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ふたたび、ロンメルから学ぶ

 また、ロンメル将軍を取り上げる。

 例えば、反戦運動を発展させるためにも、こうした軍事思想を理解しておくことは重要である。特に、ロンメルのように、経験から見事に学び、それを客観的に対象化する力がある人物の言うことから学ぶことは、社会・政治運動の活動にとって有益である。軍事思想を批判的に分析・研究し、そこから教訓を引き出さないままでは、真に実効性ある反戦思想を構築することは出来ないし、現に反戦運動はこれまでも軍事研究を行いつつ反戦・反安保闘争を行ってきた。例えば、『軍縮問題資料』とか『軍事民論』といった雑誌があったし、「アエラ」という雑誌においても、米軍の軍事的研究文書や暴露文章といったものが載っている。

 そういう点と、さらに、ロンメルは、新たな戦術思想を構想するという点で天才的な力を持っていたので、こうした総合力を、今日の社会・政治運動が学ぶ意義は大きいと思う。新たな社会の構想、そこにおける政治の構想、そこに向かうための新たな戦術思想の構想を急ぐ必要があると思うからである。経験と理論の新たな結合ということ、実践の変革と思想の変革の有機的結びつきを必要としている。それをするためには、どのようなものからでも学ぶ必要があり、それを新たな構想の中に変革的に結合する必要があり、それをなしうる力を持たなければならないのである。

 『ロンメル戦記』からの下記の引用の中でロンメルが強調しているのは指揮官の問題である。それから、引用はしないが、北アフリカ戦線で、常に、兵力、兵器、装備、補給などの物的な面でイギリス軍などの連合軍に対して劣勢にあったロンメル軍団がそれを跳ね返して勝利を収めることが出来た理由を、彼は、意志の力にあったということを書いている。戦史上、戦力で劣勢な軍隊が優勢な敵に勝ったのは意志が勝っていたからだったと言うのである。士気の問題である。

 クラウゼヴィッツも『戦争論』で心理的要素を強調しているし、偶然が戦闘にとって大きな要因として働くと述べている。そのことは、『孫子』でも、臨機応変という意味の概念で強調されている。例えば、孫子は、「無形の陣」を最良としていて、あらゆる事態、偶然に対しても備えうるような自在さを持つ陣形がよいと主張している。同じように、ロンメルも、「この戦いが必ずしもすべてこちらの計画どおりに進まないかもしれないということは、終始私の考慮の中に入れてあった」と言うように、大胆な計画を練りに練って作成しても、なお、偶然的な事態、不測の事態の発生によって計画が乱されることをあらかじめ考慮し、そうした事態に対して自在に対応できる態度を持つべきだと主張している。

 指揮官にとって大事なことを引用文中からひろって列挙してみる。

  • 決心の大胆さ
  • 古いものにとらわれ新しいものを受け入れらない偏見の態度に陥らない
  • 複雑な理論にとらわれ、現実に即応していく能力に欠けてしまうことがないこと
  • 従来の方法にとらわれることなく、技術的な事項をよく理解しうる能力を持っていなければならない
  • 指揮官はたえずその戦闘に関する考え方を、その時点における現実と組み合わせて生まれる可能性に適応していかなければならない
  • もし、状況により必要とあれば、指揮官はその考え方を根本から変えなければならない
  • 指揮官およびその幕僚の立案した計画を正確に部隊に実行させること
  • 指揮官は部隊に戦術的な経験および指揮を常に知らせておくとともに、これを交戦に応用させるよう絶えず努力しなければならない
  • ある特定の考え方にとらわれることなく、周辺の状況を十分に把握すること
  • 独創的な思考をめぐらせる指揮官はその部下と密着して部下とともに感じ、ともに考える能力がなければならないし、兵もまたその指揮官を信頼していなければならない
  • 兵士の士気や一体感を維持するために、指揮官はその幕僚とともに後方にいないで、部隊と一緒にいなければならない

 それから、彼は、「常に忘れてはならないこと」として、「決して部下の目はごまかせない…。普通の兵ならばだれでも、真実と虚偽とを敏感にかぎ分ける点において驚くべき能力を持っている」ことを指摘している。このことは士気に大きく影響する。虚偽がばれると士気が弱まる。直接本人には言わないでも、不信感や不満、軽蔑、軽視、不服などの態度が生じ、人々に話が広まり、そうした態度が伝染していく。

 私の経験によれば、指揮官の決心が大胆なものであればあるほど、その作戦の成功の見込みは大きいが、戦略的または戦術的大胆さと軍事的な賭けの違いを心得ておかなければならない。大胆な作戦というのは、成功するか否かは定ではないが、失敗した場合どんな状況になってもこれに十分対処できるような兵力を手許に持っているものをいう。それに対し軍事的な賭けというのは、勝利を収めることになるかもしれないが、徹底的な敗北に陥るかもしれないという作戦である。
 戦況によっては軍事的な賭けもやむをえないことがある。一例を挙げれば次のようなものである。普通のやり方では負けるのは時間の問題なので、時をかせいでみても無意味であり、ただ大きな危険を冒しても一か八かでやってみるほかに望みはないという場合である。
 指揮官が前もってその戦闘の経過を自ら予測し計画を立案することができるのは、非常に優勢な兵を持ち、戦わずしてすでに勝つことが明らかな場合だけである。この場合、問題はもはやいかにすれば敵に勝つことができるかということにすぎない。
 しかし、たとえこのような状況においても、考えられるあらゆる敵の行動に対し、あらん限りの安全のための対応処置を講じながら、慎重に戦場を動き回るよりも、思い切った計画に基づいて断固としてこれを実行し抜き、その結果を甘んじて受け入れることとしなければならない。不徹底なやり方はだめである。私はこのような考え方で幕僚とともに作戦計画を立案し、実行させたのである。そしてこの私の計画は最善を尽くして作られたものであり、これ以上の案はないと考えてよいほどのものであった。この戦いが必ずしもすべてこちらの計画どおりに進まないかもしれないということは、終始私の考慮の中に入れてあったが、たとえそのようなことになっても、 攻撃を開始したときよりも不利な立場になることはあり得ないと私は判断していた。われわれは高度な訓練を受け、いついかなるときにでもあらゆる困難な戦況を打開していく力を持った歴戦の部隊を信頼し、楽な気持ちで作戦開始の時期を待っていたのである。(228~9頁)

 歴史があり伝統に輝く国軍の中に生きている将校団が、新しいものに対し偏見をもってこれを受け入れようとしないのはよくあることである。プロシャ軍がナポレオンに敗れたのも同様な原因によるものであった。今度の戦争においては、イギリス軍将校だけでなくドイツ軍将校の中にもこのような態度がはっきりと認められた。このような空気の中では、人の考え方は複雑な理論にとらわれ、現実に即応していく能力に欠けてしまう。
 用兵のドクトリンが細部に至るまで考え出され、これが兵学の全知嚢を結集したものだと見なされる。そして、その規格化された原則にかなった考え方だけが認められ、これ以外はすべて賭けであり、もしうまく行ったとしても運がよかったか、何かの間違いだと見なされる。このような考え方からはありきたりの古い考え方しか生まれず、その弊害は恐るべきものがある。
 用兵の原則といえども技術の進歩に応じて変化するのであり、一九一四年における戦闘においてよいとされたものは、今日では相戦う両軍の部隊の大部分が歩兵だるか、または少なくとも攻撃を受ける側が機動化されていない歩兵部隊である場合に限って有用であるにすぎない。この場合、機甲部隊はかつて騎兵が果たしたと同じように、敵の歩兵を追い越してその退路を遮断する役割を果たすだけである。しかし、双方が機動化されている戦いにおいてはまったく異なった原則に従って兵を用いなければならない。これについてはすでに説明した。
 伝説を重んじるということが軍人精神においていかに大切なことであろうとも、用兵の分野ではいましむべきである。というのも、戦いの様相自体が技術の進歩によって絶えず変わっていくものであり、既成の価値を打破する新しい戦況を考え出すのは指揮官だけの任務ではないからである。したがって近代軍の指揮官は、従来の方法にとらわれることなく、技術的な事項をよく理解しうる能力を持っていなければならない。指揮官はたえずその戦闘に関する考え方を、その時点における現実と組み合わせて生まれる可能性に適応していかなければならないのだ。
 もし、状況により必要とあれば、指揮官はその考え方を根本から変えなければならない。私の相手であるリッチー将軍と同じく、作戦が完全に機動化された部隊によって行われるところから生じた変化、および開潤した砂漠の戦場の本質を完全に理解していなかったようである。(231~2頁)

 …指揮官の任務は、その幕僚を相手に働くことだけではない。指揮官はまた部隊指揮の細部にまで気をくばり、次のような理由でたびたび第一線を見に行かなければならない。
 (1) 指揮官およびその幕僚の立案した計画を正確に部隊に実行させることが最も重要である。各部隊将兵の一人一人が、そのおかれた状況下でしなければいけないことをすべて実行すると考えるのは誤りである。たいていの者はすぐある種のものぐさ的な気分に陥るものであり、いろいろな理由をつけて、あれはできない、これは不可能だと報告してすましてしまう―理由はどんなにでもつけられるものである。
 この種の人間には指揮官の権威を思い知らせ、無感覚な状態から立ち直らせなければならない。指揮官は戦いの原動力であり、部隊は指揮官の姿を見てその指揮を受けているのだということを、常に感じているようでなければならない。
 (2) 指揮官は部隊に戦術的な経験および指揮を常に知らせておくとともに、これを交戦に応用させるよう絶えず努力しなければならない。いちばん部隊のためになるのは第一級の訓練を施すことである。これによって部隊は余分な損害を出すのを免れるからである。
 (3) 指揮官は第一線の状況を自らはっきりと承知し、その指揮下の部隊が直面している問題点について、明確な認識を持っていなければならない。そうすることが指揮官自らの考え方で常に最も新しいものとし、変化していく状況に適応しうる唯一の方法である。
 もしも指揮官が戦場で部隊を指揮するときに、将棋をさすようなつもりで戦いを進めるならば、彼はまったく学問的な理論にとらわれ、第一線の実情と遊離した、自画自賛的独善的な指揮を行なう結果になってしまうだろう。ある特定の考え方にとらわれることなく、周辺の状況を十分に把握し、独創的な思考をめぐらせる指揮官こそ勝利を収めうるのである。
 (4) 指揮官はその部下と密着して部下とともに感じ、ともに考える能力がなければならないし、兵もまたその指揮官を信頼していなければならない。常に忘れてはならないことが一つある。それは、決して部下の目はごまかせないということである。普通の兵ならばだれでも、真実と虚偽とを敏感にかぎ分ける点において驚くべき能力を持っているものである。(251~2頁)

 指揮官はその幕僚とともに後方にいないで、部隊と一緒にいなければならないことがいつの場合にでもある。兵の士気を維持するのは大隊長だけの任務であると考えるのはまったくナンセンスであり、率先垂範する指揮官の地位が高ければ高いほど、その効果は大きいものだ。兵は、どこか後方の司令部にじっとすわっているに違いない指揮官には、一体感を持たないものであり、第一線の将兵が望んでいるのは、実際に指揮官と身近に接することである。
 部隊がパニックに陥ったとき、疲労困憊の極にあるとき、あるいは何か非常な努力が部隊に要求されるとき、指揮官の率先垂範は奇跡的な力を発揮させるものである。特にその指揮官が、その身近にある種の伝説のようなものを作り出す能力を持っているときは、その効果は大きい。この時期、部隊に対する要求は将兵の体力の限界に近いものがあった。このようなとき絶えず率先して兵に模範を示すことが将校たる者の任務である。(267頁)

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