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『モダニティの都市 パリ』(デヴィド・ハーヴェイ青土社)

 以下は、とある勉強会でレクチャーした時のレジュメです。

『モダニティの都市 パリ』(デヴィド・ハーヴェイ青土社06年5月10日第1刷発行)

(メモ)

 序章「断絶としてのモダニティ」で、ハーヴェイは「モダニティをめぐる神話のひとつに、それが過去との根本的断絶を構成するものであるという神話がある」(P7)と述べている。しかし、それはなぜ神話なのだろうか? 「私はモダニティのこうした考え方を神話と呼ぶ。なぜなら、根本的断絶という観念は、それがおそらく起こらない、そして起こり得ないという豊富な証拠があるにもかかわらず、人々に浸透し、それを納得させる力を備えているからである」。そこで、彼は1848年2月革命から1871年パリ・コミューンまでのフランス、とりわけパリで次々と起きた変化を取り上げ、それを証明しようとする。そして、「資本とモダニティがある特定の場所と時間でいかにして調和するようになったのか、社会諸関係と政治的構想力がこの出会いによってどのような刺激を受けたのか、を再構成」していきます。
 この本では、最初の方法論が重要です。それから、ベンヤミンの『パサージュ論』がかなり影響を与えています。表象、イメージ、映像、記憶、記号、象徴、形、等々を通して、事件や都市、モダニティの歴史が解明されていきます。都市は人々の集合表象であり、政治的身体であるということを指摘し、それがどのように変化していったのか、あるいはそれをめぐる階級闘争のことが明らかにされています。そういえば、『共産主義運動年誌』十号に書いた「教育労働について」で、最後に「これ(教育をめぐる階級闘争)は確かに、イデオロギー闘争であり、象徴やイメージをめぐる階級階層間での闘争でもある…」と書いたが、この本の影響かもしれない。この本でハーヴェイが追求しているのは、1848年2月革命から1871年パリ・コミューン敗北までのパリでの空間的あるいは構造的階級闘争であり、闘争形態や闘争様式である。ハーヴェイは、空間配置をめぐる階級闘争をとらえ、それが金融資本的蓄積様式によって領導された過程であり、オスマンのパリ改造計画によって規模の大きさと空間配置の構造に対して、民衆の側の対抗的な空間配置がバリケードを典型とする形態から1871年にはコミューンという都市空間の制圧という形態へと至った過程までを示している。関連するのは、特に、『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』『フランスにおける内乱』、ベンヤミン『パサージュ論』、その一部が独立した『ボードレール論』、『歴史哲学テーゼ』などである。バルザック、フロベールなどの小説やドーミエなどの画家などがいろいろと出てきます。
 ちょっと調べたところでは、1871年以降のパリでは、オスマンなどが築いた市内を囲む城壁の撤去と再開発があった。第二次世界大戦の時にパリはナチス・ドイツによって占領されます。連合軍・パルチザンのパリ解放までを描いた『パリは燃えているか』という映画があります。パリは戦災を免れました。戦後は、郊外への工業地帯の移転と通勤列車の開発と郊外住宅地の建設、衛星都市の形成、移民街の形成などがあったようです。68年革命の舞台となったカルチェ・ラタンは有名です。もっとしっかり詳しく読みたいけれども今回はここまでです。

 『モダニティの都市 パリ』から

 1848年にヨーロッパ全域で、そしてとくにパリできわめて劇的なことが起こった。この日付の前後にパリで起こった政治経済、生活、文化の根本的断絶に対する議論は、少なくとも表面上はもっともらしく思われる。それ以前は、せいぜい中世的な都市インフラストラクチャーの抱える諸問題を修繕するだけの都市のヴィジョンしかなかった。それ以後、パリをむりやりモダニティに押し込めたオスマンがやってきた。アングルやダヴィッドなどの古典主義者やドラクロワのような色彩画家にたちに対するクールベの写実主義とマネの印象主義の登場。ロマン派の詩人と小説家たち(ラマルティーヌ、ユゴー、ミュセ、ジョルジュ・サンド)に対するフロベール、ボードレールの整然として希薄で磨かれた散文と詩の出現、さらに市街に散在していた独立手工業者の作業工程によって組織された製造業の多くが、機械的近代工業に取って代わられた。ユートピア主義とロマン主義に対する抜け目のない管理主義と科学的社会主義。それまで水運びは主要な職業であったが、1870年までに水道水が利用可能になったことでほとんどその姿を消してしまった。もっと多くのことを含めて、以上のあらゆる側面において、1848年は多くの新しいものが古いものからはっきりとその姿を現したひとつの決定的な契機であったように思われた。
 だが1848年のパリで正確には何が起こったのか? 国の至る所で飢え、失業、窮乏、不平不満が蔓延し、生活の糧を求めた民衆がパリに流れ込んだことで、問題の多くがパリに収斂することになった。王政と対決し、少なくともその改良を決意した共和主義者と社会主義者たちがおり、その結果、民主主義への最初の展望が実現した。また、起こらなかったとしても、革命の機が熟したと考えていた人々が実にいた。しかし、こうした状態は数年にわたって続いていた。1840年代のストライキ、街頭でのデモ行進、共謀の暴動の行き届いていた状態から判断しても、今回は別だと考えた人はわずかだったように思われる。

 1848年2月23日、キャプシーヌ大通りで外務省へ向かうデモに、軍隊が発砲し、50人余りを殺害した。国王ルイ・フィリップは、モレに代えて、ティエールを首相に任命した。「ティエールは王ルイ・フィリップにたいして、ヴェルサイユにすること、王に忠誠を誓う軍隊をすること、さらにもし必要ならば、パリの革命運動を鎮圧すること(後に1871年のパリ・コミューンに対して展開された戦術)を提案した」(p10)。
 ラマルティーヌ、ルイ・ブランを含む11名が臨時政府指導者になる。民衆はチュイルリー宮に侵入、掠奪を行う。4月末選挙、5月憲法制定議会、共和制を宣言、地方は右派、パリは左派が勝利。
 より重要なことは、急進的な組織が活発化する空間が創造された点である。政治クラブが組織され、労働者のアソシアシオンが誕生し、労働問題に最も関心を寄せてきた人々は、社会・政治対立を調整するためにリュクサンブール宮で定期的に会う公式の機会をその手中に納めた。これは「労働者のための政治委員会」として知られるようになった。国立作業場が失業者に仕事と賃金を提供するために設立された。これは熱心な議論を自由にできるようになった契機であり、フロベールは『感情教育』のなかでそれを見事に描いている。

  仕事が中止状態なので、不安と野次馬気分から誰もかも家にはいらなかった。かまわない服装のため、社会的地位の上下が目立ったが、憎悪はかくれ、希望のみあらわに輝き、ひとはみななごやかそうに見えた。権利を戦ってかちえたという自尊心が顔にかがやいていた。ちょうど謝肉祭の日のような陽気さ、露営でもしているような態度がうかがわれた。初期のこのパリの光景ほど興味深いものはなかった。・・・
  二人(フレデリックとデルマール)はクラブというクラブ、ほとんどすべてのそういう場所にいってみた。赤いの青いの、乱暴なものや静かなのや、真面目なのやだらしないの、わけのわからないの、酔っ払いみたいなの、諸国王の死刑を要求するのや食料品商の詐欺行為を非難するの、いたるところで、借家借地人は家主地主を呪い、仕事着の連中は燕尾服を攻撃し、富裕者は貧しい者たちに対して共謀しているありさまだった。ある者は警察の迫害をうけたといって賠償を要求し、また他の者は発明を実行にうつすための補助金をしきりに求めている。でなければフーリエ主義プランや群設市場の計画とか、公益施設の諸制度といったことの説明だ。

  そして、そういう愚にもつかなぬおしゃべりの合間合間をちょいちょい気のきいた半畳が稲妻みたいにひらめき、泥っぱねを上げるようなだしぬけの叫び声が起こり、口汚い罵りで権利が説かれ、シャツも着ぬ胸にサーベルの吊り帯をかけたやくざ男の口に雄弁の花が咲く。・・・誰もかも、分別のあることを気取ってかならず弁護士を糞みそにいい、《建物におのれの一石を運ぶ、社会問題、仕事場》などといった決まり文句をできるかぎり使わねばならないのだ(p12)。

 グドラ
 「男たちは飢え、希望もなく、リーダーもなく、励ましもなく、敷石で築いたバリケードの背後で黙り込んで銃を撃ちながら闘っていた。4日間、パリはくすんだ光に照らされていた。バリケードに発砲が行われ、煙にくすむ町に大きな騒擾が勃発した。女性も容赦なく撃たれ、ぼんやりとした日曜日にはバリケードと停戦交渉をしていた将軍が残念なことに虐殺された。仲裁役として最高の態度を示していたパリ大司教も、夕暮れは交渉のために出かけていき撃たれて死んだ。それは恐怖の時代であり、この夏の4日間でパリは闘争によってひどく苦しめられた。そして反乱が終結し、共和派が生き残った」(p13)。

  1853年オスマンをセーヌ県知事に任命

 イットルフは7月王政下でパリ改造に従事した主要な建築家のひとりであった。凱旋門とブルゴーニュの森をつなぐ新たな道路は長く議論されてきており、イットルフはそのための計画を作成した。その通りはこれまでの標準と比べてかなり道幅の広い120フィート幅になる予定だった。1853年、イットルフはオスマンに会った。オスマンは360フィート幅の通りで対面する建築物の間が1440フィートとなるよう主張した。こうして彼は計画の規模を三倍にしたのだ。別の示唆的な事例を考えてみよう。中央市場〔レ・アール〕を通じたパリへの食糧供給は、長い間不効率かつ不適切であると考えられてきた。7月王政期にはそれは熱い論争の主題となった。前セーヌ県知事がベルジェは、大統領ルイ・ナポレオンからの命令で、その再設計を優先した。図7は古いシステム(既に解体された)を示しており、商人たちは張り出した家の軒下に商品を積み上げていた。ルイ・ナポレオンは1852年、バルタールの新しい建物(「中央市場の要塞」としてこの通りで知られていた)の作業を、全く受け入れることのできない計画だとして中断させた。1853年、「私たちは鉄でできた傘がほしいと」とオスマンは罰をうけたバルタールに語り、結局、オスマンがいくつかのハイブリッドなデザインを拒絶した後(それゆえにバルタールの強い怒りを生み出した)ようやくバルタールはオスマンにその傘を与えた。その結果は長い間モダニストの古典として見なされた建物である(図9)。『回顧録』のなかで、オスマンは自分がバルタールの名声を救ったことを示唆している(ルイ・ナポレオンが、1852年にはひどいものを製作した建築家がどうして2年後にそんな天才的な作品を創り出すことができたのか、と問うたとき、オスマンは慎みなく「知事が違っています」と答えた)。(p18)

 激しい変動の諸局面で、都市をいかに見るか、そして表象するか、というこの問題は、人をたじろがせる挑戦である。(p25)

 私にせいぜいできることは、第二帝政期のパリがどのように動いていたのか、資本とモダニティがある特定の場所と時間でいかにして調和するようになったのか、社会諸関係と政治的構想力がこの出会いによってどのような刺激を受けたのか、を再構成することである(27~8ページ)。

…パサージュ論の魅力は私にとって、ありとあらゆる二次資料から莫大な情報の配列を収奪し、破片や断片(彼はそれは歴史の「破片」と呼ぶ)を割り当てる方法にあり、あたかもそうした断片は、パリがいかに動き、いかにして近代的なもの(技術と感覚の両方)の誕生の中心地となったのか、を示す巨大な万華鏡の一部を構成しているかのようである。彼は明らかに大きな構想を操っていたが、その仕事は未完(おそらく完了できない)で、その包括的な姿(もしそれがひとつの形を持つことを意図されていたとしたら)はとらえどころのないままである。しかしショースキーと同時にベンヤミンは(アンリ・ルフェーブルのような他のマルクス主義者と同様に)、我々はただ物質的世界に住んでいるのみならず、我々の想像力、夢、想念、表象は強力にその物質性を媒介していると主張する。彼はスペクタクル、表象、幻想に魅了されている(p28)。

 ベンヤミンの読者にとって問題は、その諸断片をパリの全体性との関係でいかに理解するかにある。両者は調和せず、そのままにしておくのが最良だという人ももちろんいるだろう。主題を相互に重ね合わせること(ベンヤミンのパサージュあるいは資本流通と蓄積、階級関係の浸透に対する私自身の関係)は、体験への暴力であるのでまずは拒絶されねばならない。私は、それに満足するよりも、過程と物の内的関係をより信じている。私はこれらの結合と関係が何であるのかを表象し伝達する我々の能力を深く信じている。だが私は、抽象化とともに生じる暴力と、複雑な関係を単純な因果の連鎖として、さらに悪くすると機械的過程によって決定されたものとして解釈する危険がつねにあること、を認識しているし、いかなる理論家もそれを認識しなければならない、弁証法的かつ関係論的な歴史・地理的探求の様式に依拠することは、そうした罠を逃れる手助けとなる(28ページ)。

 だが、私がここで試みるような総合の仕事は、必ずそれ自身の契約規則を構築しなければならない。他人の言説の推敲の休みなき脱構築という点にとどまることはできず、社会生活と歴史=地理的探求を形成する際の複数の言説および知覚の重要性とその力を認識しながら、社会過程の物質性を強調しなければならない。このため、私が数年にわたって展開してきた(そして1985年に出版された最初のパリ研究が重要な貢献をした)歴史・地理的唯物論の方法論は、特定の場所と時間における都市変化の動態を理解する強力な手段を提供する(p29)。

 『老婆』でバルザックが観察したのは、近代の神話が、それほどよく理解されてはいないものの、古代から引っ張ってきた神話よりも力強いということである。その力は、起源についての驚くべき物語や人間の情熱や欲望をめぐる伝説的な論争としてよりも、むしろ日常の経験から引き出される、疑う余地もない現実としてイメージを宿す、その方法からもたらされる(p33)。

 …バルザックの究極的な功績は、市民社会の発生の場wonbのなかに偏在する社会動力を細かく調べ再現=表象したことにある。都市および都市を満たすモダニティの神話の双方を脱=神話化することによって、彼は新たな視角を開いたのである。それは都市なるものが何であるのかだけでなく、どういう根拠でそれが可能となるのかということにもかかわる。同じように重大なことは、彼が彼自身の表象の心理学的基盤について明らかにし、都市の古文書館の死せる記録からは失われた(とりわけブルジョワジーにおける)欲望の不透明な働きについて考察を行ったことである。都市なるものといかに近代自体が構成されていたかということの弁証法が、これによって暴露される(p36)。

  バルザックは、おのれの世界の神話的構成を確かなものにするために、その場の説く的の批評的輪郭づけをもってした。パリこそが彼の神話を育てる土壌である―つまり、ドルバック描くところの、あの二人ないし三人の銀行家(ニュシンゲン、デュティエ)や偉大な医者オラース・ピアンションや企業家セザール・ピロトーや四、五人の偉大な高級娼婦たち、高利貸ゴプセック、二、三人の弁護士と軍人たちのいるパリこそが、そうした土壌なのである。だがなんといっても、この一群の人物たちが登場するのは、いつもきまって同じ街路や街角、狭い部屋やその一隅においてである。このことは、地誌こそがあらゆる神話的な伝統空間の概観、いやそれどころかそれをとく鍵となりえるという以外の何を意味しよう。―ワルター・ベンヤミン(p33)

 「秩序ある社会の唯一の堅固な基盤は、それが不動産であろうと資本であろうと私有財産によって担保される貴族社会による適切な権力行使次第であった」とバルザックは書いた。不動産と資本の区別は重要である。それは土地に関わる財産と貨幣の力の間の時に避けがたい衝突を示唆する。バルザックのユートピア思想は、最も典型的に前者に関心を注ぐものものである。文芸評論家のフレドリック・ジェイムソンが、バルザックの攪拌的な世界の「不動の一点still poison」と呼ぶものは、「ユートピア主義的な願望充足の実現可能な形としての土地所有という穏やかで暖かい幻想」に集中している。「パリの競争的な活力、また大都市における商売上のいざこざの競争的な活力から解放された平和」が、ここにあるのであり、「具体的な社会史の、ある実在する遠隔地backwaterの中にあっていまだに想像することが可能なのである。(p37)

  花崗岩をきずき、木材を張りめぐらして一軒の粗末な家があった。あたりの風景とぴったりの屋根には、苔、きずた、野花などがはびこって、その蒼然たるふるさを語っている。鳥もおじないほどのそのほそい煙が、こわれた煙突からかすかに立ちのぼっている。テロには赤い花をつけた、せいのたかい日本のすいかずらのあいだには、大きな腰掛けがおいてある。のびほうだいにはびこったふどうの枝、ばらの花、ジャスミンの茶などにおおわれて壁はほとんど見えない。このひなびた装飾を意にも介しないこの家の主人は、いきいきと目もさめるような自然に、いっさいをまかせっきりで、手入れなどしたことがないのだ。
住人はまさに牧歌的である。

 犬のなき声をききつけて、外に出てきた男の子は、口をあけたままつったっている。それにつづいて、白髪の老人があらわれた。ふたりの人間は、この景色や、空気や、花や、家と相通じるものをもっていた。というのは、この潤沢な自然にも健康がみながいっていたし、老人や若い人もまたここでは一様に美しかったからである。しかも、こういう種類の人物には、原始人ののんきさというか、習性的な幸福感というか、われわれの偽善の心をかき消し、思いあがった情熱をやわらげてくれるものがあるのだ。(p38)―『農民』

  この種のユートピア主義的な考え方は、それに対してあらゆるものが判断されるひとつのひな型として機能する。(p38)

…バルザックの作品に登場するおびただしい人物たちは、(バルザック自身がそうしたように)田舎的な生活様式から大都市的な生活様式への多難な移行を経験する。

  『ゴリオ爺さん』のラスティニャックはうまくやるが、『セザール・ピロトー』の司祭はうまくできない。『幻滅』と『娼婦の栄光と悲惨』のリュシアンは自殺する。『ふくろう党』の舞台のブルゴーニュやアンクレームは遠い。

 農民と貴族の間の闘争は、熾烈さを増していた。行為の事実上の主役は、高利貸し的実践、独占的支配、法的ごまかし、そして(日和見主義的な縁組みによって強固となった)相互依存と戦略的同盟の相を複雑に織りなすことによって、がむしゃらに資本の蓄積に勤しむ地方の活動家、商人、医者、またその他の者たちといった種々雑多な一団である。(p42)

  観察眼の鋭い農民
  あんたたちの権利を保つために、エーグの人たちを驚かすのはけっこうさ。だが谷のブルジョワが望んでいるように、エーグの人たちをここから追い出して、そして否応なしに土地を売らせるというのは、それをすることは我々の利益に反する。広大な土地の分割を手伝ったとなると、来るべき革命のなかで国有地という国有地はどこからやってくるというんだい。リグーの爺さんがやったように、そのときは無料で土地を手に入れることだろう。だけど、ブルジョワが一度土地に噛み付いたとなると、あいつらはそれをもっと小さく高価な小片へと細分化してしまうはずだ。あんたたちはあいつらのために働くようになるんだよ。リグーのために働いている多くの連中みたいに。クルートキュイスを見てみろよ!(p44)―『農民』

  いかなる感情も事物の奔流にさからえない。事物の流れは情念を弛緩させるような闘争に人をおとしいれ、恋愛はそこでは情欲であり、憎悪は単にその場の思いつきに過ぎない、―サロンであれ、街路であれ、誰もよけいなものではないかわりに、さりとて絶対に有用ないし有害だというものでもない。…政府もギロチンも学校もコレラも、いっさいが差別なく甘受される。諸君はつねにこの世界に適応できるが、さりとて諸君がいないからとて決して問題にはならない。

 ペラン・ガスラン街は…迷宮の小路のひとつで、パリの腸みたいな所である、そこには、数限りないいろいろな品物、例えば鰊とモスリン(寒冷紗)、絹と蜂蜜、バターとチュール(細目織)といった、くさいにおいのするものとしゃれた装飾に使う品とが、ごちゃまぜにうごめいていた。とりわけ、いろいろな細々とした商売、ちょうど、大部分の人間が自分の脾臓のなかで起こっていることを知らないのと同じおうに、パリがおのれのうちで行われてもいっこうに気がつかない、そうした多くの小さな商売が行われていた(p47)―『セザール・ピロドー』

 このパリがいかに立ち働いているかを摘出し、表層的な外観や気が狂ったような混乱状態や万華鏡のような変化の下や裏を暴き、迷路を突き抜けるためには、「身体を切り開きその中にある魂を見つけ出さねば」ならない。しかし、その核心にあるのは、ブルジョワ生活の空虚さがあまりにもはっきりし過ぎているということである。(p47)

…支配しているのはあらゆる種類の投機なのである。(p47)―『ウジェニー・グランデ』

 もしパリが怪物であるとするならば、これはまさしく怪物中の部類の酔狂な怪物である。それはありとあらゆる思いつきにうつつをぬかす。あるときは普請好きの領主のように建てるは建てるは。…やがて、がっくり、破産の憂き目で家具の売り立てして、身代限りということになるのだが、はやくも四、五日後には片もつけたが、どんちゃん騒ぎで、踊っている。日ごとの酔狂と同じ具合に、日毎、季節毎、年毎にも、またそれぞれの酔狂が出る。さてその頃は、誰の杓子も、何かしら、まず正体も知れぬものを、建てては壊し、壊しては建てていた。(p48)

 あのひとはさら地を自分の名前で買い、それから投機名義人の名前で、そこに家屋を建てさせるの、その連中は、ありとあらゆる請負業者たちと、その建築のために契約を結び、長期の手形で支払いをするよう決めるのだけれど、その一方で、ほんのわずかな金額で主人に譲渡証明を出し、そこでうちのひとが一家屋の所有者になるの。そうしてその連中は、破産して、だまされた業者たちの再建をふいにしてまうのだ。(p48)―『ゴリオ爺さん』

 虚栄心によって消費されたすべての階級に必要なのは、過度の興奮である。政治は道徳におとらず、恐ろしいまでに、これらの必要を満たすため収入はどこからやってくるのかと、自らに尋ねなければならなかった。大蔵省の一時借入金を見るとき、また、それ自体国家をモデルとした各世帯の一時借入金に精通するようになるとき、人はフランスの半分がもう半分に借金があるのを見てショックを受ける。精算時、債務者は債権者からはるかに隔てられていることだろう…。このことはおそらく、いわゆる工業の時代の終焉の兆候となるだろう…。富裕なブルジョワジーが貴族階級以上に切るべき首を有していた。彼らが銃をもっていれば、彼等は貶めた連中の中にその敵を見出すことだろう。

 1848年、この事実があまりにも明らかとなる。(p50)

 表層的な外観が、金や権力や快楽のための苛酷な闘争のなかでの個々人間のバラバラで混沌とした競争であるとはいえ、バルザックはこの見かけ上混沌とした世界の背後に、階級勢力の布置状況と衝突の産物としてパリを理解すべく洞察していた。『金色の目の娘』の中で、彼はこの階級構造を描くべく見事なまでにメタファーを織り交ぜてみせた。(p50)

階級構造

底辺層:プロレタリアート、「無産階級」。労働者とは、「体力の限界を越え、女房にもなにかの機械を曳かせ、子供もこきつかって歯車に釘づけにする人である」(p52)

第2の層:「卸問屋とその店員、平役人、小銀行の謹厳実直な行員、詐欺師と盲従者、ピンからキリまでの手代番頭、執達吏や代訴人や公証人の見習い。要するに、パリを食いものにし、その嗜好に目をひかせ、活動し、思考し、投機する小市民階級の構成分子」(p52)

第3の層。「都市の利害が整理されて、取引といわれる形に消火され圧搾されるパリの胃袋である。代訴人や医者や弁護士や事業家や貿易業者、上層の中間階級」

この上に芸術家の世界(バルザック)(p53)

 しかしながら、われわれはパリの厖大な資産がふんまえているこの四つの地盤をはなれれるまえに、上述の精神的要因についで物質的原因を追及しなければならないのではないだろうか?…平気な顔でそれを放置しているパリ市当局の腐敗と同じくくされきった有害な作用を指摘すべきではないだろうか? 大多数の市民の住んでいる家の空気が悪臭を放ち、その大気が店の大気が店の裏部屋にひどい臭気をはき出して、息もできないありさまであろうとも、まだこうした非衛生のほかに、この大都市の四方の家々がごみくずの山のなかに足をつっこんでいることを知るべきである。…パリのなかばは、塵と町並みと便所の発散する身体のなかに横たわっている。(p53)

 オスマンが20年以上後に取り組むべく召還されることとなった生活環境とはこうしたものであった。中流階級の労働条件は少しも良くなかった。(p54)

 バルザックの遊歩者は、審美眼のある人以上で、さすらう観察者のそれである。彼はまた断固として、社会関係の神秘と都市の神秘を解明しようとし、フェティッシュなるものを見抜こうとしていた。(p78)

 バルザックの遊歩者は、都市の地勢を地図化し、その生活の質を想起させる。都市はそれによって、非常に特徴的な仕方で我々に判読可能なものとなるのである。(p79)

…バルザックは、ブルジョワ的価値の内的な聖域へ侵入していくことで、資本主義的近代の神話の多くを書きだす。彼は建造環境のミニチュアであってもそれを通して、社会関係が表現されるその仕方、また社会関係の中でいかにして都市の内蔵的な物的質が介在しているかを吟味した。(p80)

 バルザックのモナド的な思考をブルジョワ的宇宙の同心円的な鏡として投影する彼の才能を適切に言い換え利用すれば、我々はいつか、ブルジョワジーの歴史全体について語ることになるはずである。彼等は彼らの思想とともに世界―彼らが形作り、彼らが築き上げ、彼らが侵入し、彼らが理解する、あるいは、彼らがそれを理解すると考える―を封印する。dが、突然彼らは一人で目覚め、暗い光の深さの真只中で彼ら自身を見出すのだ。(p81)

 この苦悩に満ちた歴史の無言の響きを、いまだに聞くことができる。例えば、1971年2月に、警官に追われたデモ参加者たちがサクレ=クール寺院に逃げ込んだ。その参加者たちは、聖堂の守りをしっかり固めて、「かくも長きにわたってパリの上に建てられた」教会を占拠することで、急進派の仲間たちに自分たちに加わるように訴えた。放火魔の神話がかつてのパリの拠り所から直ちに解き放たれて、明らかにパニックに陥った牧師は、大火を防ぐためサクレ=クール寺院に警察を呼んだ。「アカ」は、きわめて残忍な光景のなかでそこから追い払われた。パリ・コミューンで命を失った人々を記念して、活動的な芸術家であったピニョン・エルンシストは、5月に亡くなったパリ・コミューン支持者たちのイメージを担った経かたびらで、サクレ=クール寺院の下にある階段を被った。こうしてパリ・コミューンの百年祭はその場所で祝福された。あの出来事の結果として、1976年に寺院内部で爆弾が爆発し、ドームのひとつにかなりの損傷を与えた。その日、ペール・ラシェーズ墓地を訪れた人は、オーギュスト・ブランキの墓に一本の赤いバラが置かれていたのを見たと言われている。
 ロオ・ド・フルーリは「(他人が)墓を掘ろうと思った場所にゆりかごを置く」ことをわざわざ望んだ。しかし訪問者はサクレ=クール寺院の霊廟のような構造を目にして、そこに何が葬られているかを不思議に思うだろう。1798年の精神か? フランスの数々の罪か?  妥協知らずのカトリック教と反動的王党主義者の協同か? ルマントとクレマン・トマのような殉教者の血か? あるいはウジェーヌ・ヴァルランの血か? それとも彼とともに情け容赦なく処刑された2万人余のパリコミューン活動家たちか? 

  その建物は不気味な沈黙のなかにその秘密を隠している。この場所を飾り立てることに賛成あるいは反対して闘った人たちの諸原則を理解する生者だけが、この歴史に気づき、そこに埋葬されたさまざまな神秘を真に掘り起こして、墓所の死のような状態からあの豊かな経験を救い出し、それをゆりかごの騒々しい始まりへと変えることができるのである。(p430)

関連年表(『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(岩波文庫)より作成)

フランス大革命(1789―1799)
ナポレオン時代(1798―1815)
復古王政(1815―1830)
7月王政(1830―1848)
1830・8・7 オルレアン家のルイ・フィリップ王位につく。金融ブルジョアジーの支配。1847、経済恐慌。選挙法改の運動激化す(改革宴会)。1848・2・23、二月革命の勃発。
第二共和制(1848―1851)
1848・2・24 武装市民、市の中心部を支配。ルイ・フィリップ王位を孫のパリ伯アンリ(10歳)にゆずり亡命。議会、オルレアン公妃の摂政を公認するが、議院に侵入した武装市民によって強制されオルレアン家の廃位と臨時政府の成立を宣言。
第Ⅰ期臨時政府(1848・2・24―5・4)
2・25     共和制の宣言。労働の権利の宣言。
2・26     遊撃警備隊の結成。
2・27     国営仕事場の設立を布告。
2・28     労働問題調査委員会(いわゆるリュクサンブール委員会)設けられる。
3・2      十時間労働制の採用を布告。
3・5      普通選挙制の布告。
3・8      民営軍入隊にたいする財産上の資格制限を廃止。ブルジョア民衛軍の臨時政府反対デモ。
3・17     前日のデモにたいする労働者の反対デモ。
4・16     練兵場における労働者のデモ、失敗におわる。
4・23     憲法制定国民議会選挙。
第Ⅱ期憲法制定国民議会の時期(1848・5・4―1849・5・28)
5・4     憲法制定国民議会の開会。
5・10     執行委員会の選出。執行委員会は各省大臣を任命(陸相カヴェニャック)。
5・15     労働者の武装デモ、国民議会の解散を要求、一時市庁を占拠するが民衛軍によって鎮圧さる。議会ではブルジョア共和派(ナシオナルの壁)、山岳党、秩序党の三党派が形成さる。
6・21     国営仕事場の廃止の布告。
6・23     労働者の武装反乱はじまる、いわゆる6月事変。憲法議会はただちに戒厳令をしき、陸相カヴェニャックに執行権の全権をあたえる。4日間の大作戦ののち労働者反乱鎮圧さる。
6・28     カヴェニャック行政長官となり新内閣をつくる(執行委員会は解散)。国営仕事場の廃止。言論結社の弾圧。
9・17     補欠選挙。ルイ・ボナパルト5県で選出さる。
10・23    閣議でローマ出兵を決定。
12・29    憲法制定国民議会解散の動議(ラトーの提案)。
1849年
1・27     山岳党と社会主義者の和解がなり、社会民主党が成立。
1・29     議会、シャンガルニエの軍事的威嚇のもとにラトーの提案を可決。政府は誘導警備隊を解散。
3・21     集会取締法(1月26日の提案)の成立。
4・14     フランス軍ローマへ出発(4・16、議会はローマ遠征軍の費用を承認)。
4・30     フランス軍、ローマを攻略して、撃退さる。
5・8     議会はローマ出兵を公表された目的にもどすよう内閣に要請。夜、ボナパルトのウディノーあての手紙の公表。
5・11     ルドリュ=ロランのボナパルト問責案が否決される。
5・13     立法国民議会の解散。
第Ⅱ期立法国民議会の時期(1849・5・28―1851・12・2)
5・28   立法国民議会招集。
5・下旬  2万の増援軍をローマへ急派。
6・11   ルドリュ・ロラン、内閣を問責(12日、問責案否決さる)。
6・13   民主主義的小ブルジョアのデモ。シャンガルニエによって粉砕。民主派の新聞の禁止、戒厳令、秩序党の独裁の完成。
6・15   民主派の代議士40名の失脚、ルドリュ・ロランの逃亡。
6・19   政治クラブ弾圧の新しい法律。
7・3    フランス軍ローマ入城。
8・12   国民議会休会(10月10日まで)。
8・18   ボナパルトのネイあての手紙。
8―9月  ボナパルトの地方巡遊。
10・15   ユゴー、ネイあての手紙を擁護す。
11・1   バロー内閣の解任、ドープール内閣の任命。
11・14   フールドの財政演説、ぶどう酒税の存続を言明。
1850年
1・14   新教育法(ファルー法)提案(3月15日に可決)。
3・10   補欠選挙、ヴィダル、ドフロットなどの当選。
4・28   ヴィダルにかわってユージェーヌ・シューを選出。
5・8    新選挙法の提案。
5・31   新選挙法の成立によって、普通選挙権の廃止。
8・11   国民議会の休会(11月11日まで)。
8・26   ルイ・フィリップの死。王党派陰謀の再燃。
8月    ルイ・ボナパルトの地方巡遊。
10・3    ボナパルト、サン・モールで軍隊を饗応。
10・10   ボナパルト、サトリーで軍隊を饗応。
12月    モーガン事件。
12・20   デュプラ、金地金くじについて質問。
1851年
1・10    ボナパルト、新内閣を任命。
1・12    シャンガルニエを解職。
1・18    内閣の不信任投票(415票対286票で可決)。
1・20    内閣総辞職、いわゆる過渡期内閣の任命。
4・11    ボナパルト、1月18日の内閣を復活する。
7・19    憲法改正否決さる(賛成446票、反対278票)。
8・10    議会休会(11月4日まで)。
8・25    議会の開会、憲法改正を支持。
10・10    ボナパルトは普通選挙権復活の決意を大臣につげる。
10・26    トリニー内閣の成立、警視総監にモーバを任命。
11・4    ボナパルト、議会に普通選挙権の復活を要求。
11・13    議会はボナパルトの要求を否決。
11・17    監査委員法案提出(否決さる)。
11・25    ボナパルトのクーデター。主な議員の逮捕拘禁。議会の解散。普通選挙権の復  活、戒厳令の布告。
12・3    ユゴーら一部共和派議員の抵抗。場末に若干のバリケードきずかる。
12・4    軍隊によりすべての反抗運動の鎮圧。モンマルトル大通りの大虐殺。
12・19頃 マルクス、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』に着手。
12・20    ボナパルト、国民投票に新政権の承認を問い全投票809万票のうち92%を獲得。
第二帝政(1852―1870)
1852・1・15 新憲法公布。
11・21、   帝政復活を問う国民投票(帝政賛成98%)。
12・2     ボナパルト皇帝となりナポレオン3世と号す。
1870・9・4 ナポレオン3世プロシア軍の捕虜となり帝政崩壊す。
第三共和制(1871―1940)
1871・2・13 国民議会成立。
3・18   パリ・コミューン(5月28日まで)。 

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