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2010年2月

ファシズムの批判(8)

 ヒトラーは、民族の強さの構成要素を三つあげる。

  1. 民族価値そのもの
  2. 既存の人種価値
  3. 健全な自己保存本能

 そして、彼は、国民と国家が別の概念になってしまったので、これを変えることが、国家社会主義運動の任務だと言う。それから、彼は、国際情勢について分析する。その時、まず、第一次世界大戦でのドイツの戦争意図を否定する。ドイツは、「純然たる競争上の妬み」から、イギリスによって、戦争に追いやられたというのである。

 ヒトラーは、戦争の経済的な要因を指摘した上で、「生産の拡大と生産コストの削減によって国民の暮らしを立て直し維持していくという試みは、最後には必ず失敗する」(172頁)という。「理由は、その闘争の最終的な結果を引き受けられないからである」(同)。さらに、「その原因は軍事力の欠如である」(同)と言う。そして、「最後にはドイツ国民の暮らしは崩壊し、それに伴って、すべての希望は費える」(同)。こうして、ヒトラーは、資本主義国家間の経済競争が戦争の原因であるという正しい一面を捉えている。競争の先には、戦争がある。だから、それに勝てる軍事力がなければ、経済的苦境をはねのけることは出来ず、生活は苦しくなる。

 アメリカについて、ヒトラーは次のように表する。

 その国は、純粋なヨーロッパの植民地として数世紀にわたり、移民という形によってヨーロッパで最良の北方勢力を受け入れてきた。本来の血の共同体から援助を受け、最高の人種価値を持った共同体をまったく新たに築き上げた(171~2頁)。

 アメリカはドイツにとって脅威ではあるが、まだ遠い存在としてある。それに対して、隣国のフランスは、「最も危険な敵国と考えねばならない」(215頁)と彼は言う。それは、「フランスがのみが-連合した各国のおかげで-紛争勃発後-瞬間的にドイツ全土を脅かせる位置にあるからである」(同)。

 そして、ドイツの脅威として、イギリス、フランス、ロシアをあげている。このうち、ロシアについて、こう述べる。

 1919年および20年に国家主義ロシアの白軍が戦ったのは、ユダヤ証券取引所革命、すなわち最も高度な意味での国家資本主義赤色革命だった。しかし今回では、今や国家的なものとなった反資本主義ボルシェビズムが、世界ユダヤとの戦いを妨害するだろう(225頁)。

 続いて、彼は、ボリシェビズム革命を次のように評価する。

 ボルシェビズム革命とともに、ロシア人の生活のあらゆる分野における指導層がすべてユダヤによって握られたことも、まったく理解のいく過程となる。なぜなら、スラヴ民族というのはそもそもそれ自体としては組織能力にまったく欠けており、したがって国家を形成する能力も、まったく持ち合わせがないからである。スラヴ民族から純粋にスラヴ的でない要素をすべて取り去れば、国家としてはたちまち崩壊してしまう(231~2頁)。

 ここには、民族共同体を所与のものとして絶対化し、その代表的人格としての人種価値の体現者である個人による独裁というヒトラーの思想がよく現れている。これは、バクーニンの思想にも似ているが、ただ、人種価値が、スラヴの方が高いとしている点が違う。

 根本的に言えば、どのような国家であってもその形成にあたっては、上位の民族と下位の民族との邂逅がまずあって、それが深奥部での衝動となるものである。その出会いによって、高い血統価値を持つ民族は、自己保存のために明確な共同体精神を発達させ、それによって初めて、組織と劣等民族支配が可能となる。すなわち、前者では、自己の血統を保存するための組織形成が可能となるのに対し、国家形成力を持たない者は、自らの存在を保証するような組織形態を自力で見出すことができないのである(232頁)。

 彼は、民族と民族が出会うことで、国家が生まれると言うのである。それらの民族の上下関係は、血統価値の高さの上下で決まる。国家が歴史的に形成されるのに対して、民族は、血統という普遍的価値によって決まると言うのだ。

 民族だけは、真の価値の基体であって、純粋であるほどよいという。そして、その純粋さを汚す者、脅かすものの排除を呼びかける。民族を破壊し生活を悪化させる者は、外なる敵であり、そのエージェンシーたる内部の敵である。そして、それを打ち負かすための民族の血の純粋さを強めることを基礎にした軍事力の強化の必要性が説かれる。歴史は、民族対民族の闘争であり、人種間闘争である。その時、敗北した戦争は、外なる敵のせいだとされる。

 下の記事は、第二次世界大戦時のアメリカなどの連合軍によるドレスデン空襲の日に、アメリカによる大量殺人(ホロコースト)だと主張するネオ・ナチのデモ隊が、それに対抗する1万人の人間の鎖と警官隊に阻まれ、一部が暴徒化して暴れたことを伝える記事である。ドイツ政府は、こうしたネオ・ナチを批判しているが、同時に、今、ギリシャの財政悪化を火種として、ヨーロッパ経済の経済悪化が起きているのに対して、EUの安全を図るために、ギリシャの加盟を拒否する態度を表明しているように、自国中心主義的な態度も示している。財政危機は、イタリアでも深刻化している。ネオ・ナチ台頭の条件はふたたび拡大している。

 極右デモ阻止 1万人の『鎖』 独ドレスデン大空襲65年(「東京新聞」2010年2月15日)

 【ベルリン=弓削雅人】第二次大戦末期の連合軍による大空襲から六十五年を迎えたドイツ東部ドレスデンで十三日、ネオナチなどの極右団体がデモを計画、これに対し、市民ら一万人以上が「人間の鎖」をつくって対抗。警官約七千人も出動し、極右のデモは阻止された。

 極右団体は、約二万五千人の犠牲者を出したとされる英米軍による空爆について、「爆弾による大量虐殺(ホロコースト)」と主張。デモのため約六千四百人を動員した。

 市民らは、空襲で破壊、再建され戦災の象徴となったフラウエン(聖母)教会がある旧市街を囲むようにして手をつなぎ、人間の鎖をつくった。鎖に加わったオロス市長は「追悼の日を悪用しようとする動きには、断固反対する」と強調した。もみ合いなどで警官ら約三十人が負傷した。

 ネオナチは同日夜、同市周辺などで暴れ、約百八十人が警察に一時拘束された。

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ファシズムの批判(7)

 国際主義を口を極めて批判したヒトラーは、次に、大衆民主制を攻撃し、国家論を展開し、指導者の優越を導き出す。その人物像とは、次のようなものだ。

 それは民族の人種価値を代表する者として活動し、その民族の文化的特徴をつくり揚げた人格の存在である(66頁)。

 そして、「人種価値」と「人格価値」とは切り離せないと言う。人種を代表する人格は、価値が高いということである。それを妨げるものこそ、議会制度だと、ヒトラーは言う。

 議会制度は、真に創造的な業績をもたらすことができないばかりでなく、平均レベルを超えた者、何らかの意味で驚異的な者が現れて活躍することを妨げるのである。古今を問わず、平均的な愚かさ、不適当さ、怯懦、さらには傲慢といったものであり、それを超える者が持つ偉大さは、大多数にとってはつねに最大の脅威と映ってきた。それに加え、民主制においてはほとんど法則のように劣悪な人物が指導者となるため、このシステムは理論上、どのような制度に適用されたとしても、指導者集団全体の価値を下げてしまうのである(67頁)。

 ここでは、ニーチェの剽窃が顔を出す。しかし、ニーチェ的な民主主義批判の多面性を無視してその一面を捉えているにすぎない。これと正反対にとれるようなこともニーチェは書いている。ニーチェの哲学の大前提は、その言葉が、夢の世界の記録だということである。それは絶対的観念論と言っていいようなもので、それを現実の議会制度批判に使うこと自体、おかしいのである。

 ヒトラーは、これは民主制の本質的な無責任性にあると言う。そして、多数という概念にかみつき、それは、「掴みところのない現象なので、何とはなしに責任を負わせることができる」(同)ものだと言う。だから、指導者は、多数の意志の執行者に過ぎない。それに対して、指導者の本来の任務は、「創造的な計画やアイデアを提出し、利用可能な行政機構の支持を得てそれを実行する」(同)ことであるのに、民主制度の指導者は、多数者にプロジェクトを合わせることになる。したがって、そのプロジェクトは、妥協の産物である。だから、責任を負わせようがないと言うのだ。

 純粋に個人が責任を引き受けるということがひとたびなくなってしまったら、活力ある指導者が現われるための最も強い理由が失われてしまう(同)。

 そして、彼は、「軍組織〈機関〉は個人の権威と責任を最高度に志向するものだ」(同)として、軍組織と民主的文民制度の指導者訓練の結果を比較する。

 一方の組織では、人は勇気をもって喜んで責任を引き受け、しかもその任務に必要な能力を有しているのに対し、もう一方の組織では能力もなく、責任を引き受ける勇気もないのである(同)。

 しかし、これは両者を対立的に仕立てすぎているのであり、誇張され単純化されている。文民組織が、ただ無責任だということはない。むしろ、責任が負わされているので、それをできるだけ引き受けないようにしているのである。軍組織も官僚制度の一部であるから、官僚主義はある。勇気はけっこうだが、それは正義と結びつけられてこそ、高い評価を受けるべきものである。勇気ある悪人ではどうしようもないではないか! もっとも、その時代の中で悪とされるものも、後世には善となるという場合があるので、正義も弁証法的に理解されなければ、保守的なドグマと化す。

 そして、ヒトラーはドイツ国民に訴える。

 悲しいかな。、今のドイツ国民には、真に偉大な指導的精神が欠如している。そのことを最も端的に説明しているのが、われわれの眼前にある荒廃と崩壊である。これは現在の民主的議会制度を通してもたらされたものである。この制度は、わが国の社会生活全般をゆっくりと腐敗させていくものなのである(68頁)。

 多数か、頭脳か、とヒトラーは二者択一を迫る。もちろん、彼の答えは、後者だ。ヒトラーは、偉大な者の活動を制限しないで、愚か者を防ぐ壁を作り、影響を持たせないようにせよ、と叫ぶのだ。

 ヒトラーの言う偉大な者は、人種価値を文化的に表現する代表者のことであった。その価値は人種価値と関連していて、人種価値と共に上下する。それは、民族の自己評価によって決まる。評価を確認するにはどうするか? 議会制度によって確かめるしかないということで、ミュンヘン一揆に失敗した後、ヒトラーは、議会選挙にうってでるのである。しかし、この時点では、彼は、官僚や軍部の支持を求めて、かれらにターゲットを絞っていたわけである。それで、ニーチェの官僚独裁擁護的な面のみを抜いて利用したのだろう。しかし、議会もまた国家の暴力装置であり、独裁権力の一部である。ベンヤミンの概念では、議会は、「法措定暴力」なのである。だいたいは、近代国家では、権力は、三権分立になっていることが多いわけだが、実際には、執行権力が他に優越していて、ドイツでは、それは、議会が少数与党時代になった時に、「大統領緊急令」乱発による政策決定がなされたことで、目に見えるようになった。現在の日本の民主党中心の連立内閣では、検察・警察の司法権対議会選出の政権の対立が激化している。政権交代後も、依然として執行権力を握る官僚の力は強いものがある。

 ヒトラーにとって、民主制度に対立するのは軍事制度であるが、それは過去のドイツ軍の制度を理想化して描いたものにすぎない。勇気は、スポーツ競技においても発揮されるし、大衆運動においても、街角においても発揮されており、特に軍隊のみに固有の性格というわけでもない。繰り返しになるが、ヒトラーの狙いは、軍隊を含む官僚機構への支持の浸透ということにあったので、それを強調したのである。そして、民主制度に対して、自分個人を単なる一人格ではなく、「人種価値」の体現者として示すことで、ナチスの権力掌握を正当化しようとしたのである。ヒトラーは、個人原理を立てているのであって、個人主義者としての個人独裁への野望を正当化したのである。それは、しかし、民主制度の中では、執行権を代表する個人、一人格としての大統領制というかたちで存在しているのだが。そして、それが、君主制の継承であることは、アメリカ建国の祖たちの言葉に示されている。大統領は近代的君主なのである。少なくともアメリカでは、そうなのだ。なお、現在のアメリカ君主のオバマは、1月の失業率が予想以上に悪かったことから、雇用対策を強調しているが、地方知事の選挙や補欠選挙で、共和党に連敗中である。

  ヒトラーの国家論は、執行権とりわけ軍の独裁論であって、その頂点に、個人を頂くというかたちのものである。官僚制については、マルクス『ヘーゲル法哲学批判』やマックス・ウェーバーのものなどがある。マックス・ウェーバーの基本概念に依拠しつつ、ヒトラー権力の分析を行ったものとして、『ヒトラー権力の本質』(イアン・カーショー 石田勇治訳 白水社 1999年1月25日発行)がある。そこで、イアン・カーショーは、ヒトラーの世界観を、「過去のすべての偉大な文化が滅亡したのは、もともと創造的な人種が血の汚染によって死に絶えたためであった、…混血とそれによって引き起こされる人種の水準の低下は、すべての文化の滅亡の唯一の原因である。…あらゆる世界史的事件は、よかれあしかれ、すべての人種の自己保存本能の表現である」(前掲書45頁)とまとめている。そして、また、、「1920年代初頭、芸術的で「救世主」的な指導者の出現と、その人物が率いる新しい帝国の理念は、ドイツの極右勢力のなかでさかんに唱えられていた」(47頁)ものを反復ししている。それから、ヒトラーが死の直前に残した「政治的遺言」は、「「ドイツ国民の指導者とその従者」に対して、「人種法」を遵守し、全民族の世界的毒殺者たる国際的ユダヤ人に容赦なく抵抗せよ」(47頁)と述べているという。

 こうしたヒトラーを信奉するネオ・ナチが近年、世界的に台頭しているが、それは、国際的な運動となっていて、ロシアという、ヒトラーが劣等民族に分類したロシア人の間でも広まっているという。それは、自然発生的な現状批判の心情から来ているものと思われる。日本にも、ヒトラーを信奉するファシズム団体があるが、彼らの一部は、国際的なファシズム運動の一部として活動していて、実際、外国の団体と共同行動を行っている。記憶されてる方もおられると思うが、ヨーロッパでは、オーストリアで、ハイダー率いる極右政党が選挙で権力を握った例があり、フランスでは極右政党の国民戦線のルペン代表が、大統領選挙で2位に躍進したことがある。さらに、ドイツでは、東西ドイツ統一後に、ネオ・ナチが台頭し、スキンヘッドと呼ばれる若者のヒトラー信奉者たちが、移民を襲撃したり、左翼系の若者達と街頭で衝突するなどの騒ぎを起こしている。その中には、フーリガンとして、サッカー場に押し掛けて騒乱を引き起こしている者もいるという。しかし、それは、ヒトラーのような粗悪な資本主義批判、国際資本をユダヤの民族性に象徴させ、資本との闘争を、人種間闘争へすり替えているだけのものであって、それによっては、国際資本はびくともしないのであり、むしろ、かれらは、そうした闘争をも利用して利潤を上げるのである。ヒトラーの思想は、その資本主義批判の無内容なことに対応した「国家社会主義」観をも持っている。その批判は、後で取り上げる。

 こうしたヒトラー的な個人原理に対して、個人主義というイデオロギーで対抗しようとしても対抗できないだろう。今、それが、世間的風潮として、なにかしら神通力でも持つかのように表象されて、流布されているけれども、同じ個人主義者であるヒトラー的な個人原理に対して防壁になりえないと思う。それは、信仰以上のものではないのである。それは、おそらく、長年にわたる慣性のせいであろう。それは、過去の土俵の元で通用したものを、今日の別な土俵の上にそのまま通用させようという試みでしかないと思う。ヒトラーの民主主義批判は、西部邁などのニーチェに影響を受けている保守思想家の言うことと似ている。それに対して、イタリア共産党の創始者グラムシの政党=「現代の君主」という規定の下で、その政党を、勇気を発揮する責任性を育むものとして構想し作り上げて行くことが必要だろう。ドイツ社民党やドイツ共産党が、それに失敗したからこそ、ナチズムをみすみす勝利させてしまったのではないか。コミンテルン第6回大会路線が、社民=ファシズム規定によって、社民に主要な打撃を加えよとして、ナチスの台頭を側面支援することになったことは客観的な事実であるが、だからといって、階級性をかなぐり捨てて、ブルジョアジーとの統一戦線にのめり込んだ第7回大会路線が正しいわけではない。そうではなく、闘争しつつ連帯するという矛盾した関係の形成を戦術として具体化する必要があったのである。これは、是々非々というプラグマチックな政治とは違う、はるかに高度な戦術である。それをなしうる主体が形成されねばならない。しかし、それは一朝一夕では育たない。勇気はもちろん、粘り強さも必要なら、高度な判断力も必要だし、計画する力も必要だ。

 ヒトラーの民主主義批判は、それより、はるかに低レベルのものにすぎない。大衆性を一現象面でしかとらえていないのである。大きな社会変革は、大量の大衆的な行動、実践がなければできないし、現在の民主制度を変革する力もそこにしかないのである。

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恐慌は、希望は共産主義革命だとプロレタリアートに示している

 以下は、昨年6月に書いたもので、未公表の文章です。もう古くなったものですが、ヒトラーの資本主義批判の無内容なのに対して、違う資本主義批判があるということを示す意味で、ここで、公開しておこうと思いました。ここで書いたことは、だいたいのところは、間違いなかったようです。長いですが、ご参考までに。

 

   恐慌は、希望は共産主義革命だとプロレタリアートに示している 

 深刻化する世界不況とプロレタリア化の急速な進行

 今や、誰もが、サブプライム・ローン破綻をきっかけにした米帝発の金融恐慌が戦後最大の世界的大不況の入り口であったことを認めざるを得なくなっている。

  5月28日に発表されたILO(国際労働機構)の「経済危機によって仕事はますます減少」は、失業、働く貧困層(ワーキング・プア)、脆弱な就業形態に関する新たな見通しの最も可能性の高い範囲として、09年の失業者数が、07年より3,900万~5,900万人増加すると上方修正した。また、ワーキング・プア(1日2ドルの貧困線を下回るリスクがある労働者)は、世界で、07年より2億人増えると予測している。とりわけ、若者の失業率は、08年で約12%と推定されるが、09年には14~15%に上昇し、失業者数が1,100万~1.700万人増えると予測している。この分析は、世界の労働力人口は、年平均1.6%伸び、毎年約4,500万人が新たに労働力に加わるが、これを吸収するには、09年~15年に約3億人分の新規雇用の創出が必要であるにもかかわらず、09年の雇用創出の見通しは、記録史上最悪で、08年に1.4%に低下し、雇用成長は、さらに今年、0~1%に落ち込むと予想している。そして地域別に失業の予想を以下のように述べている。

 「地域別では、世界の労働力の16%未満を抱えるに過ぎない先進経済諸国と欧州連合(EU)で世界の失業者数の伸びの35~40%を占めると予想され、今年の雇用成長はマイナス1.3~2.7%と見込まれます。EU加盟国以外の中・南東欧及び独立国家共同体(CIS)諸国でも今年の失業者数は最大35%増加し、雇用成長はマイナス1~2.8%となると予想されます。東アジアでは危機の開始時点で既に合計就業者数の3分の1以上に相当する2億6,700万人が1日2ドルの貧困線以下で暮らしており、一人親方などの脆弱な就業者が失業者の約12倍に達しています。東南アジア・太平洋では輸出産業が深刻な打撃を受けたものの失業者数の増加は比較的緩やかと予想され、脆弱な就業形態が多い南アジアでは失業率は5%近いとされるものの、1日2ドル未満で暮らす労働者の数は2007年より最大5,800万人増えると予想されます。2007年に7.1%を記録した中南米の失業率は2009年に8.4~9.2%に達し、2007年比で見た失業者数の増加は中東では最大25%、北アフリカでは最大13%に達し、どちらの地域でも脆弱な就業者が増大すると予測されています。既に労働力の73%が脆弱な就業形態にあると推計されるサハラ以南アフリカでは、この数値が今年は77%を突破する見込みです」。

  この世界不況が、途上国にもたらす影響について、5月8日、世界銀行アフリカ地域担当副総裁オビアゲリ・エゼクウェシリは、「貧困の影響は、女性に一番顕著に現れます。世界的な景気後退は女性に深刻な衝撃を与えることになるでしょう。多くの女性が仕事を失い、家計のやりくりに追われるようになるからです」と述べた(世銀HP)。

 IMFは、5月発表の「IMFアジア太平洋地域経済見通し(APD REO)」で、「世界的な危機の余波は、極めて早いペースと規模でアジアに押し寄せて来ている。中国・インドを除くアジア新興国・地域のGDPは、2008 年第4 四半期には季節調整済み年率換算ベースで15%も下落し、本年第1四半期もさらに悪化する」とアジアへの影響が深刻だと予想している。同レポートは、「アジアは欧米のように金融活動に深く関与しておらず、マクロ経済状況は良好だった。それにも関わらず、アジアは欧米よりも急速で大きな打撃を受けた」ことを予想外と述べ、その原因を、アジアのハイテク工業製品の需要の急速な減少にあると見ている。したがって、この経済危機からの脱出法は、ハイテク工業製品の輸出に頼る経済から、内需主導型の経済に速やかに移行することであり、そのために、インフラ投資を促進することだと指摘している。

 ゼーリック世界銀行グループ総裁は4月23日の記者会見で、以下のように述べた。

 「我々は第一に、過去の過ちを繰り返さないことを確認する必要がある。80年代のラテンアメリカ金融危機や90年代のアジア金融危機の際、数字ばかりが論じられ人々に関する議論は後回しになった。保健、栄養、教育という基本的な分野の予算は大きく削減された。社会不安、略奪、さらには暴動さえ発生した。他人の過ちにより最も打撃を被ったのは貧しい人々だった。

 今回我々は、各国政府が社会分野の特定の支出を削減することなく、効果的なセーフティネットに資金を回すことができるよう見届けなければならない。アジア危機の際、タイでは妊婦の貧血が22%増え、インドネシアでは3歳未満児の平均体重が減少した。こうした事実はパソコン画面上の一時的な変動ではなく、人々の生涯にわたる影響である。学校給食プログラム、栄養対策、メキシコやブラジルなどの条件付現金給付プロジェクト、労働の対価としての現金支給などセーフティネット・プログラムにより、今回の危機の最悪の影響を和らげることができる。そのコストはGDPの1%未満とわずかなものだ。世界銀行がセーフティネット・プログラムへの支援を3倍に増やそうとしているのはそのためだ。
 第二に我々は、投資をインフラに回さなければならない。ラテンアメリカやアジアでの危機の際にはインフラ投資が削減された結果、長期間にわたり悪影響が残った。90年代、ラテンアメリカ・カリブ海地域では財政政策の調整のうち約50%はインフラへの公共支出削減を通じて行われた。インドネシアでは、1995-97年には対GDP比7%だったインフラへの公共投資が、2000年には2%まで下落した。

 それでも中国はインフラに投資した。雇用創出と急成長の基盤構築のためだ。その結果、そうした投資が生産性向上を阻害する障害を取り除くに至った。

 我々の試算によるとラテンアメリカでは、零細企業による農村道路の保守工事10億ドル当たり20万~50万人の雇用が創出される。我々が本日550億ドルのインフラ・イニシアティブを発表したのはそのためだ。このイニシアティブは土曜日に正式に開始の予定だ。

 第三に、昨年の食糧危機から立ち直りつつある中、我々は農業をないがしろにするわけにはいかない。世銀グループは2008年に40億ドルだった農業支援を今後2年間で120億ドルに増やし、食糧の安定供給と安全性の確保を図る」(世銀HP)。

 これを見れば、世銀は、ブレトン・ウッズ体制の出発点に戻ったかのようである。ケインズ主義的な公共投資、インフラへの資本の投資拡大が生産性向上を促進し、雇用を創出し、成長率を引き上げ、社会を安定させる。そうすれば、資本主義経済は持続的に安定成長するだろうというわけだ。しかし、公共投資に食らいついて、利権をむさぼり食らう官僚と利権企業の浸透を排除しなければ、その効果は末端まで十分に行きわたることはないだろうし、かれらはこの機会を逃さずそうするだろう。今、郵政民営化が、利権屋を入れ替えただけだったことが暴露されていることに示されているように。この権力を打倒しないで、この構造そのものをなくすことは出来ないということがこの間ますますはっきりしたのである。世銀は、こうしたことからは当然ながら一切目を背けている。それでは、当然、この苦境から、プロレタリア大衆を脱出させることは出来ない。

 ザブプライム・ローン破綻をきかっけに金融恐慌に見舞われた米帝では、景気悪化が深刻化している。ことに、戦後米帝経済を牽引し、その蓄積体制―フォーディズムの根幹をなしてきた自動車のビッグ・スリーの相次ぐ経営破綻は、今回の経済危機が量的ばかりではなく質的な構造変化をもたらしていることを示している。4月のクライスラーの倒産に続いて、販売台数世界一位を誇ったゼネラル・モータース(GM)が、6月1日、連邦破産法11条適用を申請し倒産した。それに対して、米政府は、「301億ドル(約2兆8600億円)を追加支援。これまで供与した資金と合わせ、GMへの税金の投入額は総額約500億ドル(約4兆7500億円)にのぼる。GMが販売した車が故障した際の製品補償も米政府が支援し、3億6100万ドル(約340億円)を積み立てる。また、工場があるカナダ政府とオンタリオ州政府も計95億ドルを融資し、12%の新GM株を取得する」(6月2日朝日)。米政府は、このうち、128億ドルのつなぎ融資を、破産裁判所の仮決定を受けて、さっそく実行した。こうして、米帝オバマ政権は、なりふり構わず、事実上のGMの「国有化」に乗りだし、税金を惜しみなく投入して、国家独占資本主義的なかたちの産業政策に踏み出してる。自動車業界全体では、すでに852億ドル費やしている。

 このGMの倒産は、GM向けに部品を提供してきた日本の部品メーカーにも大きな影響を与える。「部品企業82社合計の日本自動車部品工業会は4日、部品企業82社合計の2009年度の営業損益が調査開始以来初の赤字になる見通しだと発表した。同日記者会見した信元久隆会長(曙ブレーキ工業社長)は法的整理に入った米ゼネラル・モーターズ(GM)について、「ディーラー整理や工場閉鎖によって消費市場が縮小する。これから大きく影響が出てくる」との見方を示した。志藤昭彦副会長(ヨロズ会長)も「しばらくの間は部品メーカーも(GM向けの)売り上げが5割ほど減る」(6月5日日経)と述べている。もちろん、これは、自動車産業が集中的に立地している米ミシガン州に大きな打撃を与えている。すでに、ミシガン州政府は、現会計年度予算では総額14億ドル(約1390億円)の赤字が予想され、財政赤字に陥っていたが、6月5日、州内8カ所の刑務所の閉鎖を発表した。これを報じたCNNによると、「同州予算のうち、矯正施設関連経費は約22%を占める」という。予算の22%というのは、刑務所が、一大公共事業と化し、利権化していたことを伺わせる数字だ。金融会社の相次ぐ破綻に続いて、これまで製造業の柱を占めてきた自動車大手の相次ぐ倒産が、さらなる失業の増加をもたらすことは言うまでもない。

 さらに、「米労働省が5日発表した5月の雇用統計(速報値)によると、失業率は9・4%と、4月の8・9%から0・5ポイントの大幅悪化となった。83年8月(9・5%)以来、25年9カ月ぶりの高い水準」「今年に入ってから5カ月間での失職者数は292万人に膨らみ、第二次世界大戦後では最悪の雇用悪化が続いている。就業者数の減少は17カ月連続と戦後最長(81年8月~82年12月)に並び、昨年1月からの減少数は計600万人に達した」(6月6日毎日)。年末には、失業率は10%に達するという見通しも出ている。

 フランスでは、4月3日の労働統計局の「雇用統計」では、3月の失業率は、前月比より0.4%上昇、8.5%。前年同月比で3.4%の上昇。2007年12月以降の累計で、513万人の雇用機会が失われた。失業期間の長期化、失業者数の増加に対して、求人数は大幅な減少を記録している。2009年1月に公共職業安定所に提出された求人数は、22万 300件で、前月比15.4%減、前年同月比で29.3%減となった。特に、契約期間が長期にわたる雇用の求人の減少が著しい。具体的には、契約期間が1カ月未満の短期雇用の求人は、前年比20.9%減であるのに対して、1カ月以上6カ月未満の契約期間の求人は32.6%減、6カ月以上の契約期間の雇用の求人は35.3%減となっている。

 6月4日付の日本政府-財務省の「法人企業統計調査結果(09年1~3月期)」の報道発表によると、「売上高は311兆1,154億円で、前年同期(390兆6,315億円)を79兆5,161億円下回り、対前年同期増加率(以下「増加率」という)は、-20.4%」(季節調整済前期比増加率では、マイナス9・9%)。前期の11.6%から悪化した。「経常利益は4兆2,676億円で、前年同期(13兆7,548億円)を9兆4,872億円下回り、増加率は-69.0%(前期-64.1%)となった」。季節調整済前期比増加率で、-28%。これは3期連続。ソフトウェアを除く設備投資額は12兆5,922億円で、増加率は-25.3%(前期-17.3%)となった。季節調整済前期比増加率-8.6%。4期連続。ソフトウェア投資額は1兆51億円で、増加率は-24.5%(同-5.2%)。金融業、保険業を業種別にみると、銀行業で-2兆2,929億円、貸金業等で-4,406億円、金融商品取引業で-133億円などとなり、金融業、保険業ではマイナス3兆656億円。いずれの指標も、極めて急速に大きく悪化している。農林中金総合研究所の6月11日付「2009~10 年度改訂経済見通し」は、今年度のGDPをマイナス3・9%、10年度をプラス1・2%と予測している。08年度の完全失業率は4・1%だったが、09年度が5・4%、10年度が5・8%と予測している。

 それに対して、日銀は、株式の買い取りを増やすなどの対策を取っているし、麻生政権は、定額給付金をばらまき、補正予算を組んで、景気対策を次々と繰り出している。しかし、経済財政諮問会議の「骨太の方針09」素案に付けられた内閣府の資料は、国と地方合わせて816兆円の債務を減らすために、消費税を12%に引き上げる試算を示した。このようなアンバランスの拡大は、不均衡累積の暴力的解決を誘発する要因となる。エコノミストが、現在のデフレ・ギャップを警戒しているのは、この不均衡が次の恐慌を引き起こす要因となりかねないからである。現在、これらの経済指標の悪化速度はやや緩んできているが、だからと言って危機が去りつつあると油断できないのは、そういう可能性があるからである。しかも、現在のように、資本移動が自由にされている状態では、他国で恐慌が起きれば、あっという間に世界に波及するので、一国経済的なバランスの達成や経済安定は固いものではないのである。

 それに対して、新自由主義経済学派は、金融恐慌に対してまったく警戒していなかった。それは、かれらが、金融資本が、G―G’の技術的媒介、技術的操作に特化した資本主義的分業に基礎を置いていることを反映したイデオローグだったからである。だから、かれらは、金融工学のような技術的側面に偏った見方しか出来なかったのである。価値という側面をすっかり捨象していたわけだ。そこで、紙幣についても、価値抜きに、ただ技術的に考え、大量印刷してヘリコプターでばらまけばいいなどという馬鹿げた空想に陥ったのである。その思い上がりはうち砕かれたけれども、それに変わったのはオバマに代表される国家独占資本主義的な方向性であるというのも、もはや資本主義の命運が危ういということを示すものでしかない。オバマは、自動車産業救済策として、道路へのインフラや環境技術投資を拡大しようとしているが、そのような需要が短期間に大規模に生まれるとは考えにくい。

 しかし、このことから一つ言えるのは、いずれにしても、恐慌からたとえ回復したとしても、資本主義の具体的な姿が変化するだろうということである。現時点ではいろいろなシナリオが考えられるが、先行きは不透明である。再度、大きな恐慌が発生して、国家独占資本主義的な統制経済体制に行き、軍需を軸にした経済になっていき、そして、同じような道を行く国家独占資本主義国家との競争が激化して、戦争要因が高まって、なにかちょっとしたきっかけで戦争に突入するというのも考えられる一つのシナリオである。米帝は、冷戦終了後、ずっと戦争をし続けているということを忘れてはならない。ドイツは、コソボ紛争の際に、戦後ずっと維持してきた域外派兵しないというタブーを破って、NATO軍の下で自国の軍隊を域外のユーゴに派兵した。日帝は、先の麻生の「海外戦争容認」発言に示されているように、ずっと、海外での戦争への参加を狙っている。だからこそ、安部政権時には、改憲策動を強め、前文の国際協調主義、平和主義、そして9条の改憲を狙い、来年解禁される改憲手続き法を強引に成立させたのである。生存権を否定する戦争のシナリオ入りへの危機感から、「9条改憲阻止の会」などの反改憲運動が取り組まれているのである。もちろん、別のシナリオも考えられる。今のところ、はっきりしているのは、この間の事態は、資本主義は、戦争をなくせないし、常に戦争をやり続けてきたこと、戦争の火種は今もあるということ、そして、人類全体を幸福にする経済制度ではないということを示したということである。

 

 ネグリの資本主義批判・共産主義論をめぐって

 こうして、ブルジョアジーの間にも自信喪失と悲観論が広がっている。それに対して、この事態から根本的に人々を解放することが求められていることは明らかだ。しかし、こうした経済危機を前にして、その主体と名乗りを上げてきた既存左翼が対応出来ていない。これらの指標は、格差の拡大、「持たざる者」・無産者・プロレタリアの累積的な増加を明確に指し示し、ネグリが、『未来派左翼』(BOOKS日本放送出版協会)で語っているとおり、この間、中産階級化・大衆社会化・総中流化が進んだなどという左翼の言説が全く幻想的になっていることを明白に示している。日本だけを見ても、90年代の階級階層関係は急速に変化してきている。そのことは、年末年始の日比谷公園での「年越し派遣村」運動が広く世間に突き付けた事実である。こうした新たな事態に対応する新たな解放主体が必要となっていることは明らかである。その点で、2001年にイタリアで始まったプレカリアート・メーデー(ユーロ・メーデー)を理論づける左翼系知識人のネグリが、2000年にハートと共に『帝国』という大著を出版し、その中で、新たな解放主体として、「プレカリアート」という概念を提示したことは、この運動が年々拡大し、何百万という人々を集めていることもあり、注目すべきことである。

 現在、資本主義と闘い、資本から労働を解放し、共産主義を建設する主体の構築が急がれる状況にあることは、彼と同じに感じるところなので、ネグリをめぐって若干の考察をおこなっておきたい。まず、納得できる点をいくつかあげる。一つは、ソ連型計画経済が、資本主義的計画経済と共通するということである。冷戦崩壊後、この共通性がよく見えるようになったのだが、彼は、「計画経済とはいっても、やはり資本主義経済、つまり利益を求める経済であることに変わりはないという点を強調するのが重要だと思います」(同〈上〉20頁)と述べている。二つには、ハンナ・アーレントの全体主義という概念が、イデオロギー的で、それ自体、差異を抹殺する働きをする、それこそ全体主義的な概念で、分析に適さないという指摘である。「全体主義の概念では抵抗や差異といったものが消えてしまう・・・つまり、倫理的で認識論的な要素、認知的で政治的な要素が失われてしまう・・」(同〈下〉40頁)。そして、彼の共産主義を運動として捉える彼の共産主義論である。すなわち、「コミュニズムとは、労働に従事させられてきた主体たちがラディカルな変容を遂げていくことであり、そしてまた、新たなタイプの〈歴史的時間〉を構成していくことです。歴史的時間は「〈共〉=コモン」を構築するものとして、すなわち、社会的なものを自由に生産し再生産する〈共〉的な能力として、新たに構成されなければなりません。社会主義は弁証法であり、真のディストピアでもあります。ユートピアが世界の外にある理想に向けられた眼差しのことであるとすれば、ディストピアのほうは、現行の生産様式の力のただなかにある強い欲望のこと、すなわち、われわれのリアルな地平の内部にある強い欲望のことなのです」(同〈上〉49頁)。ここには、彼のイタリアの68年の体験、アウトノミアの労働観、そこから労働からの解放という主張が基礎にあるものと思われる。もちろん、これが資本主義的労働からの解放という意味でなら、同意できる。そして、ここで彼が言う〈共〉が、〈公 パブリック〉と〈私 プライベート〉の区別とは別の次元にあるというのも同意できる。ただ、それが生産様式の中にあるということについては、その中身を問わねばならない。彼が、あげているのは、郵便や電力などの「社会資本」などと呼ばれているような領域である。しかし、マルクスは『資本論」では、〈共〉としての労働の在り方としては、まず、協業を挙げていることを指摘しておかねばならない。それから、彼がこの〈共〉の担い手をプレカリアートとしているという問題がある。ネグリの言うプレカリアートとは、サービスや販売を担う知識労働者のことである。

 それは、マルクスが『資本論』第3巻4篇「商品資本および貨幣資本の商品取引資本および貨幣取引資本への転化(商人資本)」で書いている以下のような商業労働者のような労働者のことだろう。

 「本来の商業労働者は、賃金労働者の比較的高級な部類に、すなわち、その労働が熟練労働であって平均労働の上に位する賃金労働者に、属する。しかし、賃金は、資本主義的生産様式の進展とともに、平均労働にたいする比率においてさえも、低落する傾向がある。これは、一部は店舗内の分業によるものである。すなわち、労働能力のただ一面的な発達が行われることになり、そしてこの生産の費用は、一部は資本家によって何ら費用をかけるところなく、むしろ労働者の熟練が機能そのものによって発達し、しかもこの熟練が分業とともに一面的になればなるほど、ますます急速に発展するからである。第二には、資本主義的生産様式が教授法その他を、ますます実用本位とさせるにしたがって、予備教育、商業知識、言語知識等が、科学や国民教育の進歩とともに、ますます急速に、容易に、一般的に、低廉に再生産されるようになるからである。国民教育の一般化は、この種類の人々を、以前はそれから除去されていた、より劣悪な生活様式に慣らされた諸階級から補充することを、可能にする。さらにそれは志願と、したがって競争とを増大させる。したがって、若干の例外を除けば、資本主義的生産の進展とともに、これらの労働者の労働力の価値は低減する。彼らの労働能力は増加するのに、彼らの賃金は低下する。資本家は、より多くの価値と利潤とが実現されるべきばあいには、これらの労働者の数を増加させる。この労働の増加は、つねに剰余価値の増加の結果であって、決してその原因ではない」(472~3頁)。

 ネグリは、マルクスがここで言っているような分業等々をあまり問題にしていない。マルクスは、資本からの労働の解放を掲げたが、それには、分業の止揚ということが含まれていた。ネグリは、計画経済をたんなるユートピアではなく、成功する見込みのあるリアルな試みと見なしている。森嶋通夫氏もそれをはっきりと主張した。それ自体は同意できるが、分業の止揚という時に、理性の変革、計画する知性の変革という課題があるということについて、具体性が足りないと感じる。ネグリは、それは、利益を求める経済であっては成功しないので、「〈生〉のあらゆる領域を横断し、新たな理性概念を表現するような生政治的な啓蒙主義」(前掲書〈上〉49頁)が、効用主義的計算合理的理性の啓蒙主義に取って代わらねばならないというようなことを言っている。理性そのものが変革されなければならないというのが、ネグリの独特なところである。それは、理性を社会的理性として、捉えることから来ているものと思われる。彼は、カントの理性を個人に生まれつき備わる先天的能力とする理性概念を否定しているのである。そして、このようにネグリにあっては、「計画」の中身が、計算合理的理性とは異なる新たな理性による構成というかたちで立てられているのである。それは、ネグリが、フーコーの自己統治、自己権力というような政治、古代ギリシアのポリスの統治を参照にしたそれを評価していることからして、自己関係、自己が自己を統治すること(自己への配慮)が、同時に社会的統治であるような政治を意味していると考えられる。この時、自己は、特異性であって、その性格を保ったままのコミュニケーションが実現するとされている。それに対して、新自由主義のイデオローグたちは、効用主義的理性を唯一の合理的人間の理性と見なし、それ以外の理性を認めず、それを不合理なものとして攻撃した。かれらにとって、ホリエモンは、自己の利益を最大限にするために計算し行動する合理的理性の持ち主の生きた典型だったので、口を極めて礼賛した。ただ、彼はやりすぎただけだというのだ! 

 これは、デカルトが、方法的懐疑という方法で、まず、感覚の確実性を疑い、感覚を懐疑していき、そして、ついに、「我思う故に我あり」というかたちで立てた思惟する理性(知性)としての「我」をも懐疑するという意味で、徹底的な懐疑である。そして、主体の歴史性と相対性に到達したという点で、弁証法的である。フッサールは、カントと共に、このデカルト的明証を保持しようとした点で、不徹底であった。この点では、世親などの仏教の唯識学派は、徹底していたと言える。そして、ニーチェ。しかし、それは、唯物論にひっくり返さねばならない。ネグリは、スピノザの『知性改善論』(デカルトが感覚を疑い、知性を我として発見したのに止まったのに対して、スピノザは、知性をそのままにしておかなかった)にならってだと思うが、理性・知性の改善を、新たな計画経済の主体の形成と結び付けているのである。スピノザは、『エチカ』で、感情は過度でなければいいとしているだけで、それをなくすとか完全に統制するとかいうことを主張していない。エピクロスもそうである。それに対して、カントは、『実践理性批判』で、実践理性(倫理)を理性の定言命令として絶対化し、それを快不快の感情や幸福という目的と切り離した。他方で、ネグリは、ドゥルーズ的なヒューム的経験論の解釈ということ、つまり、情念を基礎とするという考えに着目しているようにも見えるが、それは、ある意味で唯物論的である。彼は、フェミニズムの成果を踏まえて、情動労働 affective labor という介護労働や家族(親族)仕事などの活動形態が、社会的ネットワーク、社会そのものを産出すると述べている。この点では、『at』という雑誌で連載中の上野千鶴子氏の「ケアの社会学」は、ケア労働を感情労働として扱い、その点から、これが共同労働である限りで、社会関係を作る労働であるという点を強調しているのは注目される。個人労働ではないというところ、つまり、こうした労働が、従来、家族の中で女性に押し付けられた不払い労働であるという点を問題にした80年代のフェミニズムの家事労働論争とは違ったレベルでケア労働をとらえようとしているというところである。80年代のフェミニズムは、このような家事労働・ケア労働は、社会的必要労働であるが、価値形成労働とされず、価値計算から除外されてきたことを問題にしたわけである。

   『フォイエルバッハ・テーゼ』第6テーゼが、人間とは社会諸関係のアンサンブルであると述べているところから言えば、社会自体を生産し再生産する労働は、つまりは人間を生産し再生産する労働である。しかし、ネグリが、『国家形態批判 ディオニソスの労働』(人文書院)で、マルクスの『経済学批判要綱』から、労働の価値産出性という性格を取りだし、それを社会的評価が規定すると述べているのは、『資本論』における物象化論との関係でも、疑問がある。彼の言う知識労働は、非物質的労働と規定されるが(マルクスは、『剰余価値学説史』でサービス労働の規定を展開している)、だからといって、搾取の形態が、超過の奪取に変わったというのは疑問である。それは、先に引用した商業労働についてのマルクスの『資本論』からの引用も言える。マルクスは、商業労働やサービス労働は価値を生まないと述べている。しかし、価値産出的ということは、やはり、それは、質的だけではなく、量的にも評価され、規定されるということがなければならない。労働が社会的価値産出であるというのは、ネグリが批判するハンナ・アーレントの「労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力」(『人間の条件』ちくま学芸文庫19頁)とし、労働=受苦とするとらえ方の一面性を否定し、彼自身、アーレントのこうした労働観を批判しているのだが、やはり、価値を主観性によって規定づけていくことには問題がある。その労働がどれだけの量の価値を産出したかなどを社会的に評価し、分配するということ、それを調整することが、当然、必要になる。この場合に、過渡的時期においては、従来の価値法則による価値計算とこうした価値産出の価値とを組み合わせ価値計算が必要になる。それが社会的分配を規定することになるだろう。農業労働の価値をどの程度に設定するか等々の問題があるが、それらを計算し、計画する頭脳労働者としてのプレカリアートというネグリの規定は、教育や経験によって、それを全労働者のものとするという過渡的な過程を設定しなければ、ユートピアに止まるだろう。ネグリは、おそらくは、サルトルが言うような共同主観性というものを想定しているのだろうが、頭脳=固定資本とするような規定の仕方はあまりにも粗雑過ぎる。プレカリアートは、例えば、生産過程や労働過程の具体的知識はあまり持っていないだろうし、農業についても同様だろう。彼の言うことは、プレカリアート前衛論であって、プロレタリアートは増大しているが、かれらは生産を計画する前衛たるプレカリアートの指揮の下で、生産に従事するしかないと言っているように見える。それは過渡的でしかないということと、もう一つは、プロレタリアートはやはり現存社会に対して、根本的に否定的な性格を帯びているということ、つまり、革命の徹底性ということは、かれらの階級性格から来るということがないと、改良主義との境界が曖昧化しかねない。それは、彼が、宗教の役割について、それが精神的な慰めを与えるならよしとするというような融和主義的な態度を取っているところからも感じられる。プロレタリアートが、現実的に解放されない状態を許し、あきらめているように聞こえるからである。もっとも、これは杞憂であって、アイデンティティを奪われているプロレタリアートだからこそ、多様なアイデンティティの主体となりえるということは、ネグリの主張でもあると思うのだが。

 また、精神労働と肉体労働の分業の問題では、テーラー主義によって、さらに管理労働と単純ながれ作業労働というふうに分かれていき、それに、企業計画の立案・企画・管理などの経営労働が、分業によって独立化し熟練労働化され、さらに、企画・立案の専門的労働化や労働の指揮・管理労働の分化ということも起きるのだが、それに対して、ネグリは、技術的構成論で、頭脳を固定資本に入れているが、そうなるとこれはマルクスの『資本論』では、不変資本に頭脳労働を入れることを意味し、それは、これまでの不変資本と可変資本の構成比率の問題や価値や剰余価値、それを基礎とする利潤や利潤率、搾取率などの概念を大きく変化させることになる。それなら肉体労働の場合には、身体を固定資本に入れないのは何故かという疑問が起こる。一般的に言えば、労働において労働者は、身体と頭脳を結び付けて労働をするのである。ここにももっとよく検討しなければならない問題がある。

 それから、そこで、彼は、一方では、G―G’という資本の完成形態において、W―G―W’やG―W―G’という形態と違って、過程が技術操作によって媒介されるという違いがあるということを踏まえていないし、『超訳資本論』の著者の的場政弘氏がどこかで言っているように、生命の生産や生活の生産によって価値を産出する労働、農業や衣料などの生活必需品の生産労働を見失った議論をしている。それだと、例えば、前者では、サブプライム・ローン問題に象徴されるようなG―G’を媒介する金融的な技術操作の独自の意義やその運動の把握が出来ないし、この事態が、金融工学と呼ばれる技術学の展開として起きたことの理由を理解できない。それから、ネグリが言う絶対的民主主義という概念は、手続きのための手続き民主主義のことであるが、それを目的と切断し、自己目的化しているようにみえる。手続きそれ自身を絶対化するような絶対的民主主義という相対性との弁証法的関係のない絶対性というのも受け入れがたいものである。徹底した民主主義による過渡期を通した民主主義=国家の死滅ということ、つまり、目的と手段の関係を弁証法的に理解した上で、相対的でもあり絶対的でもある関係として、民主主義を考える他はないと考える。それから、彼は、都市と農村の分業の止揚という課題も、きちんとは取り上げていないのも問題である。いずれにしても、ネグリの議論については、ここでは簡単になぞっただけだけども、きっちりと検討する必要があることは確かだ。

 しかし、ネグリが、「今日の社会階層化は、左翼の主張とは異なり、中流層が拡大する方向に変化していないのは明らかである。現実にはむしろ、プロレタリアートが拡大する方向に向かっている。その原因は、かつては中流層に典型的であった生産機能をいまやプロレタリアートが担わされているつつあるからです。左翼はこの事実を理解できないために、従来の社会階層化のあり方に固執し、中流層との政治的同盟を目指しています」(前掲書〈下〉158頁)という時、彼は近年の階級階層関係の変化の現象をある面で的確に捉えている。このことが、既存の労働組合運動や市民運動やこれと結び付いてきた左翼の後退の要因の一つであるのは確かである。日本では、バブル期に、こうした左翼は頂点を迎え、市民派政党化した社会党が、土井ブームで過去最高の議席を獲得し、政権に迫ったが、90年代、バブル崩壊と長期不況の中で、中流層の分解、非正規化などによるプロレタリア化が進み、98年・2005年の労働者派遣法改悪によって、そして、新自由主義的な政策による福祉制度の解体、家族の解体、等々で、セーフティネットが弱体化し、今日のワーキングプアや貧困者の増大という事態に立ち至っているが、既存の運動が、中流幻想から抜け出せていないために、事態に立ち遅れ、対応できていないのである。これは、今や完全にドグマ化してしまっているのである。上にあげたような数字がいくら出ても、思い込みやドグマの方をリアルに感じ、それを信じて、数字の示している現実の方を偽物だと判断してしまっているのである。スピノザが言うように、臆見からの解放は簡単ではない。だから、実践的唯物論者=共産主義者には、けっしてとらえきることのない物事のあらゆる側面の規定を追求する過程としての弁証法的思考、すべてを知りつくすことはできないが、そこに不断に接近する過程としての弁証法的思考が必要なのである。

 

希望は共産主義革命

 

 こういう階級階層関係の急速な変化が起きていることは、旧来の政治や思想や党派や運動などをふるいにかける歴史過程にあるということを意味する。社共や「連合」がそれに立ち遅れていることはこの間のかれらの動きを見れば誰でもわかる。「年越し派遣村」、反貧困運動と結び付き得たのは、東京ユニオンなどのユニオン労働運動や東京東部労組などの地域合同労組や、関西地区生コン支部などの一部の労働運動や下層労働運動や一部のNPOぐらいのものである。いわゆる市民運動やNPOなどの多くは完全に遅れを取っている。そして、左翼系も同様に遅れをとっている。いずれにしても、今、プロレタリア化の急速な進行、階級階層関係の流動化、そして、貧困をめぐる、そして「生きること」をめぐる階級闘争の自然発生的高揚という状況が来ている。階級が前面に出てきているのだ。そして、冷戦崩壊後も一貫して戦争を続け、常に戦時にある米帝のさらなる戦争へののめり込み、経済危機から、自動車部品企業などの軍需への期待圧力、そして、様々な差別的偏見や表象を生産し広めながらのイスラムへの侵略戦争拡大へのリベラル派の「正戦」を求める圧力、オバマが、就任演説で、アメリカ市民の覚悟を求めたようなその根底にある帝国主義的侵略主義の全面化などに示されている戦争の危険も今、高まりつつある。これらのことから人々が根本的に脱出するための、「希望は革命」(雨宮処凛)であり、共産主義である。そして、それは、権力との闘いを含む階級闘争の発展、そしてプロレタリアートによるプロ独という過渡期を通して、進むのである。この点で、国家の相対的自立性ということを極端に解釈して、国家が社会との無関係に、あたかも別々に存在するかのように言い、プロ独を否定することはできない。この前まで、国家を邪魔者のように扱っていたブルジョアジーは、今では、国家こそが救いの神とばかり、あらゆる国家の介入や政策の総動員を求めている。ブルジョアジーは、あらゆる手段を使って生き延びようとし、プロレタリア大衆にその犠牲をできるだけ重く背負わせようとしている。このような挑戦をはねのける闘いは、暴力的な抵抗、暴力的な闘いを含むものになるのは当然である。だから、プロレタリアートが、自ら武装解除することはできない。

 さる4月在日外国人を潜在的な犯罪者として治安管理の対象とする支配階級=国家・法務省入管の意を民間で代表している「在日の特権を許さない会」などの民間右翼が、埼玉県蕨市で、排外主義活動に抗議して、フリーター特別労組や「9条改憲阻止の会」などの有志による抗議活動が取り組まれ、その中で、2名が権力によって不当逮捕されるという事件が起きた。「在特会」は、13日に京都市内で、在日外国人参政権反対行動をおこなった。これを察知した心ある有志約300人が、抗議活動をおこなった。こうした民間の差別排外主義と権力は結び付いている。権力が変わらないで、社会だけが変わるなどということは、あり得ない。権力の性格を変え、それによって社会の性格変化を促進することができる。

 このような事態は、ブルジョアジーが権力を握っている限り、こうした国際主義の発展が妨害され、いつまでも部分的にしか発展しないことを示している。入管体制についても、片方で少し前進したと思ったら別の方で後退するということの繰り返しで、基本は変わらない。国家をブルジョア階級が握っている限り、このような事態は根本的には変わらない。差別排外主義的な入管体制を解体し、権力のお先棒を担ぐ民間の差別排外主義と闘い、プロレタリア国際主義、国際的な友愛と正義の絆を発展させる必要がある。

 こうした事態を見る場合に、共産主義者は、『経済学批判序説』のマルクスの土台→上部構造という構図を、彼が自身の研究の手引きと断っているにもかかわらず、それを教条的に当て嵌めたり、上部構造の土台への相対的自律性なる概念で、それらの関係を断絶的に理解したりという、いずれも不毛としか思えないドグマ的理解に陥らないようにしなければならない。例えば、ロシア革命において、権力が変わったことによって、やはり、封建制に逆戻りできないという切断を実現できたのである。また、今のロシアの極めて独特な経済状態というのも、図式的な歴史観、単線的な資本主義化という図式だけでは理解できない面がある。権力を取らないことに特殊で過剰な意味付与をすることも、その逆も、一面的である。この間、フーコーの研究もあって、わかってきたことは、権力問題は、国家権力だけに一元化できるものではないということである。そこで、経済権力や社会権力など、マルクスが語ったようなことをも含めて、権力問題の様々な側面をとらえなければならなくなった。フーコーによれば、我々は、国家権力を行使していないからといって、権力行使していないわけではなく、日常的に権力ゲームを行っている権力の主体化=従属化があるということなのである。彼によれば、国家権力を握るか握らないかは、この日常的権力とは直接の関係はない。だから、国家権力を取らないからといってそれから免れるわけではないということになる。しかし、それは、階級関係、階級間の権力関係、階級闘争ということと結び付いているのであり、その関連をとらえることが必要であることを意味しているのである。資本主義社会では、資本家階級が、労働を自らの指揮に従わせ、従属化し、それを基礎に全社会的なブルジョア階級による労働者階級・大衆の従属化が生まれている。権力問題について検討すべき課題があることは確かだが、資本への労働の従属を断ち切ることは、フーコーの言うミクロな権力関係が問題だとしても、やはり、一つの解放、歴史的な解放事業であることに変わりはない。だから、プロレタリアートの権力をうちたてることは、新たな問題を現実的に提起するのは確かだが、それがブルジョア支配からの断絶を実現し、新たな階級性を帯びた問いへと転化することは、前進である。それが、国際主義と結び付くことは、国境の廃止、そして、世界プロレタリア権力の樹立という結論へ我々を導く。

 資本主義的恐慌が、世界的な人々の不幸を増大させている今、資本からの労働の解放が、それらのことと結び付けて追求されねばならない。そして、それを徹底的に推し進められるのは、プロレタリア(無産者)であり、その階級闘争であり、その団結であり、それと結び付いた諸大衆闘争である。それを発展させること、そのための言論戦の武器や団結体の形成も含む解放の武器を作り上げることだ。今、運動体や左翼の中には、新しい時代状況、新たな階級階層関係に対応できず、相変わらず、90年代的な認識と対応を慣習的に引きずったまま、新たな事態に遅れを取っているものが多い。自己変革、態度変更、認識の刷新が必要だ。そして、今も、アフガニスタンやパキスタンで殺戮を続けている米帝やガザでパレスチナ人を虐殺し抑圧し続けている米帝の同盟軍のシオニスト・イスラエルやそれを支持し続けている日帝や欧州帝国主義の打倒、そして、地球上から搾取や収奪や抑圧や差別や虐殺、人々が陥ってる悲惨・隷属・惨禍・災厄・貧困・飢餓などを一掃する解放運動を前進させる共産主義革命を発展させなければならない。希望は共産主義革命だ!

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ファシズムの批判(6)

   ヒトラーは、今度は国際主義を強く批判する。

 ひとたび国民が、血を通して条件付けられた自分たちの精神生活の文化的表現を正しく評価しなくなり、あるいはそれを恥と感じるようにでもなって、生命の異国的表現に注意を向けるようになれば、その民族は、血とそこから湧き出す文化的生命との調和のうちにある強さを放棄することになる。国はばらばらに引き裂かれ、世界観の判断とその表現に確信を持てないままに、民族の目的への知覚や感覚を失い、それに代わって国際思想と概念と、そしてそこから湧き出す文化のごった煮がないまぜとなった中へと沈んでいく。そしてそのとき、ユダヤ人はあらゆるかたちで入り込んでくる。この国際主義中毒と人種的腐敗の達人は、決して休むことをしない。やがて民族の根は引き抜かれ、それによって徹底的に腐敗させられる。最後は、明確で統一的な民族価値の喪失であり、その結果としての最終的没落である(64~5頁)。

 ここで、ヒトラーは、彼流の資本主義批判をしているのだが、それは、たんに、国際資本、そして、金の力というものに対して、民族価値、人種価値を対置しているだけである。

 彼は、血という概念を、民族的な精神生活と文化的表現の条件としている。そして、それを、民族の自己評価、あるいは自覚の基礎に置いている。それは、文化的生命の調和でもある。つまり、民族という共同性の絆としているのである。それは、国という共同体の団結としてあって、それが、ユダヤに象徴されている国際資本の金の力によって、ばらばらにされ、民族目的の知覚や感覚を失われていくというのである。ここで、彼は、こうした資本が、社会関係を資本主義的な社会関係として形成し、それを再生産するということを見ていない。その基本は、資本-賃労働関係であって、搾取-被搾取関係である。それを超えた社会関係として、ヒトラーが描いているのが、民族としての「血」の同一性によるつながりであり、「血」による結合関係である。しかし、彼が金に象徴させている資本の力は、生産関係から生み出され再生産される力である。ロンメルは、北アフリカ戦線での体験から、それを、はっきりと理解した。ヒトラーの組織した共同性、あるいは社会関係の力は、アメリカ資本主義の生産力と生産関係が組織する力の一部としての軍事力に対抗できず、敗北を喫したのである。すなわち、貨幣批判ということだけでは、また、それに民族的共同体を対置するだけでは、資本主義批判としては、だめなのである。そこには、資本-賃労働関係批判がなければならないのである。これを廃止し、これを超える社会関係-生産関係をどのように組織するかという課題に対して、彼は、まったく不十分な回答しか出していないのである。

 しかし、彼は、そういうふうには自らの資本主義批判を進めずに、そうした腐敗が進めば、やがて、「明確で統一的な民族価値」が失われ、没落すると言うのである。「こうした理由から、国際主義志向はこれらの価値の不倶戴天の敵とされる」(同)。そして、まるでキリスト教のように、民族価値の信仰告白が、「民族全体の生命と行動を支配し、決定するものでなければならない」(同)と言う。そして、「民族のエネルギーと才能は、最初はまどろみの状態にあり、これを覚醒させる人物を見つけなければならない」(同)、つまり、民族の宣教師が必要だと言うのである。

 それは、「個人の人格による創造的活動」(65頁)によって生み出されるのであって、「この任務を担う人物が民族から選ばれ、一般の願いがその人物に解決を見いださないかぎりは、どうにもなりはしない」(66頁)と、彼は言う。それは、「大衆が創造的な業績を成し遂げたことは一度もない」(同)からだと言うのである。

 こうして、ヒトラーの国際主義批判は、宗教、民族の救世主、宗教指導者の要求へと帰着した。

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第63回シャンナショナルデー

 先日、第63回シャンナショナルデー記念集会に行ってきた。

 シャンとは、現在ビルマ(ミャンマー)の少数民族の一つのシャン族のことである。かれらは、ビルマの軍事政権の抑圧からの解放を求めて、たちあがっている。この集会を行ったのは、在日シャン民族民主主義会というところ。以下に、「第63回シャンナショナルデーにおける声明」を転載しておく。

 アゥン・サン・スーチーさんをはじめ、民主化運動の活動家が投獄され、自宅軟禁におかれるなど、弾圧が続いている。反体制派のビルマ人は、難民となって世界に散っている。そうしたビルマ難民は日本にもいるのである。

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 左の写真は、この集会で披露された、シャン族の伝統的な芸能で、お祝いや喜びを表すものだそうだ。左の獅子は、羊。

          第63回シャンナショナルデーにおける声明

 1947年2月12日、パンロン議定書を結ぶ直前の2月7日にシャンナショナルデーを挙行してから、今年2010年2月7日で、丸63年を迎えました。これまで軍事政権は少数民族をないがしろに扱ってきたため、現在に至るまで、理想とする連邦国家の構築がかなわず、今も尚、様々な問題を抱えているのが現状です。

 現在、シャン州における人々もビルマ全土に暮らす国民と同様に、政治的、経済的、社会的な面において、様々な困難に遭遇しています。独裁軍事政権は、純粋無垢な少数民族たちに対し理不尽な政策を押し付け、60年以上もの間に渡り、過酷で屈辱的な生活を虐げているのです。

 現在ビルマが抱える政治、経済、社会などの問題を解決するためには、全ての民族によって話し合う場が必要だと、少数民族である我々は固く信じています。話し合いの場には、自宅軟禁されているアゥン・サン・スーチー氏をはじめとし、投獄されている少数民族リーダーたちの参加が無くては、意味のあるものにはなりません。

 また、軍事政権が不当に作成した2008年の憲法は、少数民族の歴史を抹消すべく、巧みに作られたことは明白です。

 2010年に予定されている総選挙は、ビルマ国民、少数民族が歴史を刻んできた軌跡を葬り去るために実施される「まやかしの総選挙」であることは、国際社会も認識している周知の事実です。我々シャン民族は、その「まやかしの総選挙」は勿論のこと、その中核をなしている2008年憲法を、いかなる理由があろうとも受け入れられないと言うことを、第63回シャンナショナルデーのこの場におきまして、以下の声明で宣言致します。

  1. 新憲法の再策定の要求。特に、正当な民主化と、少数民族が有する権利を盛り込んだ憲法にすること。
  2. アゥン・サン・スーチー氏、ティン・ウー氏とシャン民族リーダーのクォン・トゥン・ウー氏を含め、シャン民族のリーダーたち、全ての政治囚を即時に釈放すること。
  3. 少数民族居住地域において戦闘区域を拡大させないこと、少数民族への非道な迫害や暴力を中止することを要求します。

                                   在日シャン民族民主主義会

 

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ファシズムの批判(5)

 ヒトラーは、続いて、ドイツ軍が、世界一の組織だと述べた上で、「ドイツ的秩序、ドイツ的効率、率直な性格、包み隠しのない勇気、恐れを知らぬ大胆さ、執拗なまでの粘り強さ、そして堅固なまでの誠実さを育む土壌だった。一つの職業全体が持つ名誉の概念が、ゆっくりと、目に見えないかたちで、国民全体の共通財産となっていた」(62頁)と述べる。彼にとってドイツ軍は、秩序や効率ばかりではなく、精神的な要素、率直さ、勇気、大胆さ、粘り強さ、誠実さを生み出し、名誉の概念を国民全体の共有財産とする存在であった。 それを破壊したものこそ、第一次世界大戦の和平条約であるヴェルサイユ条約によるドイツの軍備制限にあるとするブルジョア的考えに対して、ヒトラーは、「武器を失った本当の理由はわが国の平和-民主主義中毒と国際主義にあると言うのみである」(同)と言う。

 これこそが、わが国民の力の最高の源泉を破壊し、毒しているものである。なぜならば、民族全体の力の源泉は武器の所有や軍組織にあるのではなく、その人種的意味に-すなわち民族自体の人種価値を通じ、また最高の個人の人格価値の存在を通じ、そしてまた自己保存の考えに対する健全な姿勢を通じて表われてくる内的価値に-あるからである(62~3頁)。

 そして、ヒトラーの世界観の基礎をなす考え、「一つの民族は他の民族と同じではない」(64頁)ということを示す。そして、民族の価値は生命価値に還元される。つまり、民族として生きることがもっとも基本的な価値であるとされるのである。しかし、その価値は、一方では、その民族に内在的であると言っているにもかかわらず、「民族の血の価値の重要性が全面的に効力を持つのは、民族によってその価値が認識され、真価が認められ、正しく評価されるときのみである」(65頁)とされる。つまり、その価値は外在化し、認識、評価の対象とされなければならないと言うのである。そして、それは、効力というプラグマティズム的な考え、功利主義的考えに結びつけられている。

 民族がこの価値を理解しないか、自然本能の欠如からすでにその感覚をなくしている場合には、そのことによって、たちまち血の価値は失われ始める。その結果は混血と人種的劣化である。これはいわゆる外国品偏愛を通じて入り始めることが多いのは確かだが、その実は、他国と比べて、自国の文化的価値を過小評価しているのである(同)。

 つまり、問題は、主観的価値評価だというのだ。

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ファシズムの批判(4)

 ヒトラーは『第二の書』で、ブルジョア政治家を批判する。

 民族の生命において決定的なものは、つきつめて言えば自己保存の意志であり、その目的のために使える生きた力である。
 武器は錆びることもある。軍備が時代遅れになることもある。しかし意志さえあれば、武器を更新し、そのとき必要とされるかたちに国民を編成することはいつでも可能である。ドイツは武器を捨てねばならなかったが、その物質的な側面だけを見れば、そのことにはほとんど何の重要性もない。しかしブルジョア政治家は、この物質的な部分しかみていない(60頁)。

 一方で、民族が自己保存のために必要な物、物質を強調したと思いきや、今度は、ブルジョア政治家は、それしか見ていないと論難する。そして、次には、旧ドイツ軍を「民族意志と訓練の源泉」(同)と持ち上げる。

 ドイツ人があらゆる分野で最高の業績をあげることができたのは、旧ドイツ軍が国民にさまざまな訓練を施したおかげであって、その貢献度は計り知れない(同)。

 そして、ヒトラーは、「楽しげに社会主義をまくし立てる連中」の無理解を論難し、「旧ドイツ軍は最高度の社会主義組織だった」と言う。その旧ドイツ軍=社会主義組織に対して、「資本主義的傾向を持つユダヤ人」が対立し、激しく憎んでいるというのである。ヒトラーの資本主義観・社会主義観は、このように、まったく荒唐無稽で無内容なものである。彼は言う。

 典型的な資本主義的傾向を持つユダヤ人どもは、金ではなく業績が地位や威厳(や言うまでもなく名誉)と一致するような組織、何がしかの業績をあげた物として列せられる名誉が、富と財産の所有よりも大きく評価されるような組織を憎むのである。業績を重要視するこの考えは、ユダヤ人にとって無縁なばかりでなく、危険なものでもある。これを以後のユダヤ禍に対する免疫となるほどである。たとえば軍が、金で将校の地位を買えるものならば、ユダヤ人にも理解できるだろう。しかし彼らには、何の財産もない者が名誉に包まれるような組織、収入が多いからといって名誉も評価もまったく得られず、逆に彼らと比べてほんのわずかな収入しかない者が評価される組織など理解できないし、実際に異様なものとして見ている。しかしそこにこそ、この比類なき旧制度の最大の強さがあったのである(61頁)。

 資本主義に対して、金や富や財産に対して、軍隊を対置しているわけだ。しかも、旧ドイツ軍という特定の軍隊のみを。この部分と、小林よしのりや「新しい歴史教科書をつくる会」などの右派の言説と比較してみれば、その共通性は明らかである。しかし、上には上がいる。日本には、「金も地位も名誉もいらぬという人は困ったもの」だという西郷隆盛の『西郷南州遺訓集』(岩波文庫)にある言葉が残されている。これは、一面では真実をついていて、確かに、軍隊には、金だけではなく、名誉や評価という動機が強く働いている。それが、金銭欲や出世主義などが強く浸透すると、崩壊的状態を招くというのは歴史上にいくらでも例がある。傭兵が簡単に寝返ったり、崩壊したり、闘争意志が解体しやすいのは、そういうこともあると言えよう。この間の、官僚批判は、官僚を単なる俗物として暴露するという類のものが多く、他方で、軍隊と共通する名誉や地位や評価という動機があるということを忘れているようなものが多い。かつては、官僚はこうではなかったと嘆く論者もいるが、しかし、こうした一面的批判は、むしろ、ヒトラー的な批判と融和的なのではないだろうか。

 第一次大戦時のドイツ軍は、ヒトラーの体験では、こうした面を持っていたのかもしれない。しかし、ドイツ軍内には、対ロ・東方重視派と西方重視派の二大派閥の対立があって、そのために、戦争方針がぶれていた。さらに、キール軍港の水兵反乱、労兵評議会(レーテ)革命時の反乱部隊の鎮圧、カップ一揆でのエアハルト旅団の反乱(後に、エアハルト旅団は、ヒトラーの親衛隊に合流する)、元ドイツ軍の象徴であるヒンデンブルクの大統領就任、等々の中で、ドイツ軍内の二大派閥の対立は貫かれていくのである。

 ヒトラーは、「社会主義をまくし立てる連中」に対して、軍隊を現に存在する社会主義組織として示した。しかし、もちろんそんな馬鹿なことはないのであって、それはヒトラーのとんでもないこじつけだが、それに対して、「社会主義をまくしたてている」社会主義者たちが、社会主義の具体的姿をしっかりと描いて、その方策、それを実現する戦術・組織について、明瞭なものを提示できなかったことが、ヒトラーの提示するエセ社会主義観に向かう人々を自己のもとに引き寄せられなかった大きな理由だろう。おそらく、資本主義のこの現実を経験している人々の中には、このぐらいの心情、心情的な資本主義批判、現状批判の意識は育ちつつあるに違いない。それに対して、「在特会」のような連中は、悪をはっきりと名指しして、それを敵にしたてて、それとの闘いを示し、自然発生的なそうした人々の心情を「右」へと方向付けようとしている。鳩山所信表明演説は、資本主義批判を一応表明したのはいいとしても、それが融和主義によって力を消されているために、ヒトラー主義的なものに対して、本当には対決できないものでしかないのである。

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