« 『モダニティの都市 パリ』(デヴィド・ハーヴェイ青土社) | トップページ | 日朝関係と戦後主体性論争 »

選挙結果と人事

 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」は孫子の至言であり、「人事の要諦は適材適所」というのも至言の一つであることぐらいは多くの人が納得するだろうが「言うは易し行うは難し」である。

 年功序列、情実、つまらない利害得失の計算、単純で一面的な能力主義等、また自己認識や情勢分析を歪める自惚れや自負心や競争心などがその原因という場合もある。

 この間の民主党の姿を見ているとそうしたものが強く感じられる。例えば、沖縄問題での研究不足は歴然としており、それで対米交渉に臨んだところでどうにもならないのに、ただ抽象的理念として自立外交なるものを掲げていただけで、官僚主導の外交に屈服する他はなかったのである。鳩山の迷走は、彼に確固とした外交・安保方針がなかったことを意味している。そして、小沢流人事がほとんどデタラメであったということがそれを後押しした。それに輪をかけたのが小沢神話である。なるほど、小沢は対米自立派的な路線を持つ政治家であるには違いない。その限りで対米従属派に対して擁護するということはありうる。それはよい。しかし、彼には党組織観についてはこれといったものはない。選挙に勝つことだけが彼の政党観念の中にあるのかもしれない。この間、政治と金の問題をめぐって彼は執拗に検察に狙われたが、いわゆる小沢派の実態がこうした事態に対して適切に対応し、政権を強化するような政治家の集まりとはなっていないということが問題だ。菅のグループには、明らかに、政策論においては蓄積のある議員が結集していて、政権担当できる議員を多く抱えている。

 今回の参院選挙ではそうした議員をずいぶん失った。しかし、自民党が大勝したといっても自民党も人材不足であり、菅政権、野党第一党の自民党、共に、官僚をリードするどころか、官僚の手下化するほかないような状態である。鳩山民主党は「官僚主導から政治主導へ」というスローガンを掲げて昨年夏の総選挙で圧勝した。有権者の願望が官僚支配の廃止にあることは明らかである。今の官僚の力の源泉、そしてその独立性は階級が無力であることから来ている。それに対して、小泉は、ネオ・リベラリズム路線を採って、官僚に対する金融ブルジョアジーの支配を貫徹させようとした。それによって、階級間の力関係は大きく金融ブルジョアジーに傾くはずであった。郵政民営化にあれほどこだわったのは、直接にはアメリカ政府がアメリカ金融ブルジョアジーの利害に立って市場開放圧力をかけてきたのに積極的に応じようとしたものであるが、小泉自身の信念として、金融ブルジョアジーの、そして新自由主義の支配の強化・貫徹が階級権力を大幅に強めるべきだということがあり、その力を削いできたものこそ福祉国家型「社会主義」であったのでそれを「守旧派」として葬り去ろうとしたのだと思う。

 しかし、この「社会主義」はかなり深く浸透していて制度的に固い上に人々の生活の一部として定着しきっていたのでそれを完全に壊すことは出来なかった。小泉はデヴィド・ハーヴェイが『パリの風景』で指摘する創造的破壊というモダニティの神話に訴えたわけである。それは、小泉がX-JAPANを持ち上げたことに象徴されているのではないだろうか。そのバンド名は伝統としての日本がXという未知数とダッシュで英語のJAPANと結び合わされたものだが、そこにおいて、小泉改革は創造するためには伝統を破壊しなければならないが、それは伝統として再生保存されなければならないという新自由主義の保守主義と自由主義の矛盾した組み合わせを示す象徴を見出したのだ。彼はモダニティの神話に訴えることによって伝統的保守派からも伝統的自由主義者からも批判されることになった。民主党もまたそうした意味ではモダニティの神話を広める神官であって、そのことは菅によって露骨に示されたとおりである。だから、小泉の個人主義は神話の一部をなしていて、それはかつて革命的だった頃のブルジョア・イデオローグの創造的破壊の神話の英雄たち(福沢諭吉だの板垣退助だの中江兆民だの)同様、「変わり者」としての個性、神話の登場人物に必要な性格(キャラクター)を帯びるものだった。かれらは伝統の中にいる人々の理解できない人物として現れたのだ。小泉の場合は、それの反復、模倣で、「二度目の喜劇」(マルクス)を演じる役者でしかなかったのだが。

 小泉改革によって歴史のステージは大幅に変化を被った。官僚はより自由になった。例えば、小泉はミスターXこと外務官僚の田中均とともに「共和国」との裏外交、秘密外交をやり、そして電撃訪朝をし「日朝ピョンヤン宣言」に署名した。「拉致問題」でかき消されてしまったが、首相と外務官僚の一部によって、この「国民」代表の国会無視で行われた秘密外交について、あまり問題にする者はいない。ここに人々やマスコミが何から目を背けたのかということが示されているように思われる。それは、「国民」は主権者ではないということ、それは神話であって国家独裁の下にあるということである。暴露されたのは「共和国」という鏡に写った自画像だったということだ。人々はそれからなんとか目を背けようとしたように思える。その後の安倍政権から麻生政権にいたる自・公政権の統治は人々の多数が無力化されていく過程であった。そしてふたたび議会の力に期待したのが昨年の参院選の政権交代であり、この時には政権交代自体がよい結果をもたらすとする期待があった。その夢にのって鳩山政権が誕生するが、この夢見る首相の改革は中途半端なものに終わった。

 この幻想からまっさきに抜け出したのが地方の農民や地方住民であることが今回の選挙の1人区での民主党の後退によって示された。都市部ではそれほどでもない。特に首都東京での民主党蓮舫の圧勝は、民主党の官僚と闘う政治家というイメージが都市部の住民に強く印象づけられていることを示しているように思われる。プロレタリア票のうちの組織票は例によって3つに分かれたに違いない。それ以外のプロレタリア票は棄権(投票ボイコット)したと思われる。わずかだが投票率は前回を下回った。さすがに消費税10%へと言うような政党には入れられないし自民党にも入れたくないとなると、あとはその受け皿は新党ぐらいしかないが、かれらも二大政党の部分的批判者という程度でしかない。プロレタリアの選択肢はなかったということだ。それから、自民党の勝利の原因には、人々の多くが小選挙区制度、二大政党制というシステムによって教育されて、それに合わせた投票行動をするように習慣づけられていることがあるに違いない。つまり、死票を出さないようにという配慮が働いて二大政党のどちらかを選択するという癖がつけられてしまっているということである。例えば、社民党に入れることは自分の票の価値を減らすからと、二大政党のどちらかに入れようするように計算する知性が作られてしまっているのではないだろうか。マスコミや知識人が、この制度が取り入れられる際もその後もそのことを執拗に宣伝して刷り込もうとしていた。人々は政権に結びつかない投票は無駄な行為だと思いこまされているのである。

 問題の普天間基地問題について、日米合意に従うとする菅政権は、与野党逆転のねじれ国会になったとはいえ、自民党中央も辺野古移設賛成であることもあり、その実現に向けてなんか手を打とうとしてくるのだろう。そこでの菅の人事は一つのポイントである。それは党人事と一部閣僚の交代をしただけで基本的に鳩山政権のままの体制の菅政権が適材適所の人事に失敗すると、いよいよ剥き出しの官僚専制が頭を持ち上げてくるかもしれず、しかもそれはファシズムに勢いを与え、それと手を携えたものとなりかねないからである。つまり、強行突破の体制が出来るかどうかが普天間基地問題でも鍵となるのであるが、それで作られる体制は全体的な強権体制として形成されざるをえないので、それを避けられるような人事の確立に失敗するとそちらの方に大きく傾いていく可能性が高いのである。今回ボイコットに走ったプロレタリアートの希望を集約するテーゼを持つ新しい階級的イニシアティブ、共産主義のイニシアティブが登場し、政治的社会的勢力として形成されなければ、この社会は急速に暗黒世界に向かって転げ落ちていくかもしれない。すでに数年前に小泉独裁をこの社会は受け入れてしまっているのだから。

 議会政党はすでに実質を失っており、システムとしての小選挙区制度によって政権を振り分けるだけの選挙儀式の俳優にすぎなくなりつつある。国政選挙は何年かに一度の欺瞞的儀式と化してしまっている。そのために、マスコミは選挙特番という祭りの実況中継、その演出に過剰に力を入れている。そうした場ではなく、別のところで大衆によって歴史は作られているが、それはカメラに映らない。しかし、そのことは疑えない真実だ。例えば、沖縄の人々がまったく本土のマスコミが注目しないようなところで新しい沖縄の歴史を作っていることがこの間の一連の過程で明らかにされた。名護市長選挙で辺野古移設を受け入れた前市長の未亡人が保守系の推進派を支持せず、反対派を支援するように変わるというような歴史的変化はカメラに写らないところで進んできた深い変化の反映でありその表出である。

 菅は、勝海舟がかつて神戸海軍伝習所に塾頭の坂本龍馬をはじめ脱藩浪人を多数抱えやがて幕府を倒すような人間を幕府の費用で賄っていたように、時代が求めている人材を育成・登用し、「適材適所」の人事をやり遂げられるだろうか。それには、すでにブレア流の「第三の道」推進では間に合わなくなってきていることをはっきり認識して、次の時代を切り開ける人を積極的にどこからでも登用できなければならない。しかし、時代はもっと急速に進んでしまって、それに間に合わないかもしれない。たぶん、こちらの可能性の方が高い。菅民主党は、早くも情勢を読み違えて消費税10%引き上げを掲げて選挙に惨敗したからである。何か読み違いをした時にはそれを素早く直すことが重要で、それをするには自負心だのプライドだの自意識だの競争心だのはたいていは邪魔なだけである。結局、物事は力どおりに決まっていくのである。「策士、策に溺れ」の喩えどおり、策に走ったところで一時的な攪乱が生じるだけである。それは実際には真に力があるのは何かを暴露する必然的で遅延的な過程でしかない。必然的な錯誤や誤解や否認や否定を通じてやや遅れて真実が露わになるのだ。ずれを通して真実がもたらされるのである。この過程を意識的に早くできればそれだけ無駄が少なくなるし失敗の危険性が少なくなる。菅にどれだけの力があるのかは間もなくはっきりするだろう。人の総合的力を見て、適切に評価して、登用、配置できないようではどうしようもない。

|

« 『モダニティの都市 パリ』(デヴィド・ハーヴェイ青土社) | トップページ | 日朝関係と戦後主体性論争 »

「雑文」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/57588/35765456

この記事へのトラックバック一覧です: 選挙結果と人事:

« 『モダニティの都市 パリ』(デヴィド・ハーヴェイ青土社) | トップページ | 日朝関係と戦後主体性論争 »