フォイエルバッハ・テーゼをめぐって
かつて、フランスの哲学者アルチュセールが、フォイエルバッハ・テーゼを、一八四四年の『経済学・哲学草稿』から、一八四六年の『ドイツ・イデオロギー』の間のヒューマニズムからの「認識論的断絶」、「一つの切断の「前方の端」として提示し」(バリバール)たことが議論を呼び起こしたことがある。それが、スターリン主義に対して、初期マルクス、主に『経済学・哲学草稿』におけるヒューマニズムを対置してきた反スターリン主義的マルクス主義者たちの猛反発を受けたのである。それから、日本では、廣松渉氏が、第六テーゼの「人間的本質は社会的諸関係の集合である」というところを、疎外論から物象化論へという人間観・社会観のパラダイム・チェンジを示すものと位置付けたことが、初期マルクス派、疎外論派との論争を引き起こしたことがある。
また、 日本では、戦前に、和辻哲郎が『人間の学としての倫理学』で、そして三木清が『人間学のマルクス的形態』で、このテーゼを論じている。また、唯物論研究会で、加藤が引き起こした党派性論争の焦点となったことがある。戦後には、三浦つとむ、そして、戦後主体性論者の中心人物で和辻哲郎に学んだ梅本克巳が『唯物論と人間』で論じている。アルチュセールと協働したエチエンヌ・バリバールは、テーゼ全体を「一連のアフォリズム」(『マルクスの哲学』 法政大学出版会 二二頁)と呼び、また、第一一テーゼについては、ハンナ・アーレントが、「フォイエルバッハ・テーゼは、哲学者が世界を解釈したからこそ、またその後だからこそ、世界を変える時代が到来したのだと、明快に述べている」(『政治の約束』 筑摩書房 一〇六頁)との解釈を示し、あるいは、廣松渉氏の『マルクスの根本意想は何か』(情況出版)のあとがきで、的場政弘氏は、「世界を変えるということは、これまでの哲学をそのまま現実社会に応用することで解決することなのか、それとも現実を変革する新しい哲学を創始することなのか、それが今ひとつ不分明である」と疑問を呈している。このように、メモにすぎないこの短いテーゼをめぐって様々な議論がある。それだけ、テーゼが重要なことを述べているということである。
一体、唯物論とは何であり、それにマルクスがこのテーゼで古い唯物論をどのように変化させたのかを確かめることは、現代資本主義や現代社会をしっかりと理解するのに必要である。それは、例えば、物象による現実的社会諸関係の転倒や学問的形態をもまとっている支配的イデオロギーからの解放につながる。例えば、計量経済学の最初に出てくる収穫逓増の法則に示されているような功利主義的人間観念・イデオロギーからの解放の武器となる。人は功利主義者として生まれてくるわけではなく、現存の歴史的な社会諸関係によってそうならざるを得なくなっているのである。それも、四六時中、損得勘定をして、生き、生活しているわけではない。功利主義的価値観・人間像は、現実の一側面を現象として固定化して作り上げられたもので、唯物論の対象として見れば、そんなことはけっしてないことがわかる。功利主義は、教育・啓蒙・宣伝・経験などによって、人々の頭に擦り込まれるのである。また、テーゼは、宗教や観念論の重苦しい空気からの解放につながる。近年、心霊科学などの科学の形態を被せた宗教イデオロギーや詐欺が横行しているが、テーゼの唯物論は、それを見抜く武器を与える。それは、このテーゼを見ていけばわかる。
フォイエルバッハ・テーゼの成立事情と背景
マルクスが亡くなってから五年後の一八八八年二月二一日付で書かれた『フォイエルバッハ論』の序文で、エンゲルスは、『新時代』(ノイエ・ツァイト)の一八八六年の第四号、第五号に掲載されたシュタルケの本の批評を単行本にする際に、一八四五年から四六年にかけて、マルクスとの共同作業で書かれた一連のノートを読み直したと書いている。それは、『ドイツ・イデオロギー』と題して出版するための準備ノートであった。エンゲルスは、それが、フォイエルバッハについての章が未完であること、出来上がっているのは唯物史観の叙述であり、それは経済史についての当時の二人の知識の不完全さを示すものであること、そして、フォイエルバッハそのものの批判が欠けていると述べている。彼は、読マルクスのノート類の中に、フォイエルバッハに関する一一のテーゼを発見したと述べている。彼は、それを、「新しい世界観の天才的な萌芽が記録されている最初の文書としてはかりしれぬほど貴重なものである」(『フォイエルバッハ論』岩波文庫 一一頁)として、同書の付録に付けた。
マルクスが、このテーゼを書いたのは、フランス内務相による国外処分決定によって、パリから移ったブリュッセル時代である。マルクスとエンゲルスは、すでに、パリで関係ができはじめていた「義人同盟」と交流を深め、ヘーゲル左派のヘスも加えて「共産主義者通信委員会」を結成し、労働者の組織化に取り組むようになる。その後、マルクスとエンゲルスは、哲学的なものはほとんど書いていない。このテーゼは、パリで、『独仏年誌』がブルジョア急進主義者と言われるルーゲとの確執から破綻してから、ドイツ哲学の世界から経済学、歴史、政治・社会運動、ジャーナリズムへと移行していった転換点を示すものである。その後、マルクス・エンゲルスは、一八四七年六月、イギリスのロンドンでの「共産主義者同盟」の創設に参加する。翌年一月には、『共産党宣言』を刊行した。その直後、一八四八年革命が勃発し、マルクスは、ドイツに移り、『新ライン新聞』を創刊して、この革命の推進翼を担った。研究の中心は、市民社会の解剖学としての経済学に移っていった。しかし、マルクスは、経済学の研究の最中も、ヘーゲルを繰り返し読んでいる。マルクスが、ヘーゲルから主に学んでいたのは、弁証法である。
フォイエルバッハは、ヘーゲル左派の中では、ヘーゲルの革命的側面を発展させようとした点で、抜きんでた存在だったし、唯物論者だった。マルクスは、プロイセン政府による「ライン新聞」に書いた記事への検閲と弾圧から逃れ、パリで、『独仏年誌』を発行する計画を立てた時、フォイエルバッハにも参加を呼びかけたが、彼は参加しなかった。彼は、教職を追われた後、田舎に籠もり、隠遁生活を続け、観照的な生活を送るが、晩年には、ドイツ社会民主労働党に加入し、マルクスの『資本論』を勉強している。エンゲルスは、同序文で、フォイエルバッハを、ヘーゲルとマルクスの中間に置き、本文中ではヘーゲルの革命的側面からさえも後退していると述べている。エンゲルスは、同書で、ヘーゲル哲学を、人間の思考と行為の全産物が、常に過程としてあり、究極的なものはないということを明らかにしたという点で、革命的性格を持っていたと評価している。
パリ時代、ブルジョア急進主義者ルーゲとの決別後、エンゲルスの共同が本格化する中で、マルクスが書いた『経済学・哲学草稿』では、フォイエルバッハは高く評価されている。しかし、ブリュッセルでのエンゲルスとの『ドイツ・イデオロギー』の共同作業では、フォイエルバッハはドイツ哲学ヘーゲル左派の代表的イデオローグとして批判されているが、『ドイツ・イデオロギー』自体は、フォイエルバッハそのものの批判ではなかった。マルクス自身は、これを、「ドイツ・イデオロギー(フォイエルバッハ、B・バウアーおよびシュティルナーを代表たちとする最近のドイツ哲学の、そして種々の予言者たちにあらわれたドイツ社会主義の批判)についての著作」と呼んでいる。すなわち、フォイエルバッハは、ここでは、当時のドイツ哲学とドイツ社会主義の代表的イデオローグの一人としてあげられているだけである。それに対して、エンゲルスは唯物史観を対置したと述べている。彼は、このテーゼは、その新しい唯物論の萌芽を示していると言うのである。その新しさはどこにあるのか。それを、まず、加藤正の論考を手がかりに探りたい。
テーゼの何が新しいのか―加藤正「「フォイエルバッハ・テーゼ」第一哲学の解釈」をめぐって
加藤正が、一九三二年二月五日の唯物論研究で提起し、唯物論研究会の中で引き起こした党派性論争の中に、「フォイエルバッハ・テーゼ」をめぐる議論があった。
唯物論研究会は、一九三二年一〇月に、長谷川如是閑らを発起人として創設された。その他、岡邦雄、梯明秀、古在由重、戸坂潤、永田広志、服部之総、森宏一などがいた。唯物論研究会は、治安維持法の弾圧を避けるため、広く唯物論の研究をテーマとしていたため、マルクス主義者ではない人も入っていた。エッセイストとして知られる寺田寅彦も一時関わっていたという。唯物論研究会は、一九三七年「人民戦線事件」後のいわゆる「唯研事件」で主要執筆陣に執筆禁止令が出され、さらに、会自体、治安維持法第一条第一項後段の未遂罪が適用されるなどの、治安当局の弾圧により、一九三八年には、一二号を印刷しながら、発行できず、解散した。名称を改めて再出発を期すが、それも弾圧によって挫折した。発起人の一人で会の中心人物の戸坂潤は、その後、捕らえられ、敗戦前に獄死した。
唯物論研究会が創立された頃、日本共産党は、一九三二年五月に、コミンテルンが決定した三二年テーゼの二段階革命戦略を採用した。同年、宮上則武、朝鮮人活動家の尹基協がスパイ容疑で射殺される。一九三三年六月には、佐野・鍋山が獄中転向。一二月には、宮本顕治による査問事件が起きる。権力による弾圧が頻繁に加えられたと同時に、党内での疑心暗鬼が高まり、スパイ狩りが頻発した。三五年三月には、獄外で活動していた唯一の中央委員袴田里見の逮捕により、共産党は壊滅した。古在由重は、「そのころは共産党のほうはもうほとんどないのですからね。もしあるとすれば監獄のなかで、昭和一〇年には、民間の地下組織としてはもうほとんどゼロになっていたと思います」(『暗き時代の抵抗者たち 対論 古在由重・丸山真男』 太田哲夫編 同時代社 一〇二頁))と回想している。唯物論研究会は、共産党消滅後、数年間に渡って活動を続けた。
この当時、ソ連で、それまで主流であったデボーリン主義が批判され、一九二九末に始まったスターリンによる「哲学におけるレーニン的段階」キャンペーンの中で、ミーチン主義が台頭し、それが、唯物論研究会にも持ち込まれてきた。また、ドイツのフランクフルト研究所で研究して帰国後、その議論を持ち込んだ福本和夫の影響、それに、梯明秀、船山信一、戸坂潤など西田幾多郎に学んだ西田左派と呼ばれる人たちの影響もあった。唯物論研究会は、多様な傾向を含んでいたのである。会の外にも、三木清という西田派マルクス主義者として大きな影響力を持つ哲学者がいた。
加藤正は、「「フォイエルバッハ・テーゼ」第一哲学の解釈」という文書で、このテーゼの解釈をめぐって、ミーチン、福本和夫、三木清、ルカーチ、船山信一、永田広志、山岸辰蔵、などを批判している。戦後、主体性論争の当事者の一人である三浦つとむが、ミーチンを批判しつつも加藤は、ミーチン以上に「哲学におけるレーニン的段階」を賛美していると批判しているように、加藤の引き起こした論争は戦後にも継承されている。戦前のソ連における唯物論と弁証法に関する諸論争、そしてそれに結び付いた唯物論研究会を舞台にした諸論争、あるいは、西田左派も加わった諸論争の中で、このテーゼは、一つの焦点となった。
第一テーゼを、加藤正の「「フォイエルバッハについて」第一テーゼの一解釈」を主にしながら、見てみよう。
「従来のあらゆる唯物論(フォイエルバッハのそれも含めて)の主要な欠陥は、対象が ―〈つまり現実、感性が〉、ただ客体ないし直観の形式でのみ捉えられ、感性的・人間的な活動、実践として、主体的※に捉えられないことである。それゆえ、活動的側面は〈観念[論的]〉抽象的に、唯物論とは反対に観念論―これはもちろん現実的・感性的な活動そのものを知らない―によって展開[される]。フォイエルバッハが欲するものは 感性的な―思考された客体から現実 的に区別される、客体である。しかし彼は、人間的活動それ自身を対象的活動としては捉えることをしない。だから彼はキリスト教の本質の中で、理論的な態度だけを真に人間的なものとみなし、他方、実践はただ、その汚らしいユダヤ的な現象形態において捉えられ、固定化されることになる。それゆえ、彼は、「革命的」活動、「実践的・批判的」活動の意義を把握しない」(『ドイツ・イデオロギー』 廣松渉訳 岩波文庫 二三一頁)
※従来、古在由重訳でも、エンゲルス『フォイエルバッハ論』松村一人訳でも、あるい は加藤正の訳でも、廣松渉訳と同じく、「主体的」と訳しているが、先日、表三郎氏から、ここは「主体として」と訳すべきところだとするお話を聞いた。氏は、自らの訳を、すでに『情況』(二〇〇一年七月号)に一度発表しているが、再度、新訳を公表する予定だという。以後、とくに断りのないテーゼの引用は、表氏の訳である。
加藤は、第一から第五テーゼまでを並べ、「このテーゼを連絡的に読むと、第一句の対象を主観的に把握するということと、第二句の人間活動そのものを対象的活動として執えるとということとが内容的に同じ意味で言われているのが判る。これはこのテーゼの理解の鍵であり、文脈である。第一句の対象すなわち現実性、感性という言葉を、第二句の現実的感性的活動という言葉に代入すれば、第三句の対象的活動という言葉が誘導できる」(『弁証法の急所』こぶし文庫所収 七三頁 以下頁数のみ)と読んだ上で、「テーゼにおいては感性的人間的活動(実践)としてということが主観的にということと等置されている(第一句)」(七六頁)と述べている。これだと、ここは、「感性的人間的活動として」と同じく、「主体として」とするのが自然である。
唯物論自体は、エピクロスのそれをはじめ、太古の昔から存在している。それに対して、加藤は、マルクスがテーゼで明らかにした唯物論の新しさは、旧来の唯物論が対象としたのが自然だけだったのに対して、それを、人間実践、すなわち歴史と社会における人間の活動に拡大した点にあると言う。それに対して、船山信一などの「実践の認識主観」論者は、フォイエルバッハを含めた旧来の唯物論が、対象を主体的に捉えなかったのに対して、マルクスがこのテーゼで、対象を主体的に捉える新しい認識方法を言ったと解釈した上で、さらに、彼らは、これを階級の特殊な認識の方法と解釈した。そして、プロレタリア階級やそれを代表する党だけが、対象の真理を認識することが出来ると主張した。加藤は、「主体」に、「実践する認識主観」などという特殊な意味を付与したり、「主体的に」を、認識手法を指しているように解釈したことを批判した。加藤によれば、ミーチンによる「実践的模写説」なるものも、模写に特殊な認識方法の意味を持たせたものである。認識を心的機能・能力とし、認識方法に決定的な重要性を付与するのは、カント主義の特徴であり、現象学派もそれを引き継いでいるが、それが、唯物論に粉飾されて持ち込まれたようである。
エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』序文で、マルクスが『経済学批判』(一八五九年)の序文で「ドイツの哲学のイデオロギー的見解に対立するわれわれの見解に対立するわれわれの見解(すなわち、主としてマルクスによってつくりあげられた唯物史観)を共同でまとめあげるという仕事、実はわれわれの以前の哲学的良心を清算する仕事」と書いた部分を引用して、それが『ドイツ・イデオロギー』のことを指しており、そこで、マルクスが、唯物史観という新たな歴史観を開示したと述べている。マルクスは、唯物論の感性的人間活動の領域である歴史に対しても、「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える」(二六頁)という『資本論』第一版序文の言葉からうかがえるように、自然研究と同じ態度で臨んでいた。それは、マルクスが、『資本論』第二版後記において、「研究は、素材を細部にわたってわがものとし、素材のいろいろな発展形態を分析し、これらの発展形態の内的な紐帯を探りださなければならない」(大月書店 一分冊 四〇頁)と述べているなど、マルクスが、このテーゼで、従来の唯物論を人間実践領域への拡大したという加藤の解釈が正しいことを示している例は幾つもある。
加藤は、永田広志の「「吾々が認識主観の社会的歴史的被制約性を云為するのは、認識主観における決定的なものを実践と見倣すからに外ならない。認識主観は先験的でもなければ、歴史の外にうづくまった抽象人でもない。それは社会的歴史的存在であり、かかるものとして階級社会においては階級性党派性を帯びている。理論の党派性は実践の、従って認識主観の党派性の不可避的帰結である」(『唯物論研究』六号二七頁)」(九八~九頁)という主張を、「それは、目前の現実的な対象そのものが、すなわち諸階層の相互関係の下に発展する人類の歴史的実践、およびその成果として生成しつつある全感性世界、全人類の全実践の現実的経験が、認識の基礎となっていないで、未来の生産力の高度な育成の担当者として期待される階層の実践という限定された実践が認識の基礎になっていることを意味する」(九九頁)と批判している。確かに、加藤は、別の論文で、唯物論的認識を階級と結び付けるのが党派の役割だと述べているが、彼の言うとおり、唯物論自体に、階級性・党派性はない。支配階級が、体制擁護のために、宗教や観念論を擁護する立場に立つから、それに対抗する立場が唯物論派として階級性・党派性を持つのである。『ドイツ・イデオロギー』では、プロレタリア(無産者)には、根本的革命への自覚(共産主義的自覚)が現れるが、それはこの階級の立場を洞察できれば他の階級にも形成されると述べており、やはり、唯物論自体に階級性・党派性はないことを示している。支配階級が階級性・党派性を持っている以上、それと根本的に対立する立場は、階級性・党派性を持たざるをえない。そして、この根本的革命の自覚(共産主義的自覚)の大規模な産出と目的の達成のためには、実践的運動、革命が必要だと述べている。つまり、自覚だけではなく、実践的運動、革命がないと、古い身の汚れをぬぐいおとして、新社会の基礎を作る力を身につけられない、感性的人間活動抜きに、理論意識だけでは新たな社会は出来ないと述べている。同じことだが、同書では、また、社会の諸条件ばかりでなく、生活の生産とその基礎にある総体的活動に反逆する革命的大衆の形成という条件なしには、この転覆の思想がいくら述べられても、実践的発展にはつながらないとも述べている。テーゼが、唯物論という場合に、弁証法がすでに入っており、支配階級が、それを本当に理解すれば、自らの没落を洞察することになるから、それはそうそうないことである。
マルクスは、『資本論』第二版後記において、ドイツのブルジョア経済学が、ドイツ社会の特殊条件によって、フランスやイギリスの経済学の後追いしかできなかったのに対して、ドイツのプロレタリアートは、ドイツ・ブルジョアジーよりもはるかに明確な理論的階級意識をもっていたことを指摘した上で、「ドイツ社会の特有な歴史的発展は、そこでの「ブルジョア」経済学の独創的な育成をすべて排除したのであるが、しかしそれにたいする批判は排除しなかったのである。およそこのような批判が一つの階級を代表するかぎりでは、それは、ただ、資本主義的生産様式の変革と諸階級の最終的廃止とを自分の歴史的使命とする階級―プロレタリアートだけを代表することができるのである」(同前 三四頁)と述べたように、ブルジョア経済学は、ブルジョア階級の学的形態をとった支配的イデオロギーであり、それは、社会諸関係のブルジョアジーの頭への反映や分業によって独立化した専門家による幻想化の成果でもある。それは、ブルジョア社会(市民社会)を代表するのである。したがって、それを根本的に、弁証法的に批判する理論意識は、支配階級=ブルジョアジー(有産者階級)に全面的かつ根本的に対立する反対極にあるプロレタリアート(無産者階級)を代表する外はない。
加藤は、知識における階級性や党派性を否定しないが、「自然および歴史の経験的科学は、全人類の総実践の歴史的限界によって制約されているとはいえ、それ自身として階級性、党派性の制限を止揚している。何故ならそれは階級や党派をも対象的に現実的規定の下で、全感性世界の歴史的発展の中にあるものとして把握することを知るが故である。階級や党派の意義を観念的に固定化し理念化して、それに実践の、従って、世界の、発展を当て嵌めようなどとはしないからである。真理は、真の知識は、ただ一つしかない―それは実証的経験的な科学である。すなわち唯物論である」(一二一頁)と主張している。では、テーゼが言う批判的活動とは何か。それについて、彼は、「唯物論がもし階級性をもっているとするならば、それは、それ自身の本性によって、人間活動を対象的活動として把握することを知り、実践的批判的活動の意義を領得する点にある。対象的現実の実践的批判においてのみ自己の解放の条件を持つ社会的グループがそれと結びつくからである。実践、対象的活動を、抽象化し観念論化し、実践的批判的活動の意義を認識の問題、ある視角からの評価または解釈の問題に昇華せしめるものが、そしてそれに対応して経験科学的認識を「批判的に」「指導」せんとするものが、当人の意図いかんに拘わらず、事態をどんなところへ導くことになるか、長い目で見ていたいような気がする」(同)と述べている。また、加藤は、「実践的唯物論という表現は二つの側面を含んでいる、すなわち実践の領域(歴史および社会における人間の活動)を唯物論的に経験的に現実に即して認識すること、この認識の指示する条件に従って実際的に現実の上で所与の人間社会を変化すること、これである。実践を主観の熱情として観念的に執えることなく、現実的対象として、対象的活動として、歴史的社会的現実の運動として、執えるもののみが、また現実を変革することを知る」(八二~三頁)と述べている。それは、対象的活動が、矛盾によって運動していることを頭脳に反映するから、「環境の変化と人間的活動あるいは自己変革との合致はただ革命的実践としてだけ把握することができるし、合理的に理解できる」(第三テーゼ)し、「この世俗的基礎そのものもまた、それ自体で、矛盾において理解されなければならないとともに、実践的に革命されなければならない」(第四テーゼ)というように、革命的、実践的・批判的な活動を生む。意志、意欲、目的というのは、矛盾によって生み出される。社会諸関係の集合としての人間というテーゼの規定は、人間は、関係、つまり、矛盾そのものだと言っているのである。『資本論』の中で、素材の生命の観念的反映とか、「ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創始者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これと反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換されて翻訳されたものにほかならない」(同前四〇~一頁)と述べているのもそういうことである。ここで言う観念的なものには、意志や目的、その表象ということが含まれているのである。意志と無関係な認識はないし、この連関をも唯物論は弁証法的に把握しなければならないのである。それは、第六テーゼが、「フォイエルバッハは、宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。実際には、それは社会的諸関係の集合なのである」と述べていることからもわかる。人間の本質は、対象の側、すなわち、意識の外部の対象たる社会的諸関係の側にあるので、いくら諸個人の主観的な抽象的意識を探しても出てこないのである。マルクスは、『資本論』の続く部分で、このような立場では、「個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(同前)と述べているように、最後まで、その態度を貫いている。
加藤の言うように、弁証法的唯物論は、対象の連関を客観的に把握するものであり、それは自然科学と同じである。エンゲルスが、『自然の弁証法』で、弁証法を連関の科学と呼んでいるのは、連関は、矛盾そのものだから、経験科学への唯物論と弁証法の適用による科学の変革も、対象的実践であり、非唯物論的非弁証法的な科学は唯物論的弁証法的に変える科学領域における批判的実践が必要だということも忘れてはならない。感性的対象活動を対象として弁証法的唯物論によって認識した上は、それを変えることが肝要であることを知るからである。教育者自身が教育されなければならないというのは、そういうことも含めていると考えなければならない。
マルクスは、市民社会の解剖学たる経済学の批判的研究を続け、『資本論』を書くが、その中で、ブルジョアジーがいかに自らの階級的利害によって、現実を見誤り、自己に都合の良い幻想を生み出し、それに科学的装いをほどこし、衒学的に学問化するかということや、物象が、現実の社会的諸関係から必然的に生み出され、その外観に人々がいかに騙されるかを繰り返し暴露している。例えば、「まさに商品世界のこの完成形態―貨幣形態―こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(同前一四一頁)というようなところである。このような諸形態がブルジョア経済学の諸範疇をなしているので、批判抜きには、対象をしっかり掴めないのである。『資本論』第二版後記で、マルクスは、ドイツで、ヘーゲルがスピノザ同様「死んだ犬」扱いされているのに対して、ヘーゲルの弁証法を擁護した上で、「神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならないのである」(同前四一頁)と述べ、弁証法は、「現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、いっさいの生成した形態を運動の流れのなかでとらえ、したがってまたその過ぎ去る面からとらえ、なにものにも動かされることなく、その本質上批判的であり革命的である」(同前)と書いたが、これは、すでにテーゼの中で、言われていることである。最後に、マルクスは、「資本主義社会の矛盾に満ちた運動は、実際的なブルジョアには、近代産業が通過する周期的恐慌の局面転換のなかで最も痛切に感ぜられるのであって、この局面転換の頂点こそが、一般的恐慌なのである。この一般的恐慌は、まだ前段階にあるとはいえ、再び進行しつつあり、その舞台の全面性によっても、その作用の強さによっても、新しい神聖プロイセン-ドイツ帝国の成り上がり者たちの頭にさえ弁証法をたたきこむであろう」(同前 四二頁)と述べている。ここで、マルクスは、弁証法を、プロレタリアートという階級のみに限定されたものとして扱っていない。多くの人が、素朴な形での弁証法の意識を、例えば、喩えで知っている。ヘーゲルが、『小論理学』の「予備概念」で挙げている例に、「傲れる者は久しからず」や「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」があるように、誰でも弁証法を知り、理解できる(弁証法は、懐疑論のソフィスト論法と区別されないことがあるので、注意して区別する必要があり、ヘーゲルは『小論理学』の「予備概念」でそれをやっているので参照されたい)。恐慌はブルジョアジーの頭に弁証法をたたきこむにしても、かれらは、現存の社会諸関係の中で担っている役割や経済範疇の人格化などの障害物があるので、それを乗り越えて弁証法を理解するのは、通常は困難である。
第一テーゼは、唯物論の対象が、古い唯物論の対象である自然に加えて、感性的人間活動実践、主体を加えたこと、そして、古い唯物論が、「革命的な」、「実践的・批判的な」活動の意義を概念的に把握しないのに対して、対象をその連関すなわち矛盾として掴む弁証法をもって、それまでの唯物論を変え、新たな唯物論を打ち立てる基本的な基準を示したのである。なお、加藤が引き起こした党派性論争での彼の主張は、一九三二年年一一月五日の唯物論研究会の討論で、公式に否定された。(つづく)
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投稿: 大絶画 | 2011年3月 3日 (木) 20時19分