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2010年1月

ファシズムの批判(3)

 ここまで、ヒトラーのファシズム思想について、ミュンヘン蜂起に失敗し、獄中にあった1924年に書かれたとされる『我が闘争』に続いて書かれながら、ヒトラー自らが出版を止めたという『第二の書』で見てきた。

 日本では、『我が闘争』は角川文庫版などで手に入るが、ドイツでは、発禁となっていて読めない。それに対して、日本では、昨年、『我が闘争』の漫画版というのが出版され、売れているという。以下の『朝日』の記事は、それを取り上げたものである。漫画版『蟹工船』と同じ編集者だそうである。両者は、生きるための闘いというテーマが基本になっている点が共通している。『蟹工船』は、労働者が生きるために、階級的に団結して闘争する話である。『我が闘争』は、民族の生存闘争のために民族的人種的に団結する話である。グローバリゼーション、新自由主義の席巻などの、この間の資本主義の現実は、人々の間に、生存のレベルでの闘いを想起させる必要を喚起しているのである。そうした層は、もちろん、世界には大勢いるし、先進国でもいる。しかし、先進国の場合は、福祉国家路線などもあって、ある時期は、極少数に減少したこともあった。そうした「幸福」な時代は過ぎ去り、今や、どうすれば生きられるのかという生存のレベルで自分や家族のことをリアルに考えざるをえない人々が増えているのである。

 こうした現実に問題を感じる鳩山首相は、29日の施政方針演説で、「いのち」ということを強く押し出している。彼は、「生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい」「働くいのちを守りたい」「いつ、いかなるときも、人間を孤立させてはなりません」「世界のいのちを守りたい」「地球のいのちを守りたい」という理念を掲げ、その後で、具体策について述べている。これは、子育て・教育、雇用、高齢者問題、国際貢献、環境という5つの分野についての理念を示したものである。そして、ガンジーの記念碑に刻まれている「7つの社会的大罪」を引いている。すなわち、「理念なき政治」、「労働なき富」、「良心なき快楽」、「人格なき教育」、「道徳なき商業」、「人間性なき科学」、「犠牲なき宗教」の7つである。そして、これまでの資本主義経済に対する批判を述べる。

20世紀の物質的な豊かさを支えてきた経済が、本当の意味で人を豊かにし、幸せをもたらしてきたのか。資本主義社会を維持しつつ、行き過ぎた「道徳なき商業」、「労働なき富」を、どのように制御していくべきなのか。人間が人間らしく幸福に生きていくために、どのような経済が、政治が、社会が、教育が望ましいのか。今、その理念が、哲学が問われています。

 もちろん、鳩山は、資本主義社会を維持しつつ、その行き過ぎた悪いところを正していくということを言っているので、「人間が人間らしく幸福に生きていくために、どのような経済が、政治が、社会が、教育が望ましいのか」という問いに応える理念や哲学が、資本主義的改良の理念・哲学でしかないことは言うまでもない。商業が抱える問題は、商業道徳に帰せられ、富の問題は、不労所得の問題に帰着させられている。言うまでもなく、ガンジーが直面していたのは、イギリスによる経済支配などの植民地支配からのインドの解放ということであった。したがって、封建制とイギリス資本主義の介入によって生まれた特殊な植民地的な姿の種々の制度や体制や機構を解体・再編して、インドの資本主義を成長・発展させることがガンジーの課題としてあったのである。

 しかし、明治以来の資本主義の長い歴史を経てきた2010年の日本が直面している経済問題に対して、改良資本主義を処方箋として提示したところで、それがどうだというのだろう。もちろん、改良ということに反対しているわけではないし、改善できるものなら改善して行けばいいことである。政治難民の難民申請をなかなか認定しない入管行政の在り方は改めてもらいたいし、入管の収容者の扱いの非人道性を改善してもらいたい。1月30日、日比谷野音を埋め尽くし、多くの立ち見を出すほど、多数が集まって、普天間基地撤去、辺野古移設反対の声をあげたが、その声に政府は応えてもらいたい。そうなれば、それはそれで一つの前進である。

 それはいいのだが、しかし、鳩山演説は、資本主義の維持ということを大前提として置いていて、そうした改良であれ、現状批判であれ、それを資本主義批判と結びつけるという根本的なレベルでの理念や哲学というものを考えておらず、そのような中途半端さによって、実際には、行政現場における変化をそれほど起こせていないのである。例えば、運動現場の人からは、鳩山連立政権になってから、入管行政は一つも改善されてないし、むしろ悪くなったという意見を聞く。鳩山演説は、現状批判の深さや内容が豊かではないので、それを理念・哲学としてしっかりと総括できないわけである。だから、つまらない、ありきたりな理念・哲学しかでてこないのである。つまり、彼にとって、それは、古代ギリシャ的公共性ということであって、それは奴隷制を基礎にした市民的公共性の理念でしかないのである。日本のどこに、古代ギリシャのポリスと共通な公共性だの市民性などというものがあるのか? 答えは、なんかの本の中か、頭の中の空想的イメージとしてしかない。それに対して、19世紀に小邦分立状態から抜け出して、プロイセンを中心とする統一を成し遂げた(1871年)ドイツの民族共同体の民族性の方は、20世紀始め頃の人々にとって、関税同盟、領土、経済圏、生活圏などという形で、リアリティを持っていたし、それを民族観念として持ち、民族的共通感情として感じていたのである。しかも、第一次世界大戦の敗北で多額の賠償金を課せられ、領土や海外植民地を失ったばかりの時であるから、なおさらそうした感情に火がつきやすい状態であった。ヒトラーが呼びかけるのは、そうした部分に対してなのである。それに対して、明治維新からすでに1世紀以上が経っている今日、鳩山は、一体、誰に向かって呼びかけているのだろうか? ここにいもしない古代ポリスのギリシャ人に向かってか? それとも、資本主義が形成するという「市民」なる抽象物に対してか?

 鳩山演説は、人間のための経済の回復、新しい公共の確立、文化立国を目指すと述べる。ただし、「ここで言う文化とは、狭く芸術その他の文化活動だけを指すのではなく、国民の生活・行動様式や経済のあり方、さらには価値観を含む概念」だという。つまり、国民の生活様式・行動様式・経済様式、そして価値観を含む概念だという。文化の架け橋、伝統文化と現代文化の融合、架け橋や融合という様式において、文化立国となるということだろう。GDPで、まもなく、中国が世界2位となるが、アメリカのオバマ大統領は、一般教書演説で、「私も米国が2位になることを認めない。どれだけ難しくても、どれだけ不愉快でけんか腰になっても、成長を妨げている問題を修復するときだ」として、世界1であることにあくまでも固執し、そのために、不愉快さ、けんか腰を避けずに、改革を進めるという姿勢を示した。鳩山演説が、穏やかに融和をうたっているのとは、なんという違いだろう!

 なるほど、ここには、ヒトラーの以下のような政治観とは違った政治観がある。しかし、それは、これが書かれた頃のドイツの政治史(ワイマール体制)の混乱の中での、中道政権の時期、第1、2次マルクス中央党内閣(29年11月~25年1月)、第1、2次ルター(無所属)内閣(25年1月~26年5月)、第3、4次マルクス内閣(26年5月~6月)の相次ぐ交代、民主党・中央党・ドイツ人民党・バイエルン人民党などの中道ブルジョア政権の時期を経て、28年の社民党中心の連立(ミューラー)政権(28年5月~30年3月)時代の政治的混乱から、ヒンデンブルク大統領の首班指名で誕生したブリューニング内閣(30年3月~32年5月)、パーペン内閣(32年6月~11月)、シュライヒャー(32年12月~33年1月)の少数派政権に行く過程で、国会審議が形骸化し、ヒンデンブルクによる「大統領緊急令」による政治が常態化していく過程をたどったことを見た時に、それほど、対立的なものとは思えないのである。もちろん、29年世界恐慌があって、その影響がドイツにも強く現れるわけであるが、それは議会制そのものの危機をもたらすのである。そのことを示すのが、30年7月の総選挙で、ナチ党が、一挙に、640万票、18・3%の得票率で第2党へ躍進し、共産党が、13・1%の得票率で第3党に飛躍するという事態であった。

 29年10月には、ルール鉄鋼争議があって、その対応をめぐって、政権内で連立政党同士が激しく対立し、29年5月には、共産党が、政府のメーデー禁止を破ってメーデー集会を行ったことに対して弾圧するという「血のメーデー事件」(31名死亡)があり、同年秋には、新たな対独賠償支払い策を提示したヤング案の受け入れをめぐって、国家人民党フーゲンベルクらと、全ドイツ連盟、在郷軍人団体の鉄兜団などが、ヤング案反対の国民請願運動を開始し、それに、ヒトラーの扇動能力を買ってそれに加えたことから、ナチ党は豊富な資金を持つようになったのである。

 政治の任務が民族の生存競争を遂行することであるならば、また国民の生存競争が、究極的にはある具体的な人口を養うのに必要な空間を確保することであるならば、そしてまた、そのプロセス全体が国家の力の使用の問題であるならば、以下のような最終的な定義が導き出される。

1、政治とは、地上における民族の生存競争を遂行するための技術である。

2、対外政策〈国内政策〉とは、そのときどきで民族に必要な生活圏(レーベンスラウム)を質、量とともに確保するための技術である。

3、国内政策とは、そのために必要な力を、いつでも使用できるように、人種価値と数のかたちで保存しておくための技術である。(58頁)

 

 売れる「わが闘争」漫画版 苦言も「歴史資料」の声も(2009年9月6日『朝日新聞』)

 独裁者アドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」。この漫画版が日本で発行され、売れている。いまも出版が禁じられているドイツには批判の声もあるが、出版元は「内容を検証してほしい」と話す。これまでも知る権利や民族的配慮をめぐって議論が起きたいわくつきの本だが、再び論争の種になりそうだ。

 漫画版「わが闘争」は、出版社イースト・プレス(東京都)が昨年11月、古典作品を漫画化する「まんがで読破」シリーズの一つとして発行した。原作を基に構成とセリフを編集者が考え、作画は制作会社に発注。ヒトラーの生い立ちからナチス結党、「わが闘争」執筆までの経緯と反ユダヤの主張が、190ページの劇画で描かれる。

 編集担当の円尾(まるお)公佑さん(32)は「有名な本だが、読んだ人は少ない。どんな思想があれほどの悲劇を生んだのか、『悪魔』で片付けられるヒトラーの人間の部分を知る材料になると思った」と企画の理由を話す。「人間失格」「ファウスト」「資本論」などが並ぶ全43作のシリーズの中では異色。「売れると期待していなかった」が、わずか半年で、シリーズの平均部数3万5千部を上回る4万5千部が売れた。「これまでに出版を批判する声は直接届いていない」という。

 海外メディアも注目し、昨年末以来、英BBCや米CNNなどが報道した。フィナンシャル・タイムズ・ドイツ版で2月に記事を書いた東アジア特派員、マーティン・コリングさんは「漫画化はリスクはあるが、新しい発想。多くの人が手に取り、批判的に検証することは意義がある」と一定の評価をする。

 ただ、ネット上などでは「出版は無神経」「ネオナチを喜ばす」「有害図書扱いはかえって魅力を生む」といった賛否の議論も起きている。

 「わが闘争」は現在、ドイツで新刊が手に入ることはない。著作権者のバイエルン州が、ナチスの犠牲者への配慮から戦後一貫して出版を認めてこなかったからだ。外国への対応も同様で、00年にチェコで許諾なく出版された際、州政府は厳重に抗議した。

 日本では角川文庫版で73年から刊行されている。角川書店によると、著作権者から許諾を得たことはないが、著作権に関する国際的な取り決めであるベルヌ条約の「刊行後10年間翻訳されていなければ自由に翻訳できる(70年以前の著作物のみ)」という主要国では日本にだけ特例的に認められた規定を根拠に出版したという。プレス社の漫画版も、角川版を基にした。

 バイエルン州財務省は朝日新聞の取材に、「この扇情的著作が再び流布するのは、それが今や象徴的意味すら持たないとしても、ナチズムの犠牲者にとって苦悩を想起させる」と強調。漫画版について「そもそも、この問題ある内容を批判的に表現するのに、漫画という媒体が適切とは考え難い」と苦言を呈した。

 ナチズムをめぐる欧州と日本との意識の隔たりを指摘する声もある。バイエルン州駐日代表部の尾畑敏夫代表は、仕事で現地に13年暮らした。「ドイツでは60年たっても論争になる敏感な問題。漫画という媒体の位置付けの違いも含め、議論を尽くして出版したのだろうか……」

 一方で出版禁止に疑問を投げる専門家もいる。全体主義を研究するドレスデン工科大学のクレメンス・フォルンハルツ教授は「自由社会に禁書はあるべきではない。今、『わが闘争』に人を引きつける魅力はない。むしろ、社会にとって重要な歴史資料だ」と話す。

 角川書店も10年ほど前、ドイツ大使館から「刊行をやめられないか」と求められた。社内で改めて議論した結果、「批判的に検証できる機会を奪うことはかえって不健全」との結論になったという。

  日本では5年前、ヒトラーの画家時代を描いた映画の公開にあわせて配給会社が水彩画作品を展示しようとしたところ、海外から取材が殺到し中止したことがある。(石川智也)

 

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ファシズムの批判(2)

   ヒトラーは、「移民によって、民族は最良の血をゆっくりと奪われていき、数十万もの個人生活が破壊される」(39頁)ということに示されているように、血の原理を基本にして、その民族の血の最良の部分が、例えば、アメリカなどの移民国家に行ってしまい、その結果、その民族からは優秀な人材が失われていくという危機感を表明している。このことからわかるのは、通常、移民労働者などについて流布されている差別的イメージが、実は、その正反対のことを覆い隠しているということである。例えば、現在、日本に来ている移民、あるいは外国人労働者には、その出身地において「優秀」と見なされている者が多いということだ。排外主義者が恐れているのは、こうした「優秀」な人材が、やがて、その国の基本的な部分、特に国家の中枢を握るなどの事態であり、現に、『諸君』だったと思うが、保守系雑誌の1月号には、そうした観点から、平然と帰化する中国人がそうなることを警戒する文章が載っている。しかし、例えば、数年前まで、経済成長し続けていたアメリカに、バブル崩壊後の「失われた10年」の経済停滞に陥っていた日本から、「優秀」な研究者が大量に、アメリカの大学や研究機関、米系多国籍企業などに行った。今は、それが、中国に変わりつつあるようだが、そうしたことを、かの筆者は、嘆いているわけである。

 それに対して、アメリカのオバマ大統領の一般教書演説は、「言ってみれば、米国をつくり上げたのは我々の理想と価値である。世界中の移民によって国家を形成し、今なお市民に受け継がれている価値だ。日々、米国人は自身の家庭や職業の責任を果たしている。彼らは隣人に手を差し伸べ、最終的に国家に還元する。労働に誇りを持ち、惜しみなく活気をもたらしている。これらは共和党の、または民主党の価値ではない。ビジネスの価値や職業の価値でもない。それらは米国の価値なのだ」と述べているような価値観に脅威を感じているのだ。そして、ヒトラーは言う。

民族全体の力の源泉は武器の所有や軍組織にあるのではなく、その人種的意味に-すなわち民族自体の人種価値を通じ、また最高の個人の人格価値の存在を通じ、そしてまた自己保存の考えに対する健全な姿勢を通じて表われてくる内的価値に-ある」(63頁)。

 オバマは、言うまでもなく、これらの混交にアメリカ国家の力の源泉を見出しているのであるが、それは、大統領就任演説以来、繰り返し表れている生産性の力を基礎としているのである。ヒトラーは、事実上、価値をたんなる主観的印象にしている。

 われわれの出発点は、一つの民族は他の民族と同じではないということであるから、民族の価値も他の民族の価値と同じではない。しかし、民族の価値が他の民族の価値と同じでないとして他の民族とまったく同様でなどあり得ない個別の価値があるはずである。民族に個別固有のこの価値は、ありとあらゆる種類、ありとあらゆる分野に表われてくる。しかし一つにまとめれば、それは民族の全般的評価基準となる。この全般的評価の究極の表現こそが民族の歴史的文化的な印象なのであって、それは血の価値の全方位的ひろがり、ないしはその民族のうちに統合された人種価値の総和を反映するものである。
 しかし民族のこの特殊な価値は、単に美的文化的なものではまったくなく、全般的な生命価値そのものである。なぜならば、それは民族一般の生命を形成し、型をあたえ、かたちづくるものである。なぜならば、生きていくうえでの抵抗に打ち勝つために民族が身につけることのできるあらゆる力をあたえてくれるものだからである(63頁)。

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転載:【東京入国管理局への抗議・収容者への激励アクション呼びかけ】

 【東京入国管理局への抗議・収容者への激励アクション呼びかけ】

 2010年2月5日(金)

 11:00 品川駅港南口(東口)前集合 その後、バスで品川入国管理局前へ移動
 12:00~13:00 入管前アクション 
 その後、品川駅前で情宣

 品川に入国管理局があるのをご存じでしょうか?

 私たちは入国管理局内で行われている、収容者への非人道的な待遇に反対しています。


 入管前での抗議行動は今回で3回目を迎えます。入管の外から激励の声を上げ、収容されている人たちを元気付けましょう!

 また、入管職員に対し、収容施設内で行われていることを外部から見ている人たちがいること、そして、収容者への非人道的な扱いを改めるよう訴えましょう!

 入管問題について書いたチラシも配布していますので、ぜひお受け取り下さい。

 SYI(収容者友人有志一同)


 SYI(収容者友人有志一同)blog Pinkydragon(ピンキードラゴン)

 URL http://pinkydra.exblog.jp/

 連絡先 freeimmigrants★yahoo.co.jp(★は@に変えてください)

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ファシズムの批判(1)

  『ヒトラー第二の書』(成甲書房)を読んでみて、「新しい歴史教科書をつくる会」や「自由主義史研究会」などの保守派の思想に、ファシズムと共通するものがあることがよくわかった。例えば、第一章 戦争と平和の最初は、「歴史とは民族の生存闘争の物語である」と題されている。「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書は、「歴史とは国民の物語である」と規定している。生存闘争という言葉はないものの内容を見れば、その視点で書かれている事は一目瞭然である。

 ヒトラーは、この部分で、「政治はつくられつつある歴史である」(32頁)と述べている。そして、「歴史とは、民族の生存競争の経過を提示したものである」(同)として、生が死に対する永遠の闘争であるように、パンを求める闘争は、自己保存の欲求にもとづくとしている。そして、原始的な生物は「我」の自己保存本能しか知らず、高等な生物では、それが妻子にまで広がり、さらに高等な生物では種全体となると述べている。しかし、まず原始的な生物に「我」があるかどうかが問題だし、ある種の生物には、自己犠牲によって種を保存する行動が見られるし、高等な生物の最高が種全体の保存欲求で止まっているというのも、今では、それよりも高等な生物へと進化しつつあるのではないかということもある。種を越えた保存欲求もまた今日の社会関係の進展から生み出されているのである。もちろん、ヒトラーの時代であってもそうした欲求はあった。それを代表するものとして、彼は、ユダヤ的なものを描いていたのである。

 一見すると、人間は種のために自己保存本能を抑えることが多いように思えるが、そのような場合にも、実は最も高いレベルでは本能に従っている。なぜなら集団全体の-そしてそれとともにある個人の生命の-保全が、そうした個の放棄のうちにしかない場合が、往々にしてあるからである。こうして幼子を守る母親は突如として勇敢になり、家族を守る男は英雄的行動にでる。飢餓と愛情という二つの強力な生命本能は、自己保存本能の強さと対応する。永遠の飢餓の慰撫〈充足〉は自己保存を保証し、愛情の満足は民族の存続を確かなものにする。実に、この二つの衝動こそは生命の支配者なのである」(31~2頁)。

 興味深いことに、オバマのノーベル平和賞受賞記念演説でも、戦争の正当性を強調した部分で、我が子を守る母親の勇敢さという例が挙げられていた。ここでヒトラーが挙げた例は、しかし、民族の自己保存本能を生物レベルに還元したものであって、それなら、例えば、東京のJR山手線の新大久保駅で、異民族の日本人を助けようとして線路に飛び降りて電車にはねられ死亡した韓国人の男性があったが、彼の本能は一体どういうものであったのか? ヒトラーは、「血と肉からなる者は、誰もその存在をもたらした諸法則から逃れることはできない」(同)と、一見すると唯物論的なことを言う。しかし、ここは、読めば誰でもわかるように、諸法則が存在をもたらすと言っていて、存在が意識を規定するとするマルクスの唯物論のテーゼとは逆のことを言っているのである。つまり、血と肉からなる存在は、諸法則の方に支配され、規定されているというのである。だが、パンなしには生きられないのは、生物として当然のことであって、それ自体は確かに生物の法則に従っていることであるが、自己、あるいは我というものを保存する欲求が法則となるのは、ある特定の社会でのことである。例えば、スピノザが『国家論』で取り上げている伝説的な女性だけのアマゾネス国家は、種の保存の法則からして、不合理なことに、男児はすべて殺していたということになっている。しかし、それでもその社会はある期間は存続し得たわけである。

 ヒトラーの考えが血だの肉だのという唯物論的な言い方をしながら、実は観念論であることは、「人間の精神が自らをそうした諸法則に超越できるものと考えるなら、それはその瞬間、その精神自体を担っている実質を破壊することになる」(32頁)と言っていることで一目瞭然だ。法則を超越するという考えが、精神の実質を破壊する。考え、つまり、観念が、破壊するのである。何を? 精神の実質という精神的存在を。言い換えれば、精神は肉体なしには存在できないということだが、それは諸法則という観念的な姿において規定するようなものとされているのである。生物が高等であるかどうかという判断、あるいは観念は、社会的存在としての人間による判断であり、社会を前提としている。しかし、それは、血縁的結合体を基礎とした社会から、地縁的結合体を基礎とする社会へと転化し、エンゲルスによれば、この段階で国家が発生する。しかし、ヒトラーは言う。

 政治が作られつつある歴史であり、歴史それ自体が人間と民族による自己保存と存続のための戦いの叙述だとすれば、政治とは、実に国家による生存競争の実践であるということになる。したがって、政治は国家による生存競争というだけにはとどまらない。それはむしろ、われわれ人類がこの闘争を遂行するための技術なのである。
 また歴史は-これまでの諸国家による生存競争の叙述としての歴史は-同時に、任意の時点での支配的な政治の固定的表現であるから、われわれ自身の政治活動の手本としてこれほど適したものはない(33~4頁)。

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ロンメルの最期

 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の発覚以後、ゲシュタポなどのスパイ機関は、ロンメル周辺にも操作の手を伸ばしてきた。ロンメルが、西部で進めていた連合軍との単独講和の動きを察知し、ロンメルの参謀長だったシュバイデル中将が、9月7日に逮捕され、その後、行方不明となる。

 ノルマンディーに派遣されていたロンメルは、息子に、「ノルマンディーでの私の任務は、先任下士官でもつとまると思えるくらい、行動はすべてヒトラーに制約を受けていた。彼は何事にも介入し、われわれの提案はすべて却下された」(422頁)と語った。英米軍は最初二つの橋頭堡しか持っていないので、その弱い方から攻撃しようとすると、ヒトラーが干渉して、断念させたので、攻撃が中途半端になって、失敗する。一個師団を引き抜くと、ヒトラーはそれをすぐに元に戻させた。「われわれが『弾丸のつきるまで抵抗せよ』と命令すると『最後の血の一滴まで抵抗せよ』と上から変えられてしまった」(423頁)と語った。

 しかし、ロンメルは、部隊に対しては、あたたかく、書いている。

 部隊は皆りっぱに戦った。最初の2、3日間、彼らは先を争って対戦車ロケット発射機を持とうとした。だがそれが敵の戦車に対し何の役にもたたないことを知ると、将兵の間に絶望感が広がっていった。敵を迎えてまだ2、3日しかたたないうちに、ある軍団司令官はその乗用車がイギリス軍機の対地攻撃を受けたとき、車から出てのがれようとはしなかった。そして彼は重傷を負って座席に倒れたのである。
 敵機が2回目の攻撃をかけてくる前に、副官が彼を連れ出そうとすると、彼は座席にすがって『このまま死なせてくれ、そのほうがいい』と言って動かなかった。そして舞い戻ってきた敵機の2回目の掃射を受けて彼は戦死した(同)。

 ロンメルは、こうした事態について語っている。

 一番いけないことは、何もかもが意味や目的もないのに、部隊に犠牲を強いていることだ。もうわれわれにはどうしようもない。こちらが一発撃てば敵は数百倍も撃ち返してくるから、われわれ自身を傷つけることになる。早く何もかもおしまいになればいいと思っている(同)。

 ある戦車部隊が、ポーランドからオランダに移動されたことを聞いた時には、「この馬鹿どもめ!」と怒鳴り、「彼らは自分が助かることしか考えていないんだ。このみじめな状態をあと2、3か月延ばしたところでなにになるんだ? 東部戦線はまったく壊滅し、次の攻勢でソ連軍が彼らを蹴散らしてドイツ領に侵入することになるだけじゃないか。そうすればどんな事になるのか、皆わかっているはずだ」と言った。そして、彼の危惧したとおりになった。東から、ソ連軍、西から英米仏などの連合軍がドイツ領内になだれ込み、ソ連軍が東ベルリンを占領したのである。

 7月20日のヒトラー暗殺未遂事件後、ゲシュタポがロンメルの自宅付近をうろつくようになった。在フランス軍司令官フォン・スチュルプナーゲル将軍が、自殺を企てて失敗し、ゲシュタポにつかまった。その後任の西方総軍司令官フォン・クルーゲ元帥は、罷免され、服毒自殺した。彼も、ロンメルの単独講和案に賛成していた。そして、ロンメルの参謀長シュバイデル将軍が逮捕される。

 運命の日の10月14日、12時頃、ベルリンナンバーの車が玄関先に停まった。2人が降りてきて、ロンメルと話した。その後、彼は、息子に、「私は15分以内に死ななければならない。今お母さんとお別れのあいさつをしてきたよ」(431頁)、「味方の手で死ぬのは情けない。だが、家は包囲されているし、ヒトラーは私を大逆罪で告発しているのだ」(同)と言った。

ロンメル:私は、アフリカにおける私の功績を考慮して」毒薬によって死ぬ機会を与えられたのだ。毒薬は、二人の将官が持ってきている。3秒間で死ぬ。もし私が命令に従えば、私の家族に対して、つまりおまえたちに対しては何もしない。そして私の幕僚にも手をつけないというのだ。 

マンフレッド:お父さんはそれを信じますか。

ロンメル:そうさ、私は信じるね。事件を表ざたにならないようにするほうが彼らには都合がいいのだ。それに、私はおまえに厳重に沈黙を守らせることを請け負っているしね。もし、この事が一言でももれたなら、彼らは黙ってはいないだろう。

マンフレッド:なんとかここで防げないの・・・。

ロンメル:だめだ、撃ち合いをして皆が殺されるよりも一人死ぬほうがいい。とにかく、私たちはほとんど弾薬もないし・・・。

 ロンメルは、茶色のアフリカ派遣軍の制服に着替えて、車に乗った。車は、2、3百メートル先の森の入り口で停まり、その後、ウルムの病院に向かった。そこに、ロンメルの遺体が運ばれたのである。

 マンフレッドは、父親の死後、ヒトラーたちが弔意を表したことを、「この事件全体の中で、おそらく最も軽蔑すべきこと」として、その幾つかを引用している。

10月16日

父君の死によって、あなたがこうむられた重大な損失に対して吏心からのお見舞いを申し上げる。ロンメル元帥の名は、北アフリカにおけるその英雄的な戦闘とともに永遠に残るでありましょう。
                                                         アドルフ・ヒトラー

 ご父君ロンメル元帥が、ドイツ人民のために健在であられるようにとのわれわれ全員の願いにもかかわらず、負傷のため英雄的な死を遂げられた事は深く小官を感動させました。小管はわが親愛なるロンメル夫人に対し、ここに謹んで小官ならびにドイツ空軍の心からなる弔意を表わすものであります。
                                              大ドイツ国帝国大元帥 ゲーリング

10月17日
親愛なるロンメル夫人
 父君のご逝去を悼み、妻とともに弔意を表します。
 ロンメル元帥のご逝去により、ドイツ陸軍は最もすぐれた指揮官を失いまし たが、元帥の名は、2年間にわたるアフリカ軍団の英雄的な戦闘とともに、永遠に記憶されるでありましょう。
 深い悲しみの時にあたり、ここに心からなる弔意を表すものであります。
 ヒトラー万歳!
                                           国務大臣ゲッペルス博士並びに同夫人(434頁)

  最後に、マンフレッドは、次のように書いている。

 これらの連中が、偽善的な行動によってこの茶番劇に真実的な見せかけを与えようとしている間にも、毎日何千というドイツ軍将兵が東部、西部、南部および北部戦線において、なんの希望もないままその司令部の命令に従って戦い、死んでいったのである(435頁)。

 ただ、ロンメルが活躍した北アフリカ戦線の戦場となったところは、西欧列強が植民地化したところであって、その土地の上で、激しい戦闘が繰り返されたことは、現時住民にとってはどうだったのかということがある。そして、勝者となったフランスの植民地アルジェリアでは、戦後、独立闘争が闘われ、ついに独立が勝ち取られるのである。英領エジプトもそうである。ドゴール将軍の自由フランスは、赤道アフリカなどのフランス植民地の軍隊を握ることで成立したもので、植民地体制を土台にした勢力であった。

 また、ドイツ国防軍の政府からの独立性については、以下のような指摘がある。

   ・・・カップ=リュトヴィッツ一揆の処理からも明らかなように、この時期の議会と政党には積極的に軍事にかかわり軍事を規定しようとする基本姿勢が欠落し、またそのために必要な軍事に関する見識にも欠けるところがあった。ワイマール憲法には軍事に対する政治の優位と、軍事と政治の結合が明記されていたが、体制の要を成す議会と政党にこの規定を実施する意志と能力がなければ、それは空文化せざるをえない。軍部に「国家中の国家」の地位を与えたのは、その意味で、ほかならぬ議会と政党であった。そしてさらにその上に、宗教政党としての特異な利害に基づくドイツ中央党と軍部との癒着という事実が加わる(『ドイツ軍部の政治史1914~1933 室潔 早稲田大学出版部2007年9月25日初版 3~4頁)。

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ノルマンディー上陸作戦とロンメル

  1943年3月20日付の西方総司令官宛のヒトラーの書面には、敵の上陸地点を予想し、どう防御準備をするかという最高指揮官としての決断が欠けていた。西方軍総司令官ルンドシュテッド元帥とガイル・フォン・シュワッペンベルグに代表される一派とロンメルを代表する一派の間で、迷い続けていたのである。

 シュワッペンベルグは、米英軍の上陸を許し、内陸部で、反撃し、海から追い落とすことが出来ると考えていた。

 内陸において反撃を行うという考えは受け入れられることとなった。これはドイツ軍上級将校の大多数が、これまで独ソ戦線を体験しただけにすぎず、南部戦線における英米空軍がどれほど力を発揮したかについてまるで理解していなかったからである。そのうえ彼らは、英米軍は機動戦においては、比較的にその能力が劣っていると判断していたので、東部戦線において豊富に実戦体験を積んだドイツ軍の敵ではないと考えていた。だがロンメルは、北アフリカの戦場において、最も新しく、最も進歩した戦争を体験していたのである(423頁)。

 ロンメルは、東部戦線組は、「今度はどのような能力を持った敵と、どのような様相下で戦うことになるのかわかっていないのだ。それはさほど戦術的な工夫をこらすこともなく、大兵力にものをいわせて死傷者を物ともせず、ひた押しに押してくる狂信的なソ連軍とはまったく違った敵なのだ」(414頁)と語ったという。「われわれが直面しようとしている敵は、あらん限りの知恵を絞り、技術力を活用して惜しみなく物量を投入し、どの作戦もすでに繰り返し練習をつんだ行動のように押し進めてくる敵なのだ」(同)。そして、以下のようなことを語った。

 突進とがんばりだけではもはや軍人の資質としては十分でないのだ。ベイエレン君。軍人たる者は、部隊に全力を発揮させうるように、技術その他のあらゆる面について知識を持っていなければならないのだ。アフリカ戦線でこのことを体得した連中なら、それができると思う。

 こうした連中を納得させるのはどんなにむずかしいことか、君にはわからないだろう。かつて彼らは、どんなことがあっても機動戦は避けるべきだと考えていた。だが西方においてわが軍の機動の自由が失われた今日になって、今度は彼らは懸命になって敵の上陸に対し機動防御をもって迎え撃つことを考えている。
 

 敵はいったん上陸地点を確保したならば、イタリア戦線における上陸作戦の時のように、ばく大な数量の対戦車砲と戦車を橋頭堡につぎ込んでこれを固め、これに向かって反撃するわが軍の戦力を消耗させるだろう。このような敵の橋頭堡を突破するのには、大量の砲兵の支援を受けつつ、組織的な攻撃を実施し、少しずつ敵陣地をつぶしていくよりほかにないのだ。
 

 しかし部隊は、連合軍の空軍にその移動を妨害されて、適時戦力を集中するようなことはとてもできないだろう。戦争初期に見られたように、戦車部隊を突進させて敵戦線を分断突破するような攻撃が可能な時代は、もはや過去のものとなったのだ。(414~5頁)

 1940年5月10日に開始されたドイツ軍の西部侵攻で、フランス侵攻、マジノ線突破に大きな威力を発揮した機動部隊による電撃戦は、1944年の連合軍のノルマンディー上陸までには、完全に「過去のものとなった」のである。

 当初の機動部隊による戦いは、圧倒的な成功を収めたために、過大な評価を生んだ。当時、ドイツ軍は、136個師団、対するフランス・イギリス・オランダ・ベルギーの連合軍は、156個師団で、兵力では、連合軍がドイツ軍より優勢であった。機甲部隊の中核をなす戦車は、連合軍が4000両以上であったのに対して、ドイツ軍は、2800両にすぎなかった。しかも、ドイツ軍戦車は、速度において優るとはいえ、装甲の厚さや装備火器の威力において、劣っていた。このスピードの優位が、圧倒的な効果を発揮したのであり、それが、連合軍の混乱や動揺を大きくし、驚かし、士気を奪うのに役だったのである。東部戦線組は、こうした当初の機動戦のやり方を、その際には、過小評価しながら、今度は、逆に過大視し、成功体験の模倣に頼ろうとしたのである。まさに、「おぼれる者はわらをもつかむ」状態に陥ったのだ。このような事態を見ると、孫子の言葉、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」を思い起こすが、これは、実行するのが困難だからこそ、光を放つ言葉だということがわかる。

 ロンメルは、総統大本営に、できるかぎり多くの兵力、特に戦車師団を海岸近く配置すべきであるという彼の主張を受け入れさせるよう再三、説得を試みたが、ヒトラーは、後方配置案に傾いていった。しかし、1944年6月5日の夕刻から、連合軍による上陸準備のための大空襲が開始された。ノルマンディー上陸作戦が、始まったのである。翌日1時すぎから、空挺部隊の降下が始まった。そして、7月20日、ヒトラー暗殺計画が発覚するのである。

 この頃になると、ロンメルは、緊急の場合、ヒトラーの意志に逆らってでも妥当な講和に到達しなければならないという考えを抱いていたという。しかし、連合軍の侵攻前にクーデターを起こすのは誤りだと考えていたという。それを、この部分の筆者は、以下のような理由からだと述べている。

  1. 連合軍のヨーロッパ侵攻までは、ドイツ軍の戦線は東部の独ソ戦線だけであった。クーデタが起これば東部戦線は崩壊し、英米軍が阻止できないままソ連軍が中欧を席巻することになるかもしれない。
  2. 1944年春には、まだ軍が反乱を起こせるような空気はなかった。フランスにいた部隊や将校の大部分が、まだ米英軍を撃退することができるものと信じていたし、ジェット戦闘機や秘密兵器や新型戦車などの新兵器によって、最後には必ずソ連軍を撃退できるものと思っていたからである。
  3. 事実ドイツが連合軍の侵攻を撃退することに成功したならば、イギリス、アメリカはソ連がヨーロッパ全土を占領するか、ドイツが再びソ連に対し攻勢をとることになるのではないかと恐れ、ドイツの無条件降伏という要求を断念してしまうであろう。
  4.  ドイツとしては、敵に対し条件付きの平和を強要することができるかもしれないこのチャンスを、見のがすわけにいかなかったのである。(414~5頁)

 問題は、やはり政治に戻っている。ロンメルは、「そのヨーロッパ侵攻が撃退されたならば、結局は新ドイツと肩を並べて、東部戦線においてソ連と戦うようになるであろう」と考えていたと、この部分の執筆者は言う。そして、ロンメルは、ヒトラー暗殺未遂事件について、死の直前に、息子のマンフレッドにこう語った。

 ヒトラーを暗殺しようなんて愚劣だ。この男のことで恐れなければならないのは、その行為ではなくて、ドイツ国民の目に映る彼を取り巻いている特異な雰囲気なのだ。ベルリンじゃなくて西方で反乱を起こすべきだった」。「だがそんなことをして何ができるというのであろう。結局はただイギリス、アメリカがわが軍の抵抗を排除してくれる代わりに無抵抗の進入となるであろうし、空襲がやみ、イギリス、アメリカが、ソ連をドイツに近づけないでおくということだけなのだ。ヒトラーに関しては、いちばん良いのは彼に既成事実を突きつけるということだったであろう(415頁)。

 「この男のことで恐れなければならないのは、その行為ではなくて、ドイツ国民の目に映る彼を取り巻いている特異な雰囲気なのだ」というのは、ナチスが政権を奪取し、他党派を解体しつくしていった時に、ドイツの大衆が陥った特異な雰囲気のことである。それには、ワイマール体制下のドイツの特殊な政治状況があった。特に、ヴェルサイユ体制によって、軍備を制限された状態のドイツで、社会民主党、中央党、共産党などの諸党派が、軍事政策を持たなかったということがある。それに対して、ドイツ国防軍は、ワイマール体制下で、政府からの独立性を保ち、それを代表するヒンデンブルグが、後に、大統領となり、ついにはヒトラーを首班指名するということによって、つまり、ナチ党が、ワイマール期の諸政党をおさえて、国防軍とのブロックを成功させることにつながるのである。ナチスの台頭に対して、国防軍・ヒンデンブルグ大統領は、何度も、その分裂を図るなどの陰謀を仕掛けたのだが、その危機をヒトラーは乗り切った。しかし、ロンメルの記録を読むと、戦争末期まで、ドイツ国防軍の中に、ナチス党に対する政治的独立性の精神が生きていて、それに対して、ヒトラーが、親衛隊などの自前の軍を組織して対抗しようとしていたのがわかる。ドイツ国防軍の独立性は、ワイマール体制成立の過程の中ですでに現れていて、それは、1917年のキール軍港での水平の反乱や、その後の軍隊内での反乱軍の活動やその弾圧などにも現れた。そして、ヒトラーが目を付けたのは、そうしたドイツ国防軍という独立的な権力であった。

 そのことは、ヒトラーが、『わが闘争』(マインカンプ)の続編として執筆しながら、出版されず、戦後に公表された第2のマインカンプと言われるものの中に、すでに現れている。彼は、その中で、ユダヤ資本によるドイツ経済の支配を、人種主義的に分析し、民族・人種の自己保存本能に基づく生存闘争の中で、北方人種的要素と根本的に対立するものとして、ユダヤを描き、その世界支配の一環として、ロシア革命におけるソ連での支配民族の後退、すなわち、ユダヤによる支配の完成を妄想し、それとの人種間の戦いを呼びかけている。その中で、当時、南チロルでのドイツ人迫害から、ドイツ国内で、対イタリア感情が悪化していたのに対して、むしろ、ファシスト・イタリアと同盟することを訴えた。さらに、イギリスとの同盟を訴えている。そして、アメリカを、北方人種の要素が支配する国家ととらえ、それに対立するユダヤが浸透しつつある状態と描いている。ヒトラーは、ドイツ国防軍に対して、明瞭な政治目標を提示しているのである。特に、イタリアとの同盟について強調していて、このことが、ヒトラーが、イタリアでのムソリーニ・ファシスト体制の崩壊後も、あくまでも、ムソリーニ・ファシストの復興にかけ続けて、イタリア政策の転換を遅らせたことの原因にある。

 ヒトラーは、ドイツの大産業は、ユダヤ資本に支配されつくされていると述べている。実際、ワイマール体制下では、ドイツの主な産業で、ユダヤ系資本が圧倒的に支配していた。それに対して、ヒトラーは、ゲルマン的な原理として、土地に基づく国家創造の能力を称揚し、自作農・中農の生活を理想型として描いている。彼は、人口が過剰化するドイツでは、農業の可能な土地を求めて、海外に植民地を建設することは、ゲルマン民族の自己保存のための生存競争にとって当然のことだと言っている。そして、彼は、この時点で、ヨーロッパ統合を否定している。また、ヒトラーは、同書の中で、彼は、アメリカに対抗して、イギリスと同盟することを主張している。それに対して、ロンメルが、ヨーロッパ統合を対置するようになっていたことは、すでに記した。

 こうして、ノルマンディー上陸作戦への対応でも、ヒトラーは、自身とドイツの破滅を早めるような判断しか出来なかった。

 ここまで、主にドイツ側から事態を見ざるを得なかったのだが、同時に、対独レジスタンスの動きもあった。それと、階級階層関係という観点からの事態の分析・評価が必要である。例えば、フランスは、親独派のヴィシー政権があって、ロンメルが、再三、フランスと平和条約を結んで、同盟国とすべきだと提言したのは、このフランス政府である。それに対して、ドゴール率いる自由フランスは、赤道アフリカや南サハラやその他のアフリカのフランス植民地に拠って、対独戦を行っていた。その他、共産党による義勇兵や抵抗組織、自由主義者や民主主義者、宗教者などの抵抗組織があった。イタリアでも、反ファッショ統一戦線が地下活動による抵抗を行っていた。それと、イギリス本土は、心許ない状態にあったが、インド、オーストラリアやニュージーランドの軍隊も使えたのであり、さらに、アメリカが加わった。アメリカは、戦時統制経済体制を強化し、軍需生産に全ての経済活動を集中させ、人・物・金を軍需につぎ込んでいった。それによって実現した巨大な生産力によって、大量の兵器や軍需物資を前線に投入出来たのである。そして、そうした兵器を使いこなせる兵士を、訓練によって、大量に育てていた。そして、「突進とがんばりだけではもはや軍人の資質としては十分でないのだ。ベイエレン君。軍人たる者は、部隊に全力を発揮させうるように、技術その他のあらゆる面について知識を持っていなければならない」という戦争戦術の新局面、新時代が来たことを知らしめたのである。

 しかし、こうした時代もまた変化しつつある。こうして、戦後、圧倒的に軍事的に優位に立ったアメリカも、70年代後半には、ベトナムで敗れ、今、アフガニスタンなどで敗れかねない状況にある。アメリカは、崖っぷちに立たされているのだ。

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転載:《新年第一弾》1月24日(日) 第3回定例野菜市場を開催します!

《新年第一弾》1月24日(日) 第3回定例野菜市場を開催します!

 ■新鮮でお安い無農薬・減農薬野菜即売会のお知らせです。

 みなさん、あけましておめでとうございます。本年も私たち「自由と生存の野菜市」をよろしくお願いいたします。
 さて、昨年末12月27日(日)に開催された、自由と生存の野菜市は、前回11月の来場100人を大きく上回る200人以上の人出で大成功となりました。同時に開催されたシンポジウムも盛会となり次回も企画を考える方向で準備を進めています。又、会場広場で行われた餅つき大会はご近所の方々や御家族連れの参加も得て餅が足りなくなるなど地域の方々と交流する取り組みをと準備して来た実行委員会としてもやってよかったと思えるイベントとなりました。会場からは「近所の人から新鮮で安い水菜を買ったと聞いたので」という方や「同じ団地の人から聞いた」など口コミで来訪されたという声や「同じ団地にビラをまいてあげたわよ」、「次回は町内会の回覧版に案内を入れなさい」とのアドバイスや「とても安くて品質も良いのでまた来るね」など応援の言葉もいただきました。

 前回寄せられた声を参考に1月も定例市を開催させていただきます。今回も、おなじみ千葉の「東峰べじたぶるん」さんや農家の皆さんが丹精込めて栽培した旬の野菜を取り揃え、野菜のおいしい食べ方レシピや試食会、美味しい洋酒を格安でご提供する街頭バーなどを行います。実行委員会・スタッフ・住民一同美味しくて安全な野菜類を取り揃えてみなさまのご来場をお待ちしております。

日 時:1月24日(日)10時~16時30分

会 場:自由と生存の家 新宿区愛住町3番 地下鉄四谷3丁目駅下車徒歩3分
(消防博物館出口を出て交番前を通り次の角を右折、花屋前の小道に入る)

イベント・シンポ等の予定は決まり次第お知らせします。
プロの占師による占いコーナーあり!

たくさんの方のご参加・ご来場をお待ちしています!!
お問合せ・ご連絡は、電話090-8562-7953 FAX:03-3373-0180

info@freeter-union.orgまで。web:http://freeter-jutaku.org/

※ 会場となる自由と生存の家を運営する自由と生存の家実行委員会(NPO法人申請手続中)は、フリーター全般労働組合住宅部会を母体に不安定な生活を強いられている労働者が安心して暮らすことができる住宅の確保を目標に立ち上げられ活動を展開しています。代々木に公設派遣村が設置されるなど厳しい社会情勢が続いています。みなさんからのご支援、ご注目をよろしく御願いいたします。
※ カンパ等は下記までよろしくお願いします。

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ロンメルの政治観

  ロンメルは、その息子マンフレッドの証言によると、1943年の後半には、ヒトラーに対する謀反の実行の決心をした。マンフレッドは、この年の12月、ヒトラー親衛隊に入隊するよう呼びかける一大宣伝活動が行われていた中、それに応じようとして、父親を説得しようとした。しかし、ロンメルは、強く反対した。「父は、大量殺戮を実施しているある人間の指揮下に私をおくわけにいかないといった。「それはヒムラーのことですか」と私が聞くと「そうだ」と父は答えた」(387頁)という。44年の早い時期に、ロンメルは、大量虐殺に関する資料を入手し、その結果、反乱を起こしてでも戦争を終結させようと決心した。

 43年7月9日、連合軍がシチリア島攻撃を開始した。イタリア軍は、約30万の兵士、1500の砲門を持っていたが、ほとんど抵抗しなかった。7月26日、ムッソリーニが監禁されるというクーデターが発生した。この経過について、彼は、28日に書いている。

 ムソリーニより召集されたファシスト大評議会自体が、ムソリーニの行動方針には不同意であることを宣言した。評議会での討論のあとの投票では18票が反対、8票が賛成、棄権は不明という数字が出た。ムソリーニは国王のもとに出頭したと伝えられたが、その途中でなにものかによって保護監禁されたのであった。
 パドリオが新内閣を組閣することは明らかであった。またパドリオのもとでは、全国的な「ファシスト狩り」が実施されているといわれる(390頁)。

 かつての「赤狩り」「自由主義者狩り」「民主主義者狩り」などに代わって、今度は、「ファシスト狩り」が起こったのである。ムソリーニ監禁後、イタリア王の命で、パドリオ元帥が政府主席となった。クラウゼヴィッツの軍事理論によれば、防御側には攻撃側より有利な条件がある。しかし、イタリアでは、反ファシスト派が公然と登場してきていた。そして、連合軍への抵抗はほとんど出来なかった。そこで、政治の問題に戻ることになる。

 マンフレッドの証言によると、ロンメルは、アフリカ戦線にいる間、対英戦争に備えて、フランスとの平和条約の締結とフランスの海外領土保全を保証するよう再三進言したという。その背景にあったのは、ロンメルの以下のような歴史認識であった。

 ヨーロッパの悲劇は、ナポレオンが戦争に訴えてまで実現しようとしたヨーロッパ各国の統合を維持することができなかったことにある。これが成功していれば、ヨーロッパ各国は大きな惨禍をこうむらずにすんだはずである。そのことは1866年(普仏戦争)、1914-18年(第一次大戦)を思い浮かべれば十分わかるであろう。ドイツの悲劇は、今次大戦中ヨーロッパの統合を実現すべき方法を知らなかったことにある。仮にヨーロッパ諸国が統合されていたとすれば、世界は8千万のドイツ国民の代わりに3億のヨーロッパ国民を相手にしなければならなかったであろう。ドイツの戦争目的は他国民の重大利害と衝突せずにすんだであろう。父のいうところによると、父はこの考えをつい1943年にヒトラーに伝えたが否定的な答えだけしか得られなかったようだ(402頁)。

 9月4日、イタリアに関する総統本営での会議で、ヒトラーは、ロンメルをイタリア戦線に派遣することを表明し、海岸に兵力を集中すべきだというロンメルの戦術が承認された。この戦術は、航空兵力を使った連合軍の新戦術に対応するためであった。しかし、9月9日、アイゼンハワーの率いる上陸用舟艇がサレルノ海岸に到着したが、その日、イタリアは降伏した。ロンメルは、自らの戦術をイタリアで実行することはなかった。ヒトラーは、ロンメルをイタリアでのドイツ軍の最高指揮者にするという考えをいったん表明しながら、撤回した。

 ヒトラーの当初の政治情勢認識では、国際金融資本を握るユダヤ人とそれに支配されているソ連が、ドイツにとっての大きな脅威であり、フランスは、地理的な近さから、直接の最も近い軍事的脅威であった。他方で、アメリカは、大西洋の彼方の遠い国家であり、その力は大きいが、当面の脅威とは見なされていない。フランスの脅威を取り除いた後は、東方の脅威であるソ連を倒すことが必要だと考え、東方戦線に大きな力を投入した。北アフリカ戦線は、友邦イタリアを支援するためであった。ロンメルは、イギリス側のアフリカ戦線の位置づけを次のように書いている。

  1. イギリス軍にとって北アフリカ戦線は主戦場であった。
  2. イギリスは、リビアにおける戦闘を戦争に決定的な影響力を持つ戦いであるとみていた。
  3. イギリスは地中海に強力で第一級の自国海空軍を持っていたが、われわれはたよりにならないイタリア軍のスタッフと交渉しなければならなかった。
  4. イギリス第8軍は最下級の部隊まで、すべてが自動車化されていた。(220頁)

 イギリスが北アフリカ戦線を重要視していたのは、石油ももちろんだが、地中海からインド・アジアを結ぶスエズ運河という海の大動脈があったからだろう。イギリスは、一時、地中海の制海権を失った時には、ケープタウン・喜望峰周りで、軍需物資をエジプトに送ったこともあった。ロンメルは、対仏戦の勝利後、即座にイギリス本土を攻略するよう主張したが、ヒトラーが、その世界観・地勢観から、東方攻略を重視して、西側との戦争の拡大を望まず、それを採用しなかったということもある。政治目的の両者の差は、結局、戦局の悪化と共に、鋭くなっていった。

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ロンメルのエピソード

 11月24日の午後おそくなってから、グラジアニが構築した鉄条網の東方、ビル・シェフェルツェンの近くで命令の伝達が行なわれた。ロンメルはそれから第21戦車師団の位置へ行き、自ら指揮してこれをハルファ峠に配置した(194頁)。

 これは、いかにも、ロンメルらしいエピソードである。エジプト国境に近いトブルク要塞攻略の前段階にあって、イギリス軍の大攻勢がエジプトから押し寄せてくる中で、逆に、エジプトに侵攻し、ソルムを攻略するという大胆な作戦に乗り出した時のことである。それによって、イギリス軍の指揮組織を崩壊させ、混乱状態に陥らせようとしたのである。イギリス軍を混乱させ、潰乱状態にし、エジプトへ後退させようとしたわけだ。この部分の執筆者は、その時のことをこう書いている。

 このような決定は、おそらく彼のこれまで下した決定の中で最も大胆なものであろう。アフリカの戦場を理解できなかったドイツ当局のある筋からは激しい批判を受けたが、敵からは高く評価され尊敬されたのである。ロンメルとしてはもちろん、トブルク南方で撃滅を免れた残敵をまず処理することは可能であったが、これに貴重な時間を費やすにしのびなかったのであろう。
 それよりも、兵をソルム戦線に転用して敵を奇襲し、その最も痛い所、つまり補給路を攻撃するほうがはるかによいと判断したのであった(194頁)。

 シディオマールへ戻る途中、ロンメルの車は、エンジンのトラブルで停止した。しかし、日暮れ頃、クルーウェル将軍とその幕僚を乗せたアフリカ軍団のマンモスが通りかかって、それに乗り移ったのである。マンモスというのは、イギリス軍から捕獲した車両で、ロンメルはこれをよく使っていた。鉄条網に阻まれて、通れるところを探すうちに、ロンメルたちは、イギリス軍・アメリカ軍の中に迷い込んでしまった。しかし、英米軍の誰も、そのマンモスに、ドイツ軍の司令官らがいることに気づかなかった。敵陣の中で夜を明かし、ロンメルは、自ら運転して、そこから脱出した。

 あるときなど彼はまだ敵のいるニュージーランド軍の野戦病院の中へはいっていったことがあった。彼は病院の将兵に何か必要なものはないかと聞き、イギリス軍の衛生材料を届けてやるからと約束して、なんら妨げられることなく立ち去ったのである。また彼はイギリス軍の使用している飛行場を横切り、何回もイギリス軍車両から追跡を受けたが、これをすべて切り抜けてしまった(195頁)。

 既存の成功体験を元にして、新しい状況にうまく対応できるという思いこみから自由になることは難しいことだが、失敗から学ぶだけでなく、成功からも、肯定的・否定的の両面を検討して学ぶことが重要だということが、このことからよくわかる。経験者が陥りがちな経験主義のドグマと同時に失敗から否定面のみを取り出して、意気消沈し、消極的な態度に陥ってもならない。成功から批判的に学ぶというのは、とりわけ、困難である。だから、レーニンのように、あらゆる多様な側面を客観的に把握するように努めなければならないのであって、弁証法的な認識活動は、そのような終わりなき過程であるということを忘れてはならないのである。それが戦術の柔軟性を生み出すのだ。それと、一般的な原則、思想的な原則を結び合わせないといけないのである。その反対なのが、以下のような、ヒトラーの態度である。1942年11月3日、ロンメルたちが戦況が不利になっていることがはっきりしていることを上級司令部に繰り返し伝えたにもかかわらず、かれらが、それを無視し、実情とかけ離れた、ロンメルたちの決断の自由を妨げる干渉を強めてくる中で、ヒトラーが、出した命令である。

 ロンメル元帥あて
 当面の状況において、貴官の採るべき行動は、断固として現在地を保持し、あらゆる火砲および兵を戦闘に投入すべきものとする。
 敵は優勢なるも、その力もまた尽きんとしつつあるべし。優勢なる敵に対し強固なる意志をもって勝利への道をひらきたるは戦史にその例なしとせず。
 貴官は身をもって部隊に対し、勝利かしからずんば死か、他に道はなきことを示されるべし。
                             アドルフ・ヒトラー  (338頁)

 それに対して、ロンメルは、「この命令は実行不可能なことを要求したものであった」と書いている。

 どんな忠誠心の強い兵であっても、弾丸に当たれば死ぬのである。ありのままの報告をしてあるにもかかわらず、総統大本営はアフリカ戦場の実情を理解していないことが明らかであった。兵器、燃料および飛行機を与えてくれるだけではなんにもならないのだ。われわれは総統大本営のやり方にまったくあきれかえるとともに、アフリカ作戦開始以来初めて途方に暮れたのであった(同)。

 ヒトラーは、過去の成功例を何かで読んだりして、そこから、こういう一般的な指令をひねり出したに違いない。敵は優勢だが、力が尽きつつあるとは、どういうことか? どこからそんな判断が出てきたのか? 頭の中の空想からだろう。 

 これで、ロンメルは、西への後退を中止し、その場での戦力強化に力を入れざるを得なくなった。この死守命令は、部隊に大きな影響を与えたという。それについて、ロンメルは、「総統から直接の命令を受け、部隊は最後の一兵まで戦う覚悟であった。上は軍司令官から下は一兵に至るまで、全員がたとえ全力を尽くしたところで、もはや戦勢をばん回することは不可能であることを知りながら、軍の士気が最高の状態にあるのを見て、苦い思いがわれわれの胸に湧いてくるのを禁じえなかった」(同)と述べている。ヒトラーの玉砕戦の戦術命令という現場介入の結果は、43年5月9日の、スターリングラード戦で、第6軍32万人のうちの23万人の戦死と9万人の捕虜というものであり、北アフリカ戦線でのチュニジアのドイツ軍13万人の5月中旬の降伏であった。ロンメルは、北アフリカ軍が投降したことに慰めをえたという。

 この直前、ロンメルは、ヒトラーに呼び出された。ヒトラーは、顔色が青ざめ、落ち着きがなく、自信を失った様子で、「君が前に言ったとおりにすべきだったよ、ロンメル君、だがもう手遅れだ。チュニジアももうすぐだめになるだろう」(383頁)と言ったとロンメルは息子に語ったという。この頃、ロンメルは、最高司令部やヒトラーを厳しく批判するようになっていた。

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ロンメルの軍事観

 1942年、アフリカ軍団とイタリア軍が守るトブルク要塞に対して、イギリス軍が、上陸作戦を仕掛けてきた。その最中の9月16日の手紙で、彼は、対ソ戦のスターリングラード攻防戦で、ドイツ軍が苦戦していることを知ったことを記している。

 スターリングラード攻略戦は非常に苦戦のようだ。われわれが南方で使えばもっと有利になるはずの部隊を多数投入している(316頁)。

 イギリス軍のこの時の攻撃は、スターリング大佐指揮のコマンド部隊によるものだった。

 これらのコマンド部隊はクフラ(トブルク南方約五百キロ、サハラ砂漠の奥地にあるクフラ・オアシス)およびカッタラ凹地から出撃し、時にはキレナイカまで進出して、イタリア軍に大きな不安を与えていた。彼らはなんどもアラブを扇動して、わが軍にあたらせようとしたが、ほとんど成功しなかったのは好運であった。なんといってもパルチザン戦ほどやっかいなものはないからである。またパルチザン戦が起きたときには、人質に対して報復を行わないことである。なぜならば、報復は復讐心をかきたて、その不正規部隊を強化させるのに役立つだけだからである。事件が発生した場合、無実の住民に対し報復せずになにもしないでおいた方がよい。報復手段をとればその地域一帯の全住民を刺激するだけである。イタリア軍の指揮官も私も同意見であったので、たまたまアラブによる襲撃があっても大抵これを見のがしておいた(316頁)。

 米軍のイラク占領軍が、これとまったく正反対のことをやったことで、いかにイラク占領が困難に陥ったかということは、例えば、アブグレイブでの捕虜虐待が暴露された時の、イラク人の反応が示すとおりである。

 この前に、『ロンメル戦記』は、「アラメインのイギリス軍戦線に対する攻撃は失敗し、戦いは新たな局面にはいった。これが北アフリカ戦場におけるわが軍の終局的な敗北の始まりとなったのである」(312頁)と書いた。軍事が政治の延長だというのは、北アフリカ戦線は、ドイツ・イタリア枢軸国対連合国の戦争の一部面であって、この時、同時に、ドイツは対ソ戦を中心とする東部戦線での戦いの最中であり、東洋では、アジアの枢軸側の日本によって、太平洋戦線、中国大陸から、インドシナ半島での広範な戦線での戦争が行われていて、それら総体の一部をなしているだけで、例えば、北アフリカ戦線の役割が、全体の中で、陽動作戦、時間稼ぎ、敵兵力の削減等々の意義を強めるとか、そういうふうに変化したりすることにも示されている。北アフリカ戦線は、独伊軍の後退戦になっていくわけだが、そこで、大量投入されてきた英米軍の新型兵器や航空戦力を使った新たな戦術を体験したことは、後の、連合軍のイタリア上陸作戦やノルマンディー上陸作戦などに対する対応力を身につけたことであり、その点でも、兵器と兵士の全てを失うような徹底抗戦は、無意味であった。ところが、ヒトラーは、後退を許さず、最後の一兵までその場で踏みとどまって戦うように指示した。その結果、数多くの経験を積んだ兵と大量の武器・物資を失った。ロンメル帰還後、アフリカ軍団は、連合軍に降伏し投降した。

 敗勢が濃厚となって以降、ヒトラーは、自己とドイツ人の滅亡を願っていたようであり、しばしば現地指揮にまで介入し、現場指揮官の行動をしばった。それらはことごとくはずれていって、戦局は、どんどん悪化していった。ついには、1944年7月には、ヒトラー暗殺未遂事件が起き、その後の粛清過程で、ロンメルもまた服毒自殺を強要される。このころ、西部戦線の指揮官・軍幹部の中で、できるだけ有利な条件で講和するべく連合軍との和平交渉を進める動きがあり、ロンメルもまたそれに与していた。とはいえ、彼は、ヒトラー暗殺事件には直接関与していなかったようである。

 ヒトラーの宗教的な世界観、政治観からする軍事観と違って、ロンメルの軍事観は、ずっと合理的なものであった。十分な補給の確保が不可能なことがはっきりする中で、ロンメルは、ドイツ参謀本部の上層部への不満をつづっている。

 ドイツ参謀本部の上級将校のなかには、すでに1年半も前から、アフリカ戦場において作戦を継続していくことは不可能だといっているものもあったのである。このような意見がドイツ国防軍司令部の上層部にあったために、イタリアやヨーロッパにあって補給の面でわが軍を危機におとしいれておきながら、漫然と職務の上にあぐらをかいているものがその地位にとどまることができたのである。それはトップレベルの話しあいでは、いつも彼らの主張が簡単に入れられたからである。輸送船の状況に関する彼らの見積もりは、少なくとも1942年夏の終わりごろまでは全然根拠のないものであった。それは時代遅れの考え方の産物でもあった。そのうえ全力を尽くして問題の解決に努力しようとせず、困難なも問題はすべて避けて通り、机上の作業だけでこれらの問題の困難さを証明しようとする傾向があった(313頁)。

 その上で、事業における経済学者と事業家を比較している。

 私はよく事業における成功という点で、経済学の教授と事業家との違いを思い浮かべたものである。事業家は知的な面においてはおそらく経済学の教授の比ではあるまいが、彼らは事実という要因に基づいて考え、そしてそのアイデアの実現に向かって全力を注ぐのである。しかし、経済学の教授は現実の事態についての誤った観念を抱くことが多く、事業家よりもアイデアに富んではいるであろうがこれを実行に移し、そしてこれをやりとおす力もなければ熱意もない。学者は知識を持っているということだけでいいのである。だから事業となると事業家のほうがはるかにその能力がすぐれているのである。
 兵学者あるいは戦術的な軍人と実戦むきの軍人との間にも、これと同じことがいえるように思う。最も重要な点の一つは-軍事的な面だけでなく、人生一般についていえることであるが-実行力、すなわち人が仕事を成しとげるために全精力を集中しうる能力である。頭が鋭いだけの将校は、通常幕僚として指揮官を補佐する職務に適するにすぎない。このような将校は、ある策案について批判したり、討議の材料を十分検討したうえで結論が出たならばこれを実行に移し、あくまでもこれをやりとおすという実行力が必要である。わが軍の補給の問題についてもまったく同じことがいえる。われわれが苦しんでいた補給の不足は、関係者の間に現状認識が足りないこと。および積極性と実行力とが全然なかったことによるものであった(313頁)。

 これはどういうことかというと、置かれている現実の位置や意味が、本人の自意識や自覚に関わりなく、状況の変化によって、変わってしまうことがあって、そこで、古い意識のままで、何事かをなし続けていると、ついには阻害物に転化してしまうという弁証法的な事態である。事業家は、現実の必要から、変化した状況に自分を合わせようとするが、学者は、出来上がった古い意識形成物の方を保守しようとする傾向に陥りやすいということだ。それが、戦争においては、生死を分けるのである。

 ロンメルは、1942年トブルク戦の勝利の後、元帥に昇進した。時に、49歳の若さであった。しかし、彼は、多忙すぎて、元帥の肩章につけかえる暇がなかった。そして、この年の9月に、ベルリンで、ヒトラーから、元帥杖を贈られた。その時、彼は夫人に、「元帥の杖よりも、もう一個師団もらいたいね」と語ったという。

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ロンメルの教訓

  1942年6月21日、ロンメルのアフリカ軍団は、連合軍の重要拠点のトブルク攻略に成功した。

 編者のリデル・ハートの注によれば、トブルクのイギリス軍守備隊兵力は、第2南アフリカ師団3個歩兵旅団編成のうち、2個旅団、第11インド師団、第201近衛旅団のうち、2個大隊と1個大隊の一部、第32戦車旅団指揮下の歩兵(支援)戦車2個大隊、第4高射砲旅団、であった。兵力、装備において、イギリス軍が、ドイツ・イタリア連合軍よりも優勢であった。勝利後、ロンメルは、書き記している。

 トブルクは攻略できたが、わが軍も全力を使いきってしまった。兵力および装備とともに優勢な敵を相手に何週間も激戦を続けたのであるから、わが部隊の損耗も大きかったのは当然である。しかし、弾薬、燃料、糧食その他戦闘に必要なあらゆる資材を含むばく大な戦利品が手にはいったため、わが部隊の戦力は充実し、さらに攻撃を実施することが可能となった(259頁)。

 まさに、これは、ゲリラ戦のやり方であり、チェ・ゲバラが書き残した戦記である『革命戦争の日々』に書かれてあるやり方と同じである。これは、現代戦において、兵力や装備において劣る側のやり方としてふさわしいものだ。その場合には、士気が重要である。イラク駐留米軍、アフガニスタン駐留米軍が軍の士気の低下に悩まされているということが、この間、明らかになっており、それを増派によって補おうとしているが、それでも米軍は同じ問題に直面するだろうから、表面的な効果しかないだろう。

 ロンメルは、エジプト進撃を決断し、ただちに、進撃を開始した。そこで、エルアラメインに後退し、陣地を構築し、要塞化しようとしていたイギリス軍を攻略するために、急いでいた。その最中の6月29日の日記に、彼はこう記した。

 指揮官はその幕僚とともに後方にいないで、部隊と一緒にいなければならないことがいつも場合にでもある。兵の士気を維持するのは大隊長だけの任務であろうと考えるのはまったくナンセンスであり、率先垂範する指揮官の地位が高ければ高いほど、その効果は大きいものだ。兵は、どこか後方の司令部にじっとすわっているに違いない指揮官には、一体感を持たないものであり、第一線の将兵が望んでいるのは、実際に指揮官と身近に接することである。
 部隊がパニックに陥ったとき、疲労困憊の極みにあるとき、あるいは何か非常な努力が部隊に要求されるとき、指揮官の率先垂範は奇跡的な力を発揮させるものである。特にその指揮官が、その身辺にある種の伝説のようなものを作り出す能力を持っているときは、その効果は大きい。この時期、部隊に対する要求は将兵の体力の限界に近いものがあった。このようなとき絶えず率先して兵に模範を示すことが将校たる者の任務である(267頁)。

 これは、工業大臣になった時のゲバラが、現場の視察にたびたび訪れたのと似た考えである。日本だと、織田信長がそういうタイプだろうか。あるいは、三方ヶ原の戦いの時の、徳川家康。それから、関ヶ原の戦いの時、敗戦確実となった後に、薩摩軍を率いて、敵の本陣に向かって突進し、家康を心胆寒からせた上で、戦場から脱出した島津。中国の三国時代の蜀の軍師、諸葛孔明もそうである。

 軍事上の大きな変化としては、エルアラメインの戦いで、イギリスの空軍の威力によって、制空権が大きな意義を持つようになったということがある。それに、ロンメルは、いち早く気づいたのである。このことが、後に、ノルマンディー上陸作戦時などのヨーロッパ西方戦線での作戦計画議論での、ロンメルをはじめとする北アフリカ戦線経験組と対ソ東部戦線経験組との対立としてあらわれる。航空兵力が重要であり、陣地もまた空からの攻撃に耐えられるように作らなければならなくなったのである。

 もう一つのこの大戦での軍事上の大きな変化としては、アメリカによる核爆弾の開発・使用ということがある。しかし、核兵器は、例えば、この時の北アフリカ戦線で使用されたとすれば、現地住民を大量に殺戮し、後々に渡って大きな損害を与えることになり、それは、戦争の目的たる講和にとって政治的に大きなマイナスとなっただろう。核兵器は、実際には使いにくい兵器であって、その後、何度も使用されそうになったが、結局は、これまで使われなかった。しかし、核兵器を使わない戦争は、第二次大戦後も繰り返し行われているし、現在も行われている。現在のアフガニスタンでの米軍の軍事作戦があまりうまくいっていないのはなぜかということを考える上でも、『ロンメル戦記』には、ヒントになるものがある。物的な要素と精神的な要素の関係が問題であり、物的に不利な側であっても、優勢な敵に勝つことが出来るということがわかるからである。

 さらに、ロンメルの教訓として、アフリカ軍の指揮の稚拙さの原因として、1941-42年の敗北から学んでいないことをあげている。伝統と歴史をもつ将校団が、新しいものに偏見を持って受け入れなかったというのである。かつて、プロシャ軍がナポレオンに負けたのもそうだというのである。「このような空気の中では、人の考え方は複雑な理論にとらわれ、現実に即応していく能力に欠けてしまう」(231頁)と彼は言う。

 用兵のドクトリンが細部に至るまで考え出され、これが兵学の全知嚢を結集したものだと見なされる。そして、その規格化された原則にかなった考え方だけが認められ、これ以外はすべて賭けであり、もしうまく行ったとしても運がよかったか、何かの間違いだと見なされる。このような考え方からはありきたりの古い考えしか生まれず、その弊害は恐るべきものがある」(同)。

 用兵の原則といえども技術の進歩に応じて変化するというのである。

 伝統を重んずるということを軍人精神においていかに大切なことであろうとも、用兵の分野ではいましむべきである。というのも、戦いの様相自体が技術の進歩によって絶えず変わっていくものであり、既成の価値を打破する新しい戦法を考え出すのは指揮官だけの任務ではないからである。したがって近代軍の指揮官は、従来の方法にとらわれることなく、技術的な事項をよく理解しうる能力を持っていなければならない。指揮官はたえずその戦闘に関する考え方を、その時点における現実と組み合わせて生まれる可能性に適応していかなければならないのだ。
 もし、状況により必要とあれば、指揮官はその考え方を根本から変えなければならない。私の相手であるリッチー将軍は、古い思想をもったその他の多くの将軍と同じく、作戦が完全に機動化された部隊によって行われるところから生じた変化、および開濶した砂漠の戦場の本質を完全に把握してはいなかったようである(231~2頁)。

 このことは、政治運動や社会運動においても重要な教訓となる。ある時期うまくいったということから、それを、そのまま長く教条的で硬化した原則、絶対的な基準として保守してると、変化する状況に合わなくなってしまうということである。過去からの原則的教訓は、一般的なものであって、現実にきちんと合わせることが出来ないと、運動の発展を妨げるものになってしまうのである。日和見主義が根を張ると危険なのは、そういう硬化したドクトリンになっているということもある。思想の原則性と戦術における柔軟性、変化への速やかな対応、等を結合させねばならないわけである。それには、今、われわれが、どのような戦場にいるのかを、明瞭に把握しなければならない。

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『ロンメル戦記』によせて

 以下は、トブルク要塞戦の最中の、1941年5月6日にロンメルが書いたものである。この攻撃で、ドイツ軍の負傷者・行方不明者は1200名以上になっていた。ロンメルは、「これは、戦いが機動戦から陣地の攻防にうつると、損害のカーブがいかに急激にあがるものであるかを物語るものである」と述べている(『ロンメル戦記』164頁)。

 機動戦においてはもちろん兵員も欠かせないが、これとともに、最もものをいうのは兵器資材である。機動戦ではどんなに精鋭な歩兵も、戦車や火砲や車両がなければ何の価値もない。したがって機動部隊は、その戦車を撃破すれば歩兵に大きな損害を与えなくても戦闘力を失わせることができる。陣地の攻防戦の場合にはこれと異なり、対戦車砲または障害によって敵戦車の攻撃から守られているかぎり、小銃と手榴弾で戦う歩兵はちっともその価値を失わない(同)。

 ロンメルは、1942年に、戦い全体にかかわる中間総括を書いている。

 その中で、「第二次大戦において、最も新しい型の戦いが行われたのは、おそらく北アフリカ戦場であろう」(225頁)と書いた。

 その理由は、北アフリカ戦線は、ほとんど砂漠の兵站地帯で、主役が完全に車両化された部隊で、機甲化部隊の戦闘の原則を十分に適応させることができた唯一の戦場だったからである。そこで、機甲部隊に適した特有の戦術があり、それについて、ロンメルはいろいろと書き残している。機甲部隊の戦いでは、特に、スピードが重要であり、そのために包囲戦を直接の作戦目標にすることはできないのである。それから、部隊の時間的、地域的な集中使用、補給の重要性、逆に敵の補給の遮断の重要性、機甲部隊以外の部隊はその補助部隊であるため、戦車部隊攻撃に重点を置くべきこと、偵察部隊の報告の迅速な把握、機動速度と部隊としての戦力結集の重要性が高いこと、奇襲的要素の重要性、大きな打撃を与えたら主力を迅速に壊滅させることなどが重要であると言う。そして、彼は、教訓として以下のように述べている。

 私の経験によれば、指揮官の決心が大胆なものであればあるほど、その作戦の成功の見込みは大きいが、戦略的または戦術的大胆さと軍事的な賭けの違いを心得ておかねばならない。大胆な作戦というのは、成功するか否かは確実ではないが、失敗した場合どんな状況になってもこれに十分対処できるような兵力を手許に持っているものをいう。それに対し軍事的な賭けというのは、勝利を収めることになるかもしれないが、徹底的な敗北に陥るかもしれないという作戦である。
 状況によっては軍事的な賭けもやむをえないことがある。一例をあげれば次のようなものである。普通のやり方では負けるのは時間の問題なので、時をかせいでみても無意味であり、ただ大きな危険を冒して一か八かでやってみるほかに望みはないという場合である(228頁)。

 ここで、先日引用したような学問的理論があまり役立たなくなる領域に入っている。ついでに言えば、先のイラク戦争において、アメリカ軍は、自動化された機甲部隊で、対するイラク軍は、あまり自動化されていない歩兵部隊が中心であった。したがって、砂漠地帯での戦闘で、イラク軍がほとんど抵抗らしい抵抗も出来ずに敗退したのは、当然である。その点についての教訓になるようなことをロンメルは書いているが、それは後に取り上げたい。

 ここで、グラムシが、東方においては国家が全てであり、市民社会はゼラチン状で、西方では、国家の鎧の下に市民社会という塹壕があるために、東方において有効だった機動戦が、西方では、国家を壊滅させるためにしか役に立たず、その上に、市民社会という堅固な要塞への陣地戦が必要だと述べたことと、やや強引に比較してみたい。もちろん、グラムシは、政治について語ったのであり、その比喩として軍事用語を使ったわけで、直接的に比較するのは、ごくおおざっぱな意味においてという以上ではない。この際に、グラムシは、国家暴力に対して、同意の契機、すなわちヘゲモニーという権力関係の概念を提示したのであり、その点が、新しかったわけである。ただし、西欧国家における陣地戦への全面的移行ととられかねないように書いたのは、それが獄中で書かれたノートであることや地域的に限定的な言い方であるものを、後の人々が一般化したということもあって、それはちょっとやりすぎではないかというところもあって、そのまま今の日本に当てはめることには無理があることを踏まえておかねばならない。

 グラムシが直面したのは、国家が溶解してしまった状態で、社会を再生産している社会関係とは何かということである。国家なき社会は、マルクスの究極目標であったし、レーニンによる死滅しつつある国家としてのコミューン型国家という提起もあった。自由主義者の普通の答えは、それは自由市場だというものだろう。

 新自由主義は、国家機能を治安・外交に限定しようとして、その限りでは、小さな国家を目指したが、実際には、この二つの機能を強化させていくことで、国家暴力の強化、国家の強化の方に向かったのである。その他の領域、とりわけ経済の領域において、自由化が、調和ある秩序を自動的に実現すると考えたわけであるが、それは、一部の者にだけ良い秩序であって、しかも、それは法的・権力的に強制・維持される秩序でしかなかった。しかし、このことは、自由主義者の予想を超えた秩序の崩壊を招いたのではないだろうか。その象徴は、日本では、ホリエモンであり、アメリカで金融恐慌の引き金を引いたサブプライム・ローンの担い手たちである。

 だから、社会再建というのが、あるいは秩序回復というのが、自由主義者の今の願望の一つなのだろう。しかし、今、自由主義者なるものは、嘘のように、世の中からかき消えている。かれらは一体何を考えているのだろう。経済においては、経済への政府・国家介入を求める声が大きくなっている。世間では、外国人を犯罪者扱いし、警察に代わって、外国人犯罪を取り締まるとする民間ファシストの「在特会」などが、日中戦争、中国の反日デモの報復と称して、繁華街をデモし、差別排外主義的な言辞をまき散らして、人々を傷つけている。自衛権の場合、過剰な行使は規制されており、正当防衛の範囲というものが問題になる。いずれにしても、この問題では、ある種のワイマール体制と言えないこともない一面を持つ鳩山連立政権下での、ファシズムの台頭の萌芽という面があり、広範な連携によるファシズムへの包囲、大衆的支持のある対抗行動の形成が早急に必要となっていることは明らかだと思う。

 もう一つ考えなければならないのは、東方国家のタイプに属する日本の市民社会という塹壕とは何かということである。教育一般その他のヘゲモニー装置の存在は、確かに、近代国家として西欧諸国と共通しているのは間違いないが、そもそも明治国家は、当初、不平等条約を結んでおり、幕府軍がフランス、倒幕軍がイギリスの軍事的その他の援助を受けており、薩長などが王政復古によって太政官などの古代律令体制を復古させた政府が、西欧的近代国民国家として、主権国家として完全な独立を遂げていたというのは明らかに言いすぎである。明治政府が、その後、プロシャ型を模倣したという点でもそれは言えよう。教育制度についても、明治国家の場合は、独立的個人を形成するというような市民形成教育ではなく、人々を国家に従属させる臣民化教育であった。

 本格的な教育の市民社会のヘゲモニー装置化は、少なくとも戦後に始まったというふうに言えるだろう。それも、全面的なものとは言えない。それと、日本的というか、この地域において、歴史的に特殊化された社会・文化の形成のされ方があって、大衆運動にもそうした歴史的特殊性が刻印されている。それと、世界性との結合が問題となるわけで、そこに運動の地域的歴史的独自性が形成されるということになる。世界性の運動への刻印は、国際的なプロレタリアートの世界性の刻印ということであり、世界のプロレタリアートの運命を自らの運命として感じ、姉弟的関係、それこそ、階級的「友愛」を感ずるまでに理解し合うということである。

 特に、強調したいのは、軍事問題における西欧かぶれの日和見主義者たちの、西欧的理屈によるヒステリックな否定的反応の問題である。西欧的倫理が深く浸透していないこの地で、そんなものを振りかざしても、セクト主義的な役割しか果たさないということである。ここでは、唯一神的な唯一の絶対的基準を当てはめて、倫理的なで切りをするというようなやり方はマッチしない。つまり、共同体ごとに独自の神や仏があって、別の村に行くと、道徳規準が変わるという複数的基準の文化的伝統があるということだ。「郷に入っては郷に従え」という諺がそれを示している。西欧に憧れ、あるいはそれを絶対的な進歩的基準と考えることは、近代主義をいつの間にか普遍的基準として立てることになってしまう。だから、そうした日本の社会文化を、単に、近代化の遅れと考えるような転倒に陥ってしまうのだ。しかし、今、この社会は、近代化を基本的には達成し、その上で、この近代化の果ての苦悩に襲われているのであって、それに対して、近代主義が回答になっていないからこそ、血統主義的国民規定なる前時代的価値観を掲げる「在特会」のようなファシズムが、そうした、えせ回答で、運動を起こせているのである。地縁的結合、血縁的結合、これらの解体の中で、別の社会的結合を、共産主義的結合の実現を構想して対抗する必要がある。保守主義者の一部は、血縁を「家族」に代表させ、地縁を、「ふるさと」に代表させ、その結合の最高段階として、「国民」的結合関係を描いているのである。そして、その具体的な中身は、家父長的な「血縁」家族であり、地域ボスの支配する「地縁」地域であり、国に臣下として仕える「国民」というものもある。

 しかし、軍隊は、ロンメルの書いたものを読めば明らかなように、機能的関係が基本であって、兵は兵の機能を果たし、将校は将校の機能を果たすこと、それぞれ与えられた役割・機能を果たす限りで形成される集団であり、その点では最も近代的なのである。これは、経済的には、社会的分業の組織化と似たものであり、機能的連関として形成されているものなのだ。現代でも、中小企業の中には、家族経営もあれば、同郷者ばかりで営業しているところもあるだろうが、大企業になれば、そういう要素は少ない。公務員も基本的にはそうだし、それを試験制度によって保ってきたはずが、今では、格差→学歴格差→公務員化の循環が生まれてきて、世襲的になってきている。現代国家の身分化といってもいいような事態である。再近代化によって、こうした事態を打開するということも考えられよう。一応、鳩山政権にはそうした志向があることはある。

今日、鳩山政権は、定住外国人参政権法案を今国会に提出することを表明した。「在特会」は、当然、これに猛反発して行動を活発に起こすことだろう。右派国会議員や自民党保守派や民主党内右派(旧同盟系、旧民社系など)も、反発するだろう。

 私は、すでにこの社会に定着している隣人であり、友人でもある旧植民地出身者に、この社会の一員として対することは、過去の歴史の清算という意味でも当然と考えるので、内容が不十分であっても、よほど問題がない限りは、定住外国人地方参政権法の成立を支持する。参政権は権利の付与であって、行使不行使は、罰則がなければ、自由意志行為であるから、棄権できるということを踏まえていればいいと思う。かれらを総体として敵と考えることは現実的には不可能であり、誤っている。一部に、敵対的な行為を行う者があるということを針小棒大に拡大すれば、妄想の域に入ってしまう。そういう極端な状況を想定することには、今のところ、まったく、リアリティを感じない。

 あっちこっちに飛んでしまった。ロンメルの言うことは、兵という立場で考えれば、どのような将校が自分たちにとって望ましいかということの例として読めるし、将校の立場で読めば、その立場がいかに難しいかということを思い知らせるものである。ロンメルの将の基準に照らしてみると、騒ぎを起こした田母神元幕僚長などは、将としては失格で、保守派が英雄のごとく担ぎ回っているのは、将を甘やかすもので、結局、それは、軍を弱めるものでしかないということがわかる。

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『ロンメル戦記』

 第2次大戦時のドイツ陸軍のロンメル将軍の日記などを集めた『ロンメル戦記』(読売新聞社)を読んだのは、中学生の頃だが、久しぶりに読み返してみて、こんな箇所にぶつかり、けっこう、今の自分の考え方に、彼の考え方が浸透していることに気づいた。

 これは、1941年の北アフリカ戦線の第2次トブルク要塞攻撃の際に書かれたもので、完全に自動車化されたイギリス軍部隊との戦闘の教訓として、作戦における機動速度と指揮官の迅速な反応が必要だということを一つ確認した上で、指揮官の任務として、幕僚相手の仕事だけではなく、部隊指揮の細部にまで気を配り、第一線をたびたび見る必要がある理由を記したものである。

  1. 指揮官およびその幕僚の立案した計画を正確に部隊に実行させることが最も重要である。各部隊の将兵の一人一人が、そのおかれた状況下でしなければいけないことをすべて実行すると考えるのは誤りである。たいていの者はすぐある種のものぐさ的な気分に陥るものであり、いろいろな理由をつけて、あれはできない、これは不可能だ、と報告してすましてしまう-理由はどんなにでもつけられるものである。/この種の人間には指揮官の権威を思い知らせ、無感覚な状態から立ち直らせなければならない。指揮官は戦いの原動力であり、部隊は指揮官の姿を見てその指揮を受けているのだということを、常に感じているようでなければならない。
  2. 指揮官は部隊に戦術的な経験および様相を常に知らせておくとともに、これを実際に応用させうるよう絶えず努力しなければならない。指揮官は、部下諸隊に最も新しい戦闘上の要求に応じた訓練を受けさせるようにしなければならない。いちばん部隊のためになるのは第一級の訓練を施すことである。これによって部隊は余分な損害を出すのを免れるからである。
  3. 指揮官は第一線の状況を自らはっきりと承知し、その指揮下の部隊が直面している問題点について、明確な認識を持っていなければならない。そうすることが指揮官自らの考え方を常に最も新しいものとし、変化していく状況に適応しうる唯一の道である。/もしも指揮官が戦場で部隊を指揮するときに、将棋をさすようなつもりで戦いを進めるならば、彼はまったく学問的な理論にとらわれ、第一線の実情と遊離した、自画自賛的、独善的な指揮を行なう結果になってしまうだろう。ある特定の考え方にとらわれることなく、周辺の状況を十分に把握し、独創的な思考をめぐらせる指揮官こそ勝利を収めうるのである。
  4. 指揮官はその部下と密着して部下とともに感じ、ともに考える能力がなければならないし、兵もまたその指揮官を信頼していなければならない。常に忘れてはならないことが一つある。それは、決して部下の目はごまかせないということである。普通の兵ならばだれでも、真実と虚偽とを敏感にかぎ分けるという点において驚くべき能力を持っているものである。(251~2頁)

 特に、4の「普通の兵ならばだれでも、真実と虚偽とを敏感にかぎ分けるという点において驚くべき能力を持っているものである」という洞察は鋭い。これを忘れると、独善に陥り、それが自分にマイナスとして跳ね返ってくる。それに、3の「学問的な理論にとらわれ、第一線の実情と遊離した、自画自賛的、独善的な指揮を行なう結果になってしまう」危険性というのも、肝に銘ずべき重要な教訓の一つである。

 その他、いろいろと学ぶものがあるので、『ロンメル戦記』は、これからも取り上げていきたい。

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あけましておめでとうございます

 ちょっと遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 昨年は、政権交代という政治的事件があった年でした。今年は、おそらく、中国が、日本を抜いてGDP世界2位となるのが確実と見られているという変化がある年です。中国では、上海万博があり、そこまでの成長ということはほぼ確実でしょうが、その後、中国経済がどうなるかは不透明である。

 テレビなどで見る限りでは、日本経済は、通常予算と第2次補正予算の執行で、小康を保つ状態が続きそうである。それも外需次第ということもあり、今のところ、高い成長率を維持している中国市場の動向に大きく依存したものとなる可能性が強い。

 財界の新年会でのインタビューで、現在の不況の原因をデフレに求めている経営者がいた。名目的物価のことを言っているのか実質的物価のことを言っているのか、わからないが、例えば、世界最貧国の一つであるエチオピアのGDPは年率2桁の高い数字を示しているが、それを上回るインフレがあるというようなことがある。とくに、アフリカ諸国の経済情勢がここ数年悪化しているという本を読んだ。「社会主義」的政策を採っている国は、アフリカにはなく、世銀・IMF、国際社会のアドバイスや支援を受けて、資本主義的政策を採っていたわけで、それが、ここ数年の間に急速に悪化したのである。どうしてそういうことになったかを、経済に詳しい人が明らかにして欲しいところだが、見たのは、新書版で、元朝日新聞記者の書いたもので、アフリカ諸国政府の政策のまずさに原因を帰しているというものであった。基本的に、工業化路線が農業政策軽視を生み、その結果、農業生産力が低下したことで、食糧不足、インフレが起きているというのである。南ア、ジンバブエなどで、白人テクノクラートを公職から追放するという政策がそれを促進したというのである。しかし、記者の視点は、白人大農場主と現地人零細農民の勤勉さが合わさって、一時期の農業を中心とする好経済を生み出したというもので、階級制を前提とした体制を支持するものである。日本の農地改革では、土地を得た零細・小作農の自営化は、かれらの農業生産意欲を高めたのだが。ただ、それに応える需要が小さかったことに問題があった。協同組合化、そして、政府買い上げ制度などによって、そうした需要の拡大が図られたのである。経済統計で確認はしてないけれども、EUをはじめとする先進国での需要が落ち込むなどの要因が絡んでいる可能性がある。

 次に、東欧から中央アジアにかけての地域が経済的に苦しくなる可能性がある。それは、ヨーロッパ経済の後退が今年予想されているからである。

 世界経済の本格回復というのは、あるとしても、だいぶ先の話のようだ。

 年末、山谷に行って、林芙美子の「放浪記」を書き直した路上芝居を観た。今年は、どんな年になるのでしょうか。どんな情況だろうと、赤い炎のような情熱を持って、生き生きとやっていきたいと思います。

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