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2010年6月

朝鮮高校差別を許さない! 「高校無償化」即時適用を求める市民行動の芝公園集会報告

 朝鮮高校差別を許さない! 「高校無償化」即時適用を求める市民行動の芝公園集会に行ってきた。

 梅雨の鬱陶しい時おり小雨が降るなか1200人(主催者発表)の人々が集まった。民族学校を認めず国内少数民族に民族教育の権利を保障しないことは国連憲章にはっきり明記されている民族自決権に反する。それにも関わらず日本政府は朝鮮学校を特殊学校にしたままだ。そして、保守派・右派は朝鮮学校は「共和国」の主体思想教育の機関だというデマ宣伝を流し続けている。政府はそれを支持するような行動を取っている。

 「在日」の戦後史を見るならば、戦後すぐ子どもたちに民族教育をするための自主的な国語教習所を各地に作り始めたが、それを政府とGHQは弾圧し認めようとしなかったということがある。それどころか政府は「在日」の子供たちを日本の学校に入ることを義務化しようとしたのである。それに対して阪神教育闘争などの教育闘争が闘われた。

 このような政府の排外主義的姿勢というのは多少の変化はあっても一貫しており、機会をとらえては民族学校・民族教育・民族文化を潰そうとしてきた。政府は、この間「拉致問題」などでの「共和国」との関係悪化などがあって一般世論が反「共和国」的に大きく傾いた機会を利用して民族自決権を否定し同化強制を強めている。高校無償化からの朝鮮学校排除はそれを如実に示すものだ。鳩山前首相はその根拠を示せずただ引き続き検討するとして先延ばしを図った。現在の「共和国」体制の評価、それとの外交関係、その他の関係する諸問題はあるが、それと国内少数民族の民族教育の権利という民族自決権に基づく権利の問題は混同されてはならない。民族的同化は進歩ではなく退歩である。国民統合と階級統合は内容がまったく異なるものだ。遺憾ながら左翼の中に国民統合と階級統合の区別がなくほとんど同一と見なしているものがいて、混乱がある。新たな差別・排外主義勢力が登場してきていて国際主義の課題が重要となっている中ではそれを批判しないわけにはいかない。このような自己批判、内在的批判なしに左翼は強くなって甦ることは出来ないし差別・排外主義としっかりと闘えるようにならないと思うので、その実践を継続していきたい。

 集会は多くの「在日」と支援、労組、市民団体などが参加し、長いデモ隊は東京タワーすぐ下の芝公園から銀座数寄屋橋を通り、途中、鍛冶橋で「在日特権を許さない会」約50人が警察の阻止線内からヘイトなスピーチを浴びせてきたがデモ隊を歩道から離して距離を取らせたことなどもあってデモ隊側にはかれらが何を言っているかほとんど聞こえず、無事に東京駅の先の公園で流れ解散した。気になるのは沿道の人々が比較的無関心であったという感想が参加者から聞こえたことだ。民族学校・民族教育の権利擁護が自己の権利を擁護することにつながるという連関を感じ取れず政府の排外主義的政治宣伝に引っかかって民族学校擁護イコール「共和国」擁護と直結されるイデオロギー空間に閉じこめられているのではないだろうか。他者の権利と自己の権利は相関関係にあって一方だけが単独で存続しえないという当然のことが見えなくされているように思う。

 多民族社会化は民族自決権と結合されてこそ本物になる。階級形成はこうした一般民主主義的課題をも自らの課題として闘う中で豊富な内容を持つ新社会建設のイニシアティブを持つ共産主義的階級形成になるということをはっきりと主張しなければならない。民族自決権を支持し、「在日」に民族教育の権利を

阪神教育闘争50周年集会の記録
http://www.ne.jp/asahi/m-kyouiku/net/50syuunen.htm

〔基調報告〕

共生時代と民族的マイノリティの教育
~「四・二四」の歴史的今日的意義を踏まえて~

龍谷大学教授          「ヒューライツ大阪」所長 金東勲

はじめに~「四・二四」を考える基本的視座~

  「四・二四闘争」を考えるときに求められる基本的視座の一つは、日本帝国の植民地支配による民族否定とそれに対する日本政府の歴史的責任であり、他の一つは、歴史的にそして今日においても、一国内に存在する民族的マイノリティが、民族的マジョリティとそれが支える権力によって差別され抑圧され、民族的存在さえ否定され続けているという事実である。そしてさらに求められる視座は、民族教育は、子ども一人ひとりの基本的人権であり、教育目的の達成に欠かすことのできない必要かつ重要な課題であるということである。最後に、民族教育は、当該民族的マイノリティとその子どもたちのためだけではなく、マジョリティつまり多数者である日本人と日本政府が、単一民族社会観から脱皮し多民族・多文化社会を構築する意思と行動を日本国内外に示す恰好の過程でもあるという視座が求められる。

一、「四・二四」は不法に奪われた民族性の回復を求めた正当な闘いである

 一九一〇年から三五年間に亘る日本帝国の植民地支配は、一九三〇年代になってはじまるアジア侵略と太平洋戦争の過程で、一方では朝鮮半島を兵站基地に組み込み、他方では朝鮮半島の人々を天皇に忠良な臣民にして侵略戦争に狩り立てるために、言葉と文化そして歴史だけでなく民族名を奪う、いわゆる皇民化政策を強行した。因みに、私自身一九四五年八月まで五年間、キム・ドンフンではなく、「鈴木成夫」という日本皇民としての教育を受けた一人である。

 国際法的に不法である併合と植民地支配に止まらず、民族性を剥奪し民族の抹殺を図った皇民化政策は、他の欧米植民主義に例を見ないものであり、不当な暴挙であった。したがって、日本の敗戦と植民地主義支配から解放された在日同胞が、不法かつ不当な植民地支配と皇民化政策によって奪われた民族性を回復するために必要な民族教育は、日本政府の責任において保障されるべき正当な権利であった。ところが、在日同胞が自らの資産と人材を総動員してはじめた民族性回復に必要な教育を否定し、「法律遵守」を口実に「公教育」を強制したのである。つまり、植民地支配と皇民化政策に対する反省と民族性回復に必要な措置を取る責任を果たさないばかりか、在日同胞の自立的努力による民族性回復を、GHQとともに銃剣で阻止しようとしたのである。こうしたGHQと日本政府の行動は不当な暴挙であり、これに対する抗議と抵抗は、民族性の回復によってのみ真の解放を実現できる在日同胞にとって、必要かつ正当な行為であったことは誰一人として否定できないはずである。いいかえると、「四・二四阪神教育闘争」は、植民地支配と皇民化政策の過ちを植民地支配の終結後にも再度犯した出来事であったと認識する必要がある。

二、「四・二四」後五〇年の民族教育は

 一九四八年の「四・二四」につづく在日同胞の抵抗と抗議そして日本文部省との折衝にもかかわらず、ほとんどの民族学校が閉鎖され、数校は日本公立学校として編入され、一校(現在は二校)だけが学校教育法に基づいて設立が認可された。その結果、在日同胞の子どものほとんどが日本公立学校へと追い立てられることになる。他方、GHQと日本政府の閉鎖措置によって壊滅状態に追い込まれた民族学校は、学校教育法が認める正規の学校ではなく、各種学校という法制度上の制約と差別を強いられる学校として再建・存続されてきた。そのため、過去半世紀に亘る在日同胞の民族教育課題は、民族学校の法制度上の正当な地位保障と大多数の子どもが就学する日本の公立学校における民族教育の保障が中心的なものとなり、今日においてもこの状況は変わっていない。

 とりわけ、在日同胞の子ども約八〇%以上が就学している日本の公立学校における民族教育は、「四・二四教育闘争」のときに大阪府知事と民族団体との間に交わされた覚書に基づき措置された民族学級と民族講師によって継続されたが、三〇を越えるといわれた民族学級と民族講師も一時は十数校にまで減少した。他方、一九七〇年に入ってからは教育の現場に多数の在日同胞の子どもを抱える日本人教員たちの努力により、放課後のクラブ活動の形態であるが、民族に触れる機会が設けられる学校が生まれるようになる。しかし、「覚書」に基づく民族学級の減少に対する補充措置は取られず、クラブ活動形式の民族教育も制度保障ではなく、教員の良識と努力に頼る「現場まかせ」のものに止まった。

 こうした状況は、一九六五年の日韓法的地位協定が、在日同胞の民族教育について一言もふれなかったばかりか、日本の公立学校への就学を恩恵的に認め、既存の同化教育を追認してしまうことになった。そして一九六五年一二月には、在日同胞の子どもがその民族素養を育むために必要な特別教育つまり民族教育を行う必要はないとする文部次官通達へと発展し、民族教育の道を閉ざしてしまったのである。この文部次官通達は、制度的保障の要求を拒否しつづける教育行政の表向きの理由となり、民族教育を阻害しつづけることになる。もっとも、日韓協定の再協議の際に交わされた「九一年覚書」によって、六五年の次官通達は実質的に撤回され、地方行政による民族教育の努力を中央政府も積極的に評価し尊重することが日韓政府間の合意で承認された。

 他方、在日同胞に民族教育の制度的保障を求める現場の教員と市民そして在日同胞が連携・協力して進めた運動は、八〇年代に入って在日同胞を主とする外国人の教育に関する指針や方針の策定及び民族学級もしくは民族クラブを増設させるなど、日韓両政府が覚書によって追認せざるをえない状況をつくった。しかし、民族に触れる機会を正規の教育カリキュラムの中で保障することは議論すら認められない状況にあり、課外活動の形による民族教育も大阪以外の地域そして大阪でも少数が在籍する学校ではまだ保障されていない。すべての子どもの権利として制度的に保障するまでにはまだ長い時間と努力が必要である。

三、民族教育は国際人権法が保障する正当な権利である。

 第二次大戦後の国連体制の下で発展した国際人権法は、第一次大戦後のマイノリティ保護政策にはじまり、第二次大戦中のナチス政権によるユダヤ民族とかシンティ・ロマなど民族的マイノリティの大量殺害を直接的契機として発展してきた。いいかえると、国際人権法はマイノリティの権利保護を歴史的背景とし、またその存在理由の一つとしている。そのために、当然のことではあるが、人種、民族的または国民的出身に基づく差別を禁止し、民族的マイノリティの民族的アイデンティティと権利を保障する条約と宣言が採決・成立されてきた。

 国際人権規約のA・B両規約はともにその第一条において、自決の権利を保障し、この自決権に基づいて文化的発展を自由に追求できると規定するとともに、文化的発展のために必要な教育と文化活動を基本的人権として保障する。したがって同化教育による民族教育否定は、文化的自決権の侵害であり、文化的ジェノサイドであると認識すべきである。そして、民族的もしくは言語的にマイノリティの立場にある人々が、自己の文化を有し自己の言語を使用する権利を保障している(自由権規約二七条)。また、同じ内容の権利は、マイノリティの子どもの権利として、子どもの権利条約によっても保障されている(同条約三〇条)。さらにまた、このような民族的マイノリティとその子どもが享有する権利とそれらを具体的に保障するために必要な措置を求めた「マイノリティ権利宣言」(一九九二年)が国連総会によって採択されている。

 他方、世界人権宣言、社会権規約そして子どもの権利条約が共に達成すべき教育の目的として、人格の完成および人権の尊重と並んで、異なる国民、人種間の理解と寛容の促進を掲げている。さらに子どもの権利条約は、特に上記の目的に加えて、子どもの文化的アイデンティティ、言語と価値観の尊重と自己の文明と異なる文明の尊重の育成を教育の目的として定めている。これらの教育目的は、民族的マイノリティの子どもに、マジョリティの子どもと同じように、自己の言語と文化そして歴史に触れる教育を保障することによってはじめて達成できることは言うまでもない。

四、共生社会は、マイノリティに対する民族教育とマジョリティに対する異文化教育によってのみ構築できる

 異なる民族と文化が共生する社会の構築は、二一世紀を目前にした今日、日毎に高くなるグロバリゼーション、もしくは国際化の潮流が日本に求める最重要課題である。そしてこの課題の達成には、日本の社会と人々の考えと行動を長い間支配してきた「単一民族社会観」からの脱皮と異なる民族と文化とりわけ日本国内に存在する民族的文化的マイノリティを認め共生する意思と努力がまず必要である。もっとも一九九七年に成立したアイヌ新法は、アイヌ民族性の尊重とアイヌ文化の振興を規定し、日本政府および大阪府と大阪市が策定した「国連人権教育一〇年」の行動計画が、多文化共生の社会を人権教育の目的として掲げるなど、具体的変化の兆候を確認できることも事実である。

 しかし、真の共生社会を構築するためには、他の異なる文化と民族とりわけマイノリティが自己の言語と文化に触れ民族的アイデンティティを維持し表現できる教育すなわち民族教育と民族的マジョリティがマイノリティの文化を尊重する教育すなわち多文化教育が必要不可欠である。いいかえると、単一民族と単一文化の社会を前提にした既存の教育制度から民族的文化的複合社会の構築をめざす多文化教育へと転換するために、学校教育法の見直しなど必要な措置を取らなければならない。つまり、「多文化教育」とは、日本語と日本文化だけを内容とする単一文化教育に代わって、マイノリティの言語・文化をマジョリティの言語・文化と教育上平等な地位と取扱いを保障する教育であって、一部でいわれるようにマイノリティの民族教育に代わるものでは決してない。くり返すと、共生社会は、すべての民族に対する民族教育の保障を前提にし基礎にした多文化教育の確立によって、はじめて実現可能である

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参院選挙からの雑感

 現在、参議院選挙の最中である。この選挙の争点は何だろうか?

 すでに、陰が薄れているG20だろうか? そうでもなさそうだ。カナダG20サミットの関心は、財政収支の健全化にほぼ終始しているようだ。ギリシャの財政破綻があったことも関係しているのだろう。サミット会合で「各国首脳は米国が主張する景気刺激策を通じた成長確保が短期的に重要であるとともに、欧州諸国が取り組む財政健全化も中期的には不可欠だとの認識で一致」(6月26日時事通信)した。確かに、今年前半の日本の成長率はプラス2ポイント程度でわりと好調である。問題は成長の中味だ。買い物をしてみれば誰しも気づくようにデフレである。企業間取引物価、卸売り物価などの物価も見てみないと総合的には判断がつかないが、とにかく、一般商店に並ぶ商品の価格は下がっていることは子供でもわかる事実だ。税収的には、量が増えないと消費税収が増えることは期待薄である。デフレは短期的にはワーキング・プアには恵みとなっているが、長期的には賃金低下と失業増加をもたらす可能性の高い事態である。

 民主党の枝野官房長官は、「高福祉高負担」の西欧型福祉国家路線を明確に指し示したが、それを導入するためには大きな制度改革を行わなければならないことを言わなかった。労働組合から賃金の在り方から企業福祉体制から労働市場からなにから、とにかくいろいろと変えなければならないことがあり、それ抜きに福祉国家と言ったら現行制度のままバラまきするということになるだけである。

 それから、この政権は現在の最大の問題として沖縄の普天間基地移設問題を抱えている。鳩山首相の退陣でことは終わったわけではまったくなく先延ばしになっただけである。菅は、鳩山の方針、つまり日米共同声明路線を継承することを表明しており、その実現のためには移設先とされた辺野古の反対運動との対決か懐柔などは避けられず、前者の道なら強制執行という強硬手段を取らないといけない。それは、菅のこれまでの市民派というイメージを大きく変えることになる。それでも、この路線にこだわり強行するのか。鳩山は、アメリカとの約束を重んじて、沖縄との約束、選挙公約をひっくり返した。約束を守らない政府を信用出来るのか? 菅が日米共同宣言を忠実に実現していけば、アメリカは菅政権を信用するだろうが、沖縄からの信用を失うだろう。

 ヤマトによるこの露骨な沖縄差別は沖縄の抵抗の徴としての民族性を呼び覚ましている。民族自決権は国際法の原則の一つで国際社会が承認する一般的権利である。もちろん、それはイコール独立ではなく、その概念に包摂されることには、民族言語での教育権、文化権、自治権などがある。いずれにしても、この場合、民族自決権とは「沖縄のことは沖縄が決める」権利のことである。それを、本土の側は承認することだ。分離の権利があるということを周知徹底することである。それを行使するかしないかは沖縄の人たちが自由に討議して民主的に決定すればいい。そういう態度を本土の人々に広めることである。

 しかし、「在日」は民族自決権の対象だろうかという問題がある。少なくとも琉球とアイヌについてはそれは言える。これは歴史的社会的に判断するしかない問題だと思う。例えば、民族自決権をもとに民族学校を公的に認め通常の学校と同じに扱っていいのかどうかである。しかし、この歴史的に確立された国際的に承認されている権利以外にどのような根拠をもって民族教育を保証できるのか。多民族国家化や多文化社会化がそれの答えにならないことは明らかである。フランスでの移民同化策、アメリカでの「アメリカ人化プロジェクト」などの同化策の採用は、やはり現代国家においてはナショナル・アイデンティティーが、多民族化、多文化化の基礎条件として前提となっていることを示しているからだ。それは、かつてのオーストリー=ハンガリー帝国における文化自治制と似ていて、あくまでも帝国臣民というアイデンティティーの確立の上での多様性の容認でしかない。それよりも、民族自決権の方がはるかに民族の多様なアイデンティティーを許容することが可能である。それは、権力を握る支配階級=支配民族が自らを抑圧民族として組織することが、他の多くの被抑圧民族、被差別民族を民族性の発展へと導き、抵抗の主体とするということで明らかだ。日米両政府による沖縄差別は沖縄を差別するアメリカはヤマトをも差別しているという反米民族主義的なヤマト性を高めるだろう。こうして民族的多様性が拡大することになる。

 こうした多様性を多様性の線に沿って考え哲学していくことはドゥルーズの主張するところだが、彼がそれを実践したのに対してドゥールズ読みはそれを実践しえず、干からびた解説屋や解釈屋に止まっていることが多いのではないだろうか。民族性は、領土を求めると共に「脱領土化」するというようなことを江上波夫の『騎馬民族国家』(中公新書)あたりから展開してみるというような賭け事をやってみたら、いろいろと現代の民族問題を理解するのに役立つような気がする。あるいは、多と民族の間に切断線を入れてみるというようなことも。しかし、難民は、「脱領土」化しながら「領土」の夢の中にある存在であることが多いのではないか。フランスでは、移民は大都市郊外の「領土」化された空間に閉じこめられて、例えば、マグレブの夢を見ることを実質的には禁止されている。多くの移民はフランス化しフランス市民と認められることを求めている。ハンガリー移民の子のサルコジはもはやハンガリーの「領土」を夢見ることはないだろう。かくして、移民労働者は、「領土」を喪失することと引き換えに資本の労働者に転身させられ、そうして労働力商品として流通するようになるのである。すなわち、それは、労働者を抽象化する過程であり、一般的なものへと転化する過程であり、労働力化の過程なのだ。言葉を理解できることは、資本の監督者の指令を正確に実行するのに必要である。坂中英徳(元東京入管局長)が多民族社会化の最初の措置として具体的に提言しているのが、移住労働者に日本語を習得させるための公的支援であることは、それを露骨に示すものである。法律や習慣は相互習得ではなく、一方的な移民側の習得によって守られ無傷であるべき障壁のままなのである。これは、同化主義の一種であることは明らかで、ただそれを多民族社会化などというご立派な飾りで誤魔化しているだけなのだ。それは偽物である。

 沖縄を差別しながらそれを差別と見えないようにさせているものが何かは、この間、沖縄の運動が明らかに示してくれているように、日米同盟、日米安保体制である。そんなことを、沖縄の人々の闘いによって教えられるというのは自分の鈍感さを自覚せざるを得ないことだ。琉球弧、多様な線、多様な「領土」と「脱領土」の運動の海、反基地闘争の主体化されたジュゴンは泳ぐという運動によって闘いに参加し「闘争機械」へと合体し、沖縄の闘いの多様性の線になっている。それは、民族自決権という夢の媒介があって多様なまま結合するのではないだろうか。市民的統合は抵抗の線を消すが、民族自決権的統合は抵抗の線を消さないのである。

 成長と財政再建の両立重要=首脳の認識一致-ムスコカ・サミット

 【トロント時事】主要国首脳会議(サミット)は25日昼(日本時間26日未明)、カナダ・トロント近郊のムスコカ地方にあるリゾートホテルでの昼食会で実質討議に入り、経済成長と財政再建の両立が重要との認識で一致した。
 ギリシャ危機を契機に欧州諸国が財政規律の強化に動く一方、米国は経済対策の実施による成長維持を訴えてきたが、大きな方向性で先進国が足並みをそろえた格好だ。
 討議では世界経済の現状について、回復は予想以上に強いが、先進国の失業率高止まりなど引き続き脆弱(ぜいじゃく)な要素もあり、短期的には景気への配慮を怠るべきではないとの意見が大勢を占めた。
 こうした認識を踏まえ、各国首脳は米国が主張する景気刺激策を通じた成長確保が短期的に重要であるとともに、欧州諸国が取り組む財政健全化も中期的には不可欠だとの認識で一致。タイミングを誤らなければ財政再建は成長持続につながるとの考えも共有した。
 また菅直人首相は、日本が取りまとめた財政運営戦略と新成長戦略を紹介。先進国共通の課題である高齢化は、社会保障費の増加といったマイナス面をとらえるだけでなく、介護や医療分野などの雇用拡大、経済成長につながるとの視点が必要と訴えた。各国首脳からは「関心の表明があった」(同行筋)という。(2010/06/26時事通信)

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時代が要求する生成としてのレーニン

 レーニンについての条件反射的に繰り返される紋切り型のドグマがある。

 そうした紋切り型を口にする方と先日お話をしたが、その人はレーニンを読まないで、それについて書かれた誰かの本を読んで語っているにすぎなかった。それで、レーニンについてどうかと尋ねると、そんなのは、学者に任せておけばいいという返答だった。そういう類の事が多くて、閉口することもしばしばだ。自分で考えるのが面倒なのか権威に弱いのか。学者が文献を調べたというと、それだけで、もう、それが正しい解釈ででもあるかのように思いこんでしまう。

 ところが、実際のマルクスであれ、レーニンであれ、そうした学者の権威などに屈服することなく、自分の頭で考えた人である。エンゲルスもそうではあるが、彼はちょっとずるい。難しいことはマルクスに任せていたのである。『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』という本の話しの時がそうだ。ニューヨークで雑誌を発行する計画を立てていたヴァイデマイアーという男からの依頼をエンゲルスがマルクスに振った手紙があって、岩波文庫版の解説に引用されている。このクーデター直後の12月16日の手紙である。

 今日ひる受け取ったヴァイデマイアーの手紙を同封する・・・金曜日の晩までにかれのところへ論文を送れという要求はむりだ、―とくに今の状態では。しかし今こそ人々はフランス史について論壇というよりどころを切にもとめているのだ、そしてここで情勢について何かはっきりしたことをいうことができれば、それでかれの企画が最初の号で成功するということになろう。だが厄介なのはそういうものを書くということだ。そしていつものようにむずかしいことは君にまかせる。僕が何を書くにしてもクラビュリンスキイのねらいうち(ボナパルトのクーデターをさす)でないことだけはたしかだ。いずれにしてもそれについて君はかれに外交的に『退路をのこした』画期的な論文を書いてやることができる(岩波文庫229ページ)。

 エンゲルスが「いつものようにむずかしいことは…まかせ」たので、この仕事はマルクスによってなされることになる。すでに、マルクスは、1848年2月革命から1850年3月10日の補欠選挙までのフランス階級闘争の過程について、その最中に、1848年革命が波及したドイツのケルンで発行していた『新ライン新聞』に『フランスにおける階級闘争』を書いていた。それには、今起きている真っ最中の事件、現在進行中の事態について書くスタイルについて、学ぶものがある。そこには、センス、とりわけ、抽象的なものに対するセンス、唯物論的なドゥルーズが言う哲学者=概念創造者のセンスが感じ取れる。マルクスは、若い頃から、そういうセンスが鋭く、それを強く持っていた人である。まだ、ヘーゲル左派の中にいた時に、エンゲルスがマルクスについて聞いた評価は、若いが優れた哲学者だというものだった。まだ、これといった論文など書いてない段階でそう評価されていたのである。もちろん、学位論文があって、これは、今では、出版・翻訳されているが、それも、そうしたセンスのある論文である。そこではエピクロスとデモクリトスの原子概念の差異について展開されている。哲学的センスがもうこの頃には鋭く育っていたわけだ。そのセンスでフランスの1848年革命の過程を読み解いていったわけだ。

 唯物論についてもしかりで、唯物論は古いだのなんだのという紋切り型の繰り返しがある。レーニンの『唯物論と経験批判論』には、観念論と唯物論の対立は太古の昔からあると言われていて、このような唯物論という観点から見ると、マルクス・エンゲルス・レーニンなどは、数千年来のこの対立と闘争の歴史過程の中で現れた登場人物の中の3人にすぎないことになる。唯物論者は、エピクロス、スピノザ、ベーコン、ディドロ、エルヴェシウス、デューリング、ネグリ、ドゥルーズ、日本の富永仲基、山片蝙桃、「唯物論研究会」の面々、田中吉六、等々。それに、自然科学者の多く。その他諸々。というわけで、それは、人類の営為の成果としてあるが、時の支配階級は、それを奪取し、自らの間尺に合わせて改造し自らの武器とする。もちろん、最初から、支配階級の弁護論というのもある。それは、その思想の性格や状況の中での位置や諸々の条件などにもよる。

 これまでのマルクス・エンゲルス・レーニン観がドグマ化していることに象徴される知的停滞や思考停止の問題がある。ドグマ化は抑圧的だ。それでは、現実をきちんと認識できないし、それを根本的に変革するなどという発想も出てこない。ただ、ステレオタイプな発想と型への固着が起きる。ところが、どう見ても、現実の方は変化していて、知識がそれを後追いしている格好になっている。ドグマ化は、左右を問わず運動の保守化傾向を強化してしまう。ドゥルーズは、1968年から目を背けるためにヌーボー・フィロゾフ派がおかしなマルクス像を捏造したというようなことを89年の雑誌『文藝』に訳出されたインタビューで語っている。こうした像もまたロシアのレーニン像と同じく引き倒されなければならない。それによって、レーニンを戦闘的唯物論者として解放することが必要だ。「過程しかない」(ドゥルーズ)のだから、過程の運動の障害物となるドグマや紋切り型から解放されなければ、マルクスもレンゲルスもレーニンも見えてこないのである。そして、ドゥルーズのヌーボー・フィロゾフ批判として、資本主義についてまったく何も言っていないという点を指摘しておきたい。このことは、今、特に強調すべきである。死んだ生気がないドグマは、左だろうが右だろうが、生成の阻害物だ。「外部」を撮すこと、それは、ドゥルーズが「哲学史を書くのは肖像を描くのと似ている」と言うように、「外部」性を持つ「何か」を模写することであり、導入することである。だから、現代において、その現実の資本主義を論じないなどということはあり得ない。にもかかわらず、このところの現代思想は、資本主義という現実を無視するか、あるいは、暗黙の前提にしている。論じているということだけで言えば、サルトル・カミュ論争(『革命か反抗か』新潮文庫)は、ブルジョワ社会を議論の対象にのぼせているだけでも、たいしたもんだと読んでみてちょっと感心した。

 それに対して、労働運動からも市民運動からも、NPOだのというあたりからも、資本主義という現実に対するしっかりとした認識も、根本的批判も聞こえてこない。地域通貨運動からは貨幣廃止だけが資本主義批判の要であるかのように言われる。では、賃労働-資本関係、それから、「資本の生産過程」、それから労働過程はどうなるのかとかいうことがある。特に労働の在り方の問題である。それから、価値論の領域があり、価値計算の問題がある。価値配分においては政策的裁量が大きくなるが、資本主義においては社会的平均労働時間による価値計算が、市場による価値実現の競争による市場価格の平均へと整序されていくというふうに『資本論』ではなっているのだが、それのない社会主義社会ではそうはいかない。それから、過渡期には、それらが混在するのは避けられないし、両者を政策的に調整していかないといけないので、それは「計画経済」の価格決定方程式(森嶋通夫)などを基にした指標の調整などを必要とする。そして、大事なのは、それが、大衆のインセンティブの発揮によって達成されねばならないということである。大量生産大量消費のフォードシステム型のインセンティブは、高賃金、複利等々の物的刺激によるインセンティブであり、ソ連・東欧でも物的刺激策は取り入れられてきた。奨励金、報奨金、特典、成果主義、等々。しかし、それは、特権的とも言える基幹本工労働者と下請け、請負などの格差の上に成り立ったものにすぎないということがこの間ますますはっきりしてきた。基本的に国営企業がほとんどのソ連などでは、それは、官僚上層と下層の格差として現れたのだろう。そこで、公共事業における専門主義や官僚主義の弊害が問題となった。フルシチョフ時代の大規灌漑事業の失敗(ウラル海の縮小、畑地の塩害等々)。こうした問題は資本主義でも現れたが、それはある程度は大衆運動などによって修正された。とはいえ、資本は、それを第三世界への進出の際には繰り返すのだが(公害輸出等)。「計画」には、その速やかな修正と現実への一致を実現できるプロセスの組み込みが必要であるのに、それが出来なかったということがソ連型「計画」経済が抱えた問題の一つであった。

 それに対して、自由市場主義者たちは市場の見えざる手による自動調節機能の発揮を主張し、それを政策化したが、それはたんなる信仰にすぎなかった。やはり、それは、資源の適切な配分ではなく、利潤原理による偏った配分に帰着した。そのために、必要な物ではなく、儲かる物が生産されるようになったのであり、それは時として国家予算(税金)によって消費される。地デジみたいに強制的に消費させられもした。買わない自由がないのである。オバマは、自動車産業を救うために、自動車購入費用の一部に公的資金を投入した。消費財を国が金を出して買わせるなどというのはソ連でもあまり例のないことではないだろうか。ソ連名物の行列は消費財の供給不足のために起きたのであり、アメリカの自動車は過剰生産で売れないという需要不足によって起きたことだからである。過剰生産がいいのか過少生産がいいのかというのは不幸な選択肢である。ある商品が生産されると、買う買わないは市場における消費者の自由選択のはずで、消費者は買う自由と共に買わない自由があるというのが一応、自由市場主義の前提である。供給が需要を上回った場合には、供給体制の縮小、生産の縮小、設備の廃棄や遊休が行われることなる。そうして、供給と需要が適合するまでがまんしろというのがハイエク流の自由主義的解決策である。もちろん、そんなのは幻想に過ぎない。なぜなら、がまんの押し付けは強制力を伴わないでは実現不可能だからである。そこで、国家暴力の強化、国家秩序、法的秩序、道徳の強制が同時に行われねばならず、自由主義は、国家主義、道徳主義とセットにならざるを得ない。デヴィド・ハーヴェイが『新自由主義』で明らかにしたのは、自由主義と保守主義が相互補完的に結びついているということだった。リベラリズムへの幻想はこうした結びつきを見えなくする。そして、ネオ・リベラリズムが、旧来のリベラリズムが産業資本のイデオロギーであるのに対して、多国籍資本、とりわけ金融資本のイデオロギーだということである。グローバリゼーションが同時に市場秩序の法的イデオロギーの強化を伴っていたことが、それを証している。WTO、ガット・ウルグアイラウンドなどの国際貿易体制の強化、国際法秩序の強化、そして、その違反に対する厳しい制裁措置の強化、国際金融機関や国際資本による融資国の経済政策への強力な介入など。ギリシャがいま直面しているのが、こうした事態である。しかし、それは、すでに、東欧、ハンガリーなどでは昔から行われてきたものであり、90年代後期には、アジア通貨危機に見舞われた東南アジア諸国や韓国、債務不履行に陥ったアフリカ諸国、そして中南米でも最近まで続いていた。それは、ハーヴェイによれば、歴史的には、ピノチェット軍事独裁政権下のチリから始まったプロセスである。

 先日、新聞の世論調査で、答えた人の多くが社会主義を求めていることが明らかになった。しかし、それは、たぶん、革命抜きの社会主義であり、高負担高福祉(神野直彦)の西欧流福祉国家型社会主義である。しかし、それでも、イギリス型「第三の道」よりはずいぶん社会主義寄りに意識が傾いてきている。それに対して応えられる議会政党はない。相変わらず、自由主義を前提にして、その改善によってなんとか事態を乗り切ろうという政策を掲げる議会政党ばかりである。状況は、レーニンの復活、不死鳥的甦りの条件が成熟しつつあるというふうにしか見られない。選択肢は少なくなってきており、明らかに革命的解決の方に時代のベクトルが向きつつある。西欧流福祉国家化という選択肢は英米型を模倣してきた日本型福祉制度の大変革を伴うことは明らかで、それをやるには、強力なリーダーシップと人々の広範な支持が必要であることは明らかだが、それをなしうるような政治潮流はない。大きい運動としてもない。こうして、人々の社会主義要求意識と政治の間のギャップが拡大していっているというのが今の状況だ。革命なき過去の切断は不可能であり、今や、部分的変更ではなく、全般的変革が問題になりつつある。「希望は革命」(雨宮果稟)は、大衆の時代的無意識を一言で明るみにした至言であり、これこそ本物の前衛的意識であったことは今や誰の目にも明らかである。だから、再び時代がレーニンを求めているというのも当然で、それも、「4月テーゼ」のレーニンが回帰するということになるわけだが、そこで、出来合のレーニン像を倒して、実践過程そのものとしてのレーニンが生成しなければならないということになる。そうして、社会関係を創造し、概念を創造し続ける実践=主体(バリバール)、あるいは絶対的過程(スラヴォイ・ジジェク)としての主体が前衛として生成しなければならない。というのは、歴史の根本的断絶を求める大衆意識の高揚に対して応えられるのは、そうした主体であり、それは何度も歴史的変革期に登場してきたからである。

 

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自由民権運動について(井上清『日本の歴史下』から)

 自由民権運動について、井上清の『日本の歴史下』からみたい。

 1877年(明治10)2月、西南戦争が勃発する。井上清は、「西郷隆盛個人は、反動ではなく、ブルジョワ的改革の必要もよく承知していた。しかし彼は、多年生死をともにし、その力に頼って幕府を倒した士族大衆を、いまになって見すてることは絶対にできなかった」(169ページ)と書いている。西郷軍は最初、熊本鎮台を攻撃し優勢に立ったが、政府軍が旧士族らをも募集して約6万の兵力で反撃に転じ、有名な田原坂の闘いで大敗し、その後敗勢となり、戦闘の最中に重傷を負った西郷は自決する。井上は、「大西郷の徳望と薩摩士族の勇猛を以てしても、歴史の進歩にさからうものは、ほろび去るほかなかった」(170ページ 下線は引用者)と評価している。確かに、結果から見ると、「歴史の進歩にさからうもの」に見えるが、それは、後の自由民権運動内の国権派(同書)に受け継がれるのであって、歴史の別の局面、新たなステージへの移行を示す出来事である。

 民権派の中には、国権拡張の立場からの反政府派―かつての征韓派士族―も加わっており、愛国社第三回大会(79年11月)で、彼らは、まず第一に条約改正、国権拡張の大闘争をおこすべきことを主張したが、大会の主流は、対外的な国権の確立のためにも、国内の民権の確立、国会開設が当面の課題であるとして、国権優先論をおさえた(171~2ページ)。

 1880年3月愛国社第4回大会で、同社は国会期成同盟へ改組された。政府は「集会条例」を制定してこれを弾圧する。11月には「自由党」結成準備が始まる。81年10月29日、「自由党」(板垣退助総裁)が結成される。82年3月、九州の自由主義者は国権派の主導で、「九州改進党」を結成する。4月には「立憲改進党」(大隈重信党首)が結党される。

 井上は、「自由党」を「富農・マニュファクチュアー―資本家、および士族出身の急進的知識人が指導権をもち、一般農民を主要な基盤としていた」(174ページ)とし、「立憲改進党」は、「当時の政府主流と関係のうすい、三菱のような大ブルジョアや地方都市の商工業者を基盤とし、西洋的教養の高い知識人が指導した。富農の一部もこれに参加した」(175ページ)としている。「立憲改進党」は、イギリス流の立憲君主制を主張した。

 82年に福島県で大規模な民衆蜂起が起きた。県令三島通庸(当時は任命制)は、「自由党と火付け盗賊は、わが管内に一匹もおかぬ」と豪語して自由党を弾圧し、公共事業に賦役として徴発し重税をかけた。

 自由党員は県会議長河野広中を先頭に三島の暴政とたたかい、専制政府てんぷくの思想をひろめ、民衆を動員して賦役と重税の廃止をかちとろうとした。12月、官憲は河野らを逮捕し、内乱予備罪におとしいれた。その直後に賦役にもっとも苦しむ三郡の農民数千人が蜂起した(福島事件)。蜂起はすぐ鎮圧されたが、青年自由党員は、この事件によりますます急進化した。(176ページ)

 この年5月、奈良出身の樽井藤吉は、長崎県島原市で、平等主義、土地革命、大衆福利を掲げる「東洋社会党」を結成する。9月には、東京で、自由党員の奥宮健行らが「車会党」を結成しようとする。「自由党員の都市無産者を組織しようとする志向が芽ばえてきた」(176ページ)のである。車引き、車夫の組織化が先に進むのだが、同時に、鉄工、鉄道などの労働者の組織化が段々に進んでいく。その前に、官業として始まる富岡製糸などの繊維産業における「出稼ぎ型」労働者の女工の自然発生的な争議が起こるようになる。造船・鉄工などにおける労働者も渡り職人的な労働者が多く、仕事を求めて日本各地を転々とし、その際に、雇用権限を持つ親方を通して職を得ていた者も多かったようである。初期の労働運動は、「出稼ぎ型」労働者、「渡り職人」的労働者、都市雑業的労働者等々に対応しようとするが果たせず、同業組合的、修養主義的な性格を脱し得なかった。

 井上清『日本の歴史下』から、あくまでも井上の見方であるが、国権派が多かった自由民権運動の中で、それに反する少数派もいたということを書いているので、引用しておく。

 

  アジア連帯の思想と世界平和主義

 自国の専制支配に反対する革命的民権家は、対外的には熱烈な民族独立の闘士、その意味では国権主義者であった。しかし彼らはけっして、ショーヴィニズム(熱狂的愛国主義-引用者)にまどわされることなく、日本・朝鮮・中国という東亜の被圧迫民族が連帯して欧米列強の侵略に抵抗することを主張し、政府の欧米には屈服し隣邦には高圧的な政策に反対した。たとえば植木枝盛は、彼が政治生活にめざめた初期、一八七五年の江華島事件のさい、政府のあおる征韓論に反対した論説「競欲ヲ論ズ」を『郵便報知新聞』に投書し、東亜諸国民は「一家」のように連帯して欧米に対抗すべきであるのに、日本人でありながら朝鮮征伐をとなえるとは、「一家の存亡」も「一身の死生」もわからぬ馬鹿か狂人であると論じた。
 また一八七六年政府が琉球藩王に、日本への完全従属、清国との交際断絶を強制したとき、民権派の新聞『近事評論』は、琉球人民が日本からの独立を欲するならば独立させるべきであり、弱小国にたいするたいどこそ、欧米の圧迫から日本を独立させる道であると主張した。八一年四月、琉球問題で政府が日清開戦の危機を宣伝するのにたいしても、『近時評論』や中江兆民主筆の『東洋自由新聞』は、日清両国は歴史的にも地理的にも緊密な関係があり、協同して欧米の圧迫に抵抗すべきであり、だんじて戦うべきではないと主張した。『東洋自由新聞』がとくに「東洋」の二字をつけたのは、自由主義を全東洋にひろげようとする意を示したものであるが、日本が東洋を指導するという優越意識とは、まったく無縁なものであった。
 

 民権運動の昂揚期には、政府が対外事変をおこしてショーヴィニズムをあおっても、民衆はそれにひきずられなかった。
 

 一八八二年(明治一五)、政府は朝鮮にすすめて、軍隊改革のために日本人将校をやとわせた。その当時すでに、日本の商業資本は朝鮮に進出し、金や米・大豆などを掠奪や詐欺的な手段で「買い」つけていたが、日本人の不法行為は、治外法権でまもられていたので、朝鮮民衆はこれを深く恨んでいた。そこへ右の軍隊改革のことがおこり、改革によって失職する兵士の不満がたかまり、ついに首都ソウルで、兵士と市民の日本侵略者および朝鮮圧制支配者に反抗する暴動がおこった(壬午の軍乱)。この鎮圧を機として、日本は朝鮮から「賠償」を取り、また日本公使館護衛の名でソウルに若干の兵をおく権利をとった。
 

 この事件をきっかけに、朝鮮の宗主国を自任する清国の朝鮮にたいする軍事的政治的進出が強化されたので、政府は、軍備拡張の勢をはやめ、また清国を敵とする戦争熱をあおり、ショーヴィニズムの大宣伝をはじめた。しかし民権派は、自由党も改進党もけっしてそれに同調せず、かえって政府をはげしく批判した。たとえば改進党の最高幹部小野梓は、事件の直後に『外交論』を書き、朝鮮から償金を取るべきでなく、西洋の侵略から東洋を守るために、日・朝・清の団結協力をはかるべきである。朝鮮が清国から完全に独立するか、現状維持かは、朝鮮自身の問題で日本の干渉をすべきことではない、重要なことは三国の団結と東洋の平和(西洋の侵略反対)をはかることである、と論じた。
 

 有名な理論家だけが右のような自覚にたっしたのではなく、『中外評論』第一六〇号(七六年九月)には、「宇内に一大政府を設くべし」という、列国間の争いを平和に解決し、また被圧迫民族の独立をたすけるための国際機関の設置を提唱する投書があった。これと同様の説が、後に植木枝盛・板垣退助によって発展させられ、『通俗無上政法論』(八三年刊)となる。それはアジアとアフリカの被圧迫民族はもとより、ポーランドやアイルランドなど欧州の被圧迫民族をも完全に解放し、世界の永久平和確保のために、各国各民族が独立の主権を確立し、それら諸国が平等同権の立場で協議する「万国共議政府」をもうけよというのである。

  また後年(一八八七年)の中江兆民の『三酔人経綸問答』は、民権運動の衰退期において、西洋列強に対抗するために、中国を侵略して日本を一大帝国としようとする「豪傑君」と、理想的な民主共和制を説く「紳士君」とが論争し、それを「南海先生」が批評するという形で、日本の実状と世界の形勢にもとづく現実的な民権運動の路線を探求したものであるが、そこでも、領土拡張主義を否定し、中国との文化的・経済的な友好を説き、またカントの永久平和論をはじめてわが国に紹介し、各国各民族の民主主義の徹底を基礎とした世界の永久平和の理論を説いている。
 

 自由党が全体としてこのようになったのではなく、党幹部の中にも、国権拡張のためにアジア制服を夢見る「豪傑君」は多かったが、たとえ少数でも、ここにはじめて国内の民主革命と世界の被圧迫民族とくに日本の隣国である朝鮮・中国との連帯、世界平和の思想とを統一した理論や思想が生まれたことは、日本思想史上のもっとも重要なことである。(179~182ページ)

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「竜馬伝」雑感

 毎回みてるわけではないが、この前のNHK大河ドラマ「竜馬伝」を観たので、そこからつらつらと思ったことを書いてみる。

 新撰組が池田屋に結集していた浪士らを襲って多数を殺傷した池田屋騒動の後、勝海舟は、幕府が神戸で開いていた海軍所に脱藩浪士が多数混じっていることを板倉伊賀守に咎められた。勝は、そこをまかされていた責任者だった。

 勝は、確かに脱藩浪士が混じっているが、かれらの脱藩の罪を解くよう各藩に働きかけているところだと弁明する。しかし、池田屋で、土佐の脱藩浪士の亀弥太がいたことが、後に、海軍所の命運に影を落とすとナレーターが語る。

 おりょうは、竜馬に、自分の父親が、医師をしていたが、志士たちを支援したために安政の大獄で殺されたことを告げる。そして、彼女は、志士も新撰組も嫌いだと言う。しかし、彼女は、竜馬に、神戸に急いで帰れと告げる。

 不思議なのは、やはり、勝だ。後々、面倒な存在になる可能性の高い脱藩浪士に西洋流の操船術を伝授していたのである。幕府の金と施設で、やがて倒幕に向かうような者たちを養っていたわけだから、変わっている。実際、ここで学んだ土佐脱藩浪士らは、竜馬の下で、海援隊を結成し、第二次長州征伐の際には、竜馬が動いて成立した薩長の倒幕同盟の側に立って、倒幕のための武器を、「いろは丸」という船を使って長州に送り込んだのである。

 『氷川清話』にある勝の話では、海軍所には、薩摩藩士がもっとも多かったという。かれらが後に倒幕軍となって、幕府に刃を向けてくるのだから、勝は「潜在的」敵を養っていたことになる。それについて、勝は、その中で、門閥政治を打破し、人材養成が必要だからだと述べている。

 それから、ドラマでは、司馬の『竜馬がゆく』とまったく違ったキャラクターに描かれている武市半平太が、捕らえられる。そこで、乙女姉さんの語る武市像は、妻一筋の高潔な人物というもので、ほとんど宗教的な聖人である。むかし観た映画などでの武市像は、芸者に向かって「春雨じゃ、濡れていこう」などと言う粋な遊び人でニヒルな二枚目として描かれていたのを覚えている。ドラマでは、純朴、純真、一途、堅物、節を曲げない、という武市になっている。『竜馬がゆく』では、もう少し、一方では、純粋であるが、他方では、岡田以蔵などを使って暗殺を指揮する暗い面もある二面性を持つ武市像を描いていて、それが、竜馬にとって、同志でありながらも距離を取らせたというように書かれていたと思う。

 司馬は、竜馬に、革命的ブルジョアジーの政治思想家・実践家として、封建制から近代へと飛躍する過程の推進者として、基本的には「明るい」近代主義者のイメージを持たせている。そして、その革命家の魅力を描いている。それは、時代が彼らに刻印する社会関係性であり、その絆の存在が、彼らを支え、人々を彼らに引き寄せた魅力の正体なのである。人々は、彼らに希望のある「未来」を見た。竜馬が「明るい」のは、時代が夢見る「未来」の明るさを、彼が反射させることが出来たからである。固い自我は、自我の国境を固めて、それを拒絶するから、そう出来ないのだ。

 しかし、ドラマでの勝は、尊皇攘夷派か佐幕派かというアイデンティティーの立て方ではなく、日本人という新しいアイデンティティーを立てることで、これらの対立アイデンティティーをその下に包摂しようとする人物ということになっている。しかし、『氷川清話』を読む限りでは、どうも、勝=ナショナリストという姿は、浮かんでこない。確かに、勝は、江戸城無血開場を、国家主義という立場からの判断だと述べている。しかし、それは、佐幕派も含むような武士道精神から言われており、近代国家に適合的な近代合理主義とは違う精神を基礎とする国家主義なのである。武士道と近代国家の精神が合わないのは、その後、明治初期の相次ぐ士族反乱が明らかにしたとおりである。勝は、しきりに、幕府の徳政を話の中で繰り返しているが、そう語った頃はすでに「江戸は遠くになりにけり」だった。むしろ、考えなければならないのは、明治以降の自由民権運動が排外的ナショナリズムを抱えるようになり、それを反省する意識が育たなかったということである。

 一つには、大河内一男の『黎明期の日本労働運動』(岩波新書)にあるような「出稼ぎ型」労働者と永代売り買い禁止令の廃止、土地私有化容認、売り買い自由化後の中小農のその後の変転などの明治維新から日清戦争までの日本社会の階級階層関係の問題がある。主に旧武士層や旧名主、豪農層をリーダーとして始まった自由民権運動が、こうした変化を基本的に進歩の過程として見逃し、国会開設運動に集約されていくと同時に、窮乏する農村や都市下層、「出稼ぎ型」労働者の悲惨に目を暮れず、むしろ、朝鮮半島から中国など、その前に、台湾、琉球、アイヌモシリ(北海道)への矛盾の「外」への押し出しによって解決の道を見出そうとした。他方で、ドイツ帝国のビスマルク的政策の模倣として、上からの温情主義的な解決策も官界を中心に生まれ、温情主義的な地主層の育成や労働者の訓育などの政策を取る動きも生まれる。自由民権左派からは、ルソーの『民約論』の翻訳で知られる中江兆民系の大井憲太郎のように、労働運動に関わろうとする者も出る。

 『竜馬がゆく』に描かれたおりょう像になれてしまったので、どうも、ドラマのおりょうは固すぎるように感じてしまう。実際のおりょうは、いくつかの資料によると、竜馬死後、土佐の竜馬の実家に行くが、その後、東京に出て再婚し、案外、たくましく明治の後半まで生き抜いている。

 歴史小話は、京都の壬生の新撰組の屯所の紹介であった。壬生寺で開かれる壬生狂言を、隊士たちも激務の間の息抜きとして楽しんだというのである。壬生寺は、四条大宮からちょっと行ったところで、大通りから少し路地を入ったところにあって、ちょっと目立たない。

 藩から国へという意識の変化ということを司馬は言う。それまでは、藩=国だったというのであるが、それは、逆に、彼の近代国家観を当てはめて藩を見ているのであって、藩は近代国家とは違う。司馬にはいつもそういうところがあって読む時に気を付けないといけないのである。「竜馬伝」にもそういうところがある。しかし、こういう近代国家創設物語を語り続けないといけないというのは、それが意識としては、歴史的に変化するもので、固めておかないと、風化しかねないものだからである。我々の感覚は、国境などおかまいなしに超えていくし、人の関係もそうで、意識的に統制しないと、どんどん広がって行ったりするわけだ。感覚は、別に、知的計算などしないから、興味のあるものやところや人に人々を誘う。勝も竜馬もそうした傾向の強い人だったようだ。

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転載:かぞくをかえして! ともだちをかえして! 入管の人権侵害に反対するデモ

【以下転載・転送歓迎!】

かぞくをかえして! ともだちをかえして! 入管の人権侵害に反対するデモ

2010年6月20日(日)
集合 代々木公園・ケヤキ並木(JR原宿駅徒歩5~10分)
14:00 集会、アピール交換
15:00 デモ出発(原宿・渋谷をめぐり、国連大学前を通ります)
主催 SYI (収容者友人有志一同)
出発地の地図はコチラ(SYI ブログ)→ http://pinkydra.exblog.jp/12726896/

★ 世界難民の日、日本入管・政府の外国人差別にNOをうったえましょう!

★ 入管行政のここが人権侵害だ! 抗議声明への賛同者・賛同団体を幅広く募集し
ます。

《デモよびかけ》

6月20日は世界難民デー。世界じゅうには、経済的または政治的な理由による難民
が1000万人以上いると言われています。そのような難民の保護と援助について世界的
な関心を高めるために、この日は制定されたそうです。

ところで、難民とはどこか遠い国の問題ではありません。日本は移民・難民行政に
ついてとても大きな問題をかかえています。ほとんどすべての難民申請は、たいした
審査もなしに却下されます。さらには入国管理局が、難民申請中の人でさえおかまい
なしに恣意的な収容を行います。ひとたび収容されれば、人権がまったく配慮されな
い環境のなかに、何ヶ月でも何年でも監禁され続けるでしょう。職業などを求めて
やってくる難民以外の外国人も、同じようにあつかわれます。出身国での迫害から逃
げてきた難民には、帰る場所などありません。また、たとえ難民の場合でなくとも、
非人道的な収容環境それ自体が大きな問題です。収容のあいだに心身の健康を損な
い、けがをし、ときには命を失うことすらあるのです。

いつ解放されるとも知れず収容されている外国人の家族は、入管に対してこう訴え
ています。「かぞくをかえして!」と。わたしたちもこう叫びます。「ともだちをか
えして!」と。日本人のみなさん、入国管理局でいったい何が行われているのかを正
しく知ってください。こんな非人道的な入管行政を許し続けている日本人の責任につ
いて、この日によく考えてみてください。そしてわたしたちは、ともに声を挙げてく
れる人を歓迎します。

《入管への5つの要求に賛同してくれる方・団体を募集します》

以下は、法務省および入国管理局に対するわたしたちの要求です。
この要求内容に賛同してくれる個人・団体を募集します。(デモに参加できない方で
もOK)

賛同の連絡先: freeimmigrants★yahoo.co.jp  (★は@に変えてください)
※ 個人のかたはお名前、(できれば)肩書きをお伝えください。
※ 賛同者・団体名はSYIブログに公開します。(個人で非公開希望のかたはその旨
お知らせください)
※ 件名「入管への5つの要求に賛同します」でお願いします。


「法務省および入国管理局への要求」

1.すべての難民申請者に対する現行の審査基準および審査慣行を全面的に見直し、
難民条約にもとづいて難民審査手続きを改善すること。

2.全国の入管収容施設におけるすべての病人や怪我人を、すぐに釈放するか適切な
医療機関に診断させること。ただし、ここで言う「適切な医療機関」とは、入管専属
の医師や、各入管施設が慣行として利用している外部の医療機関のことではなく、
個々の被収容者ごとのかかりつけの医療機関のことである。

3.入管専属の診療医の人員数および診断の質を改善すること。そのためには、収容
施設ごとの最大収容人数に見合う数の医師をつけること、また入管職員と専属医師の
癒着を防ぐために、担当医師を定期的に(少なくとも年に一度)交代させることは、
最低限とるべき措置である。

4.各入管施設のすべての職員は、名札をつけるなどして勤務中に名前を明らかにす
ること。

5.現在いわゆるオーバーステイの状態にあるすべての外国籍者に対し、日本で暮ら
すうえでの安定した法的資格を与えること。これは、日本政府がこれらの人々を、こ
れまで労働力として暗黙のうちにこの社会に組み入れ、かつ課税の対象としてきたこ
とに対してとるべき、最低限の責任である。

***

GIVE BACK Our Family/Friends! Stop Human Rights Abuses! Demonstration
against Immigration Bureau of Japan, 20 June


June 20, 2010
14:00 Gathering at Keyaki Street, Yoyogi Park (in front of NHK Hall), 10
Minute Walk from Harajuku St.
15:00 Starting Demonstration
To MAP: http://pinkydra.exblog.jp/12695920

World Refugee Day, 20 June, is dedicated to raising awareness of the
situation of refugees. There are said to be over 10 million refugees around
the world.

Of course Japanese also have to do with Refugee problem since Japan signed
Refugee Convention in 1981. However, Japan Ministry of Justice rejects
almost all of refugee applications. And Immigration Office of Japan is
horrible, heartless, and authoritarian. Officers treat refugee seekers and
immigrant workers with NO regard to their human rights. Immigration Office
arbitrarily take and detain anyone, even if he/she is a refugee seeker. If
one is detained, he/she will be imprisoned in a small and dirty room for a
very long time (there is no detention time limit!). This seriously harms
detainees’ physical and mental health. Sometimes detainees even commits
suicide or is killed by officers. Immigration Office of Japan does
everything to keep worse the status and condition of refugee seekers and
immigrant workers. But needless to say, refugees have no place to return.
Even if it isn’t the case of refugees, such non-humanitarian detention
system itself is a very serious problem.

Detainees’ family and friends shout to Immigration Office: GIVE BACK Our
Family/Friends! Japanese must know more about what happens every day in 
Immigration Office, and say no to such administration of immigration in
Japan. We, SYI, welcome anyone who protests against Immigration Office.


"SYI’s Claim to Ministry of Justice and Immigration Office of Japan"

* To totally check and reconsider the current way to officially acknowledge
the detainees in terms of the Refugee Convention.

* To immediately release all sick or injured detainees or to offer to them
proper medical care. "Proper medical care" is NOT that by the doctors
belonging to the Immigration Office.

* To increase the number of doctors belonging to the Immigration Office and
to periodically replace them in order to avoid a cozy relationship between
officers and doctors.

* To make every officer wear a name tag.

* To offer overstaying immigrants the proper legal status to live in Japan


SYI  (収容者友人有志一同: Immigration Detainee's Friends)
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第4次出入国管理基本計画について(12)

 「3 新たな在留管理制度の円滑な導入と同制度に基づく出入国管理行政の展開」は、入管法、住民基本台帳法、外国人登録法の昨年夏に三点セットで改悪された新たな在留管理制度について書いている。

 現行の在留管理制度は、法務大臣が、入管法に基づき、外国人の入国時や在留期間の更新時等の各種許可に係る審査を行う際に外国人から必要な情報を取得する一方、在留期間の途中における事情の変更については、市区町村が実施する外国人登録制度を通じて把握することとなっている。このような現行制度が発足してから既に60年近くが経過しているところ、その間、我が国の国際化の進展等に伴い我が国に入国・在留する外国人の数は年々増加し、また、その目的も、観光のほか,就労、留学、研修など多様化し、日系人を始め我が国への定住化の傾向を強める外国人も少なくない。このような状況下で、我が国に在留する外国人の中には国内に安定した生活基盤がないため、外国人登録に際して正確な申請を行わなかったり、頻繁に転居したり、又は、再入国許可を受けて本国に帰国したままで再入国するか否かが不明なままな者も現れるなど、現行の制度では、法務大臣や市区町村長による在留状況、とりわけ居住実態の把握が十分に行えず、適正な在留管理上の観点からも、外国人との共生社会の実現のために重要な各種行政サービスの円滑な提供の観点からも、様々な問題が生じていた。

 まず、現行在留管理制度の問題点として、入管法による法務大臣による情報取得と外国人登録法による市区町村による総務省管轄の在留情報取得という二重性が、入国・在留外国人の目的の多様化や日系人などの定住化傾向が強まる一方で、生活が不安定な在留外国人などが、外国人登録で正確な申請をしなかったり、頻繁な転居や再入国不明者が現れるなどの事態への対応を阻害しているので、適正な在留管理の観点、外国人との共生の実現のための行政サービスの円滑な提供の観点から、問題が起きていたと問題点を指摘している。

(1)情報を活用した適正な在留管理の実現
新たな在留管理制度の下では、我が国に中長期間適法に在留する外国人について、①上陸許可等各種許可に伴う在留カードの交付、②外国人から法務大臣への在留期間の途中における変更事項の届出の義務化、③外国人の留・就学先、研修先等から法務大臣への情報提供等が行われることになる。

 こうして、在留外国人の情報を法務省が一元管理することになり、治安担当の法務省であるから、「外国人の個人情報の取扱いに十分に配慮しつつ」と記してはいるが、プライバシー・人権にどれだけ配慮するかは疑問である。やはり、治安優先がこのところ強められているので、潜在的犯罪者としての取り扱いになる可能性が高い。

 「(2)外国人との共生社会の実現に向けた取組」は、外国人との共生社会という立派な理念を掲げていて、一見よさそうだが、その目的は、「今後、日本の人口が減少していく中で、地域社会の活力を維持するためには、外国人を含めたすべての人が助け合い、能力を最大限に発揮できるような社会づくりが不可欠であり、この点からも、地域において外国人との共生を推進していく必要性は一層高まると考えられる」ということであって、坂中英徳(元東京入管局長)と入管が共有する日本の人口減少への対応という国益主義を基本に、能力の最大限の発揮という能力主義的観点が加えられている。

 これまでは、人口政策は、主に厚生労働省や内閣府、少子化担当大臣などの担当であって、外国人対策を担当する法務省入管の管轄外のことであった。ところが、今や、外国人は、日本の地域社会の活力の源泉の一つとみなされている。しかも、外国人の能力を、「適度に」とか「平均で」とかではなく、「最大限に」発揮させるというのである。フルに能力を出させようというのだ。この点について、2002年12月21日、政策懇談会から法務大臣に提出された報告書「人口減少時代における出入国管理行政の当面の課題~円滑化と厳格化の両立に向けて~」の概要が05年版「入管白書」にあり、その冒頭にはっきりと、というか、露骨に書かれている。

 ア 我が国が必要とする外国人の円滑な受入れ
(ア) 専門的、技術的分野における外国人労働者の受入れの促進
 我が国経済の持続的発展を維持していくためには、全要素生産性(注)の向上に寄与するような人材の需要は一層高まっていくと考えられる。また、諸外国との経済的連携の深化に伴い、交易業務等に従事する人材への需要も高まると考えられる。日本人と外国人が協働することによって我が国の経済社会の活性化も期待される。そこで、今後とも専門的、技術的分野における外国人労働者の積極的な受入れを図っていくため、現行制度の周知、事例の公表や、審査の迅速化等の推進のほか、企業活動の多様化に伴う様々なニーズに的確に対応する観点から、新たな活動形態に係る受入れニーズに対応する受入れ枠組みの構築等の措置について検討することが重要である。
 また、専門的、技術的分野の外国人労働者の中でも、特に高度な人材については、現行制度においても受入れ可能であるが、世界的人材獲得競争の中で、一度に付与される在留期間の長期化など、出入国管理行政としても受入れ促進のための方策を講ずること
が重要である。

(注 )成長会計の手法で経済成長率を要因分解すると、以下の3要因からなる。人口減少下においては、労働投入の減少が経済成長の押し下げ要因となるため、持続的な経済発展を維持していくためには、全要素生産性を向上させることの重要性が一層高まる。
   経済成長率=労働の寄与(労働の伸び率×労働分配率)+資本の寄与(資本の伸び率×資本分配率)+全要素生産性の寄与

 「我が国経済の持続的発展を維持していくためには、全要素生産性(注)の向上に寄与するような人材の需要は一層高まっていく」というのは、客観的な書き方だが、経済界の願望であり、要求である。資本主義経済にとってプラスになる外国人が欲しいということだ。そういう方向で、入管行政をやれと言っているのである。

 それを制度的に具体化するものとして、従来の外国人登録制度の廃止、中長期滞在者を対象とする新たな外国人台帳制度の創設、住民基本台帳制度への接続という昨年の制度改革のための関連法の改悪があったのである。その完全実施は、法案成立から3年後である。

 これによって、「外国人の在留管理に必要な情報を継続的、かつ、正確に把握できることとなるため、在留外国人の負担軽減の観点から在留期間更新や在留資格変更等の諸申請の際の提出書類の省略、手続の更なる簡素化などの取組を推進する」としているが、住民サービスの向上というよりも、官僚事務の軽減やサービスの向上の方が大きいのだろう。

 最後に、「なお、永住者の在留資格をもって在留する外国人のうち特に我が国への定着性の高い者については、歴史的背景を踏まえつつ、我が国における生活の安定に資するとの観点から、その在留管理の在り方を検討していく」という検討課題をあげている。具体的に何を言っているのかわからない。永住者には、入管特例法の対象である旧植民地出身者と一般永住者等があるが、ここで、「歴史的背景を踏まえつつ」とあるので、特別永住者のことを指しているように思えるのだが、とにかく、ここでは具体的にはわからない。特別永住者について、1981年難民条約の批准以降、「国籍条項」の撤廃はいくつか前進したが、それも今は止まっている。

  これで、「第4次出入国管理基本計画」を読み終えた。この「基本計画」は、今後5年間の入管行政の基本をなす計画である。具体的なもの、力のこもっているところもあれば、一般的抽象的、曖昧な部分もある。しかし、昨年の入管制度の改編の法改定の完全実施に向けて、今、その準備作業をしているところだと思う。しかし、この間に、自民党政権から民主党中心の連立政権が出来るなど、環境変化がある。今後どうなるかは、不透明である。その中で、もっとも明確なのは、高度人材の積極的に受け入れる外国人とテロリストや不法滞在者などの取り締まり強化や情報管理の法務省への集中などの治安管理強化の二本が、大きな柱とされていることである。このような入管行政の中で、狭き門の難民認定を求めている難民申請者や日本経済の需要に応じて労働しオーバーステイになったような人々も、潜在的犯罪者と見る治安管理主義的視線にさらされ、そして、収容所での入管局による非人道的扱いにあい、あるいは、適正な審査や決定が行われたのかどうか疑わしいケースもある退去強制処分(国外追放)などの扱い、あるいは、その可能性がもたらす恐怖を感じさせらりたりしている。人口減少社会の中で、高度人材だけを選別して導入しようなどという「基本計画」の示すやり方は、あまりにも自己中心主義的だ。それも、財界の利害を反映したものである。「基本計画」は、入管行政が、今や、国益を左右する大きな位置を持つようになったという認識を示し、国家の基本戦略に積極的に関わっていくことを宣言している。いつの間にか、入管が国家体制の中で、大きな位置を占めるようになっている。これには、アメリカの「対テロ戦争」入りが大きな影響を与えているのだろう。年金などの社会福祉関係費用が大きく削られていく中で、入管職員は、警察職員と共に増員され続けている。そして、「基本計画」は、入管職員ばかりではなく、他省庁との連携、あるいは、事業所からの情報提供、自治体の管理する情報などを法務省に集中し、その権限を拡大した上に、キャンペーンなどを通じて、住民を協力者にしようとしている。こうして、入管行政は、治安管理主義国家化(警察国家化)の推進翼となっているのである。「基本計画」に、人権という言葉を文中、いくらか使いながらも、実際には、外国人への人道的対応について、熱意を感じさせ、あるいは、誠実さを感じさせるような具体性を持つ部分がないのも、入管行政の中で治安管理主義が大きくなっているためである。

 前回のNHK大河ドラマ「竜馬伝」は、京都守護職の会津藩預かりの新撰組による浪士狩りと浪士側による暗殺の横行する京都を舞台に、竜馬と一緒になるおりょうの出会いの話だった。左幕派と尊皇派の対立は、やがて、禁門の変での長州藩対薩摩藩・会津藩の激突、第一次・第二次長州戦争、薩長同盟の成立、そして、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、奥羽列藩同盟と官軍の戦争、函館五稜郭の榎本武揚らとの戦争と続いていく。戊辰戦争の最大の山場として、勝・西郷の江戸城無血開城の合意があり、勝はその後、徳川家康が晩年を過ごした駿府(静岡)に、旧幕臣・旗本を移住させるのに奔走する。この内戦で、イギリスが薩長を、フランスが幕府を支援していた。この内戦へと発展する前段階として、暗殺・テロ、小規模な決起があり、それに対して、特に、尊皇攘夷派の志士が集まっていた京都の治安を担当する会津藩は、新撰組を使って、かれらに血の弾圧を加えていたのである。その前に、安政の大獄という幕府による思想弾圧政策があり、尊皇攘夷思想家ばかりではなく、洋学派まで弾圧され、牢獄に入れられ、あるいは死刑にされた。

 それに対して、水戸藩脱藩浪士らによる安政の大獄を進めた井伊大老の暗殺(桜田門外の変 1860年)が起きる。日米修好条約(1858年)以来、江戸など都市部での物価騰貴が起きて、幕府に対する都市民衆の不満は広がっていった。「桜田門外の変」後の1864年(元治元年)、水戸藩の藤田小四郎(水戸学派の藤田東湖の子。祖父の藤田幽告の弟子に、「新論」を著した会沢正志斎がいる)ら尊皇攘夷派は天狗党を結成し、64名で筑波山で挙兵し、一時、北関東を席巻するが、後に、水戸藩が幕府追討令を得て、天狗党鎮圧に乗り出すと敗勢となり、高崎から中山道を尊皇攘夷派との合流を目指して京都に向かう。かれらは、出兵してきた高崎藩兵や中山道沿いの諸藩の攻撃を退け、越前に出たところで投降する。高崎藩との戦闘の時点では、千名ほどの大軍勢となっていた。天狗党には、南部藩の脱藩浪士なども加わっており、関東ばかりではなく、奥羽その他の地方にまで参加者やシンパが広がっていった。例えば、当時、福島の三春藩士であった河野広中は、天狗党に参加しようとしたと言われている。彼は、維新後、自由民権運動家になり、福島事件や加波山事件に加わり、土佐の板垣退助らと自由党を結成し、議会が開設されると初代衆院議長になる。後に、日露戦争の終結に反対した人々が官庁・警察などを焼き討ちした日比谷事件にも関わった。明治のナショナリズムの源流の一つである。

 福沢諭吉は、九州の小藩柳川藩の下級武士の子であったが、大阪に出て蘭学の緒形洪庵の適塾で学び、その後、幕府の役人となり、幕府が派遣した勝海舟を館長とする咸臨丸に乗船して、1860年(万延元年)、アメリカに渡り、帰国後、翻訳などの幕府の仕事に携わっている。江戸城開城の頃は、自分の塾の建物を建てていて、江戸が火の海になるかもしれないという騒然たる状況の中で仕事のない大工などを安く使うことが出来たと書いている。無血開城のおかげで、無事、塾の建物は完成する。勝と福沢では、朝鮮・中国観が百八十度違っていた。勝は、朝鮮侵略にも日清戦争にも反対した。福沢は、朝鮮・中国は欧米に比べて遅れていて、日本が介入して進歩させるべきだと考えた。勝は、貧乏旗本のせがれで、つき合う相手も近所の職人だの場末の飲み屋の女将だのという類の連中が多く、幕臣になってもかれらとのつきあいを止めなかったので、同僚に忠告されたりしたが、きかなかった。竜馬にも似たところがある。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、彼の創作だろうが、竜馬に付き従う寝待ちの藤兵衛という元盗人が出てくる。司馬自身は、福沢的な近代派であり、それに伴う限界を持っている。近代的差別に対しての反省的批判的視点がないのである。福沢は、アメリカでの白人の平等には感心して称賛しているが、南北戦争(1861-65)があったにも関わらず、黒人差別やインディオ差別に目を向けていない。それは、明治の自由民権運動の多くが抱えた弱さでもあった。それに対して、勝は、近代主義から見れば反動には違いないが、近代化・「文明開化」に批判的な視点を持っていた。福沢には、近代が、近代に特有の差別を伴っていて、この成立過程として、明治維新からその後の歴史・社会を見るという視点が欠けている。

 ずいぶん、脱線したけれども、「基本計画」にもまたこの点が欠けているのであって、基本的に自己肯定が全面的に出ていて、反省的視点、内在的批判の視点を欠いている。これで、この問題を解こうというのはどだい無理である。自分たちがどうであるかということも一面的・抽象的にしか見えてないに違いない。それは、この「基本計画」に貫かれている国益主義・「自我=自我」というような抽象的なアイデンティティが揺るがないと見えてこない。 

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