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2010年7月

千葉法務大臣による死刑執行に抗議する

 民主・社民・国民新党連立政権の誕生によって、人権派弁護士として知られる千葉景子氏が法務大臣に就任したことで、人権行政が進むものと期待する人も多かったと思う。

 千葉大臣なら、死刑執行命令書に署名はしないだろうと、その頃、救援関係に関わる人から聞いたことがある。そして、約11カ月間、死刑執行はなされなかった。千葉氏は死刑廃止議員連盟のメンバーであった。それにも関わらず、ついに、千葉氏は「ルビコン河を渡った」。

 難民問題に取り組む現場活動家からは、難民対策・入管行政が変化していないし、それどころか、ある部分では悪化しているのではないかとの指摘が最近強くなされるようになっていた。期待しただけに裏切られたという思いが強まっている。しかし、自民党時代に戻るよりはましだという思いも少しはあったわけだが、千葉氏が今回、死刑執行を実行したことは、政治家としての「一線を越えた」もので、千葉法務大臣の辞任を求めざるを得ない行為である。なんでもありなら、泥沼だろうと荒れ地だろうと地獄だろうと、どこまでも転がり続けるだけであり、それは政治の名に値しない。

2010年7月28日

      

          死刑執行に強く抗議する(談話)       

  社会民主党党首
        福島 みずほ
      

1.本日法務省は、東京拘置所で2人の死刑を執行し、死刑囚の氏名や犯罪事実を公表した。社民党は死刑制度が人道と社会正義に反するものとして、その存置に強い疑問を呈してきた立場から、今回の2人の死刑執行に強く抗議する。       

2.今回の執行は、昨年7月28日の執行後、ちょうど1年後に行われたものであり、民主党政権下で初の死刑執行である。自らが死刑制度廃止論者であり、大臣就任後も、死刑制度見直しに向けた国民的議論の必要性を訴え続けてきた千葉景子法務大臣が、死刑執行に踏み切ったことは、非常に遺憾 であり激しい失望を感じざるをえない。なぜ死刑執行に慎重であった千葉大臣が執行を命じたのか、その真意や、法務省の姿勢を厳しく追及していかねばならない。また、先の参議院選挙で落選しながら、法務大臣を続けたままで臨時国会を迎えようとしている人が死刑執行を命じたことに、重大な疑義がある。

3.1989年の国連総会で「死刑廃止を目指す、自由権第二選択議定書」(死刑廃止条約)が採択されたが、日本はこの条約を未だに批准 していない。2007年12月には、国連総会で死刑の執行停止を求める決議がされた。さらに、2008年6月初旬に開かれた国連人権理事会の作業部会でも、多くの国が日本の死刑執行継続に懸念を表明し、日本政府に対し死刑の停止を勧告した。国連総会は2008年12月18日にも、死刑執行の一時停止など を求める決議案を採択した。2年連続の採択は、死刑の廃止が国際社会の共通の意思となりつつあることを示している。しかしながら、自民党から民主党へと政権が代わってもなお、日本政府は一貫して、死刑制度の廃止に向かう世界の流れを無視しつづけている。       

4.千葉法務大臣は見届ける責任があるとして、死刑の執行に自ら立ち会った。その後の会見で、国民的な議論の必要性を強調し、東京拘置所の刑場を公開し、法務省に死刑執行を考える勉強会を立ち上げる意向を示しているが、これらは当然のことながら、法務大臣の職権で行うべきものである。それを今回の死刑執行と引き替えのように法務省側に指示をしたのは、大いに問題が残る手法であった。死刑制度については、存廃や死刑に代わる措置など刑罰の在り方について国民的な議論を尽くし、その間、政府は死刑の執行を差し控えるべきである。社民党は今後も、死刑制度の見直しに全力を挙げて取り組む。       

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韓国国家保安法の適用の増加

 朝鮮半島をめぐって気になるニュースがある。

 韓国で、あの悪名高き思想弾圧法の国家保安法違反の摘発が増加しているというニュースである。

 哨戒艇の「天安」艦撃沈事件以降、さらにそれがひどくなったという。「民主化」以降、国家保安法は廃止の方に向かうものと思っていたが、そうはならなかった。アムネスティは、2008年に、以下のように同法の廃止ないし根本的な改正を求めている。李明博政権は、「天安」撃沈事件以来、その公正調査を国連に求めただけの参与連帯に対して、国家保安法違反容疑での捜索や取り調べ、逮捕を行った。事件そのものは、真相が明確になったとは言えず、しかも、情勢その他から見ると謀略の匂いのするものである。最近の1億円をかけた金賢姫の訪日は明らかに政治的狙いを持ったもので、米韓日の共同謀議の疑いが濃いものだ。日韓米三国同盟の安保体制の再強化、普天間基地をめぐる沖縄の反基地世論の強まりに危機感を抱いた三国の連携があったというふうに見える。もちろん、こうした政治的事件においては、様々な情報誘導がいろいろな方向からなされるので、事実はなかなか明瞭にならない。真相解明には時間もかかるし、哨戒艦事件の場合は、何よりも軍事機密に関わることなので、なおさらである。

 しかし、はっきりしているのは、こうした事件を利用した、「在日」への迫害や差別、抑圧の強化、あるいは、国家保安法による政治弾圧の強化を許してはならないということである。そして、戦争責任、植民地支配の総括をそれを口実にネグレクトしてはならないということである。

国家保安法違反事犯、10年ぶりに増加の兆し
2008年8月29日13時48分配信 (C)WoW!Korea & YONHAP NEWS    

 【ソウル29日聯合】金大中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の10年間に10分の1以下の水準まで減少した国家保安法違反事犯の数が、「新公安政局造成」論争とともに増加の兆しを見せている。

 大検察庁(最高検察庁に相当)と大法院(最高裁判所に相当)が29日に明らかにしたところによると、国家保安法違反罪による起訴人数は1998年の493人から2000年は168人、2004年は83人と急減した後2けたを保っており、昨年は40人にすぎなかった。

 公安当局が過去10年間に発表した北朝鮮から韓国に派遣されたスパイの摘発は、2006年7月に東南アジアに国籍を偽装し入国した男の逮捕が唯一だ。起訴後に執行猶予判決を受け釈放された宋斗律(ソン・ドゥユル)教授、「朝鮮戦争は北朝鮮指導部が企てた統一戦争だった」と発言したことで起訴され、やはり執行猶予判決を受けた姜禎求(カン・ジョング)教授らの事件や一心会事件などの際も、国家保安法の廃止・改正論争は活発だった。

 検察は、韓国大学総学生連合の位相と活動が萎縮し、国家保安法の厳格な解釈と慎重な適用で立件者と拘束者の減少傾向が続いていると分析していた。しかし、李明博(イ・ミョンバク)政権発足から1週間後、国家情報院とソウル地方警察庁が祖国統一汎民俗青年学生連合のユン・ギジン南側本部議長を国家保安法違反の疑いで拘束。国家情報院長が大統領業務報告で「スパイ・保安事犯捜査を強化する」と明らかにしたことなどで、国家保安法関連事件が増加するとの見方は早くから浮上した。

 3月から今月26日までに国家保安法違反の罪で起訴された人数は19人。1・2月に起訴された9人と合わせ、ことしだけですでに28人が起訴されている。26日に警察が延世大学のオ・セチョル名誉教授ら社会主義労働者連合会員7人を逮捕した事件と、27日に発表された女スパイ事件での拘束者を合わせると、ことし残り4か月の間に昨年の起訴人数(40人)を上回るものと予想される。

 最近、国家保安法違反事件が相次ぎ、保守陣営では「過去10年間の太陽政策の弊害で増加した不穏勢力を法に従い処罰すべき」だとの立場だ。これに対し、進歩陣営では「冷戦時代にスパイ事件を噴出させ公安政局を造成したやり方を繰り返している」と主張する。韓国進歩連帯などは、検察と警察は米国産牛肉輸入反対のキャンドル集会捜査に続きスパイ事件を持ち出し、公安政局造成をリードしていると批判している。

 韓国の市民団体・参与連帯が国家保安法嫌疑による捜査など不当な弾圧を受けることを憂慮する

 2010年06月24日

 韓国の市民運動団体、参与連帯が6月11日に国連安保理に、哨戒艦「天安」沈没事件の軍民合同調査団報告書にいくつかの問題点と疑問点が有るとする文書(The PSPD's Stance on the Naval Vessel Cheonan Sinking)を送ったことで、「国家保安法」嫌疑の捜査をうけるなど、不当な弾圧にさらされています。(参考: STOP Oppression & Prosecutors' Investigation on PSPD)

 参与連帯の指摘した疑問点は、

   1. 魚雷による水柱はあがったのか?
   2. 生存者や犠牲者に魚雷爆発による重傷が見当たらないのは?
   3. 事故当初からのTOD映像が無いのは事実か?
   4. 船体に爆発による損傷が見られないのはなぜか?
   5. 何故ガスタービン室の発見・回収を隠したのか?
   6. 爆発の証拠物質が火薬ではなくアルミ酸化物なのは?
   7. YONO級潜水艦外観はどのようなもので、韓米の監視に何日も検知されなかったのはなぜか?
   8. 魚雷発射が検知できなかったのは?

という、どれも極めて当然の疑問です。
 そして、調査過程の問題点としてあげたのは、

   1. 軍が哨戒艦の基本的情報を公開しなかった、
   2. TOD映像の隠蔽・説明改変、
   3. 市民の疑問に対して政治的・法的措置をとった、
   4. 軍民合同調査団が実質市民を排除、
   5. 市民による調査を制限、
   6. 海外から参加した調査メンバーの役割が不明、

という、調査の正当性に疑問を起こさせるような根本的な問題で、それぞれ事例を挙げて説明しています。このような正当な疑問・意見表明が不当な弾圧を受ける事は許されません。

 原水禁・平和フォーラムは、大韓民国大統領と日本の内閣総理大臣に以下の書簡をおくりました。

参与連帯が国家保安法嫌疑による捜査など不当な弾圧を受けることを憂慮する書簡

大韓民国大統領 李明博 様
内閣総理大臣 菅直人 様

平和と民主主義を求める市民団体として、この書簡をお送りさせていただきます。

 1994年の発足以来、民主主義の実践を通して政治的発言権を拡大してきた市民団体、参与連帯が、正当な活動に対して弾圧を受けるようなことがあってはなりません。

 参与連帯は、6月11日に哨戒艦「天安」沈没事件の軍民合同調査団報告書にいくつかの問題点と疑問点が有るとする文書を国連安保理事国に送りました。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国李明博政権に対して、挑発的な威嚇や軍事行動を起こさないように要求、また韓国政府に疑問の残る沈没事件の合同調査の更なる調査と国民への説明を要求するもので、国連安保理に対しては、緊張高まる情勢にある朝鮮半島の平和を最重視した判断を求めるものです。

 哨戒艦の沈没原因を北朝鮮の魚雷攻撃によるものと断定し、国連安保理での北朝鮮非難決議を求めている李明博政権は、国民への説明責任を果たさずに、この要求に対して民主国家としてあり得ない弾圧を加えようとしています。また韓国政府外交通商部は15日、「わが国の外交努力を阻害するもので極めて遺憾な行動」と参与連帯を批判、検察も国家保安法の嫌疑、刑法上の名誉棄損などで捜査をはじめました。与党ハンナラ党、大統領府広報や首相などが、「利敵行為」、「国益に反する行為」などと非難するなか、参与連帯本部前では連日、保守系団体が糾弾集会を開く事態となっています。

 哨戒艦の沈没事件が極めて重要な政治・外交課題であるにせよ、そのことの調査・報告に対して疑問や意見を表明するための民主的手続きは、全世界の国民に等しく与えられる権利と考えます。李明博政権の参与連帯への弾圧は国際的人権規約に反するものであり、極めて遺憾であるとせざるを得ません。
李明博政権は、即時にこのような弾圧姿勢を改め、国民の疑問に対しては丁寧に答える必要があります。そのことを実行しないかぎり国際的な説得力を持ちません。

 安保理議長国メキシコのヘラー国連大使は14日、安保理として合意した議長所感として、「安保理は、乗組員46人の犠牲を招いたこの事件と、事件が朝鮮半島の平和と安定に及ぼした影響を深刻に懸念する」とし、「安保理は、同地域の緊張を高める可能性がある行動を自制するよう関係国に強く求める」と述べました。

 日本の菅直人首相は22日、韓国海軍哨戒艦沈没に関する関係閣僚会議で、「日米韓の連携強化が重要だ」とし、「オバマ米大統領、李明博・韓国大統領としっかり3国が一致してこの問題に当たることを確認したい」と述べ、哨戒艦対応が焦点になるG8サミットで、北朝鮮を厳しく非難する李明博政権支持の立場を明確にしています。多くの疑問が氷解されない中で、一方的な非難をもって朝鮮半島および東北アジアの緊張をもたらす姿勢は短慮であるとの非難を免れません。

 平和フォーラムは、日韓両国政府に対して、民主的姿勢を堅持しつつ東北アジアの平和を最優先し、自制的な態度で事態の処理に臨むことを強く要請します。加えて慎重姿勢を見せているロシア・中国とも協力し、東北アジアにおける平和醸成に重要な課題となっている六カ国協議の再開を追求するよう要請します。

2010年6月24日

フォーラム平和・人権・環境 / 原水爆禁止日本国民会議
事務局長 藤本 泰成

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大韓民国 : 国家保安法の根本的改正または廃止を要請

 本年12月1日、韓国の国家保安法が60周年を迎えるにあたり、アムネスティ・インターナショナルは再度、この法律を根本的に改正するか、廃止するよう求めた。

この国家保安法は依然として反対意見を封じたり、表現や結社の自由という権利を平和的に行使したりしている個人を起訴するための手段として使用されているとアムネスティは述べている。

例として、本年、同国の検察当局は、8月と11月の2度にわたり、オ・セチュル教授に逮捕状を発行した。逮捕の理由は、彼が「利敵行為」をしていることと、社会主義労働者団結運動に関与しているということだった。

しかしどちらの事件においても、ソウル中央地区裁判所は「彼が国と民主主義体制を崩壊させようとしたという証拠は不十分である」として訴えを棄却した。

 「国家保安法は『反政府』活動と『スパイ』行為を禁じているが、韓国はこれらを明確に定義しないまま、表現の自由や結社の自由に関する権利を平和的に行使した人びとに対し、同法を恣意的に適用してきた。このことは、国際法に基づいて同国が負うべき義務に反している」とアムネスティは述べた。

 この国家保安法にもとづいて検閲も行われ、朝鮮民主主義人民共和国を利するとみなされた資料を出版や配布した人びとが処罰されてきた。2008年には、7人が国家保安法違反で拘禁されたが、この全員が親北活動に関与したとして起訴された。逮捕された人びとは、韓国も締約国である市民的および政治的権利に関する国際規約(ICCPR)などの国際人権法と基準、そして同国憲法に明記されている表現の自由の権利を平和的に行使していたに過ぎない。したがって、逮捕された人びとは自身の良心的な信念のために拘禁された良心の囚人であるとアムネスティは考えている。

 韓国が朝鮮民主主義人民共和国との間に、安全保障上の問題を抱えていることをアムネスティは認識している。しかし、人びとが人権を行使すること、特に政治的見解を表現する権利が安全保障問題によって否定されてはならない。

 アムネスティは韓国に対し、国際人権基準にのっとり、国家保安法を根本的に改正、もしくは完全に廃止するよう求めている。

背景状況
 韓国で1948年12月1日より施行されている国家保安法は、これまで、非暴力的な活動を行なう人びとに対し、嫌がらせや処罰のために使われてきた。同法は「反政府」活動や「スパイ」行為に対し、長期刑あるいは死刑を課しているが、これらの違法行為は明確に定義されておらず、これまでにもいく度となく、表現の自由や結社の自由といった権利を行使した人びとに対し恣意的に使用されてきた。近年の逮捕の大部分は同法第7条基づいたものであり、この逮捕により、敵(通常、朝鮮民主主義人民共和国を意味する)を「称賛」あるいは「利益」を与えたとして、最長7年の刑が課せられる。

 国家保安法は恣意的なやり方で適用されている。一部の政治的な研究は学術的研究として認められていながら、同様の研究でありながら「親北的」とされる学生や活動家の場合は犯罪行為とみなされることが多かった。

 朝鮮民主主義人民共和国との再統一を議論したり、社会主義的もしくは「親北的」な資料を発行したり、または朝鮮民主主義人民共和国政府と似ていると思われる見解を持つことで逮捕される人もいた。

アムネスティ発表国際ニュース
2008年11月28日

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日朝関係と戦後主体性論争

 昨日、一本、雑誌に載せる文章を書き上げたばかりである。テーマは、戦後主体性論争だ。もう50年以上前の話で、今の人があまり関心を持つようなものではない。

 似たようなこととして考えるのは日朝関係のことである。

 「アリラン」というところに若い研究実践者に連れていってもらって梶村秀樹さんの資料を少しみさせてもらった。その資料には裁判の手記やビラまであって梶村さんの関心がリアルなものにあったことを伺い知ることが出来て、改めて梶村さんの研究姿勢の実践性を強く感じた。

 戦後主体性論争は、戦争体験の総括という時代的な問題意識から発生したもので、文学者が魁となり、哲学者、思想家、科学者などが参加する大きな論争になった。その背景には民主主義という馴染みのない思想・制度の導入にあたって、それを基礎づける思想や文化や主体の在り方や価値観をめぐる混乱ということもあったのだろう。この混乱は反スターリニズム運動に波及し、そして、階級闘争に害悪を流す宗派主義を生み出した。しかし、他方では、それはスターリニズム宗派から多くの人を引き離すという成果をも残すことになった。しかし、時代状況は大きく変わり、60年安保をへて高度経済成長社会となる。そこでの主体にはそれまでとは違う在り方が求められた。今度はそこから取り残された者が後からそれを追いかける過程があり、そして、時代は80年代のバブルとなり、もはやそうした問題は終わったかのごとくに人々の視界から消え去った。また、スタ、反スタ、いずれもベルリンの壁が破れソ連邦が崩壊するや、もはや歴史の彼方のものとして葬り去られようとした。そして、アメリカの永遠の繁栄という神話が世界を覆ったが、2008年のアメリカ発の世界経済不況の到来がその神話を崩壊させつつある。

 そこで、いったん切れたかに見えた歴史の糸が再び結び合わされようとしている。そうなると日朝関係において浮かび上がって来るのは厖大な数の人々の往来の集合的記憶の堆積の厚みである。それは日米関係史におけるそれとは比較にならないほどの深さを持っている。そこに分け入る時、土からほりおこされたもの、民間伝承のかたちで残ったもの、文化にかたちをとどめて記録されたもの、うわさ、風評、風聞、口承されたもの等々の様々な形態でわれわれの政治的身体に刻み込まれたものが様々な形でイメージの中で運動する。そこで、思いもかけない像が突然浮かび上がり、そして、それが解けてはまた現れるということが起こる。それはそんな豊かさの厚みでもある。すでに終わった冷戦という基準も近代化という基準もそれを固く結ぶことは出来ない。

 江上波男『騎馬民族国家論』(中公新書)は、『日本書紀』に、スサノオがまず降りた地が朝鮮半島南部の地であり、そこから出雲へと移ったという記述を引いている。もちろん、江上は、それを騎馬民族=天孫族による原住民の征服という説の証拠の一つとしているのだが、しかし、それを、ここでは、一方的な征服=被征服という関係としてではなく、この地とあの地の間の交流の深さ、近さの証拠として読んでおく。海を隔てているというだけで遠く感じてしまいがちだが、操船になれた漁民などにとっては日本海を渡るぐらいは大したことではない。海における両者の接触や渤海と越前の交流史の発掘はその間の深い交流の証拠を次々と明らかにしている。しかし、近代に入ると、侵略-被侵略という関係が基本になる。そして、「解放」。その後の諸関係、等々。

 近代国民国家下の航海物語は、国境を巨大な障壁として描こうとするから海上交通の困難を劇的にデフォルメして描きがちだ。しかし、朝鮮半島及び朝鮮半島を経由した中国との密接な交流関係については様々な証拠があがっている。今のように、国境管理が厳しく、出入国検査でうるさく取り締まるようになっていると、どうもそういうことをイメージし難いのである。しかも、近代主義は、技術的進歩を神話化するから、過去の渡海術を技術的に過小評価しがちである。

 戦争ということが再浮上すれば、主体性論争も新たな形で甦らざるを得ないが、それは、新しい内容と形で、リフレッシュしたものとして(アルチュセール)甦らさないといけない。亡霊のままのかたちでは災いを引き起こすだけである。つまり、怨霊でしかなければたたりを起こすということだ。同じように、日朝関係の甦りは、このところの関係の在り方から当然の事態なのだが、その時に、亡霊が甦るという形、例えば、関東大震災時の朝鮮人虐殺という形などでの甦りではなくというのは当たり前であるが、それは近代国民国家によって消されようとした集合的記憶の甦り、再構成という形での甦りを含まねばならない。それは運動史としてもそうで、単純な過去との全切断と新しいものの提起という形では徐霊は出来ないのであり、連続性の中での飛躍や切断、後戻りやジグザグ、前進・後退の線の運動としても辿って行って、それを再構成しなければならないのである。

 左翼側には、ニューライトと同様の近代進歩主義史観をベースにしている潮流もあり、それは、近代のどんづまりにいる現在においては、ニューライトへの有効な批判たり得ない。ニューライトは、アメリカ留学生などを通じて韓国や台湾でも台頭し国際的なネットの中で活動しており、その点はファナティックな排外主義とは違う。しかし、その帰結するところは、アメリカのネオ・コンと同じで、ブルジョア国家の再強化、支配権力の強化と格差社会の推進、多数の人々の貧困化、無権利化との組み合わせである。それと闘う主体はどういうものかを探らなければならないが、それはかつての主体性論における主体とは当然中身が異なるのである。

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選挙結果と人事

 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」は孫子の至言であり、「人事の要諦は適材適所」というのも至言の一つであることぐらいは多くの人が納得するだろうが「言うは易し行うは難し」である。

 年功序列、情実、つまらない利害得失の計算、単純で一面的な能力主義等、また自己認識や情勢分析を歪める自惚れや自負心や競争心などがその原因という場合もある。

 この間の民主党の姿を見ているとそうしたものが強く感じられる。例えば、沖縄問題での研究不足は歴然としており、それで対米交渉に臨んだところでどうにもならないのに、ただ抽象的理念として自立外交なるものを掲げていただけで、官僚主導の外交に屈服する他はなかったのである。鳩山の迷走は、彼に確固とした外交・安保方針がなかったことを意味している。そして、小沢流人事がほとんどデタラメであったということがそれを後押しした。それに輪をかけたのが小沢神話である。なるほど、小沢は対米自立派的な路線を持つ政治家であるには違いない。その限りで対米従属派に対して擁護するということはありうる。それはよい。しかし、彼には党組織観についてはこれといったものはない。選挙に勝つことだけが彼の政党観念の中にあるのかもしれない。この間、政治と金の問題をめぐって彼は執拗に検察に狙われたが、いわゆる小沢派の実態がこうした事態に対して適切に対応し、政権を強化するような政治家の集まりとはなっていないということが問題だ。菅のグループには、明らかに、政策論においては蓄積のある議員が結集していて、政権担当できる議員を多く抱えている。

 今回の参院選挙ではそうした議員をずいぶん失った。しかし、自民党が大勝したといっても自民党も人材不足であり、菅政権、野党第一党の自民党、共に、官僚をリードするどころか、官僚の手下化するほかないような状態である。鳩山民主党は「官僚主導から政治主導へ」というスローガンを掲げて昨年夏の総選挙で圧勝した。有権者の願望が官僚支配の廃止にあることは明らかである。今の官僚の力の源泉、そしてその独立性は階級が無力であることから来ている。それに対して、小泉は、ネオ・リベラリズム路線を採って、官僚に対する金融ブルジョアジーの支配を貫徹させようとした。それによって、階級間の力関係は大きく金融ブルジョアジーに傾くはずであった。郵政民営化にあれほどこだわったのは、直接にはアメリカ政府がアメリカ金融ブルジョアジーの利害に立って市場開放圧力をかけてきたのに積極的に応じようとしたものであるが、小泉自身の信念として、金融ブルジョアジーの、そして新自由主義の支配の強化・貫徹が階級権力を大幅に強めるべきだということがあり、その力を削いできたものこそ福祉国家型「社会主義」であったのでそれを「守旧派」として葬り去ろうとしたのだと思う。

 しかし、この「社会主義」はかなり深く浸透していて制度的に固い上に人々の生活の一部として定着しきっていたのでそれを完全に壊すことは出来なかった。小泉はデヴィド・ハーヴェイが『パリの風景』で指摘する創造的破壊というモダニティの神話に訴えたわけである。それは、小泉がX-JAPANを持ち上げたことに象徴されているのではないだろうか。そのバンド名は伝統としての日本がXという未知数とダッシュで英語のJAPANと結び合わされたものだが、そこにおいて、小泉改革は創造するためには伝統を破壊しなければならないが、それは伝統として再生保存されなければならないという新自由主義の保守主義と自由主義の矛盾した組み合わせを示す象徴を見出したのだ。彼はモダニティの神話に訴えることによって伝統的保守派からも伝統的自由主義者からも批判されることになった。民主党もまたそうした意味ではモダニティの神話を広める神官であって、そのことは菅によって露骨に示されたとおりである。だから、小泉の個人主義は神話の一部をなしていて、それはかつて革命的だった頃のブルジョア・イデオローグの創造的破壊の神話の英雄たち(福沢諭吉だの板垣退助だの中江兆民だの)同様、「変わり者」としての個性、神話の登場人物に必要な性格(キャラクター)を帯びるものだった。かれらは伝統の中にいる人々の理解できない人物として現れたのだ。小泉の場合は、それの反復、模倣で、「二度目の喜劇」(マルクス)を演じる役者でしかなかったのだが。

 小泉改革によって歴史のステージは大幅に変化を被った。官僚はより自由になった。例えば、小泉はミスターXこと外務官僚の田中均とともに「共和国」との裏外交、秘密外交をやり、そして電撃訪朝をし「日朝ピョンヤン宣言」に署名した。「拉致問題」でかき消されてしまったが、首相と外務官僚の一部によって、この「国民」代表の国会無視で行われた秘密外交について、あまり問題にする者はいない。ここに人々やマスコミが何から目を背けたのかということが示されているように思われる。それは、「国民」は主権者ではないということ、それは神話であって国家独裁の下にあるということである。暴露されたのは「共和国」という鏡に写った自画像だったということだ。人々はそれからなんとか目を背けようとしたように思える。その後の安倍政権から麻生政権にいたる自・公政権の統治は人々の多数が無力化されていく過程であった。そしてふたたび議会の力に期待したのが昨年の参院選の政権交代であり、この時には政権交代自体がよい結果をもたらすとする期待があった。その夢にのって鳩山政権が誕生するが、この夢見る首相の改革は中途半端なものに終わった。

 この幻想からまっさきに抜け出したのが地方の農民や地方住民であることが今回の選挙の1人区での民主党の後退によって示された。都市部ではそれほどでもない。特に首都東京での民主党蓮舫の圧勝は、民主党の官僚と闘う政治家というイメージが都市部の住民に強く印象づけられていることを示しているように思われる。プロレタリア票のうちの組織票は例によって3つに分かれたに違いない。それ以外のプロレタリア票は棄権(投票ボイコット)したと思われる。わずかだが投票率は前回を下回った。さすがに消費税10%へと言うような政党には入れられないし自民党にも入れたくないとなると、あとはその受け皿は新党ぐらいしかないが、かれらも二大政党の部分的批判者という程度でしかない。プロレタリアの選択肢はなかったということだ。それから、自民党の勝利の原因には、人々の多くが小選挙区制度、二大政党制というシステムによって教育されて、それに合わせた投票行動をするように習慣づけられていることがあるに違いない。つまり、死票を出さないようにという配慮が働いて二大政党のどちらかを選択するという癖がつけられてしまっているということである。例えば、社民党に入れることは自分の票の価値を減らすからと、二大政党のどちらかに入れようするように計算する知性が作られてしまっているのではないだろうか。マスコミや知識人が、この制度が取り入れられる際もその後もそのことを執拗に宣伝して刷り込もうとしていた。人々は政権に結びつかない投票は無駄な行為だと思いこまされているのである。

 問題の普天間基地問題について、日米合意に従うとする菅政権は、与野党逆転のねじれ国会になったとはいえ、自民党中央も辺野古移設賛成であることもあり、その実現に向けてなんか手を打とうとしてくるのだろう。そこでの菅の人事は一つのポイントである。それは党人事と一部閣僚の交代をしただけで基本的に鳩山政権のままの体制の菅政権が適材適所の人事に失敗すると、いよいよ剥き出しの官僚専制が頭を持ち上げてくるかもしれず、しかもそれはファシズムに勢いを与え、それと手を携えたものとなりかねないからである。つまり、強行突破の体制が出来るかどうかが普天間基地問題でも鍵となるのであるが、それで作られる体制は全体的な強権体制として形成されざるをえないので、それを避けられるような人事の確立に失敗するとそちらの方に大きく傾いていく可能性が高いのである。今回ボイコットに走ったプロレタリアートの希望を集約するテーゼを持つ新しい階級的イニシアティブ、共産主義のイニシアティブが登場し、政治的社会的勢力として形成されなければ、この社会は急速に暗黒世界に向かって転げ落ちていくかもしれない。すでに数年前に小泉独裁をこの社会は受け入れてしまっているのだから。

 議会政党はすでに実質を失っており、システムとしての小選挙区制度によって政権を振り分けるだけの選挙儀式の俳優にすぎなくなりつつある。国政選挙は何年かに一度の欺瞞的儀式と化してしまっている。そのために、マスコミは選挙特番という祭りの実況中継、その演出に過剰に力を入れている。そうした場ではなく、別のところで大衆によって歴史は作られているが、それはカメラに映らない。しかし、そのことは疑えない真実だ。例えば、沖縄の人々がまったく本土のマスコミが注目しないようなところで新しい沖縄の歴史を作っていることがこの間の一連の過程で明らかにされた。名護市長選挙で辺野古移設を受け入れた前市長の未亡人が保守系の推進派を支持せず、反対派を支援するように変わるというような歴史的変化はカメラに写らないところで進んできた深い変化の反映でありその表出である。

 菅は、勝海舟がかつて神戸海軍伝習所に塾頭の坂本龍馬をはじめ脱藩浪人を多数抱えやがて幕府を倒すような人間を幕府の費用で賄っていたように、時代が求めている人材を育成・登用し、「適材適所」の人事をやり遂げられるだろうか。それには、すでにブレア流の「第三の道」推進では間に合わなくなってきていることをはっきり認識して、次の時代を切り開ける人を積極的にどこからでも登用できなければならない。しかし、時代はもっと急速に進んでしまって、それに間に合わないかもしれない。たぶん、こちらの可能性の方が高い。菅民主党は、早くも情勢を読み違えて消費税10%引き上げを掲げて選挙に惨敗したからである。何か読み違いをした時にはそれを素早く直すことが重要で、それをするには自負心だのプライドだの自意識だの競争心だのはたいていは邪魔なだけである。結局、物事は力どおりに決まっていくのである。「策士、策に溺れ」の喩えどおり、策に走ったところで一時的な攪乱が生じるだけである。それは実際には真に力があるのは何かを暴露する必然的で遅延的な過程でしかない。必然的な錯誤や誤解や否認や否定を通じてやや遅れて真実が露わになるのだ。ずれを通して真実がもたらされるのである。この過程を意識的に早くできればそれだけ無駄が少なくなるし失敗の危険性が少なくなる。菅にどれだけの力があるのかは間もなくはっきりするだろう。人の総合的力を見て、適切に評価して、登用、配置できないようではどうしようもない。

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『モダニティの都市 パリ』(デヴィド・ハーヴェイ青土社)

 以下は、とある勉強会でレクチャーした時のレジュメです。

『モダニティの都市 パリ』(デヴィド・ハーヴェイ青土社06年5月10日第1刷発行)

(メモ)

 序章「断絶としてのモダニティ」で、ハーヴェイは「モダニティをめぐる神話のひとつに、それが過去との根本的断絶を構成するものであるという神話がある」(P7)と述べている。しかし、それはなぜ神話なのだろうか? 「私はモダニティのこうした考え方を神話と呼ぶ。なぜなら、根本的断絶という観念は、それがおそらく起こらない、そして起こり得ないという豊富な証拠があるにもかかわらず、人々に浸透し、それを納得させる力を備えているからである」。そこで、彼は1848年2月革命から1871年パリ・コミューンまでのフランス、とりわけパリで次々と起きた変化を取り上げ、それを証明しようとする。そして、「資本とモダニティがある特定の場所と時間でいかにして調和するようになったのか、社会諸関係と政治的構想力がこの出会いによってどのような刺激を受けたのか、を再構成」していきます。
 この本では、最初の方法論が重要です。それから、ベンヤミンの『パサージュ論』がかなり影響を与えています。表象、イメージ、映像、記憶、記号、象徴、形、等々を通して、事件や都市、モダニティの歴史が解明されていきます。都市は人々の集合表象であり、政治的身体であるということを指摘し、それがどのように変化していったのか、あるいはそれをめぐる階級闘争のことが明らかにされています。そういえば、『共産主義運動年誌』十号に書いた「教育労働について」で、最後に「これ(教育をめぐる階級闘争)は確かに、イデオロギー闘争であり、象徴やイメージをめぐる階級階層間での闘争でもある…」と書いたが、この本の影響かもしれない。この本でハーヴェイが追求しているのは、1848年2月革命から1871年パリ・コミューン敗北までのパリでの空間的あるいは構造的階級闘争であり、闘争形態や闘争様式である。ハーヴェイは、空間配置をめぐる階級闘争をとらえ、それが金融資本的蓄積様式によって領導された過程であり、オスマンのパリ改造計画によって規模の大きさと空間配置の構造に対して、民衆の側の対抗的な空間配置がバリケードを典型とする形態から1871年にはコミューンという都市空間の制圧という形態へと至った過程までを示している。関連するのは、特に、『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』『フランスにおける内乱』、ベンヤミン『パサージュ論』、その一部が独立した『ボードレール論』、『歴史哲学テーゼ』などである。バルザック、フロベールなどの小説やドーミエなどの画家などがいろいろと出てきます。
 ちょっと調べたところでは、1871年以降のパリでは、オスマンなどが築いた市内を囲む城壁の撤去と再開発があった。第二次世界大戦の時にパリはナチス・ドイツによって占領されます。連合軍・パルチザンのパリ解放までを描いた『パリは燃えているか』という映画があります。パリは戦災を免れました。戦後は、郊外への工業地帯の移転と通勤列車の開発と郊外住宅地の建設、衛星都市の形成、移民街の形成などがあったようです。68年革命の舞台となったカルチェ・ラタンは有名です。もっとしっかり詳しく読みたいけれども今回はここまでです。

 『モダニティの都市 パリ』から

 1848年にヨーロッパ全域で、そしてとくにパリできわめて劇的なことが起こった。この日付の前後にパリで起こった政治経済、生活、文化の根本的断絶に対する議論は、少なくとも表面上はもっともらしく思われる。それ以前は、せいぜい中世的な都市インフラストラクチャーの抱える諸問題を修繕するだけの都市のヴィジョンしかなかった。それ以後、パリをむりやりモダニティに押し込めたオスマンがやってきた。アングルやダヴィッドなどの古典主義者やドラクロワのような色彩画家にたちに対するクールベの写実主義とマネの印象主義の登場。ロマン派の詩人と小説家たち(ラマルティーヌ、ユゴー、ミュセ、ジョルジュ・サンド)に対するフロベール、ボードレールの整然として希薄で磨かれた散文と詩の出現、さらに市街に散在していた独立手工業者の作業工程によって組織された製造業の多くが、機械的近代工業に取って代わられた。ユートピア主義とロマン主義に対する抜け目のない管理主義と科学的社会主義。それまで水運びは主要な職業であったが、1870年までに水道水が利用可能になったことでほとんどその姿を消してしまった。もっと多くのことを含めて、以上のあらゆる側面において、1848年は多くの新しいものが古いものからはっきりとその姿を現したひとつの決定的な契機であったように思われた。
 だが1848年のパリで正確には何が起こったのか? 国の至る所で飢え、失業、窮乏、不平不満が蔓延し、生活の糧を求めた民衆がパリに流れ込んだことで、問題の多くがパリに収斂することになった。王政と対決し、少なくともその改良を決意した共和主義者と社会主義者たちがおり、その結果、民主主義への最初の展望が実現した。また、起こらなかったとしても、革命の機が熟したと考えていた人々が実にいた。しかし、こうした状態は数年にわたって続いていた。1840年代のストライキ、街頭でのデモ行進、共謀の暴動の行き届いていた状態から判断しても、今回は別だと考えた人はわずかだったように思われる。

 1848年2月23日、キャプシーヌ大通りで外務省へ向かうデモに、軍隊が発砲し、50人余りを殺害した。国王ルイ・フィリップは、モレに代えて、ティエールを首相に任命した。「ティエールは王ルイ・フィリップにたいして、ヴェルサイユにすること、王に忠誠を誓う軍隊をすること、さらにもし必要ならば、パリの革命運動を鎮圧すること(後に1871年のパリ・コミューンに対して展開された戦術)を提案した」(p10)。
 ラマルティーヌ、ルイ・ブランを含む11名が臨時政府指導者になる。民衆はチュイルリー宮に侵入、掠奪を行う。4月末選挙、5月憲法制定議会、共和制を宣言、地方は右派、パリは左派が勝利。
 より重要なことは、急進的な組織が活発化する空間が創造された点である。政治クラブが組織され、労働者のアソシアシオンが誕生し、労働問題に最も関心を寄せてきた人々は、社会・政治対立を調整するためにリュクサンブール宮で定期的に会う公式の機会をその手中に納めた。これは「労働者のための政治委員会」として知られるようになった。国立作業場が失業者に仕事と賃金を提供するために設立された。これは熱心な議論を自由にできるようになった契機であり、フロベールは『感情教育』のなかでそれを見事に描いている。

  仕事が中止状態なので、不安と野次馬気分から誰もかも家にはいらなかった。かまわない服装のため、社会的地位の上下が目立ったが、憎悪はかくれ、希望のみあらわに輝き、ひとはみななごやかそうに見えた。権利を戦ってかちえたという自尊心が顔にかがやいていた。ちょうど謝肉祭の日のような陽気さ、露営でもしているような態度がうかがわれた。初期のこのパリの光景ほど興味深いものはなかった。・・・
  二人(フレデリックとデルマール)はクラブというクラブ、ほとんどすべてのそういう場所にいってみた。赤いの青いの、乱暴なものや静かなのや、真面目なのやだらしないの、わけのわからないの、酔っ払いみたいなの、諸国王の死刑を要求するのや食料品商の詐欺行為を非難するの、いたるところで、借家借地人は家主地主を呪い、仕事着の連中は燕尾服を攻撃し、富裕者は貧しい者たちに対して共謀しているありさまだった。ある者は警察の迫害をうけたといって賠償を要求し、また他の者は発明を実行にうつすための補助金をしきりに求めている。でなければフーリエ主義プランや群設市場の計画とか、公益施設の諸制度といったことの説明だ。

  そして、そういう愚にもつかなぬおしゃべりの合間合間をちょいちょい気のきいた半畳が稲妻みたいにひらめき、泥っぱねを上げるようなだしぬけの叫び声が起こり、口汚い罵りで権利が説かれ、シャツも着ぬ胸にサーベルの吊り帯をかけたやくざ男の口に雄弁の花が咲く。・・・誰もかも、分別のあることを気取ってかならず弁護士を糞みそにいい、《建物におのれの一石を運ぶ、社会問題、仕事場》などといった決まり文句をできるかぎり使わねばならないのだ(p12)。

 グドラ
 「男たちは飢え、希望もなく、リーダーもなく、励ましもなく、敷石で築いたバリケードの背後で黙り込んで銃を撃ちながら闘っていた。4日間、パリはくすんだ光に照らされていた。バリケードに発砲が行われ、煙にくすむ町に大きな騒擾が勃発した。女性も容赦なく撃たれ、ぼんやりとした日曜日にはバリケードと停戦交渉をしていた将軍が残念なことに虐殺された。仲裁役として最高の態度を示していたパリ大司教も、夕暮れは交渉のために出かけていき撃たれて死んだ。それは恐怖の時代であり、この夏の4日間でパリは闘争によってひどく苦しめられた。そして反乱が終結し、共和派が生き残った」(p13)。

  1853年オスマンをセーヌ県知事に任命

 イットルフは7月王政下でパリ改造に従事した主要な建築家のひとりであった。凱旋門とブルゴーニュの森をつなぐ新たな道路は長く議論されてきており、イットルフはそのための計画を作成した。その通りはこれまでの標準と比べてかなり道幅の広い120フィート幅になる予定だった。1853年、イットルフはオスマンに会った。オスマンは360フィート幅の通りで対面する建築物の間が1440フィートとなるよう主張した。こうして彼は計画の規模を三倍にしたのだ。別の示唆的な事例を考えてみよう。中央市場〔レ・アール〕を通じたパリへの食糧供給は、長い間不効率かつ不適切であると考えられてきた。7月王政期にはそれは熱い論争の主題となった。前セーヌ県知事がベルジェは、大統領ルイ・ナポレオンからの命令で、その再設計を優先した。図7は古いシステム(既に解体された)を示しており、商人たちは張り出した家の軒下に商品を積み上げていた。ルイ・ナポレオンは1852年、バルタールの新しい建物(「中央市場の要塞」としてこの通りで知られていた)の作業を、全く受け入れることのできない計画だとして中断させた。1853年、「私たちは鉄でできた傘がほしいと」とオスマンは罰をうけたバルタールに語り、結局、オスマンがいくつかのハイブリッドなデザインを拒絶した後(それゆえにバルタールの強い怒りを生み出した)ようやくバルタールはオスマンにその傘を与えた。その結果は長い間モダニストの古典として見なされた建物である(図9)。『回顧録』のなかで、オスマンは自分がバルタールの名声を救ったことを示唆している(ルイ・ナポレオンが、1852年にはひどいものを製作した建築家がどうして2年後にそんな天才的な作品を創り出すことができたのか、と問うたとき、オスマンは慎みなく「知事が違っています」と答えた)。(p18)

 激しい変動の諸局面で、都市をいかに見るか、そして表象するか、というこの問題は、人をたじろがせる挑戦である。(p25)

 私にせいぜいできることは、第二帝政期のパリがどのように動いていたのか、資本とモダニティがある特定の場所と時間でいかにして調和するようになったのか、社会諸関係と政治的構想力がこの出会いによってどのような刺激を受けたのか、を再構成することである(27~8ページ)。

…パサージュ論の魅力は私にとって、ありとあらゆる二次資料から莫大な情報の配列を収奪し、破片や断片(彼はそれは歴史の「破片」と呼ぶ)を割り当てる方法にあり、あたかもそうした断片は、パリがいかに動き、いかにして近代的なもの(技術と感覚の両方)の誕生の中心地となったのか、を示す巨大な万華鏡の一部を構成しているかのようである。彼は明らかに大きな構想を操っていたが、その仕事は未完(おそらく完了できない)で、その包括的な姿(もしそれがひとつの形を持つことを意図されていたとしたら)はとらえどころのないままである。しかしショースキーと同時にベンヤミンは(アンリ・ルフェーブルのような他のマルクス主義者と同様に)、我々はただ物質的世界に住んでいるのみならず、我々の想像力、夢、想念、表象は強力にその物質性を媒介していると主張する。彼はスペクタクル、表象、幻想に魅了されている(p28)。

 ベンヤミンの読者にとって問題は、その諸断片をパリの全体性との関係でいかに理解するかにある。両者は調和せず、そのままにしておくのが最良だという人ももちろんいるだろう。主題を相互に重ね合わせること(ベンヤミンのパサージュあるいは資本流通と蓄積、階級関係の浸透に対する私自身の関係)は、体験への暴力であるのでまずは拒絶されねばならない。私は、それに満足するよりも、過程と物の内的関係をより信じている。私はこれらの結合と関係が何であるのかを表象し伝達する我々の能力を深く信じている。だが私は、抽象化とともに生じる暴力と、複雑な関係を単純な因果の連鎖として、さらに悪くすると機械的過程によって決定されたものとして解釈する危険がつねにあること、を認識しているし、いかなる理論家もそれを認識しなければならない、弁証法的かつ関係論的な歴史・地理的探求の様式に依拠することは、そうした罠を逃れる手助けとなる(28ページ)。

 だが、私がここで試みるような総合の仕事は、必ずそれ自身の契約規則を構築しなければならない。他人の言説の推敲の休みなき脱構築という点にとどまることはできず、社会生活と歴史=地理的探求を形成する際の複数の言説および知覚の重要性とその力を認識しながら、社会過程の物質性を強調しなければならない。このため、私が数年にわたって展開してきた(そして1985年に出版された最初のパリ研究が重要な貢献をした)歴史・地理的唯物論の方法論は、特定の場所と時間における都市変化の動態を理解する強力な手段を提供する(p29)。

 『老婆』でバルザックが観察したのは、近代の神話が、それほどよく理解されてはいないものの、古代から引っ張ってきた神話よりも力強いということである。その力は、起源についての驚くべき物語や人間の情熱や欲望をめぐる伝説的な論争としてよりも、むしろ日常の経験から引き出される、疑う余地もない現実としてイメージを宿す、その方法からもたらされる(p33)。

 …バルザックの究極的な功績は、市民社会の発生の場wonbのなかに偏在する社会動力を細かく調べ再現=表象したことにある。都市および都市を満たすモダニティの神話の双方を脱=神話化することによって、彼は新たな視角を開いたのである。それは都市なるものが何であるのかだけでなく、どういう根拠でそれが可能となるのかということにもかかわる。同じように重大なことは、彼が彼自身の表象の心理学的基盤について明らかにし、都市の古文書館の死せる記録からは失われた(とりわけブルジョワジーにおける)欲望の不透明な働きについて考察を行ったことである。都市なるものといかに近代自体が構成されていたかということの弁証法が、これによって暴露される(p36)。

  バルザックは、おのれの世界の神話的構成を確かなものにするために、その場の説く的の批評的輪郭づけをもってした。パリこそが彼の神話を育てる土壌である―つまり、ドルバック描くところの、あの二人ないし三人の銀行家(ニュシンゲン、デュティエ)や偉大な医者オラース・ピアンションや企業家セザール・ピロトーや四、五人の偉大な高級娼婦たち、高利貸ゴプセック、二、三人の弁護士と軍人たちのいるパリこそが、そうした土壌なのである。だがなんといっても、この一群の人物たちが登場するのは、いつもきまって同じ街路や街角、狭い部屋やその一隅においてである。このことは、地誌こそがあらゆる神話的な伝統空間の概観、いやそれどころかそれをとく鍵となりえるという以外の何を意味しよう。―ワルター・ベンヤミン(p33)

 「秩序ある社会の唯一の堅固な基盤は、それが不動産であろうと資本であろうと私有財産によって担保される貴族社会による適切な権力行使次第であった」とバルザックは書いた。不動産と資本の区別は重要である。それは土地に関わる財産と貨幣の力の間の時に避けがたい衝突を示唆する。バルザックのユートピア思想は、最も典型的に前者に関心を注ぐものものである。文芸評論家のフレドリック・ジェイムソンが、バルザックの攪拌的な世界の「不動の一点still poison」と呼ぶものは、「ユートピア主義的な願望充足の実現可能な形としての土地所有という穏やかで暖かい幻想」に集中している。「パリの競争的な活力、また大都市における商売上のいざこざの競争的な活力から解放された平和」が、ここにあるのであり、「具体的な社会史の、ある実在する遠隔地backwaterの中にあっていまだに想像することが可能なのである。(p37)

  花崗岩をきずき、木材を張りめぐらして一軒の粗末な家があった。あたりの風景とぴったりの屋根には、苔、きずた、野花などがはびこって、その蒼然たるふるさを語っている。鳥もおじないほどのそのほそい煙が、こわれた煙突からかすかに立ちのぼっている。テロには赤い花をつけた、せいのたかい日本のすいかずらのあいだには、大きな腰掛けがおいてある。のびほうだいにはびこったふどうの枝、ばらの花、ジャスミンの茶などにおおわれて壁はほとんど見えない。このひなびた装飾を意にも介しないこの家の主人は、いきいきと目もさめるような自然に、いっさいをまかせっきりで、手入れなどしたことがないのだ。
住人はまさに牧歌的である。

 犬のなき声をききつけて、外に出てきた男の子は、口をあけたままつったっている。それにつづいて、白髪の老人があらわれた。ふたりの人間は、この景色や、空気や、花や、家と相通じるものをもっていた。というのは、この潤沢な自然にも健康がみながいっていたし、老人や若い人もまたここでは一様に美しかったからである。しかも、こういう種類の人物には、原始人ののんきさというか、習性的な幸福感というか、われわれの偽善の心をかき消し、思いあがった情熱をやわらげてくれるものがあるのだ。(p38)―『農民』

  この種のユートピア主義的な考え方は、それに対してあらゆるものが判断されるひとつのひな型として機能する。(p38)

…バルザックの作品に登場するおびただしい人物たちは、(バルザック自身がそうしたように)田舎的な生活様式から大都市的な生活様式への多難な移行を経験する。

  『ゴリオ爺さん』のラスティニャックはうまくやるが、『セザール・ピロトー』の司祭はうまくできない。『幻滅』と『娼婦の栄光と悲惨』のリュシアンは自殺する。『ふくろう党』の舞台のブルゴーニュやアンクレームは遠い。

 農民と貴族の間の闘争は、熾烈さを増していた。行為の事実上の主役は、高利貸し的実践、独占的支配、法的ごまかし、そして(日和見主義的な縁組みによって強固となった)相互依存と戦略的同盟の相を複雑に織りなすことによって、がむしゃらに資本の蓄積に勤しむ地方の活動家、商人、医者、またその他の者たちといった種々雑多な一団である。(p42)

  観察眼の鋭い農民
  あんたたちの権利を保つために、エーグの人たちを驚かすのはけっこうさ。だが谷のブルジョワが望んでいるように、エーグの人たちをここから追い出して、そして否応なしに土地を売らせるというのは、それをすることは我々の利益に反する。広大な土地の分割を手伝ったとなると、来るべき革命のなかで国有地という国有地はどこからやってくるというんだい。リグーの爺さんがやったように、そのときは無料で土地を手に入れることだろう。だけど、ブルジョワが一度土地に噛み付いたとなると、あいつらはそれをもっと小さく高価な小片へと細分化してしまうはずだ。あんたたちはあいつらのために働くようになるんだよ。リグーのために働いている多くの連中みたいに。クルートキュイスを見てみろよ!(p44)―『農民』

  いかなる感情も事物の奔流にさからえない。事物の流れは情念を弛緩させるような闘争に人をおとしいれ、恋愛はそこでは情欲であり、憎悪は単にその場の思いつきに過ぎない、―サロンであれ、街路であれ、誰もよけいなものではないかわりに、さりとて絶対に有用ないし有害だというものでもない。…政府もギロチンも学校もコレラも、いっさいが差別なく甘受される。諸君はつねにこの世界に適応できるが、さりとて諸君がいないからとて決して問題にはならない。

 ペラン・ガスラン街は…迷宮の小路のひとつで、パリの腸みたいな所である、そこには、数限りないいろいろな品物、例えば鰊とモスリン(寒冷紗)、絹と蜂蜜、バターとチュール(細目織)といった、くさいにおいのするものとしゃれた装飾に使う品とが、ごちゃまぜにうごめいていた。とりわけ、いろいろな細々とした商売、ちょうど、大部分の人間が自分の脾臓のなかで起こっていることを知らないのと同じおうに、パリがおのれのうちで行われてもいっこうに気がつかない、そうした多くの小さな商売が行われていた(p47)―『セザール・ピロドー』

 このパリがいかに立ち働いているかを摘出し、表層的な外観や気が狂ったような混乱状態や万華鏡のような変化の下や裏を暴き、迷路を突き抜けるためには、「身体を切り開きその中にある魂を見つけ出さねば」ならない。しかし、その核心にあるのは、ブルジョワ生活の空虚さがあまりにもはっきりし過ぎているということである。(p47)

…支配しているのはあらゆる種類の投機なのである。(p47)―『ウジェニー・グランデ』

 もしパリが怪物であるとするならば、これはまさしく怪物中の部類の酔狂な怪物である。それはありとあらゆる思いつきにうつつをぬかす。あるときは普請好きの領主のように建てるは建てるは。…やがて、がっくり、破産の憂き目で家具の売り立てして、身代限りということになるのだが、はやくも四、五日後には片もつけたが、どんちゃん騒ぎで、踊っている。日ごとの酔狂と同じ具合に、日毎、季節毎、年毎にも、またそれぞれの酔狂が出る。さてその頃は、誰の杓子も、何かしら、まず正体も知れぬものを、建てては壊し、壊しては建てていた。(p48)

 あのひとはさら地を自分の名前で買い、それから投機名義人の名前で、そこに家屋を建てさせるの、その連中は、ありとあらゆる請負業者たちと、その建築のために契約を結び、長期の手形で支払いをするよう決めるのだけれど、その一方で、ほんのわずかな金額で主人に譲渡証明を出し、そこでうちのひとが一家屋の所有者になるの。そうしてその連中は、破産して、だまされた業者たちの再建をふいにしてまうのだ。(p48)―『ゴリオ爺さん』

 虚栄心によって消費されたすべての階級に必要なのは、過度の興奮である。政治は道徳におとらず、恐ろしいまでに、これらの必要を満たすため収入はどこからやってくるのかと、自らに尋ねなければならなかった。大蔵省の一時借入金を見るとき、また、それ自体国家をモデルとした各世帯の一時借入金に精通するようになるとき、人はフランスの半分がもう半分に借金があるのを見てショックを受ける。精算時、債務者は債権者からはるかに隔てられていることだろう…。このことはおそらく、いわゆる工業の時代の終焉の兆候となるだろう…。富裕なブルジョワジーが貴族階級以上に切るべき首を有していた。彼らが銃をもっていれば、彼等は貶めた連中の中にその敵を見出すことだろう。

 1848年、この事実があまりにも明らかとなる。(p50)

 表層的な外観が、金や権力や快楽のための苛酷な闘争のなかでの個々人間のバラバラで混沌とした競争であるとはいえ、バルザックはこの見かけ上混沌とした世界の背後に、階級勢力の布置状況と衝突の産物としてパリを理解すべく洞察していた。『金色の目の娘』の中で、彼はこの階級構造を描くべく見事なまでにメタファーを織り交ぜてみせた。(p50)

階級構造

底辺層:プロレタリアート、「無産階級」。労働者とは、「体力の限界を越え、女房にもなにかの機械を曳かせ、子供もこきつかって歯車に釘づけにする人である」(p52)

第2の層:「卸問屋とその店員、平役人、小銀行の謹厳実直な行員、詐欺師と盲従者、ピンからキリまでの手代番頭、執達吏や代訴人や公証人の見習い。要するに、パリを食いものにし、その嗜好に目をひかせ、活動し、思考し、投機する小市民階級の構成分子」(p52)

第3の層。「都市の利害が整理されて、取引といわれる形に消火され圧搾されるパリの胃袋である。代訴人や医者や弁護士や事業家や貿易業者、上層の中間階級」

この上に芸術家の世界(バルザック)(p53)

 しかしながら、われわれはパリの厖大な資産がふんまえているこの四つの地盤をはなれれるまえに、上述の精神的要因についで物質的原因を追及しなければならないのではないだろうか?…平気な顔でそれを放置しているパリ市当局の腐敗と同じくくされきった有害な作用を指摘すべきではないだろうか? 大多数の市民の住んでいる家の空気が悪臭を放ち、その大気が店の大気が店の裏部屋にひどい臭気をはき出して、息もできないありさまであろうとも、まだこうした非衛生のほかに、この大都市の四方の家々がごみくずの山のなかに足をつっこんでいることを知るべきである。…パリのなかばは、塵と町並みと便所の発散する身体のなかに横たわっている。(p53)

 オスマンが20年以上後に取り組むべく召還されることとなった生活環境とはこうしたものであった。中流階級の労働条件は少しも良くなかった。(p54)

 バルザックの遊歩者は、審美眼のある人以上で、さすらう観察者のそれである。彼はまた断固として、社会関係の神秘と都市の神秘を解明しようとし、フェティッシュなるものを見抜こうとしていた。(p78)

 バルザックの遊歩者は、都市の地勢を地図化し、その生活の質を想起させる。都市はそれによって、非常に特徴的な仕方で我々に判読可能なものとなるのである。(p79)

…バルザックは、ブルジョワ的価値の内的な聖域へ侵入していくことで、資本主義的近代の神話の多くを書きだす。彼は建造環境のミニチュアであってもそれを通して、社会関係が表現されるその仕方、また社会関係の中でいかにして都市の内蔵的な物的質が介在しているかを吟味した。(p80)

 バルザックのモナド的な思考をブルジョワ的宇宙の同心円的な鏡として投影する彼の才能を適切に言い換え利用すれば、我々はいつか、ブルジョワジーの歴史全体について語ることになるはずである。彼等は彼らの思想とともに世界―彼らが形作り、彼らが築き上げ、彼らが侵入し、彼らが理解する、あるいは、彼らがそれを理解すると考える―を封印する。dが、突然彼らは一人で目覚め、暗い光の深さの真只中で彼ら自身を見出すのだ。(p81)

 この苦悩に満ちた歴史の無言の響きを、いまだに聞くことができる。例えば、1971年2月に、警官に追われたデモ参加者たちがサクレ=クール寺院に逃げ込んだ。その参加者たちは、聖堂の守りをしっかり固めて、「かくも長きにわたってパリの上に建てられた」教会を占拠することで、急進派の仲間たちに自分たちに加わるように訴えた。放火魔の神話がかつてのパリの拠り所から直ちに解き放たれて、明らかにパニックに陥った牧師は、大火を防ぐためサクレ=クール寺院に警察を呼んだ。「アカ」は、きわめて残忍な光景のなかでそこから追い払われた。パリ・コミューンで命を失った人々を記念して、活動的な芸術家であったピニョン・エルンシストは、5月に亡くなったパリ・コミューン支持者たちのイメージを担った経かたびらで、サクレ=クール寺院の下にある階段を被った。こうしてパリ・コミューンの百年祭はその場所で祝福された。あの出来事の結果として、1976年に寺院内部で爆弾が爆発し、ドームのひとつにかなりの損傷を与えた。その日、ペール・ラシェーズ墓地を訪れた人は、オーギュスト・ブランキの墓に一本の赤いバラが置かれていたのを見たと言われている。
 ロオ・ド・フルーリは「(他人が)墓を掘ろうと思った場所にゆりかごを置く」ことをわざわざ望んだ。しかし訪問者はサクレ=クール寺院の霊廟のような構造を目にして、そこに何が葬られているかを不思議に思うだろう。1798年の精神か? フランスの数々の罪か?  妥協知らずのカトリック教と反動的王党主義者の協同か? ルマントとクレマン・トマのような殉教者の血か? あるいはウジェーヌ・ヴァルランの血か? それとも彼とともに情け容赦なく処刑された2万人余のパリコミューン活動家たちか? 

  その建物は不気味な沈黙のなかにその秘密を隠している。この場所を飾り立てることに賛成あるいは反対して闘った人たちの諸原則を理解する生者だけが、この歴史に気づき、そこに埋葬されたさまざまな神秘を真に掘り起こして、墓所の死のような状態からあの豊かな経験を救い出し、それをゆりかごの騒々しい始まりへと変えることができるのである。(p430)

関連年表(『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(岩波文庫)より作成)

フランス大革命(1789―1799)
ナポレオン時代(1798―1815)
復古王政(1815―1830)
7月王政(1830―1848)
1830・8・7 オルレアン家のルイ・フィリップ王位につく。金融ブルジョアジーの支配。1847、経済恐慌。選挙法改の運動激化す(改革宴会)。1848・2・23、二月革命の勃発。
第二共和制(1848―1851)
1848・2・24 武装市民、市の中心部を支配。ルイ・フィリップ王位を孫のパリ伯アンリ(10歳)にゆずり亡命。議会、オルレアン公妃の摂政を公認するが、議院に侵入した武装市民によって強制されオルレアン家の廃位と臨時政府の成立を宣言。
第Ⅰ期臨時政府(1848・2・24―5・4)
2・25     共和制の宣言。労働の権利の宣言。
2・26     遊撃警備隊の結成。
2・27     国営仕事場の設立を布告。
2・28     労働問題調査委員会(いわゆるリュクサンブール委員会)設けられる。
3・2      十時間労働制の採用を布告。
3・5      普通選挙制の布告。
3・8      民営軍入隊にたいする財産上の資格制限を廃止。ブルジョア民衛軍の臨時政府反対デモ。
3・17     前日のデモにたいする労働者の反対デモ。
4・16     練兵場における労働者のデモ、失敗におわる。
4・23     憲法制定国民議会選挙。
第Ⅱ期憲法制定国民議会の時期(1848・5・4―1849・5・28)
5・4     憲法制定国民議会の開会。
5・10     執行委員会の選出。執行委員会は各省大臣を任命(陸相カヴェニャック)。
5・15     労働者の武装デモ、国民議会の解散を要求、一時市庁を占拠するが民衛軍によって鎮圧さる。議会ではブルジョア共和派(ナシオナルの壁)、山岳党、秩序党の三党派が形成さる。
6・21     国営仕事場の廃止の布告。
6・23     労働者の武装反乱はじまる、いわゆる6月事変。憲法議会はただちに戒厳令をしき、陸相カヴェニャックに執行権の全権をあたえる。4日間の大作戦ののち労働者反乱鎮圧さる。
6・28     カヴェニャック行政長官となり新内閣をつくる(執行委員会は解散)。国営仕事場の廃止。言論結社の弾圧。
9・17     補欠選挙。ルイ・ボナパルト5県で選出さる。
10・23    閣議でローマ出兵を決定。
12・29    憲法制定国民議会解散の動議(ラトーの提案)。
1849年
1・27     山岳党と社会主義者の和解がなり、社会民主党が成立。
1・29     議会、シャンガルニエの軍事的威嚇のもとにラトーの提案を可決。政府は誘導警備隊を解散。
3・21     集会取締法(1月26日の提案)の成立。
4・14     フランス軍ローマへ出発(4・16、議会はローマ遠征軍の費用を承認)。
4・30     フランス軍、ローマを攻略して、撃退さる。
5・8     議会はローマ出兵を公表された目的にもどすよう内閣に要請。夜、ボナパルトのウディノーあての手紙の公表。
5・11     ルドリュ=ロランのボナパルト問責案が否決される。
5・13     立法国民議会の解散。
第Ⅱ期立法国民議会の時期(1849・5・28―1851・12・2)
5・28   立法国民議会招集。
5・下旬  2万の増援軍をローマへ急派。
6・11   ルドリュ・ロラン、内閣を問責(12日、問責案否決さる)。
6・13   民主主義的小ブルジョアのデモ。シャンガルニエによって粉砕。民主派の新聞の禁止、戒厳令、秩序党の独裁の完成。
6・15   民主派の代議士40名の失脚、ルドリュ・ロランの逃亡。
6・19   政治クラブ弾圧の新しい法律。
7・3    フランス軍ローマ入城。
8・12   国民議会休会(10月10日まで)。
8・18   ボナパルトのネイあての手紙。
8―9月  ボナパルトの地方巡遊。
10・15   ユゴー、ネイあての手紙を擁護す。
11・1   バロー内閣の解任、ドープール内閣の任命。
11・14   フールドの財政演説、ぶどう酒税の存続を言明。
1850年
1・14   新教育法(ファルー法)提案(3月15日に可決)。
3・10   補欠選挙、ヴィダル、ドフロットなどの当選。
4・28   ヴィダルにかわってユージェーヌ・シューを選出。
5・8    新選挙法の提案。
5・31   新選挙法の成立によって、普通選挙権の廃止。
8・11   国民議会の休会(11月11日まで)。
8・26   ルイ・フィリップの死。王党派陰謀の再燃。
8月    ルイ・ボナパルトの地方巡遊。
10・3    ボナパルト、サン・モールで軍隊を饗応。
10・10   ボナパルト、サトリーで軍隊を饗応。
12月    モーガン事件。
12・20   デュプラ、金地金くじについて質問。
1851年
1・10    ボナパルト、新内閣を任命。
1・12    シャンガルニエを解職。
1・18    内閣の不信任投票(415票対286票で可決)。
1・20    内閣総辞職、いわゆる過渡期内閣の任命。
4・11    ボナパルト、1月18日の内閣を復活する。
7・19    憲法改正否決さる(賛成446票、反対278票)。
8・10    議会休会(11月4日まで)。
8・25    議会の開会、憲法改正を支持。
10・10    ボナパルトは普通選挙権復活の決意を大臣につげる。
10・26    トリニー内閣の成立、警視総監にモーバを任命。
11・4    ボナパルト、議会に普通選挙権の復活を要求。
11・13    議会はボナパルトの要求を否決。
11・17    監査委員法案提出(否決さる)。
11・25    ボナパルトのクーデター。主な議員の逮捕拘禁。議会の解散。普通選挙権の復  活、戒厳令の布告。
12・3    ユゴーら一部共和派議員の抵抗。場末に若干のバリケードきずかる。
12・4    軍隊によりすべての反抗運動の鎮圧。モンマルトル大通りの大虐殺。
12・19頃 マルクス、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』に着手。
12・20    ボナパルト、国民投票に新政権の承認を問い全投票809万票のうち92%を獲得。
第二帝政(1852―1870)
1852・1・15 新憲法公布。
11・21、   帝政復活を問う国民投票(帝政賛成98%)。
12・2     ボナパルト皇帝となりナポレオン3世と号す。
1870・9・4 ナポレオン3世プロシア軍の捕虜となり帝政崩壊す。
第三共和制(1871―1940)
1871・2・13 国民議会成立。
3・18   パリ・コミューン(5月28日まで)。 

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トロツキー『レーニンの思い出より』によせて

 トロツキーの「レーニンの思い出より」の訳がトロツキー研究所のHPにある。宗教学者中沢新一氏の『はじまりのレーニン』にところどころ出てくるものだ。

 ここにはトロツキーの文学趣味が現れている。レーニンならけっしてこのような書き方はしなかっただろう。例えば、こんなところだ。

 過去の思い出を集めるために、そして、自然の力がこれ以上長くその生命力を支えなかった人物のイメージに心のまなざしを向けるために、思考は何らかの特徴、何らかの手がかりを探し求める。そのために必要なのは、ある種の、例外的に巨大なスケールを持った芸術家、骨の髄まで革命家である芸術家である。

 これは、レーニンの自伝以外にレーニンの伝記を書きようがないと言っているにひとしい。なるほど、その通りには違いない。レーニンについてかつて山と書かれたもののほとんどが「例外的に巨大なスケールを持った芸術家、骨の髄まで革命家である芸術家」どころか、卑小な小ブル的、ブルジョア的な、小さなアカデミズムの閉塞した世界で縮こまったちっぽけな神経衰弱で弱った道徳意識に犯された者の手で書かれたか、自分はまったくこのような巨大な革命家である芸術家にまったく及ばない小さな一解釈者にすぎない者や御用ジャーナリストの手によって書かれた。例えば、カレル・ダンコース『レーニン伝』に至っては、わざわざ今レーニンの伝記を書く理由を自分で作り上げようとして苦労しているほどだ。

 しかし、この現象にはいくぶんかはレーニンの巨大さを示すようなものがある。つまり、ソ連崩壊から20年が経とうとしている今でも、まるで亡霊が甦ってきやしないかと怖れて、時々、お祓いをしないと気が落ち着かない者が出てくるというのがそれである。それは、べつに杞憂というわけではなくて、まさに甦ってくるのだが、それはそうした連中が想像するような形で、というわけではない。しかし、以下のトロツキーの評価はそれを正確に表現していない。

 私がいま思い出すのは、10月革命に先立つ数ヶ月間、すなわち5月から11月7日までの時期のウラジーミル・イリイチである。彼は、その直前に、15年近く亡命生活を送っていた国外から帰ったところだった。それはすでに、その精神的成長が完成の域に達していたイリイチだった。それは、彼が果たすことになる例外的で、およそ並ぶもののない歴史的な役割に対する準備が完全に整った政治家、革命家、人間だった。

 トロツキーは、「4月テーゼ」をたずさえて亡命先からロシアに戻ってから11月7日までのレーニンを「精神的成長が完成の域に達していた」という通俗的心理学的な見方で描いている。これは唯物論者レーニンをトロツキーがまったく理解していないことを示している。そして、トロツキーは、「それは、彼が果たすことになる例外的で、およそ並ぶもののない歴史的な役割に対する準備が完全に整った政治家、革命家、人間だった」とレーニンを評価する。何がレーニンとトロツキーを分けたのかがここには示されている。まさに、レーニンは、大衆心理を無意識のレベル、あるいは中沢新一の表現では「底が破れた」唯物論者としてそれを感じ、「大衆と溶け合っていた」のである。彼が成熟していたのはこっちの方である。だから多数がメンシェビキを表層意識としては支持していた大衆の底の意識を感じられたのだ。

 そのことは、トロツキー自身示しているのだが、彼はそれをほんとうの意味では理解できていない。

 彼は、明確な構想、はっきりとした革命的綱領をたずさえて帰ってきた。彼はその綱領を、スポットライトの照明を浴びながら、装甲車の上からピーテルの労働者に大声で訴えた。ロシアとの接触、交流、すなわち、ロシアの労働者大衆、塹壕からの兵士代表、当時ペトログラードにたくさんいた農民代表たちとの接触、交流は、彼の定式を生き生きとした中身で満たしたにちがいない。そしてそれは、きわめて説得力にあふれ、きわめて内容豊かなものであったがゆえに、彼の言葉は絶対的とも言える意義を獲得した。彼はまるで、革命の今後の歩みやわれわれの前に立ちはだかる危険性を、物理的な触覚として感じ理解している人間という印象を与えた。彼がたずさえてきた定式は、血と肉によって確証され満たされた。そして彼は革命の焦燥感に身を焦がしていた。この巨人のような人物の内部では、意志と意識によって抑えられていた革命的焦燥が煮えたぎっていた。彼は、労働者の水準、意識を飛び越えることができないことを明確に理解していたが、同時に、この水準が成長すること、その全本質からしてこの時期を速めることも理解していた。

 レーニンは「まるで、革命の今後の歩みやわれわれの前に立ちはだかる危険性を、物理的な触覚として感じ理解している人間という印象を与えた」とトロツキーはあくまでも彼の私的な感覚に映る印象として語っているが、それはそのとおりだったのである。だから、レーニンは革命的焦燥感にかられたのであり、大衆の無意識的な革命欲求を感じたので、表層意識まで底からの欲求が急成長し革命の時期が早まることも理解したのである。

 彼は、しなやかで生き生きとした確固たる足どりで演壇に向かった。会場は何かを待ち受けるように固唾を飲んだ。演壇には、あまり背の高くない、がっしりとした人物が現われ、集まっている面々に少し不機嫌そうな顔を向けて、こう説明した。革命の原理を真に実行するためには大資本家を50人から100人ほど逮捕する必要がある、と。これはまさに、末端のプロレタリア的で平民的な真の問題設定だった。あたかも彼はこう言っているようだった。資本家に対する労働者の恐れを打倒せよ、そして、本当に革命が行なわれていること、これによって大衆的革命行動の真の原則を実行に移すのだということを資本家にわからせよ、と。レーニンのこの演説は嘲笑を買った。

 これはトロツキーによるレーニンの描写としては優れた箇所だ。そして、「あたかも彼はこう言っているようだった。資本家に対する労働者の恐れを打倒せよ、それから、本当に革命が行なわれていること、これによって大衆的革命行動の真の原則を実行に移すのだということを資本家にわからせよ、と」という部分。これは正確な描写である。レーニンは、まさに革命が現実に起こっていることを労働者や資本家がリアルに認識することが革命を進めることになるということを主張したのである。

 そして、10分の9がメンシェビキでしめられている第一回ソビエト大会の会場で、ボリシェビキは単独で権力を取る用意があると、「落ち着き払って」語ったが、これも、「これの章句について論じているこの会議の場において歴史がつくられていると思っている。いや、歴史は、現在、最も深い深部で、底辺で、塹壕で、装甲車で、農村でつくられているのだ。歴史は社会の深部で勤労大衆によってつくられつつある。彼らは、過去のすべての屈辱を清算しようとはじめて立ち上がりつつある」というところに明らかなように、このような社会の深部で勤労大衆によって作られつつある深いところの大衆意識を疑っていないから言えることなのである。

 ボリシェビキ政権が出来てから、レーニンは、「ああ、これが独裁だって! これはおかゆだよ!」、「彼はとんまであって、革命家ではない!」と日に10回も口にしたという。これは驚くべき発言だ。ボリシェビキの独裁、レーニンの独裁を批判する声が高まっている時に、それが独裁ですらないということを公然と口にしていたのだから。 しかし、レーニンは、大衆の無意識が独裁を欲求していることを疑っていないし、それにこそ依拠していた。それは、小泉独裁を多数が求めた21世紀の発展した資本主義国日本でも見られたことである。レーニンの場合、それは恣意的な個人独裁などではない。それは深部の大衆の欲動に根拠を置いた階級独裁であった。だからこそ革命は成ったのだ。小泉独裁は少し似ているところがあるが、超階級的な装いを持っていた官僚専制の独裁という形のものであって、どちらかと言うとボナパルチズム的な独裁であった。だから、彼を支持した大衆の大部分は裏切られたし、自分で自分の首を絞めることになった。階級独裁の深い意味とは、こうした大衆深部の欲求を感覚に「反映させる」ことが出来るプロレタリアートの独裁であり、そこに依拠した大衆の独裁であるということでもある。レーニンはそれを率直かつ公然と語った。そうした感覚が鋭く発展していたことは以下のところでもわかる。トロツキーはレーニンのメモにこだわり、その短いメモの文言に注目して次のように書いている。

 軍事問題に関するレーニンのメモは、私にとり驚嘆すべきものであった。そこには彼の断固たる決意が示されていた。いっさいが徹底してしかも核心を突く形で提起され、そしてまさに状況がそれを要求している瞬間に提起されていた。クレムリンにいながら、前線の最も詳細な具体的状況を理解し、どのように行動するべきかの認識に到達するためには、巨大な創造的想像力が必要である。前線の単に一般的ないし部分的な情報を知ることによって、労働者と軍隊の気分を知ることによって、レーニンは、その想像の中で、個々の部分から全体の構図をその最も細部にいたるまで再現し、何をなすべきかについての実践的な結論をただちに引き出すのであった。彼の想像力における鎖の最新の環である彼の提案は、前線にいるわれわれの度肝を抜いた。彼からあれこれの提案を受けるたびに、私は、前線にいる誰かがこのような考えをレーニンに伝えたのかと考えたものだ。なぜなら、前線のどこかの部署にいて、具体的な状況が展開されるのを目の前にして初めて、このような提案をすることが可能になるし、また、そのような見事な考えを思いつくことができるからである。しかし、レーニンは、クレムリンにいたままでそのような観点にいたったのである。

 レーニンは、弁証法的唯物論者としての鋭い感覚によって前線の軍隊の気分を見事に掴み、そして構成することが出来たのである。すなわち、分析と同時に総合においても優れた感覚と力を持っていたのである。トロツキーにはそれが足りなかったのだ。その証拠の一つは、中国革命に関する彼の分析・評価が中国の最前線の大衆の気分を深く掴めなかったことである。

 それから、「イリイチには、党が事態の成り行きから立ち遅れるのではないかという懸念がずっとつきまとっていた」が、このような「懸念」がトロツキーには欠けている。だから、トロツキーは、第4インターの基礎文書となった「過渡的綱領」なるもので、まさに、コミンテルンの統一戦線戦術が戦術を超えて理念化するというようなものをでっち上げてしまうのだ。党の頭から革命が生まれるとでもいうような間違いが起こるのである。そうではなく、レーニンは、表面的な静穏さの中で革命的激動が準備されるのであり、それがまた交代するというリアルな弁証法を理解していたゆえに、それと合わせた党の自己批判、自己改革が遅れるやいなや党が自然発生性に追い越されることを懸念したのである。そうなれば、大衆深部の生き生きと動く情動、欲動の運動に対応できなくなり、革命の前進が遅れるということ、そうなれば党はもはや歴史的前進のイニシアチブではなく保守化すること、その支配の固定化はまさに通俗的な意味での独裁に転落するということを懸念したのだ。

 2度目は、先ほど述べたゴールキ市でのレーニンである。前線では転換が始まっていた。若い赤軍は強力な部隊になりつつあった。これは革命がより高い段階に移行しつつあることを示すものだとイリイチは再び感じていた。そして私が彼と別れを告げて自動車に乗り込んだとき、彼が、実に快活で陽気でにこにこしながらバルコニーに立っていたのを覚えている。

 革命が前進している時に快活で陽気になるレーニン。でも、困難な時でも笑うレーニンを中沢新一氏は『はじまりのレーニン』で描いている。これは、大衆と溶け合うことを強調し、かれらと接触することを好んだレーニンにとってはべつに不思議でもなんでもない。中沢新一氏は、前掲書の中で、レーニンに対する子供の評価を引用している。また、レーニンはどこかでアカデミズムの中で神経衰弱に陥った知識人をばかにしたようなことを書いている。トロツキーの弱さにはそれに近いものがある。

 トロツキーが別のところで書いたレーニンの伝記によると、レーニンは音楽好きであった。大衆の感覚へと直接的に反映していくリズム、空間を変容させる力を持った音楽、ドゥルーズもついにわからなかった音楽の力がある。だから、ほんとのレーニン伝を書ける芸術家=革命家はとくに音楽的なそれであるに違いない。レーニンのメモや会議で発言時間を正確に計るというエピソードは、リズムという点から考察されるべきだろう。リズムへのこだわりであり、革命の進行と党の対応はハーモニーというものとして考察されるべきだろう。その点で、ドゥルーズの『襞』というバロック論でのバロック音楽は旋律を重ね合わせることによってハーモニーを構成しようとしたという指摘は参考になるのかもしれない。レーニンの思考は、まさにバロック的にリズムと複数の旋律とハーモニーの相互関係から成っていたのではないだろうか? 

 「4月テーゼ」は、それまでの二段階革命論とまったく異なるもので、これまでの路線に忠実に従っていたボリシェビキの中央委員会多数派を驚かし、いったんは否決されるのである。しかし、それは、大衆の下から支持を得たことやケレンスキー政権のボリシェビキ弾圧の本格化の中で復活する。毎日のように事態が変化する情勢を革命情勢として正確に認識せざるを得なくなったことによって、ようやくボリシェビキの路線となるのである。

 メンシェビキ的知識人とその党は、大衆の深部の意識を感じ取ることが出来ないばかりか、それを抑圧し、結局は蔑視しているのだ。戦争に反対する大衆の気分に反してメンシェビキの入った連立政府は戦争を継続した。それはロシアの大衆の戦争への動員の継続と増税を意味していた。こうして、メンシェビキは革命的情勢の方に事態を追い込んでいった。その時、革命によって大衆の反戦気分に応えることを公然とレーニンは語ったのであった。そうできなかったケレンスキー政府は当然倒された。革命を大衆が楽しむということ、それに喜びを感じることは、つい最近、エセ革命ではあったが、小泉独裁の際に、後で痛い目に遭うことになったにしても、実際にあった。その喜び、その深い欲望を解放することが必要な時代に入りつつあるのだろう。そこで、レーニンは不死鳥的に甦ることになるだろう。トロツキーは、どうしてもレーニンの足下にも及ばないので、こういう程度のものしか書けない。やがて、あんな引き倒された銅像のような干からびたレーニン像ではなくて、生き生きしたレーニン像が描かれることもあろう。生き生きしたものを『哲学ノート』で強調したレーニンが。そして卑小でつまらない俗物的なレーニン像は倒れていくだろう。

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