「言葉と偽善」さんのコメントへの返答
ここのところ、「言葉と偽善」という名前の保守派と思われる人から連続でコメントがついている。なにやら挑発的であるが、尖閣諸島問題で、ナショナリズムを煽り立てようという産経などのマスコミや自民党右派などの動きが活発になっているようなので、こんな連中の言うことを信じ込んでも、ほとんどの人には、ひとつもいいことはないし、逆に悪いことになると思うということもあるので、簡単にコメントを返しておこう。
「言葉と偽善」さんは、「コメントを公開する度量があなたにあると信じて書き込みします。そうとう激しい言葉の応酬になると思いますが、私のコメントを掲載された後、あなたの批評でこっぱみじんにされた後、私も愛国者として精一杯の言論であなたに反論しますという相当の覚悟をもってコメントを寄せられている。しかし、「あなたの批評でこっぱみじんにされ」という具合に、端から論理で対抗することを捨てている。そして、「精一杯」、「覚悟」と主観的心情をもって、反論するという。まず、論理的に「こっぱみじんに」させていただくが、心情とかをぶつけることは反論とは言えないということを指摘したい。覚悟は精神的態度である。反論は、反-論である。ここで、ナショナリズムが国家信仰であることを、はからずも「言葉と偽善」さんは自己暴露している。論理は、信条とは違う。この時点で、大きな食い違いがある。
私は、国家教信者ではないし、他の信仰も持っていない無神論者で唯物論者である。そのことは、当ブログで何度も書いている。それらのことについてはかなり固い信念を持っており、その点で、一歩も引かない「覚悟」は持っている。そこで、どんなに激しい「反論」が為されようと、納得いかないことには反論するけれども、国家教信仰を強制されれば、拒否することを、あらかじめ表明しておく。信仰は議論する問題ではないからである。
次に、中国の侵略に対して、当ブログではすでに北京オリンピックの際のチベット人の暴動を中国政府が武力弾圧した時に、それを批判している。どこの国であれ、正当化できない武力行使を批判するのは当然と思う。その上で、歴代日本政府が、中国、南北朝鮮に対して、弱腰外交だったと批判しているけれども、弱腰とは何ですか? 主観的評価で、穏やかに話し合う外交もあれば、激しいやり取りをする外交もあるという具合に、外交のやり方はいろいろあってよいのではないですか? 中国からのレアアースの輸入が止まったら、日本経済の大きな部分を占めるハイテク産業は大打撃を受け、その結果、日本経済が苦しくなるのを防ぐ外交は、弱腰外交ですか? それとも、自給自足か、オーストラリアあたりから高く買って輸入を増やしますか? それも何カ月か先になる。その間どうやってしのげばいいのでしょうか? 在庫はどのくらいあって、それでどれくらいもつのでしょうか? ・・・。こうしたことを検討しないで右派的な心情主義で外交をやったら、それこそ日本はお終いだ。正確に言えば、私は、日本政府の一握りの上層がどうなろうとかまわないけれども、日本国家領域内に住むマイノリティーを含む多数の人々が不幸になることは望んでいない。それから、これで貴方との議論は終わってしまうと思いますが、私は、プロ独(過渡期国家、コミューン型国家=半国家)肯定論者である。貴方の言う永遠の反権力論者ではない。
最後の部分で、「言葉と偽善」さんとの議論は基本的に終わってしまったと思う。自民党や右派の政権は望まないし、民主党菅政権も批判する。取って代わるべきは、大衆の権力だと思っている。
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コメント
さて、まずはブログ主さんの真摯な対応に敬意を表します。「こんな連中」という表現は私にとっては複数形であることが気になる。私は所謂右派ではあるが、むしろ自分の周りには零細企業、管理職ではない公務員諸氏などの左派が多い。複数形ではなく私は孤立しているので
何か流さんがあたかも「(典型的な保守の)連中」というくくりは悪いが返上させて頂く。
まず、右派が心情的で左派が論理的であるという前提について。左派が論理的であるとすれば「革命の原点は労働者の怒りである」といった言説も、右派まがいの心情的非論理的な空疎じみていると認められるのか否か。
無神論こそ最大の宗教である。「千の風になって」という歌にこそ宗教観の権化であることに気付いている左翼は少ない。
それと、後段の右派がどうのこうのってさ、まずあなた方左翼がなぜ日本を中共侵略国家の尖兵になって申し訳ないと言えない。
流さんよ。この日本の状況もう見ろよ。貴方が左派を裏切れない?なら、自分だって今までの右派を裏切れないんだよ。左派も心情で動いてるだろ。思想とはもっと自己存在の根源を見つめなおすことだろうよ。
投稿: 言葉と偽善 | 2010年10月17日 (日) 13時21分
さて、右派的な心情が日本をダメにするなら、
一度は貴方の心情を聞きたい。
俺は昔連合の支部(おい、総評系だぞ)で働いた。俺はその時だ。どんな思いでチラシまいたと思う。なんで北朝鮮がそんな悪いことするんだ。
旧社会主義国家がそんな悪いことするわけないだろってチラシまいたんだぞ。
流さん。俺はもう左翼を信用できん。流さんよ、そのことが北朝鮮拉致問題で明らかになったんじゃねえのかよ。お前、憲法だ教育だいってんけど、お前が総括しなければならないのはお前自信じゃないのかよ。
投稿: 言葉と偽善 | 2010年10月17日 (日) 14時13分
反論が終わった
20世紀は社会主義の夜明けと日没
21世紀はナショナリズムの世紀
さて、流広志。21世紀の風のタイトルとは
社会主義の総敗北を表していると言え
投稿: 言葉と偽善 | 2010年10月17日 (日) 15時31分
左派=論理、右派=心情というパラダイムを貴方が崩したときに流広志という思想家が現れるのだろう まだあなたは思想家としての鍛錬が足りない。左右問わず。ただアッテンボローよりは頭がいいことは認めてもいい。あそこまでバカだと議論の気もなくなる。
投稿: 言葉と偽善 | 2010年10月17日 (日) 16時00分
言葉と偽善様。
どうしても理解できない点があるのでお尋ねします。
流さんは、本当に「左派=論理、右派=心情というパラダイム」に立っているでしょうか?「精一杯」、「覚悟」といった主観的心情や精神的態度は、論理と異なることが指摘されているだけで、それが「右派」だけのものであるとは、どこにも書かれていません。また、それらのものが、常に無条件に有害無益であるとも書かれていません。むしろ…
>私は、国家教信者ではないし、他の信仰も持っていない無神論者で唯物論者である。そのことは、当ブログで何度も書いている。
>それらのことについてはかなり固い信念を持っており、その点で、一歩も引かない「覚悟」は持っている。
論理とは別に個人的な信条として守るべき精神的態度があるとのお考えが示されています。
さらに、「論理」に関しては、全くどこにも、「左派=論理」と読めるような叙述は見当たりません。
書かれていることは、論理的であることが期待され、あなたご自身が「反『論』」と書くことでそれを認識しているはずのこの場面で、あなたの『構え』が非論理的な言説が展開されることを予想させるものであることを指摘する内容です。
そもそも、彼がこのように書いたのは、「右派=心情」という決めつがないからにほかなりません。「右派」と思われるあなたにも論理的であることが期待しうると考えるからこそ、それを求めているのです。
もう少し真面目に人の書いたものを読むことが大切なのではないでしょうか。
投稿: 阿蘇☆地曳人(あそち☆えいと) | 2010年10月17日 (日) 22時22分