我慢の限界点が近づきつつあることは言うまでもない。そこで、空想的社会主義的な様々な幻想的アイデアによって事態をなんとか打開しようという者も現れる。しかし、そうして、時間を徒に空費していいのかという疑問がある。家族は、セーフティネット機能を低下させている。それは、昔は、三世代同居、親類縁者、近所との相互扶助共同体的関係などのネットワークに支えられて、機能したのである。そうした共同機能がないので、その力はもはや限られている。単独での子育てのストレスから、うつ病になったり、ドメスティックバイオレンスが引き起こされるなどのケースがある。貧乏人の子沢山は、同時に、幼児の高死亡率を伴っている。そして、資本主義化が、社会を進歩させ、社会を豊かにし、人々を幸福に導くということは、幻想に過ぎないということを、このような後退によって、多くの人が体験した。

 どうやら、最近、今起きている経済危機は、これまでと違うし、規模も大きいし、期間も長いということに気がつく人が増えている。『資本論』ブームはそうした現れの一つだろう。これは、一過性のブームかと思いきや、そうではない。

 どうやら、「在特会」に参加する若者にも、非正規層がいるようで、かれらの現状への不満は、差別排外主義的言辞を吐き出すことで、はけ口を与えられているようだが、やられた方が、こういう攻撃に対して自衛権を行使するのは当然だ。これは、たとえ、表面的には非暴力的であっても、やはり、自然発生的に軍事的性質を持つ運動となる。だから、一応は、軍事論を踏まえないと、自然発生性に流されて思わぬ所に行ってしまう可能性がある。知らないために、危険が増すということもある。知っていれば、そういう危険を避けやすくなるということもある。

 例えば、『孫子』には、こんな部分がある。

 「将とは、智・信・仁・勇・厳なり。法とは、曲制・官道・主用なり」(物事を明察できる智力、部下の信頼、部下を思いやる仁慈の心、困難にくじけない勇気、軍隊を維持する厳格さなど、将軍が備える能力 石原光将氏訳)。

 将軍は、あくまでも君主の臣下の一人であるから、君主の側の政治がどうかということがまず基本にある。その上で、その政治目的を達成するための手段としての軍事指揮権を実際に行使する将軍があるという関係である。軍師にして政治的ブレーンも兼ねていた古代中国の人物として、三国時代の蜀の諸葛孔明がいる。その場合には、君子は、人心掌握者ということである。つまり、人々の大衆的支持がある者ということである。諸葛孔明には、それはなかった。

 「善く兵を用うる者は、道を修めて法を保つ。故に能く勝敗の政を為す」故に勝を知るに五あり。
 戦うべきと戦うべからざるとを知る者は勝つ。衆寡の用を識る者は勝つ。上下の欲を同じうする者は勝つ。虞を以て不虞を待つ者は勝つ。将の能にして君の御せざる者は勝つ。
 この五者は勝を知るの道なり。
 故に曰わく、彼れを知りて己を知れば、百戦して殆[あや]うからず。彼れを知らずして己を知れば、一勝一負す。彼れを知らず己を知らざれば、戦う毎[ごと]に必らず殆うし。

 

そこで、勝利を予知するのに五つの要点がある。

(一)戦ってよい場合と戦ってはならない場合とを分別している者は勝つ。
(二)大兵力と小兵力それぞれの運用法に精通している者は勝つ。
(三)上下の意思統一に成功している者は勝つ。
(四)計略を仕組んで、それに気づかずにやってくる敵を待ち受ける者は勝つ。
(五)将軍が有能で君主が余計な干渉をしない者は勝つ。

 これら五つの要点こそ、勝利を予知するための方法である(同)。

 したがって、軍事においては、相手の実状も知って自己の実情も知っていれば、百たび戦っても危険な状態にならない。相手の実情を知らずに自己の実状だけを知っていれば、勝ったり負けたりする。相手の実情も知らず自己の実状も知らなければ、戦うたびに必ず危険に陥る。

 「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず」。これは、基本中の基本である。だから、戦う前に、勝算を立て、立たなければ、戦闘を避けるべきだが、実際の戦闘に入ったら、臨機応変ということが大事なので、どのように勝てるかはあらかじめわからないと心得ておく必要があると、孫子は言う。それから、孫子ではないが、「策士、策におぼれる」ということもある。策士というほどの人は滅多にいないようだ。それに、下手に策に走ると、かえって、損することが多い。日本の戦国時代には、戦国大名は、そういう人材を競ってリクルートした。甲斐の武田信玄もそうだ。武田は、『孫子』から取った「風林火山」という言葉を書いたのぼり旗を掲げていた。

 しかし、相手も『孫子』を研究していれば、これらは踏まえられているわけだから、備えが出来るわけだ。だから、結局、問題は、政治に帰着する。つまり、認識と意志の要素に。よく知るということ、よく考えるということ、しっかりと自己認識すること、目的の明確化、明瞭な意志を形成するということである。そして、戦術の柔軟さ、臨機応変。

 今、アメリカも日本も、ブルジョア経済学は、今の自国や世界の経済状況についての正確な認識を持てていない。だから、きちんとした政治意志も形成できない状態にある。残念なことに、それに対する側にも、それが十分ではないという問題を抱えている。どちらも探っている状態である。しかし、対抗側には有利なことがある。それは、危機的状態に立たされた側が、自己防衛のためにも、他を攻撃しなければやっていけない状態になって、攻めているということである。とにかく、動かないとどうしようもないので、金をばらまいたり、制度を変えてみたりしているということである。そこで、その動きを見て、こちらはいろいろと戦略を立てることが可能である。クラウゼヴィッツが言うように、防御側は、攻撃側に対して、時間・空間を利用できる余地が大きいのである。

 それに対して、イタリア共産党の創設者の一人、グラムシは、「市民社会」という要塞(城)攻めを主張し、陣地戦ということを提起した。グラムシは、それが長期に渡る極めて厳しい戦いになることを指摘している。守りを固めている敵を攻撃することになるのだから、当然である。城内に送り込んだ味方は、身動きできないようにされたり、敵の手に落ちてしまうかもしれない。それと、城攻めの場合には、数の優位、兵站の優位、等々の物的手段の優位が必要である。現在のように、闘う側の数が優位にないような場合の戦術としては、取りにくい。グラムシは、陣地戦のみを主張したわけではなく、機動戦との組み合わせということを言ったのだが。守備戦と陣地戦を取り違えている人もいるようだが、陣地戦は、要するに、城攻めであり、孫子が出来るだけ避けるべきだと言ったものである。

 まず、既存のブルジョア経済学は、分析装置として役に立ってないし、対策としてもあまり役に立っていない。例えば、技術的要因に注目して、それが生産性に影響を与えることで、経済成長が起きるというシュンペーター的な説明がなされたりする。ここからは、技術投資の強化・拡大という結論が出る。それに対して、雇用の流動化の促進による生産性上昇ということを言う者もいる。正社員の雇用が守られ過ぎていて、雇用の流動性が低いために、失業率を高めているし、非正規労働者の待遇が上がらないというのである。しかし、このような安定雇用の大企業正社員層は減少しつつあり、さらに、その待遇も悪化している。

 G(貨幣)-G'(貨幣)という媒介なしの形式では、生産過程も流通過程も見えなくなっているが、この間には、技術的な操作という媒介があって、それこそ、信用を扱う銀行業の仕事なのである。それは、社会的機能の独立化として、この技術的操作が、分業の発展の結果、特殊の専門業種として、銀行に集積・集中する。銀行から流れ出た貨幣は、利子を持って銀行に還ってくる。まさに、G-G’の形式を描くのだ。そして、それは、資本の総過程との関連を覆い隠す。しかし、関連はある。それは、金融恐慌とともに、過剰生産が表面化し、目に見えるようになったことで、明らかである。

 アメリカはすでに大量の赤字国債を発行して、資金を調達して、それを大投入して、ようやく、下げを押さえている状態である。しかし、借金を返すために、やはり、輸出を増やさなければならない。これまでなら、国内で余った金を、国外投資して、その上がりでなんとかなったのだが、世界経済が不況のために、有利な投資先があまりない。いきおい、大規模な景気対策を行った中国に投資が向かうことになるが、それも、バブル気味になっている。アメリカ国内の商品市場にも、今、投資が集中していて、原油などの商品価格が上がっている。金融恐慌の火種があちこちにあるということだ。

 以下は、今年3月31日付の世界銀行の「世界経済見通し」である。現在は、新聞で見る限りでは、アメリカがやや持ち直しているのに対して、ヨーロッパは、来年、また、景気が悪化する見通しである。中東ドバイの不動産バブルがはじけたばかりで、それも世界経済にマイナスのインパクトを与えた。中国は相変わらず、先進資本主義国より高成長を続けている。しかし、おそらくは、世界経済全体を押し上げるだけの力はない。第2、第3の恐慌が、どこかの部面で起こるかも知れない。その規模や中身次第だが、そうなって、我慢比べになった時に、耐えきれなくなる国が出てくるかもしれない。

 「在特会」は、そうした方向に持っていこうとしている感じがする。かれらの思想には、1922年のナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の「25カ条綱領」の思想と共通するものがある。その基本的な原理として、血統主義的民族観があり、それは「在特会」と行動を共にする「主権回復を目指す会」の西村などと同じである。それと、戦争は希望という主張は、旧同盟系大労組が、70年代の経済危機に面した時に、叫んだことと似ている。軍艦を作れば、造船業は儲かり、その分け前として、賃金が上がるとか、失業しないですむとか、そういう類のことである。それは、民族間の戦争と表象されているわけだが、実は、階級対階級の間の戦争から逃れようという企業主義的エゴを、労働者に浸透させる策動に他ならない。

 最後に、来年の世銀などの世界経済の見通しとして、ヨーロッパ経済の後退傾向が強まるというのがある。中国は、為替水準を元安に誘導していて、為替変動の動き次第で、経済情勢が大きく動く可能性がある。つまり、米ドルとの関係、アメリカ経済との関係である。全体に、だぶついている資金が、商品市場や中東の建設ブームや中国、インドなどの新興工業国などを駆け回っているようで、それが、例えば、今、アメリカでは、原油先物や金市場に一つの集中点を見出しているようだ。よほど大きなイノベーションなどがない限り、小康状態の局面はあったとしても、当面、この世界不況は終息しないだろう。今、この現象をしっかりと分析しつつ、取って代わるものの構想を作らないといけないだろう。

 

世界経済見通し(世界銀行)

 

 ワシントン、2009年3月31日  世界銀行は本日、途上国のGDP成長率が2008年の5.8%から2009年には2.1%に低下するとの見通しを発表した。これは、世界的な金融・経済状況の急激な悪化を受け、2008年11月に発表した2009年の途上国成長率見通しの4.4% を約半分以下に下方修正したものである。

 本日発表された「世界経済見通し」の改定値では、本年の世界全体の成長率はマイナス1.7%と、第二次世界大戦以来初めて世界経済が縮小するとしている。GDPはOECD諸国で3%、他の高所得国で2%縮小する見込みである。

 世界銀行のベースライン予測では、金融危機に伴う金融セクターの整理統合、逆資産効果及びこれらの波及効果によって経済活動が落ち込む中、2010年には景気がかろうじて底を打つと予測している。ただし、回復のペースとタイミングは極めて不透明のままだ。

 「途上地域全体で景気後退が最貧層に打撃を与え、そうした人々の生活を突然の衝撃に対して更に脆弱なものにするばかりか、機会を奪い、希望をくじくことになろう」と、世界銀行チーフ・エコノミスト兼上級副総裁のジャスティン・リンは述べている。「これにより長年の歩みが逆戻りしかねず、開発にとっての非常事態以外の何ものでもない」

 今回の改訂見通しにおいて、世銀は、景気が徐々に反転するとしても、失業問題と深刻なセクター別調整が長引くため、今後2年間の経済活動は低迷を続けると強調している。

 「世界経済の伸びが2010年に再びプラスに転じるとしても、実質的にすべての国において2011年に入っても生産は低迷を続け、財政はさらに逼迫し、失業率はさらに悪化を続けるだろう」と、世界銀行開発見通しグループでグローバルトレンドを担当するハンス・ティマーは解説している。

 世界の財・サービスの貿易は2009年、マイナス6.1%という歴史的な下げ幅を記録する見通しである。バレル当たり47ドルという2009年の原油価格見通しは、2008年の水準を50%以上下回るものである。原油以外の一次産品価格も、2008年を約30%下回る見通しである。

 途上国の財政収支は、歳入の減少、借入コストの上昇、社会的セーフティネット維持のための多額の移転支出により、大きく悪化する見通しである。特にヨーロッパ及び中央アジアの途上国では貿易と生産の落ち込みが激しく、民間セクターが極めて脆弱で、社会的セーフティネットの普及率が高いため、財政問題が強く懸念される。

 途上国による海外からの資金調達ニーズは、経常収支赤字と、民間債務の元本返済などで、2009年は1兆3000億ドルに上る可能性が高い。資本流入が減少するため、途上国の資金不足は2700-7000億ドルに上ると見られる。資金不足が最も深刻な地域は、ヨーロッパ・中央アジア、ラテンアメリカ及びサブサハラ・アフリカである。

 世界のGDPは2010年には2.3%という小幅な伸びとなろうが、万一途上国の中で国際収支の危機が発生すれば、それを封じ込めることは困難で、世界規模の回復を遅らせることになるであろう。もうひとつのリスクは、金融セクターの問題が長引くため、信用市場の回復が緩慢となることだ。そうなれば実体経済での生産調整の期間が長引き、世界規模での景気後退が長期化するだろう。

 地域別の成長見通し

 ヨーロッパ・中央アジア地域は、今回の危機の影響を最も深刻に被っている。同地域のGDPは2009年に2%のマイナスと予測される(2008年は4.2%のプラス)。これは、世銀の11月時点での見通しから4.8%ポイントという途上地域で最大の下方修正である。

 ラテンアメリカ・カリブ海地域の2009年のGDPも、国別の状況は様々であろうが、全体としてはマイナス成長となる可能性が高い。即ちGDPはマイナス0.6%と見られる(2008年は4.3%のプラス)。

 東アジア・大洋州地域は、世界的な投資・貿易額の下落による影響を最も大きく受ける可能性が高い。すでに工業生産と設備投資は大幅に縮小している。中国の成長が6.5%に減速し、タイをはじめとする域内の数カ国で景気後退に陥るため、2009年の同地域のGDPは5.3%の伸びにとどまる見通しである。

 南アジア地域の2009年のGDP伸び率は前回の見通しの5.4%から3.7%に下方修正されている(2008年実績は5.6%)。交易条件は原油価格の下落により改善しているものの、輸出需要の著しい減少が影響している。

 中東・北アフリカ地域の成長は、途上地域の中では影響が一番少なく、前回の見通しをわずか0.3%下方修正した3.3%となっている。原油収入の減少および減産のため、石油輸出国のGDPは2.9%にとどまるだろう(2008年は4.5%)。

 サブサハラ・アフリカ地域の2009年GDP成長率は、前回の見通しより1.8%下方修正され、2008年の4.9%から2.4%へ半減すると見られる。一次産品価格の乱高下も域内各国に大きく影響するだろう。

 

ナチ党25カ条綱領

 25か条綱領は1920年2月24日、ミュンヘンでアドルフ・ヒトラーとアントン・ドレクスラーが定めたナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領であり、党員獲得のために当時の社会で求められた政治的要求の最大公約数が盛り込まれている。その特徴として、社会主義・ナショナリズム・反ユダヤ主義などが挙げられる。 特徴的なのは土地・産業の国有化を求める11条から17条であり、非常にナチズム的な要求であるといえる。これらの条項はのちにグレゴール・シュトラッサーらナチス左派古参領袖の主張の根拠となり、シュトラッサーらは社会主義色を強める綱領改定案を出した。既成勢力との関係は党勢の拡大に重要と考えたナチス主流(ヒトラー派)は「指導者原理」の立場からイデオロギーよりもヒトラーの決定を優先し、反対派を粛清した。その一方で綱領の文言に手を加えることはなく、「指導者原理」により綱領を有名無実化していった。

  1.   我々は、民族の自決権を根拠として、全てのドイツ人の1つの大ドイツへの合同を要求する。
  2. 我々は、他国に対するドイツ民族の同権、ヴェルサイユ条約およびサン=ジェルマン条約の廃止を要求する。
  3. 我々は、我が民族を扶養し、過剰人口を移住させるための土地(植民地)を要求する。
  4. 民族同胞のみが国民たりうる。宗派にかかわらずドイツの血を引く者のみが民族同胞たりうる。ゆえにユダヤ人は民族同胞たりえない。
  5. 国民でない者は、ドイツにおいて来客としてのみ生活することができ、外国人法の適用を受けねばならない。
  6. 国家の指導と法律によって定められた権利は、国民のみがこれを有する。ゆえに我々は、いかなる公職も、それが国家のものであるか州のものであるか市町村のものであるかを問わず、国民のみによって占められることができるようにすることを要求する。我々は、人格や能力を考慮せずにただ政党の視点のみによって占領されている腐敗した議会の体たらくに対して闘争する。
  7. 我々は、国家がまず第一に国民の生活手段に配慮することを約束することを要求する。国家の全人口を扶養することが不可能であれば、外国籍の者(ドイツ国民でない者)は国外へ退去させられる。
  8. 非ドイツ人の今以上の移民は阻止される。我々は、1914年8月2日以降にドイツに移住してきた非ドイツ人が、直ちに国外退去を強制されることを要求する。
  9. 国民は全て同等の権利と義務を持たねばならない。
  10. 全国民の第一の義務は、精神的または肉体的に創造することであらねばならない。各人の活動は公共の利益に反してはならず、全て全体の枠において利益をもたらさねばならない。ゆえに我々は、 以下のことを要求する:
  11. 不労所得の撤廃、寄生地主の打倒。
  12. あらゆる戦争において民族が払わされた財産や血の莫大な犠牲を考慮すれば、戦争による個人的な利得は民族に対する犯罪とみなされねばならない:ゆえに我々は、全ての戦時利得の回収を要求する。
  13. 我々は、(今までに)すでに社会のものとなった(トラスト)企業全ての国有化を要求する。
  14. 我々は、大企業の利益の分配を要求する。
  15. 我々は、老齢保障制度の大幅な強化を要求する。
  16. 我々は、健全な中産階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に 対するその安価な賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対する納品 を要求する。
  17. 我々は、我が国民の要求に適した土地改革、公益目的のための土地の無償収用を定める法の制定  、地代徴収の禁止と土地投機の制限を要求する。
  18. 我々は、公共の利益を害する活動に対する容赦ない闘争を要求する。高利貸し、闇商人等の民族に対する犯罪者は、宗派や人種にかかわらず全て容赦なく処罰される。
  19. 我々は、唯物主義的な世界秩序に奉仕するローマ法に代わるドイツ一般法を要求する。
  20. 高い教養を身につけ、それにより指導的な地位に就くことのできる有能で勤勉なドイツ人については、国家が我が民族の教育制度全般を賄うよう徹底的に拡充する。全ての教育機関の授業計画は実生活に即していることを必要とする。国家思想の理解はすでに学校(公民科)を通じて理解を始めねばならない。我々は、貧しい両親の特に素質のある子弟に対する、その地位や職業にかかわらず国費で行われる職業教育を要求する。
  21. 国家は、民族の健康を向上させるために、母子の保護、少年労働の禁止、体操とスポーツを義務として法的に定めることによる肉体鍛錬をもたらすこと、肉体的青少年専門教育に従事する団体による最大の援助を行わねばならない。
  22. . 我々は、傭兵部隊の廃止と国民軍の形成を要求する。
  23. 我々は、故意の政治的虚言およびその報道による流布に対する法的な闘争を要求する。
  24. 我々は、 ドイツ的報道機関を創造することを可能にするため、以下のことを要求する。a. ドイツ語で発行される新聞の全ての編集者と従業員は民族同胞でなければならない。b. ドイツ以外の新聞はその発行にあたって国家の明確な許可を必要とする。それらをドイツ語で印刷するこ とは許されない。c. 非ドイツ人によるドイツの新聞に対する出資または影響は、法律によって禁止される。違反に対するる罰として、そのような新聞企業の閉鎖、および関与した非ドイツ人の即時国外追放を要求する。d. 公共の福祉に反する新聞は禁止される。
  25. 我々は、我が民族生活に退廃的な影響を与える芸術・文学的傾向、および行事の閉会、上述の要求の違反に対する法的な闘争を要求する。
  26. 我々は、それが国家の存続を危うくせず、またはドイツ民族の公序良俗および道徳  に反しない限 りにおいて、国家における全ての宗教的信条の自由を要求する。党自体は、特定の信条に縛られるこ となく、積極的なキリスト教の立場を支持する。積極的キリスト教は我々の内外のユダヤ的・唯物論的精神と戦い、根本的に内面からのみ達成される我が民族の永遠の救済を確信させる。
  27. 公益は私益に優先する。
  28. 我々の要求をすべて実行するために:国家の強力な中央権力の確立。中央議会の国家全体および組織一般に対する絶対的な権威。公布された国家の大綱的法規を連邦各州において実施するための階級・職業別の団体の形成。

党の指導者は、上記の条項が各人の生活に必要であるならこれを実行することを約束する。

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転載 自由と生存の年末野菜市

12月27日   自由と生存の年末野菜市! 無農薬・減農薬野菜即売会です!
           お正月用野菜も用意しています。お楽しみ!餅つき大会あり!

開催日時:12月27日(日)10時~16時(シンポジウム等イベントも企画中)

開催場所:自由と生存の家 新宿区愛住町3番 地下鉄四ッ谷3丁目駅下車徒歩3分(消防博物館出口を出て交番前を通り次のかどを右折、花屋前の小道に入る)

主催:自由と生存の野菜市実行委員会

 11月8日(日)に開催された自由と生存の野菜市は、地域の方や関係諸団体などなど100人以上が来場し、活気ある市場となりました。来場者から「こんな野菜が欲しい」、「次の開催日は何時か」などの声が寄せられました。さて、12月も前回寄せられた声を参考に、定例市を開催致します。今回はお正月料理の材料も取り揃え、野菜のおいしい食べ方レシピや試食会、物品バザーなどを行います。美味しくて安全な野菜類を取り揃えてご来場をお待ちしております。  

   年末を迎え、リストラ、失業などで非正規労働者のみなら、正規労働者も含め多くの労働者が不安定な生活を強いられ、自ら仕事を興そうという思いを込め、開催されています。都市も地方も貧困が広がる中、両者が力を合わせて生きる場が求められます。私達の取組にご支援とご注目をお願いします。

自由と生存の家実行委員会

住所:〒160-0023 東京都新宿区西新宿4-16-13MKビル2階

電話:090-8563-7953 FAX:03-3373-0180 メール:freeter.jutaku@gmail.com

実行委員会webサイト:htttp://freeter-jutaku.alt-sever.org

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オバマ大統領ノーベル賞受賞演説によせて

 オバマ大統領にノーベル平和賞が授与された。下は、その受賞演説である。置かれている立場からくる苦しさを表現しているかのような、微妙な言い回しの演説である。それと併せて、民主党小沢幹事長の定住外国人地方参政権付与論についての記事と資料を付けて置いた。

 オバマ大統領が苦しいのは、「集団間の暴力を規制する手段として法律が登場すると、哲学者、聖職者、政治家が戦争の破壊的な力を制御しようとし、そこで「大義のある戦争」という概念が登場した。それは、戦争は自己防衛の最終手段として、適正な武力により、可能な限り非戦闘員は犠牲にしないという条件に合致する場合のみ正当化されるというものであった」という戦争観、暴力観が、まったく非現実的だからである。しかし、彼は頭がいい。続いて、「歴史上、「大義のある戦争」という概念はほとんど実現していない。人類が殺し合う方法を新たに考え出す能力を無尽蔵に有することは証明済みだ。そして外見の違う人々、異なった神を信仰する人々に対し無慈悲にその能力を行使した」と述べているからである。つまり、法が、「集団間の暴力を規制する手段」ではないということを事実上認めているのだ。

 世界最強の国家暴力の保持者のオバマ米大統領が、集団間の暴力的衝突の調停者としての法ということを言っても、まったくの嘘にしかならないことを、彼は少なくとも自覚しているのである。国家意志として法が出来れば、その法は、国家暴力をもって強制されるのである。その際に、「大義のある戦争」を持ち出しているのは、クラウゼヴィッツが言うように、戦争は政治の手段であって、その政治目標は、講和を達成することにあるからである。その際に、非戦闘員に多く犠牲者を出して反発を強めてしまうと、講和が達成しにくいし、ゲリラ戦、パルチザン戦などのかたちでの抵抗を引き起こし、強めてしまう。クラウゼヴィッツは、戦争においては、攻撃よりも防御の方が有利であると述べている。孫子もまた、城攻めは出来るだけ避けるべきであると説いている。

 イラク戦争開戦に至る過程を思い起こせば、イラクによるクウェートへの電撃的侵攻と占領があった。クラウゼヴィッツの理論によれば、講和が達成されるはずであった。少なくともイラクのフセインの戦争の政治目的は、クウェートが、石油を不当に値下げして、産油国の結束を乱しているのに対する制裁であり、抑止ということであった。その政治目的を達成する講和状態が作られれば、軍事占領の必要はないので撤退するということも可能性としてはあった。しかし、フセインは、クウェートを歴史的にイラクの一部と主張して併合を正当化した。歴史を見れば、確かにフセインの言うとおりだが、クウェートは、国際社会から独立を認められている国連加盟国であるから、国連安保理はこれを侵略として、多国籍軍による武力行使を認めたのである。それで、ブッシュ大統領は、クウェートからイラク軍を追い出したのだが、それ以上のことはしなかった。ところが、9・11事件後、ブッシュ・ジュニアは、今度は、自衛のための戦争だと言って、イラクを軍事占領した。講和は、シーア派を中心とする反フセイン政権の間で結ばれた。しかし、この事実上のイラクの軍事占領は、予想をはるかに超えて長期化している。オバマは、もうすぐ終わるという見込みをたてているが、あやしいものである。米軍増派以降も、難民が大量に発生しており、その中には、反米的勢力の人々も多数混じっていることがありうるからである。

 次に、オバマは、大統領就任時に、イラクからの早期撤退、アフガニスタンへの対テロ戦争の最前線の移動という方針を語った。しかし、アフガニスタンでは、タリバンが勢力を盛り返し、攻勢を強めている。そこで、オバマ大統領は、アフガンへの増派を決めたばかりでのノーベル平和賞授賞式となったわけで、キング牧師の言葉を引用し、「私は非暴力の道徳的な力を信じる証言者だ」と述べ、キング、ガンジーを讃えつつも、「しかし国民を守り保護することを誓った国家のトップとして、彼らの例だけに導かれるわけにはいかない。私は現実の世界に対峙(たいじ)し、米国民に向けられた脅威の前で手をこまねくわけにはいかない。誤解のないようにいえば、世界に悪は存在する。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。時に武力が必要であるということは、皮肉ではない。人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ」と、非暴力運動を明確に否定し、武力行使の必要性を容認する。そしてそれを、人間の欠陥や理性の限界のせいにしている。

 そして、「そう、平和を維持する上で、戦争という手段にも果たす役割があるのだ。ただ、この事実は、いかに正当化されようとも戦争は確実に人間に悲劇をもたらすという、もう一つの事実とともに考えられなければならない。兵士の勇気と犠牲は栄光に満ち、祖国や大義、共に戦う仲間への献身の現れでもある。しかし、戦争自体は決して輝かしいものではない。決してそんなふうに持ち上げてはならない」と言う。戦争は悲劇だとだけ言ってしまえば、アフガニスタンで戦っている米軍兵士は、たちまち戦意を喪失してしまう。そこで、折衷策が出る。「まず初めに、戦力行使について規定する基準を、強くても弱くてもすべての国々が厳守しなければならないと考える。ほかの国々の元首と同じように、自国を守るために必要であれば、私には一方的に行動する権利がある。しかしながら、基準を厳守する国々は強くなり、守らない国々は孤立し弱くなると確信している」。

 そして、アメリカは率先してジュネーブ条約を守ることが必要だと述べる。ブッシュが、テロリストにはジュネーブ条約は適用しないと言ったのとは違うわけだ。しかし、このことは、タリバンやアル・カイーダを、ゲリラやパルチザンなどの形態をとる住民の抵抗勢力と事実上認めたことになりはしないだろうか。

 その上で、戦争以外の方策をも提案する。国際的な制裁や自由・民主主義や天賦の人権の理念の啓蒙である。また、平和に、貧困からの解放を入れている点が注目される。言うまでもなく、貧困からの解放は、相対的貧困からの解放と絶対的貧困からの解放の二つがあって、前者は格差問題であり、後者は飢餓問題である。オバマが取り上げているのは、もっぱら後者であり、前者については、ほぼ無視である。つまり、階級階層という点についてはほとんど無視しているのである。アメリカでもまた、格差の固定化が進み、階級階層差としての性質を強めているというのに、である。そして、この階級間の関係、これらの集団と集団の間の関係が、対立的矛盾から敵対性を帯びてくるということ、つまりは、階級闘争が、政治闘争としても発展し、それが戦争という形を取る可能性が高まっていることを無視している。そして、あたかも、これまでの戦争のすべてが、人種対立や民族対立や宗教的対立から起きてきたかのごとく語っている。そして、各種の反人道的行為は、「悪」という道徳的問題が根源であるかのごとく述べる。演説の締めくくりはこうだ。

 「この世界に抑圧はいつも存在することを認めながらも正義に向かって進むこともできる。腐敗が手に負えないことを認めながらも尊厳を追求し、戦争がこれからもあると知りつつも、平和への努力を続けることができる。われわれにはそれが可能だ。なぜならそれこそが人間の進歩の物語であり、全世界の希望であり、この困難な時代にあってわれわれが地上で果たすべき仕事であるからだ」。

 誰が誰を抑圧しているのか。アメリカ軍最高司令官オバマ大統領は、抑圧者ではなく、常に解放者なのか?。アメリカが進歩する物語、それこそ、オバマ大統領の希望であるが、それは、全世界の希望とイコールなのだろうか。そんなわけがない。まさに、これは、ヒロイズムの局地、自己陶酔のパフォーマンス、自愛の吐露、夜郎自大、アメリカ・ナショナリズムの発揚である。醜悪の極み!

 それに比べると、下の小沢氏の定住外国人地方参政権付与法案の早期提出という主張は、よっぽど穏やかである。日本と朝鮮半島の歴史的関係を具体的に踏まえて、過去の清算として、地方参政権を認めるというのは、「戦争は人道的見地から認められる」とか、「人権は天賦のものであり、それは暴力によっても強制すべき人類普遍の価値だ」などと言うオバマ演説よりも、穏やかに聞こえるのだ。そして、それに対する批判もいくつか小沢氏のホームページに載っているが、それらは、極端な想定をもとにしている意見が多い。小沢氏が指摘しているように、世界の国々で、実際に、定住外国人に地方参政権を認めている国がいくつもあって、その多くは、ヨーロッパ諸国であり、しかも、旧植民地出身者に対して付与されているケースや相互付与という条件の下に与えられているケースが多い。移民国家アメリカでは、年数などに応じて市民権が付与される。これは、基本的には、アメリカが連邦国家であるためでもある。もともと、州は独立国だったからである。州民はもともと国民であって、それが集まって出来ているのが合衆国なのである。そこで、住民について、二つのナショナル・アイデンティティーが存在しているということにもなる。合衆国ナショナリズムは、意識的にかきたてられねばならないものとしてある。州、あるいはもっと古層ではコミュニティーは、日本で言えば、藩とか村とかいうようなものである。県というものは出来てから間もないので、ふるさと意識の中身、郷土愛の中身は、実際には、曖昧なのである。恐らく、自民党議員の郷土というのは、実際の意識としては、選挙区の範囲の意識でしかないだろう。そうすると、定住外国人が地方参政権を持ったとしても、選挙区民のために活動すればいいだけの話しだということになる。もともと、民族国家の場合の民族とは支配階級が自らを国民として組織する必要があったから、そのためにかぶっているものであって、その抑圧差別があるために、それに対する抵抗と反発を呼び起こし、被支配民族を対抗的に民族へと形成するように追いやるのである。

 実際、エチオピアでは、民族間で就く主な職業が異なり、階級階層関係と民族間の関係がリンクしている。そこでは、階級対立と民族対立が重なっているのである。今の支配民族はティグレ人で、主に首都の商業を担っている階級である。つまり、ブルジョアジーが今のエチオピアの主な支配階級なのである。そして、オロモ人は、首都では、プロレタリアートである。オロモ人は、南部のエチオピア最大の民族であるが、首都では、労働者になる者が多い。『エチオピアで井戸を掘る』(源石和生 風思社91年)によると、オロモ人の首都での主な職業は、石切り工、大工、左官、建設労働者、工場労働者、ザバニアやシャッカイという守衛(といっても、食事と小屋のような宿舎をあてがわれて住む雑用係のようなもののようである)、南部のオロモ人の解放を目指すオロモ解放戦線は武装組織で、現政権に対する抵抗を続けている。アメリカでも、南部の農場の農業労働者は、主に、中南米からの「不法」移民であって、白人経営者の下で働くプロレタリアートという階級性と民族性は重なっている。

 在特会に惹かれている人の主張を見ると、自分が、支配民族であるという幻想にとらわれている人がいるようだが、実際には、それは、支配階級であり、上層の一握りの連中だけのことであるということがわかってないようだ。「下々の民」の気持ちや境遇については、「下々の民」を経験している在日の議員の方が、理解し、その気持ちや利害を代表しやすいかもしれないというのに、定住外国人の参政権に猛反発している。嫉妬なのか、ねたみなのか。しかし、戦時中も、朝鮮人の境遇に同情して目だたずかれらを助けた日本人の庶民も多少はいたし、逆に助けられたこともある。貧乏人同士助け合うというようなことは、よくあることで、米や野菜や調味料の貸し借り合いなどというのは、恐らく、今でもあることだ。

 また、在特会支持者と見られる人のコメントなどには、強烈な被害者意識があり、その原因を、「反日教育」とかに求めているものがある。しかし、どういう具体的な被害があるのかは漠然としていて、わからないものが多い。特権を許さないという言い方からすると、不平等や不公平という感覚が強くあるに違いないので、平等を求める気持ちが強烈にあるのかもしれない。しかし、そうした平等欲求が、上に平等を迫るというのではなく、自分より下の存在を作ることによって、下から上がってくるものを許さないということで、上から下への階層秩序を作るというかたちで解決しようとしているということが、問題である。下を引き上げて、手を組み、上と闘うということが正解だと思うのだが、そうしないし、そういうふうに発想しないのはなぜだろうか。これは、アメリカにへつらっていい思いをしようという上の方の連中のこれまでのやり方が、うつってしまっているということなのだろうか。

 これが危険なのは、オバマが言っているが、国内の民族的対立が、国家間対立とリンクするからである。アメリカは独立戦争で、フランスの支援を受けた。フランスは、イギリスとの対立からそうしたのだが、そのために、財政的に苦しくなって、貴族に増税しようとした。それに反対した貴族が、第三身分と手を握って、反抗した。それからフランス革命が起こるのである。アフガニスタンの場合、それぞれの民族が国境をまたいで周辺諸国に住んでいて、行き来している。だから、内戦は、国家間対立と国家間戦争へと転化しかねないのである。

 秋葉原の集会で、在特会が、これは日中戦争だと叫んでいたのは、「希望は戦争だ」と言った若者の気持ちを代弁しているようにも聞こえる。しかし、「希望は革命」であって、本当に特権を持っている者、本当の一握りの支配民族をなくすことである。それを、他民族との戦争煽動によってごまかされてはいけないのだ。そういう圧力を利用して、特権者たちは、中国相手に儲けようとするだろう。アメリカでは、中国の人権問題を告発したり民主主義を求める団体が、ロビー団体として活動していて、アメリカ政府はそういう声を利用して、中国政府に市場をもっと自由にしろ、開放しろだのという「門戸開放」圧力をかけている。支配階級のナショナリズムはそういうものである。それに対して、被抑圧民族の民族主義は、異なるものだし、違った内容と働きを持つ。

 支配民族内の被支配階級が、上のナショナリズムに入り込んでも、自分のためになどならない。

 オバマのアメリカンナショナリズムは、世界のリーダーというはた迷惑な妄想を伴っているが、彼が、「この賞を受けた歴史上の巨人たち―シュバイツァー(医師)や、キング(牧師)、マーシャル(元米国務長官)、そしてマンデラ(元南アフリカ大統領)―らと比べれば、私が成し遂げたことはわずかだ。そして世界には、正義を追い求めて投獄され、暴行を受けている男女が存在する」と述べつつ、しかし、他ならぬ、アメリカのCIAが、エチオピアでテロ容疑者として極秘に連行し、拷問にかけていることが、アムネスティなどの国際人権団体によって暴露され、非難されたばかりではないか! キング牧師と、アメリカ政府の元高官のマーシャルを無造作に並べているというのも、無神経にすぎるが、それに対して謙りつつも、自らが抑圧者であることの自覚がなく、被抑圧者の解放者という立場で通しているというのも、厚顔無恥というものだろう。

  なにも、アメリカのやることすべてが、抑圧からの解放を部分的にであれ実現しなかったというのではない。イラクにおいて、南部のシーア派住民や北部のクルド人を、フセイン政権の抑圧から解放したのは事実として認める。同じように、旧ソ連が、例えば、かつて、イスラエルの侵略と抑圧と戦うパレスチナ解放勢力を支持・支援して、その解放運動に多少の貢献をしたこともまた事実である。アメリカによるイラク戦争は、戦争しなかった場合に成し遂げたであろう解放の中身と今のように戦争した場合の解放の中身と、どちらがより政治的目的である講和の中身として前進的であるかということを考えれば、今や前者の場合の方が前進的であったということがはっきりしてきたということが言えよう。フセイン政権による弾圧での死者は、おそらく現在までのイラクでの死者の数より少なかっただろう。もちろん、その場合に、シーア派やクルド人への抑圧は続くことは間違いない。しかし、その解放運動を支持することも連帯し激励することもできるし、独立を支持することも出来るし、実際に、民族的な抑圧差別には反対していくこともできる。

 ブッシュ政権は、自国本土内での9・11事件という事態の中でわき起こったナショナリズムに対して、それを、大ブルジョアジーの利益に利用して、中東民主化という名目での、中東の「門戸開放」、資本主義化、そして石油などの資源、それから覇権、イスラエルの安全保障の確保などを狙ったのである。攻撃された世界金融センタービルは、国債取引会社の大手や証券、金融などのアメリカの金融資本主義の中枢的企業が多く集中していて、そこが大きな被害を受け、実際に、アメリカの金融市場を一部、一時的に大混乱させたのである。もちろん、そこで、そうした仕事に関係する掃除人などの雑業などに従事する下層労働者たちも働いてそういう人たちも犠牲になった。消火に駆け付けた消防士の犠牲者も多かったが、それは指揮官の判断ミスによるものも大きかったのではないかとする見方もあるようだ。

 こうしてアメリカ資本主義の中枢が攻撃されたことを、自己への攻撃と感じさせたのは、イデオロギー的に、かれらの多くが資本主義と自分の存在を結びあわせて理解しているからであろう。しかし、それは、突然のショックと熱病に浮かされたような異様な雰囲気の中でこそ、騙されているが、やがて、熱が冷めると、今のように、戦争を支持する気持ちも萎えてくる。どうして、商品市場に有り余る投機的資金が流れ込んでいるように、金は豊富にあるのに、失業率が高いままなのか。なるほど、アフガニスタンでの米軍の勝利ということは、かつてのように、賠償金も新領土ももたらさない。せいぜい、あるのは、カスピ海油田からインド洋にいたる石油・ガスパイプラインを敷設する権利を獲得できるかどうかという程度のことである。それなのに、なぜ、アメリカは、この戦争を継続しなければならないのか。また、タリバンが復権すると、アル・カイーダが、アメリカを攻撃するかもしれないという自衛のためということだろうか。それがオバマ大統領が演説で語ったことだ。この戦争で、得をしたのは誰かと問うてみよう。すると、戦争ビジネスによって大儲けした連中がいることがわかる。そして、世界市場の分割競争の中での有利な地位をアメリカで政権を支える企業にもたらすことだ。インド市場、中東の石油、ロシア市場、中国市場、とりわけ、中国の海外での経済活動は拡大しており、東南アジアからインドを目指す、ハイウェイ構想、インドとの鉄道連結構想、イランでの中国人ビジネスマンや労働者、技術者の活動、そして、アフリカの産油国、資源保有国での中国企業の活動の活発化など。

 しかし、オバマ大統領は、「あるべき世界に到達するよう努力しよう。われわれの心の中をかき立てる神聖な輝きの世界へと。今日、世界のどこかには、戦闘で不利になりながらも毅然と平和を守る兵士がおり、残虐な政府に対し勇気をもって行進を続ける女性がおり、極貧にあえぎながらも子供に教える時間を取り、この残酷な世界でも子供の夢が実現する余地がどこかにあると信じる母親がいる」として、心理的な神聖さの輝き、いわば、「内なる光」に導かれることを望んでいる。あるべき世界とは、心の中にある世界ビジョンであり、それは光の世界である。それに対して、外なる世界は、暗黒の世界ということになろうか。そこには、正義の戦争に立ち上がっている兵士や残虐な政府がおり、残酷な世界で賢明に子供を育てる母親がいて、内なる光に導かれながら戦っているというのである。しかし、ベトナム戦争で、アメリカが戦争から手を引いたら、ベトナムは平和になったわけだし、アメリカが中南米で新自由主義を押しつけることができなくなったら、中南米に平和が来たし、極貧状態からの人々の解放が進んだではないか。

 人間はもちろん飢餓からの解放を求めるし、豊かさを求めるが、同時に、平等を求めるという社会的な欲望を強く持っている。貧困であっても平等であれば、貧困に耐え、その中で楽しみを見出し、幸福を感じることが出来る。敗戦直後の食糧難の時代の日本人の多くのそうした証言がある。しかし、不平等には長く耐えられないし、それを不正と感じる。オバマ演説に欠けているのは、それだ。それと逆に、キューバのゲバラには、それがあった。オバマ演説は、そういう社会的感覚なしに、他者の解放者を気取っている。このような社会的感覚の共有、あるいは共感なしに、どうして恥ずかしげもなく解放者を名乗れるというのだろう。在特会は、このような感覚の範囲を日本人だけに限定し制限しようとしている。しかし、人々の感覚は、正直に、民族に関わりなく、共感を広げていく。アメリカ政府は嫌いでも、出会ったアメリカ人とは共感しあうことがあるし、友情を感じることもある。どうしてそのような感覚を押さえつけなければならないのか。米軍が、アフガニスタンで、結婚式会場を誤爆して非戦闘員を無差別に虐殺したら、どうしたって、殺された側に同情的な感情が湧く。

 懐疑主義的な自由主義者は、そんなものに騙されるなというかもしれない。かれらは、日本人は正直者で、ずるがしこい外国人に騙されやすいのだと言うかもしれない。しかし、日本人の中にも、ずるがしこいのはいるし、不正直なもの、加害者がいる。同じ日本人が、相対的貧困にあえぎ、失業しているのに、それは自己責任だと言って、ほおっておけという者がいる。そういう本人は、たいていは、裕福であるか裕福な者の味方であり、代弁者である。しかし、そういう連中にも社会的感覚は身体的に影響を与えるということが、先に紹介したデータ分析で明らかになったようである。格差社会のストレスは、富裕層の死亡率を高める。社会の一員でありながら、自らは社会からは超越してるとか、特権層であるとかいう思い上がっている連中は、そういうかたちで、社会から制裁を身体的に受けるのである。罰が当たるというわけだ。アメリカにはすでに罰が当たっているし、このまま反省と改善が行われなければ、より強力で大きな罰が当たることだろう。これは、ただちに見えないからといって存在しないものではなく、それは、社会関係の変化として起きるが、関係が直接目に見えないというにすぎないのである。それを見えざる手などと神秘的に表現して、神学と折り合いをつけようなどとはしてはならないけれども、社会的存在が「ある」という意味で、それは「ある」のだ。マルクスの言う「社会的定在」というものである。ただ、自然の物と違うあり方なので、それと同じようにはつかめないというだけである。

【資料】オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞演説の全文(日本語訳)(共同通信

 オバマ米大統領が12月10日オスロで行ったノーベル平和賞の受賞演説全文は以下の通り(日本語訳)

 陛下、殿下、ノルウェー・ノーベル賞委員会の皆さま、米国と世界の皆さん。

 私はこの栄誉を、深い感謝とともに謹んでお受けする。この賞はわれわれの大いなる志―この世が残酷さと困難に満ちていても、われわれは単なる運命の囚人ではない、ということを物語る。われわれの行動は重要であり、歴史を正義の方向に向けることができる。

 (私にノーベル平和賞を授与するという)あなた方の寛大な判断が巻き起こした、大変な論争を見過ごすわけにはいかない。私が世界の舞台で仕事を終えたわけではなく、緒に就いたばかりであることも、その理由だろう。この賞を受けた歴史上の巨人たち―シュバイツァー(医師)や、キング(牧師)、マーシャル(元米国務長官)、そしてマンデラ(元南アフリカ大統領)―らと比べれば、私が成し遂げたことはわずかだ。そして世界には、正義を追い求めて投獄され、暴行を受けている男女が存在する。

 人々の苦痛を取り除くため人道団体で尽力している方々。勇気ある思いやりに満ちた行動で、最も冷笑的な相手をも鼓舞する何百万人もの名もなき人々。これらのあるいは著名な、あるいはほとんど無名の男女の方が、私よりもよほどこの栄誉にふさわしいという指摘に反論することはできない。

 私の受賞をめぐる最大の問題は、私が二つの戦争の最中にある国の軍最高司令官だという事実だろう。戦争の一つは終わりに近づいている。もう一つは米国が求めなかった戦争、さらなる攻撃から私たちとすべての国々を守るために、われわれがノルウェーを含む42カ国とともに戦う戦争だ。

 われわれは今でも戦争を遂行中だ。私は米国の数多くの若者を遠い地の戦闘に送り込むことに責任を負う立場にある。そのうち何人かは誰かを殺し、何人かは命を落とすだろう。私は、武力紛争による犠牲について鋭敏な感覚を持ってここに来た。戦争と平和の関係と、戦争を平和に置き換える努力についての難問を抱えている。

 これらの課題は新しいものではない。戦争はどのような形であれ、昔から人類とともにあった。その道義性が疑われたことはなかった。部族間の、そして文明間の力の追求と相違の解決手段として、干ばつや疫病のように現実にあるものだった。

 時を経て、集団間の暴力を規制する手段として法律が登場すると、哲学者、聖職者、政治家が戦争の破壊的な力を制御しようとし、そこで「大義のある戦争」という概念が登場した。それは、戦争は自己防衛の最終手段として、適正な武力により、可能な限り非戦闘員は犠牲にしないという条件に合致する場合のみ正当化されるというものであった。

 歴史上、「大義のある戦争」という概念はほとんど実現していない。人類が殺し合う方法を新たに考え出す能力を無尽蔵に有することは証明済みだ。そして外見の違う人々、異なった神を信仰する人々に対し無慈悲にその能力を行使した。

 軍隊間の戦争は国家間の戦争へと発展、全面戦争では、戦闘員と一般市民の区別が不鮮明なものになった。わずか30年の間にそのような殺りくが2度この大陸で行われた。第2次世界大戦は、第三帝国(ナチス・ドイツ)と枢軸国を打ち負かすというこの上ない大義があった。しかしこの戦争では、非戦闘員の死者数が兵士の死者数を上回ったのだ。

 このような破壊を受け、さらに核兵器時代の到来もあり、勝者にとっても敗者にとっても、あらたな世界戦争を予防する仕組みが必要なことが明確になった。だからこそ、ノーベル平和賞を受賞したウッドロー・ウィルソン元大統領が提唱した国際連盟を米上院が拒否してから四半世紀、米国は平和を守る構想を打ち立てる上で世界を主導した。マーシャルプラン、国際連合、戦争抑止メカニズム、人権擁護の条約、虐殺の予防、最も危険な武器の規制がそれだ。

 さまざまな方法で、こうした努力は成功を収めてきた。もちろん、恐るべき戦争は発生し、残虐行為も起きてきた。しかし、第3次大戦は発生していない。冷戦は、歓喜に沸く群衆が壁を破壊することで終結した。商業は世界の大部分をつなぎ合わせてきた。数十億人が貧困から脱した。自由、民族自決、平等、法の支配といった理想は、もたもたしながらも前進してきた。われわれは先人たちの不屈の精神と先見の明の継承者であり、これは米国が真に誇れる遺産である。

 21世紀に入り10年、古い構造は、新しい脅威により崩れつつある。世界はもはや二大核超大国間の戦争の脅威におびえることはないだろうが、核拡散は破滅への危険を増しているだろう。テロは古くから存在する戦術だが、現代のテクノロジーによって、激しい憎悪を抱く少数の人間が罪のない人々を大量に殺すことが可能になった。

 さらに、国家間の戦争は、次第に国内での戦争に取って代わられつつある。民族間や宗派間の衝突の激化、分離運動の増加、反政府勢力、破綻(はたん)国家は市民を終わりの見えない混沌(こんとん)に陥れている。現代の戦争では、兵士よりも市民により多くの犠牲が出ている。将来の衝突の種がつくられ、経済は破壊され、市民生活はずたずたにされ、難民は増え、子供に傷あとを残す。

 私は今日、戦争をめぐる問題の絶対的な解決策を携えてはいない。私が認識していることは、こうした難題に立ち向かうには同じ考え方、懸命の作業、数十年前に大胆に行動した男性、女性を含むすべての人たちの粘り強さが求められる。さらに、大義ある戦争の概念と平和の必要性について新思考が求められるだろう。

 われわれが生きている間に暴力的な紛争を根絶することはできないという厳しい真実を知ることから始めなければならない。国家が、単独または他国と協調した上で、武力行使が必要で道徳的にも正当化できると判断することがあるだろう。

 私はこの声明に、マーチン・ルーサー・キングが何年も前に、この同じ式典で述べた思いを込めたい。「暴力は決して永続的な平和をもたらさない。社会的な問題を何も解決せず、もっと複雑な問題を新たに作り出すだけである」。キングのライフワークを引き継ぎここに立つものとして、私は非暴力の道徳的な力を信じる証言者だ。ガンジーとキングの信条と人生において、弱々しく、消極的で、ナイーブなものは何もないことを私は知っている。

 しかし国民を守り保護することを誓った国家のトップとして、彼らの例だけに導かれるわけにはいかない。私は現実の世界に対峙(たいじ)し、米国民に向けられた脅威の前で手をこまねくわけにはいかない。誤解のないようにいえば、世界に悪は存在する。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。時に武力が必要であるということは、皮肉ではない。人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ。

 私はこの点を提起したい。なぜなら今日、理由のいかんを問わず、多くの国で軍事力の行使に二つの相反する感情があるからだ。時として、そこには唯一の軍事超大国である米国への内省的な疑念が伴う。

 しかし、世界は思い出さなければならない。第2次大戦後の安定をもたらしたのは国際機関や条約、宣言だけではない。いかに過ちを犯したとしても、その国民の血と力で60年以上にわたり、世界の安全保障を支えてきたのは米国なのだ。われわれの男性、女性兵士らの献身と犠牲が、ドイツから韓国までに平和と繁栄をもたらし、バルカンに民主主義を打ち立てることを可能にしたのだ。われわれは自分たちの意思に従わせるために、この重荷を背負ったわけではない。自分たちの利益のために、そうしたのだ。子や孫たちのより良い未来のために、そうしたのだ。他の国の子供や孫たちが自由と繁栄の中で生きることができれば、彼らの生活もより良いものになると信じているのだ。

 そう、平和を維持する上で、戦争という手段にも果たす役割があるのだ。ただ、この事実は、いかに正当化されようとも戦争は確実に人間に悲劇をもたらすという、もう一つの事実とともに考えられなければならない。兵士の勇気と犠牲は栄光に満ち、祖国や大義、共に戦う仲間への献身の現れでもある。しかし、戦争自体は決して輝かしいものではない。決してそんなふうに持ち上げてはならない。

 両立させるのは不可能に見える二つの事実に折り合いをつけさせることも、私たちの課題なのだ。戦争は時として必要であり、人間としての感情の発露でもある。具体的には、かつてケネディ元大統領が訴えた課題に向け、私たちは努力しなければならない。彼は「人類の本性を急に変化させるのではなく、人間のつくる制度を少しずつ発展させた上で、実際的かつ達成可能な平和を目指そう」と語った。

 この発展とはどんなものだろう。実際的なステップとは何だろう。

 まず初めに、戦力行使について規定する基準を、強くても弱くてもすべての国々が厳守しなければならないと考える。ほかの国々の元首と同じように、自国を守るために必要であれば、私には一方的に行動する権利がある。しかしながら、基準を厳守する国々は強くなり、守らない国々は孤立し弱くなると確信している。

 米中枢同時テロの後、世界は米国のもとに集い、アフガニスタンでの私たちの取り組みを支援し続けている。無分別な攻撃を恐れ、自衛の原則を認識したからだ。同じように、(イラク大統領だった)サダム・フセインがクウェートに侵攻したとき、世界は彼と対決しなければならないことを悟った。それは世界の総意であり、正当な理由のない攻撃をすればどうなるか、万人に向けた明確なメッセージとなった。

 その上でだが、米国自身が規則を守らないのならば、他者に規則を守るよう迫ることはできない。規則を守らないのならば、いかに正当化しようとも、われわれの行動が独断的に映り、介入の正当性を損なうことになってしまうからだ。

 これは、軍事行動の目的が自衛の範囲を超え、一つの侵略者に対する一つの国の防衛という範囲を超える際、特に重要になる。われわれは、政府による自国市民の虐殺や、一つの地域全体を暴力と苦悩に巻き込みかねない内戦をどのように防ぐかという困難な問題に直面し、そうした機会は増え続けている。

 私は、バルカン諸国や、戦争に傷ついた他の地域でそうであったように、武力は人道的見地から正当化できると考えている。何もせずに手をこまねくことは良心の呵責(かしゃく)を生み、後により大きな犠牲を伴う介入が必要になる可能性がある。だからこそ、すべての責任ある国家は、平和維持において、明確な指令を受けた軍隊が果たし得る役割というものを認めなければならない。

 世界の安全保障における米国の責務が消えることは決してない。ただ、脅威の拡散が進み、任務もより複雑化した世界では、米国は一国だけでは行動できない。この事実はアフガニスタンに当てはまる。テロや海賊行為に、飢えや人々の苦悩も結び付いたソマリアのような破綻(はたん)国家においてもそうだ。悲しむべき事だが、そのような状態は、不安定化している地域では、今後何年にもわたって変わることはない。

 北大西洋条約機構(NATO)諸国の指導者や兵士たち、そして他の友好、同盟国は、アフガンでその能力と勇気をもってこれが事実であることを示してくれた。

 しかし、多くの国で、任に当たる者たちの努力と、一般市民の抱く相反する感情との断絶がある。私は、なぜ戦争が好まれないのか理解している。だが、同時に、平和を求める信条だけでは、平和を築き上げることはできないということも分かっている。平和には責任が不可欠だ。平和には犠牲が伴う。そうだからこそ、NATOが不可欠であるのだ。そうだからこそ、われわれは国連と地域の平和維持を強化しなければならない。いくつかの国だけにこの役割を委ねたままにしてはいけないのだ。

 だからこそ、われわれは国外での平和維持活動と訓練から、オスロとローマ、オタワとシドニー、ダッカやキガリへ、故郷へと戻った者たちをたたえるのだ。戦争を引き起こす者としてではなく、平和を請け負う者たちとしてたたえるのだ。 

 武力行使について最後に言っておきたい。戦争を始めるという難しい決定を下すのと同じように、われわれはいかにして戦うのかについても明確な考えを持たねばならない。ノーベル賞委員会は最初の平和賞を赤十字の創設者であり、ジュネーブ条約の推進役だったアンリ・デュナンに授与したことで、このことの意義を認めたのだ。

 武力が必要なところでは、一定の交戦規定に縛られることに道徳的、戦略的な意味を見いだす。規定に従わない悪意ある敵に直面しようとも、戦争を行う中で米国は(規定を守る)主唱者でなければならないと信じている。これがわれわれが戦っている者たちと異なる点だ。われわれの強さの源泉なのだ。だから、私は拷問を禁止にした。グアンタナモの収容所を閉鎖するよう命じた。そして、このために米国がジュネーブ条約を順守するとの約束を再確認したのだ。われわれが戦ってまで守ろうとする、こうした理念で妥協してしまうと、自分自身を見失うことになる。平穏なときでなく困難なときこそ、ジュネーブ条約を守ることでこうした理念に対し敬意を払おう。

 われわれが戦争を行うことを選択するとき、心に重くのしかかる問題について私は言及してきた。しかし、そうした悲劇的な選択を避けるための努力についてもう一度立ち戻り、公正で永続的な平和を構築する上で必要な三つの方策を説明しよう。

 まず最初に、規則や法を破る国と立ち向かう際に、態度を改めさせるのに十分なほどに強い、暴力に代わる選択肢を持たなければならないと私は信じている。なぜなら、永続的な平和を望むなら、国際社会の言葉は何らかの意味を持たなければならないからだ。規則を破るような政治体制には責任を負わせねばならない。制裁は実質的な効果がなければならない。非協力的な態度には圧力を強めなければならない。そうした圧力は世界が一つになって立ち上がったときにのみ、成り立つのだ。

 核兵器の拡散を阻止し、核兵器のない世界を追求する取り組みが急務だ。前世紀の中ごろ、各国は(核拡散防止)条約(NPT)に従うことで同意した。その取り決めは明確だ。すべての国が原子力を平和利用でき、核兵器を持たない国は所有を断念する。核兵器を持つ国は軍縮に向けてまい進する。私は積極的にこの条約を支持してきた。条約は私の外交政策の要だ。そして私はメドベージェフ大統領と一緒に、米国とロシアの核備蓄を減らす作業を行っている。

 また、イランや北朝鮮のような国が核不拡散体制を悪用しないよう主張することもわれわれの義務だ。国際法に敬意を払う者は、法がないがしろにされたら目を背けることはできない。自分の安全保障を心配する者は、中東や東アジアでの軍拡競争の危険性を無視することはできない。平和を追求する者は、核戦争のため各国が武装するのを何もせず傍観してはならないのだ。

 同様の原則は国際法に違反し、自国の人々をむごたらしく扱う国々にも適用される。ダルフール(スーダン)の大虐殺やコンゴ(旧ザイール)での組織的強姦(ごうかん)、ミャンマーの弾圧、これらは責任が問われなければならない。そう(国際社会の)関与はあるだろう。そう、外交努力があるだろう。だが、これらが失敗した場合には、(こうした国々の)責任が問われなければならない。われわれが結束すればするほど、武力介入するか(何もせず)抑圧の共謀者となるか、われわれは選択を迫られなくなるであろう。

 これは第2の点につながる。われわれが求める平和の本質についてだ。平和は目に見える紛争状態がないということだけではない。すべての人々が生まれながらに持つ人権と尊厳に基づく平和だけが、真に永続することができる。

 第2次大戦後、世界人権宣言の起草者を後押ししたのはこの洞察だ。荒廃の最中、彼らは人権が守られなければ、平和は空虚な約束にすぎないと認識したのだ。

 しかし、こうした言葉が無視されることはあまりにも多い。人権は西洋の原理だとか、地域の文化に合わないとか、国家の発展の一段階にあるので守れないなどと間違った考えで言い訳する国もある。米国では長い間、自らを現実主義者と称する人と、理想主義者と称する人の間で緊張関係が続いてきた。狭量な利益の追求か、自らの価値観を押しつける果てしない運動か、明確な選択をするよう提案してきた。

 私は、こうした選択を拒む。市民が自由に話したり、好きなように礼拝したり、指導者を選んだり、何の恐れもなく集会を開いたりする権利を否定されるところでは、安定した平和は得られないと信じる。不平がたまって膿(うみ)になり、部族や宗教のアイデンティティーに対する抑圧は、暴力につながり得る。われわれは、その反対も真実だと知っている。欧州が自由になった時、やっと平和が訪れた。米国は民主主義に対する戦争はしていない。われわれの最大の親友は、市民の権利を守る政府だ。どんなに冷ややかな見方をしても、人類の思いを否定することは、米国の利益にも、世界の利益にもならない。

 米国はさまざまな国の独特の文化や伝統に敬意を払いながらも、常に人類共通の思いの代弁者になる。(ミャンマーの民主化運動指導者)アウン・サン・スー・チーさんのような改革者の静かなる威厳の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じる勇敢なジンバブエ人や、イランの通りを静かに(デモ)行進した数十万の人々の証人となる。このことは、これらの政府の指導者は、ほかの国家の力よりも、国民の思いを恐れているということを物語っている。希望と歴史はこうした運動の味方になるとはっきりと示すことが、すべての自由な人々と自由な国家の責任だ。

 これも言わせてほしい。人権は、言葉で熱心に説くだけでは促進できない。時には、労を惜しまない外交と連携させなければならない。抑圧的な政権に関与すると、義憤を持った純粋なままの状態でいられなくなることは分かる。しかし、相手に手を差し伸べずに制裁を科したり、議論の余地なく非難するだけでは、現状は悪いまま進む可能性があることも分かる。抑圧的な政権は、開かれた扉という選択肢がなければ、新たな道を進めない。

 文化大革命のおぞましさを考えれば、ニクソン(元米大統領)が毛沢東(中国主席)と会談したことは許し難いと思われた。だが中国が多くの市民を貧困から解放し、開かれた社会とのつながりを持つ道筋をとる助けとなったことも確かだ。

 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世のポーランドとのかかわりは、カトリック教会だけでなく、ワレサ(元大統領)のような労働運動の指導者にも活動の場をつくった。レーガン(元米大統領)が軍縮に向けて努力し(ソ連の)ペレストロイカを受け入れたことは、ソ連との関係を改善しただけでなく、東欧全体の反体制派に力を与えた。

 単純な公式はない。孤立させることと関与すること、圧力をかけることと励ますこと、両者の間のバランスを取るよう、最善を尽くさなければならない。そのようにして人権と尊厳は徐々に向上するのだ。

 第3に、市民の権利や政治的な権利があるだけでは公正な平和とはいえない。経済的な安定と機会が保障されなければならない。なぜなら真の平和は恐怖からだけではなく、貧困からの解放でもあるからだ。

 これは疑いようがないが、安全がなければ発展が根付くことはほとんどない。また、生きるのに必要な十分な食料やきれいな水、薬や住居が手に入らなければ安全は保障されないのも真実だ。きちんとした教育を受けたり、家族を支える仕事を得たりするという子供たちの望みがかなえられないところに安全はない。希望がなければ、社会は内側から腐りかねない。

 それゆえ、人々に食料をもたらす農家や、子供たちを教育したり病人を世話したりする国々を支援することは、単なる慈善事業ではない。このことはまた世界が団結して気候変動に立ち向かわなければならない理由でもある。もしわれわれが何もしなければ、長年にわたる紛争の原因となる干ばつや飢餓、人々の大量移動をさらに引き起こすことになるというのは科学的にほとんど争いのない事実だ。

 このため、即座に力強い行動をとることを求めているのは科学者や環境活動家だけではない。わが国や他の国の軍幹部らも共通の安全保障が不安定な状態にあるということを理解している。

 国家間の合意。強力な制度。人権の保護。開発への投資。これらすべてが、ケネディ大統領が言及した進化をもたらすのに極めて重要な要素だ。しかし、われわれがこの作業を完遂するための意志、持続力を持つためには、何かが足りない。それは、道徳的想像力の継続的拡大、すなわち、全人類が共有し、減ずることができない何かがあるという強い主張だ。

 世界がだんだん小さくなるにつれて、われわれがいかに似通っているかを認識し、基本的に同じものを望んでいると理解し、自分自身や家族がある程度の幸福感や充足感を持って人生を全うする機会を望んでいると理解することは、人類にとってだんだん容易になるだろうと、皆さんは思うかもしれない。

 しかし、それでも、目まいがするほどのスピードでのグローバル化、現代の文化的平準化の中でも、人々が、とても大事にしている自分ら特有のアイデンティティー、すなわち人種、部族、そして恐らく最も力強いものであろう宗教といったものの喪失を恐れることは、驚くに値しない。

 いくつかの場所では、この恐怖が紛争に発展した。時には、自分たちは逆行しているのではないかと感じることもある。こうした状況は、中東でアラブ人とユダヤ人が強硬になったように見える時や、部族同士が離反した国家においてみられる。

 最も危険なのは、偉大な宗教であるイスラム教を歪曲(わいきょく)し、汚し、アフガニスタンからわが国を攻撃した者によって、宗教が罪なき者の殺害を正当化するために利用されるそのやり方だ。これらの過激主義者は、神の名において殺人を犯した最初の人間ではない。十字軍による残虐行為は詳細に記録されている。

 しかし、こうした者たちは、われわれに、いかなる聖戦も正しい戦争とはなり得ないことを思い出させる。もし、心から神聖な意志を実行していると信じるなら、抑制する必要などないだろう。妊娠している母親や医療関係者、赤十字職員、さらに自らと同じ信仰を持つ人の命を容赦する理由などないはずだ。

 そうしたねじ曲がった宗教の考え方は、平和の概念と両立しないだけでなく、信仰の目的とも矛盾する。なぜなら、すべての主要な宗教の中心にあるただ一つのルールは、自分たちにしてほしいと思うことを他人にも行う、ということだからだ。

 こうした慈愛の法則に従うことは、常に人間としての努力やあがきの核心を占めてきた。われわれは誤りに陥りがちであり、間違いも犯す。自尊心や権力、そして時には悪がもたらす誘惑の犠牲ともなる。どんなに素晴らしい意図を抱いていても、時に自分たちの誤りを直すことに失敗することがある。

 しかし人類の状態を完成させることが可能であると、信じるためにも、人間性が完全であると考える必要はない。また世界をより良くする理想に近づくために、理想化された世界に住む必要はない。(インド独立の父)ガンジーや(米公民権運動の黒人指導者)キング師らの人々が実践した非暴力主義は、いかなる場合でも現実的で可能性を秘めていたわけではない。しかし彼らが唱えた愛、そして人類の進歩にかけた彼らの信念は、どんな時もわれわれの旅を導く北極星でなければならない。

 なぜならもしわれわれがその信念を失い、ばかばかしい、甘いと言って退けたり、戦争や平和に関する決定を下す際に無視したりするなら、人間性の最も優れた部分、可能性にかけたわれわれの思い、そして倫理的な指針を喪失することになってしまうだろう。

 キング師は何年も前にこの場で次のように語った。「私はあいまいな歴史への最終回答として絶望を受け入れることを拒否する。私はまた、人間が現在『そうである』性質が、永遠の課題である『そうであるべき』姿に近づくことを不可能にしているとの考えにはくみしない」

 だから、あるべき世界に到達するよう努力しよう。われわれの心の中をかき立てる神聖な輝きの世界へと。今日、世界のどこかには、戦闘で不利になりながらも毅然と平和を守る兵士がおり、残虐な政府に対し勇気をもって行進を続ける女性がおり、極貧にあえぎながらも子供に教える時間を取り、この残酷な世界でも子供の夢が実現する余地がどこかにあると信じる母親がいる。

 こうした手本を見ならおう。この世界に抑圧はいつも存在することを認めながらも正義に向かって進むこともできる。腐敗が手に負えないことを認めながらも尊厳を追求し、戦争がこれからもあると知りつつも、平和への努力を続けることができる。われわれにはそれが可能だ。なぜならそれこそが人間の進歩の物語であり、全世界の希望であり、この困難な時代にあってわれわれが地上で果たすべき仕事であるからだ。(共同)

 オバマ氏「核なき世界追求」 ノーベル受賞演説で誓い新たに
  【オスロ共同】オバマ米大統領(48)へのノーベル平和賞授賞式が10日午後1時(日本時間同9時)から、ノルウェーの首都オスロの市庁舎で行われた。オバマ氏は受賞演説で「核兵器拡散を阻止し、核兵器のない世界を追求する取り組みが急務」と述べるとともに、核拡散防止条約(NPT)は「私の外交政策の要」と表明。原子力の平和利用を認めたNPT体制を悪用し、これを隠れみのに核開発を進めないよう北朝鮮とイランに警告した。
 地球温暖化対策の重要性も強調。脅威が多様化した現代世界では「米国は単独で行動することはできない」と述べ、国際協調路線を再確認した…

 小沢幹事長、在日外国人の参政権に言及 韓国の大学で特別講義
 (共同通信2009.12.12)

 【ソウル=水沼啓子】韓国を訪問している民主党の小沢一郎幹事長は12日午前、ソウル市内の国民大学で特別講義を行い、永住外国人への地方参政権付与法案について「日本政府の姿勢を示す意味でも、政府提案として参政権を認める法律を出すべきだと思っている。鳩山内閣は同じように考えていると思う。来年の通常会でそれが現実になるのではないか。日本側が積極的に取り組まなければならない問題だ」と語った。

 朝日新聞掲載「キーワード」の解説

    * 永住外国人の地方参政権とは

 公職選挙法などは国政・地方選の選挙権を日本国民にしか認めていないが、最高裁は95年、「自治体と密接な関係を持つ永住外国人に地方参政権を与えることは憲法上禁止されていない」との判断を示した。欧州では他国と互いに地方参政権を認め合う国が多い。韓国は05年、永住権を得てから3年以上で19歳以上の外国人を対象に認めた。
( 2009-08-26 朝日新聞 朝刊 2社会 )

 

永住外国人の地方参政権について(小沢一郎ホームページ)

 永住外国人の地方参政権について、改めて皆様に私の考えを申し上げます。

 公の政治に参加する権利―参政権―が国家主権にかかわるものであり、また、国民の最も重要な基本的人権であることに間違いはなく、その論理は正当であり、異論をさしはさむ気はまったくありません。ただ、政治的側面から考えると、主として永住外国人の大半を占める在日韓国・北朝鮮の人々は、明治43年の日韓併合によって、その意に反して強制的に日本国民にされました。すなわち、日本が戦争によって敗れるまでは、大日本帝国の同じ臣民でありました。日本人としてオリンピックに参加し、日の丸を背負い金メダルを取っています。また、日本のために多くの朝鮮の方々が日本人として、兵役につき、戦い、死んでいきました。このような意味においては、英連邦における本国と植民地の関係よりもずっと強く深い関係だったと言えます。私達はこのような歴史的な経過の中で今日の問題があることを忘れてはなりません。

 法案に反対する人達の多くの方の主張は「そんなに参政権が欲しければ帰化をして日本国籍を取得すればいい」という考え方があります。私もそれが一番いい方法だと思っておりますし、また在日のほとんど多くの人々の本心であると思います。

 しかし、このことについては日本側・永住外国人側双方に大きな障害があります。日本側の問題点からいうと、国籍を取得する為の法律的要件が結構厳しいということと同時に、制度の運用が、(反対論の存在が念頭にあるせいなのかはわかりませんが)現実的に非常に帰化に消極的なやり方をしています。例えば、刑事事件とならない軽い交通違反(スピード違反・駐車違反等)を起こしただけで、余分に何年もかかっているのが現実です。これらの状況を日本の側として考えなければなりません。

 一方、永住外国人のほとんど多くの人は日本で生まれ育って、まったくの日本人そのものであり、その人達が日本人として生涯にわたって生きていきたいと願っていることは、紛れもない事実だと私は思います。ただ、過去の併合の歴史や、それに伴う差別や偏見に対して心にわだかまりがあるのも事実なのです。

 我々日本人は、両国両国民の数千年の深い繋がりと友好関係を考えなければなりません。また、近い将来日韓両国は、EUや北米大陸の例にあるように、自由貿易を柱とする共同体構想が現実のものになると思います。今こそ、日韓両国民がお互いにわだかまりを捨て、将来に向けて信頼関係を構築していくことが、両国と両国民の繁栄のために必要不可欠なことであると考えます。

 しかし両国が主権国家として存在する以上、地方参政権の問題は、政治論の側面からだけではなく、法的・制度的にも許容されるべきものでなければなりません。

 永住外国人に地方参政権を与えることについての国際社会の状況は、アメリカをはじめ未だ多くの国が、国籍の取得を要件としているのは事実であります。しかしながら、例えば日本の場合と状況が似ている英国では、かつて植民地支配した英連邦出身の永住権取得者に対して投票する選挙権だけでなく、立候補できる被選挙権まで与えています(地方選挙)。北欧の国々では一般的に永住権取得者には地方参政権を与えており、また、EU域内では、「お互いに永住権を取得した者には地方参政権を与えよう」という方向で制度の改正が行なわれつつあります。このようなことを考え合わせれば、地方参政権の付与が主権を侵害する、或いは主権国家としての日本の存在を脅かすものであるという主張は、必ずしも今日的な社会の中で、絶対的なものであるとは言えないと思います。したがって私は永住者に対する参政権の付与は、憲法上・制度上許容されるべき範囲のものであると考えます。

 以上のような政治的側面、制度的側面双方から考え合わせ、一定の要件のもとに地方参政権を与えるべきだと考えます。そして、そのことにより日本に対するわだかまりも解け、また、結果として帰化も促進され、永住外国人が本当によき日本国民として、共生への道が開かれることになるのではないでしょうか。

※補足
 この問題につきましては、意見が多数寄せられ、少数の方からの反対意見が寄せられたので、さらに補足として申し上げます。

   1. 反対意見に、「北朝鮮に支配されている北鮮系の総連の方に、地方参政権を与えるのはとんでもない」という意見がありましたが、我々自由党では国交のない国(北朝鮮等)の出身の方は参政権付与の対象にしないという考えです。

   2. 国政を預かる政治家として、ホームページ上で自分の考える全てのことを申し上げることはできませんが、この問題は主として、在日の朝鮮半島の方々の問題であることからあえて申し上げます。もし仮に朝鮮半島で動乱等何か起きた場合、日本の国内がどういう事態になるか、皆さんも良く考えてみてください。地方参政権付与につきましては、あらゆる状況を想定し考えた末での結論です。

   3. この問題につきましては色々な意見があり、少数の方々ではありますが中には、もう自由党を支持しないという方もおられます。私の意見のどこがどういう理由でだめなのか、明確な指摘のもと、ご意見を賜れば幸いです。

 私はこれからも「日本一新」を目指し、タブーなき真の改革を実現していくため全力を尽くして参りますので、皆様におかれましては何卒ご理解を頂き、ご支援を賜わります様よろしくお願い致します。

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フォイエルバッハ・テーゼをめぐって(第3回)

廣松渉氏と「フォイエルバッハ・テーゼ」

 「フォイエルバッハ・テーゼ」について何かを言うとなると、日本では、廣松渉氏の残した仕事を無視するわけにはいかないことはいうまでもないことである。もちろん、氏は、「フォイエルバッハ・テーゼ」についても、考察されている。ことに、第六テーゼを中心にした氏の論考は、人間論・存在論の次元での「近代的地平」の超克という氏の壮大な仕事の中で、中心的な位置を占めている。

廣松氏の『マルクス主義の地平』(勁草書房)は、一九六三年から六九年にかけて書かれた論文を集めたものである。ここに集められているのは、人間論を中心にしたものであり、そこで、氏は、第六テーゼを基本にして、マルクスの人間概念を論じている。氏は、この前後、六八年には『マルクス主義の成立過程』(至誠堂)、七二年には『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房)を出版しているが、これらは相互に関連している。ただ、ここでは、「フォイエルバッハ・テーゼ」に関係すると思われる部分に限って、多少の検討を試みるだけであることを最初にお断りしておきたい。

 廣松渉氏の『マルクス主義の成立過程』は、初期マルクスから後期におけるヘーゲル弁証法の転倒までのマルクスの思想形成過程を追った諸論考を集めたものであるが、その中の「初期マルクス像の批判的構成」という文書で、氏は、マルクスの初期の思想形成過程を、ヘーゲル左派との関係を軸に追っている。「フォイエルバッハ・テーゼ」について書かれているのは、主にこの文書なので、それから見よう(ただ、『マルクス主義の地平』には、この文書をめぐって起きた議論について良知氏に答えた「追記―良知力氏のご批判によせて」という文書があるが、これは『初期マルクス像の批判的構成』をめぐる議論なので、あわせて取り上げる)。

マルクスが「ライン新聞」の編集長になった一八四二年頃は、ヘーゲル左派の三極(パウエル、アーノルト・ルーゲ、モーゼス・ヘス)が分解状況にあった。マルクスは、最初にパウエル派と、続いて、ルーゲと決裂することになる。パウエル派とは、「ライン新聞」時代に、そして、ルーゲとは、四三年三月に「ライン新聞」が発禁されてから、パリに移って、同年の秋に「独仏年誌」を共同で一号出した後に、決裂した。廣松氏は、この時期に、マルクスに、ヘスの影響が入ってきたと言う。そして、マルクスは、四四年の春から秋にかけて、パリで、『経済学・哲学手稿』を書くが、それは、「着眼と発想だけでなく、数々のキャッチフレーズやレトリックに至るまでヘスの論稿と著しい一致を示している」(同前三四頁)という。廣松氏は、ヘスは、四一年から、「チェスコウスキーの指摘に則って「歴史をさまざまに解釈し説明してきただけの歴史哲学」から「歴史を変革する実践」「行為の哲学」への転換を図」(同前三一頁)っていたという。そして、ヘスの「行為の哲学」は、「固有の主体概念」、すなわち、「デカルト以来のコギトに代えて、人間を自己活動Selbsttat, Selbstbetätigungの主体として把え、しかもこの人間を本源的に社会的な存在として把える。ここにおいて人間の本質は協働Zusammenwirkenにあるとされる。「この協働こそが個人の現実的本質である。……思惟や行動も専ら協働から生ずる。……《精神》という神秘的な名で呼ばれているところのものも……この協働にほかならない。協働がはじめて生産力を現実化する、云々」(Ib.S.330f. Vgl. S.210. S.228. S.275. S.287)。ヘスは、人間を単なる類的存在、単なる共同体をなす存在Gemeinwesenではなく、協働をなす存在、協働存在として規定し、社会的な仕方で労働する存在というこの主体概念のもとで、彼のいう「自由」の概念、それの真の実現としての共産主義、これを実現するための現実的・歴史的諸条件、遡っては社会経済のメカニズム、等々を説くのである」(同前三一~二頁)。

廣松氏は、『経哲手稿』におけるマルクスの「この作業は、より大きな射程でいえば、旧来の姿勢―すなわち、市民社会的状態の不当性を恰も自明の理のごとくに扱い、これに対して「類が個として実存」する真の人間的共同体を対置するという姿勢―を蝉脱して、今や、 市民社会的状態の非本来性が奈辺にあるか、② この非本来的状態の成立した必然性、③ この状態の自己止揚の必然性とその行程、④ そこに招来さるべき人間の即自対自的な在り方、これを歴史哲学的なパースペクティヴのもとに解明していくという新しい視座の設定を意味する。いわゆる三つの源泉の総合的統一が可能となったのもこの視座のもとにおいてであって、ここに『経哲手稿』がマルクスの思想形成に対してもつ劃期的な意義があったということができる」(同前三四~四頁)と述べている。

 そして、廣松氏は、マルクスが、『経哲手稿』では、「フォイエルバッハとヘスとの中間の立場にあった」(同三六頁)とし、その標識を、主体概念の設定の仕方に見ている。すなわち、「マルクスもヘスも、人間を 社会的存在、② しかも自己活動、労働の主体として把握する点では慥かに一致する。しかしながら、③ マルクスは、人間が自然存在であるという面をも同様に強調し、しかもその際、「自然は人間の非有機的身体である」(Ib. S.87)という特殊フォイエルバッハ的な含意を残している(ヘスにはそれがない)。④ マルクスは「類的存在」が諸個人の代数和以上であるところから、とかく、類的本質をhypostatisieren(実体化)する傾きを残している(ヘスにはそれが稀薄)。 マルクスは、自然的・類的存在としての「人間」そのものを至高の価値とする趣きをもっている(これに対してヘスでは「自由」。尤も フランス的 なそれではなく、自己活動の主体という彼の人間規定に淵源するものであって、必然の王国に対する自由の王国というときの自由)」(同前36頁)と整理している。

 それから、廣松氏は、四五年春のベルギーのブリュッセルにおける「フォイエルバッハ・テーゼ」が書かれるまでのマルクスの思想的推転を、パリ時代の四四年八月の『批判的論評』、続くエンゲルスとの初の共著である『神聖家族』に見ている。

氏は、まず、『神聖家族』におけるマルクスの哲学的立場は、『経哲手稿』と同じで、マルクスは、フォイエルバッハ的な立場、すなわち、ヘーゲルの絶対精神を「人間」で置き換える立場で、自然と精神との統一たる「人間」、唯心論と唯物論との統一たる「現実的人間主義」に立っているとする。そこから、マルクスは、現実のナシ、リンゴ、スモモ、イチゴから作り出された「果物」という普遍的表象を、絶対的主体の自己活動とし、全過程を実体=主体の自己展開過程として示すパウエル派のヘーゲル的方法を批判したと言う。廣松氏によれば、ヘーゲル的弁証法は、「自己を外化しそして外在態から自己へと還帰するが、しかしその際同時に外在態を自己のうちに取り戻す主体としての絶対的な主体」(Ib. S. 167)、一言でいえば、全過程がそれの自己疎外と自己回復の行程であるごとき主体=実体、実体=主体を俟って初めて成立しうる」(同前四四頁)ものである。それを、氏は、「しかるに今やマルクスは、主語と述語の顛倒、そのことによる述語の実体=主体化を端的に斥ける姿勢をみせ、「パウエルにおいても、自己意識は自己意識にまで高められた実体、あるいは実体としての自己意識であり、自己意識は人間の述語から独立の主語に転化されている」ことを指摘し(Ib. S. 314)、パウエル派がいう意味での「自己意識」も『果物』にほかならないことを論断」(同)したと言う。しかし、この時点では、まだ、マルクスは、実体=主体の自己展開という発想のままで、フォイエルバッハの「人間」を自己活動の主体として、ヘーゲル的弁証法=自己疎外の論理を維持していたという。廣松氏は、それの自己批判的省察が、「フォイエルバッハ・テーゼ」で踏み出されたというのである。

 

 そして、四五年春に、ブリュッセルで、「フォイエルバッハ・テーゼ」が書かれるのであるが、それを、廣松氏は、「一言で性格づけるならば、この十一項からなる『テーゼ』は、マルクスが フォイエルバッハとヘスとのいわば中間の立場 から、ほぼ完全にヘスの立場に移行したことを告げる文書である」(同前四三頁)と位置付けている。

 そこで、氏は、マルクスが、第六テーゼにおいて、「人間的ヴェーゼンを諸個人の社会的協働関係におくヘスの線に則って「社会的諸関係の総体」として規定」(同前四七頁)して、自然存在としての規定から抜け出たと言うのである。第六テーゼが、氏が言うように、「人間的ヴェーゼンを諸個人の社会的協働関係におくヘスの線に則って」いるかどうかという点について、『マルクス主義の地平』所収の「追記―良知力氏の御批判によせて―」で、少し追ってみる。

良知氏の当該文章は、「ヘスは若きマルクスの発展の座標軸たりうるか―廣松渉氏の初期マルクス論によせて」(『思想』五月号)で、それは、「ヘスは、初期マルクスを縦断的に再構成するさいの座標軸たりえないのではないだろうか」という一文で結ばれているという(勁草書房 三〇三頁)。それに対して、廣松氏は、「ヘスを以って若きマルクスの思想発展の座標軸にしているかのような印象を受けられる方もあろうかと惧れる」(同)と述べられている。そして、「廣松としては、しかし、決してヘスを座標軸にしているわけではないし、…… ヘスは座標軸たりえない と考えている旨を記して、先ずはありうべき無用の誤解を防退しておきたい」(同)という。ただ、「マルクス主義の成立過程」所収の「初期マルクス像の批判的再構成」の記述からは、良知氏のような見方が生じるのもやむを得ないように思えるのだが。廣松氏は、そこでは、マルクスの思想の独自性よりも、『ドイツ・イデオロギー』に至るまでのヘスの影響の大きさを強調されているように思われるのである。「フォイエルバッハ・テーゼ」の多くの部分が、ヘスの書いたものと似ているとしても、違うところもある。少なくとも、その部分がどうなのかも含めて、一一のテーゼの全体の関連を一応検討してみるという作業がいるし、それと、廣松氏のように、ヘスなどとの思想的連関を総合して考え、検討する必要があることは明らかである。

 それから、廣松氏は、「良知氏は〈廣松氏の労作はヘス研究を一義的目的とするものでもなければ、ヘス=マルクス関係の解明を主テーマとしたものでもない。さらに、初期マルクスの批判的再構成ですら、おそらく氏なりの認識論を構築していくためのひとつの足がかりであろう〉と好意的に書いて下さっている」(同前三〇四頁)と書かれているように、それが、氏の認識論構築作業の一部として書かれたことを認めている。それが、六七年から七二年に書かれた論文を集めた『世界の共同主観的存在構造』の氏の認識論構築などの一連の作業を指すことは明らかである。

 そして、廣松氏は、良知氏のテーゼ当時の〈ヘスとマルクスとのあいだにある基本的な相違点〉を見逃しているという指摘に対して、それは基本的な相違ではないとして、それを三点に分けて答えている。氏は、まず、ヘスはフォイエルバッハ的な唯物論者ではなかったことに同意する。そして、「〈ヘスのばあい「活動」あるいは「実践」の概念は「感性的に人間的な活動、つまり実践として主体的に」とらえられているわけではない〉こと。―〈感性的〉ということに格別なアクセントをおけばまた別問題を生じうるが、良知氏も引用される通り、ヘスは「人間的に考えるだけでは十分でなく、同時にまた人間的に生きねばならない……」と言う。これに対して、氏は、〈ヘスは純粋思惟を排除しているだけであって「思惟が人間の自己活動である」ことにはかわりない〉とされる。これは廣松には理解しがたい。もしヘスが 人間の自己活動とは思惟の謂いなり とでも言っているのであればともかく、論理学の用語でいえば、氏は減量換位を施すべきところ単純換位を施して了っておられるのではなかろうか? 歴史の哲学から行為の哲学、実践の哲学への転換を標榜したヘスの「実践」概念は、この時点では『テーゼ』のそれと基本的には同趣であると廣松は考える。(なお、良知氏は「感性的印象や表象をもつさいには、私は本質的に受動的にふるまう」というヘスの゛唯物論的 な一句を引いて、『テーゼ』第九にいう「感性を実践的活動として捉えない唯物論」云々における感性の把握との相違を主張され、ヘスは〈みずから観照的に考えることになる〉と立論される。ここには、しかし『テーゼ』にいう「感性」とヘスが認識能力に即していっている感性との性急な同一視があり、遂には首肯しがたい)」(同前三〇六~七頁)。

 ここでも、第一テーゼの「主体的に」か「主体として」か、という訳の問題が、影を落としている。ここで言うヘスの実践と「フォイエルバッハ・テーゼ」の言う実践が同じなのかどうかという論点については、後で簡単に取り上げるので、ここではおいておく。続けて、氏は、次のように言う。長いが、引用する。

e)〈ヘスのいう社会自身、歴史的過程からたちきられて形而上学的にドグマ化し、ユートピア化してしまう。「歴史的経過を切り捨て、抽象的で―孤立した―個人を前提する」(第六テーゼ)というマルクスのフォイエルバッハ批判がヘスのいう「社会」にもたちかえることになる〉と良知氏は言われる。マルクスがフォイエルバッハの抽象的個人としての「人間」にさし向けた批判を、ヘスの「社会」に推及しうるかどうか疑問が残る。なるほど、ヘスの社会概念は極めて不十分であるが、しかし『テーゼ』当時のマルクスにも必ずしも十全な社会概念が見出されるわけではない。良知氏御自身、先行の個所で容認しておられるように、ヘスは「人間の存在は社会的存在であり、……さまざまな個人の協働であり、人間にかんする真の教義は人間の社会的状態にかんする教義である」と述べ、「人間的存在は……社会的諸関係のアンサンブルである」という『テーゼ』と同趣の思想を打出しているのであって、今問題の論点については、ヘスとマルクスのあいだに〈基本的な相違〉があるとは思われない。

四 良知氏は〈廣松氏によればマルクスはここで「人間的ヴェーゼンを諸個人の社会的協働関係におくヘスの線に則って『社会的諸関係の総体』として規定し」、社会経済上の「ヘスの先駆的業績を真に評価し」、「今暫くの間、ヘスの路線に従って『地上の秘密』の解明につとめる」〉という拙論を紹介されたうえで、〈廣松氏も再三指摘されているように、ヘスは鋭い問題感覚をもって疎外論を社会経済上の諸問題に適用した。だが、これらの分析は、ヘスが他面で追求した自己意識の弁証法とついに接合することはなかった〉。〈現実の経済社会もまた物神的な直接態のなかでしかつかまれない。その意味では「ヘスの路線に従って『地上の秘密』の解明につとめる」ことはありえない〉と書いておられる。―なるほど〈その意味では……ありえない〉かもしれない。しかし、廣松の文脈では次のようになっている。『テーゼ』におけるマルクスの転換にふれたうえで、「マルクスはフォイエルバッハから批判的に距離をとることによって、今やヘスの先駆的業績を真に評価し、それに従いうる地平に進んだのである」と書き、ここに註記して『ドイツ・イデオロギー』では「ヘスこそがフランス社会主義の展開とドイツ哲学の展開を綜合した」と言われている旨を紹介しておいて、そのあと、拙稿全体の論旨を総括的に辿り直していき、「こうして、ヘーゲル左派の三極を閲歴したマルクスは、今暫くの間、ヘスの路線に従って『地上の秘密』の解明につとめる。因みに、ヘスは当時すでに、協働、生産力、交通、土台、等々の概念を確立して一種の唯物史観を樹て、この史観によって共産主義に基礎づけを与えていただけでなく、独自の組織論、運動論を携えて共産主義的実践運動を展開しており、彼には学ぶべき多くのものがあった。四五年の春 亡命地 ブリッセルで相会したヘス、マルクス、エンゲルスは、翌る四六年にかけて、『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆することになった」云々、と続けている。―右の事情は措くとしても、良知氏は、廣松が「地上の秘密」という時括弧をつけた所以のもの、つまり『ヘーゲル法哲学批判序説』からの援用によって、その被限定性を表明しておいた点を無視されているのではあるまいか? だとすれば、氏と廣松とのあいだには、一点を除けばそれほど大きな見解の相違はないのではないかと考えられる。一点というのは〈これらの分析〔つまり疎外論を社会経済上の諸問題に適用しての分析〕は、ヘスが他面で追求した自己意識の弁証法とついに接合することはなかった〉とされる点である。この御発言は、それ自体として肯んじがたいだけでなく、氏自身の前言とも矛盾するように思える。ヘスが依然として〈自己意識の弁証法〉を追求していたのだとすれば、四三~四四年の〈急激な転換〉によって、フィヒテ=バウアー的発想からフォイエルバッハ的な発想に転じたとされる氏御自身の先の論点とどう整合するのであろうか?(同前三〇八~九頁)

 ヘーゲル左派については、よくわからないのでなんとも言いようがないが、ただ、ここには、疎外論、自己意識、協働、交通、生産力、土台、唯物史観、等々、現在においても議論となっている論点があることは明らかだ。しかし、それは、「フォイエルバッハ・テーゼ」だけからでは論じようがない。

マルクスは、ブリュッセルで、ヘス、エンゲルスと共に、四六年春には、『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆するが、氏は、この過程こそが、「ヘーゲル三派の三極を端的に総合・止揚しつつ、ヘスの思想的立場と水準から脱却する「自己了解」の過程となった」(『マルクス主義の成立過程』四九頁)というのである。要するに、廣松氏は、初期マルクスの思想形成過程の中で、特に、ポイントとされる主体概念の転換が、パウエル→ルーゲ→ヘスという順で進行し、ついには、『ドイツ・イデオロギー』において、これらヘーゲル左派の三潮流が、止揚・綜合されるにいたったというのである。そこで、廣松氏は、主体概念を、人間概念と見て、ここで、その変革があったとして、そこから、『マルクス主義の地平』においては、ハイデッガーの存在論を踏まえつつ、その「世界―内―存在」に対して、「歴史―内―存在」としての主体概念、人間概念とか、協働連関の世界の四肢的構造論の提起へといたるわけである。それは、『世界の共同主観的構造』において、詳しく展開されることになる。

 「フォイエルバッハ・テーゼ」には確かにヘスの影響が強く見られるとして、廣松氏は、「テオリーに対してプラクシスを特別な含意で対置してきたチェスコウスキー・ヘスの立場がそのまま採用されるに至っていることを銘記し(第二、三、五,八,九テーゼ、殊に「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ、世界を変革することこそが肝要であろうに」という最終テーゼを参照)、マルクスにおける「人間」把握の転換を確認すれば足るであろう」(同前四五~六頁)と述べ、対照のためとして、ヘスの当該論点、「フォイエルバッハは神のヴェーゼンは人間の……ヴェーゼンであり、神的ヴェーゼンに関する真の理説は人間的ヴェーゼンに関する理説だという。これは正しい、がしかし……人間のヴェーゼンは社会的ヴェーゼンであり、諸個人の協働である」。因みに「人間間の交通、これが人間の現実的ヴェーゼンであり……この協働が、生産力をはじめて現実化する……各個人の現実的ヴェーゼンである」(同前四六頁)をあげている。

この部分を見る限りでは、ヘスの思想、行為の哲学などはわからないが、この時期に、マルクスにその影響があったことは確かなようだ。廣松氏は、ヘスの、この引用に見られるような社会概念が、「フォイエルバッハ・テーゼ」の時点では欠けていると言う。確かに、「フォイエルバッハ・テーゼ」では、社会概念が展開されているわけではない。ただ、前回、アルチュセールが、第六テーゼの「人間的ヴェーゼン」という部分を、マルクスの不徹底さを示すものというように主張していることを見た。第一テーゼが、感性的人間活動、実践を主体としているということを、加藤正も、アルチュセールも、バリバールも言っているが、私は、ここで、すでに、マルクスは、実践を主体とすることで、ヘス的な人間概念とは異なることを言っていると思う。また、『マルクス主義の地平』第一章でもふたたび取り上げられている「人間の本質は社会的本質である」と第六テーゼの「人間的本質は社会諸関係のアンサンブルである」という命題に違いがあり、この時点でも、「フォイエルバッハ・テーゼ」が、完全にヘスのライン上にあったということではなかったように思える。

 廣松氏は、第六テーゼを、人間概念、社会概念の転換、主体概念の転換を、ヘスの路線の受容、それから、『ドイツ・イデオロギー』にいたるそれまでのヘーゲル左派の綜合の途次の命題として捉えている。それから、廣松氏は、デカルト的コギトという近代的主体概念、「思惟する我」を主体とする認識論を根本から覆す新たな主体概念の形成を課題としていくという氏の思考の歩みのポイントに第六テーゼを置いている。氏は、第六テーゼの主体概念の転換が近代的地平を根本的に変える契機を切り拓いたという。そして、第六テーゼで人間的本質と言われているものが、主体としての人間のことであり、それが社会諸関係だという。このことは、一九六〇年代から七〇年代初めという時代に、廣松氏が、第六テーゼを大きく取り上げたこと自体、その時代が主体を問うていたことを示している。廣松氏はもちろん、フーコーもまたそれを追及した人であるが、それが、今日、ふたたび問われているのである。

そのことと関連して、本稿のテーマからは離れるが、廣松氏のその他の論考の一端を少々見ておきたい。廣松氏は、『マルクス主義の成立過程』所収の「弁証法的転倒はいかに可能であったか」では、ヘーゲル弁証法の唯物論的転倒について、そして、『マルクス主義の地平』では、近代的人間概念を超えるマルクスの人間概念、そして、疎外論から物象化論へという後期マルクス思想への転回を詳しく論じられた。例えば、「附論Ⅰ マルクス主義の地平と物象化論」という文章では、「後期マルクスのいう「物象化」は、個々の主体と事物とのあいだに直接的に成立する客体化の現象なのではなく、人間相互間のインターズプエクティーフな媒介を経てはじめて成立するところの本源的に共同主観的な現象なのであります。対象性として現われるところのものは、実は、単なる即自存在なのではなく、人々のある種の共同主観的な関係、即自的な協働が「物象化」されて現象するものであること、後期のマルクスは、なかんずく価値対象性に即して、このことを究明したのであります」(同書二七〇頁)と述べている。さらに、氏は、マルクス主義認識論の構築にも向かう(「附論Ⅱ マルクス主義認識論のために」など)。

それから、これらの廣松氏の論考が、論争の中で遂行されたということを強調しておきたい。「附論Ⅰ マルクス主義の地平と物象化論」や「追記 良知力氏の御批判によせて」などで、氏の論考が論争の形態を取って行われたということである。フォイエルバッハへの論争の形態で書かれている「フォイエルバッハ・テーゼ」には、実践的唯物論の開放性、相互交通性、発展性、等々の性格を示されていると考えるが、それが、廣松氏の論考の基本にあると捉えておきたいのである。それから、廣松氏は、「近代世界了解の構え、すなわち、資本主義時代に照応するイデオロギーという意味でのブルジョア・イデオロギーの地平―この特質については別著(『マルクス主義の地平』第一部)で論じておいたので、ここでは式述しないが―、このブルジョア的世界観の地平がもはや桎梏に転じ、破綻に瀕していること(それは単なる ゛西洋の没落 などというものではない)〔氏には、学術的と見なされるようなこのような文書に、ビラのように、゛を入れるような実践性がある―引用者〕さりとて、人々はまだ、それに代わるべき新しい発想法の地平を、明確な形で向自化しうるには至っていないということ、今日の思想的閉塞情況は、要言すればこれに起因するものであると看ぜられる」(『世界の共同主観的存在構造』勁草書房五頁)という問題意識をもって、そこから、近代的「主観―客観」図式の超克という認識論的課題を追求するという壮大な試みへ踏み出されたのであるが、それは、第六テーゼにおけるマルクスの思想転回を受け止める中で、そしてそれを引き継ぎ発展させるという試みの持続の中で遂行されたが、それが、今日においても問われていることは明らかだと考える。とりわけ、「フォイエルバッハ・テーゼ」の実践、感性、などの諸概念をめぐって、氏が提起したものは、今、アクチュアルなものとして再浮上しているのである。

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フォイエルバッハ・テーゼをめぐって(第2回)

   和辻哲郎の第六テーゼ解釈

 おそらく、「フォイエルバッハ・テーゼ」の中で、第六テーゼほど、議論を呼び起こした部分はないだろう。第六テーゼが、人間論・社会論として、新しかったからである。それは、人間的本質は、社会諸関係のアンサンブルであるという短い一句に集約されている。これが、どれほど大きなインパクトを与えたかは、例えば、倫理学者和辻哲郎が「西田幾太郎先生にささぐ」と扉に記した『人間の学としての倫理学』(一九三一年)で、わざわざ、第六テーゼを肯定的に取り上げて、マルクスの立場に立つように見せかけつつ、骨抜きを図ったことにも示されている。和辻は、「マルクスのフォイエルバッハに対する批判は、類の概念や我れと汝の共同態の概念においていまだ人の本質すなわち人の社会的存在が把捉されていないことを明らかにするにある。フォイエルバッハは抽象的孤立的な「人」という個体を仮定し、かかる個体を仮定し、かかる個体から抽象せられた普遍性としての「類」を取ってそれを人の本質を見た。だから人の本質は個々の個人に内在する抽象的なものとせられてしまう。それによって人の全体性を捕らえたとするのは思弁哲学への逆戻りである。孤立せる人などというものはどこにもない。人は常に社会的関係において有るのである。だから人の本質は社会的関係の総体にほかならない。フォイエルバッハは人を社会的連関の中に置くことをしなかった。彼が人を「感性的対象」としたことは「純粋な唯物論者」よりも非常に優れている点であるが、しかし彼は人がまた「感性的活動」であるという洞察にまでは達し得なかったのである」(岩波文庫一六六~七頁)と書いている。ここで和辻は、第六テーゼを、フォイエルバッハの認識形式論を退け、人間の本質を存在ととらえ、主体を「感性的活動」という存在として捉えたものと解釈したわけである。
   彼は続けて、第一テーゼを引用して、「フォイエルバッハが人の特徴を意識において見いだしたときには、対象の意識が人の自己意識であり、対象において人の本質が現れるとせられた。だから感性的対象が人自身なのである。しかし彼はそれを直観、感覚、愛というごとき認識の形式において、すなわちあくまでも観照的に捕らえようとした。だから彼が感性的世界すなわち自然を絶対化し、それが産業や社会状態の産物であることを見得なかったとせられるのも道理である」(同一六七頁)とマルクスの述べたことをほぼそのまま踏襲している。しかし、彼は、「人は常に社会的関係において有る」という一句を入れることで、実際には、第六テーゼを骨抜きにしている。また、和辻は、この後で、関係を「間柄」と言い換え、それを人間関係共同体とした上で、感性的活動を人間化し、それを主体化してしまう。「間柄」としての人間関係共同体を人間本質として主体化するのだ。しかし、第六テーゼは、社会諸関係のアンサンブルを人間的本質と規定していても、それを主体化していないことは、加藤正の第一テーゼ解釈を検討して確かめた。和辻が、実践的行為的連関としての我と汝の「間柄」共同体を、フォイエルバッハの物言わぬ「類」の代わりに、抽象的主体として立てたことは、テーゼ全体からみて、誤りであることは明らかだ。彼は、特定の主体としての近代ブルジョア社会の底に人間共同体を置いて、それを、より根底的なものと意味付与した上で、それを人間化し主体化することで、マルクスのテーゼの思想を捻じ曲げたのである。

 それが誤りであることは、マルクスが、一八五四年の『経済学批判のための序説』の経済学の方法の章において、「実在する主体は、相変わらず頭の外でその独立性を保っている。〔頭の外で〕というのは、頭がただ思弁的に、ただ理論的にふるまっているあいだのことであるが。それゆえ、理論的方法にあっても、主体は、社会は、前提としていつでも表象として浮かんでいなければならない」(国民文庫二九五~六頁)と述べていることで明らかである。ここで言う「実在する主体」は、第六テーゼの人間の本質としての社会諸関係のアンサンブルのことであるが、ここでは、それは特定の社会、主体、感性的人間活動=実践のことである。マルクスは、それは、非思弁的な思考の活動によって、つかむことができると言っているのである。マルクスは、それができるのは、抽象という方法であると「資本論」序文で言っている。ただ、ここで注意しておかねばならないのは、この「経済学の方法」に書かれていることを特殊な方法論として体系化するということを、例えば、梯明秀という人が試みているけれども、それは、マルクスの唯物論的弁証法を誤らせるということである。この部分の前には、「この思考する頭は、自分にとって可能なただ一つの仕方で世界をわがものとするのとは違った仕方で世界をわがものにするのであって、この仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神的にわがものとするのとは違った仕方なのである」と書いているように、マルクスは、哲学的意識の種差性も指摘している。すなわち、「主体、社会」は、対象として、様々な仕方で我がものにしうるし、それは、それらの多様なものや多側面のアンサンブルとしてあるが、それを、哲学的思考は、それ特有の仕方で認識するのである。そのことは、「およそどの歴史的、社会的科学の場合にもそうであるように、経済学的諸範疇の歩みの場合にもそうであるように、経済学的諸範疇の歩みの場合にもつねに次のことが銘記されねばならない。すなわち、現実界でそうであるように頭のなかでも主体が、ここでは近代ブルジョア社会が、あたえられているということ、したがって、諸範疇は、この特定の社会の、この主体の諸定在的形態、諸存在規定を、しばしばただその個々の面だけを、表現しているということ、したがってまた、近代ブルジョア社会は、科学的にも、それがこのようなものとして問題になるときにはじめて始まるのではけっしてないということである」(同三〇二~三頁)と述べていることで明らかである。直観と表象の概念への加工の産物は、範疇という形態で存在しているが、それは、存在諸規定の一面や部分を表現しているにすぎないのである。ここでも、マルクスは、主体を、対象的人間活動、すなわち実践として捉えるという第一テーゼの思想を貫いて、哲学という認識実践の理論的形態を批判しているのである。だから、梯明秀のように、「資本論」をヘーゲル論理学で体系化するなどというのは、マルクスの考えからはありえないのである。

   和辻は、第六テーゼを、「マルクスにおける社会の強調は、人を主体的人間に転ずることにほかならない」(同168頁)、「それが「人間存在」を人の意識の根底に置く考えである」(同)と解釈して、感性的人間活動=実践を主体としてとらえるという第一テーゼの思想を、人間主体や人間関係共同体の存在論という抽象のうちに解消してしまうというとんでもない間違った解釈をやったのである。それに対して、バリバールは、「主体、それは実践である」(『マルクスの哲学』法大出版局四一頁)という定式を提示しているが、そっちの方が正しいのである。

 

   アルチュセールの第六テーゼ解釈

    まず、アルチュセールの第六テーゼ解釈を考えるために、それに資すると思われる彼の考えを簡単に見ておきたい。
   一九四五年、フランス共産党に属するアルチュセールは、一九六〇年以降に共産党系の評論誌に書いた論文を集めて六五年に出版した『マルクスのために』(平凡社ライブラリー)で、マルクスの諸著作を、一八四〇―一八四四年-青年期の著作、一八四五年―切断期、一八四五―一八五七年―成熟期の著作、一八五七―一八八三年―円熟期の著作、に分けている。アルチュセールは、マルクスが、『経哲草稿』から『ドイツ・イデオロギー』の間に、初期のヒューマニズムから断絶し、新たなプロブレマティック(問題設定)に移行したと述べている。彼は、一八四五年の「フォイエルバッハ・テーゼ」は、ちょうど、マルクスが、哲学的(イデオロギー的)な自己の古い意識の批判を遂行し、古い意識と言葉の中で、平衡を失った曖昧な概念と定式の中で、新しい理論的意識の出現地点を示すという「認識論的な切断」を実践したというのである(同四八頁)。
   彼は、この本が、国際共産主義運動に大きな影響を与えた二つの事件によって生まれた新たな事態に対して書かれたと述べている。一つは、ソ連共産党二〇回大会におけるスターリンへの個人崇拝批判、フルシチョフ秘密報告書の公開であり、もう一つが、中ソ論争の勃発である。前者の事件の後、ソ連のフルシチョフ首相は、階級対立の終焉と全人民国家化入りを宣言し、ヒューマニズムを公式のイデオロギーとした。同様に、西欧共産党は、「社会主義への平和的移行」、「マルクス主義的社会主義的ヒューマニズム」、「対話」などのスローガンを掲げるようになった。それに対して、毛沢東と中国共産党は、修正主義批判を展開し、継続革命論を対置した。アルチュセールは、同書の六七年一〇月付の「日本の読者へ」で、これらの一連の研究ノートが、こうした歴史状況の中で書かれたものであることを強調している。
 そこで、彼は、そうしたイデオロギー的、理論的状況に対して、次のような二重の介入を行ったと言う。

「第一の介入は、マルクス主義理論と、それを危うくし、脅かす哲学的(および政治的)主観主義の諸形態、なかんずく経験論とその古典的または近代的変形物であるプラグマティズム、主意主義、歴史主義等々のあいだに「境界線を引く」ことを目的とする。この第一の介入の本質的な諸契機は、革命的な階級闘争にとってのマルクス主義理論の重要性、さまざまな実践の区別、「理論的実践」の種差性の解明、マルクス主義理論の革命的種差性についての第一次探求(観念弁証法と唯物弁証法とのあいだの明確な区別)等々である。
 この第一の介入は、本質的にいって、マルクスとヘーゲルの対照という地盤のうえに位置づけられる。
 第二の介入は、一方におけるマルクス主義歴史科学およびマルクス主義哲学の真の理論的基礎と、他方における「人間の哲学」または「ヒューマニズム」としてのマルクス主義にかんする現代的解釈が基礎をおく、前マルクス主義的で観念論的な観念とのあいだに「境界線を引く」ことを目的とする。この第二の介入の本質的な諸契機は、マルクスの思想史における「認識論上の切断」の解明、青年期の著作のイデオロギー的「プロブレマティック」と、『資本論』の科学的「プロブレマティック」とのあいだの根本的差異、すなわちマルクスの理論的発見の種差性についての第一次的検討である。
 この第二の介入は、本質的にいって、マルクスの青年期の著作と『資本論』とのあいだの対照という地盤のうえに位置づけられる」(同一七頁)。

 ここで、プロブレマティックという概念が登場するわけだが、それを、彼は、註で、『ドイツ・イデオロギー』中のマルクスのドイツにおける批判を引用して説明している。

「それらすべての問題はある特定の哲学大系、すなわちヘーゲル体系を地盤として生じさえした。その答えのうちにのみならず、すでに問いそのもののうちに一つのごまかしがあった」(大月版、一四ページ)。哲学をつくるものは答ではなく、哲学によって提起される問いそのものであるということ、そして、問いそのもののなかに、つまり、ある対象を反省する仕方のなかにこそ(この対象自体ではなく)、イデオロギーのごまかし(あるいは逆に、対象にたいする真の関係)を探らなければならないということを、このマルクスの文章以上に的確に指摘することはできないだろう」(同一三七頁)。

 同書には、六七年一〇月七日付けの彼の「批判的・自己批判的ノート」が訳出されていて、そこで、彼は自己批判を行っているのだが、それは訳者の市田良彦氏が解説で指摘しているように「真空」をそのまま残している不思議なテキストになっているが、そこで、彼は、『マルクスのために』と『資本論を読む』という二つの著作に、二つの政治的誤りから来るいくつかの誤った定式、修正すべき定式があると自ら指摘した上で、しかし、自分ではそれを行わないと言い、「この修正は、我々の言い落としと誤りを知った読者が、自ら労を取って行うにたる批判作業でありうると思う。実りは多いだろう」(同四八六頁)と、読者に投げ出してしまう。どうやら、このへんに、彼が言うプロブレマティックという概念の、問いを問うというプロブレマティックな実践そのものが示されているようだ。そして、彼は、この自己批判の重点を、「日本の読者へ」では、二点、指摘している。

(一) わたしは革命的実践のために理論が必要不可欠であることを強調し、またそれによってあらゆる形態の経験主義を告発したのであるが、マルクス―レーニン主義の伝統のなかできわめて大きな役割をはたしている「理論と実践の統一」の問題をあつかいはしなかった。たしかに、わたしは「理論的実践」のなかでの理論と実践の統一について語ったけれども、しかし政治的実践のなかでの理論と実践の統一の問題には触れなかった。正確に言おう。わたしはこの統一の一般的な歴史的存在形態、すなわちマルクス主義理論と労働運動の「融合」については検討しなかった。わたしはこの「融合」の具体的存在形態(階級闘争の諸組織―組合、政党、これらの組織による階級闘争の指導の手段と方法、等々)を検討しなかった。わたしはこれらの具体的な存在形態のなかでのマルクス主義理論の任務、地位、役割、すなわち、マルクス主義理論は政治的実践のなかのどこに、いかにして介入するのか、政治的実践はマルクス主義理論のなかのどこに、いかにして介入するのか、といった点を明確にはしていない。
経験のしめすところでは、これらの問題についての沈黙は、わたしの試論についてのある種の(理論家的)」「読み方」にとって影響なしとしない。
(二) 同様に、わたしはマルクスの発見の理論的に革命的な性格について力説し、またわたしはマルクスが新たな科学と新たな哲学の基礎を築いたことを指摘したのであるが、哲学を科学から区別する差異を漠然としたままに残した。だが、これはきわめて重要なことである。わたしはなにが科学とは異なる哲学に固有のものを構成するのか、すなわち理論的学問として、またその存在形態と理論的要求の範囲内においてさえ、あらゆる哲学が政治とのあいだにもつ有機的な関係をしめしはしなかった。わたしはこの関係の性質―マルクス主義哲学においては、この関係はプラグマティックな関係とはなんのかかわりあいもない―をしめしはしなかった。したがってわたしは、この点で、マルクス主義哲学を先行する哲学から区別するところのものを明確にはしめさなかった。
  経験のしめすところでは、これらの問題についての半-沈黙はわたしの試論についてのある種の(実証主義的)「読み方」にとって影響なしとしない。(同二〇~一頁)

  ここで、アルチュセールは、理論主義と実証主義を批判対象としながらも、それに成功しておらず、そうしたイデオロギーが占める余地を試論において残していることを公然と表明している。自分たちの陣地に「穴」が空いているというのだ。これは、アルチュセールが仕掛けた罠ではあるまいか。彼は、自己批判において、これらの課題を読者に投げ出し、大衆的な共同作業を提案するが、それは、彼が述べているように、ただ時間がなかったからというだけのようには思えないのである。このテキストそのものが、政治闘争であり、党派闘争であることを示しているように見えるのだ。それは、まさに、レーニンが、『唯物論と経験批判論』で、理論の党派闘争として提起したことのアルチュセール流の実践なのではないか。それは、また、「フォイエルバッハ・テーゼ」の第二テーゼが、「人間の思考に対象的真実がとどくかどうかの問題は、全く理論の問題ではなく、一つの実践的な問題である。実践において、人間は彼の思考真理性、すなわち現実性と力、つまり此岸性を証明しなければならない。思考が、現実的か非現実的をめぐる論争は、純粋にスコラ的な問題である」と述べたことの実践であるとも言えまいか。彼は、ここでは、政治というものを、敵が占領しようとする「穴」を、多数の人間たちによって埋める大衆的「戦闘」実践としているように思える。「理論と実践の統一」は、労働者階級が哲学実践へと介入し、その戦線に加わることで実現され、此岸性を証明されるべきものとして、提示されていると思えるのだ。つまり、彼が言う革命的理論実践と革命的実践、理論と労働運動の「融合」という課題は、政治的実践としてあるので、構成という作業を必要とするということだ。彼は、政治的実践過程の性格を次のように述べる。

「非常に図式化して言うと、政治的実践過程の種差的性格(理論的実践過程とは異なる性格)は、マルクス=レーニン主義理論と労働運動の統一が具体的、歴史的に実現されるのはいかなる現実においてかを見ることによって把握される。その現実とは次の三種であり、それらは一体でありかつ同時である。まず、労働者階級の前衛、労働者階級、大衆と獲得されていく政治的かつイデオロギー的意識。次に、プロレタリア階級闘争を指導しなくてはならない組織。そして、そうした組織による(労働者階級と大衆の)階級闘争の指導の形態と手段。上記の統一はこれら三つの現実において、同時進行でなされるが、労働運動の歴史における時代区分や所与の条件にしたがって、三つの要素のうちのどれかが、ある時点での「決定的な環」を構成する」(同四七九~四八〇頁)。

  このように、彼の「自己批判」は、理論と実践の融合という課題を、労働運動という特定の領野に限定して提起しているが、それは、階級意識と階級指導組織と指導形態と手段という三つの現実の要素の組み合わせであり、時代状況の中で、どの要素が「決定的な環」であるかを見ることで把握されるわけである。だから、その問いは、その後も彼の試みの中で、問われ続けていると考えざるをえない。それは、党派闘争として継続されたはずである。それは、科学の専門家固有の哲学的イデオロギーとしての実証主義、「理論家」のテクノクラート主義(同四七五頁)と社会構成体の発展史についての科学としての史的唯物論と弁証法的唯物論という哲学の差異に関する「言い落とし」を取り戻す闘いでもあったはずである。そのために、例えば、彼は、理論の実践への適用という言い方を実証主義への転落であるとして、使わないことを意識的に実践する。それは、「人間が、世界と歴史における自分の位置を自覚するのは、イデオロギー(政治闘争の場としての)において」(同414頁)だからである。だから、このような「言い落とし」の修正自体がイデオロギー闘争を構成することになるのである。この時点では、アルチュセールは、三つの現実のうちの「政治的かつイデオロギー的意識」を「決定的な環」と把握していたようである。

  では、アルチュセールは第六テーゼをどのように解釈したのか。彼は、第六テーゼ自体は文字通りには意味はないと述べ、それを、「人間とかヒューマニズムとかの概念に適切に対応していないが、その概念において間接的に関連づけられている現実とはなんであるか、それを知りたければ、それは抽象的本質ではなく、社会的諸関係の総体のことである」(同四三六頁)と言い換える。それは、第六テーゼの概念の関係は、定義からはわからないし、定義上、認識上の関係ではないからだという。しかし、彼は、この不適切な関係には意味があると言う。それは、「もはや抽象的な人間ではなく具体的な人間を探求する場合に暗示されている現実に出会、それを見出すためには、社会へ移り、社会的諸関係の総体の分析にとりかからねばならない」(同)ことを示している。彼によれば、それは、具体的現実的な社会諸関係のアンサンブルを科学的に認識するには、人間という概念を捨てなければならないことを意味する。そして、抽象的なものから具体的なものへの位置の移動と基礎概念を変える概念の移動を同時に行なう、長い回り道、迂回、いわば長征を行なわねばならないというのである。彼は、だから、マルクスが、その後、理論的概念としては、人間やヒューマニズムではなく、生産諸力、生産諸関係、上部構造、イデオロギーなどの新しい概念を使ったのだと言う。確かに、先に引用した「経済学批判への序言」において、マルクスは、社会を主体としていて、人間を主体としていないように、概念の変更を行なっている。彼がテーゼの不適切な関係に意味を認めていることは、精神分析学から来ているのかもしれないが、それは、「人間の思考に対象的真実が届くかどうかの問題は、全く理論の問題ではなく、一つの実践的問題である。実践において、人間は彼の思考の真理性、すなわち現実性と力、つまり此岸性を証明しなければならない。思考が、現実的か非現実的かをめぐる論争は、純粋にスコラ的な問題である」(第二テーゼ)を踏まえているのは見て取れる。社会的諸関係の対象的真実は、実践的に与えられるが、それは、その真実についての新しい概念を生み出す実践の問題であり、それは、位置と概念の移動という実践を伴うのは確かである。しかし、人間という概念は社会諸関係の科学的概念ではないとしても、イデオロギーとして機能し続け、それは、政治的実践の中では、価値を持つし、政治闘争のイデオロギー的焦点となる。その闘いは、第六テーゼが示した移動によって基礎付けられるのである。アルチュセールは、そのことについて、例えば、「ヒューマニズム重視のどんなイデオロギーにも深く刻みつけられている、道徳への依存は、現実上の諸問題を空想的にとりあつかうという役目をはたしやすいのである」(同四四三~四頁)というかたちで述べている。だから、マルクスは、位置と概念の移動を行ない、テーゼ後には、移動して、社会諸関係の解明に向かったというのだ。

  市田氏は、「しかしそもそも、アルチュセールはその後、理論と実践の関係について、マルクス主義理論と労働運動の統一について、何を考え、何を言っただろうか。生前に刊行されたテキストの中で、彼が再びこの問題を主題的に取り上げたことは、ない。彼は政治的実践の理論さえ、作り上げることはできなかった。少なくとも、できた、とは判断しなかった。ここにも「真空」videが存在している」(同五〇三頁)と述べているが、これは、「フォイエルバッハ・テーゼ」にも言えるのではないだろうか。マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』では、『経哲草稿』で使った「疎外」という概念を、哲学者にわかるように言えば、という但し書きを付けて使い、すでに、それまでのドイツ哲学の世界とは別の地点に立っていることを示している。それは、第六テーゼの言う人間や社会諸関係やアンサンブルという概念が、移動の後の新たな地点から再構成されねばならないことを意味するが、アルチュセールが、それを、我々に投げたとすれば、それに応えるには、彼が、マルクスが哲学の中で獲得したと言う、「批判精神」、「臨床感覚」、「科学的な理論構築に不可欠な抽象化の感覚と実践」、「理論的な総合と過程の論理の感覚と実践」は、少なくとも必要だろう。

 
 
                                                                                     

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フォイエルバッハ・テーゼをめぐって

 かつて、フランスの哲学者アルチュセールが、フォイエルバッハ・テーゼを、一八四四年の『経済学・哲学草稿』から、一八四六年の『ドイツ・イデオロギー』の間のヒューマニズムからの「認識論的断絶」、「一つの切断の「前方の端」として提示し」(バリバール)たことが議論を呼び起こしたことがある。それが、スターリン主義に対して、初期マルクス、主に『経済学・哲学草稿』におけるヒューマニズムを対置してきた反スターリン主義的マルクス主義者たちの猛反発を受けたのである。それから、日本では、廣松渉氏が、第六テーゼの「人間的本質は社会的諸関係の集合である」というところを、疎外論から物象化論へという人間観・社会観のパラダイム・チェンジを示すものと位置付けたことが、初期マルクス派、疎外論派との論争を引き起こしたことがある。

 また、 日本では、戦前に、和辻哲郎が『人間の学としての倫理学』で、そして三木清が『人間学のマルクス的形態』で、このテーゼを論じている。また、唯物論研究会で、加藤が引き起こした党派性論争の焦点となったことがある。戦後には、三浦つとむ、そして、戦後主体性論者の中心人物で和辻哲郎に学んだ梅本克巳が『唯物論と人間』で論じている。アルチュセールと協働したエチエンヌ・バリバールは、テーゼ全体を「一連のアフォリズム」(『マルクスの哲学』 法政大学出版会 二二頁)と呼び、また、第一一テーゼについては、ハンナ・アーレントが、「フォイエルバッハ・テーゼは、哲学者が世界を解釈したからこそ、またその後だからこそ、世界を変える時代が到来したのだと、明快に述べている」(『政治の約束』 筑摩書房 一〇六頁)との解釈を示し、あるいは、廣松渉氏の『マルクスの根本意想は何か』(情況出版)のあとがきで、的場政弘氏は、「世界を変えるということは、これまでの哲学をそのまま現実社会に応用することで解決することなのか、それとも現実を変革する新しい哲学を創始することなのか、それが今ひとつ不分明である」と疑問を呈している。このように、メモにすぎないこの短いテーゼをめぐって様々な議論がある。それだけ、テーゼが重要なことを述べているということである。

 一体、唯物論とは何であり、それにマルクスがこのテーゼで古い唯物論をどのように変化させたのかを確かめることは、現代資本主義や現代社会をしっかりと理解するのに必要である。それは、例えば、物象による現実的社会諸関係の転倒や学問的形態をもまとっている支配的イデオロギーからの解放につながる。例えば、計量経済学の最初に出てくる収穫逓増の法則に示されているような功利主義的人間観念・イデオロギーからの解放の武器となる。人は功利主義者として生まれてくるわけではなく、現存の歴史的な社会諸関係によってそうならざるを得なくなっているのである。それも、四六時中、損得勘定をして、生き、生活しているわけではない。功利主義的価値観・人間像は、現実の一側面を現象として固定化して作り上げられたもので、唯物論の対象として見れば、そんなことはけっしてないことがわかる。功利主義は、教育・啓蒙・宣伝・経験などによって、人々の頭に擦り込まれるのである。また、テーゼは、宗教や観念論の重苦しい空気からの解放につながる。近年、心霊科学などの科学の形態を被せた宗教イデオロギーや詐欺が横行しているが、テーゼの唯物論は、それを見抜く武器を与える。それは、このテーゼを見ていけばわかる。

 フォイエルバッハ・テーゼの成立事情と背景

 マルクスが亡くなってから五年後の一八八八年二月二一日付で書かれた『フォイエルバッハ論』の序文で、エンゲルスは、『新時代』(ノイエ・ツァイト)の一八八六年の第四号、第五号に掲載されたシュタルケの本の批評を単行本にする際に、一八四五年から四六年にかけて、マルクスとの共同作業で書かれた一連のノートを読み直したと書いている。それは、『ドイツ・イデオロギー』と題して出版するための準備ノートであった。エンゲルスは、それが、フォイエルバッハについての章が未完であること、出来上がっているのは唯物史観の叙述であり、それは経済史についての当時の二人の知識の不完全さを示すものであること、そして、フォイエルバッハそのものの批判が欠けていると述べている。彼は、読マルクスのノート類の中に、フォイエルバッハに関する一一のテーゼを発見したと述べている。彼は、それを、「新しい世界観の天才的な萌芽が記録されている最初の文書としてはかりしれぬほど貴重なものである」(『フォイエルバッハ論』岩波文庫 一一頁)として、同書の付録に付けた。

マルクスが、このテーゼを書いたのは、フランス内務相による国外処分決定によって、パリから移ったブリュッセル時代である。マルクスとエンゲルスは、すでに、パリで関係ができはじめていた「義人同盟」と交流を深め、ヘーゲル左派のヘスも加えて「共産主義者通信委員会」を結成し、労働者の組織化に取り組むようになる。その後、マルクスとエンゲルスは、哲学的なものはほとんど書いていない。このテーゼは、パリで、『独仏年誌』がブルジョア急進主義者と言われるルーゲとの確執から破綻してから、ドイツ哲学の世界から経済学、歴史、政治・社会運動、ジャーナリズムへと移行していった転換点を示すものである。その後、マルクス・エンゲルスは、一八四七年六月、イギリスのロンドンでの「共産主義者同盟」の創設に参加する。翌年一月には、『共産党宣言』を刊行した。その直後、一八四八年革命が勃発し、マルクスは、ドイツに移り、『新ライン新聞』を創刊して、この革命の推進翼を担った。研究の中心は、市民社会の解剖学としての経済学に移っていった。しかし、マルクスは、経済学の研究の最中も、ヘーゲルを繰り返し読んでいる。マルクスが、ヘーゲルから主に学んでいたのは、弁証法である。

 フォイエルバッハは、ヘーゲル左派の中では、ヘーゲルの革命的側面を発展させようとした点で、抜きんでた存在だったし、唯物論者だった。マルクスは、プロイセン政府による「ライン新聞」に書いた記事への検閲と弾圧から逃れ、パリで、『独仏年誌』を発行する計画を立てた時、フォイエルバッハにも参加を呼びかけたが、彼は参加しなかった。彼は、教職を追われた後、田舎に籠もり、隠遁生活を続け、観照的な生活を送るが、晩年には、ドイツ社会民主労働党に加入し、マルクスの『資本論』を勉強している。エンゲルスは、同序文で、フォイエルバッハを、ヘーゲルとマルクスの中間に置き、本文中ではヘーゲルの革命的側面からさえも後退していると述べている。エンゲルスは、同書で、ヘーゲル哲学を、人間の思考と行為の全産物が、常に過程としてあり、究極的なものはないということを明らかにしたという点で、革命的性格を持っていたと評価している。

 パリ時代、ブルジョア急進主義者ルーゲとの決別後、エンゲルスの共同が本格化する中で、マルクスが書いた『経済学・哲学草稿』では、フォイエルバッハは高く評価されている。しかし、ブリュッセルでのエンゲルスとの『ドイツ・イデオロギー』の共同作業では、フォイエルバッハはドイツ哲学ヘーゲル左派の代表的イデオローグとして批判されているが、『ドイツ・イデオロギー』自体は、フォイエルバッハそのものの批判ではなかった。マルクス自身は、これを、「ドイツ・イデオロギー(フォイエルバッハ、B・バウアーおよびシュティルナーを代表たちとする最近のドイツ哲学の、そして種々の予言者たちにあらわれたドイツ社会主義の批判)についての著作」と呼んでいる。すなわち、フォイエルバッハは、ここでは、当時のドイツ哲学とドイツ社会主義の代表的イデオローグの一人としてあげられているだけである。それに対して、エンゲルスは唯物史観を対置したと述べている。彼は、このテーゼは、その新しい唯物論の萌芽を示していると言うのである。その新しさはどこにあるのか。それを、まず、加藤正の論考を手がかりに探りたい。

 テーゼの何が新しいのか―加藤正「「フォイエルバッハ・テーゼ」第一哲学の解釈」をめぐって

 加藤正が、一九三二年二月五日の唯物論研究で提起し、唯物論研究会の中で引き起こした党派性論争の中に、「フォイエルバッハ・テーゼ」をめぐる議論があった。

 唯物論研究会は、一九三二年一〇月に、長谷川如是閑らを発起人として創設された。その他、岡邦雄、梯明秀、古在由重、戸坂潤、永田広志、服部之総、森宏一などがいた。唯物論研究会は、治安維持法の弾圧を避けるため、広く唯物論の研究をテーマとしていたため、マルクス主義者ではない人も入っていた。エッセイストとして知られる寺田寅彦も一時関わっていたという。唯物論研究会は、一九三七年「人民戦線事件」後のいわゆる「唯研事件」で主要執筆陣に執筆禁止令が出され、さらに、会自体、治安維持法第一条第一項後段の未遂罪が適用されるなどの、治安当局の弾圧により、一九三八年には、一二号を印刷しながら、発行できず、解散した。名称を改めて再出発を期すが、それも弾圧によって挫折した。発起人の一人で会の中心人物の戸坂潤は、その後、捕らえられ、敗戦前に獄死した。

 唯物論研究会が創立された頃、日本共産党は、一九三二年五月に、コミンテルンが決定した三二年テーゼの二段階革命戦略を採用した。同年、宮上則武、朝鮮人活動家の尹基協がスパイ容疑で射殺される。一九三三年六月には、佐野・鍋山が獄中転向。一二月には、宮本顕治による査問事件が起きる。権力による弾圧が頻繁に加えられたと同時に、党内での疑心暗鬼が高まり、スパイ狩りが頻発した。三五年三月には、獄外で活動していた唯一の中央委員袴田里見の逮捕により、共産党は壊滅した。古在由重は、「そのころは共産党のほうはもうほとんどないのですからね。もしあるとすれば監獄のなかで、昭和一〇年には、民間の地下組織としてはもうほとんどゼロになっていたと思います」(『暗き時代の抵抗者たち 対論 古在由重・丸山真男』 太田哲夫編 同時代社 一〇二頁))と回想している。唯物論研究会は、共産党消滅後、数年間に渡って活動を続けた。

 この当時、ソ連で、それまで主流であったデボーリン主義が批判され、一九二九末に始まったスターリンによる「哲学におけるレーニン的段階」キャンペーンの中で、ミーチン主義が台頭し、それが、唯物論研究会にも持ち込まれてきた。また、ドイツのフランクフルト研究所で研究して帰国後、その議論を持ち込んだ福本和夫の影響、それに、梯明秀、船山信一、戸坂潤など西田幾多郎に学んだ西田左派と呼ばれる人たちの影響もあった。唯物論研究会は、多様な傾向を含んでいたのである。会の外にも、三木清という西田派マルクス主義者として大きな影響力を持つ哲学者がいた。

 加藤正は、「「フォイエルバッハ・テーゼ」第一哲学の解釈」という文書で、このテーゼの解釈をめぐって、ミーチン、福本和夫、三木清、ルカーチ、船山信一、永田広志、山岸辰蔵、などを批判している。戦後、主体性論争の当事者の一人である三浦つとむが、ミーチンを批判しつつも加藤は、ミーチン以上に「哲学におけるレーニン的段階」を賛美していると批判しているように、加藤の引き起こした論争は戦後にも継承されている。戦前のソ連における唯物論と弁証法に関する諸論争、そしてそれに結び付いた唯物論研究会を舞台にした諸論争、あるいは、西田左派も加わった諸論争の中で、このテーゼは、一つの焦点となった。

 第一テーゼを、加藤正の「「フォイエルバッハについて」第一テーゼの一解釈」を主にしながら、見てみよう。

「従来のあらゆる唯物論(フォイエルバッハのそれも含めて)の主要な欠陥は、対象が ―〈つまり現実、感性が〉、ただ客体ないし直観の形式でのみ捉えられ、感性的・人間的な活動、実践として、主体的※に捉えられないことである。それゆえ、活動的側面は〈観念[論的]〉抽象的に、唯物論とは反対に観念論―これはもちろん現実的・感性的な活動そのものを知らない―によって展開[される]。フォイエルバッハが欲するものは 感性的な―思考された客体から現実 的に区別される、客体である。しかし彼は、人間的活動それ自身を対象的活動としては捉えることをしない。だから彼はキリスト教の本質の中で、理論的な態度だけを真に人間的なものとみなし、他方、実践はただ、その汚らしいユダヤ的な現象形態において捉えられ、固定化されることになる。それゆえ、彼は、「革命的」活動、「実践的・批判的」活動の意義を把握しない」(『ドイツ・イデオロギー』 廣松渉訳 岩波文庫 二三一頁)

 ※従来、古在由重訳でも、エンゲルス『フォイエルバッハ論』松村一人訳でも、あるい は加藤正の訳でも、廣松渉訳と同じく、「主体的」と訳しているが、先日、表三郎氏から、ここは「主体として」と訳すべきところだとするお話を聞いた。氏は、自らの訳を、すでに『情況』(二〇〇一年七月号)に一度発表しているが、再度、新訳を公表する予定だという。以後、とくに断りのないテーゼの引用は、表氏の訳である。

 加藤は、第一から第五テーゼまでを並べ、「このテーゼを連絡的に読むと、第一句の対象を主観的に把握するということと、第二句の人間活動そのものを対象的活動として執えるとということとが内容的に同じ意味で言われているのが判る。これはこのテーゼの理解の鍵であり、文脈である。第一句の対象すなわち現実性、感性という言葉を、第二句の現実的感性的活動という言葉に代入すれば、第三句の対象的活動という言葉が誘導できる」(『弁証法の急所』こぶし文庫所収 七三頁 以下頁数のみ)と読んだ上で、「テーゼにおいては感性的人間的活動(実践)としてということが主観的にということと等置されている(第一句)」(七六頁)と述べている。これだと、ここは、「感性的人間的活動として」と同じく、「主体として」とするのが自然である。

 唯物論自体は、エピクロスのそれをはじめ、太古の昔から存在している。それに対して、加藤は、マルクスがテーゼで明らかにした唯物論の新しさは、旧来の唯物論が対象としたのが自然だけだったのに対して、それを、人間実践、すなわち歴史と社会における人間の活動に拡大した点にあると言う。それに対して、船山信一などの「実践の認識主観」論者は、フォイエルバッハを含めた旧来の唯物論が、対象を主体的に捉えなかったのに対して、マルクスがこのテーゼで、対象を主体的に捉える新しい認識方法を言ったと解釈した上で、さらに、彼らは、これを階級の特殊な認識の方法と解釈した。そして、プロレタリア階級やそれを代表する党だけが、対象の真理を認識することが出来ると主張した。加藤は、「主体」に、「実践する認識主観」などという特殊な意味を付与したり、「主体的に」を、認識手法を指しているように解釈したことを批判した。加藤によれば、ミーチンによる「実践的模写説」なるものも、模写に特殊な認識方法の意味を持たせたものである。認識を心的機能・能力とし、認識方法に決定的な重要性を付与するのは、カント主義の特徴であり、現象学派もそれを引き継いでいるが、それが、唯物論に粉飾されて持ち込まれたようである。

 エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』序文で、マルクスが『経済学批判』(一八五九年)の序文で「ドイツの哲学のイデオロギー的見解に対立するわれわれの見解に対立するわれわれの見解(すなわち、主としてマルクスによってつくりあげられた唯物史観)を共同でまとめあげるという仕事、実はわれわれの以前の哲学的良心を清算する仕事」と書いた部分を引用して、それが『ドイツ・イデオロギー』のことを指しており、そこで、マルクスが、唯物史観という新たな歴史観を開示したと述べている。マルクスは、唯物論の感性的人間活動の領域である歴史に対しても、「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える」(二六頁)という『資本論』第一版序文の言葉からうかがえるように、自然研究と同じ態度で臨んでいた。それは、マルクスが、『資本論』第二版後記において、「研究は、素材を細部にわたってわがものとし、素材のいろいろな発展形態を分析し、これらの発展形態の内的な紐帯を探りださなければならない」(大月書店 一分冊 四〇頁)と述べているなど、マルクスが、このテーゼで、従来の唯物論を人間実践領域への拡大したという加藤の解釈が正しいことを示している例は幾つもある。

 加藤は、永田広志の「「吾々が認識主観の社会的歴史的被制約性を云為するのは、認識主観における決定的なものを実践と見倣すからに外ならない。認識主観は先験的でもなければ、歴史の外にうづくまった抽象人でもない。それは社会的歴史的存在であり、かかるものとして階級社会においては階級性党派性を帯びている。理論の党派性は実践の、従って認識主観の党派性の不可避的帰結である」(『唯物論研究』六号二七頁)」(九八~九頁)という主張を、「それは、目前の現実的な対象そのものが、すなわち諸階層の相互関係の下に発展する人類の歴史的実践、およびその成果として生成しつつある全感性世界、全人類の全実践の現実的経験が、認識の基礎となっていないで、未来の生産力の高度な育成の担当者として期待される階層の実践という限定された実践が認識の基礎になっていることを意味する」(九九頁)と批判している。確かに、加藤は、別の論文で、唯物論的認識を階級と結び付けるのが党派の役割だと述べているが、彼の言うとおり、唯物論自体に、階級性・党派性はない。支配階級が、体制擁護のために、宗教や観念論を擁護する立場に立つから、それに対抗する立場が唯物論派として階級性・党派性を持つのである。『ドイツ・イデオロギー』では、プロレタリア(無産者)には、根本的革命への自覚(共産主義的自覚)が現れるが、それはこの階級の立場を洞察できれば他の階級にも形成されると述べており、やはり、唯物論自体に階級性・党派性はないことを示している。支配階級が階級性・党派性を持っている以上、それと根本的に対立する立場は、階級性・党派性を持たざるをえない。そして、この根本的革命の自覚(共産主義的自覚)の大規模な産出と目的の達成のためには、実践的運動、革命が必要だと述べている。つまり、自覚だけではなく、実践的運動、革命がないと、古い身の汚れをぬぐいおとして、新社会の基礎を作る力を身につけられない、感性的人間活動抜きに、理論意識だけでは新たな社会は出来ないと述べている。同じことだが、同書では、また、社会の諸条件ばかりでなく、生活の生産とその基礎にある総体的活動に反逆する革命的大衆の形成という条件なしには、この転覆の思想がいくら述べられても、実践的発展にはつながらないとも述べている。テーゼが、唯物論という場合に、弁証法がすでに入っており、支配階級が、それを本当に理解すれば、自らの没落を洞察することになるから、それはそうそうないことである。

 マルクスは、『資本論』第二版後記において、ドイツのブルジョア経済学が、ドイツ社会の特殊条件によって、フランスやイギリスの経済学の後追いしかできなかったのに対して、ドイツのプロレタリアートは、ドイツ・ブルジョアジーよりもはるかに明確な理論的階級意識をもっていたことを指摘した上で、「ドイツ社会の特有な歴史的発展は、そこでの「ブルジョア」経済学の独創的な育成をすべて排除したのであるが、しかしそれにたいする批判は排除しなかったのである。およそこのような批判が一つの階級を代表するかぎりでは、それは、ただ、資本主義的生産様式の変革と諸階級の最終的廃止とを自分の歴史的使命とする階級―プロレタリアートだけを代表することができるのである」(同前 三四頁)と述べたように、ブルジョア経済学は、ブルジョア階級の学的形態をとった支配的イデオロギーであり、それは、社会諸関係のブルジョアジーの頭への反映や分業によって独立化した専門家による幻想化の成果でもある。それは、ブルジョア社会(市民社会)を代表するのである。したがって、それを根本的に、弁証法的に批判する理論意識は、支配階級=ブルジョアジー(有産者階級)に全面的かつ根本的に対立する反対極にあるプロレタリアート(無産者階級)を代表する外はない。

 加藤は、知識における階級性や党派性を否定しないが、「自然および歴史の経験的科学は、全人類の総実践の歴史的限界によって制約されているとはいえ、それ自身として階級性、党派性の制限を止揚している。何故ならそれは階級や党派をも対象的に現実的規定の下で、全感性世界の歴史的発展の中にあるものとして把握することを知るが故である。階級や党派の意義を観念的に固定化し理念化して、それに実践の、従って、世界の、発展を当て嵌めようなどとはしないからである。真理は、真の知識は、ただ一つしかない―それは実証的経験的な科学である。すなわち唯物論である」(一二一頁)と主張している。では、テーゼが言う批判的活動とは何か。それについて、彼は、「唯物論がもし階級性をもっているとするならば、それは、それ自身の本性によって、人間活動を対象的活動として把握することを知り、実践的批判的活動の意義を領得する点にある。対象的現実の実践的批判においてのみ自己の解放の条件を持つ社会的グループがそれと結びつくからである。実践、対象的活動を、抽象化し観念論化し、実践的批判的活動の意義を認識の問題、ある視角からの評価または解釈の問題に昇華せしめるものが、そしてそれに対応して経験科学的認識を「批判的に」「指導」せんとするものが、当人の意図いかんに拘わらず、事態をどんなところへ導くことになるか、長い目で見ていたいような気がする」(同)と述べている。また、加藤は、「実践的唯物論という表現は二つの側面を含んでいる、すなわち実践の領域(歴史および社会における人間の活動)を唯物論的に経験的に現実に即して認識すること、この認識の指示する条件に従って実際的に現実の上で所与の人間社会を変化すること、これである。実践を主観の熱情として観念的に執えることなく、現実的対象として、対象的活動として、歴史的社会的現実の運動として、執えるもののみが、また現実を変革することを知る」(八二~三頁)と述べている。それは、対象的活動が、矛盾によって運動していることを頭脳に反映するから、「環境の変化と人間的活動あるいは自己変革との合致はただ革命的実践としてだけ把握することができるし、合理的に理解できる」(第三テーゼ)し、「この世俗的基礎そのものもまた、それ自体で、矛盾において理解されなければならないとともに、実践的に革命されなければならない」(第四テーゼ)というように、革命的、実践的・批判的な活動を生む。意志、意欲、目的というのは、矛盾によって生み出される。社会諸関係の集合としての人間というテーゼの規定は、人間は、関係、つまり、矛盾そのものだと言っているのである。『資本論』の中で、素材の生命の観念的反映とか、「ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創始者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これと反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換されて翻訳されたものにほかならない」(同前四〇~一頁)と述べているのもそういうことである。ここで言う観念的なものには、意志や目的、その表象ということが含まれているのである。意志と無関係な認識はないし、この連関をも唯物論は弁証法的に把握しなければならないのである。それは、第六テーゼが、「フォイエルバッハは、宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。実際には、それは社会的諸関係の集合なのである」と述べていることからもわかる。人間の本質は、対象の側、すなわち、意識の外部の対象たる社会的諸関係の側にあるので、いくら諸個人の主観的な抽象的意識を探しても出てこないのである。マルクスは、『資本論』の続く部分で、このような立場では、「個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(同前)と述べているように、最後まで、その態度を貫いている。

 加藤の言うように、弁証法的唯物論は、対象の連関を客観的に把握するものであり、それは自然科学と同じである。エンゲルスが、『自然の弁証法』で、弁証法を連関の科学と呼んでいるのは、連関は、矛盾そのものだから、経験科学への唯物論と弁証法の適用による科学の変革も、対象的実践であり、非唯物論的非弁証法的な科学は唯物論的弁証法的に変える科学領域における批判的実践が必要だということも忘れてはならない。感性的対象活動を対象として弁証法的唯物論によって認識した上は、それを変えることが肝要であることを知るからである。教育者自身が教育されなければならないというのは、そういうことも含めていると考えなければならない。

 マルクスは、市民社会の解剖学たる経済学の批判的研究を続け、『資本論』を書くが、その中で、ブルジョアジーがいかに自らの階級的利害によって、現実を見誤り、自己に都合の良い幻想を生み出し、それに科学的装いをほどこし、衒学的に学問化するかということや、物象が、現実の社会的諸関係から必然的に生み出され、その外観に人々がいかに騙されるかを繰り返し暴露している。例えば、「まさに商品世界のこの完成形態―貨幣形態―こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(同前一四一頁)というようなところである。このような諸形態がブルジョア経済学の諸範疇をなしているので、批判抜きには、対象をしっかり掴めないのである。『資本論』第二版後記で、マルクスは、ドイツで、ヘーゲルがスピノザ同様「死んだ犬」扱いされているのに対して、ヘーゲルの弁証法を擁護した上で、「神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならないのである」(同前四一頁)と述べ、弁証法は、「現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、いっさいの生成した形態を運動の流れのなかでとらえ、したがってまたその過ぎ去る面からとらえ、なにものにも動かされることなく、その本質上批判的であり革命的である」(同前)と書いたが、これは、すでにテーゼの中で、言われていることである。最後に、マルクスは、「資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実際的なブルジョアには、近代産業が通過する周期的恐慌の局面転換のなかで最も痛切に感ぜられるのであって、この局面転換の頂点こそが、一般的恐慌なのである。この一般的恐慌は、まだ前段階にあるとはいえ、再び進行しつつあり、その舞台の全面性によっても、その作用の強さによっても、新しい神聖プロイセン-ドイツ帝国の成り上がり者たちの頭にさえ弁証法をたたきこむであろう」(同前 四二頁)と述べている。ここで、マルクスは、弁証法を、プロレタリアートという階級のみに限定されたものとして扱っていない。多くの人が、素朴な形での弁証法の意識を、例えば、喩えで知っている。ヘーゲルが、『小論理学』の「予備概念」で挙げている例に、「傲れる者は久しからず」や「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」があるように、誰でも弁証法を知り、理解できる(弁証法は、懐疑論のソフィスト論法と区別されないことがあるので、注意して区別する必要があり、ヘーゲルは『小論理学』の「予備概念」でそれをやっているので参照されたい)。恐慌はブルジョアジーの頭に弁証法をたたきこむにしても、かれらは、現存の社会諸関係の中で担っている役割や経済範疇の人格化などの障害物があるので、それを乗り越えて弁証法を理解するのは、通常は困難である。

 第一テーゼは、唯物論の対象が、古い唯物論の対象である自然に加えて、感性的人間活動実践、主体を加えたこと、そして、古い唯物論が、「革命的な」、「実践的・批判的な」活動の意義を概念的に把握しないのに対して、対象をその連関すなわち矛盾として掴む弁証法をもって、それまでの唯物論を変え、新たな唯物論を打ち立てる基本的な基準を示したのである。なお、加藤が引き起こした党派性論争での彼の主張は、一九三二年年一一月五日の唯物論研究会の討論で、公式に否定された。(つづく)

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エチオピア関係資料(3)

エチオピア史の中で、目に付くことの一つは、古くからの紅海を通じた中東・アラブ世界との交流関係の存在である。

アクスム朝は、エジプト、ギリシア、アラブ、インド、と交易し、象牙、金、皮革、奴隷、の取引をした。象牙と引きかえに、銅、鉄、銀細工の宝石、ガラス製品、上質の武器、が交換された。6世紀後半には、ビザンチン帝国と友好関係にあり、ササン朝ペルシアのホスロー1世率いる遠征軍に破れて、エジプトのアレクサンドリア総主教を頂点に頂くコプト教の一派(東方教会の流れを汲む)であるエチオピア正教会(1959年独立教会となる)が多く信仰されているキリスト教徒の多い国である。この伝説は、13世紀のソロモン王朝時代の、「国王頌詠」(ケブラ・ナガストKebra-Nagast)に記されている。エザナ王が、コプト教に改宗したのは、310年代とされる。5世紀には、キリスト教化が進んだ。ユダヤ教徒もけっこういたようだが、1974年の王政廃止後、多くはイスラエルに移住したようである。

伝説どおりなら、紀元前10世紀頃から、3千年の王国の歴史を持つことになる。スピルバーグの映画「レイダース 失われたアーク」で有名な、アーク(聖柩)伝説(モーセがシナイ山で神から直接授かった戒律(モーセの十戒)が刻まれた石を収めたとされる聖なる柩(契約の箱)。エルサレムの神殿に収められていたとされるが、その行方は不明となっているとされている)を持ち、それがアクスムの教会に納めてあるという。そのレプリカを各地の教会に置いて、信仰している。それから、キリスト教の宗教会議(公会議)において、ローマ・カトリックなどから異端とされるキリストの人性と神性は融合しているとする「単性論説」(451年の公会議で異端として排斥された)を取るとされる。また、エチオピア高原が原産地とされるコーヒーは、イエメンのモカという港町に集積され、船積みされたことから、モカが品種名になっているという。エチオピア東南部のオグデン地方は、砂漠地帯で、隣のソマリアと同じソマリ人が遊牧生活をしているが、イスラム教徒が多い。さらに、南部には、人口比では最多のオロモ人、その他、多くの少数民族が居住し、その一部は差別されていたという。

 エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていない時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれたが、帝政時代、支配階級である王族や貴族や軍幹部、高級聖職者は、大地主であり、小作人を使っていたという。1974年に、帝政を打倒し、社会主義宣言をしたメンギスツ臨時軍事行政評議会は、土地の国有化などを掲げてはいたが、実際には、土地改革はあまり実行されなかったようである。それもあってか、農業の近代化は遅れ、生産性が低く、農業が雇用約85%、国民総所得(GNI)の約45%を占めている農業国だが、貧困に陥っている。しかし、「アフリカの青い空」というブログの記事には、05年の選挙の争点に、ゼナウィ政権が進める国有地の民営化反対の野党との対立があったと言う。

  アメリカとの関係を深めるゼナウィ政権が、新自由主義的な民営化、構造改革路線を推進しているのに対する反発や不満というのが、反政府運動にはあるようだが、重要産業は国営化されているようだが、土地についてはどうなっているのか、今のところ、それがわかる資料を見つけていないので、わからない。また、エリトリアの独立を認めたが、国境紛争が発生すると、国内のエリトリア系住民を1998年から99年にかけて、5万2千名、国外追放したと言われる。エチオピア政府は、1992年以降、全国民に民族名を記載した身分証明書を発行した。エリトリア人は、市民権を否定され、財産を没収され、「侵略者」と呼ばれたという。

  2006年12月、イスラム法廷連合(ICU)勢力と対立するソマリア暫定政府を支援し、ソマリアに進駐、米軍と共に、首都モガディシオを空爆した上、市内で、市民を虐殺したと、ヒューマン・ライツ・ウォッチが批判している。2005年の議会選挙では、与党が勝ったが、選挙の不正を告発する野党支持者などの抗議活動を弾圧し、多くの死者、逮捕者を出した(註2)。また、ギンボット7(ginbot7)などの活動家を、暴力的政府転覆の陰謀などの罪状で、逮捕・起訴している。また、エチオピアでは、米軍が、対テロ戦争の過程で、テロ容疑者として治安機関が拘束した人々を、米国に輸送するための中継地を提供し、同国内の施設にかれらを留め置き、そこで、拷問などによる米国治安機関による尋問などを認めているとして、アムネスティ・インターナショナルが、エチオピア政府を非難している(「ケニア/エチオピア/ソマリア アフリカの角:「テロとの戦い」での人びとの違法な移送」(「アムネスティ・インターナショナル」 2007 年 6 月))。先のギンボット7の裁判での検察の求刑内容を見ると、死刑、財産没収があり、また、欠席裁判もやっている。ギンボット7は、現政権を、ethnic regim(民族政治体制)と呼んでいる。

 他方で、『新アフリカ史』(講談社現代新書)では、「浮遊するアイデンティティ」という小見出しの下で、「アフリカにおいても、新たな実験が始まっている。エチオピアでは、単一のネイションを前提としない国家が成立した。1991年に政権の座についた新政府は、徹底した多元主義政策を推進し、93年にはエリトリアの分離独立を円満に承認した(第10章3節参照)。94年に制定された憲法では、各民族に分離独立の権利を(名目的ではなく)保障した。国家は緩やかな統合体となったのである。これは近代市民社会の国家観と決別した、新たな国家形態の実験である。/こうした緩やかで単一でないアイデンティティは、実のところ、アフリカ社会が長年つくりあげてきた社会編成の原理でもある。それは柔軟で多元的なアイデンティティに基づく社会と言ってもよい。たとえばある民族に属する人間が、移住や生活上の便宜によって、別の民族に帰属することは珍しいことではなかった」(同書303頁)と、ゼナウィ政権を評価している。これが、先進国知識人の現実離れした見方であることは、事実が示している。

(註1)「この若き皇帝は、1974年、皇帝の座を追われ死亡するまで、近代的開明君主と封建的大領主という矛盾した二つの側面をあわせもちながら、長期間、独裁的な執政を続けてきたが、そのあいだエチオピアの社会構造は基本的には変わらなかった。それは、皇帝を頂点として、皇帝に任命された州知事、州知事に任命された藩主あるいは郡長官というピラミッド型の構造であった。藩主にはグルドと呼ばれる、各世帯から税金や労働力を調達する権利があり、恣意的に人々から余剰を奪い取った。さらに領主から臣下に与えられた広大な土地では、50~70パーセントという法外な小作料が課せられた。こうした封建的な貢納関係が、のちにエチオピア帝政を自壊させた最大の原因であった」(『新アフリカ史』講談社現代新書301頁)。

(註2)「エチオピアの総選挙その後 エチオピアでは選挙が5月に行われましたが、開票結果の一部で不正があったと野党が指摘し、一部開票結果の発表の先 送りと、一部の選挙区での再投票が行われました。そうこうしている内に、大学生などの若者の不満が爆発し、投石などによるデモがアジスアベバ市内で発生 し、治安当局がこれらの鎮圧を試みた際に死者が出て、少々物騒な感じになっています。政府は野党が企てた暴動だといい、野党は、政府が暴動を起こさせて野党の評判を落とそうとしているなどち主張しあっています。一般の市民は、前政権や戦争の経験もまだ記憶に新しいからか、混乱がこれ以上大きくなって欲しくないなあと、息を潜めて状況を見守っていると言う感じがします。政府と野党の話し合いもあったそうですので、このまま落ち着いていけばよいですが、選挙結果の発表は7月8日まで延期されていますので、その間に何か起こるかもしれません。私の住んでいるアダマは工科大学で少々の騒ぎがあったらしいですが、全体としては静かです。電話が通じにくくなったり、朝晩に停電があったりして、一部の人はこれを政府が意図的に野党の計画的な行動を妨害をしているのだと言っていますが、果たして本当かどうか?」。

先週の火曜日(111日)から、アジスアベバではちょっとした暴動がおき、治安当局の弾圧で死者が40名強出てい ます。5月に行われた総選挙の結果が不正に扱われたとして、野党側の議員が国会に出席しないでいます。与野党間で話し合いが何度か持たれたのですが、選挙結果を合意するには至っていません。こうしたことから、野党側はジェネラルストライキを市民に働きかけたとのことです。投石が行われたために治安当局が発 砲して死傷者が出ました。昨日あたりはだいぶ落ち着いたようですが、地方都市で学生と治安当局の間の衝突があったとのことです。周りの人に話を聞くと、多くは現政権には批判的で5月の総選挙の結果は不正なものだと信じています。何とかしたいとは持っていますが、武力ではなく平和な方法で政治が変わって欲しいと思っている人が多いと思います。他方で、いろいろと問題はあるが現政権は良くやっているし、それに協力せずに問題を起こすのはばかげたことだと考えている人もいます。反政府行動が投石やバスなどへの放火を伴うのはよくないですし、治安当局も、暴動の鎮圧に必要以上の武力を使うケースがあるようで、それも問題です。多くの野党側活動家が逮捕されていますが、野党第一党のリーダー(元人権委員会議長だったそうです)が死亡したとい う噂もあるようです。これが本当だと、反政府感情はさらに高まるのではないでしょうか。私たちのいる地方都市は何事も無く平穏です」。

「エチオピアで5月に行われた選挙は、与野党間で選挙結果に対する意見が食い違い、6月と11月の2度にわたる死傷者を出す市民と治安部隊の対立へと発展しました。多くの野党リーダーやジャーナリストが拘束されたままです。ここに来て、支援国からエチオピア政府の対応が 非民主的とする非難が高まっています。特に、国の一般財政に直接資金を支援している援助国・機関からは援助の再検討(つまり、援助を止める)を行うとの圧力が高まっています。支援国による直接財政支援は国の予算の1割を占めており、これがストップすると、国の開発事業に少なからぬ影響が出ます。エチオピア政府側は特に貧困層へのサービスが影響をこうむるとして、援助のストップはやりすぎと非難しています。直接財政支援をストップしても、そのお金は地方政府や国際機関を通じた支援など、他のルートを通じた支援に切り替えると援助側は話しています。しかし、政府が行う公共サービスが影響を受けるのは確実で、政府への圧力のしわ寄せが貧困層に及ぶことは避けられないでしょう。政治の世界は難しいですね」(ブログ「アフリカの青い空」エチオピアの総選挙その後http://blog.livedoor.jp/chekereni/archives/50275773.html)。

参考:ウィキペディア、外務省ホームページ、『エチオピアの歴史“シェバの女王の国”から“赤い帝国”崩壊まで』岡倉登史 明石書店)、『富の独裁者驕る経済の覇者:飢える民族の反乱』エイミー・ショア 光文社)、『アフリカ現代史Ⅱ』(山川出版)、『アフリカを知る事典』(平凡社)、諸サイト、等々。

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エチオピア関係資料(2)

 エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とシバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(紀元前5世紀~10世紀頃)が、現在のエリトリアにある沿岸の港町アドゥリスを通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀で、このころコプト教を受け入れ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝をしていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。周囲を征服し、首都をエチオピア北部のアクスムに置いた。インドとローマ(後に東ローマ帝国はアクスムに多大な影響を与えた)と主に交易した。象牙・鼈甲・金・エメラルドを輸出し、絹・香辛料・手工業製品を輸入した。また、アフリカで初めて硬貨を作り、使用したとされる。アクスム王国は、10世紀ごろにアガウ族の女首長グディトに滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたザグウェ朝(ca.1137,ca.1150- 1270)に滅ぼされたという説がある。ザグウェ朝は13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。

 イクノ・アムラクは、シェバに都を置き、ソロモン朝(エチオピア帝国)を建てた。ソロモン朝は、イクノ・アムラクの孫であるアムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝と対峙した。しかし、16世紀以降その力は衰え、1679年~1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。これを制したのは、タナ湖北辺の諸侯(ラス)のカッサで、王国を再統一し、テオドロス二世となった。彼は、西洋式の常備軍創設、奴隷制の廃止、税制改革などの近代化政策を進めようとした。しかし、1867年、イギリスのインド兵主体のイギリス軍との「マグダラの戦い」で敗北して、自害した。この時、イギリスと手を組んだティグレの諸侯が、皇帝ヨハネス4世を名乗る。1889年マフディー軍との戦闘で、ヨハネス4世は戦死。ショアの諸侯メネリクが、皇帝メネリク2世となって、国力増強、近代化を図り、南方へ領土を拡大した。彼は、首都アディス・アベバを建設、郵便、銀行制度の導入、鉄道、道路の敷設などを急いだ。それから、軍隊の近代化を進め、ライフル銃、連射機関銃、大砲などの近代的装備を保有した。そして、彼は、イタリアの保護領化の要求を拒否し、1896年第一次エチオピア戦争を、「アドワの戦い」で破り、壊滅させた。その結果、エチオピアの独立が認められた。その娘が女帝として即位し、諸侯で摂政として政権を握ったタファリが、1930年に、ハイレ・セラシエ1世(註1)として即位する。エチオピア帝国は、第二次エチオピア戦争に敗れ、1936年から1941年は、イタリアの植民地(イタリア領東アフリカ)となった。戦後、独立を回復した。1952年にエリトリアと連邦を組み、1962年にはこれを併合した。

 1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および干ばつによる10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。しかし、エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世は、ジャマイカのラスタファリズムなどで世界各地の黒人に大きな希望を与えた(レゲエのボブ・マーレー等)。軍部はアマン・アンドム中将を議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC 議長就任。恐怖独裁政治や粛正により数十万人が殺害されたとされる。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。ティグレ人中心のエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF) のメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領、次いで1995年8月には新憲法が制定されネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは事実上の最高指導者である首相に就任、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。

 1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構(OAU)の停戦提案を受け入れた。7月、国連の安保理はPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定。2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。1973年干魃による飢饉発生(約1万人死亡)。1974年の軍事クーデターによる王政廃止と社会主義国家建設宣言、その後、メンギスツ臨時軍事行政評議会議長による軍政が続き、この間、ソマリアとの戦争や1983-4年の飢餓(約百万人死亡)の拡大等により、多くの難民が発生した。1987年9月には、国民議会を最高機関とする人民民主共和国に移行し、メンギスツ議長は初代大統領となり、1990年3月、社会主義体制の放棄と混合経済の導入を発表したが、国民の支持を回復することは出来なかった。1991年5月、反政府勢力のエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)の軍事攻勢により、メンギスツ政権は崩壊した。

 1991年7月、EPRDFを中核とした暫定政府が樹立され、暫定憲章に従い民族融和と民主化に注力した。一方、北部のエリトリア地方においてはエリトリア人民解放戦線(EPLF)が独自に「臨時政府」を樹立し、EPRDFは「同政府」を承認した。1993年4月に、エリトリア地方の独立に関する住民投票が実施され、99%以上の独立賛成票により、エリトリアは同年5月にエチオピアから独立した。エチオピア連邦民主共和国政府は、第1回国政選挙(連邦下院選挙及び地方議会選挙)より多数政党制を導入し、民主化を促進している。2000年5月、第2回国政選挙、2005年5月、第3回国政選挙が実施され、与党EPRDFが勝利している。次回の国政選挙は2010年に予定されている。連立与党は、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を構成するオロモ人民民主機構(OPDO)、アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主戦線、ティグレ人民解放戦線(TPLF)の4党。その他の主要政党はエチオピア民主連盟、全エチオピア統一党、統一エチオピア民主党メディン党、虹のエチオピア民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合(UDF)など。反政府勢力として、オロモ解放戦線(OLF)など4組織で構成された統一オロモ解放戦線(UOLF)やオガデン民族解放戦線(ONLF)がある。

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エチオピア関係資料(1)

  これは、「難民を支援し連帯する会」の集会に提出した資料です。

 基礎データ

エチオピア連邦民主共和国(Federal Democratic Republic of Ethiopia)は、面積109.7平方キロメートル(日本の約3倍)、人口7,910万人(08年世銀)、人口増加率2.6%(08年世銀)、首都アディスアベバ、オロモ族、アムハラ族、ティグレ族など80以上の民族がいる。公用語は、アムハラ語、憲法上は各州毎に公用語を決めることになっているようである。また、英語教育がなされている。宗教は、エチオピア正教Ethiopian Orthodox Tewahedo Church)、イスラム教など。グレゴリオ暦ではなく、エチオピア独自の暦を持つ(1月1日は、グレゴリオ暦の9月11日)。  象徴的な大統領制で、現在の大統領は、ギルマ・ウォルデギオルギス・ルチャ大統領(GIRMA Wolde-Giorgis Rucha)(2007年10月再任、任期6年、二期目)、現在の首相は、メレス・ゼナウィ(Meles Zenawi)。議会は、二院制(人民代表議会〔下院〕と連邦議会〔上院〕)。軍事力(2008ミリタリーバランス)は、予算330百万米ドル(2007年支出)、総兵力13.8万(陸軍及び空軍)(エリトリア独立に伴い内陸国となったことにより、海軍は廃止。) 経済(単位 米ドル)。主要産業は、農業(コーヒー、メイズ、テフ、ソルガム、大麦等)。GNI(08年:世銀):17,600百万米ドル。一人当たりGNI(2008年:世銀):220米ドル。経済成長率(2008年:世銀)、11.1%、物価上昇率(2008年:世銀)、16.8%。総貿易額(2008年:世銀)は、輸出が1,185百万米ドル、輸入が5,126百万米ドル。主要貿易品目(2008年度:世銀)は、輸出品が、コーヒー、油料種子、チャット、輸入品が、石油製品、穀物・穀類、自動車。主要貿易相手国(2008年度:世銀)は、輸出先が、中国、独、日、スイス、サウジアラビア、ジブチ。輸入先は、サウジアラビア、中国、米、印、伊、独、日。通貨はブル(BIRR)で、為替レート1米ドル=8.80ブル(2008年:IMF。2006/7平均)。主要援助国(2005年 単位:百万ドル)は、米625.1、伊86.9、英75.4、スウェーデン68.3、カナダ64.9、である。

 日本とは、1930年11月修好通商条約締結、1952年6月対日平和条約批准、1955年外交関係回復、1957年12月友好条約、1968年1月貿易協定、1971年11月、日本青年海外協力隊派遣取極、1997年5月、日・エチオピア航空協定発効。経済関係は、日本の対エチオピア貿易の貿易額(2008年)は、輸出が85.78億円、輸入が33.01億円。主要品目は、輸出が、自動車、バス、トラック、輸入が、コーヒー、原皮、加工油脂及びろう。日本からの直接投資は、1951年~1974年に13件計683万1千ドルあったが、1974年以降は実績なしである。在留邦人数192人(2008年12月現在)。」.在日エチオピア人は309名(2007年12月現在)。.日本の援助実績(単位 億円)は、有償資金協力(2006年度まで、E/Nベース)が37.0、無償資金協力(2006年度まで、E/Nベース)が754.52、技術協力実績(2006年度まで、JICAベース)196.882。

 1991年7月、国民会議において新たな外交方針((1)基本原則:主権尊重、内政不干渉、相互利益の促進、(2)旧政権の近隣諸国不安定化政策の停止と善隣外交への転換、(3)二国間合意の遵守)が採択され、自由主義陣営へ移行。

(2)第一回非同盟諸国首脳会議からの非同盟運動加盟国。

(3)アフリカ連合(AU)の前身であるアフリカ統一機構(OAU)の発足に尽力。アフリカ連合本部の所在国であり、AU等を通じた積極的なアフリカ外交を展開。

(4)エリトリアとは同国が1993年にエチオピアから独立して以来緊密な関係を維持していたが、1998年5月、国境画定問題を巡って武力衝突が発生した。2000年6月「休戦合意」が成立、同12月には包括的な「和平合意」が成立しているが、国境画定裁定に関する見解の相違から国境確定(杭打ち)には至っていない。エリトリアとの国交は不正常。

(5)2006年12月、エチオピア軍はソマリア暫定連邦政府の要請を受けてソマリアに進駐したが、2009年1月、撤退を完了している。2008年6月より政府間開発機構(IGAD)の議長国としてソマリア和平等を促進している。


 経済概況

 (1)農業が雇用の約85%、国民総所得(GNI)の約45%を占めている一次産品依存型経済である。主要輸出品はコーヒー、油料種子であり、国際市況や天候に影響を受けやすい環境にある。

 (2)1974年の社会主義革命後、内戦、計画経済による農業生産意欲の後退、旱魃等により経済は極度に疲弊した。

 (3)社会主義政権崩壊後、1991年11月に民間セクター重視、政府管理縮小及び統制撤廃、重点的再建分野策定等を原則とする新経済政策「農業開発主導の産業化政策(ADLI)」を策定し、市場経済への移行を開始した。1995年1月には、「開発、平和及び民主主義のための計画(略称「国家開発5カ年計画」)」を策定し、農業生産性の向上、教育、道路、公衆衛生等を重点分野に据え、以降、実質経済成長率は年平均約6%を達成し、インフレ率は5%以下に抑えられた。しかし、1998年に入り、旱魃による農業生産の落ち込みや、コーヒーの国際価格低迷により、GDP成長率がマイナスに転じた。更には、1998年5月に勃発したエリトリアとの国境紛争もエチオピア経済に打撃を加えた。

 (4)エチオピア政府は紛争後の経済復興に取り組むべく、「第2次国家開発5カ年計画」(2000年)、貧困削減戦略ペーパー(2002年)を策定し、2003年には「エチオピア新食糧安全保障連合」を設立した。2006年5月、「第3次5カ年国家開発計画」となる「貧困削減計画(PASDEP)」が議会で承認され、食糧安全保障及び貧困削減を最優先課題に据えた。

 (5)現在、エチオピアのGNI成長率はアフリカの非産油国としては最高水準にあるが、石油価格や食料価格の高騰によりインフレ率も2桁に達している。また、海外で働くエチオピア人からの海外送金が慢性的な貿易赤字による国際収支の不均衡を是正していたが、世界同時不況による雇用の悪化により海外送金が減少傾向にあり、外貨準備高の減少も深刻な状況にある。(主に外務省データによる)

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読売、「左」と「右」についての記事から思ったこと

 今日の読売新聞では、「左」「右」の動きが伝えられている。

 まずは、「左」で、社民党福島党首が、沖縄の米軍普天間基地の辺野古沖移設を鳩山内閣が決定したら、連立政権を離脱することを示唆したというものである。

 しかし、まだ、岡田外相が述べている普天間の嘉手納統合案についてはどうかということについては述べていない。県内移設自体に反対し、それを連立を参加の条件として示したわけではない。ただし、アメリカは、辺野古移設を今のところ譲るつもりはないようだ。これは、それなりに、鳩山政権への強い圧力となるかもしれない。参議院で単独過半数がない民主党としては、社民党が連立を離れることは、政権基盤を弱めることになる。もし、そうなれば、民主党の中間派的性格(中道性)、あるいは、ボナパルティズム的性格からして、政治性格が、大きく動くかもしれない。

 衆議院での民主党勝利の要因の一つは、明らかに、地方の農民や小経営主、それと都市の小経営主や小商店主、地方都市ブルジョアジー(関西圏など)と「連合」などの組織労働者、それに、新自由主義的構造改革路線によって不安定雇用に追い込まれた若年不安定雇用者などの支持を受けたことにある。小泉が支持基盤としようとした都市中間層も、その路線によって分解して、その上層が細った。そして、今の選挙制度によって、地方に、人口比では都市部よりも厚く議席が配分されているので、小泉が切り捨てようとした地方の自民党支持層が、民主党支持へと鞍替えしたのが大きかった。その他、もろもろである。

 そして、小泉後、保守主義の純化によって、例えば、改憲、教育基本法改悪を狙い、それを半歩だが、進め、政権基盤を固めようとした安倍元首相は、下の記事のような、「真・保守政策研究会」というのを作って、今月2日、都内で総会を開き、永住外国人への地方選挙権付与に反対する決議を採択したように、改憲を狙ったくせに、憲法によって、これを正当化しようとしている。岸元首相は、アメリカのエージェントとして、日米安保改定、そして、安保闘争で政権から引きずり下ろされると、反共親米の民間右翼を育成し、その路線を、運動化し、それで、自民党内の岸系の派閥の支援をした。つまり、親米反共右翼の多くは、アメリカからの金で岸やその仲間が育成したのであり、それらは、自民党内親米保守派を支援する民間運動であり、別働隊なのである。もちろん、それとは異なる右翼・保守主義もいろいろあるが、戦後右翼の大きい潮流は、自民党岸系保守派の民間運動としてあるのだ。

 しかし、それは、冷戦体制を前提として、その枠組みの中でこそ、存在意義があったので、ベルリンの壁が崩壊して、すでに20年以上が経った現在では、明らかに、時代にマッチしていない。そして、そうした政治基盤が、ついに、森政権以来、10年近く続いた岸派の流れを汲む森派政権が終わって、弱体化した。衆議院選挙の結果、町村派(旧森派)は、第二派閥に後退した。他方で、新たな民間右翼として、ファシズム的な性格を持つ「在日特権を許さない市民の会」が登場し、市民運動スタイルで街頭デモなどを行っている。それにぴったりと合わせるように、自民党・保守系無所属議員の「真・保守政策研究会」は、永住外国人の地方参政権付与反対を決議したのである。そして、それを地方議員にも広めていくことを決定したという。したがって、これから、地方議会を舞台に、反対決議をあげるなどの動き、そして、それを支持する自民党員や自民党支持者の運動が組織されることになるだろう。それを、民主党などの連立与党との対決政策として、自民党の巻き返しのテコとしていくというのだろう。

 他方で、オバマ政権は、アフガニスタンに、2万1千名の増派などの新アフガン戦略を発表し、読売の社説がそれを評している。それによると、オバマ大統領は、アメリカ国内に蔓延する厭戦気分を一掃し、ふたたび、戦意高揚を図ろうとしている。それに対して、社説は、アフガンの各部族と連携し、かれら自身による治安維持を援助し、日本は、民生支援やインド洋での給油活動などで貢献するが必要だと主張している。しかし、クラウゼヴィッツや孫子を引くまでもなく、戦争は、政治の延長であって、よき統治・よき政治がなければ、収まりようがない。アフガニスタンにとって、よき政治とはどういうものか、それがないと、いくら外から軍隊を送り込んでも、収拾することは出来ないのである。

 クラウゼヴィッツは、戦争を意志の押し付け合いというふうに述べていて、意志ということを強調しすぎて、それは、孫子が、戦争は、最後の最後の手段であるとしている(註1)のとはずいぶん違うが、それでも、戦争が政治問題だと述べた点では両者は一致している。それと、儒教のように、聖人君子、徳ある統治者としての理想像を描き、そういう聖人の人徳が、統治の安定を導くとする政治論もあり、それからする戦争論もある。いずれにしても、政治ということが、戦争問題の基本であり、それは、さらに、経済と結びついているわけである。政治は、経済を土台としているからだ。オバマの来日時の演説を聞く限り、明らかに、オバマは、アメリカ経済の危機を脱するために、生産の復興(これは、大統領就任演説でも生産性の強調ということで、すでに言われていたことである)、輸出産業の育成、その輸出先としての中国などの新興市場の拡大、世界市場の拡大、等々が必要であり、そのために、例えば、紅海の安全の確保、ソマリア沖の海賊退治のためのソマリアへの介入、非資本主義世界の資本主義化をねらった「中東民主化」なる構想を掲げたイラク戦争、アフガン戦争、資源確保のためのアフリカへの介入、等々を行っている。

 そして、読売のもう一つの社説で取り上げている、元外務省条約局長の、沖縄核密約の存在の暴露問題に明らかなように、アメリカも日本も、表の外交約束とは別に密約を結びながら、世界戦略、外交戦略を進めていることも明らかになった。アメリカは、日本だけではなく、他の世界の国々と、いろいろな秘密条約を結んでいるに違いない。ロシア革命の際に、レーニンたちロシア社会民主労働党ボリシェビキ派は、それまでの政府が結んでいた秘密条約の公開を掲げ、実際にそれを実行した。メンシェビキが参加したケレンスキー政府は、秘密条約を守り続けたし、ドイツとの戦争も継続した。アフガニスタンで米軍が苦戦し、現地参謀総長が、増派がなければ1年以内に敗北するだろうと悲観的な見通しを漏らさざるを得なかったのは、アメリカの多くの人々が、この戦争の正当性に疑いを持ち、それから、兵士が戦争目的について確信を失って戦意を喪失しているからだろう。

 戦争は、政治の延長である。つまり、戦争は、武器の善し悪しや戦闘員の数の多寡、その他の技術的要因の優劣だけで決まるものではなく、政治、つまりは、意志の状態を含む要素、将(将軍)の資質(孫子もクラウゼヴィッツも、将について詳しく検討している)、兵の状態、それから、クラウゼヴィッツは、心理的要素を重視しすぎるくらい、重視しているが、そいう「人間的」要素、ただし、それは、社会の状態、社会諸関係、実践=主体、等の要素を含んでいる。それに、地形などの自然的要素が合わさっているのである。

 「アフリカの東の角」にあるエリトリア、ソマリアは、分裂国家となっている。この地域は、紅海という狭い海を挟んで、イエメンなどのアラビア半島南部と近く、歴史的にも、中東、アラブ世界と関係の深い地域である。エリトリアは、二つの地域が独立状態にあり、それは、北部の旧イギリス植民地地域と南部の旧イタリア植民地地域という植民地支配の影が色濃いかたちでの独立である。ソマリアには、イスラム教徒が多く、一時、イスラム法廷というイスラムの聖職者が政治を行うという、イラン革命後のイスラム政権のようなかたちの政治が取られたこともある。アメリカの軍事援助を受ける隣国エチオピアが軍事介入し、それをアメリカが後押しして、軍事介入したこともある。しかし、米兵が殺害され、死体が路上を引きずられる姿が世界に放映されたことを記憶しておられる方もいると思うが、クリントン政権は、この地から、アメリカ兵を撤退させた。自・公政権は、ソマリア沖の海賊退治のために、自衛隊を送るということを云々したことがあったが、世界最貧国が並ぶこの地域で、国家の体をなさない流動状態にあって、氏族や部族が連合したり、分散したり、闘い合っているこの地域で、国土防衛という自衛の任務を基本にしてきた自衛隊が、一体、どうすることが出来るというのだろうか。海賊を多く出していると言われるエリトリアでは、海賊による収入は、国家予算をはるかに上回るほど巨額だという。漁業を主に生業にする氏族・部族が、紅海での漁が、海外から押し寄せる漁船による乱獲で漁獲量が減って、収入源にならなくなったことから、海賊業に転じていったとする説もある。エリトリア難民も、数百万という単位で、海外や国内難民となっている。

 国連中心主義者小沢民主党は、こうした問題を含む世界とどう向き合うのか、曲がりなりも与党という立場になった社民党はどうするのか。しかし、この世界的な不況が、日本経済を襲っている中では、どうしても内向きのベクトルの力が強く働くだろうし、それはそれで大変な問題であるから、そっちが優先ということになるのだろうか。しかし、世界市場の拡大が、この世界不況からの脱出のために是非とも必要なことだとしたら、地中海とインド洋を結ぶ、スエズ運河-紅海の航路の安全確保は、利害を共にする国々にとって重要事であり、公共事である。それをどうするのか。

 しかし、これだけの技術水準があり、生産能力があるにも関わらず、貧困問題が大発生するというのは、どう考えても、おかしな話で、世界的にも、ソマリアのような貧困国がいつまでもなくならないというのは、現在の経済システムがおかしいとしか思えないわけである。連立政権は、そんな根本的なところにはまったく触れず、手をつけないで、どうやって、これらの諸問題に対応していくのだろうか。

 当面、普天間基地の撤去は、96年以来の日米の合意した課題だから、決着をつけてもらうということ、それから、貧困化問題の解決、雇用の問題、等々で実績を上げてもらいたいということはある。それから、いろいろとあるが、とにかく、一つでも前進させることだ。

 (註1)
 孫子曰わく、
 兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。
(戦争は国家にとって一大事である。生きるか死ぬかの地、存亡がかかる道を、よく見極めなければならない)

 百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり
(百戦して百勝するのは、最善ではない。戦わないで、戦を制するのが、最善である)

福島党首、「普天間」現行案なら連立離脱示唆

 社民党党首の福島消費者相は3日午前の党常任幹事会で、沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題について、「(現行計画の名護市)辺野古沖に海上基地を造らせないことは極めて重要だ。社民党の根幹にかかわる。もし辺野古沿岸部に海上基地を造る、とこの内閣が決定した場合、社民党としても私としても、重大な決意をしなければならない」と述べ、移設問題が現行案で決着した場合には、連立政権から離脱する考えを示唆した。

 社民党内では、4日告示の党首選で4選を目指す福島氏に対し、対抗馬擁立の動きがある。福島氏の発言は、基地問題で譲歩しない姿勢を強調することで、党内の福島氏への批判を封じる狙いと見られる。移設問題の行方次第で、同党の連立離脱が現実味を帯びることになった。
(2009年12月3日、読売新聞)

 

永住外国人の選挙権、真・保守政策研が反対決議

 自民党や無所属議員らで作る「真・保守政策研究会」(会長・安倍晋三元首相)は2日、都内で総会を開き、永住外国人への地方選挙権付与に反対する決議を採択した。

 決議では、地方選挙権付与について、「憲法違反の可能性が極めて大きい」と指摘。会として、地方議員らにも反対の動きを広げる方針を確認した。

 同会の衛藤晟一幹事長は同日、大島幹事長に党として、反対するよう申し入れた。
(2009年12月2日 読売新聞)

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田中さん、コメントありがとう

  田中さん。コメントありがとう。

 路地の出口で、えらく感情的になって、「ここは住宅地です。静かにしなさい!」と怒鳴っているおばさんがいて、「なんだろう」とぶら下げていたネームプレートを見たけど、あのごついおばさん、自公の人というより、四谷ひろばの職員さんだよ。
 最初は、四谷ひろばの出入り口で、「右に寄って!」と指示していたから、デモ関係の、女猛者活動家かと勘違いしていたので、路地で変だなあと思ったわけ。

 なるほど、あの人は、四谷ひろばの職員さんでしたか。確かに、デモ出発前、小学校の敷地内なのに、「右によれ」とか、ものすごい剣幕で指示したので、最初は、主催者側の人がナーバスになってるのか、もしかしたら、車が入ってくるのかと思って、右に寄ったんだけど、そのおばさんが、路地を出るあたりまで、ずっとついてきたので、近所の人かと思った。

 あのおばさん以外に、道ばたで、がなりたててるおじさんなどもいて、そういう人らと合わせて、なにか政治的に特別の考えのある人たちじゃないかと思ったわけです。

 その昔、多摩川河川敷で、全大統領来日阻止学生闘争というのを、首都圏実行委と関西実行委の赤ヘル系ノンセクトと黒ヘル系のノンセクトの混合部隊でやった時には、河川敷での集会後に、土手を下りたところから、閑静な住宅街を通ったけど、誰一人、道に出て来なかったし、長年、沿道からのリアクションや視線を強く感じるようなデモなど、あまり経験しておらず、シカトされ、無視されてる感覚に慣れてるので、こういうふうに、なんでもいいから、反応があるということ自体、なんだか不思議です。でも、シカトよりは、いいことだと思う。

 ちなみに、僕は、全大統領来日阻止闘争の時の関西部隊のサブ指揮をやっていましたが、河川敷の土手を下りて、デモを始めたとたんに、三方を機動隊に囲まれ、押されて、そのまま、歩道に押し上げられた。機動隊の壁に囲まれて、沿道と遮断されてしまう。だから、沿道から飛び入りがあるデモなんて、夢のような話で、ブラボー 素晴らしいの一言です。

 

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