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2010年9月

尖閣諸島沖での中国漁船と海上保安庁巡視艇衝突事件によせて

 尖閣諸島付近での海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件以来、日中関係が緊張している。

 こうした事件が起きて、双方にナショナルな感情が噴出するのは毎度のことであるが、それを双方の政府が自己のために利用し合うというのも昔から変わらないやり方である。日中双方とも、尖閣諸島は自国の固有の領土だと主張しあっている。この場合、どの時点での自国なのかということも問題になる。台湾もまたこの島を自国の固有の領土と主張している。それから、「固有の」とは何を意味するのか。そして「領土」という概念はどのように定義されているのか。

 尖閣諸島は、琉球国の朝貢貿易の航路の途上にあたっており、当然、琉球の人々には古くから知られていた。そして、沖縄のこの間の反ヤマト感情の高揚があり、独立をも含むような自立志向の強まりの中で、琉球処分(薩摩、日本政府への強制併合)を不当とする意識が広まっているために、尖閣諸島の帰属問題はこれまでとは違った意味を帯びつつある。尖閣諸島は、石垣市の地籍を持っている。沖縄の民族自決権の行使という事態がかつてよりも現実味が強まっている中で、沖縄県石垣市に属するとされた尖閣諸島とその周辺の海洋資源に対する問題は流動的で錯綜した様相を呈して来ているのである。沖縄の意志を無視して日中の大国政府が互いに固有の領土と主張し合うのではすまされないのだ。大国間の駆け引きによって、こうした問題が動かされている現在の国際政治の在り方、政治の在り方が問われているのである。尖閣諸島問題の真の当事者なのか? ヤマトの人間が自分たちだと未だに信じ込んでいていいのか? もはや、それでは時代に間に合わないし、そうした保守的な認識を改められなければ時代に追いつけない。それなのに、前原外務大臣も中国政府も古いステレオタイプを繰り返している。まるで時代劇を観させられているみたいだ。

 これは、かつて、明治政府が、アイヌモシリを自己の領土とした時に主張した無主の地を取得したというのは違う。これは、落とし物を拾った者が持ち主が一定期間現れなかったので、自分のものにする権利である占有取得権の行使といったものであった。この時は、アイヌがこの地の主権を持つ者として国際的に認められなかったために、明治政府の行為は国際的に認められてしまったのである。それはひどい話だ。尖閣列島の場合は、つい最近までこの島の領有権問題など、どの国も本気で争ったりしなかった。中国の経済成長、生産力の拡大にともなう海外への行動圏の拡大志向の強まり、海軍力強化、海底資源への関心の増大、海洋資源開発技術の向上などによって、尖閣諸島の領有権問題が大きな意味を帯びてきたのである。それは、尖閣諸島周辺の海洋油田の存在の発見があった70年代以降強まってきたものである。

 日本の場合、ほとんど海外への輸出主導・資源輸入大国の道を歩んできたので、大金を投入してまで尖閣諸島周辺の海洋資源を掘り出すことにどれくらい利益があるのかは疑問である。恐らく、一人当たりGDPで意実質的に世界2位に躍り上がっている中国からしても、コストに見合うだけの利益をこの開発から得られるかどうかは疑問である。むしろ、中東石油資源をイラク戦争以来、アメリカ資本が握っていることに対する安保上の考慮が強く働いているのではないだろうか。急成長中の中国経済にとって大量の資源を確保する必要性が増え続けているのは確かである。円高が進行する日本で、資源の輸入に困るというようなことは純経済的には考えにくい。

 ここで明らかになったのは、暴力と政治の関係において、暴力は絶対的には政治を規定するものではないということだ。漁船拿捕という暴力(実力行使)は、日中関係を揺り動かしはしたが、しかし、それは実力行使した側に必ず決定的な政治的な利益をもたらすものではないということである。暴力にも正義などの社会的基準があって、暴力一般の正当性なるものを立てることは不条理であり、その逆もまた不条理である。問題はその社会的連関であって、正当性があるかどうかは社会的判断によって決まるのである。中国政府であろうと日本政府であろうと、その下の大衆の社会的判断が、この行為を不当と認定すれば、その圧力と判断にはいずれ従わざるを得ないことになるのだ。それは歴史を遡って後から判定が下されるとしてもそうして誤った判断は歴史的に訂正されるのである。歴史的社会的に正当化される暴力の一つは、真に被抑圧者が抑圧者に対してどうしても行使せざるを得ない場合の解放のための暴力であることは、歴史を知る者なら誰でもすぐにわかることである。この間、日中間で行使された実力行使はそうしたものではない。弱者に対して一方的に行使される暴力は不当である。そのような暴力の不当性に応じて、社会的判断からする社会的制裁が行使されるのは当然である。そして贖罪ということもある。正当性のない暴力行使は、暴力を行使した側にとって致命的なダメージとなる。たとえそのダメージが遅れて効果が現れるにしても。

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難民関係記事3つ

 難民関係の記事である。スウェーデンの総選挙で、初めて、反イスラムを掲げる右派政党が初めて議席を確保した。次はその背景について、キリスト教徒のイラク難民側から描いている記事である。産経的なバイアスがかかっていると見る必要のある記事である。

 最後の記事は、アメリカとイスラエルの同盟関係の深さを示す記事だが、ふざけるな! と言いたくなる話だ。パレスチナは一体誰のものか!

 

スウェーデン総選挙:与党連合勝利も過半数に届かず-反移民勢力台頭(9月20日ブルームバーグ)

 19日に投票が行われたスウェーデンの総選挙では、ラインフェルト首相率いる穏健党など与党4党連合が勝利し、同首相は政権続投を決めたものの、過半数議席の獲得はならなかった。移民に反対する民主党が初めて議席を獲得したことが背景にある。

 選挙管理当局によると、開票率99%超の段階で、与党連合の得票率は49.3%。野党連合は43.6%だった。

 スウェーデンの公共放送、スウェーデン・テレビ(SVT)によると、与党連合は2006年の総選挙から6議席を失い、議席数は349議席中172議席となる見込み。野党連合は14議席減の157議席となるもよう。SVTのまとめによると、移民の最大90%削減を求めている民主党は、20議席を獲得。投票率は82.1%だった。

 

【イラク難民の今】スウェーデン 送還恐れるキリスト教徒(2010.9.21産経)

 2003年のイラク戦争とその後の混乱の中で起きた激しい宗派抗争を逃れたイラク難民が数多く暮らす市がスウェーデンにある。首都のストックホルムから列車で約40分のセーデルテリエ市(人口6万人)。難民が市の人口の1割を超え、その多くは少数派のキリスト教徒だ。だが、欧州各国の趨(すう)勢(せい)は「イラクの治安は回復した」として、難民の本国送還に向かいつつあり、イスラム過激派のテロを恐れる人々が送還を逃れるために次々と姿を隠している。

 イラクで弁護士をしていたというテルー・ガリさん(66)はつえをついてセーデルテリエ駅に現れた。1960年代に英海軍兵学校に留学し、イラクでは軍歴もある。いったん米国に移住したが、湾岸戦争後に帰国。2000年、サダム・フセイン大統領(当時)の弾圧強化を恐れて再び脱出した。

 「イラク戦争後、キリスト教の米英がイスラム教に戦争を仕掛けたと過激派が宣伝し、イラクのキリスト教徒も敵視され、テロの標的となった。20余りのキリスト教会が爆破された」と語る。

  イラク空軍で輸送機や爆撃機の乗務員をしていた。ガリさんの息子(41)はフセイン政権崩壊後、駐留米軍のトラック運転手をしていたためイスラム過激派に狙われ、シリアに逃れた。07年に妻と子供2人を連れてスウェーデンに密入国したが、翌年、難民申請を却下され、数カ月前、家族と姿を隠した。本国送還を逃れるためだ。

 ガリさんは「イラク難民を支援してきたキリスト教会は申請を却下された人に『列車やバスに乗るな。街頭に出るな』と助言している。警察に見つかると本国に強制送還されるからだ」と表情を曇らせた。

 今年に入って同市の学校からイラク人の子供50~100人が姿を消した。大人も含めると計400~500人が、どこかで息を潜めて暮らしている。

 07年には欧州全体の42%にあたる1万8559人のイラク人がスウェーデンに難民申請を行い、その80%が認定された。セーデルテリエ市のイラク難民は現在、計7千人に達している。

 08年4月、同市のラゴ市長は米議会に呼ばれて証言し、「難民を拒絶するわけではないが、市の限界を超えている」と訴えた。当時、上院議員だったオバマ大統領は市長と会談し、米国がテロを警戒して年間700人程度しか受け入れていなかったことに「恥ずかしい」と語った。米国はその後、駐留米軍に協力した人を中心に年間1万人以上を受け入れるようになった。

 スウェーデンは、欧州連合(EU)にもイラク難民の受け入れ拡大を求めたが、各国の反応は冷たかった。スウェーデン政府は難民が集中するのを避けるため、寛容政策を転換。移民控訴裁判所が「イラクの治安は回復し、難民認定には各個人の証明が必要」と判断したことを受け、08年2月、イラク人の帰国を進めることでイラク政府と合意した。昨年の難民認定は申請者の26%にとどまり、今年は7月までに390人が送還された。

 イラク難民の認定を厳しくしたのはスウェーデンだけではない。英国も05年にイラクと覚書を交わし、認定の門は格段に狭くなった。デンマーク当局は昨年8月、本国送還を拒否するイラク人が隠れるキリスト教会を急襲して17人を逮捕。ノルウェーは今年、185人を本国送還した。

 セーデルテリエ市で難民を対象にコンピューター教室を開くドゥレイド・ベヘナムさん(36)はシャツをまくり、右腕の銃創を示した。「イラクのアルカーイダ組織が職場に押し入り、機関銃で撃ち抜かれた。4年前に2万ドル(約170万円)を払って密入国業者の手引きで妻と2歳の娘を連れてトルコ経由で逃げた」という。

 ガリさんは「家も家財道具も売り払ってイラクから脱出したわれわれに戻る場所などない」と訴えた。

 

前米政権、難民10万人受け入れ提案(2010年09月20日時事通信)

 19日、テルアビブのイスラエル博物館で講演するイスラエルのオルメルト前首相。08年の中東和平交渉で当時のブッシュ米政権が10万人程度のパレスチナ難民を米国で受け入れる提案をしていたことを明らかにした 【時事通信社】

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第2次菅政権の柳田稔法務大臣について

  民主党代表選挙で菅直人が小沢に大勝し、第2次菅政権が誕生した。

 入管・難民行政を司る法務大臣には、人権派と言われた千葉景子氏に代わって、柳田稔氏が就任した。柳田稔という名前には覚えがなく、調べてみると、「子育て手当」の強行採決をリードした人物だということである。基幹労連政治顧問で、労働組合の旧同盟に支持されていた民社党の後継組織である民社協会のメンバーである。

 参院の厚生労働委員長で法務は未経験のようだ。18日のANNニュースは、「拉致被害者家族会「柳田新大臣は即対応を」」と新法務大臣に要望したと伝えている。千葉景子前法務大臣が、死刑廃止議員連盟のメンバーであるにも関わらず、死刑執行命令書にサインしてしまうなど、人権派としての信念を貫けなかったことについては、法務官僚にやられてしまったという気がしているが、果たして、新大臣が法務官僚を政治主導でリード出来るかどうかは、現段階では未知数だが、「子育て手当」法案の強行採決の先頭に立ったように、突っ走る可能性もあり得る。

 しかし、問題は、この新法務大臣の政策思想である。入管・難民問題を人権的観点から改善するのかどうかは疑問である。せめて、民主党の政策を実現すれば、少しは改善が進むかもしれない。

 

「拉致被害者家族会「柳田新大臣は即対応を」」ANNニュース。

 

 拉致被害者家族会の飯塚繁雄代表は、新たに就任した柳田稔拉致問題担当大臣に対し、「即、対応を取ってほしい」と話しました。

 拉致被害者家族会・飯塚繁雄代表:「一から勉強するでは困る。いろんな知識を含めて、即、役に立てるよう準備してほしい」
 飯塚代表は、「民主党は政局ばかりだ」と不満を述べました。柳田新大臣には、いつまでに拉致問題を解決するのか、期限を設けて取り組んでもらいたいと訴えています。

 

労組出身の一匹おおかみ=法務相・柳田稔氏

 

 7月に党参院幹事長に抜てきされ、今回、初入閣を果たした。民間労組出身で、労働行政には詳しいが、法務行政での手腕は未知数。民主党が衆院選マニフェスト(政権公約)で掲げた犯罪取り調べの録音・録画(可視化)をどう実現するかが当面の課題だ。党組織委員長や参院厚生労働委員長などを歴任。集団行動を好まず、一匹おおかみ的な言動が多い。党内では「人望がない」との厳しい指摘も。大学を中退してすし職人として働き、元の大学に入り直した経験を持つ。55歳。(民主)
◇柳田稔氏略歴
 柳田 稔氏(やなぎだ・みのる)55 東大工卒。参院厚生労働委員長、党参院幹事長。衆(2)参(3)広島(民主)(2010/09/17)

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『経済学・哲学草稿』(マルクス著 城塚登 田中吉六訳 岩波文庫)について

 以下は、とある勉強会に出したレジュメです。

    『経済学・哲学草稿』(マルクス著 城塚登 田中吉六訳 岩波文庫)について

                                                 流 広志

 全体は4つの草稿からなっている。序文によると、マルクスがパリで、1843年10月下旬にパリ近郊サン・ジェルマンにアーノルト・ルーゲと同居して発行した『独仏年誌』での「ヘーゲル法哲学批判」というヘーゲルの思弁批判だけでは不十分と感じて、素材そのものの批判を混ぜないようにし、独立したパンフレットとしてテーマ別に発表する計画を立て、その一部として書かれた草稿である。結局、マルクスはこれを出版することは出来なかった。

 一つに、この時、マルクスは、「実証的な人間主義的および自然主義的批判は、まさにフォイエルバッハからはじまる。ヘーゲルの『現象学』と『論理学』以来、真の理論的革命を内にふくんでいる唯一の著作であるフォイエイルバッハの諸著の影響は、物静かであるがそれだけまた、より確実、より深刻である」(13頁)と述べているように、ヘーゲル左派の唯物論哲学者フォイエルバッハの影響下にあった。そして、その立場から、「ヘーゲル弁証法と哲学一般とへの対決」をどうしても必要だとして、第3草稿の〔5〕と第4草稿を書いている。それは、「―〔批判的神学者における〕この徹底性の欠如は偶然ではない。というのは、批判的神学者といってもそれ自体はやはり神学者であるに変わりはなく、したがって、一つの権威としての哲学の一定の諸前提から出発せざるを得ないか、それとも、批判を進めるうちに、また他人の諸発見によって、自分の哲学的諸前提に疑いが生じた場合、これらの前提を憶病な不正なやり方で放棄し、捨象して、これらの前提への自分の隷属とその隷従にたいする怒りを、ただもう消極的な、無意識な、思弁的なやり方で表明するか、このどちらかだからである」(13~4頁)。

 『経哲草稿』でもっとも有名なのは、言うまでもなく第1草稿の〔四〕〔疎外された労働〕の部分であり、この疎外という概念をめぐって様々な議論が行われてきた。疎外論から物象化論へという廣松渉氏のテーゼは有名である。国民経済学の部分については、後に『資本論』が書かれるので、この段階では、労働力と労働の区別がないなどの限界が、マルクス自身によっても後に指摘されているように、アダム・スミスなどの経済学から学ぶという立場に立っている。それでも、ヘーゲル流の疎外という概念を使って、資本主義批判を試みていて、それは『資本論』まで一貫していると主張する人もいる。例えば、橋本剛『マルクスの人間主義』(窓社)である。それから、この本にはマルクスの後の著作と違う特徴がある。それは、特に第3草稿の〔四〕〔貨幣〕に典型的なように、シェークスピアの引用をもって貨幣論を展開しているように、文学的、情熱的な感性の直截な表現が多く見られることである。この点が、『資本論』のような研究書的スタイルで書かれているものに比べて、人々にとって取っつきやすくなっている理由であろう。もちろん、『資本論』でも随所にそうした箇所が出てくるのだが、それは全体の中では控えめになっている。例えば、

「もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間として君の生命発展を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である」(187頁)

「それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔Leiden〕を感受する存在であるから、一つの情熱的〔leidenschaftlich〕な存在である。」(208頁 下線は引用者)。

 全体をやっていると時間がないので、疎外された労働と私有財産と共産主義論とヘーゲル哲学とヘーゲル弁証法批判のところだけを取り上げる。

(疎外された労働)

 これには四つある。

  1. 「労働者にたいして力をもつ疎遠な対象としての労働の生産物にたいする労働者の関係。(93頁)。事物の疎外
  2. 「労働の内部における生産行為にたいする労働者の関係」(同)。自己疎外
  3. 「人間の類的存在を、すなわち自然をも人間の精神的な類的能力をも、彼にとって疎遠な本質とし、彼の個人的生存の手段としてしまう。疎外された労働は、人間から彼自身の身体を、同様に彼の外にある自然を、また彼の精神的本質を、要するに彼の人間的本質を疎外する」(98頁)。つまり、類的存在からの疎外
  4. 「人間が彼の労働の生産物から、彼の生命活動から、彼の類的存在から、疎外されているということから生ずる直接の帰結の一つは、人間からの人間の疎外である。人間が自分自身と対立する場合、他の人間が彼と対立しているのである」(同)。すなわち、人間からの人間の疎外

 「私有財産は、外化された労働、すなわち外化された人間、疎外された労働、疎外された生活、疎外された人間という概念から、分析を通じて明らかにされるのである」(102頁)。ここには、後の『資本論』あるいは『経済学批判序言』で上向的(総合的)・下向的(分析的)という方法の区別がまだない。概念の分析だけがある。しかし、それは、「フォイエルバッハ・テーゼ」を契機に変わる。

 (私有財産と共産主義)

 マルクスは、私有財産を労働と同じとし、所有と無所有の対立を、労働と資本の対立として概念的に把握している。「資本と労働は最初はまだ一つになっている。つぎにたしかに分離され、疎外されるが、しかし積極的な諸条件として、相互に助長しあい、促進し合う。/両項の対立、それらは相互に排斥しあう…」(「私有財産の関係」 117頁)。「私有財産の主体的本質、対自的〔fur sich〕、に存在する活動としての私有財産、主体としての、人格としての私有財産は、労働である」(「私有財産と労働」 119頁)。

  これらを前提として、第3草稿の〔二〕〔私有財産と共産主義〕では、「所有の排除としての私有財産の主体的本質である労働と、労働の排除としての客体的労働である資本とは、その発展した矛盾関係としての私有財産、したがって解消へとかりたてるエネルギッシュな関係としての私有財産である」(126頁)という具合に、所有関係に資本主義批判と共産主義論の基礎を置いている。そこで、共産主義は、「(1) その最初の形態においては、私有財産の普遍化と完成とであるにすぎず、そのようなものとして共産主義は、私有財産として万人に占有されえないあらゆるものを否定しようとする。それは暴力的なやり方で、才能等々を無視しようとする」「粗野な共産主義者は、頭のなかで考えた最低限から出発して、こうした妬みやこうした均分化を完成したものにすぎない」(128頁)。「共同体はただ労働の共同体であるにすぎず、また共同体的資本、すなわち普遍的な資本家としての共同体が、支払う給料の平等であるにすぎない」(同)。「男性の女性に対する関係は、人間の人間にたいするもっとも自然的関係である」(129頁)。「したがって、私有財産の最初の積極的止揚である粗野な共産主義は、積極的な共同体的存在として自分を定立しようとする私有財産の下劣さが現われる一つの現象形態であるにすぎない」(130頁)。 

  それに対して、マルクスは、「(2) 人間の自己疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義」(同)を対置する。「この共産主義は完成した自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義である」(131頁)。「社会そのものが人間を人間として生産するのと同じように、社会は人間によって生産されている。活動と享受とは、その内容からみても現存の仕方からみても社会的であり、社会的活動および社会的享受であえる」(133頁)。「社会は、人間と自然との完成された本質統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、また自然の貫徹された人間主義である(同)」。「人間の個人的生活と類的生活とは、別個のものではない」(135頁)。「私有財産の止揚は、すべての人間的な感覚や特性の完全な解放である」(137頁)。「たんに、五感だけではなく、いわゆる精神的諸感覚、実践的諸感覚(意志、愛など)、一言でいえば、人間的感覚、諸感覚の人間性は、感覚の対象の現存によって、人間化された自然によって、はじめて生成する」(140頁)。「ある存在が自分の足で立つようになるやいなや、それははじめて自立的なものとみなされる」(145頁)。「社会主義的人間にとって、いわゆる世界史の全体は、人間的労働による人間の産出、人間のための自然の生成以外になにものでもないのであるから、したがって彼は、自己自身による自己の出生について、自己の発生過程について直観的な、反対できない証明をもっているのである」(147頁)。そして、この最後。「それは本質としての人間および自然の、理論的にも実践的にも感性的な意識から出発する。現実的生活が、もはや私有財産の止揚つまり共産主義によって媒介されない、積極的な人間の現実性であるように、社会主義としての社会主義は、もはや宗教の止揚によって媒介されない、積極的な人間の自己意識である。共産主義は否定の否定としての肯定であり、それゆえに人間的な解放と回復との、つぎの歴史的発展にとって必然的な、現実的契機である。共産主義はもっとも近い将来の必然的形態であり、エネルギッシュな原理〔das energische Prinzip〕である。しかし共産主義は、そのようなものとして、人間的発展の到達目標―人間的な社会の形姿―ではない」(148頁)。

  ここまでは意識としての共産主義についてである。〔三〕〔欲求、生産、分業〕では、人間的欲求と私有財産の対立を種々のカテゴリーから展開する。その中で、物神崇拝について、感覚的な意識を社会的なものとしている点に注意が必要である。「自然にたいする人間的な感覚、自然の人間的な感覚、したがってまた人間の自然的な感覚が、まだ人間自身の労働を通じて生みだされていないかぎり、感覚と精神との抽象的な敵対性は必然的である」(160頁)と述べているのである。そして、「平等とは、フランス的な、つまり政治的な形態に翻訳されたドイツ的な「自我=自我」〔das deutsche Ich=Ich〕にほかならない。共産主義の基礎としての平等は、共産主義の政治的な基礎づけである」(同)とフランス的感覚・意識とドイツ的感覚・意識の違いを例にあげている。

 

「社会―国民経済学者たちにとって現われるような―は、市民社会であるが、そこでは各個人は諸々の欲求の一全体であり、彼らが相互に手段となるかぎりでだけ、他人は各個人のために現存するし、また各個人は他人のために現存する。国民経済学者は―政治学がその人権についておこなうのと同様に―すべてのものを人間に、すなわち個人に還元し、そして個人を資本家あるいは労働者として固定化するために、この個人からあらゆる規定性をはぎとるのである」(168頁)。

 そして分業論。「分業は、疎外の内部での労働の社会性についての国民経済学的な表現である」(同)。

 それに対して、国民経済学は、利己心を基礎とする交換性向によってそれを説明する。

 (ヘーゲル批判)

 第3草稿の〔五〕〔ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判〕と第4草稿〔一〕〔ヘーゲル『精神現象学』最終章についてのノート〕は、ヘーゲルの『精神現象学』の批判である。マルクス自身の解説によると、この当時、ドイツでは「批判は古代世界の内容に没頭しており、資料にとらわれた展開をして」(188頁)いた。それは、「まったく強引なものだった」(同)ので、「批判の方法」にはまったく無批判であった。マルクスは、青年ヘーゲル派のシュトラウスやブルーノ・バウアーをその例にあげている。かれらはヘーゲル論理学の枠にとらわれていた。マルクスは、フォイエルバッハが、『哲学改革のための暫定的提言』と『将来の哲学の根本命題』で「古い弁証法と哲学とを萌芽的にはくつがえしてしまった後でも、―それとは反対に、あの〔バウアーらの〕批判が、この仕事を遂行するすべを知らなかった」(190頁)と言う。バウアーらに対して彼は、「唯心論的高慢さ」(同)で、歴史の全運動を批判自身とその他の世間(この世間は批判に対立するものとして「大衆」という範疇にはいる)との関係に還元」、「一切の独断的な諸対立を、批判自身の賢明と世間の愚鈍との対立」、「批判的キリストと人類との対立という一つの独断的対立へと「ひとからげ」に解消」、「批判が毎日毎時のように自分自身の優越性を大衆の知恵のなさをだしにして証明」、「批判は、世間を超越して高尚な孤独のうちに王座を占め」、「ただ時々…哄笑」、「世間や人間的感情にたいする自分のそうした超絶性を批判が活字に印刷させた」、「あらゆる滑稽なふるまいを、批判という形式のもとで死にかけている観念論(青年ヘーゲル派)がした」後に、なお、「この観念論は、いまこそ自分の生みの親であるヘーゲル弁証法と批判的に対決しなければならぬという予感をただの一度も表明しなかったし、それどころか、フォイエルバッハ的な弁証法にたいして批判的な態度をもつと自称することさえ知らなかった。自分自身にたいする完全な無批判的態度である」(190~1頁)と批判している。

 こうしてマルクスはこのパリ段階では、フォイエルバッハを高く評価し、それに対して、青年ヘーゲル派を批判し、ヘーゲル弁証法をも超えていこうとしている。青年ヘーゲル派批判は、『独仏年誌』の仕事を通じて関係が深まったエンゲルスとの最初の共著である『神聖家族』で行われる。さらには、ブリュッセルに移る頃には、「フォイエルバッハ・テーゼ」そして『ドイツ・イデオロギー』において、フォイエルバッハを含む青年ヘーゲル派の批判へと向かうのである。ただ、ヘスの影響について、良知力氏と廣松渉氏の間で見解が分かれている。『ド・イデ』の段階では、マルクス・エンゲルス・ヘスの三者は共同作業を行っている。それはさておき、マルクスは、フォイエルバッハのヘーゲル弁証法批判を3点あげている。

  1. 哲学は、思想のなかにもたらされ思惟によって遂行された宗教にほかならず、したがって、人間的本質の疎外のもう一つの形式、現存様式として〔宗教と〕同様に断罪されるべきだ、ということを証明したこと。
  2. 真の唯物論と実在的な科学とを基礎づけたこと。しかもこれをフォイエルバッハは「人間の人間にたいする」社会的な関係を同様に理論の根本原理とすることによっておこなったのである。
  3. 彼は、絶対的に肯定的なものであると主張されている否定の否定にたいして、自分自身の上にやすらぎ、積極的に自分自身を根拠とする肯定的なものを対置することによって、〔上記の基礎づけを〕おこなったのである。(191頁)

 マルクスは、フォイエルバッハのヘーゲル理解を、①実体=絶対的な固定した抽象物から出発し、②哲学は宗教と神学との止揚とし、③宗教と神学を再興する、としていて、「否定の否定を、もっぱら哲学の自己矛盾としてのみ把握している」(192頁)と批判し、むしろ、ヘーゲルが「否定の否定を、―そのうちに存している肯定的な関係からいえば、真実の肯定的なものとしてとらえ、―そのうちに存している否定的な関係からいえば、一切の存在の唯一の真なる行為および自己確証的行為としてとらえたのであるが、そうすることによって彼は、たんに抽象的、論理的、思弁的な表現にすぎなかったが、歴史の運動にたいする表現を見つけだしたのであった」(下線は引用者193頁)と評価している。

 そして、マルクスは、『精神現象学』の目次をあげた上で、『エンチュクロベティー』全体の中で、それが、『小論理学』において、純粋な思弁的な思想から、絶対知(自己意識的な、自己自身を把握する哲学的な精神、絶対的な超人間的な抽象的精神)で終わっていることを指摘する。「哲学的精神は、自己疎外の内部で思惟的に、すなわち抽象的に自己を把握している疎外された世界精神にほかならない」(195頁)。

 ヘーゲルの誤りは、「存在、対象が思想のなかの存在としてあるように、主体はつねに意識ないし自己意識である」(198頁)という点に集約されている。「ヘーゲルは近代国民経済学の立場に立っている」(199頁)。「ヘーゲルは、労働を人間の本質として、自己を確証しつつある人間の本質としてとらえる」(200頁)。「彼は労働の肯定的な面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」(同)。

 絶対知。「主要なことは、意識の対象は自己意識以外のなにものでもないということ」(同)。「人間は自己と等置される」(201頁)。「独立に抽象化され固定化された自己とは、抽象的なエゴイストとしての人間であり、思惟という純粋な抽象にまで昇華されたエゴイズムである」(同)。「ヘーゲルにあっては、人間的本質、人間は、自己意識に等しいと見なされる」(同)。「意識、自己意識は、それの他在そのもののうちにあって自己のもとにある」(211頁)。「自己意識をもつ人間は、精神的世界を―あるいは彼の世界の精神的な一般的現存を―自己外化として認識し止揚していたのであるが、そのかぎりにおいて彼は、この世界を再建し、それの他在そのもののうちにあって自己のもとにあると称するということであり、したがってたとえば宗教を止揚した後に、宗教を自己外化の一産物として認識した後で、しかもなお宗教としての宗教のうちに自己が確証されているのを見いだすということである」(212頁)。

 『経哲草稿』の段階では、マルクスは、フォイエルバッハの唯物論とヘーゲル批判を受け入れつつ、青年ヘーゲル派の観念論批判へと進みつつ、しかしなお、唯物論の積極的対置というところでは不十分であって、大枠では思弁的批判の中にある。ヘーゲルの弁証法を批判しつつも、肯定的な面、革命的な側面として「歴史の運動にたいする表現」と評価してもいる。唯心論と唯物論という対立軸を積極的に提示したのはフォイエルバッハであるが、それは、神学対医学(フォイエルバッハ『唯心論と唯物論』)というかたちで述べられているなど、哲学の革命というかたちに発展させられなかった。それに対して、後に、マルクスは、「フォイエルバッハ・テーゼ」第11テーゼで、「これまでの哲学は世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。肝心なのは世界を変革することである」と述べ、フォイエルバッハをも超えていくのである。

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差別弾圧を許すな!難民行政の改善を求める9・20市民集会

                                   想い起こそう 6年前の夏

                                       難民の声を聞こう
                               難民行政の改善をかちとろう
 

                         9・20難民支援集会にご参加を  

   暑い日が続きます。6年前の夏もそうでした。この年、東京青山の国連大前で、クルド人難民2家族とイラン人難民1名、それを支援する市民による座り込みがあったことを覚えていますか?

 これらの人々は、7月13日から9月22日までの72日間、炎天下のコンクリートの上で座り込みを続けたのです。

 なぜ、これらの人たちは、健康や命の危険を顧みずに、このような行動に打って出たのでしょうか?

   それは、日本の政府・法務省が、自由と安全を求めて日本にやってきた人々の願いを無視して、大多数の人々を難民として認定しようとしないこと、申請者を刑務所同然の収容所に収容して自由を奪うなど、ひどい人権侵害が行われていることに抗議し、難民行政の実態を広範な日本の市民にアピールするためでした。

  この座り込みは、マスコミにも報道され、多くの人々の関心を集めました。しかし、あれから6年。昨年は政権交代で民主党政権も成立しましたが、難民行政の実態は、ほとんど当時と変わっていません。最近には、収容所内での収容者の自殺があったり、ハンストが行われるなど、かえって悪化しているように思われます。

 そこで私たちは、6年前の出来事を思い起こすとともに、入管・難民行政の現状を確認し、その改善を求めるために、以下の集会を開催します。難民のみなさんの生の声を、お聞き頂きたいと思います。大勢のみなさんのご参加をお願いします。

           差別弾圧を許すな!難民行政の改善を求める9・20市民集会

◆音楽演奏(FBCバンド)

◆講演「国連大前の座り込みが明らかにしたもの」雨宮剛さん(青山学院大学名誉教授)

◆難民からの訴え(ビルマ、エチオピア、クルド、ブルンジほか)

◆基調報告

◆国会から(民主党、社民党等の議員に交渉中)

◆連帯のことば

◆集会宣言

●9月20日(月・祭日) 1時半~4時半

●豊島勤労福祉会館・第7会議室(JR池袋駅西口、メトロポリタン口より徒歩7分、消防署隣り。TEL:03-3980-3131)

●資料代500円

●主催:難民を支援し連帯する会(TEL:04-2998-5501 さかい)

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ふたたび、ロンメルから学ぶ

 また、ロンメル将軍を取り上げる。

 例えば、反戦運動を発展させるためにも、こうした軍事思想を理解しておくことは重要である。特に、ロンメルのように、経験から見事に学び、それを客観的に対象化する力がある人物の言うことから学ぶことは、社会・政治運動の活動にとって有益である。軍事思想を批判的に分析・研究し、そこから教訓を引き出さないままでは、真に実効性ある反戦思想を構築することは出来ないし、現に反戦運動はこれまでも軍事研究を行いつつ反戦・反安保闘争を行ってきた。例えば、『軍縮問題資料』とか『軍事民論』といった雑誌があったし、「アエラ」という雑誌においても、米軍の軍事的研究文書や暴露文章といったものが載っている。

 そういう点と、さらに、ロンメルは、新たな戦術思想を構想するという点で天才的な力を持っていたので、こうした総合力を、今日の社会・政治運動が学ぶ意義は大きいと思う。新たな社会の構想、そこにおける政治の構想、そこに向かうための新たな戦術思想の構想を急ぐ必要があると思うからである。経験と理論の新たな結合ということ、実践の変革と思想の変革の有機的結びつきを必要としている。それをするためには、どのようなものからでも学ぶ必要があり、それを新たな構想の中に変革的に結合する必要があり、それをなしうる力を持たなければならないのである。

 『ロンメル戦記』からの下記の引用の中でロンメルが強調しているのは指揮官の問題である。それから、引用はしないが、北アフリカ戦線で、常に、兵力、兵器、装備、補給などの物的な面でイギリス軍などの連合軍に対して劣勢にあったロンメル軍団がそれを跳ね返して勝利を収めることが出来た理由を、彼は、意志の力にあったということを書いている。戦史上、戦力で劣勢な軍隊が優勢な敵に勝ったのは意志が勝っていたからだったと言うのである。士気の問題である。

 クラウゼヴィッツも『戦争論』で心理的要素を強調しているし、偶然が戦闘にとって大きな要因として働くと述べている。そのことは、『孫子』でも、臨機応変という意味の概念で強調されている。例えば、孫子は、「無形の陣」を最良としていて、あらゆる事態、偶然に対しても備えうるような自在さを持つ陣形がよいと主張している。同じように、ロンメルも、「この戦いが必ずしもすべてこちらの計画どおりに進まないかもしれないということは、終始私の考慮の中に入れてあった」と言うように、大胆な計画を練りに練って作成しても、なお、偶然的な事態、不測の事態の発生によって計画が乱されることをあらかじめ考慮し、そうした事態に対して自在に対応できる態度を持つべきだと主張している。

 指揮官にとって大事なことを引用文中からひろって列挙してみる。

  • 決心の大胆さ
  • 古いものにとらわれ新しいものを受け入れらない偏見の態度に陥らない
  • 複雑な理論にとらわれ、現実に即応していく能力に欠けてしまうことがないこと
  • 従来の方法にとらわれることなく、技術的な事項をよく理解しうる能力を持っていなければならない
  • 指揮官はたえずその戦闘に関する考え方を、その時点における現実と組み合わせて生まれる可能性に適応していかなければならない
  • もし、状況により必要とあれば、指揮官はその考え方を根本から変えなければならない
  • 指揮官およびその幕僚の立案した計画を正確に部隊に実行させること
  • 指揮官は部隊に戦術的な経験および指揮を常に知らせておくとともに、これを交戦に応用させるよう絶えず努力しなければならない
  • ある特定の考え方にとらわれることなく、周辺の状況を十分に把握すること
  • 独創的な思考をめぐらせる指揮官はその部下と密着して部下とともに感じ、ともに考える能力がなければならないし、兵もまたその指揮官を信頼していなければならない
  • 兵士の士気や一体感を維持するために、指揮官はその幕僚とともに後方にいないで、部隊と一緒にいなければならない

 それから、彼は、「常に忘れてはならないこと」として、「決して部下の目はごまかせない…。普通の兵ならばだれでも、真実と虚偽とを敏感にかぎ分ける点において驚くべき能力を持っている」ことを指摘している。このことは士気に大きく影響する。虚偽がばれると士気が弱まる。直接本人には言わないでも、不信感や不満、軽蔑、軽視、不服などの態度が生じ、人々に話が広まり、そうした態度が伝染していく。

 私の経験によれば、指揮官の決心が大胆なものであればあるほど、その作戦の成功の見込みは大きいが、戦略的または戦術的大胆さと軍事的な賭けの違いを心得ておかなければならない。大胆な作戦というのは、成功するか否かは定ではないが、失敗した場合どんな状況になってもこれに十分対処できるような兵力を手許に持っているものをいう。それに対し軍事的な賭けというのは、勝利を収めることになるかもしれないが、徹底的な敗北に陥るかもしれないという作戦である。
 戦況によっては軍事的な賭けもやむをえないことがある。一例を挙げれば次のようなものである。普通のやり方では負けるのは時間の問題なので、時をかせいでみても無意味であり、ただ大きな危険を冒しても一か八かでやってみるほかに望みはないという場合である。
 指揮官が前もってその戦闘の経過を自ら予測し計画を立案することができるのは、非常に優勢な兵を持ち、戦わずしてすでに勝つことが明らかな場合だけである。この場合、問題はもはやいかにすれば敵に勝つことができるかということにすぎない。
 しかし、たとえこのような状況においても、考えられるあらゆる敵の行動に対し、あらん限りの安全のための対応処置を講じながら、慎重に戦場を動き回るよりも、思い切った計画に基づいて断固としてこれを実行し抜き、その結果を甘んじて受け入れることとしなければならない。不徹底なやり方はだめである。私はこのような考え方で幕僚とともに作戦計画を立案し、実行させたのである。そしてこの私の計画は最善を尽くして作られたものであり、これ以上の案はないと考えてよいほどのものであった。この戦いが必ずしもすべてこちらの計画どおりに進まないかもしれないということは、終始私の考慮の中に入れてあったが、たとえそのようなことになっても、 攻撃を開始したときよりも不利な立場になることはあり得ないと私は判断していた。われわれは高度な訓練を受け、いついかなるときにでもあらゆる困難な戦況を打開していく力を持った歴戦の部隊を信頼し、楽な気持ちで作戦開始の時期を待っていたのである。(228~9頁)

 歴史があり伝統に輝く国軍の中に生きている将校団が、新しいものに対し偏見をもってこれを受け入れようとしないのはよくあることである。プロシャ軍がナポレオンに敗れたのも同様な原因によるものであった。今度の戦争においては、イギリス軍将校だけでなくドイツ軍将校の中にもこのような態度がはっきりと認められた。このような空気の中では、人の考え方は複雑な理論にとらわれ、現実に即応していく能力に欠けてしまう。
 用兵のドクトリンが細部に至るまで考え出され、これが兵学の全知嚢を結集したものだと見なされる。そして、その規格化された原則にかなった考え方だけが認められ、これ以外はすべて賭けであり、もしうまく行ったとしても運がよかったか、何かの間違いだと見なされる。このような考え方からはありきたりの古い考え方しか生まれず、その弊害は恐るべきものがある。
 用兵の原則といえども技術の進歩に応じて変化するのであり、一九一四年における戦闘においてよいとされたものは、今日では相戦う両軍の部隊の大部分が歩兵だるか、または少なくとも攻撃を受ける側が機動化されていない歩兵部隊である場合に限って有用であるにすぎない。この場合、機甲部隊はかつて騎兵が果たしたと同じように、敵の歩兵を追い越してその退路を遮断する役割を果たすだけである。しかし、双方が機動化されている戦いにおいてはまったく異なった原則に従って兵を用いなければならない。これについてはすでに説明した。
 伝説を重んじるということが軍人精神においていかに大切なことであろうとも、用兵の分野ではいましむべきである。というのも、戦いの様相自体が技術の進歩によって絶えず変わっていくものであり、既成の価値を打破する新しい戦況を考え出すのは指揮官だけの任務ではないからである。したがって近代軍の指揮官は、従来の方法にとらわれることなく、技術的な事項をよく理解しうる能力を持っていなければならない。指揮官はたえずその戦闘に関する考え方を、その時点における現実と組み合わせて生まれる可能性に適応していかなければならないのだ。
 もし、状況により必要とあれば、指揮官はその考え方を根本から変えなければならない。私の相手であるリッチー将軍と同じく、作戦が完全に機動化された部隊によって行われるところから生じた変化、および開潤した砂漠の戦場の本質を完全に理解していなかったようである。(231~2頁)

 …指揮官の任務は、その幕僚を相手に働くことだけではない。指揮官はまた部隊指揮の細部にまで気をくばり、次のような理由でたびたび第一線を見に行かなければならない。
 (1) 指揮官およびその幕僚の立案した計画を正確に部隊に実行させることが最も重要である。各部隊将兵の一人一人が、そのおかれた状況下でしなければいけないことをすべて実行すると考えるのは誤りである。たいていの者はすぐある種のものぐさ的な気分に陥るものであり、いろいろな理由をつけて、あれはできない、これは不可能だと報告してすましてしまう―理由はどんなにでもつけられるものである。
 この種の人間には指揮官の権威を思い知らせ、無感覚な状態から立ち直らせなければならない。指揮官は戦いの原動力であり、部隊は指揮官の姿を見てその指揮を受けているのだということを、常に感じているようでなければならない。
 (2) 指揮官は部隊に戦術的な経験および指揮を常に知らせておくとともに、これを交戦に応用させるよう絶えず努力しなければならない。いちばん部隊のためになるのは第一級の訓練を施すことである。これによって部隊は余分な損害を出すのを免れるからである。
 (3) 指揮官は第一線の状況を自らはっきりと承知し、その指揮下の部隊が直面している問題点について、明確な認識を持っていなければならない。そうすることが指揮官自らの考え方で常に最も新しいものとし、変化していく状況に適応しうる唯一の方法である。
 もしも指揮官が戦場で部隊を指揮するときに、将棋をさすようなつもりで戦いを進めるならば、彼はまったく学問的な理論にとらわれ、第一線の実情と遊離した、自画自賛的独善的な指揮を行なう結果になってしまうだろう。ある特定の考え方にとらわれることなく、周辺の状況を十分に把握し、独創的な思考をめぐらせる指揮官こそ勝利を収めうるのである。
 (4) 指揮官はその部下と密着して部下とともに感じ、ともに考える能力がなければならないし、兵もまたその指揮官を信頼していなければならない。常に忘れてはならないことが一つある。それは、決して部下の目はごまかせないということである。普通の兵ならばだれでも、真実と虚偽とを敏感にかぎ分ける点において驚くべき能力を持っているものである。(251~2頁)

 指揮官はその幕僚とともに後方にいないで、部隊と一緒にいなければならないことがいつの場合にでもある。兵の士気を維持するのは大隊長だけの任務であると考えるのはまったくナンセンスであり、率先垂範する指揮官の地位が高ければ高いほど、その効果は大きいものだ。兵は、どこか後方の司令部にじっとすわっているに違いない指揮官には、一体感を持たないものであり、第一線の将兵が望んでいるのは、実際に指揮官と身近に接することである。
 部隊がパニックに陥ったとき、疲労困憊の極にあるとき、あるいは何か非常な努力が部隊に要求されるとき、指揮官の率先垂範は奇跡的な力を発揮させるものである。特にその指揮官が、その身近にある種の伝説のようなものを作り出す能力を持っているときは、その効果は大きい。この時期、部隊に対する要求は将兵の体力の限界に近いものがあった。このようなとき絶えず率先して兵に模範を示すことが将校たる者の任務である。(267頁)

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8・22日韓市民共同宣言大会

 以下は、8月22日豊島公会堂で1000名を集めて成功した日韓市民共同宣言大会の共同宣言の全文と報告である。「韓国強制併合100年」共同行動7・8月企画http://nikkan2010.exblog.jp というブログにあるもので、前田朗さんが紹介しているものだ。注目すべきことの一つは、植民地主義と植民地支配の清算をうたった2001年の「ダーバン宣言」の精神に立っていることである。

 それから、 慰安婦問題について、「このような女性の人間としての尊厳を粉々に打ち砕いた軍・国家の犯罪に対し、日本政府は、今に至るも彼女らに謝罪や賠償などの公的責任を履行していな い。「女性のためのアジア平和国民基金」は、日本軍「慰安婦」制度が国家犯罪・国家暴力であることを隠蔽し、日本政府の責任を免罪するものでしかなかった」と、国家責任の不履行を指摘していることで、その点で村山談話や河野談話を公的な謝罪と認めていないし、アジア平和国民基金によるいわゆる償い事業を政府責任を免罪するものとして批判していることである。当日、会場には、アジア平和国民基金の推進者の一人の和田春樹氏も来ていたが、この宣言を氏はどう聞いただろうか。それが、この問題のごまかしでしかなかったことが、運動の分断と混乱、ひいては右派・保守派につけいるすきを与えたことが問題となってきたのだ。もちろん、当事者たちは善意であったろうとは思う。

 とはいえ、この共同宣言は、「在特会」などが半年以上前からぶち上げてきた韓国併合100周年国民大集会(日比谷公会堂)が、桜井がブログで、弱々しく内在的発展論なるものにしがみつくことしか出来なかったことに示されているような惨めな結果に終わったのとは対照的に日韓の「市民」連帯の絆の強さと広がりをまざまざと指し示したのである。

 共同宣言は、2011年の「ダーバン宣言」採択10周年に向けてさらなる東アジアの民衆連帯の拡大のための試みに向けて前進することを宣言している。

 また、「他方、戦後、日本に残り生活することを余儀なくされた朝鮮人に対し日本政府は差別・排除と同化政策をとり続けた。サンフランシスコ講和条約締結後、朝鮮人 の日本国籍を一方的に剥奪し、出入国管理令、外国人登録法などの管理法令によって生殺与奪の権限を握り、また民族教育など民族的自主権を奪った。日本政府 は「冷戦」を利用し、在日朝鮮人を分断しつつ植民地主義的管理の下に置いたが、1965年日韓条約締結以降は分断支配をいっそう深刻化させた。/「韓国籍」を有する者にのみ「永住」(協定永住)を認めて管理を「緩和」しつつ、「朝鮮籍」の者には「永住権」を認めず抑圧を強めた。その後、「朝鮮 籍」の者にも「永住」(特例永住)を認めるに至り、さらに「特別永住」に一本化したが、2008年入管法改悪によって「一般永住者」に対する監視・管理を 強化した。難民条約、人種差別撤廃条約等への加入により社会保障などの差別措置を一定是正した。/しかし、在日の高齢者たちは国民年金の適用を除外され、ほとんど無年金状態に置かれている。老齢者支給金を支給する自治体もあるが、それも平均月額5千円にしかならない。また、朝鮮学校生徒への高校無償化適用除外をおこなうなど差別と分断政策は今も続いている」と、民族自決権に基づく民族教育・文化の権利、人権の保障を求め、さらに、政府による「在日」の南北分断策、そして難民やニューカマーとの分断策の不当性も示唆している。

 共同宣言は、入管・難民行政が、「在日」に対するも差別・排外主義的態度を基本にして、他の外国人にも差別・排外主義的な対応へとつながっていることも暗に示している。入管令から入管及び難民認定法に改定された1981年を境に「在日」の国籍条項の撤廃が一定程度進んだ。しかし、それは、今止まっているし、共同宣言が書いているように、2008年の入管法改悪によって後退させられようとしている。

 「在日」や外国人の人権に対する無関心やかれらの権利をないがしろにしていると、それはやがて我が身に権利後退として降りかかってくる。だから、かれらの権利のために闘うことは、自分の権利のために闘うことになるということをしっかりと理解することが必要である。それにしても、こうした共同宣言大会が1000名の大結集をもって成功したことは双方の民衆にとって大きな収穫であった。さらに前へ進もう

   植民地主義の淸算と平和実現のための日韓市民共同宣言

             「私たちの要求と行動計画」

2010年8月22日
強制併合100年共同行動韓国実行委員会
強制併合100年共同行動日本実行委員会

一 前文

1.1910年8月、日本帝国は天皇の名において大韓帝国に「韓国併合条約」を強制し、主権を奪い、過酷な植民地支配を開始した。36年に及ぶ日帝の植民地支配は朝鮮民族の尊厳を深く傷つけた。

 それから今年で100年になる。植民地支配は、1945年8月15日、日本のポツダム宣言の受諾-敗戦によって終結した。その敗戦、朝鮮解放から65年が過ぎたが、日本政府は今でも、「併合条約」は適法であり、有効であったと主張している。植民地支配の実態、その真相については究明するどころか隠し続け、被害者に対する謝罪、賠償もほとんどおこなっていない。

 他方、朝鮮は日本の植民地であった結果、米国の戦後の分断政策と、ほぼ同時期に始まった東西対立・「冷戦」によって南北に分断された。1950年6月には朝鮮戦争が起こり、民間人を含む300万人が死亡し、1000万人の離散家族を生んだ。軍事境界線をはさんで南北は今も軍事的対立関係にあり、終戦と平和への見通しも立っていない。日本と朝鮮民主主義人民共和国とは国交さえ正常化していない。植民地主義の清算はまだ終わっていないのである。

2.2001年、南アフリカのダーバンで、「人種主義、人種差別、外国人排斥及び関連のある不寛容に反対する世界会議」が国連主催で開催された。そこで採択された「ダーバン宣言」は、初めて「奴隷制と奴隷取引」を「人道に対する罪」と規定した。植民地主義についても「非難され、その再発は防止されねばならない」ことを確認した。

 その上で、過去数百年にわたってアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの多くの民族・民衆を苦しめた奴隷制と植民地支配の清算をおこなうことは歴史的課題であると宣言し、その実現に向けての行動計画を打ち出した。つまり、「合法」であったか否かを論ずる以前に、植民地支配それ自体を人類に対する犯罪であると断じ、その被害がなお継続している現実を直視し、克服していくことを提起したのである。画期的な意義を有するこの宣言は、欧米諸国のみならず日本を含むすべての旧植民地国家に突きつけられている。

3.韓国強制併合100年を迎える今、植民地主義を清算し、東アジアの平和な未来を構築することは日本と韓国・朝鮮、東アジアの市民の共通の課題であり、そのために手を携えて共同していくべきときである。

 私たちは、ここに「日韓市民共同宣言」をおこない、東アジアにおける負の歴史の清算と人間の尊厳の回復、平和の実現に向けての課題と行動計画を提起する。

二 朝鮮侵略と強制占領

1.1875年9月、日本は軍艦を江華島に侵入させ、江華島事件を引き起こし、翌年、朝鮮に不平等な日朝修好条規の締結を強い、朝鮮侵略の足場を築いた。これと前後してアイヌモシリと琉球を強圧的に植民地化して帝国に組み入れ、さらに1894年、日本は日清戦争を起こした。日清戦争と言うが、その戦場は朝鮮・中国・台湾にまたがり、朝鮮では日本の侵略に抗して決起した東学農民軍2~5万人を、旅順戦では2万人余の非戦闘員を、台湾領有戦争では割譲・植民地化に抵抗する義勇兵・民衆約1万4千人を虐殺した。日本軍による最初のジェノサイド(集団殺戮)であった。日本は、日清戦争を通じて朝鮮から清国の勢力を追い出し、また台湾を植民地とした。これは日本のアジア・太平洋における50年以上にわたる侵略と戦争の始まりであった。

2.1904年、日本はロシアと戦端を開いた。大韓帝国に対するロシアの影響力を排除し、朝鮮半島を支配下に置くためであった。日露戦争で日本は朝鮮半島を戦場とし、韓国の「保護国」化を進め、ポーツマス条約締結後には、さらに外交権を奪い、軍隊を解散させ、内政監督権を掌握した。また、独島=竹島を日本に強制編入した。その上で大韓帝国併合をおこなった。

 日本は、この過程を進めるため、軍事的脅迫の下、韓国皇帝に1904年から07年にかけ日韓議定書、第1次日韓協約、第2次日韓協約(乙巳条約)、第3次日韓協約(丁未7条約)の4つの「条約」、1910年に「併合条約」の締結を強要した。「対等な立場」でも、「自由な意思」によるものでもなく、条約は正規の形式・手続等を欠いていた。4つの「条約」、「韓国併合条約」は、国際法に照らして明らかに違法・無効である。

3.日本の韓国強制併合に対し、朝鮮の女性を含む民衆、軍人は義兵闘争を起し、安重根は「東洋平和侵害」の責任者たる伊藤博文を射殺した。しかし、日本は義兵闘争を武力鎮圧した。捕捉した義兵もその多くを捕虜として扱わず現場で射殺した。

  1913年までに犠牲となった義兵の数は日本側資料で確認できた限りでも1万7千余人にのぼる。これもまたジェノサイドであった。他方、日本においても社会主義者らが日露戦争反対を唱え、1907年には「朝鮮人民の自由、独立、自治の権利」を決議した。これに対し日本政府は「大逆事件」で幸徳秋水、管野須賀子ら24名に死刑判決を出すなどの弾圧を加えた。この弾圧と韓国強制併合は同時におこなわれた。

4.「併合条約」前文は、韓国併合の目的を「相互の幸福の増進」と「東洋の永久の平和の確保」にあるとうたっていた。しかし、そもそも日本帝国の朝鮮植民地化は、「帝国百年の長計」として企図された。即ち、朝鮮半島を中国侵略の橋頭堡としていくために併合を計画し、実行したのである。そして、日本はジェノサイドを繰り返すことで植民地化を達成していった。その後の日本は、植民地朝鮮を足場として、中国、「満州」からさらにアジア全域へと侵略を拡大していった。アジアを戦争と恐怖のるつぼと化し、民衆に多大の損害と苦痛を与えた。条約前文とは裏腹に、併合条約は、両国の民衆を不幸にし、東洋の平和を破壊するものにほかならなかった。

三 植民地支配

1. 韓国併合を強行した日本は、現役軍人を朝鮮総督に任命、軍事的支配を強化し、併合に抵抗する朝鮮民衆を弾圧した。国策会社であり天皇・皇族が大株主の東洋拓殖株式会社は土地調査事業によって獲得された大規模な土地を安値で買い取り、高率の小作料の植民地地主制を強化し、朝鮮農民を収奪した。産米増殖計画によって朝鮮米が大量に日本に流出し、多くの自作農が小作農など貧民に没落していった。また、朝鮮全土から文化財を収集・略奪するなどし、それを様ざまな経路で日本に持ち出した。

2.1919年3月1日、独立運動家、宗教指導者33人が独立宣言を発表した。3.1独立宣言は日本帝国の朝鮮支配が全アジアに不幸をもたらす所以を理路整然と説き、日本人を諌めるものであった。しかし、日本政府はこの貴重な忠告に耳を傾けるどころか、独立宣言起草者を逮捕・投獄し、さらに独立運動に決起した数百万にのぼる民衆に弾圧を加え、数千人を虐殺し、多数を逮捕、負傷させた。

 しかし、独立運動は朝鮮半島内にとどまらず広がり、中国の上海では臨時政府が樹立され、中国東北部の間島地方では武装闘争が展開された。これに対し日本は間島地方の朝鮮人村落でジェノサイドをおこなった。日本国内でも1922年、新潟県中津川における朝鮮人労働者の虐殺・虐待事件に対し、真相究明運動などが展開された。これは宗主国たる日本国内における独立運動・労働運動の端緒となった。1920年代以降も、朝鮮独立闘争、抗日戦争は中国、台湾、日本国内において継続されたが、これに対し日本政府は治安維持法等を過酷に適用した。

3.1923年9月、関東大震災時の戒厳令下で、「朝鮮人が毒をまいている」などの「デマ」がまき散らされ、この「流言飛語」により関東在住の朝鮮人が軍隊・警察および民衆の手にかかって殺害された。官憲が遺体を隠し、証拠隠滅を図ったために正確な数は不明であるが、犠牲となった朝鮮人の数は数千人にのぼる。「流言飛語」は官憲が組織的に流したものであり、住民らに大きな影響を及ぼした。この虐殺について大正デモクラシーの思想家吉野作造は「世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱」と述べ、山川菊栄らの社会主義者も朝鮮人虐殺を糾弾した。関東大震災時朝鮮人虐殺の第一の責任は、あくまで日本政府にある。

4.1930年代に入ると日本帝国は、中国侵略を本格的に開始し、先ず中国東北部(「満州」)を占領し、さらに北京、上海に派兵、中国全域に侵略を拡大した。そして、これと平行して「内鮮一体」を唱えて朝鮮植民地支配をいっそう強化していった。「皇国臣民の誓詞」の暗唱、神社参拝、宮城遙拝、朝鮮語の禁止、創氏改名などにより朝鮮固有の文化を圧殺して朝鮮人の皇民化を推進した。それは文化的ジェノサイドとも言うべきもので、朝鮮を中国、さらには東南アジア侵略のための兵站基地とするためであり、朝鮮人を天皇の命令に従って死ぬことのできる忠良な臣民にしていくためのものであった。

5.日本は、侵略戦争を拡大していくに伴い、総力戦体制を構築するために日本人だけではなく朝鮮人の強制動員をおこなった。日本の青年層を根こそぎ戦力動員したことにより深刻な労働者不足に陥った企業・生産現場には朝鮮人を労働動員し、兵士不足を補い、弾除けとするために兵力動員をおこなった。
戦時生産を維持するために、1939年以降、「労務(国民)動員計画」等を閣議決定し、朝鮮半島から日本国内、千島・樺太、南洋諸島などの鉱山・軍需工場・土木工事現場等に動員し、賃金もまともに払わず、強制労働を強いた。また、12~15歳の少女たちを甘言によってだまし、女子勤労挺身隊として軍需工場等に動員した。これらの労働動員は、ILOの強制労働禁止条約(日本は1932年批准)違反であった。過酷な労働・虐待、原爆被爆、空襲、艦砲射撃等によって多くの労働者が死亡した。死亡者の遺骨は今も各地に放置されている。解放後も日本に残留、サハリンに置き去りにされた朝鮮人も多く、家族の離散という深刻な問題も発生した。

 不足する兵士を補充するために、1938年から志願兵の募集を開始、1944年からは徴兵制を適用し朝鮮人兵士を戦場に送った。捕虜監視員、軍属・軍夫としても動員した。戦場に送られた兵士、軍属等のうち数万人が戦闘、飢餓、疾病等で死亡した。その遺骨の多くは放置され、遺族のもとに返された例は少ない。

 さらに、遺族に通知もせず、同意を求めることもしないまま、靖国神社合祀だけがおこなわれた。しかも靖国神社は遺族の合祀取消し要求を拒み、「2次加害」を犯している。一方、生き延びた者でも重い障害を負った者、「BC級戦犯」として裁かれ死刑などの重刑を受けた者、シベリアに抑留された者など過酷な運命を強いられた被害者は少なくない。しかし、戦傷病者戦没者遺族等援護法や恩給等の適用については「日本人ではない」という理由で排除された。2010年に成立した「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」でも朝鮮人・台湾人は除外された。これは国際人権規約に違反している。

 労働・兵力動員された被害者らには、戦後、未払い賃金や手当、貯金、厚生年金等の労働債権が未清算のまま残されていたが、それは日韓請求権協定と法律144号で一方的に権利を消滅させられた。

6. 朝鮮人女性に対しては、彼女らの尊厳を根底から踏み躙る「性的動員」「性奴隷化」を強行し(日本軍「慰安婦」制度)、心身に癒しがたい傷を刻みつけた。旧日本軍は、侵略戦争に兵士たちを駆り立てるため、女性の性を徹底的に道具として、兵士に「あてがい」、軍の「士気」高揚を図った。日本軍「慰安婦」制度とは、「女性の性」を利用し、兵士たちの性管理・統制をおこなう、侵略戦争の遂行・維持政策でもあった。

 このような女性の人間としての尊厳を粉々に打ち砕いた軍・国家の犯罪に対し、日本政府は、今に至るも彼女らに謝罪や賠償などの公的責任を履行していない。「女性のためのアジア平和国民基金」は、日本軍「慰安婦」制度が国家犯罪・国家暴力であることを隠蔽し、日本政府の責任を免罪するものでしかなかった。

7.さらに戦争末期、1945年3月には米軍による東京大空襲があって約10万人の市民が犠牲となったがその犠牲者の中に少なくとも1万人の朝鮮人が含まれていた。また8 月には広島と長崎に原爆が投下されて、両市合わせて30万人を越える犠牲者が出たが、そこにも数万に及ぶ朝鮮人が含まれていた。日本政府は、空襲被害者には何の補償もしていない。韓国人原爆被爆者に対しては、厚生省の一片の通達で原爆医療法・特別措置法・被爆者援護法の適用から排除した。この通達は 2007年11月の最高裁判決で違法と判断され、在韓被爆者に対して日本人被爆者と同様の医療支援等を行うことが義務づけられた。しかし、差別は依然として解消されておらず、在朝鮮被爆者には今に至るも何の援護も実施されていない。

四 敗戦と解放以後

1.1945年8月15日、日本帝国のポツダム宣言受諾、無条件降伏によって、朝鮮全土に対する植民地支配は消滅した。1943年11月の「カイロ宣言」は、「朝鮮人民の奴隷状態」に留意し、「朝鮮を自由かつ独立のものたらしむる」とうたっていた。そして、ポツダム宣言は、カイロ宣言の条項の履行を明記していた。

 これにより朝鮮半島は日本帝国の「版図」から離脱-独立を回復することとなった。しかし、日本は植民地支配の清算をおこなうどころか、資源・食糧・文化財などの略奪や強制動員、民族抹殺政策と独立運動に対する過酷な弾圧・虐殺に対し一言の謝罪すら表明しなかった。さらに新しい国づくりを進める朝鮮人民の闘いを妨害し、朝鮮戦争時には米軍を支援し南北分断の固定化に手を貸した。

2.その背景には、米英等が主導した極東軍事裁判が「平和に対する罪」と「通常の戦争犯罪」、何件かの「人道に対する罪」は裁いても、日本の植民地支配責任については追及せず、不問に付したことがある。また、ソ連の台頭、中国革命の進展に危機感を募らせた米国が、日本を反共の防波堤とし、「冷戦」体制に組み入れていく方向へと対日政策を大きく転換したことがあった。

 これによりサンフランシスコ講和会議から南北朝鮮は除外され、日本に対する賠償問題も棚上げされた。わずかに財産・請求権についてのみ特別取り決めの主題とし、交渉することが認められた。欧米諸国による日本の植民地支配責任不問と「冷戦」が日本の植民地支配清算の不徹底を許した。
 講和条約が発効すると、日本は真っ先に戦前の軍人恩給制度を復活させたが、それは日本人にのみ適用し、植民地出身者には一切の補償を拒絶し、未払い賃金すら払わず、BC 級戦犯として処刑だけはおこなった。こうして日本政府は何ら植民地犯罪の責任を取らず、民衆もまたその責任を意識せず、朝鮮人に対する差別と排外意識を克服できないままとなった。

3.1965年6月の日韓基本条約、日韓請求権協定等は植民地主義を清算するものとはならなかった。韓国政府は植民地支配に対する賠償を求めたが、日本政府は併合条約は適法であったと主張するだけでなく、「日本は朝鮮でよいことをした」などと植民地支配を正当化し、それを拒んだ。米国はこのような日本政府を後押しし、朴正熙政権は、開発政策を優先し無償・有償5億ドルの「経済援助」を受け入れた。

 日韓請求権協定第2条は、「請求権に関する問題は、完全かつ最終的に解決した」と規定した。植民地支配下でのさまざまな犯罪行為とその被害に対する責任追及、賠償問題は封印された。また、日韓基本条約第3条は、韓国政府を朝鮮半島における「唯一の合法的な政府」と規定し、日本は南北分断の固定化に加担した。

4.しかし、1987年の韓国民主化、1991年のソ連解体-「冷戦」の終焉後、植民地支配、侵略戦争の被害者たちは堰を切ったように声をあげ始めた。元日本軍「慰安婦」、強制連行・強制労働被害者、元軍人・軍属らが日本政府・企業に対し被害に対する謝罪と賠償を求めて訴訟を起こし、その責任を追及した。在日の元軍人・軍属、在韓被爆者らも戦傷病者戦没者遺族等援護法、被爆者援護法等の適用を求める訴訟を起こした。これに対し一部企業は強制労働被害者に対し実質的に補償をおこなった。

 在韓被爆者の訴えについては司法が日本政府の在外被爆者切捨て措置を違法とし、被害者救済を命ずる判断を下した。在日の元軍人ら(傷痍軍人)には見舞金を支給する特別法が制定され部分的な救済が図られた。しかし、日本の司法は他の被害者の請求についてはことごとく退け、日本政府は日韓請求権協定を楯に問題解決を拒み続けている。

 他方、被害者の戦後補償の実現を求める訴えにこたえ、日本の中で多くの市民が裁判闘争支援などに立ち上がり、2000年には「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」を開いた。70年代以降の韓国民主化闘争支援、キーセン観光反対、金大中氏救出、政治犯救援運動などの上に、戦後補償実現を目指す日韓市民の共同の運動は組織されたのである。この中で、かつての植民地支配・被支配の関係を超えて、戦争責任追及、植民地主義清算に向けての市民の広範な連帯が形成された。

5.他方、戦後、日本に残り生活することを余儀なくされた朝鮮人に対し日本政府は差別・排除と同化政策をとり続けた。サンフランシスコ講和条約締結後、朝鮮人の日本国籍を一方的に剥奪し、出入国管理令、外国人登録法などの管理法令によって生殺与奪の権限を握り、また民族教育など民族的自主権を奪った。日本政府は「冷戦」を利用し、在日朝鮮人を分断しつつ植民地主義的管理の下に置いたが、1965年日韓条約締結以降は分断支配をいっそう深刻化させた。

 「韓国籍」を有する者にのみ「永住」(協定永住)を認めて管理を「緩和」しつつ、「朝鮮籍」の者には「永住権」を認めず抑圧を強めた。その後、「朝鮮籍」の者にも「永住」(特例永住)を認めるに至り、さらに「特別永住」に一本化したが、2008年入管法改悪によって「一般永住者」に対する監視・管理を強化した。難民条約、人種差別撤廃条約等への加入により社会保障などの差別措置を一定是正した。

 しかし、在日の高齢者たちは国民年金の適用を除外され、ほとんど無年金状態に置かれている。老齢者支給金を支給する自治体もあるが、それも平均月額5千円にしかならない。また、朝鮮学校生徒への高校無償化適用除外をおこなうなど差別と分断政策は今も続いている。

五 東アジアの平和な未来を築くために

1. 東アジアは今、大きな転換期を迎えている。韓国では民主化運動の成果により、過去の歴史の痛ましい記憶を整理し、傷を癒すための「過去清算」が政府と民間次元で取り組まれ、2000年の南北共同宣言によって統一への展望が示される中、南北交流も大きく進展した。植民地時代、朝鮮戦争時、軍事独裁下で起こった強制動員被害、民間人虐殺、人権侵害などの真相を糾明し、その被害者らの名誉回復、賠償等の事業をおこなうとともに、「親日派」問題の追及が進んだ。

 これは未来を切りひらいていくためには過去を直視し、正しく総括しなければならないとの考えに基づくものである。また、試行錯誤しながら進められた南北交流の蓄積は、東アジアにおける戦争の雰囲気を抑え、平和体制を構築する礎としての役割を果たしている。

2. 他方、日本は戦争責任追及においては天皇の責任を不問に付してきた。植民地支配についても被害当事者の訴えに真摯に向き合い、許しを請うこともしないままであり、朝鮮民主主義人民共和国との関係も正常化せず先送りしている。「村山談話」(1995年)、「日韓パートナーシップ宣言」(1998年)、「日朝ピョンヤン宣言」(2002年)で、韓国・朝鮮に対し植民地支配によって「多大の損害と苦痛を与えた」と述べ、「お詫び」をしたが、行動は伴っていない。むしろ、「新しい歴史教科書をつくる会」が編集した、侵略戦争・植民地支配を美化する歴史教科書を検定、合格させるなど日本社会の歴史認識を後退させる策動に手を貸している。また、脱「冷戦」のプロセスが進みつつある東アジアにおいてなお軍事同盟にすがり、固執する姿勢をとり続けている。これでは東アジア共同体の構築はできないし、平和な未来を切りひらいていくこともできない。

3.今こそ植民地主義の清算に向けて、日本政府は、被害者に謝罪と補償をおこなうとともに、被害者とその犠牲を永遠に記憶に刻み、未来に向けて同じ過ちを繰り返さないための事業を進めていかなければならない。

 疑いもなく画期的な意義を有する2001年の「ダーバン宣言」は、奴隷制と植民地主義を非難し、再発防止をうたいはしたが、被害補償までは打ち出しえなかった。「日韓市民共同宣言」は「ダーバン宣言」を東アジアにおいて具体化し、それをさらに先に進めていくことを追求する。
 「ダーバン宣言」10 周年の2011年に向けては、「東アジア歴史・人権・平和宣言」を策定していく。また、日韓市民は、朝鮮半島における脱冷戦、脱植民地主義の実現として南北分断の克服、統一をめざしていく。そのため日朝国交正常化、休戦協定の平和協定の転換を実現し、朝鮮半島の非核化を達成していく。

 そして、その上に東北アジア非核地帯の実現、非戦・平和共同体の構築を目指す。そのため日韓市民は連帯して行動を進め、平和な未来をともに切りひらいていくことを宣言し、以下に、私たちの要求と行動計画を明らかにする。

1.日本政府に対する要求

 

私たち日韓市民は、100年前に始まった植民地支配によって引き起こされ、いまなお清算されていない次の問題を日本政府が責任をもって速やかに解決するよう要求する。

(1)1894年以降、日清戦争と日露戦争、そして義兵戦争、1910年韓国併合前後における日本帝国主義の侵略戦争の一環として東アジア各国の民衆に加えたジェノサイドに対する真相と被害事実の究明に取り組むこと

(2)3.1独立運動参加者の死傷者について、日本政府は所蔵している関連資料に基づき調査をおこない、その調査結果を公表すること

(3) 日本政府は、1923年9月の関東大震災時の朝鮮人虐殺事件直後から虐殺された朝鮮人の死体を隠して朝鮮人に引き渡さず、かつ朝鮮人暴動を捏造することに よって、朝鮮人虐殺の国家責任の隠蔽に努めた。日本政府はこの二重の罪責を深く反省して、朝鮮人虐殺の真相を政府の責任で明らかにし、償うこと

(4) 多くの朝鮮人は植民地期と敗戦後に政治的自由を奪われ、さまざまな被害を被った。日本の植民地下および敗戦後に、治安警察法、治安維持法や軍刑法、騒乱罪 など治安弾圧法で連行、拘束、拘禁、虐待、拷問、獄中疑問死、処刑された全ての朝鮮人被害者、その遺族に対する真相究明、謝罪、補償をおこなうこと

(5)「満州事変」以降、日本は次々と侵略戦争を拡大していったが、その過程で朝鮮人を労働者や軍人・軍属として強制動員し、死に至らしめた。戦時下でおこなわれた強制連行・強制労働、兵力動員の真相を明らかにし、犠牲者及び遺族への謝罪と賠償をおこなうこと

(6) 侵略戦争をおこなう中で、日本は多くの朝鮮人女性を「性奴隷」として戦地に連れて行き、人間としての尊厳を踏みにじる犯罪をおこなった。日本政府が設立し た「女性のためのアジア平和国民基金」は日本軍「慰安婦」問題の解決ではない。旧日本軍・日本政府により国家ぐるみで組織的・継続的に性的強制を受けた元 日本軍「慰安婦」被害者への謝罪と賠償をおこなうこと

(7)広島と長崎に投下された原爆によって多くの朝鮮人も被爆したが、日本政府はその被爆者たちへの対処を怠ってきた。在韓国・朝鮮被爆者を調査し、全ての被爆者に直ちに被爆者手帳を交付し、医療費、健康管理手当等の支給をおこなうこと。

(8)東京大空襲を含む全ての空襲について実態調査を実施し、被害状況を明らかにするとともに、国籍差別なく全ての空襲被害者に補償をおこなうため「空襲犠牲者援護法(仮)」を制定すること

(9)戦時中サハリンに送られた多くの朝鮮人は過酷な労働を強いられ、敗戦後には現地に置き去りされた。サハリン残留の真相を明らかにし、韓国・朝鮮人被害者への謝罪と補償をおこなうこと

(10)敗戦後多くの朝鮮人捕虜がシベリアに送られ、強制労働に従事させられた。シベリア抑留韓国・朝鮮人に対して日本人抑留者に対するのと同様の謝罪と補償をおこなうこと

(11)戦時中軍属・捕虜監視員として駆り出された朝鮮人の一部は「捕虜虐待」などで戦犯にされ、死刑をはじめ重刑を受けて処刑され、あるいは服役した。韓国・朝鮮人の「特定連合国裁判拘禁者(BC級戦犯)」及びその遺族に対して特別給付金の支給をおこなうこと

(12)日本は軍人・軍属として駆り出し、死亡させた朝鮮人を、家族の同意なく無断で靖国神社に合祀した。韓国・朝鮮人軍人・軍属の靖国神社への強制合祀を取消し、謝罪・賠償をおこなうこと

(13)侵略戦争に動員されて死亡した多くの朝鮮人の遺骨が遺族に返されず、いまだにその実態すら明らかにされていない。徴兵、徴用等で戦地、労働現場等に送り、死亡させた韓国・朝鮮人の遺骨を政府の責任で遺族に返還すること

(14)日本は植民地時代に略奪し、日本国内に持ち込んだ文化財の返還をおこなうこと

(15)在日朝鮮人の歴史的な経緯と生活実態に即して、国籍差別をやめ権利を保障すること。とりわけ朝鮮学校生徒への高校無償化適用除外を即刻是正すること。また、在日朝鮮人を含む全てのマイノリティに対する一切の差別と排外政策を撤廃すること

(16)日本は「日朝ピョンヤン宣言」以来いわゆる「拉致」問題を口実に朝鮮民主主義人民共和国との国交正常交渉を停止している。植民地支配の完全な清算を前提に日朝国交正常化をおこなうこと

(17)国旗・国歌法を口実に日の丸・君が代を強制することは、思想・良心の自由を侵害する行為で憲法違反である。学校において日の丸・君が代の強制を拒否する教師・学生への一切の迫害を取り止めること

(18)竹島、独島は日露戦争に便乗して日本に強制編入させられており、明らかに植民地支配の一環として起こった歴史問題である。独島について「領土問題」として各教科書に記述させるような措置を中止すること

(19) 日本は検定を通じて侵略戦争の正当化と植民地支配の美化を企てる歴史教科書の記述を事実上容認している。江華島事件(1875)以来の日本と韓国・朝鮮の 歴史を正確に記述した歴史教科書を編集・発行し、日本軍「慰安婦」に関する記述を復活させるなどの正しい歴史教育をおこなうこと

(20)侵略戦争と植民地支配に関する歴史は、歪曲や忘却の対象ではなく、友好と共存に基づく東アジアの未来を開く土台として受けとめられるべきである。 歴史事実を直視する教育実践をおこなう教員への迫害をいっさい取り止めること。また、日本は韓国・中国と協力して歴史和解を盛り込んだ「共通の歴史教科 書」作成を目指して努力すること

 

以上、私たちは植民地支配と侵略戦争による各種被害の真相を究明して被害救済のための謝罪、補償などの迅速な措置が実現するように日本政府が法を制定する ことを要求する。 また韓国政府も強制動員被害の真相究明と救済措置のためのこれまでの活動を中断せず、その任務を果すように関連法を改正することを要求する。

2.行動計画

 

私たち日韓市民は未清算のままの諸課題を解決していくために以下の行動をともに進めていく。

(1)まず、「日韓市民共同宣言」に対する支持と共感を多くの市民の中で広げ、「宣言」に対する賛同者を獲得していく。

(2)日韓の間で姉妹・友好都市関係を結んでいる自治体を中心に、日韓・日朝の友好と平和な未来を切りひらいていくために過去の清算にとりくむことを政府に促す議会意見書採択運動を進めていく。

(3)国会議員の中に「日韓市民共同宣言」に対する理解と支持を広げ、被害者への謝罪と賠償を実行するための法律を制定するよう求めていく。

(4)植民地支配の事実、加害・被害の実相を記録として残すために 「植民地支配真相究明法」の実現を図る一方、民間次元でも共同の調査報告書を作るために努力する。
(
5)政府の中に、過去清算のための諸課題(関東大震災時朝鮮人虐殺、サハリン残留者、文化財返還、歴史教科書編纂、等)に取り組むための組織の設置を求めていく。
(
6)植民地主義の清算と東アジアの平和のために活動する日韓両地域の市民団体と市民たちは、これまでの運動の成果を土台に国際連帯活動をいっそう強化していく。

 

2010.8.22 大会報告

みなさまのご協力により一千名の参加を得ることができました。

 報告は浜松から参加の竹内さまの文を転載しました。

8.22「韓国強制併合100年日韓市民共同宣言日本大会」

 2010年8月22日、東京の豊島公会堂で「韓国強制併合100年日韓市民共同宣言日本大会」が「植民地主義の清算と平和な未来を」をテーマにもたれ、1000人が参加した。

 集会でははじめに日韓の共同代表である伊藤成彦さんと李離和さんが挨拶した。挨拶では伊藤さんは植民地支配の根幹である併合条約の強制の不法性が今も認知されていないという問題点をあげ、共同宣言の意義を語った。李さんは共同宣言をもとに植民地主義の清算に向けて地域間の市民運動をすすめ、その連帯の強化を呼びかけた。

 基調講演は宋連玉さんと庵逧由香さんがおこなった。宋さんは、天皇制の存続を前提にしてアメリカとの従属的な同盟関係がもたれ、それに触れることなく韓国や在日との連帯が図られていた運動の問題点を示し、「慰安婦」と在日朝鮮人が右翼団体の標的になっているが、それは植民地主義を象徴する存在であるからであり、その解決は朝鮮半島の統一とともに脱植民地主義、脱冷戦の実現であると指摘した。

 庵逧さんは「植民地主義の清算」が包括的な概念として打ち出されたことの意義を話し、日本自身が植民地支配を合法とし、脱植民地化を図ってこなかったことの責任を果たしていくことを呼びかけた。基調講演ののちに青年・学生の宣言が読まれ、植民地主義にNO!を突き付けないと植民地主義が再生産されていくとし、朝鮮人被害者の声をかき消そうとするあらゆる暴力に抗議し、植民地主義と決別し、新たな出会いをもとめることを宣言した。

 つぎに、植民地支配下での被害者の証言と現在の課題についての発言がおこなわれた。
 性的奴隷とされた朴さんは語る。元山から拉致されて汽車で中国の密山に連行された。「慰安婦」にされ、抵抗すると短剣で体を突き刺された。解放後、父は二人の娘が「慰安所」に送られたことを悟り、苦痛と怒りのなかで亡くなった。捨てられた赤ん坊を拾い養子にして育てた。その子がいたから生きてこられた。日本政府は謝罪し賠償すべきであり、それなくしては目をつむることはできない。

 孔在洙さんは1941年12月に麻生の赤坂炭鉱に連行された。逃亡して捕まると殴打され、歩くことができなくなるほどの激しい拷問にあった。2回の逃亡に失敗し、人間以下の奴隷のような待遇を受けながら生きることしかできなかった。真実を明らかにしてほしい。

 朴ノヨンさんは金浦のサハリン同胞会の会長である。サハリンに父が家族とともに連行され、68年ぶりに韓国に戻った。帰国しても住宅賃貸料支払い問題、未払いの賃金・貯金問題、療養院の建設、1世のみならず2世の永住帰国問題、2世の韓国訪問支援など様々な問題がある。日本政府は未払い賃金や貯金・債券を根拠にサハリン韓人同胞特別支援基金を設立すべきである。サハリンへの連行とその清算を求めて抗議集会が予定されている。

 西澤清さんは、東京での強制連行調査について報告した。祐天寺の朝鮮人遺骨の問題点、靖国への合祀問題と東京空襲の朝鮮人犠牲者の遺骨問題、八丈島調査などについて話し、謝罪と補償につながる調査をすすめたいと語った。

 高橋伸子さんは、関東大震災時の虐殺はジェノサイドであり、国連人権委員会に訴えていく予定であるとし、日本政府はあらたな調査をおこない、その国家責任を認め、謝罪すべきとした。

 崔善愛さんは在日の闘いをテーマに話した。1982年から88年の6年間押捺を拒否することで再入国不許可処分を受け、渡航の自由を奪われた。1986年再入国不許可のまま出国し、協定永住権を剥奪されるなど、指紋押捺を拒否することで植民地支配そのものを知ることができた。外国人登録を通じてみえたものは植民地時代の屈辱だった、植民地主義は続いている、朝鮮学校問題に植民地支配が埋め込まれていると語った。

 北川広和さんは日朝国交正常化の動きについて話した。具体的な取り組みとして、日朝国交交渉の再開、植民地支配への謝罪と補償、東北アジアの非核化、在日朝鮮人へのバッシングへの対抗、訪朝団による交流などをあげた。

 高さんは朝鮮中高級学校の生徒として、無償化から除外されることで、社会の冷たく厳しい風を直接この体と心に受けてきたことを語り、民族のことを学びたいということがなぜ悲しみの連鎖となるのか、朝鮮人としての自覚と熱い気持ちを持って最後まで闘い、苦しいことがあっても決して諦めないと決意を述べた。

 証言とアピールののちに、沢知恵さんのコンサートがもたれた。沢さんは「アメイジンググレイス」「こころ」「死んだ男の残したものは」「朝露」などを歌った。その歌声は植民地主義の長い夜から人間を解放する想いと共振するものだった。

 最後に「東アジア歴史・人権・平和宣言と行動計画」が読みあげられた。それは、2001年のダーバン会議での奴隷制と植民地支配の清算に向けての宣言をふまえつつ、日本の植民地主義を植民地支配だけではなく、今も続く差別と一体のものとして捉え、その克服をめざすものである。

 日本政府への要求としては以下の事がらをあげている。
植民地化でのジェノサイドの真相究明、3・1運動弾圧の死傷者調査、関東大震災や独立運動などの治安弾圧での虐殺の真相調査と補償、強制連行や性奴隷の真相究明と補償、朝鮮人被爆者の調査と救済、国籍差別のない空襲被害者援護法の制定、サハリン残留の真相究明と補償、シベリア強制労働の謝罪と補償、BC級戦犯と遺族への補償、靖国教師合祀と取消と賠償、朝鮮人遺骨の返還、略奪文化財の返還、在日朝鮮人への差別・排外政策の撤廃、植民地支配の清算を前提としての日朝国交正常化、日の丸君が代強制拒否者の迫害の中止、独島を領土として教科書に記述する措置の中止、日朝史を正確に記した歴史教科書の編集発行、教員への迫害を中止し、共通の歴史教科書の作成を目指すこと。

 そして行動計画では、この宣言への賛同者を募り、議会での意見書の採択をすすめること、植民地支配真相究明法」を制定させ、政府の中に過去の清算のための課題に取り組む組織の設置を求めること、日韓の国際連帯を強化することなどをあげている。

 この宣言を受けて、プンムルの楽器演奏が集会参加者を加えておこなわれ、最後に韓国の100年共同行動の朴元哲さんが共同の運動をすすめることを呼びかけて集会を終えた。
日本での過去と現在を貫く植民地主義の清算なくして、東アジアの人権と平和の実現はありえない。その植民地主義の清算に向けての諸課題が提示された集会だった。

共同通信(「東京新聞」が記事掲載)、朝日新聞、ハンギョレ新聞が記事にしました。

ボランティア翻訳サイトの「ハンギョレサランバン」当事者記事なので全文を貼り付けます。
 当該項目URL
http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/1249300.html

2010年08月23日
韓日市民団体 "植民支配糾明法 制定を"
原文入力:2010-08-22午後07:45:35(1209字)
東京で共同宣言大会 開催
日本政府に過去史 解決 要求
ソウルでは来る29日に開く予定

チョン・ナムグ記者

 100年前、韓日併合条約が強制的に締結された22日、日本の市民団体らが日本政府に対し植民支配による問題を責任をもって速かに解決することを要求する一方、植民支配真相究明法の制定運動をはじめとする韓-日両国市民の共同行動計画を盛り込んだ宣言文を発表した。

 韓国強制併合100年共同行動日本実行委員会はこの日、東京豊島公会堂で‘市民共同宣言大会’を開き、‘植民主義清算と平和実現のための韓日市民共同宣言’を発表した。15ヶ市民団体会員を中心に市民1000人余りとイ・イファ韓国側実行委員会共同代表などが参加したこの日の行事は、強制併合の歴史と現在をふり返る講演、慰安婦・強制徴用など植民支配被害者の証言に続き、宣言文を採択する順序で進行された。日本実行委員会は支持と共感を広めるため、共同宣言に対する署名運動をこの日から本格化することにした。

 実行委員会は宣言文で「日本が軍事的脅迫下で締結した韓日議定書をはじめとする 4種類の条約と韓日合併条約は不法・無効」と指摘した。共同代表の伊藤成彦中央大名誉教授は「最近、菅直人総理が謝罪すると明らかにしたが、併合条約の強制性と不法性を認めないならば虚言に過ぎない」と批判し、植民支配清算のための具体的な実践を要求した。

 宣言文は日本政府に向かい3・1 運動および関東大地震当時の虐殺、軍隊慰安婦動員と強制徴用、朝鮮人原爆被爆などに対し真相を明らかにし謝罪し賠償することを要求した。略奪文化財の返還と在日朝鮮人差別の是正、北韓との国交正常化なども要求した。独島問題を領土問題として教科書に記述することも中断せよと要求した。

 両国市民団体らは政府が過去清算に努力することを要求する地方議会の意見書採択運動を行い、国会議員たちには被害者に謝り賠償する法を制定するよう要求することにした。植民支配の実状を記録として残すため、植民支配真相究明法制定運動を行い、民間次元でも共同調査報告書を作るために努力することにした。

 日本の市民団体関係者たちが去る1月に結成した‘強制併合100年共同行動日本実行委員会’は鈴木裕子 日韓の女性と歴史を考える会々長、中原道子ネットジャパン代表、山田昭次関東大震災 朝鮮人虐殺真相究明市民連帯日本代表、姜徳相 在日韓国人歴史資料館長、宋富子 高麗博物館名誉館長が共同代表を受け持っている。市民共同宣言大会韓国行事は29日にソウルで開く予定だ。

東京/チョン・ナムグ特派員 jeje@hani.co.kr

原文:http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/436206.html

訳J.S

共同通信47ニュース
http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010082201000604.html

「植民地主義の清算を」日韓市民 都内で集会

 日韓併合条約調印から100年を迎えた22日、日本と韓国の市民グループが東京都内で集会を開き、日本の植民地支配による従軍慰安婦や強制労働などの問題について話し合い、日本政府に対し、被害者への謝罪や賠償を求めていくことなどを定めた「日韓市民共同宣言」を採択した。
 集会は日韓の市民でつくるネットワーク「強制併合100年共同行動」実行委員会が主催。日本側代表の伊藤成彦さんは、菅直人首相談話について「併合条約の不法、不当性を認めておらず、美しい言葉を並べたにすぎない」と指摘。日韓の市民が連携し、残された問題の解決を訴えていこうと呼び掛けた。
 韓国側代表のイ・イファさんも首相談話には「慰安婦や強制労働などへの言及がなく、問題はあいまいなまま残された」と指摘し「植民地主義の清算こそが東アジア共同体構築の近道だ」と訴えた。
2010/08/22 19:48 【共同通信】

「アサヒコム」サイトにアップ。
紙版23日朝刊にも掲載
http://www.asahi.com/international/update/0822/TKY201008220225.html

併合条約から100年
日韓市民千人が共同宣言採択
2010年8月22日
 韓国併合条約が結ばれてから100年となる22日、東京・池袋で日本と韓国の市民ら約千人が参加して大会が開かれ、植民地主義の清算と平和の実現を求める日韓市民共同宣言を採択した。
 実行委員会共同代表の伊藤成彦・中央大名誉教授が「植民地支配の完全な清算を目指し、日韓の市民が力を合わせよう」とあいさつ。日本軍の元慰安婦や日本の炭鉱に連行されたお年寄りらが来日し、当時の状況を証言した。
 共同宣言は、韓国併合条約について「対等な立場で自由意思により結ばれたものではなく、違法であり無効だ」としたうえで、アジア侵略の真相究明、強制労働、徴兵などの犠牲者や元慰安婦への謝罪と賠償、朝鮮の文化財の返還、朝鮮人の遺骨の返還などを日本政府に要求。日朝国交正常化にも取り組むよう求めた。今後、日韓の国会議員らにも宣言への理解を広げるよう活動していく。


「韓国強制併合100年」共同行動7・8月企画 http://nikkan2010.exblog.jp/

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